歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:野島公園

留学初期にほぼ毎日食事通学旅行で皆でつるんでたいたのだが、その留学仲間の一人である大阪のITが都内に出張で来てるので先週末に観光案内して来た。
出張先が渋谷の近くだそうで田園都市線でアクセス便利だし新大阪から新幹線で一本と言う事で、宿を新横浜駅近くのホテルを予約したらしい。
一ヶ月前から小生が作成中の神奈川観光の刷子原稿を送り行きたい場所はリサーチ済み。
そのITの仕事はニッチな産業のデザイナーだが廃墟マニアと言う趣向が有ると今回、訪問に当たって事前に行きたい場所の趣向を聞いた際に発覚し、とても意外だった。
かれこれ人生の半分近くの年数関わり、歴代の彼氏がどんな人物かも知っているのだが廃墟が好きなんて趣向は全く知らなかった。

そんな訳で近代の廃墟廻りを今回の観光案内の目的地にした。待ち合せもホテルに朝9時に迎えに行くと申し合わせて有り万全だった。
後は天候次第で臨機応変に訪問地を雨天仕様に組み替えるだけ。
んな訳で時系列で当日の行動を紹介するとこうなる。

04:00前後
早朝、睡眠少しで起きてしまい、小机城の紹介記事のリニューアルの為に加筆していた。

08:00
自宅を出発。新横浜駅へ向かう途中のコンビニATMで現金引き出しノンカロリーのレッドブル飲んで無理矢理に脳内シャキッとさせる。
09:00
迎えに新横浜駅前に到着。
大阪の親友ITはちゃんと寝れた様でシャキッとしてた。因みに留学で知り合った親友だが、たまたま小生とは祖先が同族。でも外見は似ても似つかない。
しかし好きな物は割りと似ていて気は合うし漫画も好き、廃墟好きと歴史好きも似ている。
奴は家具や革製品を、小生は銀の指環や組紐のブレスレットを造るのが趣味と言う工作好きなのも似てる。
関西に土着した奴の祖先は弥生系と古墳時代の渡来系との混血が進んでおり小生の如き胴長短足の縄文遺伝子は最早体形にも頭蓋骨にも名残が無い(笑)。多分、はた目に見て美人の部類だろう。
同氏族だからでも外見でもなくリスペクト出来るし信頼もしている。
まぁ、気が合う訳だ。
小生の親友は皆、そんな奴が多い。
09:45
野島に到着。
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季節柄、野島の海には昭和まで江戸前と呼ばれた東京都大田区~神奈川県川崎市~横浜市~横須賀市~三浦半島の東京湾沿岸部で盛んだった“海苔ひび”を見る事が出来た。
海苔“ひび”の“ひび”は現在では国語辞書にも元の漢字が掲載されていないが、小生は竹で海を囲った様子から轞(ひび)が語源では無いかと思う。この轞と言う漢字は三国志好きなら知っている古代中国の囚人や罪人を護送する際に用いた轞(jian=和音読み:ケン/カン)の事だと推測している。
盧植
三国志演義で後の蜀の皇帝と成る劉備と同郷であり学問の師匠に当たる“盧植(ろしょく)”先生が朝廷を私物化した奸臣の董卓の事を大将軍の何進に諫言(かんげん=上司への忠告)をした事で後に逆に逮捕されてしまったのだが、その際に乗せられていた護送車のアレが“轞(jian)”だな。
轞は文字通り、檻(おり)+車の構造物だ。
罪人を護送しながら晒し者にする為に檻(おり)の下に車輪を付けた構造、解り易く言うと馬車の幌(ほろ)が監獄(かんごく)に成った物だ。
この轞(jian)を日本語では訓読みで“轞(ひび)き”と呼んだ様(よう)だが、日本語辞書の解釈では護送車を引く音の形容詞と説明している物も有るがハッキリ言って辞書の筆者が知らないだけで轞は護送車その物の事だ・・・
まぁ轞は日本語にするなら護送車しか今が無いのだが敢えて言うなら“見せしめ晒(さら)し囚人輸送車”とでも言う物だろうか。
・・・もしかしたら轞の漢字は“車”+“監”で轞だが、現代では失われた発音として海苔が東京湾の大森海岸で開始された当時には"監(カン)”の発音の訓読み自体が"監(ひび)”だったのかも知れない。
そう言えば格子(こうし)状に割れる事を“ヒビが入る”とも言う。
そうなると現代では漢字の伝わらない"海苔ひび”の"ひび”は檻(おり)に似ている事から檻(おり)と書いて檻(ひび)と読む訓読みがもう一つ有ったのかも知れないと思う。
まぁ、檻(おり/ひび)は監獄(かんごく)を指すし、監獄(かんごく)って書いて檻(おり)を指す時点で小生の推測は100%間違い無いだろう。
恐らく海苔ひびの漢字は“海苔ひび=海苔檻”か“海苔轞”だった筈だ。
因(ちな)みに、今現在、江東区と大田区で帰属を巡ってモメている埋立地の人工島一帯が昔は大田区の海域で江戸前海苔の生産で有名だった地域だ。
歴史好事家(オタク)として個人的な意見だが、江東区はどの面下げてアソコを江東区の区域と主張するのか理解出来ない、ハッキリ言って片腹痛い(笑)。
折衷案を出した裁判官は歴史的な素養が乏し過ぎる(笑)。
あの一帯は昔から大田区だったのだから、江東区は引き下がるべきだと同じ海苔の名産地だったのに自民党に漁業権を捨てさせられた横浜市民の漁民の心痛と大田区の漁民の立場を重ねて思う所が有る。

もっとも、この風景を見て一緒に来たITはソンナ事は微塵も考えていなかったかも知れない(笑)。
まぁ、今回大阪から出張に前乗りして神奈川に遊びに来た親友は女性ながら"廃墟マニア”と変わった趣味の持ち主なので、今回は先(ま)ず野島掩体壕(旧海軍零式艦上戦闘機の格納庫)に連れて来た訳だ。
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この掩体壕=格納庫は実際には零戦の格納庫としては使用されなかった。
隣の日産自動車追浜工場とテスト用走行コースの敷地が横須賀鎮守府海軍飛行場だったので、当時は滑走路から先に在る野島に格納庫を作り米軍のB21爆撃機から戦闘機を守る計画が進行していた訳だ。
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説明の看板でも解る通り、戦時中の物資不足でコンクリート擁壁は入口と出口の先に掘削された部分だけに止まり、中心部はまだ完全な幅に広げられてもいなかった。
幸い、この基地が利用される前に戦争は終結したので戦争史跡として現存している。
明治時代の軍人と違って太平洋戦争末期当時の無責任に成っていた海軍の上級将校達は内陸の現在の慶応大学日吉キャンパスの地下に基地を掘って隠れてしまっていた。
そうこうする内に末端の将校は頑張っていたが、無駄に本土に戦火を及ばせた戦争末期には物資が不足し、この野島掩体壕ばかりか日吉の海軍参謀本部でさへ物資不足で入口のみ煉瓦とモルタル造りで奥は素掘りのままと悲惨な状況だった訳だ。
こんな状況で勝てる訳が無い。
そもそも陸軍の暴走で英国との条約を無視して万里の長城を超えて中国侵攻をしてしまったので英国による日本の満州宗主国としての地位保証も破棄される事に成ってしまった上、素人の小生すら理解している“兵站”の確保を陸軍は楽観的に無視、結果、日中戦争は完全に無益な物で更に収拾不可能に成り海軍の足を引っ張り、真珠湾攻撃にしても有利な状況で和睦を成立させて満州利権を連合国に承認させると言う目的が有ったのだが、開戦前に「3年かかったら負けますよ」と言う主旨の発言をしていた山本五十六サンも既に戦死して連合国と不利な現実を直視し和睦を提言する人もいなかった。
その間にも今日左翼を煽る様に当時は“朝日新聞が軍部と民衆を煽り捲って戦争へと向かわせた”のだが、そんな痴れ者の朝日新聞がプロパガンダで支持した当時の陸軍政府(一夕会)は当時の外務省の外交敗北と責任をすり替えようとしたが、ハッキリ言って越権行為の外交交渉を陸軍が勝手にやった挙句に条約を無視して全てを水泡に帰したのが日本斜陽の始まりだったと言う歴史も知っておかないといけないと思う。
だからと言って“鼻から日本文化破壊と日本の共産主義国化を目指して中国共産党やソビエト(ロシア)を誘引しようとする日本共産党や極左テロリストの支援を受けている政党政治家の主張はそもそも“外患を招く内憂”であり獅子身中の虫でしかない。
実はそう言った近代の歴史を知れるのが、この野島掩体壕と伊藤博文邸だったりする。
野島掩体壕から南側に回り、時計回りに反対の西側の出口に行く途中に野島稲荷神社が在る。
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ここは旧紀州徳川家金沢野島屋敷の鎮守の神社だな。親友のITは横浜市に紀州徳川家と所縁の場所が在(あ)るとは知らず意外だった様だ。
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この野島稲荷は鎌倉文化の影響を色濃く残しており、境内社は壁面に掘った横穴の中に御社が其々(ぞれぞれ)祀られている。
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この横穴は“矢倉(やぐら)”と呼び、平安時代からの関東武士団の墳墓や宗教施設に見られる様式で壁面に人工的に掘られた横穴の事を指す。
鎌倉武士には矢倉に祠(ほこら)や石仏や供養塔を祀る事が多かった。関西や中部地方からは想像がつかないかも知れないが、鎌倉武士の葬送は火葬も多く五輪の塔の真ん中に骨壺を納骨する四角いスペースが存在しており、地下に埋める形式と五輪の塔の中に収納するケースが両方存在した。
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武士の墓の構造は横須賀市衣笠に在る薬王寺廃寺の三浦義澄公の御廟の墓石を見ると解り易い。
納骨スペースが大きな四角の箱状の造りに成っている。残念ながら不届き物が骨壺を盗掘する際に箱状の構造物を破壊されているが、そのせいで納骨スペースの存在が目視で理解出来る状態に成っている。
恐らく、身分の高い武士の御廟所が一人に一つの菩提寺(ぼだいじ=供養する為の御寺)が築かれる様に成って来た鎌倉時代初期に成ると寺院に御廟所を設(もう)ける際は矢倉の掘れない地形の場合、五輪塔に納骨し其処を築地塀(つきじべい=数層に土と瓦を重ねて作る土塀)や石柱で取り囲んだのだろう。
まぁ野島稲荷神社の場合は・・・
礼拝所である神社なので矢倉には神様が祀られている訳だ。

野島稲荷神社から野島掩体壕の西側入口へ回る途中、野島掩体壕を含めた“野島砲台=野島要塞”の名残の塹壕が数ヵ所剥き出しで現存している。
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戦後に防空壕の入口はコンクリートで塞ぐ命令が施行されたので、中に入る事は現在では出来ない。
それでも戦時中に野島が要塞化されていた事を見る事が出来る訳だ。
そこから掩体壕西側の入口を見て、伊藤博文金沢別邸に移動した。
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余り日本国民のみならず、横浜市民でさえ知る人は少ないが金沢区の瀬戸神社の辺りと野島と夏島は昔は別荘地で、そこの宿を転々と変え宿泊しながら伊藤博文公等が明治憲法の草庵を起草した場所の一つが野島だったりする。
昔は金沢八景と呼ばれ源頼朝公以来、有力者と文化人に昭和初期のアホの横浜市の建設利権に因(よ)って海が埋め立てられるまで、その別荘地として景勝地としての文化は続いた。
伊藤博文公も野島の風景を紀州藩主徳川頼宣(よりのぶ)公と同じく愛されたので、終いにはここに金沢別邸つまり別宅を構えてしまった訳だ。
そして・・・
ここは日本と韓国が友好国で無二の友邦に成れたかも知れない韓国皇室のキーマンが愛した場所でも有ったのだが、それも知る人は少ないだろう。
・・・まぁ、“金沢八景”と“伊藤博文公金沢別邸”については以前に解説記事を書いているので御興味の有る方は以下の記事タイトルをクリックして過去記事を御覧頂くと良いと思う。





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さて、野島の伊藤博文公の別宅は実は明治天皇も利用した建築文化財であり“御所”だったと言う事実は伊藤博文金沢別邸の存在その物より更に知らない人が多い。
実は、この建物は明治天皇の旧赤坂仮御所の“御会食所”を解体移築した物である。
説明すると、明治天皇は赤坂の仮御所に御住いだったのだが、明治時代に欧米列強に倣(なら)って西洋式の御所と公館と接待所を新設するまでの御住いであり、接待所だった。
伊藤博文公御自身は神道形式の御廟所に埋葬されていらっしゃるが、実は仏教文化も大好きで金沢別邸からそう遠くない氷取沢の宝勝寺にも良く参拝してらっしゃって武士時代の遺物を奉納してらっしゃったりする。古来の神仏習合の文化が御好きだったようだ。だから明治時代の近代建築よりも和風の木造住宅が本当は好きだったみたいだ。
まぁ、こんな他府県民にとって意外な歴史が凝縮した場所が野島なのだ。
一頻り散歩して腹も減った(ITには朝食食べずに空腹にして置く様に要請してあった)ので昼食には少し早い11時少し前、ブランチに小柴の柴漁港へ移動し古来の横浜名物の穴子と地魚の天丼を食べに移動した。
11:00
鉄腕DASHで良く登場する芝漁港に到着。
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ここはTVでロケも来るが小生が好きで良く見るYouTubeのキャンプ動画投稿者“ソータロー”が漁協の許可を得た上で一般人が釣りが不可能な漁港内で夜釣りをした事でやっかみの対象と成り“密猟者”扱いされ“炎上した場所(笑)”だったりもする。

※一般釣りマニアのやっかみで炎上した動画は削除されてた(笑)。
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小柴のどんぶり屋で当日水揚げされた横浜名物の穴子を食べる事が出来る。
いつもは開店前に人が並びあっと言う間に品薄に成るのだが、ITの日頃の行いが良いのか運良く客は小生達を含めて未(ま)だ3組しか来店してなかった。
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穴子の三色天丼と地魚天丼を注文。
そして、この日はカワハギの煮付け定食が有ったので、カワハギの煮付けだけ食べたかったので米無しで注文をした。
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結果的に“かき揚げ”がもう一つ付いて来てしまい二人で朝から天麩羅三昧、胃袋もキャパオーバーに成った。腹も満たされ、次の廃墟、猿島へと向け移動。
11:20
横須賀海岸通りの駐車場に到着。
SAIKAYAパーキングと言う美少女アニメオタクが好きそうな(笑)アイコンが目印の駐車場はフェリーの乗船券が駐車料金割引券代わりに成るのを、去年の猿島散策で知っていたので今回も利用・・・
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何と300円も安く成るんだな。
・・・ITに小生の趣向と誤解されない様に(笑)ちゃんと割引券の説明した。小生はロリコンでは無いし、適齢期以上の女性にしか女性としての認識も持てない上に、どちらかと言うと同世代の女性が恋愛対象なのだが、そんな事を一々説明すると親友でもIT「何なんコイツ必死に弁解してホンマはロリコンとちゃうん⁉」と思われそうなので、2次元のSAIKAYAキャラ説明で深追いしないで置いた(笑)。
徒歩で三笠公園に移動。
ここから5分程度の距離と近く非常に便が良い。
11:30
三笠桟橋に到着。
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三笠桟橋は文字通り“世界三大記念艦の三笠”の横に有る桟橋で、桟橋の前で乗船券を購入出来る。
乗船券は純粋な船賃1200円(往復)+入島税300円と安い。
丁度タイミング良くチケット売り場に到着した頃に乗船時間と成り、ギリギリ待つ事無く猿島行きの遊覧船に乗船出来た。
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三笠桟橋~猿島は10分の航路と非常に近い。
この日は三連休最終日と言う事も有って大変な賑わいだった。
もう5分遅れたら定員オーバーで次便まで乗船出来なかっただろう。まぁ、そんな場合も想定して、その場合は三笠公園の売店で横須賀土産の物色と戦艦三笠に乗艦して時間を潰す計画だった。
バッチリ、小生の旅行は毎回ヌカリは無い(自画自賛)。
11:45
猿島桟橋に到着。
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今回初めて知ったのだが、何と猿島の休憩所兼売店の3F事務所でガイドツアー(200円)に入れる。
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小生は一度来ているし大体の解説を出来る知識を有している心算(つもり)だったので・・・
「ツアーに入る必要も無いかな。」
・・・と内心思いながら、ここはゲストであるITの意思を尊重すべきと思い確認。
小生「ツアーに入って専門的にガイド聞いて見たいか?それとも自分達で自由に回る?」
IT「ツアーに入ってみよう」
・・・このITの判断は正しかった。
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島内の明治時代の要塞跡を見学ツアーに入ると、一般では見学できない場所も入る事が出来たり小さな疑問も質問するとガイドさんが詳細な解説で回答を下さった。
例えば直接歴史とは関係無いが・・・

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・・・ツワブキの花。小生はこれが食べられる野草のツワブキと知らなかった。綺麗だなと思い写真を撮っていたら団体の先頭を歩くガイドさんが「黄色い花はツワブキです」と解説をして下さった。
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この構造物は通風孔かと思っていたら、中の穴は兵舎として利用されていたそうで明り取りの穴だったそうだ。
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この壁面の穴も質問する前に解説が有った。これは送電線を固定する金具を埋め込むモルタルのブロックが嵌(は)められて有った跡そうだ。
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この写真の様な金具が嵌っていたそうだ。
自然の砂岩の場所には煉瓦の様に直接金具を埋め込めないので方形のブロックに金具を取り付けてから砂岩に嵌め込んだ訳だ。
ここに島の浜辺近くの発電所から電気の送電線が伸びて、各砲台や兵舎へと電力が供給されていた訳だ。
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これはガイドさんがツアー客に質問する前に小生は正体を当てていた施設だ。
実はトイレの跡。
写真撮影するの忘れたが、実は下部に配水構造が有り便器が嵌っていた様な跡が有る左側のモルタルと、右側は壁状のモルタルの下が配水構造に成っていたので直ぐに解った。
三笠の小便のトイレに右側のモルタルの設計が似た構造だったのだ。
先に進むと今度はレンガの積み方に関して講義が始まった。
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この様に長辺と短辺を交互に並べ重ねて行くのを“フランス積み”と言うのだが、小生はこれを知らなかった。
これに対して横一列毎に長辺だけを並べ更に上に短辺だけを並べる積み方を“イギリス積み”と言う。
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このイギリス積みに関しては小生はたまたま本で見て知っていた。この写真の場所は変わっていてフランス積みとイギリス積みを両方一箇所で見られる日本でも珍しい近代史跡だそうだ。
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煉瓦の積み方の講義の次に、一般観光客は見学不可な弾薬庫内部の案内が始まり正直予想外の幸運。
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内部は漆喰で固められており、当時は白く綺麗な洋館の内部の様だ感じだっただろう事を推測出来る。
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天井には穴がポコポコ開いており、小生はコレをITに「空気孔かな?」と見当違いな予想を問いかけたらガイドさんによると“伝声管”の配管がココに通されていたそうだ。
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この弾薬庫は外部からは判り難いが2階建て構造に成っているらしい。
その2Fには砲台への弾薬補給の指示を出す人が居り、その伝令を配管を通じて糸電話の要領で行っていた訳だ。
だから当然ながら弾薬を2Fに送る人力のエレベーターも存在しており、今もその穴を見る事が出来る。
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こんな素晴らしい史跡なのだが、残念な馬鹿はいつの時代もいる様で、今の団塊~バブル世代が戦後に無断上陸して猿島要塞史跡に落書きをして回ったそうだ。
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おい石井智樹見てるか?
オマエのアンチモラルで低文化な落書きは、施錠の向こうで末代まで消される事無く晒し者にされ続けるぞ(笑)。反日文化テロリストと同類の己の傍若無人な振舞い、子々孫々まで恥として晒されれば良い。
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2Fと砲台の有る上部へは写真の様に階段を登って移動していたそうで、弾薬庫や兵舎の中から登れた訳では無いそうだ。
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今でも立派な煉瓦組みのトンネルも残っている。
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このトンネルの横にも多数の外へと通じる階段が設置されており、更に階段の途中にも先程の弾薬庫の様に横に伸びる穴状の構造物が有るそうだ。
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トンネルはともて趣が有り、ヨーロッパの城内を散策している様な感覚だな。
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最期に猿島の北端の砲台跡の開けた場所を抜け海辺に出て解散と成ったのだが、ここでも猿島要塞と同じ役割をした東京湾に浮かぶ明治時代の人工島要塞の東京湾第1海堡と第2海堡の解説が有った。
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実は東京湾には陸軍大将だった山縣有朋公によって建設された人工島の要塞が3つ在った。その内、第1海堡と第2海堡が現存していて第3海堡は前東京都知事の石原慎太郎に因って撤去された際にライオンズクラブによって解体され追浜の日産自動車の工場近くに移築され展示されていたりする。
そこ等辺の事も過去の記事で解説しているので、興味の有る人は以下の記事タイトルをクリックして解説を読んで見てくれると良いと思う。

望遠鏡やカメラのファインダー越しでないと目視し難いのだが、猿島からも第1海堡と第2海堡がガイドさんの言う通りに見る事が出来た。
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灯台が有る方が東京湾第一海堡。
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奥に見えるのが富津岬の直ぐ傍に在る第一海堡。
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繰り返しに成るが第三海堡は日産追浜工場近くの夏島地区の岸壁に移築されている。
ガイドさんの薦めもあり、島の海辺に在る通称“日蓮洞”と呼ばれる日蓮宗信者にとって聖地である縄文時代からの貝塚が発見されている洞窟も見学した。
島の北端の西側に当たる。
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この洞窟は江ノ島に繋がっていると昔から伝承しているが、ガイドさん曰(いわ)く・・・
「江ノ島の方では江ノ島の洞穴は富士山に繋がってると解説しています(笑)。」
・・・との事(笑)。江ノ島のガイドと真偽確かめ様と画策中らしい。
そこから日蓮洞と反対側の島の北東に移動。
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途中、又、要塞の中も通る。しかしココを抜けると入口に戻ってしまうのでトンネルは抜けないで山側に行った。
DSC_3582
・・・このショボい見張り台と言うか展望台、実は“仮面ライダーのロケ地”“ショッカーの秘密基地の入口”の設定の場所らしい(笑)。
ガイドさんによると、なのでコスプレイヤーの聖地に成っていて猿島全体含めてコスプレした女の子達が良く自分の写真集を作る際に撮影の為に来るらしい。実際、この日もコスプレした女性達が数人来ておりカメラマンが撮影していた。
まぁ、人畜無害な趣味なので、御寺や神社で撮影して場の雰囲気を乱すよりは猿島で撮影してくれた方が良いかと思う。
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こちら側から山の尾根伝いに島の桟橋方面に戻ると、砲台上部構造も見学出来る。
この穴を使い1F弾薬庫から弾薬を補給し、方形の小さい穴に弾薬を仮置きしたのだろう。
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関西には中々こう言った場所が残っていないらしく、和歌山県の方まで行かないと戦争史跡の廃墟は無いそうだ。
一頻(しき)り見学を終えて時間に合わせて桟橋に戻る。
14:45
ギリギリ乗船定員20人前位で乗船する事が出来た、ラッキー♪
14:55
三笠桟橋に到着。
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三笠公園に着いたら先ず、戦艦三笠の写真撮影タイム。そして三笠公園売店で御土産を物色。
余り興味を引く物は無かったようで、ITの要望で三笠公園前の古着屋に移動。
ここも気に入る衣服は見つからなかったそうで、駐車場に戻った。
15:30
駐車場から三浦半島三崎町へ出発。
16:10
城ヶ島第2駐車場に到着。
実は最初は城ヶ島公園の第1駐車場に行ったのだが、第1駐車場は17時で閉門施錠される為に管理人のオジちゃんのアドバイスで17時以降も出庫可能な第2駐車場に移動したと言う次第だ。
第2駐車場から城ヶ島公園はそれ程遠くない。
16:15
第2駐車場から徒歩で神奈川県立城ヶ島公園に到着。
すると綺麗な黒猫様が御出迎えして下さり、寛大な事におおいに“モフらせて”頂けた。


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凄く綺麗な毛並みと顔立ちの猫様。
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可愛かったな~。
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顔を洗っていたので「明日は雨だな」と言ったら、どうやら関東ローカルの迷信らしい。
それもとITが知らないだけなのだろうか。
取り合えず、翌日の天気は雨ではなかった(笑)。
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城ヶ島の海岸の夕景と富士山を見物予定が海がガスって秋季には珍しく富士山見えず。しかし夕陽と海と岸壁の風景は相変わらず綺麗だ。
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城ヶ島は展望台の近くに海岸に降りる階段が在る。
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そこを降りるとこんな風景が見れる。
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本当は今の季節、もっと水蒸気が少なく富士山も見えるのだが、生憎(あいにく)と低い所に雲が掛かっており富士山も今回は見られず日没も途中までしか見られなかった。
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釣り船は見えた。これはこれで風情が有る。
3月に台湾の友人夫妻を連れて来た時は雹(ヒョウ)が降った不運に比べれば綺麗な風景も見れて良かったのだろう。ITも満足してくれた様だ。
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日没後の夕闇迫る時間帯だが、小生達の他にも散策する観光客が数組居た。
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展望台に戻る階段は季節柄、薄木(ススキ)が茂って秋らしく綺麗な風景を見せてくれた。
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そして黒猫様と他の茶虎猫様達が再び見送って下さった(笑)。
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でもコイツ等、愛想悪かった(笑)。黒猫の神対応に感謝♪
写真を撮影するのを忘れたが実は城ヶ島も猿島や野島と同じく戦争史跡の廃墟が有り、明治~大正時代の砲台跡が花壇として保存されている他、岸壁には猿島要塞の弾薬庫と同じ構造物が残っているが弾薬庫の方は一般見学は不可能だ。
腹も空いたので夕食に三崎漁港に鮪を食べに移動する事にした。
17:10
駐車場に戻り城ヶ島を出発。
17:25
三崎漁港に到着。
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三崎漁港の鮪を夕食にしたのは、ITに折角なので神奈川名物を食べさせてあげたいと思い事前に・・・「葉山牛と、三崎漁港の鮪料理と、鎌倉野菜と海鮮のイタリアンとどれが良い?」
・・・とリサーチして「肉より魚、鮪食べたい」と回答が有ったからだった。
しばし三崎漁港の商店街を散策し鮪漁で栄えた頃の倉屋敷の外観を見物して廻り店の選定に入る。
17:45

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有名な鮪料理専門居酒屋の“黒羽亭”か・・・
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・・・鮪稀少部位を食べれる行き付けの寿司屋“紀の代”から好きな方をITに選ばせ“紀の代”に入店。
3月に台湾の友人もこの店に連れて来てあげたかったのだが生憎と当日は店が開いてなかった。ITはラッキーだったな。
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まぐろ寿司(インド鮪赤身漬け、中トロ、大トロ、備長鮪のトロの握り)、鮪サラダ、ワタ(鮪の胃袋湯引き)、皮ポン(鮪の皮のポン酢和え)、鮪のカマの焼き、鮪のツミレのお吸い物を食べる。
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鮪丼(大トロ、鮪ユッケ、漬け鮪、ネギトロ)、ネギトロ巻きを追加(笑)。
※因みに、この日、小生は先月ダイエット8㎏成功したのが1日で2㎏リバウンドした(笑)。
ITも美味しい美味しいと満足してくれた様で何より。
臺灣の友人が来た時も中国人の同僚が帰国する際もここに連れて来たが、一緒に来た人が自分の美味しいと思う店に連れて行って喜んでくれると嬉しいもんだな。
そして気兼ねなく安心して御腹いっぱに食べてくれる様子を見るのも嬉しい。
自分が大切に思う人達が幸せそうにしている様子を見るのは嬉しいもんだ。自分の御腹も幸せに成るしねぇ~(笑)♪
18:50
三崎町を出発。
19:20
横須賀PA(上り)に到着。
横須賀土産を物色。
海苔と葉山牛の佃煮と海苔と鎌倉の蛸の佃煮を購入し神奈川土産に渡す。
写真は撮り忘れた。
19:50
小生の地元、横浜最高峰の栄区の円海山(海抜たった300m)に到着。
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横浜の中心部の夜景を見物。去年の出張でITを案内した中華街~大桟橋界隈を指さし、みなと未来地区とベイブリッジの位置を解説。
一頻り夜景を見て新横浜のホテルへ送り届ける為に出発。
運転中に春に出張来るらしいので遊ぶ計画を相談。此方(コチラ)も間宮直元公の顕彰活動と城マニアの趣味で但馬地方に行く予定が有るので一応、ザックリと訪問予定地を伝え予定の擦り合わせを相談をしておいた。
20:20
新横浜駅近くのホテルに到着。
うむ、留学最初の半年の仲間達とは毎日皆で食事をし皆であちらこちら旅行して廻ったので、IT等初期の仲間と遊ぶと何だか留学中を思いだし面白い。
そして、未だに色んな事を相談する関係であり、ベタベタせず数ヵ月に一度のやり取りでも信頼関係が絶えない位信頼出来る奴。
それでなくても古馴染が訪ねて来てくれるのは嬉しいね。

子曰学而時習之不亦説乎
有朋自遠方来不亦楽乎
人不知而不慍不亦君子乎。

儒教は年長者の失態の責任追求を許さない組織の自浄能力を昨日不全させるばかりか実力主義も認めない年功序列の腐敗の温床で大嫌いだけど、論語のこの一文は気持ち解るかな~。
ITの御陰で有意義な時間を過ごす事が出来た1日だった。
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因みにITの土産は何故か鹿児島の醤油と煎餅だったが、この醤油がイカ刺しに付けて食べたら凄く美味かったので個人的に大瓶で取り寄せようと思う。
ありがとうIT!次は関西か又、神奈川か。又な!

江ノ島観光の休日雑記の途中だけれど少し近況報告を三浦の海岸沿いの某宿泊先から・・・

小生は梅雨に入って気温も上がり初夏に突入すると繁忙期、だいたい毎日の睡眠時間は常人の1/2とか1/3程度しか寝れない日が多くなってしまう。
先月はジムに2回しか通えなかった。今月もまだ行けてない。
だからブログの更新も疎かに成るし気のせいか昨年より体力が落ちた。
まぁ、今年は休日は出来るだけ寝て体力回復を計る事にしていたのだが、そんな中でも休日の午後位は動いていた。

今年はTVで鎌倉が沢山特集されたせいで観光客が多く、とうとう鎌倉~江ノ島巡りで4回目の鎌倉市長谷の長谷寺紫陽花見物チャレンジも失敗、なので小生の住まう円海山の裾野から車で程近い永谷天満宮の鎮守の森、菅秀塚の紫陽花を見に行って来たりしていた。
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永谷天満宮の社殿の左手が菅秀塚の入口なのだが、結構地元の人もここへ来ない様だ。
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神奈川の名木100選の一つ、“上永谷の天神社のカシ”なんて大樹も有ったりするんだが・・・
その名木の前を通り過ぎると直ぐに紫陽花のトンネルが出迎えてくれるんだな。
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陽当りが余り良ろしくない場所だが、山の斜面の一面に紫陽花が咲き誇る。
・・・う~ん、咲き誇ると言うよりは毎年健気に数少ない見物者を優しく謙遜しながら出迎えてくれると言う感じだろうか?
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一輪一輪が大振りで立派、確かに北鎌倉の明月院や長谷の長谷寺程の規模は無いけれども季節を感じて散歩するには十分!
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今年も綺麗だ。
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永谷天満宮の紫陽花君達、今年も綺麗な花を見せてくれてありがとうね~!
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頂上には浅間神社が在る。
永谷天満宮の社殿の方向とは明後日の方向を向いて祠が建っている。
何でこの向きに浅間神社の祠が向いてるのか、ちゃんと神様に対して信仰心を持って神社を観察する人なら直ぐに気が付くのだが、当然、この祠の真後ろに浅間権現此花咲耶姫命様の化身である富士山が在るんだな。
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既に横浜は夏日なのに珍しく相模湾上の水蒸気が薄く、そして雪化粧している此花咲耶姫命の富士山が姿を見せてくれた。富士山の頂上に浮かぶ雲が此花咲耶姫命様が市女笠を被って日差しを除けてらっしゃるようで可愛らしく思えた。
因みに市女笠と言うのは↓こう言う奴。
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以前撮影した小机城址祭りの様子。
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小生には、こんな可愛らしい御姫様の格好に脳内変換されんだな。
まぁ、江戸時代の和装は余り好きじゃなくて、女性は室町時代の格好の方が可愛らしと思うからなんだが。
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永谷天満宮の地は伝承によれば御祭神の天満大自在天こと菅原道真公の五男で菅秀才と呼ばれ醍醐天皇に重用されたが藤原氏の出世妨害で官位は高位には成らなかった菅原淳茂公が移住してきて一時期住んでいた居館跡と伝わっているんだな。まぁ実際に関東に亡命して平将門公や平良文公達の坂東の桓武平氏を頼って来たのは三男の菅原景行公が茨城県の大生郷天満宮の社伝にも伝わっているし、永谷天満宮は旧鎌倉郡で、平良文公の御子孫の村岡家の一族達が治めた土地であり村岡一族の鎌倉景正公、梶原景時公、俣野景久公、大庭景義公、長尾景春公等々、鎌倉郡を統治した人々は“景”の一文字が入っている事から三男の菅原景行公との関連と考えた方が自然なのかも知れないが、そこはそれ、どっちか解らないならば“どちらかがいらっしゃった”として“両二方とも大切に史実と伝承を両方伝えれば良い”訳だ。
そうすれば御子息が二人も永谷天満宮で大切にされて、御祭神の菅原道真公も喜んで下さるかも知れない。
塚に手を合わせながら、そんな事を考えていたりした、この日。
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月が変わって7月初旬、野島公園のキャンプ場を予約して妹夫婦と甥姪とBBQをした。
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この日、燃料を予約していたのだが炭だけ渡されて火を付けるまで上手く行かなかった。
家から先日の木目金鍛造の為に買った1500°の火炎が出るガスバーナーも持参したのだが、ガスバーナーで炙っても窯が大きすぎて熱が上手く籠もらずに肉を焼ける様に成るまで30分近くかかってしまった。その間に姪っ子も甥っ子も飽きてしまって母が持参したオニギリを食べて御腹一杯に成り、もうまともに食事してくれなかった。
折角、南部市場でサザエやホタテも沢山買ったのだが、食べきれなかった分は保冷材も無いので廃棄した。

先週の事・・・
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ライチが美味しい季節に成ったので夕刻近くに漸(ようや)く起き出して昼食ついでに横浜中華街の八百屋に生ライチを買いに行って来た。
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妹の家もいると言うので綺麗な物を1ケース分選別して購入。
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その後は中国超市で肉まんと月餅を買い食いして昼食とした。
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コンビニのとは違って皮が甘くフワフワで美味しい。
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まぁ、日本で肉饅と呼んでいる物は中国では三丁包(さんでぃんばお)と呼ばれる餡なのだがね。本来の肉饅の餡は本当に肉しか入っていないんだ。これは少し違うが美味しい。
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先一昨日、京都から歴史仲間が出張で横浜に出て来たので中華街に行き、一緒に食事をした。
途中、久しぶりに横浜スタジアム方面から歩いて見たら変な専門店が出来ていた。
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香菜(シャンツァイ)=パクチー料理の専門店・・・
小生は香菜が大嫌いなので絶対に行かないだろう(笑)。でも女性には好きな人も多いので、まぁ、狭い範囲のファンが定着しそうだなとは思う。
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夜20時過ぎだったが土曜日と言う事も有って中々の人数だった。
残念な事に行きつけの店が閉店したので、山東と言う、もう一つの行きつけの水餃子の美味しい店に歴史仲間を連れて行った。
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写真は豆腐干絲(ドウフガンスー)=干し豆腐の千切りの冷菜、それと牛肚(ニィウトゥ)=牛の胃袋の冷菜。さっぱりして夏でも食欲が湧く小生の夏季御薦め料理。
他にも空心菜の炒め物とかトンポーローとか山東名物の水餃子を注文して二人で7000円分位食べた。
親友のO型君が転職して東海地方に行ってしまう際に転職祝いで食べに来て以来、2ヵ月ぶりくらいだったかな?たまに食べたくなる。
食事後は車を停めた大桟橋(国際客船ターミナル)まで徒歩戻る際に、夜間でも見れる史跡を少し回りながら移動した。

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日本最初の下水管とか。
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何故か横浜市は中区の近代史跡だけ大切にし、鎌倉の隣で武士文化の遺産が多く有るのに其方は破壊しまくるんだな。意味不明。所詮、田舎者ばっかりの市職員はヨコハマのイメージしか無いんだろう。
横浜市はヨコハマで有る前に鎌倉郡の一部であり久良岐郡であり橘樹郡であり都築郡なんだが、そんな事も知らんのだろうな。
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様は移民が文化財保護担当してる様なもんだから理解が足りないんだろうか?
まぁ、政治家の建築利権の方が大きいんだろう、現代の役人はアウシュビッツの職員よろしく善悪の判断をせずに政治家の要望通りに破壊してんだろう。でなければ、自然公園として歴代市長が守って来た円海山の史跡も自然環境を東急グループの建設利権の為に開発しようとしたり、日本的に見ても重要な意味の有った笹下城も蒔田城も青ヶ台城等の城址も発掘せずに破壊したりしないだろう。
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まぁ、ハッキリ言って観光向けに街づくりしてる筈なのに、外国人観光客に不人気なのは文化を大切にしてないから魅力が無いって気が付かない田舎者が仕切ってる横浜市の役人と建築利権臭プンプン臭う執政者って事に成る訳だ。
まぁ、この明治の元勲、伊藤博文公が作った新港埠頭=みなと未来21地区の夜景は綺麗だ。
これは高秀前市長が建築族だっただけでなく高文化で、港から見た時の景観と文化財の保護を考えて街づくりをして下さった御蔭なんだな。
今の市長は語るに・・・不足の極み。待機児童問題も停滞中、一瞬良い時だけ発表して印象操作。
折角期待されてるのだから史跡保護や最後の蛍の広域生息地の自然環境保護も頑張って立派な市長に成って欲しい。
待機児童問題も上手く行ってないなら、それはそれで正直に言えば皆も本気で考えるだろう。
一々自分の印象を良くしようとする様な発表の仕方をしたってダイエー再建失敗した時の様に、結果は数字でしか出ないんだから。これは補佐役が悪いのかもな。

まぁ、そんな訳で最近も休日は夕方から少しは動いていたが、もう学生時代の様に半徹夜の仕事連勤+自分の活動を平行してやる体力が無くなって来たようだ。
筋力増強も上手く行ってない。
体力付ける為に、夏が終わって繁忙期が過ぎたら本気でトレーニング頑張ろう。

では、皆さん、休日雑記江ノ島編の続き③でお会いしましょう~♪


小生の活動に賛同して下さる御寺と又、一つ五御縁を結べた。
鎌倉時代から続く横浜市金沢区六浦の名古刹、上行寺さんだ。
10日土曜日、午前中から動く筈だったが深夜に帰宅後、朝まで色々とやる事が有り結局寝たのは午前5時、起きたら10時位だった。
当初の計画では午前中から鎌倉に紫陽花を見に行き、2年ぶりに江ノ島に散歩に行こうと思っていた。
しかし不思議な事に車に乗り込むとなんだか「そわそわ」して思考が鎌倉に向かない・・・
まぁ、事前に鎌倉の長谷寺サンに問い合わせて現在の紫陽花の開花状況が5分咲きに届くかどうかと言う事を聞かされていたと言う事も少しは有るが、メインは鎌倉に車を停めて江ノ電で観光して回る事だったので、紫陽花は二の次だった。それに家から鎌倉はとても近いので又来週も見れるしね。
・・・で、途中から金沢区の建築文化財の料亭❝金沢園❞を旅館業に業種替えリニューアルした❝喜多屋❞と言う旅館に先日取材の下調べと挨拶に行った事も有り「今日、ランチ食べに行って見ようかな?」と思いついて栄区から鎌倉に続く朝比奈峠には行かず真っすぐ通り過ぎ金沢区八景方面に行く事にした。
これが昨日10日の運命の分岐点だった。
朝比奈峠の辺りから金沢八景に行こうとすると金沢区の六浦を通る。
この六浦と言う場所は江戸時代までは海が入り込んだ入江で商業港として機能していた場所だ。
鎌倉が武士の本拠地として機能した平安時代末期~鎌倉時代~室町時代初期まで大いに栄えた。
そして金沢八景の名で知られる景勝地として有名で、源頼朝公に始まり鎌倉公方足利家歴代、北条早雲こと伊勢盛時公、果ては徳川家康公まで金沢に滞在した歴史が有る。
歌川広重 金沢八景:称名晩鐘
その風景の美しさから金沢の八か所の景勝地を歌川広重等が浮世絵にしている。
現在、昭和のアホの横浜市教育委員会が風致保護せず更に市と土建屋が埋め立ててしまい金沢八景の景勝は全て失われた。
そんな事を思い出しながら車を走らせ、京都出町柳に住んでいた頃にたまに拉麺を食べに行ってた北白川魁力家の六浦店の前である事が強烈に頭をよぎった。
「そうだ、上行寺が近くに在るな。」
「デジカメ買ってからまだ写真撮影に行ってないし、御住職に荒井さんの事を確認したいな…」
「よし!上行寺に行こう」
・・・と、これは何と言うか完全に思い付きだね。と言うか、こう言う事は天啓の様な物で、思い付きに従った方が良いと小生は経験で思っている。
で、上行寺を御参りした。
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ここは茅葺屋根の山門が今も現存する貴重な御寺で、明治政府のせいで縮小してしまった旧境内地のスシロー辺りまで鎌倉~室町時代の矢倉(やぐら=坂東武者文化の横穴式の墳墓)群が大量に周辺一帯に現存している。
因みに、由緒正しい平安末期~鎌倉期前後から存在する御寺は鎌倉文化圏の旧鎌倉群~久良岐郡~三浦郡では茅葺屋根の山門が多い。まぁ、瓦葺に吹き替えても屋根の形状で時代は解る。
更に高級なのが真言宗の別格本山だった金沢区の稱名寺で、檜皮葺の塔頭の山門が在ったりした筈だ。
因みに以前、栄区鍛冶ヶ谷の旧小岩井家住宅を紹介した記事でも書いたが、❝藁葺(わらぶき)屋根❞では無くて茅葺(かやぶき)屋根の場合、一棟の御屋敷の母屋(おもや)の屋根を葺き替えるだけで4千万円程度するそうだ。

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これがその記事。
だから江戸時代に瓦葺に吹き替えた場所は、手が掛かっていないんだな、寧ろ。
因みに今月の三十日(みそか)は全国の神社で❝夏越しの大祓❞の神事で茅の輪くぐりが行われる。
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今では茅は貴重な植物に成ってしまったので、昔でも高価だったのだが更に貴重な植物に成ってしまった訳だ。この植物は素戔嗚(すさのおう)尊が厄除けの道具として古代人に教えた事に始まる魔除けの植物でもある訳だ。
さて、突然訪問した上行寺、実は数回御参りに上がっているし間宮家と無関係では無いのに御住職様とユックリ御話する機会が今まで無かった。
なので、これも良い機会だと思い訪問を決めた瞬間から身が軽かった。
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山門をくぐると最初のこの供養塔が在る。❝船繋ぎの松❞が有った場所だが、真言宗時代の富木胤継公と後に御寺を復興した荒井平次郎光吉公の供養塔が在り、横に何世代目かの船繋ぎの松が在る。
何で❝船繋ぎ❞か、ちゃんと記事を熟読して下さっている人は解ったと思うが、昔は六浦は港だったと先に触れたが、この御寺は目の前が鎌倉時代の港で千葉家の武将達が鎌倉と房総半島の海を往来する際に船を停泊させた港でもあった訳だ。
金沢区の昔の海岸線 久良岐のよし
上の画像で白い部分が昔の海岸線。半島と沢山の島が入り組む湾は多くの文化人や大名から愛され、もし現存すれば京都の天橋立よりも美しい観光地として多くの外国人旅行客で栄えた事だろう。
そんな訳で上行寺は直ぐ目の前まで海だった。
折角なので、少し御寺のその時代の歴史に触れてみよう・・・
御寺は元は金勝寺と称した真言律宗の古刹で開基の当時は源平合戦の真っ最中の頃、その頃からの大旦那は房総半島千葉家臣だった富木(とき)家だったそうだ。
この富木、取材しない学者は富木(とみき)と読みかねない。
富木と書いて恐らくは土岐家の一族だろう。更に祖先は土気城の辺りを根拠地にしていたのだろうか?
千葉家の被官に成る以前はもしかしたら上総家の被官だったのかも知れない。
後に上総国で里見家の重臣と成った土岐家の祖先に当たる人物かも知れないが、この時点での姓は富木と書いて富木(とき)だった。その家の播磨守(はりまのかみ)富木胤継(たねつぐ)公が房総半島から船で鎌倉に向かう際に日蓮聖人様と同船されたそうだ。
そして仏法について御二方は熱く語り合い、船着き場兼御寺だった金勝寺へ到着後も話は盛り上がって夜に成り、富木公は自分が支援した金勝寺の当時の御住職の普識法印様に相談して御寺ごと日蓮宗に改宗し、寺名も現在の上行寺に改名、法華経布教の道場と成って真言宗風の御寺の立地条件の日蓮宗寺院としての歴史が始まり現在に至る。
明治以前の本山格は日蓮宗大本山の中山法華寺で、この中山法華寺の境内地が富木家の邸址だそうだ。
これは知らなかった。
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間宮家所縁の妙蓮寺や・・・
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・・・杉田の妙法寺も中山法華寺が本山に成っている。
明治時代に成るまで、日蓮宗も浄土宗も時宗も同じ法華宗と呼ばれ御寺の門閥として系統が解れていると認識されていた。禅宗も同様で臨済派・曹洞派・黄檗派等と呼ばれ記録に残っている。
因みに織田信長公と徳川家康公が特に信心していたのが、この法華宗で中でも浄土宗と日蓮宗の御寺を御二人とも良く支援してらっしゃった。
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上の写真は織田信長公の遺骸が葬られた朝廷公認の織田信長公と信忠公と家臣団の御本廟、京都市の蓮臺山阿弥陀寺。浄土宗。
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上は下鴨神社、下はその別当寺だった浄土宗大本山の知恩寺。阿弥陀寺と同じく京都市。
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知恩寺は後醍醐天皇の勅願所で、徳川家康公家臣で忠臣名高い鳥居元忠公の菩提寺でもある。
織田信長公と徳川家康公の御二人は法華宗だけでなく、天台宗や禅宗や真言宗の寺院も多く復興されている。
因みに知恩寺が菩提寺に成っている鳥居元忠公は間宮家で屈指の武勇を誇った間宮康信公を黒駒合戦で討取った名将でもある。
間宮、真田、鳥居の戦勝実績はジャンケンみたいな関係で特徴が有る。 真田家>間宮>鳥居>真田こんな勝敗の関係に成っている。
その間宮康信公は北条綱成公の家老ながら間宮家が単独で伊豆・駿河方面で武田勢を散々にボコボコに追撃したり三増峠で山県昌景公や馬場信房公の武田奇襲部隊を押し返して北条氏照公の窮地を救った当時の間宮家の若様だな。 この頃から真田丸と大坂城攻防の間宮と真田による北条武田の因縁の代理戦争は繋がっているんだな。
間宮家も織田信長公や徳川家康公と同じく多くの神社仏閣を守っていた。
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上は杉田間宮の間宮信繁公の姫が嫁いだ初代久能山東照宮大宮司の榊原照久公の菩提寺、照久寺。 こちらも浄土宗。
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そして横浜市磯子区の上中里神社は間宮家が廃寺に成っていた御寺を法華宗日蓮派寺院として復興した間宮寺の跡。
無論、鶴岡八幡宮を始め若宮神社を勧進したり神道は言うに及ばず、真言宗の本山格だった横浜市南区の寶生寺やその末寺だった笹下城下の東樹院等の真言宗や、横浜市磯子区の修験道の大本山格だった泉蔵院や福禅寺権現堂の森浅間社。更に北条家臣だった歴史から曹洞宗寺院は多くなり他にも例を挙げればキリがない。 そんな間宮家は水軍を管理した家系でもあったのだが、恐らくその水軍で主力を成したのが妙法寺や上行寺を開いて六浦港や杉田港に勢力を誇っていた荒井家だ。
詳しい事は伝わっていないが大まかには荒尾城主だった事、源頼朝公が三島大社の御分霊を勧進し瀬戸神社を開き大姫の誕生の際に琵琶湖の竹生島から勧進した弁天様を祀る琵琶嶋神社を開いた際に、枇杷嶋へ架かる橋を荒井家が単独で寄進した程、鎌倉時代には財力も有り家格もそれなりに有った訳だ。
豪商と江戸時代の記録に伝わるそうだが実際はれっきしとした❝武家❞だった筈だ。それも水軍を率いた。なので荒尾城と現代では場所の解らない城の城主だったのだが、この城跡と思しき場所も同日、小生は見つける事が出来たのだが・・・
御住職と色々と荒井さんの事の情報を共有し、話し込む内に小生の話を楽しいと評して下さった。
とても嬉しかった。
そして間宮家の顕彰文に間宮重臣荒井家の事を書かせて頂く御許可を頂き、そして活動を褒めて頂けてとても光栄と言うか恐縮と言うか・・・
素直に嬉しかった。
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帰りに境内の霊木の榧の大樹の実から精製した油や新茶や御寺の縁起の冊子等、沢山のお土産を頂いた。
霊木の榧は開山日荷上人の御手植えで、榧の油は檀家さんだけで共有している物だそうだ。
何だか色々と御世話に成ったのに却って多くのプレゼントを頂いて大変恐縮した。
でも、檀家さんだけで共有している霊木由来の油を頂き、檀家同様に扱って頂く様な大変有難い気持ちの込められたプレゼントで嬉しい。何だか勿体なくて使えない(笑)! 小生は本当に自分は短気だし馬鹿だし小者なのに、多くの神社の宮司様や色んな宗派の和尚様達に可愛がって頂ける運にだけは恵まれている。これは本当に何と言うか知識と文化と先人の大切さを教えて頂ける多くの師を学校を卒業しても尚、得ているのと同じ事。
「生まれて来て良かったと」
・・・そう思える事の一つでも有る。でもこれは自分自身でどうこうと言う運命では無くて、殿様達に会に神社や御寺に行くと自然に道が開けて来た、例えるなら「御導き」みたいな感じなのかも知れない。
小生本人は行き当たりバッタリ的な行動。今回の上行寺の再訪問もそうだ。
運転中モヤモヤして鎌倉へ向かう分岐点の朝比奈峠の入口で目的地の鎌倉と違う方向の六浦にハンドル切ったら「そうだ!上行寺に行こう!」と成った訳だから。
思えば歴史偉人の顕彰活動を始めたのも今生きているのも、北条綱成公のおかげ。綱成公の御廟所へ御墓参りをしたのが歴史が本当に好きに成り神社仏閣巡りを始める切っ掛けだった。そして横浜に北条綱成公の家老で大活躍し壮絶な最期を遂げた間宮康俊公が居た事を知り、その康俊公と間宮家の関連した神社仏閣を巡り宮司様や和尚様達に話を聞いて回る内にアレよアレよと今では師と思う宮司様や和尚様達に宗派をとわず沢山巡り会う事が出来、次第に可愛がって頂ける様に成った。宗派を問わず。
気が付いたら某大学で教鞭をとる名誉教授の宮司様や現役教授の法華宗系の某宗派の和尚様や新任神職研修の指導教官だった大きな神社の宮司様や某禅宗の人事部長さんや青年部長さんやら、某高野山でお勤めに成っていた偉い和尚様とか。
今回の上行寺の和尚様も本当に始終笑顔で色々と教えて下さり、そして笑顔や時に目を見開きながら小生の話を真面目に聞いて下さって、それだけでも感謝が今、文章をタイピングしながらも湧き上がってくる。
御住職様、ありがとうございます。きっと荒井の殿様の歴史、世に再び知って貰える様に書きます!
玉縄北条家や間宮家の顕彰文にも、そして、いつか三浦家の顕彰文も書く際にも。
荒井家の御子孫とも面識有るしやらないといかん。
さて、小生の主観的な事はここまで、上行寺の写真を紹介したい。
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古い御寺、それも真言宗の大寺院だったので戦後に縮小された現代の境内地でさえ、鎌倉の大寺院がそうである様に沢山の矢倉が残っている。
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鎌倉武士達の墓所の跡だな。
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御寺を日蓮宗に改宗させた富木胤継公の富木(とき)家は千葉家臣だった時代の歴史しか現代に伝わらないが、先述の通り多分、後に里見家の家臣と成った土岐家の祖先なのだと思う。
この矢倉群の主が誰か、今度、改めて御住職に教えを請いに行こうと思う。
資料が散佚して解らなければ、許可を頂いて墓石の文字を撮影させて貰い読んでみようと思う。
そして先に紹介した船繋の松の旧跡。
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この直ぐ前まで海だった訳だな。
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太平洋戦争で戦死した将校の供養碑。立派だ。
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山門からずっと綺麗な石畳が続いており、御本堂へ向かう手前の分岐点に鐘楼が在る。
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鐘楼の屋根の上には千葉家の家紋。富木家が千葉家の家臣だった事が良く解る。
上行寺と言う御寺は鎌倉にも在って、実際、鎌倉の大町の辺りには千葉家と関連の在る場所も少なくないし、戦国時代に成っても昔は下総国臼井城主だった千葉一族の臼居家の御本家が住んでいて今も光明寺の塔頭となった元は弘法大師所縁の真言宗寺院だった蓮乗院が在ったりするが、そこは臼居家の菩提寺で千葉常胤公の所縁の御寺だったと伝承する。
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御本堂の右手に庫裡、庫裡の屋根の作りからして少し前までは茅葺屋根だったんだろう。
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対して御本堂は破風が付いており、江戸期~現代の造りに成っているので比較的新しい様だ。
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本化殿・・・浅学の小生には意味が解らない仏教用語だったのだが、調べたら法華経の事を意味するらしい。言い換えると法華堂と言う所だろうか?
そういえば源頼朝公は熱心な真言宗と修験道の信徒だったが、法華堂を大倉御所の近くに建てていたりもしたので法華の教えも好きだった様だ。
政子様は真言宗が御好きだった様だが、阿弥陀仏を信奉していた形跡が浄妙寺の歴史からも紐解けるが思想的には不明。御息子の三代将軍実朝公は臨済宗で釈迦如来を本尊とした様だ。この実朝公と北条一族によって鎌倉の至る所の御寺は臨済宗に改宗されて行った。そして禅宗を取り入れた武家文化が確立され、元寇を撃退する知識の泉と精神力の根源と成り反抗戦の原動力と成り奇跡の勝利を生み出した訳だ。だから神仏を崇拝する全ての宗派が日本の歴史を構成していて、そして全てが有ったから今が有る。だから、宗派の優劣も無いし、その代わりに確かに得意不得意な分野は有るかも知れないが、その個性が個々の得意分野を更に昇華させて日本文化を成熟させて行ったんだな。
だから不要な物なんて何も無い。
上行寺は現代は日蓮宗だ。日蓮聖人は「南無妙法蓮華経と言ってさえいれば良い」と言った様な事を書くアホ学者や小説家も多いが、当時の法然上人や親鸞聖人もそうだが実際は密教や現代では宗派でカテゴライズされてしまい学ばなくなった多宗派の様々な知識も身に付けていて、だから親鸞聖人は鎌倉の仏僧の試験官として招聘されたり、日蓮上人が書いた密教的なものが根来に保管されていたりする。
更に法然上人が「念仏だけ唱えれば極楽に行ける」と言った様な事が言われているが、法然上人に帰依した熊谷直実公や土肥實平公等の名将の動向を見るに「やった事を反省し本当に悔いた上で更生し念仏を唱える事が大事」と言う意味だろうと小生は解釈している。
まぁ、法華関連の偉人を悪く言うこれらの言葉尻を捉えた様な話は、対立した宗派のプロパガンダだったんだろう。
では、鎌倉の禅宗はどうだっただろう?禅を「禅だけ練って質素な暮らしして精神修養だけしてりゃ~良い」とトンでも無い事を思う奴がいたら阿呆だ。
蘭渓道隆和尚も兀庵普寧和尚も退耕行勇和尚も座禅だけ組んでいた訳でなく、博識で武士達に現実社会で役に立つ思想学問や兵法や文化を叩き込んだ。そして元軍を打ち破るノウハウを鎌倉武士団は獲得した訳だ。禅宗は普段の生活も修行とし真面目に生きる事を教える宗派だ。それは臨済宗だけでなく曹洞宗も同じで、だからこそ曹洞宗を支援した戦国大名の北条家の政治も善政として有名だった。
天台宗も多くの学僧を抱え知識の泉として機能したし、真言宗は仏教の原型を出来るだけ保全して伝える言うなれば仏教界の考古学みたいな素晴らしさと日本の神様や文化も特に守って来た歴史を大切にする側面を備えている。
昔の仏教も神道も多宗派に非常に寛容だった事を、現代の宮司様や和尚様には知らない方もいるのかも知れないが、歴代天皇家は正に神様も仏様も色んな仏教門閥も其々の良さを見て大切にしていらっしゃった事は様々な歴史博物館や宗教施設の遺物を見て回ると理解出来る。
そんな訳で、昔の和尚さんや宮司さん達は大らかだった訳だが、上行寺も法華宗日蓮派に改宗した後も金沢山稱名寺とずっと交流が絶えなかった様だ。
だから、御寺を富木家の後に復興支援した荒井家出身の日荷上人が稱名寺とも交流が有ったのだろう。
しかも稱名寺には戦国時代に間宮信高公に姫が嫁いだ真里谷武田家の殿様が逃げて来て北条家次いで武田家に亡命した歴史が有る。何だか間宮家の歴史は荒井家ととても因縁めいている様だ。
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上行寺の前の道、六浦道と呼び、現代の笹下釜利谷道路の延長線上の終着点。
しかしここは昔は海だった訳だ。ここに千葉家の殿様達が船で往来していた当時と同じ様子の風景を見て見たかったが今では想像もつかない。
因みに富木家の子孫と小生が推測する土岐家、仕えた里見家と争った真里谷武田家の一門衆(しんぞく)には勝家がいる。恐らく幕末の安房守勝海舟先生の祖先だろう。もしそうなら間宮康俊公の御子息で間宮造酒之丞家の始祖と成った間宮信高公の奥方の真里谷家の姫君と勝海舟さんは遠い遠い親戚と言う事に成る。つまり間宮家と勝海舟先生も親戚って事だな。
所で土岐家は美濃の土岐家の戦国時代の分流と伝わるが、ハッキリした歴史は学者にも諸説有り解っていない。
だから小生は言う、富木は恐らく鎌倉時代に関東に残った土岐家の支流で美濃の土岐とはかなり早くに、それも鎌倉時代には分かれていた家だろう。
そして土岐では無くて富木の字を用いていたので歴史学者は気が付かないんじゃないかと。
まだ学者も知らない事が多い。北条綱成公の祖先の福島家が存在しないと実地見聞しない学者共はのたまうが、実際に福島家の子孫は多摩に存在する。子孫は庄屋に成って江戸時代も存続した。
❝文字に残っている事が全てでは無い!❞しかし学者は自己保身をしながら自説を論文に書かなければいけない不自由な職業の様なので、左翼弁護士の如く状況証拠で白黒判定する事を他の学者が許さない訳だ。つまり、歴史学なのにエジプト考古学や城郭考古学とは考え方が全く異なり嘘でも文書に成っていたら証拠として論文に書けるし文字に成ってる証拠しか拾えないと「変な空気に支配されている」チキンが多い訳だ。だから死んでも文字オタク歴史学者になんか小生は成りたくない。だから考古学者の先生達や無名でも博物館の学芸員を小生は尊敬する。
まぁ、小さい時から土器や石器拾って遊んでたしね。
と、言うか日本の歴史学者が左翼染みて居るのは、東大や京大を始め国立大学の教職員が左翼に学生闘争に参加し染まっていた連中が多く幅を利かせてそういう雰囲気を作ったんだと思う。
歴史は状況証拠の方が大切だと思うんだけどね、文字は後世の人間も騙そうとして意図的に制作されたり改竄複製されたりプロパガンダも沢山有る訳だから、客観的な状況証拠から実際に史跡を発掘する方が大切だろうと個人的には思っている。実際、凄まじい数の文献を見ている学者でも小生の様な学者で無い人間が知ってる武士達の名前の発音を知らずに読み仮名を想像で誤植して人名辞典に掲載している事も有るしね。実際に御子孫に会いに行くのが一番早いのにね。
少々、ここまで宗教的な解釈の話が多すぎたかも知れない。
上行寺を後にしてからの話に移ろう。
寺の背後の山中に伝承の荒尾城の遺構と思われる帯曲輪らしき多くの削平地や竪堀らしき地形も発見した。
それは又も偶然で横浜市教育委員会が破壊容認した上行寺東遺跡に行く時に道を間違えての事だった。
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ここが上行寺東遺跡の登り口。
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分岐する階段の上が遺跡のコピー、実際の遺跡はライオンズヒルのマンション建設で主要部分が破壊され消滅した。遺跡の前に小生が荒御城跡かな?と思った地形に至る道を紹介する。
右手の階段の上に遺跡のコピーが在るが小生は、ここで道を間違えて直進した。
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眺望が良く、上行寺の裏から昔海だった平地が見渡せる。
なんとなぁ~く海だった時代の風景が想像出来る。
少し行くと又もや階段が有る。
そこを登ると何かの神様が祀られている小さな御社が在った。
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思うに浄願寺や上行寺の関連なら御寺の守護神だった神様だろう。でも御社の名前も不明なので何の神様がいらっしゃるのか判断がつなかった。でもちゃんと御参りして来た。
頼朝公や千葉家の関係なので弁財天様だろうか?
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御参りが終わって階段を下り、誤った道(笑)を更に進むと完全に上行寺の裏手に回る。
ここら辺から道の様子が怪しく成ってくる。
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余り人の往来が有る形跡が無くなり始める。雑草が生え始める。
更に進むと・・・
ドンドン獣道に成って行く。

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てか、都会育ちの人はコレ見て❝道❞とは認識しないだろう(笑)。小生が円海山の近くで育って山の中を駆けずり回って遊んでたから道に見えるだけ。実際は多分、遊歩道だったんだと思うが現在の林市長に成ってから円海山も遊歩道の整備が滞って通行止めの場所が増えたりしているので、ここも放置されてしまったんだろうか?
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昔の市長が整備した跡だろう。樹脂製のフェイクの木柵が有る。多分円海山と同じで中田市長かその前の高秀市長の頃の物だろう。
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暫く行くと昔の岩盤が露出したり、昔のままの道に行き着く。
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その辺りから、山腹のここかしこに小さな平場が散在する様に成るし、尾根道の両端が人工的に裾切りされた切岸に成っている事に気が付き始める。
これ等の平場は、どこからどう見ても❝帯曲輪❞だろう。こんなん、遊歩道でも無いし、こんな崖地に畑を作る訳も無い。
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稱名寺を囲む金沢城に似ているんだな。
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ここは上行寺の西側裏手辺り、写真では判り難いが明らかに竪堀だ。
尾根も細くクビレて敵の侵入を限定しやすい。
山頂に行くまでも竪堀らしき場所が数ヵ所有った。
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そして途中で気が付いたのだが、開削された遊歩道に成っている平場の片側、岩盤を削り残した側は全て当時の六浦湊(みなと)側で、港側への防衛を意識した土塁と言うか岩盤の防壁の様に見てとれた。
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写真では判り難いが土塁の名残りの様な地形も続いていた。
これ、文献には出て来ず上行寺の伝承に残る荒尾城何じゃないかと思う。
実は直ぐ近くの上行寺東遺跡は源頼朝公と文覚上人が開いた浄願寺の遺跡だった。
頼朝公は森浅間神社の様に陣屋を置いた要塞の傍に神様や御寺を勧進する❝習慣❞が有った様だ。
それは港北区の三会寺もそうだし、南区の若宮神社も傍に後の蒔田城が有る。
多分、ここは六浦湊を守る場所としてスタートした要塞が起源の城で、六浦湊に鎌倉時代まで勢力を持って栄えていた荒井氏の拠点だったんじゃないだろうか?ここに烽火台を置けば東京湾沿岸部とも連絡が取りやすいし。
荒尾城址か? 久良岐のよし発見の城砦と思しき地形。
改めてGoogle earthで見てみると、有るわ有るわ森に埋もれた城址に良く見られる空堀跡が森を横切り直線の凹みに成っている地形。今度、駒澤大学の某教授や御世話に成っている城郭縄張り図制作者の方に報告して置こうと思う。
さて、流石に城跡らしき地形は嬉しかったが「これ、絶対に浄願寺の遺跡には続いてない(笑)」と途中で気が付いていた。
なので丁字の分岐点まで登り、そこから引き返して改めて遺跡の入口に戻って来た。
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浄願寺廃寺は遺構も良好に最近まで現存した。
源頼朝公と文覚上人により造営された格式高い御寺で、誰でも国語の授業で習う❝徒然草❞の著者の兼好法師こと吉田兼好がここを気に入って滞在していた。吉田兼好は仁和寺の僧侶で浄願寺と同じ真言宗の和尚さんでもあった訳だ。何で吉田兼好が横浜市に滞在していたの?と思う人が少なくないと思うが、鎌倉時代当時金沢八景と呼ばれた、この地域一帯を治めていたのが金沢北条顕時(あきとき)公で、その邸宅が現在の稱名寺の場所だった。
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稱名寺は最初は金沢北条家の私邸で持仏を安置し拝む御堂としてスタートした訳だ。
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それが金沢北条家が熱心な学者でもあり、隣の谷に文庫を創設して日本のみならず世界中の文献を収集しまくったので、武家初の私設図書館と成り、現代では東の正倉院と呼ばれる程、鎌倉~室町~戦国~安土桃山~江戸の各時代を通じて仏僧と武士の一大学問所と成った。
その金沢北条家の北条顕時公の執事を務めたのが兼好法師の実兄の吉田兼雄公だったそうだ。
まぁ、そんな訳で六浦と金沢八景と金沢文庫と野島は平安~近代まで文化醸成地で景勝地だったのだが、その景勝は横浜市によって埋め立てられ先述の通り消滅した。
一方、浄願寺自体も新田義貞の兵乱で戦火に巻き込まれ略奪され多くの御寺と神社が消えたのと同じく、一度廃寺に成った。しかし戦国時代、菅原道真公の御子孫で太田道灌公に与力していた菅野家と太田道灌公によって金沢区洲崎に龍華寺として復興され寺脈は受け継がれた。
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その龍華寺には太田道灌公、北条早雲公、徳川家康公も滞在宿泊し支援した歴史が有る。
そんな歴史の浄願寺跡の上行寺東遺跡だが、ライオンズヒル建設準備中に横浜市が開発許可を出した事が明るみに成り、大きな問題と成った。
鎌倉市や横浜市の郷土史家や学者や文化人と市民が激怒し、大問題に発展させ新聞にも取り上げられたが開発利権が当時の市長に有ったのか無かったかは不明だが、破壊を強行され消滅した。
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遺跡と看板に書いてあるが事実は違う。
チキン横浜市教育委員会が己の悪行に自覚が有ったのか意味の無い張りぼてで消えた遺跡の一部を複製し神仏の天罰と市民の批判から己等の罪を粉飾するかの様に造ったのが上行寺東遺跡な訳だ。
だから上行寺東遺跡の主要部は意味の無い張りぼて。
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造形保存とか言ってるが、開発許可を踏みとどめられなかった教育委員会の体面保つ方便。
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この遺跡の入口には神社も有る。
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鳥居は神明造り。
でも何の御祭神化は解らない。海を守る場所、そして皇祖神系の神様を祀る神社に用いられる事の多い神明鳥居なので八幡社だろうか?恐らく御祭神は八幡大菩薩こと応神天皇、本来の御名前を大伴別命(おおともわけのみこと)と言い、別名の誉田別尊(ほんだわけのみこと)も有名な神様だろう。
源頼朝公の幕府設立に協力した千葉家や荒井家の祖先と思しき三浦家は皆、鶴岡八幡宮の八幡大菩薩を勧進して神社を造営したので恐らく、港を守るこの丘にも八幡様が迎えられたんじゃないだろうか?
看板が何も無いので神様も由来も解らない。
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残念。この御神紋も何の神様に用いる物なのか良く知らない。
八幡社なら波切紋の筈なんだけれどな・・・。
その左隣には小生をいつも守って下さる御稲荷様がいらっしゃった。
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ちゃんといつも守って頂いてる御礼と、次の訪問先で又無事に御会いする事が出来る様に御願いを申し上げた。
その御稲荷様の反対に上行寺東遺跡が在る。
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これ全部張りぼて。
こんな大規模なコピーする位なら市有地を土建屋に代替して開発諦めさせれば良かった物を・・・
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本当に勿体ない、完璧な鎌倉時代の御寺の文化だ。残っていればどれだけ貴重な史跡に成ったか。
鎌倉市の無量壽院址に匹敵する規模と保存状態だった筈だ、横浜市が容認するまでは。
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この矢倉は本物。
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映さなかったけど隣の矢倉は色々置かれてごみごみしてた。
一頻(ひとしき)り写真撮影をしてから、上行寺を再訪して荒尾城址と思しき地形の事を御住職に報告した。
六浦訪問の目的を全て終え、少し汗ばみ夕涼みしたく成ったので野島に移動した。
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野島の伊藤博文公の金沢邸の縁側で海を見ながらの夕涼みと、来月、甥っ子と姪っ子を連れてキャンプに来るので、ついでに案内所に手続きの事等を確認する目的も有った。

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ここは無料で見学出来るし縁側に座って夕涼みしてユックリ時間を過ごせる。
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まぁ、解説も充実してるし。
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建物の由来や、各時期の出来事とリンクした内容の解説は読んでいて面白い。
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ここで松越しの海と八景島を見ながら600円で抹茶と和菓子を頂いてボ~っとしに小生はたまに来る。
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金沢八景の解説や、伊藤博文公の生活やここで大日本帝国憲法の草案を起草した解説が有る。
ここに来ると伊藤博文公が朝鮮の王族と非常に友好な関係を築いていて、朝鮮王族が度々、伊藤博文公の金沢別邸に遊びに来て宿泊していた事実も知る事が出来たりする。
韓国人が知っても絶対に認めたくないだろう歴史事実だな。
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伊藤公の御蔭でゆっくり出来た。
建物を出て、キャンプ場の下見に移動。
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夏島が見える。あそこにも昔は旅館が在って、そこでも憲法の草案を考えていたそうだ。
風景綺麗だったんだろうね、本当に。
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その夏島の前に有るのが日産自動車追浜工場、昔の本社工場。そして戦前戦中を通じて横須賀鎮守府の海軍飛行場だった場所。
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だから戦時中に作られた零戦の格納庫が野島に現存していたりする。
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まぁ、今では存在を余り知る人はいない。
ここまでの徒歩5分程度の間に沢山の紫陽花を見る事が出来た。
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来週位には鎌倉の紫陽花も満開に成るだろう。
零戦の格納庫の前一帯がキャンプ場に成っており、予約すると誰でも利用する事が出来る。
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その奥には野島青少年研修センターと言う場所が有り、20人以上の団体から宿泊する事も出来る。
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大学生のサークルやボーイスカウトが良く利用するそうだ。
素泊まりなので食事は付かず、自炊。
施設内に炊事場も有るが、キャンプ場を予約しておけばBBQ施設を使う事も出来る。
詳しい事は職員に聞くかネットを見ると良いと思う。
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キャンプ場について職員さんに色々と質問をして無事確認終了。
後は当日の天気が良い事を祈るのみ。
てな訳で野島の野島稲荷神社に移動した。
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以前も個別の紹介記事で書いたが、ここは紀州徳川家の崇敬を集めた御稲荷様だった。
何故なら現在のキャンプ場の辺りには紀州徳川家の別荘が在ったのだが、それを知る人は今の横浜市民には少ない。
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大きくも小さくも無い神社だが、森に囲まれ雰囲気は良い。
御狐様が出て来そう(笑)。
小生が子供の頃はこの社殿の裏側の崖に掘られた階段を上って頂上まで行く事が出来たのだが、今は危険個所扱いされ進入禁止にされてしまっている。
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神様に御祈りを終えて野島を後にした。
帰りしな家系亜種の六角家の直弟子が営む金八家で家系拉麺を食べた。
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ここの店主が修行した六角家は、元々は家系拉麺の創始者の吉村家の吉村実社長の直弟子で信頼され本牧家を任せられていたのだが、有る時に従業員全員を引き抜き退職、吉村社長の恩を仇で返す様に六角家を開いた神藤と言う人間の店だが昔は吉村社長の弟子達の家系の中でも有名な店だった。
まぁ因果応報と言うか、現代では吉村社長の直営店や別の吉村社長の直弟子の店等に取り囲まれ閑古鳥が鳴いている。
しかし六角家は新横浜ラーメン博物館のオープン当初に入店したり、昔は人気だった。だが吉村家等が更に味に研鑽を積み発展した中で六角家は勢力を縮小して現在に至る。
吉村社長と全く関係ない工場でスープを作る❝偽家系❞のチェーン店が最近は多くなっているが、金八家の店主は言い換えれば❝本物の吉村社長の孫弟子❞で本当の家系❝亜種❞の拉麺を食べられる店な訳だ。
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内装はとてもオシャレ。
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これなら女性にも入り易いだろう。
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店のキャラクターも可愛いな。
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味玉増しで注文、本流の吉村家や杉田家と比べるとアッサリ目、醤油タレの強さは控えめで確かに女性向けなのかも知れない。
家系総本山吉村家とは少し違うが、これはこれでちゃんと血統を受け継いでいる分家の流派の味として家系のセオリーを守っていて美味しい。
店員の皆さんも明るく、雰囲気も良かった!
まぁ、師匠は不義を働いたかも知れんが、更に厚顔無恥な工場生産スープの偽家系に対抗する勢力として家系を守って欲しい!
改めて言う、とても美味しかったですよ!

この後スポーツジムに行き
運動して風呂入ってサッパリしてから帰宅した。
良い休日を過ごせたし、又、素晴らしい和尚様と御縁が結べた事が嬉しかった。
次の休日はどんな人に出会えるんだろう?

野島稲荷神社
【御祭神】宇迦之御魂神=倉稲魂命(うかのみたまのかみ)・・・伏見稲荷大社の御分霊。
【御利益】経済的な繁栄(弥生~古墳時代に於いては食料の豊穣の神、更に古代には清涼な飲み水の神)
【開基】西暦1227年、鎌倉時代に長島頼勝による勧進。※泥亀新田開発者の永島祐伯の祖先か?
【中興】紀州徳川家
【住所】横浜市金沢区野島町23
【アクセス】シーサイドライン野島公園駅~徒歩10分。京浜急行金沢八景駅~徒歩20分。有料駐車場有り。
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野島と言う、昔は島だった場所に野島稲荷神社と言う規模の余り大きくは無く目立たない稲荷社が在ります。
その場所、実は紀州徳川家初代藩主の徳川頼宜公が崇敬した神社なんですが・・・
「何で紀州徳川家と横浜が関係有るの?」
・・・と思う人がきっと多いと思います。
そこで神社の説明の前に、先ずは野島の説明からしようと思います。

京浜急行電鉄に金沢八景と言う駅が有りますが、この駅名が昔、金沢区に在った八ヶ所の景勝地に由来する事を知っている人は現代では余りいないかも知れません。
その場所は・・・
●小泉夜雨(こいずみやう)=小泉弁才天(現:手子神社)の周辺の埋め立て前の風景。金沢文庫駅辺り。
●称名晩鐘(しょうみょうばんしょう)=称名寺の山を埋め立て前の海の公園辺りの海上から見た遠景。
●洲崎晴嵐(すざきせいらん)=現在の町屋町の龍華寺前に在る洲崎神社周辺の埋立前の景色。
●瀬戸秋月(せとしゅうげつ)=金沢八景駅前の瀬戸神社周辺の埋め立て前の景色。
●乙艫帰帆(おっともきはん)=現在の海の公園~洲崎辺りの埋め立て前の海から野島の乙艫町を見た風景。
●平潟落雁(ひらがたらくがん)=現在の野島周辺の宅地に在った湾の埋立前の風景。
●野島夕照(のじまゆうしょう)=野島の埋め立て前の風景。
●内川暮雪(うちかわぼせつ)=現在の内川橋周辺の埋立前の風景。
・・・歌川広重と言う江戸時代の著名な画家が、その景色を浮世絵にして販売した事で江戸市民にも大人気の旅行地と成りましたが、現在では昭和の埋め立て工事等で永遠に完全に消失してしまいました。
歌川広重 金沢八景:称名晩鐘
上の画像は今の八景島辺りが海だった時代、そこから見た金沢称名寺の山の風景です。
この風景はもう、現代人は永久に見る事が出来ません。
過去の風景を知るには、過去の人が残してくれた資料からしか様子を知る事が出来ないんですね。悲しいけれど。
金沢八景を知りたければ、3箇所、その風景画を見られる場所が有ります。
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1つは八景島シーパラダイスに架かる連絡橋。
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その欄干に歌川広重の金沢八景を金属板に起こした物が展示されています。
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この展示はカラーでは無いので今一つ解らないかも知れませんが、絵の由来が説明されていて理解しやすいかと思います。
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2ヵ所目の金沢八景を見られる場所は、上の称名寺と下の金沢文庫博物館を繋ぐトンネルです。
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このトンネルの壁に、金沢八景の画の複製がはめ込まれています。
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※称名寺の記事は「ココ」←クリック!
このトンネルで見なくても、金沢文庫博物館に原本も所蔵されているので閲覧申請をすれば見られるかも知れませんが小生は試した事は有りません。
そして、詳しい情報が解る場所がもう1ヶ所あります。
そこが野島公園内に在る、初代総理大臣、伊藤博文公の別宅です。
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江戸時代の紀州徳川家の別荘地だった野島は、明治時代に伊藤博文公の別荘地でもあった訳ですが、この別宅の中に金沢八景を詳しく紹介した展示物が有ります。
※伊藤博文公の金沢別邸の記事は「ココ」←クリック!
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こんな感じ。八景島の橋の欄干のカラー版と言った所でしょうか?
因(ちな)みに、鎌倉時代~戦国時代にも金沢八景は景勝地として有名だったので、八景の一つ、洲崎の地に建つ龍華寺は兼好法師の別名で有名な吉田兼好、北条早雲こと伊勢盛時公や徳川家康公の宿泊地でもありました。
※龍華寺の記事は「ココ」←クリック!
ここまで読んで頂ければ、野島が如何に風光明媚な土地だったかが解るかと思います。
そんな訳で景勝地の一つだった野島に、徳川頼宜公が別荘を建てて風景を楽しんでいた訳ですが、その鬼門鎮護として紀州徳川家の崇敬を受けたのが野島の御稲荷様だった訳です。

この様な横浜市の景勝地は特に昭和期に多くが乱開発で消え失せました。
杉田梅林や、金沢の八景が最たる例です。
横浜市は現在の林文子市長を含め歴代に市長の中に、日本歴史文化や日本の風景を大切にしない土建屋や港湾関連の組織票を票田にしている人物が少なくありませんでした。つまり低文化で知識に欠け景色と歴史の重要性を理解出来ない風流を理解できない人達が歴代市長に居る訳ですね。
横浜市教育委員会を含めた横浜市職員は、当然ながら地方公務員なので市長によって人事権を掌握されているので、市長が無文化だったり反日的な人物だったりすると市長の意を組んで歴史遺産や景勝地や自然を土建屋に開発=破壊させての土建屋と政治家の建築利権を確保させてしまいます。
現在の林文子市長も、横浜市内で最大最後の自然植生の大森林で自然公園の円海山瀬上池~瀬上沢周辺を、東急グループに宅地開発させようと策動しています。現に、開発を擁護する発言をしてバッシングを受けているのは栄区民、磯子区民、港南区民、多くの神社や御寺の氏子檀家さん達の知る所です。
仮に開発されれば林文子市長や、与党の候補者は市民感情逆なでしヤリ玉に挙げられた上で、史跡と自然の破壊者として過去帳等に記録され後世に悪名を残す事に成るでしょう。

さて、そんな過去の景勝地野島に紀州徳川家と関連も有った野島稲荷神社が有る訳ですが、現在では参拝客も減ってしまい、本殿裏から野島の頂上に通じた道も通行止めに成ってしまったりしています。
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でも小生は、とても雰囲気の有るこの神社が好きです。
伊藤博文公の金沢別邸に抹茶を飲みに行くと、たまに野島の御稲荷さんにも足を延ばして散歩します。
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何だか、御狐様が巫女さんに化けて境内を箒(ほうき)で掃除してそうな雰囲気の有る神社なんですよ!
この本殿の裏に、小生の子供の頃まで登れた崖を削って作った小さな石段が有ったのですが、現在は通行禁止に成ってしまいました。
こうやって少しづつ寂れて、将来廃社に成ってしまうかもと思うと小生は凄く危機感を感じてしまいます。
現代人は神社や御寺で自分勝手に願掛けはするのに、昔の人の様に神仏に対して願いが叶った際の御礼参りと御布施すらしませんからね・・・。
そして学校教育には左派で日本文化迫害を好む教職者も多くいるようです。ですから、学校で歴史の話を語る時に絶対に御寺や神社の伝承や関わった人物なんて教えてもらえません。そうすると、自分の地元の神社仏閣が凄い歴史偉人と関わりが有ったり強い御利益が有ったり、古代の史跡の上に建っている事を知らずに育ってしまうので、反日的な教育を受けた某隣国系のヤクザが多く入り込んでいる土建屋と左派政治家の好き放題に日本の自然と史跡と宗教施設の旧境内地が破壊されて日本の風景がどんどん劣化して無機質な町が増えてしまい風流さも伝統の欠片も無いコンクリートだけの町に成ってしまうんですよ。

ですから皆さん、御近所の山や御寺や神社を是非散歩して見て下さい!
町中に残る山は平安時代~戦国時代の史跡で有る事が多いですし、神社仏閣は小さくても、鎌倉時代や戦国時代の英雄や御姫様と関わりが有る場所が沢山有ります。

この野島稲荷神社が、その典型的な例なので紹介して見ました。
町の中の小さな神様の御社や御地蔵様を見かけたら、心の中で声をお掛けして、手を合わせて見て下さい。

無論、神社仏閣だけでなく我々の住む横浜には幕末に英国によって建てられた山手聖公会教会等も横浜市の歴史の一部に成って行き、我々異国文化にも寛容な日本人に史跡/文化財として大切にされて行く事でしょう。

皆さん、町の中の御寺や神社や自然の湧水池や森や山を散歩してみませんか?
きっと其処は、過去の神様に成った縄文~弥生時代の偉人達や鎌倉武士や戦国武将と我々を繋ぐタイムマシーンに成ってくれるはずですから・・・
 

横浜市金沢区に野島公園と言う市立公園があります。
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場所は金沢八景駅の近く、八景島シーパラダイスの海を挟んだ対岸です。

近くにはシーサイドラインも走り、その風景はよくドラマに登場します。
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この島は江戸時代に周囲が干拓(かんたく=埋め立てられる事)され入江新田や平潟新田や泥亀新田と陸続きになりました。 

今ではキャンプ場とバーベキュー施設のある市民の憩いの場に成っています…
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島内には昔から周辺の漁民や「暴れん坊将軍の吉宗公の祖父の徳川頼宜」から愛された野島稲荷神社があります…
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暴れん坊将軍って、本当にあの暴れん坊将軍ですよ!
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実はこの「島の南端に紀州徳川家の別荘が在(あ)った」んです。
ですからこの神社にも度々、将軍吉宗公の御爺ちゃんが御参りに来ていたんですね。
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その神社の隣が先ほどの写真のキャンプ場スペースなんですが・・・
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その更に先には遊歩道があり、遊歩道越しに掘割り状の海を挟んだ先に日産の追浜工場とテストコースがあります。

何故(なぜ)、こんな場所に日産の工場や走行テストコースが有るのかと言うと・・・
実はここは横浜市内ですが、横須賀市とのすぐ隣の境界地域なので、昭和初期に今の日産の敷地は「海軍の飛行場」だったんです。 
写真では日産の敷地の対岸に八景島も見えていますね…
その更に海の先には石川播磨重工の敷地があり、そこは今でも米軍と自衛隊の「軽空母や護衛艦のドッグ」として整備施設の役割を担っています。

そんな「昭和の横須賀鎮守府」の隣の島だった野島ですから、太平洋戦争中の遺構も当然あります。
実はここ、「零式艦上戦闘機の日本最大の格納庫」の防空壕跡が今でも残っているんです。 IMG_5263


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格納庫には今では入れません。
中を覗(のぞ)くと真っ暗で少々不気味ですが、ここは作られただけで実際に戦火に巻き込まれる事無く終戦を迎えました。

野島はこれよりもっと日本国民にとって大切な史跡としての建築物が残っています。
初代総理大臣の伊藤博文の別宅です。
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今でもちゃんと管理され、誰でも無料で拝観でき、500円で海を眺めながら御抹茶と落雁(らくがん=和菓子)を頂き、ゆっくりのんびりと時間を過ごせます。

野島の先には夏島があります。
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何で野島公園が文化的に大切かと言うと、この伊藤博文の別宅は「大日本帝国憲法の草案が纏(まと)められた場所」だからなんです。
対岸の夏島にも伊藤博文の別荘があり、そちらでも草案を構想していたそうです。

つまり、野島公園は日本人が法治主義による近代民主国家の道を歩み始めた第一歩目の土地なんです。
福沢諭吉先生が唱えた国家体制と役人の腐敗を招く儒教との別離、脱亜入欧を模索し始めた時期ですね。
中国に先立つ事100年前の法治主義国家化です。

その後、明治大正と法治主義と民主主義のまともな時代を迎え、日本帝国の陸海軍人は「あらゆる国際条約」である「万国法」を理解した文武両道の道を進み、欧米諸国から秋山真之さんや柴五郎さんは激賞され勲章を授与されました。
しかし…
昭和に入り社会主義集団の"一夕会"による国会乗っ取りと陸軍の人事権掌握が為されてから、日英同盟日華同盟に有った「万里の長城を越えて中華民国の領土に侵攻せず」と言う条項を陸軍が破ってしまった事で、日英日華同盟は破綻してしまい、アメリカの経済制裁に正当性を与えてしまい日本の苦境が始まる事になります…
この事は昭和天皇も憤慨し陸軍の指揮官を戒告しています。

もし!
中華民国が袁世凱に乗っ取られる事無く、知日派で民主主義者の孫文先生により中国大陸を民主国家化近代化が成功して日本の心強い味方に成っていたら…
社会主義独裁を目指した一夕会の暴走が無かったら…
日本帝国陸軍を暴走させず、共にアジアの発展に平和的民主主義的にアジアを近代化させていたんだろうか?

歴史に「i f」は有りませんから・・・

今、現在を生きる我々が日本の国益と国民生活の向上と親日国との共存共栄と発展を考えていかないといけないですね…




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