歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

タグ:金子家

平安末期以来の武士金子家と岡本家が守っていた要害化された“観音山”と言う山が横浜市にありました。
Google mapに簡単な解説投稿しました。
御興味ある方は御覧下さい⤵️
現代では近くの横浜横須賀道路建設の影響か地図から山の名前も行政によって消されてしまっています。
戦国時代の岡本家と金子家の主流は北条家臣として北条所領役帳にも登場します。
岡本家は綾瀬市辺りを治め、金子家は鎌倉時代には青梅市を治め戦国時代には北条家臣化し新横浜駅近くの篠原城の城代を務めました。
磯子区域の両家分家は1560年頃には笹下城主間宮与力となり、磯子区の岡本家は江戸時代には分家し徳川直参旗本に成った氷取沢間宮家の宿老となり江戸在住の氷取沢間宮の殿様に代わって氷取沢陣屋を守り続けました。
氷取沢陣屋の跡が氷取沢神社の旧境内地です。
岡本家は直系の他にも能見台辺りを治めた野本家から婿入りした家が有り、それぞれに屋号が今も残ります。
屋敷家、藤左衛門家、酒屋家、星山家、前家等です。
其々の由来を推測すると面白いですね。
屋敷家は陣屋を守っていたのでしょう。
藤左衛門家の左衛門は官職名由来で、左衛門は間宮家が付家老として仕えた上官、北条綱成公の左衛門督に由来する官職です。
間宮家は豊前守(ぶぜんのかみ)と左衛門尉(さえもんのじょう)を代々名乗っていました。
氷取沢市民の森は今では鳥の囀ずり美しい緑地に山城地形のふんだんに残る遊歩道です。
過去に間宮家や岡本家や金子家や氷取沢周辺磯子区の関連記事を幾つか書いています。
以下にリンクを貼るので御興味有る方は御覧下さい。











mixiチェック

横浜市都筑区には茅ヶ崎城と言う、市内で三本指に入る保存状態の良い城址が在ります。
茅ヶ崎城を紹介した以前の記事→

その目の前には名前を現代の漢字を用いると正覚寺と書く、とても雰囲気の良い御寺サンが在る事を横浜市民にも、この地域住人以外には余り知られていません。
CIMG2854
この御寺は市内では珍しい天台宗寺院で、正式な名前を長窪山 總泰院 正覺寺と言います。
新編武蔵風土記稿には、江戸時代当時の境内地の“敷地面積5万7千6百坪”と記録が有り、途轍(とてつ)も無く広大な敷地に建物が建つ寺院だった事が解ります。
茅ヶ崎城から近く、茅ヶ崎城に来る度に門構えの立派さに感心させられる御寺だったのですが、面白い事に御寺を開いた人物が「岸清左衛門さんの御先祖様と」言う事しか解っていません。
なので小生は、てっきり茅ヶ崎城址からは煤けた米等が確か出土していたので、“戦火に巻き込まれて江戸時代の中興開基以前の事は解らないのだろう”と推測していましたが、改めて新編武蔵風土記稿を読むと以下の様な記載が有りました。
正覚寺文書 秀吉禁制
これ見ると解りますが、江戸時代の学者で新編武蔵風土記稿の編集長だった間宮士信さんの注釈で“秀吉の小田原攻めの時”に出した味方豊臣勢と敵軍の北条勢の両方に対して出した命令です。
内容は簡単にこんな感じです・・・
「小机(領)の中の茅ヶ崎の中の總泰院(正覚寺)と、その観音堂で乱暴狼藉(略奪)とか放火とか禁止するし、仮に命令違反したらソッコーぶっ殺すから」
・・・まぁ、そんな内容で秀吉が正覚寺を保護しているので、茅ヶ崎城は戦火に遭っても正覚寺は、戦国時代には燃えてなかったみたいですね。
つまり、間宮士信さんは安永6年(1777年)生まれの人なので、正覚寺は恐らく安土桃山時代~1777年の間に火災が発生して重要な文書なんかがあらかた無くなってしまったんでしょうね。
CIMG2856
とは言え、この御寺は素晴らしく雰囲気が良く、鎌倉の浄妙寺や報国寺、英勝寺に似た雰囲気を持っています。
と、言うのもこの御寺、山門をくぐって直ぐに竹林が参拝者を出迎えてくれるのと、鎌倉時代の寺院特有の谷戸構え(やとがまえ=山の尾根の谷間に建築物を構える)の御寺なんです。
CIMG2857
ですから、周りの住宅街の喧騒が響き伝わらず静寂で清々しい雰囲気がするからです。
正覚寺と茅ヶ崎城の位置関係 久良岐のよし
この様な谷戸の地形に御寺を建てるのは鎌倉時代に多く見られる特徴でもあります。
詳しい事は伝わっていないのですが、御寺の立地から推察して鎌倉時代の開基の寺院だと小生は思います。
恐らく、昔は茅ヶ崎城の武将と何か関係が有ったのでしょう。
所で、御寺を開いた岸清左衛門サンの御先祖様は座間家の可能性が間宮士信さんによって指摘されています。
座間家は今の座間市発祥の坂東武者で鎌倉武士ですが、この土地に移って来たのは戦国時代に北条家臣に成った頃か、鎌倉時代の話かは小生は把握していません。
鎌倉時代初期には直ぐ横の茅ヶ崎城は摂津源氏の惣領、多田行綱(ただゆきつな)公の居城だった事から、もしかしたら多田行綱公が正覚寺の前身寺院を開いていたのかも知れませんね。
CIMG2858
お寺に入ると直ぐ左右に御地蔵様と庚申塔の石仏が控えてらっしゃいます。
CIMG2859
御地蔵さんって、「可愛い」って言うと失礼かも知れませんが、赤い頭巾がが可愛らしいですよね~。
実は、この様に御地蔵様や多くの石仏群を参道に祀る習慣が有る宗派は天台宗や真言宗等の古仏教に多く見られる事なんです。
そして明治時代に神仏分離令が施行されても、真言宗と天台宗は歴代天皇家と関りが深かった事から歴代天皇の価値観を守る為に、神様を御寺から排除しなかった場所が多いので、やはり、この御寺も境内に神社が在ったりします。
CIMG2860
神社と御堂の分岐点までは雰囲気の良い石畳。
CIMG2861
右手に池と蓮、そして本堂と庫裡と鐘楼。
左手奥に神社が在ります。
CIMG2876
山王山大鷲神社(おおとりじんじゃ)。
CIMG2878
大鷲(おおとり)は鷲(わし)と書いて鷲(とり)と読ませます。
実は関東で最古の大社格の神社は埼玉県久喜市鷲宮の鷲宮神社(わしみやじんじゃ)でして、縄文時代~の遺跡を内包する聖地なのですが、この鷲(わし)は和邇(わじ/わに)=丸子(まるこ=わじ/わに)に繋がります。
この一族は出雲神族で、その御神孫が関東を開拓した歴史を鷲宮神社を含め関東の延喜式内社の中でも縄文時代の遺跡を抱える大山阿夫利神社や比々多神社等でも伝えています。
そして、この正覚寺の直ぐ近くには大塚歳勝土遺跡という場所が在って、そこからは多くの方形周溝墓が出土しています。
方形の古墳は朝鮮半島の影響を受ける以前、直接中国大陸の漢帝国と交易をしていた時代の文化です。
つまり藤原氏が朝廷を仕切りだす前後数百年の円墳より古い漢帝国と直接交易をしていた時代の文化が正覚寺近くに在ったのですが、この都筑区茅ヶ崎の正覚寺に大鷲神社が在るのも大塚歳勝土遺跡と無関係では無いかも知れませんね。
合祀され神社の名前に成っている山王権現は天台宗の守り神、比叡山の日枝神社の神様の山王権現こと猿田彦命ですね。
CIMG2879
この他にも現在は御堂こそ失われている様ですが馬頭観音様も石仏として祀られていました。
この土地を治めた鎌倉武士の騎馬供養でしょうかね~?
庶民には道中の守り神として人気の神様でした。
CIMG2862
この御寺は梅雨の頃には昔から紫陽花(あじさい)の御寺として地元民に親しまれて来たそうで、小生と同じく写真撮影をしていた初老の紳士がおっしゃるには「昔はもっともっと紫陽花が沢山あったんだ」そうです。
CIMG2864
池の前を通り本堂へ・・・
CIMG2866
う~ん住宅街に似つかわしくない立派な御寺なんです、本当に。
だからやっぱり戦国時代には座間家の菩提寺だったのかも知れませんね。
CIMG2871
扁額に揮毫したのは金子保さん、もしかしたら武蔵七党の坂東平氏の分家一族、金子家の御子孫かも知れませんね。
金子家は今の埼玉県、昔の武蔵国入間郡金子から発生した姓の武士です。
座間家と同じ程に由緒正しく、戦国時代には新編武蔵風土記稿を書いた間宮士信さんの御先祖様の間宮綱信公やその実兄の間宮康俊公等の間宮等と同様に、北条一門の方面軍を束ねる殿様の付家老として活躍した北条重臣の一族です。
戦国時代には金子家が新横浜駅直ぐ裏の篠原城の城代を務めていたりしました。
以前書いた記事→
因みに新幹線新横浜駅篠原口の名前の由来でもあったりします。
CIMG2872
池の前には阿弥陀堂が在りますが、近年の建築です。
CIMG2874
鐘楼はとても古寺の雰囲気を醸し出し、周囲を取り囲む谷戸の山林にマッチしています。

さて、今回はアジサイの写真をまだ撮影していないので掲載出来ませんが、素敵な御寺なのはなんとなく伝わったでしょうか?
皆さん、もしセンター南駅に来る機会が有ったら、駅から徒歩10分と近いので正覚寺や茅ヶ崎城址を散歩して、歴史に触れてみては如何でしょうか?
そして自分の地元の御寺サンや神社や御城の跡の山や公園を散歩してみませんか?
きっと、正覚寺に豊臣秀吉の禁制古文書が伝わっていた様に、思わぬ歴史偉人と繋がりが有ったりするかも知れませんよ?
そして、説明看板を読んで、そんな発見が有ると更に地元にも愛着が湧き、誇りも感じる様に成るかも知れません。

さて、今日の解説はここまで。
では又、次の解説記事で御会いしましょう~♪


mixiチェック

↑このページのトップヘ