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タグ:金沢八景

小生の住まう場所は横浜市最大最後の蛍の大生息地である円海山の長い坂を下った辺りでして、そこから良くピカソと言う港南区港南台のドン・キホーテ系列の店に買物に行くのですが、その隣に韓国料理屋が在(あ)ります。
経済産業省から何とかって賞(笑)を頂いてる店で焼肉を押している店ですが、韓国の家庭料理がとても美味しいんです。
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羅生門
小生は今でこそ韓国人の中の反日思想を敵対的に観察していますが、本来は韓国料理や韓国文化はソレはソレ、コレはコレと分けて考えていて好きです。昔は韓国人の友達も沢山いました。
今では疎遠ですが。
韓国料理は今でも好きなんですよ~。
それで、ピカソに買物に行くとたまに羅生門で‟焼肉じゃなく(笑)”て韓国料理を食べます。
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羅生門は新しい店ではありませんが店内もとても綺麗で、でも家庭的な雰囲気も有ってとても好きなんです。
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まぁ~一般的な日本人の韓国料理に対するイメージって焼肉なので、ここも焼肉のコンロがあり焼肉屋としても横浜市南部では名店として名が通っています。
最近食べた物ですが・・・
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テグタンのクッパ
テグタンってのは大邱(テグ)と言う都市の郷土料理で、牛骨と牛肉を煮込んで出汁をとった見た目と違って優しい味のスープでして、クッパなので、それに御飯が投入されています。
これで830円。女性なら1杯食べれば御腹いっぱいに有ると思います。小生は晩御飯がわりに食べました。
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冷麺
サッパリしてて茹で卵やキムチや煮豚も入ってますから夏バテ対策にも良くランチに持って来いですね。羅生門の面は白いので蕎麦粉が入ってないタイプらしい。
これも850円なので拉麺と同じ位の値段でランチでも夕食でも良いですね。夏に拉麺食べる元気無ければ冷麺食べるか気温でチョイスすれば食欲無くても食べられる。
そして小生が略(ほぼ)毎回注文するのがモツ煮込み。
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赤々として辛そうですが旨味が先行し優しい味です。
日本人が想像する普通の日本風焼肉屋のモツ煮込みとは味が違って韓国料理のモツ煮は臭みが無くてとっても美味しいんですよ。
あと、御酒飲まない人には飲んで欲しいソフトドリンクがあります。
写真撮影忘れましたがwirukinnsonnのジンジャエール、市販の瓶の飲料ですが良く見るジンジャーエールよりも生姜が強くてとても美味しいです。余り置いてる店が無いので羅生門に行く機会が有れば是非試して下さい。

さて小生の個人的な韓国料理の思い出を少し・・・
テグタン、小生の特に好きな料理です。小生の留学仲間に大邱大学の連中が何人かいてとても仲良くしてくれたので知った懐かしい料理です。中国にも在中韓国人が多くて中国の日本料理屋みたいに中国人がやってる訳じゃなくて韓国人の開いた韓国料理屋が沢山有って良く食べました。
小生は仕事で中国に行ったり生活経験も有るのですが、中国って夏は気温40℃位の日が多くて油っこい中華料理を毎日食べる気力が無くなるんですよね~。
そうすると日本人が夏バテで食欲減退して最初に食べるのがパンなんですが、最近まで中国って美味しいパンの店がすくなかったんですよ。
それで中国で夏バテ中に次に日本人は昼はインスタント味噌汁とか飲み始めたり、和食料理店に行くのですが味噌汁だけじゃ栄養無いし、和食料理も安くない訳です。
そして最後に頼るのが韓国料理で、サッパリした冷麺とチャプチェとかの家庭料理は夏バテしてても食べられて体力を補給するのに重宝しました。
留学当時は韓国政府と韓国人政治家が竹島問題を起こす前で政治的にも日韓関係も悪くはなく、韓国キリスト教系のカルトが日本の神社仏閣で油を撒(ま)いたり石仏破壊するテロを始める前だったので小生も韓国人に対して政治的な問題を認識しておらず良い印象が先行していて在中国韓国人の友人が沢山いたりしましたしね。
日本でも、良く当時の彼女(日本人だよ)さんと一緒に妹夫妻が結婚する前にWデートしに新大久保に韓国料理を食べに行ったりしてましたから。

まぁ~政治的な理由で疎遠に成るのは仕方ないと思うんです、双方曲げられない事が有りますからね。向こうには立場、こちらには事実が有りますからね。
そんでも相手が友人でも政治的な議論や歴史的な議論に成ったらバチバチやり合えばイイと思うんです。個人的な利益や居心地の良さの為に日本人として間違った歴史認識や日本国民の利益を損なう事を相手に譲歩したり御機嫌取りで行ってしまっては、益々韓国人に対して間違った事を既成事実化させてしまい、更に日本人や韓国人全体で見た時に不仲に成る種を撒き散らす事に成りますからね。

韓国の人ってね仲良く成ると親切ですし、大半は紳士なんですよ凄くね。でも儒教国でママにチヤホヤされて育った我儘男の比率が諸外国より多いからか乱暴な奴や韓国の価値観を外国に居るのに他国留学生に押し付ける強烈な困ったチャンな奴が多くて、紳士と横暴2タイプの人種の落差が極端でしたね。
紳士で本当に物腰柔らかいリアルなヨン様か、反対に自分勝手でガキな俺様しかいなかった。
それと韓国人留学生は酒飲むと暴れる奴とか常に団体で行動して悪事も庇い合うのは問題でした。反面、仲が良いと集団で親切にしてくれる。
良く韓国人の留学生が日本人留学生とモメると韓国人留学生の先輩や卒業生が、某留学先大学で日本人留学生協会を立ち上げた小生に謝りに来て交渉したり(交渉てのはウヤムヤにしてくれって事)、それは韓国人と文化の違いですかね~裏で面子立ててくれって話しつけたがる。
まぁ色々有ったけど政治や歴史を除外すれば親切で気持ちの良い奴等ばかりでした。
でも社会人に成って直ぐ頃から日韓の外交対立と偽商標登録等の政治的な問題が大きく成って、彼等とSkypeやMSN messengerで討論に成り彼等は開き直って自己主張ばかりしたので小生は日本人として彼等の知らない歴史を話し抗弁し、韓国の問題も指摘したら疎遠に成りました。
まぁ~その辺の小生の知る韓国人に対して感じた文化の違いや、韓国政府が韓国人に教えない歴史や日本人も知らない伊藤博文公が韓国王室を守り日本国内の韓国王室廃止派から韓国の皇子を守っていた歴史なんかも以前紹介しているので御興味有る人は以下のリンクから過去記事を御覧下さい。
タイトルをクリックすると各記事にリンクします⤵
伊藤博文公の金沢別宅で夏の終わりの夕涼み。…横浜市金沢区野島。
最近の在日外国人差別について物申す。差別じゃなくて「区別せよ」と。
  保守なら天皇家の歴史観を否定するなよ。

円海山で蛍が観察出来る季節です。
  横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。

そして思うんです・・・
韓国料理‟も”超ウマいよ~!
・・・てね、ソレはソレ、コレはコレ。御互いの違いを理解した上での付き合い方ってのも有る訳です。

皆さんは金沢区釜利谷南一帯が埋め立てられた元は海だった場所と言う歴史を御存知でしょうか?
小泉夜雨 葛飾北斎 
昔は小泉と呼ばれた地域なんです。その風景の美しさから旧北条家臣であり北条与力大名だった蒔田吉良家の家臣の子孫の画壇の弟子であろう歌川広重こと安藤広重が日本屈指の風景の美しい場所だった旧金沢地区の八ヵ所の景勝地を描いた❝金沢八景(かねさわはっけい)❞の風景で江戸時代に特に有名に成りました。
現代の横浜市役所は2018年時点の市長も築地育ちだったり役人も就職する為に市外からの移民してきた様な連中だらけのせいで金沢八景(かなざわはっけい)と❝誤った❞読み方が定着し、横浜の歴史や景観や文化を理解していない連中の政治のせいで、歌川広重よりも更に古くは源頼朝公や兼好法師や鎌倉公方足利持氏公や太田道灌公や北条早雲公や徳川家康公が宿泊して遊覧する程に愛した金沢八景の八ヵ所の海も埋立られて消えてしまいました。
しかし、歴史書を読むと現在も無文化政治で消された平安~明治時代の景勝地だった頃の名残りを辿れるタイムマシーンの様な場所が現存している事を知る事が出来ます。
今回と次回、2回に分けて紹介する金沢区釜利谷南の❝手子神社❞と金沢区瀬戸の瀬戸神社&琵琶島弁才天は正にそんな歴史偉人達が愛した神社であり眼前まで金沢の海の入江だった歴史を辿れる場所なんです。
さて、今回は先ずは規模が小さく地元民以外には知名度も低くなってしまった手子神社から紹介したいと思います。
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手子神社は現在の釜利谷南に存在し、湾曲する川の前に在ります。
実は現代では横浜市役所の人間ですら知る人も少ないのですが、この湾曲した川が昔の入江の海岸線の名残であり、小泉と呼ばれた陸地の場所なんです。
そして小泉(こいずみ)の地名の由来は手子神社に在る境内社の名❝小泉弁才天❞が関係してると推測出来ます。
先ずは昔の海岸線に金沢区の主だった神社仏閣を表示させて位置関係を見て見ましょう。
金沢八景位置関係
白い部分が昔の海岸線で、この様に多くの島と半島に囲まれた入江が複雑に入り組む京都の❝天橋立❞や静岡県浜名湖の❝今切❞の様な素敵な風景が広がる日本屈指の観光地だった事が旧地形からも窺い知る事が出来ます。この海の一番奥の部分、金澤の海で鎌倉からの間道を抜けて来て最初の港が小泉弁才天こと今の手子神社の在った辺りなんですね。
さて、では何で手子神社の境内社の小泉弁才天の御祭神が弁天様である事で地名の由来が推測出来るか解説しましょう。
弁天様は明治以降は厳島神社と名を変え御祭神も市杵島姫命に習合された場所が多くありますが、これは明治時代にキリスト教プロテスタント信者の政治家達が主導した神仏の宗教改革でヒンドゥー教系の神様である弁才天=サラスバティ―を否定する動きが有ったので水の女神様である市杵島姫命を歴史を知らない宗教家達が習合してしまったからなんですね。
弁天様を市杵島姫命に習合したのは明治時代に国家神道を作り上げたプロテスタントキリスト教徒政治家達の大きな誤りで、実際は宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)に弁天様が習合された歴史が有るのだから、神仏分離を励行するのならば弁天社の御祭神を宇迦之御魂神に再度お戻しした上で弁天様としても祀れば良かったんですが、歴史を知らない明治のキリスト教徒と過激な水戸学に洗脳された連中はそんな事を理解も出来なかったみたいですね。
因みに水戸学を創始した水戸光圀は狂人でした。彼は藩政に末代まで残る借金を作り領民に重い重い課税を課した悪の政治家で、領内の八幡宮を全て破壊し、挙句の果てに犬を大量屠殺して生皮を剥いで将軍徳川綱吉に送り付ける残虐な人間でした。若い頃はヤンキーで、女とヤッたヤラないと言う下世話な会話を士分にも関わらず普段からヤンキー仲間として廻り、石合戦と呼ばれる暴走族同士の抗争の様な事をやっていたのが有名な話なのですが、明治の宗教改革をやった連中が水戸学信者だらけなので彼のイメージが全く実情と異なるイメージに造り変えられたんですね。

さて、水戸光圀が嫌ったヒンドゥー教由来の八幡信仰や弁天信仰ですが、弁天信仰を日本に浸透させた主だった人物の一人は実は源頼朝公です。他にも三浦半島の平氏の三浦家等もおります。
元々は財神と言うか生活に密着にした❝富=豊かさ❞の神様として日本では宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)が水源や湧水地の洞窟に祀られていました。
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鎌倉市には宇賀福神社や・・・
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・・・扇谷山海蔵寺と言う御寺が在り、今も鎌倉文化を良く守り伝えていますが、その境内には両方とも水が湧く洞窟が在ります。
海蔵寺の洞窟には蛇に身体に美女の顔の蛇神様が祀られています。
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一方、後に源頼朝公が弁天様を習合した宇賀福神社はどうでしょうか?
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御神体の蛇の神様は撤去されていますが、やはり銭洗い弁天と呼ばれる泉がありこんこんと湧く水で満たされていますね。
天皇家の勅願所だった歴史の有る江ノ島の岩屋、つまり江島神社の発祥地にもやはり泉が存在し欽明天皇や源頼朝公が聖地として大切に守りました。
その聖地では宇賀福神社と同じく現在も蛇美女の女神様の石像が散見されます。
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そして海に浮かぶ島なのに淡水の水の豊かな泉が現在も存在しています。

さて、小泉弁才天=手子神社に戻り境内を見て見ましょう、そうする事で小泉の地名と弁天信仰が関係する事が解かります・・・
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手子神社(別名:小泉弁才天)
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先ず最初に昔の海岸線の端っこの丘だった場所にあるので石段を登りますCIMG6702
前の橋が昔の海の名残。
石段の右手には社務所が在りますが普段は無人です。
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昔は宮司さんが住んでたのかも知れませんね。
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石段の横には立派な樹も生えています。
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社殿は現在では小規模、町の中の神社としては普通より少し小さい位ですが立派な彫刻の梁です。
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簡素な扁額には手子神社と書かれてあります。
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でも新編武蔵風土記稿等では手子明神(みょうじん)と書かれており、本殿の御祭神の大山祇命(おおやまづみのみこと)も明神様として祀られた修験道系の神社だった事が解かります。
それもそのはず、この神社を開いたのは戦国時代に金沢領主だった北条家臣伊丹家の子孫で、江戸時代初期に浅草の天台宗系の大寺院として有名な浅草寺の住職、僧正だった智樂院忠蓮僧正が父の伊丹昌家公の代まで伊丹家の所領だった釜利谷の総鎮守として金沢八景駅前の瀬戸神社から御分霊を勧進したのが始まりですからね。天台宗は真言宗と同じく修験道を重視する宗派でもあります。
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石段の左右には躍動感溢(あふ)れる狛犬さんが参拝者を威嚇しています。
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悪い者が来ない様に魔除けの聖獣として神社を守ってらっしゃるんですね。
本殿の左手に小泉地名由来の❝小泉弁才天の正体❞がいらっしゃいます。
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竹生島の弁才天様の御分霊ですね。
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そして手子神社の御神像はやはり海蔵寺や江ノ島と同じ蛇の女神様。
これが元々、先に紹介した小泉で有名だった❝瀟湘の松❞の下に水神様として祀られていた弁天様を享保八年(1722年)に❝宇迦之御魂神=弁天様❞を鎌倉文化形式で洞窟を穿って御祭りしたのに由来します。
つまり、最初の祀られた瀟湘の松の辺りにすでに入江を守る水神様として存在していた事が解かりますが・・・
鎌倉時代に弁天様として信仰された宇迦之御魂神は水神様でも泉の神様であり豊穣の神様=富の神様なので経済軍事音楽と美と水の女神の弁天様が習合された歴史が有ります。つまり小泉の地名の由来は海辺なのにも関わらず小さな泉が湧き出ていた場所に元々は存在したであろう歴史が推測出来る訳です。
その弁天様は昭和十五年に現在地に移転させられて来たので訳が解からなく成ってしまった訳ですね。
そして、この竹生島弁才天は恐らくは本殿の神様が瀬戸神社から勧進された様に、セットで瀬戸神社の琵琶島弁才天様から勧進された竹生島弁才天の御分霊の御分霊であろう事も推測出来ます。

さて、伊丹家にが同地の領主だった歴史は以前に禅林寺の歴史を紹介した時にも解説しているので御興味有る方は御覧に成って下さい。
これ記事リンク⤵
竹嵓山 禅林寺は最後の鎌倉公方足利持氏公と成氏公親子が開いた御寺、鎌倉公方の終わりの歴史解説と・・・金沢区釜利谷東
小生の推測では恐らくは浅草寺の伊丹入道智樂院忠蓮僧正と同じく、昨年悲惨な宮司の姐と弟で殺人事件が起きてしまった東京深川の富岡八幡宮の宮司家も伊丹家の御子孫でしょう。名前に伊丹家の通名の一字が御二人共に含まれていましたし、東京深川の富岡八幡宮は源頼朝公が開いた横浜市金沢区富岡の富岡八幡宮の御分霊でやはり伊丹家と関わりが深い場所ですからね。

そんな平安時代末期~江戸時代の歴史が辿れるのが、この手子神社なんです。

きっと皆さんの御近所にも小さくなっても凄い歴史偉人が崇拝した神社や御寺、そして御城の跡の山や公園が在ると思います。
・・・ですから皆さん、ちょこっと気分転換に緑の綺麗な神社や御寺や城跡を散歩して見ませんか?そうすれば皆さんと歴史偉人を時間を超えて結んでくれる、地域の誇りを見つける事が出来るかも知れません。悩んだ時に歴史偉人の御霊に話を聞いて貰うだけでも、悩みが楽に成るかもしれないし…


瀬戸神社と手子神社・・・②瀬戸神社は歴代幕府と将軍家が大切にした神社(瀬戸神社歴史解説編)。の記事に続く・・・







皆さんは平安時代末期~鎌倉時代を通じて❝坂東武者の鑑(かがみ)❞と評された名将の畠山重忠公を御存知でしょうか?
きっと少し歴史が好きな人ならば必ず名前を聞いた事の有る名将だと思います。清和天皇の直系子孫で臣籍降下した源氏一族を代表する武将であり鎌倉幕府を樹立した征夷大将軍の源頼朝公に最も信頼された人物が畠山重忠公でした。重忠公の所領は今の埼玉県南西部辺りでしたが、実は畠山家の御一族が鎌倉市や横浜市に御縁が深かった事を知る人は移住者だらけの現代横浜市民には❝知る人ぞ知る❞と言った所でしょうか?
横浜市金沢区釜利谷南と鎌倉市の鶴岡八幡宮の直ぐ隣りに現在も伝承地の石碑や供養塔が残っています。
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江戸時代の歴史学者地理学者であった間宮士信サンが❝新編武蔵風土記稿❞と言う文書の中で疑いの余地有りと推測しているものの❝畠山重保公墓❞として紹介している場所です。
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伝畠山重保墓
※住所クリックでGoogle mapにリンクします⤴
普段は御墓の写真は掲載しないのですが、史跡としても又、現代では余り横浜市との関係を語られ無くなった武家の名家畠山家との御縁を再認知して貰う為に畠山重保公の御霊に御活躍して頂きたく、敬意を込めて供養塔の在る御廟所の写真を掲載させて頂こうと思います。
この畠山重保公は鎌倉武士を代表する名将の畠山重忠公の御子息でした。
今日は横浜市金沢区の史跡であり畠山家の武将、畠山重保公の❝御霊を供養する御廟所❞の紹介をする為に、少し源頼朝公と畠山家と源氏最大の協力者の三浦家との因縁(いんねん)を交えて解説したいと思います。
さて、源頼朝公の最初期の協力者として有名な武将は以下の方々でしょうか?

【坂東平氏の祖、桓武天皇の孫の平高望王の後裔達】
●三浦家・・・三浦半島を治めた一族。
三浦義明公、岡崎義実公、三浦義澄公、和田義盛公、佐原義連公、真田義忠公等・・・
●鎌倉家・・・旧鎌倉郡の鎌倉市~藤沢市域を治めた一族。
村岡家(鎌倉の権五郎御霊神社の2015年迄の宮司家)、懐島(大庭)景義公、梶原景時公等
●中村家・・・伊勢原市~小田原市~湯河原等の西湘を治めた一族。
中村重平公、土肥實平公、土屋遠宗公等
●千葉家・・・房総半島北部を治めた一族。
千葉常胤公、千葉胤正公、相馬師常公等
●秩父家・・・埼玉県域を治めた一族
熊谷直実公等。

【宇多源氏の祖、醍醐天皇の皇子の敦実親王の後裔達】
●佐々木秀義公、佐々木経高公、佐々木盛綱公、佐々木高綱公等

【秀郷流藤原氏の後裔】
●比企尼、比企能員公等。
さて、冒頭で鎌倉武士を代表する名将の畠山重忠公や今回の主役の畠山重保公の名前は源頼朝公最初期の協力者として登場しませんが、歴史好きなら誰でも知ってる石橋山合戦で源頼朝公が反平家政権の挙兵を行った際、以前は源氏の家来だった畠山家は平治の乱での源氏が衰退すると平清盛公に従属して平家政権の豪族として武蔵国の軍権を任せられる程に❝平家側❞から信頼されていました。
まぁ、能力高く真面目な人でもあった様なので源氏からも平氏からも重用された人物だった訳です。
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その当時の重忠公を模写した人物画や彫像は小生の知る限り現存していないと思いますが、畠山重忠公が着用した武具は現在も武蔵御嶽神社に奉納された物が現存し、真紅の威しで結った煌(きら)びやかな鎌倉武士らしい甲冑を着用した華実兼備(かじつけんび)の武者だった事が窺い知れます。
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写真は鎌倉市歴史文化交流館に展示されているレプリカ。同館は写真撮影自由の珍しい博物館。
鎌倉市歴史文化交流館この畠山重忠公の母上は三浦義明公の姫君でしたが、源頼朝公が兵300を率いて石橋山で挙兵した時に京都で勤務していた畠山重忠公は平清盛公に代わって武蔵国の兵20000の大軍を率いて源氏討伐を任されてしまう立場に成りました。真面目だった畠山重忠公は職務を全うしますが、祖父の三浦義明公率いる三浦党は三浦半島の衣笠城(横須賀市)で挙兵し源頼朝公を支援しました。
そして畠山重忠公の大軍は鎌倉逗子境の住吉城を手始めに三浦家の葉山町桜山の鐙摺城~本拠地の衣笠城を攻める事と成ります。
三浦義明公は衣笠城に手勢で籠り、子息の三浦義澄公や佐原義連公や孫の和田義盛等の三浦一族を久里浜の怒田城の舟倉から水軍で房総半島に逃がす時間稼ぎをして最期は自害したと伝わります。
コレが後の畠山家と三浦家の決定的な対立関係を生む因縁と成りました。
因みに三浦義明公がいなければ源頼朝公は佐原義連公や和田義盛公等の軍略家や軍政家を配下に出来ず、組織立ち上げすら出来なかったかも知れないし横須賀市佐原城主の佐原義連公と横浜市茅ヶ崎城主の多田行綱公が献策した鵯越の逆落としと曲解された迂回挟撃も発生せず源義経公と源範頼公兄弟による挟撃は成功するはずも無く日本は東西に分れ戦況は膠着し鎌倉幕府は樹立されなかったでしょう。
この話は以前に幾つか書いた関連記事が在るので下記にリンクを貼って置きます。
●三浦義明公と衣笠城址。源家最大の盟友、坂東武者の鑑。…三浦半島横須賀市。
●満昌寺…源頼朝公の開基の三浦義明公菩提寺…横須賀市衣笠
●清雲寺…三浦(横須賀市大矢部)…三浦家の菩提寺
●平良文公と二傳寺。日本全国の平氏系大名の祖先。…藤沢市渡内〜村岡。
さて、この真面目で華やかで高い能力の有った畠山重忠公には汚れ役も任された逸話も残されています。
その舞台は鶴岡八幡宮と美しい由比ヶ浜です。
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鎌倉市を代表する鶴岡八幡宮、その朱漆塗りの舞殿は現代では結婚式が執り行われる場所として、参拝客も新郎新婦から幸せの御裾分けをして頂ける場所ですが・・・
ここは鎌倉時代には拝殿や舞台の役割をした施設で、この舞殿から鶴岡八幡宮の本殿の台地を取り囲む様に渡り壁が伸びていました。そして、ここは頼朝公の実弟の源義経公の側室だった❝静御前❞が義経公の子を妊娠した身体で舞を舞った舞台でもありました。
当時、源義経公は源頼朝公に反逆し奥州に逃げていました。そんな中で身重の静御前は逃避行から脱落して頼朝公側に捕縛され鎌倉に連行されてきました。静御前が子を妊娠している事や義経公と一緒に逃避行した愛情の深さに対して、女性として恋愛に情熱的な人物だった北条政子様は大変に同情されて源頼朝公に対して静御前の助命嘆願を自ら行いました。すると源頼朝公はこう条件をつけました・・・
1、生まれて来る子が女子なら生かす。
2、男子が生まれて来たら敵対するので殺害する。
・・・これは頼朝公にしても鎌倉幕府を運営する武士達にとっても非常に静御前に対して寛容な条件で許している事が判ります。何たって敵対勢力に成った人物の奥さんの命と生まれて来る子も女児なら助けると保証している訳ですからね。
しかし不幸な事に生まれて来た義経公と静御前の子供は姫ではなくて男児でした。
この死刑執行を任せられたのが源頼朝公から❝生真面目さ❞と❝能力❞を信頼されていた畠山重忠公でした。静御前の生んだ男児は由比ヶ浜に生き埋めにされたと伝承しています。
もしかしたら・・・殺したと幕府御家人達には報告させて頼朝公の密命で助けたかも知れませんが、まぁ伝承では由比ヶ浜に埋めた事にされています。
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今では夏が来ると海水浴客で賑わう材木座~由比ヶ浜の砂浜や砂丘は実は平安時代頃からは❝公共墓地❞として利用された土地だったので、最近でも発掘調査をすると人骨が普通に出て来たりするのですが❝霊感が有るニセ霊能者(笑)様達は、この辺で何も感じない霊感音痴だらけ❞の様ですね(笑)。
ついでに言えば鎌倉市で戦火に巻き込まれていない場所の方が少ないし、昔は鎌倉の小学校の校庭に砂には普通に風化した昔の人の人骨が混じってるのなんて有名な話だったんですよ!
小生達、地元神奈川の人間だけでなく関西人の司馬遼太郎先生ですら、この事を御存知で❝街道をゆく❞シリーズの鎌倉散策の巻で逸話として紹介していたりします。
さて、この義経公と静御前の嬰児の話の舞台の一つが由比ヶ浜なのは恐らくは❝嬰児の処分❞の命令を受けた畠山家の鎌倉市内での御屋敷が由比ヶ浜と鶴岡八幡宮の隣接地に存在した事に由来すると小生は推測しています。
正確に言うと幕府に出仕していた畠山重忠公の御屋敷が鶴岡八幡宮の横に存在し、海側にも畠山家の別宅が在り畠山重保公等の家族も住んでいた様です。
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大蔵幕府跡鶴岡八幡宮から東に行くと源頼朝公の邸宅兼幕府役所の機能が在った大蔵幕府跡の清泉小学校一帯に大正時代の郷土愛の強かった生粋の神奈川県民の鎌倉町青年会によって建てられた顕彰碑が有ります。
ココと鶴岡八幡宮を結ぶ謂(い)わば源頼朝公の邸宅の最終防衛ラインに成る中間地点の横浜国大付属中学の一帯が畠山重忠公の屋敷地と伝わり、やはり大正時代に鎌倉町青年会が建立した顕彰碑が今も観光客が歩く景色の一部として現存しています。
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畠山重忠邸址さて、源頼朝公は相模川に架けた大きな橋の開通式に参列した際に前日から❝ヒ素中毒❞ぽい症状の記録が残る状態で式典中に馬上から落馬して死んだ事にされていますが、小生は北条時政と稲毛重成の義理の親子による暗殺事件だったと推測しています。小生と同じ説の歴史ファンも結構多いんですよ。
この頼朝公の死の後、鎌倉幕府の御家人達は各家毎に集団として分裂の様相を呈して有力武家vs有力武家の権力抗争が始まってしまいました。鎌倉幕府最初の危機ですね。
この権力闘争で最も権力に執着した梶原景時公は実務力と謀略に優れた知将で頼朝公亡き後も跡継ぎで二代将軍の源頼家公を補佐していましたが、最初期から他の武将をハメてまで出世に執着したので最初の犠牲者に成り、鎌倉御家人66将連名による連判状で弾劾され幕府を追放、更に殺害されました。
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因(ちな)みに相模国一之宮の寒川大社の門前に梶原景時公晩年の居館が在りました。
梶原景時公の次に犠牲に成ったのは比企能員(ひきよしかず)公でした。
比企能員公の実伯母(おば)であり養母の比企尼は源頼朝公の乳母(うば=授乳係兼養育担当者)だった御縁で頼朝公と非常に信頼関係が深く、比企尼の三女の平賀義信公に嫁いだ姫も二代将軍と成る源頼家公の乳母を務めた家柄でした。源頼家公が不可解な危篤状態に陥ると更に不可解な事に未だ頼家公が亡くなっていないのに北条時政が独断で源頼家公の財産分与を取り仕切る事態が発生しました。これも小生は北条時政によるヒ素を用いた暗殺未遂だと推測しています・・・
頼家公は運よく回復すると事の顛末(てんまつ)を比企能員公から聞かされるや北条時政討伐の謀略を比企家や近臣と計画します。
・・・しかし、これが運悪く母で北条家の人間の北条政子様に聞かれ北条時政に通報されてしまいます。北条家との縁が深い源実朝公擁立を鼻から画策していた北条時政は先手を打って比企能員公を北条家の邸宅と要害城を背後に抱えた名越邸に「仏事で相談があるからチョット来てyo~♪」と軽く、且(か)つ本当は源頼家公と比企家と頼家公近臣達が北条家討伐を画策している事を知っているのを微塵も感じさせない様に呼び出し、比企能員公を逆に暗殺してしまいました。
そして・・・
その次に標的に成ったのが頼家公の近臣だった畠山重忠公です。
畠山重忠公史跡二俣川古戦場 久良岐のよし
今の神奈川県運転免許試験場から程近い帷子(かたびら)川~二俣川や鶴ヶ峰は八王子街道から連結する渡河地点でした。「鎌倉で事件が発生した!」と北条家に嘘の連絡をされた畠山重忠公は130騎の兵で埼玉県の菅谷館から馬を走らせ駆け付ける途中、二俣川の河畔で対岸に北条家率いる鎌倉幕府軍20000の大軍を目の前にして全てを悟り、潔(いさぎ)く「ここを死地とする」と覚悟を決めて応戦しました。
因みに、この合戦で畠山重忠公は弓の名手の愛甲季忠公に射殺され討死しました。
愛甲季忠公は現在の厚木市一帯に勢力を誇った古豪で、鎌倉幕府で糟屋有季公等と並び屈指の弓射の名人でした。
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小野神社
愛甲季隆公は神奈川県内で14座しかない延喜式内社の神社の一つ、閑香大明神小野神社を平安時代に支援した事でも有名な人物です。
さて、二俣川の合戦で圧倒的な劣勢の畠山重忠公は自ら弓を取り奮戦し、鎌倉時代を代表するスナイパーの愛甲季隆公に射殺されて討死にしたのですが、御子息で鎌倉にいた畠山重保公も殺害されました。
その異変の発生を鎌倉で察知した畠山重保公は「鎌倉から山中を逃げて来て、この辺りで自害した」と横浜市金沢区釜利谷一帯には古くから伝承しています。
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でも新編武蔵風土記稿の編集者だった間宮士信サンの部下の記者は、この伝承を以下の文章で否定しています・・・
「按に東鑑(吾妻鏡)元久二年六月二十二日の條に、寅刻、鎌倉中驚遽軍兵競争于由比濱之邊、可被誅謀叛之輩、畠山六郎云々・・・(以下省略)」
・・・つまり、❝「鎌倉の由比ヶ浜辺りで謀反を画策した畠山六郎が誅された」と書かれているから、金沢区の畠山重保公がここで自害したのは誤りだ❞と指摘しているのですが、これは悪いが間宮士信公と部下の記者の推測がいい加減だと言えるだろう。
まず、吾妻鏡の内容は「誅罰の兵が差し向けられ戦闘に成った」情況の説明しか書かれておらず、又、討死したとも書かれていない!
そして記者が理解していないのは、この墓所の有る場所は立地が鎌倉~横浜市旧久良岐郡域~八王子~埼玉に抜ける八王子街道への最短ルートだったりする。
この記者の意見は一帯の南部には❝金澤道=六浦道❞と言う主要街道と円覚寺方面に抜ける鎌倉道が存在する先入観からの推論だろう。
伝畠山重保公御廟所位置関係 久良岐のよし
しかし、この畠山重保公の御廟所の場所は❝白山道❞と言う、新編武蔵風土記稿が書かれた頃にはマイナーな道に成ってしまっていた古道が眼前を通り、鎌倉の玄関口である朝比奈峠の切通しへ直結する最短ルートであり、更には久良岐郡の氷取沢へ抜ける六浦道のショートカットコースでもあり、六浦湾から船で逃亡も図れる逃走経路としては打ってつけの道なのだ。
由比ヶ浜の畠山邸から朝比奈峠を超えようとすると北条家の名越邸の眼下を通る必要が有るので、その道は恐らく通れなかっただろう。
当然ながら鶴岡八幡宮の横を抜ける巨福呂坂の切通も兵が待機していただろう。残る八王子街道へ抜けて~埼玉の畠山重忠公に危険を知らせる事が出来る逃走経路は❝金沢区の伝承どおり山中を超える❞しかない、即(すなわ)ち大蔵幕府背後の未開発だった地域の鎌倉カントリークラブや鎌倉霊園の獣道を無理矢理でも越えればショートカットの❝白山道❞まで逃げて来れる訳だ。
白山道は鎌倉幕府が滅亡して室町時代に成っても重視されていたので、最後の鎌倉公方で初代古河公方の足利成氏公が重視して宿泊所としても機能を持つ寺院を開基している。
以前紹介した禅林寺だな。
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竹嵓山 禅林寺そして❝伝畠山重保墓❞の地形を改めて見ると、ここが切腹するに相応しい❝施設❞が在ったであろう事が神社仏閣参拝や御朱印集めが趣味の人なら一目瞭然だと思おう。
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谷戸に囲まれてるんだよね、明らかに谷間を削平して丘陵を裾切りした人工地形。
しかも昭和の埋め立て迄は、この直ぐ近くまで海の入江が迫っていた。
平安~鎌倉~室町時代初期の鎌倉文化を受け継いだ神社仏閣と武士団の邸宅跡は修験道と真言宗の施設以外は十中八九が❝谷戸❞に邸宅や御堂が作られる場合がほとんどだったんだな。
だから、ここには江戸時代には名前も記録も伝わらなくなっていた寺院の跡か畠山家の景勝地金沢における船着き場近くの別邸が在り、畠山重保公は山を越えて来たものの菅谷館まで辿(たど)り着く困難を悟り、ここ白山古道前の六浦❝山中❞に在った何某(なにがし)かの施設内で自害したのではなかろうかと小生は推測する。因(よ)って新編武蔵風土記稿の❝この場所に対する解説に関しては❞解釈も地形と古道への理解も中途半端だと小生は断言出来る。
では、金沢区の禅林寺以外にも室町時代以前、鎌倉時代初期の武士達の横浜市や鎌倉市内における武士邸宅跡の伝承地を既に紹介した事が有る場所の記事で実例として列挙しておこう。
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鳥山八幡宮
・・・佐々木高綱公/佐々木泰綱公邸址、背後の鳥山地区は詰城で神社の前は旧道。正に金沢区の伝畠山重保墓と同様の立地。
※クリックで記事にリンク⤵
●横浜市港北区鳥山の八幡神社…鎌倉幕府の名将:佐々木高綱公の城跡
●2015/04/02時点の横浜の桜名所状況
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稲荷山 浄妙広利禅寺(略寺名:浄妙寺 旧寺名:極楽寺)
●浄妙寺 足利将軍家の祖先の菩提寺にして臨済宗鎌倉五山の一つ。紅葉も綺麗だよ!…鎌倉市浄明寺地区。
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亀谷山 寿福金剛禅寺
源家の本拠地…寿福寺。鎌倉市亀ケ谷。…北条政子様と源実朝公の菩提寺。
まぁ~他にも例を挙げればキリが無い。
そんな訳で、小生は伝畠山重保墓との現代の仮名で登録されている御廟所の主は伝承通り畠山重保公が自害した❝屋敷か御堂❞の跡地だと推測する次第だ。
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今では目の前はマンションが立つ。
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しかし隣接地の宅地の崖には、近くに寺院が有った証拠である矢倉=鎌倉文化の横穴式の御廟所跡が有る民家も在る。
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法輪塔も恐らく後世に再建立されている物だが、デザイン自体は三浦家の三浦義澄公や清雲寺の歴代三浦家御当主の物に酷似しているので最初の墓石を模造したか、谷戸なので劣化のスピードが遅かったのだろうか?
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卒塔婆(ストゥーパ)にはメジャー文献だけ読んでいても伝わらない畠山六郎重保公の戒名がちゃんと書かれています。
大圓鏡智 為 重安(=重保)院 龍嶽雲公大居士 祥月
ね?文献だけ読んでても現地に行かないと歴史には解らない事も有るでしょう?
だから歴史オタクは行動力が有る人が多いんですよ~。城ファンとか神社仏閣ファンとかね。
さて、この畠山重保公や御父上の畠山重忠公が領地の埼玉県西部や鎌倉市だけでなく横浜市一帯にも深い御縁が今では何気ない場所に成っている所で有った事を確認出来るの皆さんにも伝わったでしょうか?
きっと皆さんの御近所にも平安~戦国時代の武士達の城跡の山や歴史偉人の関わった神社仏閣や、古代からの聖地の池や泉や奇岩が有ったりすると思います。そして、そう言う場所は豊かな緑が残っていたりして散歩すれば疲れをすっ飛ばして癒してくれる、先人が我々に残して下さった文字通りのパワースポットや、昔の人が日本文化を残してくれた感謝を感じられる空間に成ってくれます。
・・・みなさんも御近所の山や神社や御寺を散歩してみませんか?

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう・・・って!
前回のこの休日雑記で⤵
【休日雑記】2018年05月13日の訪問先・・・友人と鎌倉の幻の遺跡ハイクと横浜駅で火鍋晩餐。
「さて、今回の休日雑記はここまで!
次は多米元忠公の解説記事の最終章を書きたいな~と思います!
その翌週からは暫く繁忙期と私用と神事と仏事が立て込んでブログ更新遅れたらすみません!」
・・・なぁ~んて書いてたのに全く関係ない鎌倉時代の史跡と偉人紹介してますね(笑)。

多米元忠公の記事、又、ゆっくり書きますよ~♪
では、今日は趣味の外国語学校とジムに行ってきますので、今週の記事はこれで!
皆さんにとっても、小生にとっても今日が良い日に成り、新たな1週間が実り有る時間に成ります様に~♬



浅草と言えば浅草寺と芸人の町として昭和には有名に成り、ビートたけしサン始め多くの話芸の達人を生み出してきました。
そんな浅草の浅草六区と言う町に“ホッピー通り”と言う素敵な飲み屋街が在るのを皆さんは御存知でしょうか?
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写真はホッピー通りの名物、もつ煮込みの店の一つです。こんな感じで道に迫り出す様に屋根とテーブル席が設けられていて、昼も日中から(笑)多くの観光客と地元客が御酒とツマミを楽しんでいる風景を見る事が出来ます。
後で位置関係は地図で説明しますので、先ずはアドレスだけ紹介します。
【ホッピー通り】
小生も余り通っている訳では無いので、その店が特に美味しいと言う記憶が鮮明に有る訳では有りませんが、外国人の友人が東京に来た時に浅草寺を観光案内してからココに連れて来ると大変に喜んでくれます。まぁ~、モツ煮が口に合うかどうかは別にして。
この界隈は浅草六区と言う町な訳ですが、感の良い人は「浅草ロック座」って無かったっけ?と別の店の名前で思い出すかも知れませんね。
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この写真を拡大して頂くと解りますが、六区の街頭には昭和の名俳優と芸人の写真が掲げられています。
浅草六区は芸人の町なので話芸と演芸の芸人を育てる素地が有ります。
浅草ロック座と言うのは浅草六区に在る有名な“ストリップ劇場”の名前です。
小生はヤクザが大嫌いなので、裏社会と繋がりの臭うストリップ劇場はおろか、パチンコの類、キャバクラや性風俗店を保守派として敵視している人間です。ですから小生は一生、浅草ロック座の御世話に成る事は無いでしょう。しかしながら、この店は芸人を育てると言う事に置いて非常に大切な役割を果たして来ています。
昭和の話芸の芸人達は多くが浅草ロック座で司会や前座として話術を磨き、そして芸能界にデビューしています。例えば冒頭で名を挙げたビートたけしサンやアズMAXの御父さんの東八郎サンがロック座から出世して行きました。
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ですから、この界隈は下町の宗教文化の賑わいと、芸人達の下積みの場、そして美味しい御酒の合間った明るく不思議な、そして裏では血の滲む様な泥臭い努力をしている人達が集まる混沌とした魅力溢れる町なんですね。
この場所、行き方が良く解らない人が多いので少し解説しますが、先ずはついでに浅草寺の夜景も紹介したいと思います。
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浅草寺と言えば雷門ですが地下鉄の駅から雷門へ向かう途中、アサヒビールの“金ウンコ(笑)”とスカイツリーが見えたりします。
その近くには立ち食いソバの“富士そば”が在りますが、実は富士そばの隣の甘味処の“西山”は幕末創業160年以上の老舗だったりします。
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この西山は元々は穀類や豆類の問屋から始まっている事も有り、今でも小倉餡や団子は自社で材料の調達から加工、調理提供まで行っています。
すっごく美味しくて、他の店と比較すると味の良さが格段である事が判ります。
位置関係の地図は最後に載せるとして先(ま)ずはアドレスを掲載して置きます。
【甘味処 西山】
さて、西山をもう少し西に歩くと道路を挟んで雷門の正面着きます。
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・・・写真でポーズをとっている人は気にしないで下さい。
この門、現代では“雷門”と言う誤った名称が一般的に観光客には誤認されていますが、本来は風神と雷神を祀る門なので簡略化するのなら“風雷神門”と言う名称が正しい所です。
日が落ちた直後の浅草寺はライトアップされとても綺麗な事を結構、観光客の方は知らないんですね。
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浅草寺界隈ではフザケたTシャツも人気の御土産に成っています。
因(ちな)みに仲見世の通りには江戸時代には塔頭(たっちゅう)寺院と呼ばれる、大きな御寺の支店みたいな小さな御堂が沢山建ち並んでいました。
さて、仲見世を通り過ぎると左手前方に五重塔が見えて来ます。
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ここも昼に見るより夜来た方がとても綺麗なんですね。
実はこの五重塔、現在は浅草寺本堂に正対して左手つまり西側に建っていますが、元々江戸時代には右手東側に建っていました。大火災等を経て、配置も色々と変わっています。
この五重塔の手前左側に行く道の“伝法院通り”が在りますので、そちらに進むと浅草六区の“ホッピー通り”に行くことが出来ます。
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御不動様も夜光に照らされ更に威厳の有る御姿を見せて下さいます。
そして本堂に向かって進むと山門(参門)と呼ばれる内門に当たる宝蔵門が観光客を迎えて下さいます。
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夜の濃紺の空にライトアップされて赤と金に光る宝蔵門はとても映えますね。
浅草寺は元々は天台宗の寺院で現在の東京都内では現存最古の寺院です。戦後に天台宗から分離独立して聖観音宗と言う仏教宗派の総本山に成りました。
実は小生の住む横浜市とは縁が深い御寺です。
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横浜市金沢区には手子神社(旧名:手子明神社/小泉弁才天)と言う神社が存在し、元々は源頼朝公が開いた瀬戸神社と言う神社の大山祇神(おおやまづみのかみ)の御分霊を祀る神社として開かれました。しかし新田義貞の鎌倉乱入の戦火や永享の乱等、鎌倉横浜周辺の神社仏閣は度々荒廃していました。
戦国時代に、この手子神社周辺を治めたのが小田原北条家の家臣の三河守(みかわのかみ) 伊丹永親(ながちか)と言う人物です。実はその孫に当たるのが江戸時代初期の浅草寺の高僧、權僧正(ごんのそうじょう)智樂院忠尊和尚様でした。その御縁から智樂院忠尊和尚様は祖父が治めた釜利谷の赤井村、坂本村、宿村の3ヵ村の総鎮守の神社だった手子神社の社殿を江戸時代初期に造営しています。
つまり神仏共に大切にする元は天台宗だった浅草寺の高僧らしい文化的な活動を、智樂院忠尊和尚様は祖先の故地、現在の金沢区釜利谷で行った歴史が有る訳ですね。
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ついでに手子神社境内には瀬戸神社の前に在る源頼朝公と北条政子様御夫妻が御息女の大姫の誕生祝に琵琶湖の竹生島から弁天様の御分霊を勧進して開いた琵琶島弁才天と呼ばれた琵琶島神社から更に御分霊を勧進した小泉弁才天の名で江戸時代に親しまれた弁天社が現存しています。
小泉夜雨 葛飾北斎 
この小泉弁才天は江戸時代に歌川広重によって“金沢八景の一つ、小泉夜雨”として景勝の地として浮世絵に描かれ江戸からの観光客で賑わいました。そんな訳で江戸時代初期には中国の明朝の滅亡時に亡命して来た高僧の東皐心越和尚様等によって紹介され全国的にも景勝地として有名だったので智樂院忠尊和尚様も祖先の治めた土地に誇りを持っていたんでしょう。
さて、そんな訳で浅草寺と横浜はとても偉い神仏共に大切にされた伊丹家出身の智樂院忠尊和尚様の御縁で結ばれているのですが、そんな神仏習合の文化を残す浅草寺宝蔵門の先に進むと、いよいよ浅草寺の本堂です。
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まぁ、ここまで紹介して何なんですが、夜間ライトアップの時間に成ると当然、本堂は閉門しており中に入って参拝は出来ません。
ですから小生の御薦めとしては先に一度、仲見世で御土産の購入を済ませて御本堂を参拝してからホッピー通りに行き夕食をとり、日没してから帰路に着くと夜の浅草寺境内を通って地下鉄の駅まで戻る事が出来て観光するには良いかと思います。
スカイツリーや上野動物園も見学するのであれば、そちらは早い時間に見学してしまう方が良いでしょう。

さて、浅草のホッピー通りと西山、良い御店でしょう?
もし浅草寺界隈に行く機会が有ったら是非!立ち寄って見て下さい。
ホッピー通りと西山と浅草寺界隈 久良岐のよし
最後に位置関係。
☆マークが今回紹介した店や、超有名な料理屋さんです。

では、又、次の解説記事で御会いしましょう。


神奈川県横浜市金沢区が日本屈指いやいや天橋立以上の世界レベルの景勝地として平安時代末期~江戸時代の間、各時代の日本の文化人や歴史偉人達から愛されていたのを御存知の方は今では余り多くはありません。
かろうじて京浜急行電鉄の金沢八景駅の駅名が、その景勝地の内で特に優れた場所が八ヵ所有った事を今に伝えています。
実はこの金沢八景を開拓し景勝地として世に知らしめたのが鎌倉幕府を開いた源頼朝公と真言宗の超有名な高僧の文覚和尚様で、その景勝地としての価値を文化的に高めたのが鎌倉幕府重鎮の金沢北条実時公、そして観光地としての価値を向上させたのが金沢北条貞顕(さだあき)公や兼好法師の名で知られる吉田兼好でした。
その金沢区の景勝地は江戸時代に成っても有名で、江戸時代初期には満州族の清帝国初代皇帝ヌルハチによって明帝国が滅亡した際に日本に亡命して来た東皐心越(とうこうしんえつ)和尚様によって絶賛され、その称賛の句中で"金沢八景"の地名が名付けられました。
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そして、江戸時代も中頃に成り浮世絵が流行すると歌川広重によって金沢の八景、8つの景勝地が絵に描かれ江戸市民に大流行し、当時の人々が目指した場所が“能見堂”と言う建物でした。
能見堂からは金沢の8ヶ所の景勝が一望出来たそうです。
今では明治時代の廃仏毀釈と言う宗教差別政策と仏教弾圧によって能見堂は荒廃し潰されてしまいましたが、今でもその旧跡は残っています。
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その付近から見る地形は、昭和の戦後に無文化な極左閥の人間が横浜市や神奈川県の教育委員会や土地開発部門に多く入り込んでしまったせいで埋め立て地利権で海は埋め立てられて、関東を代表する景勝地だった金沢八景の眺望は失われてしまいましたが、今でも江戸時代の人々が金沢八景を一望する為に訪れた能見堂緑地からは昔、島だった山々を見渡す事が出来ます。
金沢地形図 久良岐のよし
昔の金沢区はこんな島と半島の素敵な観光地だったんですね。
頼朝公以来約800年も歴代の統治者が守って来た日本屈指の観光産業の資源である景勝の海を埋め立てた戦後の横浜市長って・・・
本当に戦後の横浜市教育委員会や、左派と在日ヤクザ勢力に推薦されて当選した部類の市長は無文化だったんですね。今の市長もアレな人が最大支援者で、その勢力が熱望するカジノを埋め立て地に作ろうとしていますが、日本文化の価値観では死罪に匹敵するのが博打(バクチ)でしたが、本当、ヤクザと関わりの有る勢力の支援受けた市長は神仏の祟りに遭って反省して欲しい。
さて・・・
話は脱線しましたが、能見堂に話を戻します。
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現在では埋め立て地の住宅街に辛うじて取り残された緑地帯の中に能見堂が有りますが、隣接地域の能見台の地名はこの能見堂が存在した事に由来します。CIMG4702
・・・う~ん、この林道から見える平地が全部海だったらどれ程綺麗だった事か。本当に戦後の横浜市外の都市から職員に採用されて役人に成った無文化な連中は大罪を犯したな。
さて、能見堂を訪問する目印としては阿王ヶ台自治会館や能見台南小学校の辺りを起点にすると解り易いかと思います。
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そこから東に尾根に沿って進むと能見堂緑地の林道入口が数本有りますので、現地の人に道を尋ねてみて下さい。
尾根道を進むと下の写真の掘削されて造成された人口削平地形にぶつかります。
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これ、能見台の地名の由来に成った能見堂の跡地なのですが、今回の記事は能見堂を紹介する【前編】記事なので余り触れませんが、ここは現地を歩かずに本を編集した城郭学者も知らない青ヶ台城の残存する曲輪址だと小生は推定しています。
曹洞宗の寺として江戸時代も利用されたのが能見堂なのですが、そもそも地域一体が昔は“青野台”と呼ばれていて現代の間違った地名の“能見台”でもなければ“阿王ヶ台”でもないし、城郭の学者さんが書いた青ヶ台と言う地名でもありませんでした。
ちゃんと江戸時代の地理学者で東大の前身の昌平坂学問所の頭取だった間宮士信公が編纂した“新編武蔵風土記稿”には“青野台”と書かれています。そして旧住所の小名で“赤坂”と呼ばれた谷間の急坂を挟んで西青野、東青野と二つの台地が向き合い、その東西の青野台の連結部分が有った事も書かれています。
では、何で現代に能見堂や能見台は青野から能見と地名が変化したのでしょうか?そして阿王ヶ台自治会館の台地だけに青野台の地名の名残が残ったのでしょうか?
まぁ、ここら辺は【後編】青ヶ台城もとい青野城の記事で説明します。
今回はあくまで能見堂の解説。
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まぁ、能見堂の方の名前の由来は多分中国語に由来します。
元々青野台と呼ばれたこの土地の更に由来で有った能見堂の丘を海から仰ぎ見て呼ばれていた仰台(あおうのだい)の意味の地名を、寧ろ金沢八景を一望できると言う意味で能見台(能Neng見Jian堂Tang)=能(~する事が出来る)見(見る/会う)御堂と命名したのだろうと推察出来ます。
つまり(金沢の八ヵ所の景勝地を)一望出来たので能見堂と名付けたんでしょうね。
では能見堂の命名者ですが・・・
中国の仏僧は寺院の御堂に“堂”の字を使う事は有りません。一般的に広い御堂には“殿”を、神仏習合の場所や高僧や偉人を祀る場所には“廟”を、僧侶の居住区や塔頭には“坊”の字用いるので、“能見堂の命名者のセンス”からして中国から来た江戸時代の東皐心越和尚様でも無いでしょうし、それ以前に金沢北条家と同時代に近くの北鎌倉の建長寺にいた南宋からの亡命者の蘭渓道隆和尚様でも無いみたいです。
仮に御二人が命名するなら中国ネイティブのセンスから望景坊とか閲島坊と閲海坊とか名付けたかも知れませんね。
・・・恐らく、梅花無尽蔵に濃見堂として地名が登場するらしいので、漢文に造詣の深い万里集九と言う太田道灌公や北条早雲公と交流の深かった日本人の禅僧文化人によって日本風漢文で名付けられたんでしょう。この人物は室町時代の高文化な武士達と交流が深く東京都八王子市の高月城や神奈川県伊勢原市等の景勝地を観光して回った記録が有り、特に太田道灌公や鎌倉公方代理を務めた蒔田吉良成高公と親友だったので東京や横浜に所縁の深い人物でした。
そして後世、東青野の丘に能見堂址が有る事の方が有名に成り、現代人によって東青野台の地名が消され能見台とされたと言う訳だな。
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能見堂の近くには、昔の眺望を伝える説明の看板も設置されています。
・・・埋め立てた罪滅ぼしのつもりか?
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アンタ等教育委員会の仕事は破壊を止める事と市長に具申する事だろうが?ある意味三権分立の司法に近い存在で文化財と史跡と自然の景勝地を守るマインドが無いといけない筈なんだがな?
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能見堂の入口の手前には御覧の通り城時代の土塁が残っています。
ここを5m東に進むと、御寺時代の入口の階段が在ります。
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この細い階段を上って下さい。
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平安末期以来の景勝地を守る為に先人が建てた金沢八景根源地能見堂のこの石碑も、戦後の横浜市教育委員会と建設利権アホ左派市長のせいで無駄に成ってしまいましたね。つい最近の無力化。
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他にも先人達が各時代に、この景勝地を守る為に残した石碑が虚(むな)しく現存しています。
この先人達の努力も全て円海山の蛍の広域生息地の瀬上沢を開発利権の為に開発させようと保護を怠ってる林文子市長の様な以前の左派役人の埋め立て事業で無駄に成ってしまった訳です。
同様に最初の景勝破壊をした江戸時代末期の永島泥亀の罪も重いと思いますよ。
本当、戦後の横浜市のアホどもが移民だらけでは無くて金沢八景の景勝が残されていたら、今頃は東京から電車で30分の超絶景勝地として外国人観光客で賑わい、内陸部の六浦や金沢区の町屋や柴辺りや磯子区や港南区や栄区はリゾートホテルが残り栄えたでしょうね。
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まぁ、歴史にifは無い。今残るのは教育委員会の罪滅ぼしの説明看板のみ。
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こんな物でも埋め立てられた後しか知らない我々現代人の現役世代や学生にとっては貴重な情報源。
人間関係に例えるなら腐れ縁みたいな物だろうか。無くては困るけど、意味の無い物。
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この権現堂は多分、青ヶ台城の曲輪の一つだったので取り巻く様に土塁が残っている。
ここが城でなければ兼好法師は上行寺の境内地ではなくて、きっとここに住んでいただろう。
城で金沢北条家の晩年の軍事拠点だったので景勝地好きの兼好法師もここには来られなかった筈だ。
そしして江戸時代に能見堂を寺として支援した六浦藩の大名の米倉家は詰めの城として使う目的で青ヶ台城の土塁を権現堂周辺だけ残して寺院として機能保存したのだろう。
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城だったから飲み水の確保出来る井戸も有ったのだろう。
さて、今回は能見堂としての旧名青野台地区を紹介した。
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この通り本当に仰ぎ見る台地の尾根に能見堂の在って、その周辺が“東青野”と呼ばれた丘だった訳だ。
この界隈は地盤(断層)の動きで海没したり隆起する境目のはずなので、応長の大津波で近所の長浜千軒の港町が一夜で地盤沈下し海没した時の様に、昭和の埋め立て地もいつの時代か地盤が大地震で陥没して海に戻るかも知れない。
そう考えると・・・
失われた景勝が復活せず、多くの人が安寧に過ごせる様に金沢北条貞顕公や東皐心越和尚様の御霊に力を借りて神仏の御加護で次の関東大震災が来ても日本文化を愛する善良な部類の金沢区民の生命と財産を守って頂きたいと願うばかりだ。

後編へ続く→【後半:青ヶ台城編】世界屈指の景勝地だった能見堂と鎌倉幕府重鎮金澤北条家の居城青ヶ台城址・・・金沢区





野島稲荷神社
【御祭神】宇迦之御魂神=倉稲魂命(うかのみたまのかみ)・・・伏見稲荷大社の御分霊。
【御利益】経済的な繁栄(弥生~古墳時代に於いては食料の豊穣の神、更に古代には清涼な飲み水の神)
【開基】西暦1227年、鎌倉時代に長島頼勝による勧進。※泥亀新田開発者の永島祐伯の祖先か?
【中興】紀州徳川家
【住所】横浜市金沢区野島町23
【アクセス】シーサイドライン野島公園駅~徒歩10分。京浜急行金沢八景駅~徒歩20分。有料駐車場有り。
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野島と言う、昔は島だった場所に野島稲荷神社と言う規模の余り大きくは無く目立たない稲荷社が在ります。
その場所、実は紀州徳川家初代藩主の徳川頼宜公が崇敬した神社なんですが・・・
「何で紀州徳川家と横浜が関係有るの?」
・・・と思う人がきっと多いと思います。
そこで神社の説明の前に、先ずは野島の説明からしようと思います。

京浜急行電鉄に金沢八景と言う駅が有りますが、この駅名が昔、金沢区に在った八ヶ所の景勝地に由来する事を知っている人は現代では余りいないかも知れません。
その場所は・・・
●小泉夜雨(こいずみやう)=小泉弁才天(現:手子神社)の周辺の埋め立て前の風景。金沢文庫駅辺り。
●称名晩鐘(しょうみょうばんしょう)=称名寺の山を埋め立て前の海の公園辺りの海上から見た遠景。
●洲崎晴嵐(すざきせいらん)=現在の町屋町の龍華寺前に在る洲崎神社周辺の埋立前の景色。
●瀬戸秋月(せとしゅうげつ)=金沢八景駅前の瀬戸神社周辺の埋め立て前の景色。
●乙艫帰帆(おっともきはん)=現在の海の公園~洲崎辺りの埋め立て前の海から野島の乙艫町を見た風景。
●平潟落雁(ひらがたらくがん)=現在の野島周辺の宅地に在った湾の埋立前の風景。
●野島夕照(のじまゆうしょう)=野島の埋め立て前の風景。
●内川暮雪(うちかわぼせつ)=現在の内川橋周辺の埋立前の風景。
・・・歌川広重と言う江戸時代の著名な画家が、その景色を浮世絵にして販売した事で江戸市民にも大人気の旅行地と成りましたが、現在では昭和の埋め立て工事等で永遠に完全に消失してしまいました。
歌川広重 金沢八景:称名晩鐘
上の画像は今の八景島辺りが海だった時代、そこから見た金沢称名寺の山の風景です。
この風景はもう、現代人は永久に見る事が出来ません。
過去の風景を知るには、過去の人が残してくれた資料からしか様子を知る事が出来ないんですね。悲しいけれど。
金沢八景を知りたければ、3箇所、その風景画を見られる場所が有ります。
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1つは八景島シーパラダイスに架かる連絡橋。
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その欄干に歌川広重の金沢八景を金属板に起こした物が展示されています。
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この展示はカラーでは無いので今一つ解らないかも知れませんが、絵の由来が説明されていて理解しやすいかと思います。
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2ヵ所目の金沢八景を見られる場所は、上の称名寺と下の金沢文庫博物館を繋ぐトンネルです。
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このトンネルの壁に、金沢八景の画の複製がはめ込まれています。
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※称名寺の記事は「ココ」←クリック!
このトンネルで見なくても、金沢文庫博物館に原本も所蔵されているので閲覧申請をすれば見られるかも知れませんが小生は試した事は有りません。
そして、詳しい情報が解る場所がもう1ヶ所あります。
そこが野島公園内に在る、初代総理大臣、伊藤博文公の別宅です。
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江戸時代の紀州徳川家の別荘地だった野島は、明治時代に伊藤博文公の別荘地でもあった訳ですが、この別宅の中に金沢八景を詳しく紹介した展示物が有ります。
※伊藤博文公の金沢別邸の記事は「ココ」←クリック!
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こんな感じ。八景島の橋の欄干のカラー版と言った所でしょうか?
因(ちな)みに、鎌倉時代~戦国時代にも金沢八景は景勝地として有名だったので、八景の一つ、洲崎の地に建つ龍華寺は兼好法師の別名で有名な吉田兼好、北条早雲こと伊勢盛時公や徳川家康公の宿泊地でもありました。
※龍華寺の記事は「ココ」←クリック!
ここまで読んで頂ければ、野島が如何に風光明媚な土地だったかが解るかと思います。
そんな訳で景勝地の一つだった野島に、徳川頼宜公が別荘を建てて風景を楽しんでいた訳ですが、その鬼門鎮護として紀州徳川家の崇敬を受けたのが野島の御稲荷様だった訳です。

この様な横浜市の景勝地は特に昭和期に多くが乱開発で消え失せました。
杉田梅林や、金沢の八景が最たる例です。
横浜市は現在の林文子市長を含め歴代に市長の中に、日本歴史文化や日本の風景を大切にしない土建屋や港湾関連の組織票を票田にしている人物が少なくありませんでした。つまり低文化で知識に欠け景色と歴史の重要性を理解出来ない風流を理解できない人達が歴代市長に居る訳ですね。
横浜市教育委員会を含めた横浜市職員は、当然ながら地方公務員なので市長によって人事権を掌握されているので、市長が無文化だったり反日的な人物だったりすると市長の意を組んで歴史遺産や景勝地や自然を土建屋に開発=破壊させての土建屋と政治家の建築利権を確保させてしまいます。
現在の林文子市長も、横浜市内で最大最後の自然植生の大森林で自然公園の円海山瀬上池~瀬上沢周辺を、東急グループに宅地開発させようと策動しています。現に、開発を擁護する発言をしてバッシングを受けているのは栄区民、磯子区民、港南区民、多くの神社や御寺の氏子檀家さん達の知る所です。
仮に開発されれば林文子市長や、与党の候補者は市民感情逆なでしヤリ玉に挙げられた上で、史跡と自然の破壊者として過去帳等に記録され後世に悪名を残す事に成るでしょう。

さて、そんな過去の景勝地野島に紀州徳川家と関連も有った野島稲荷神社が有る訳ですが、現在では参拝客も減ってしまい、本殿裏から野島の頂上に通じた道も通行止めに成ってしまったりしています。
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でも小生は、とても雰囲気の有るこの神社が好きです。
伊藤博文公の金沢別邸に抹茶を飲みに行くと、たまに野島の御稲荷さんにも足を延ばして散歩します。
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何だか、御狐様が巫女さんに化けて境内を箒(ほうき)で掃除してそうな雰囲気の有る神社なんですよ!
この本殿の裏に、小生の子供の頃まで登れた崖を削って作った小さな石段が有ったのですが、現在は通行禁止に成ってしまいました。
こうやって少しづつ寂れて、将来廃社に成ってしまうかもと思うと小生は凄く危機感を感じてしまいます。
現代人は神社や御寺で自分勝手に願掛けはするのに、昔の人の様に神仏に対して願いが叶った際の御礼参りと御布施すらしませんからね・・・。
そして学校教育には左派で日本文化迫害を好む教職者も多くいるようです。ですから、学校で歴史の話を語る時に絶対に御寺や神社の伝承や関わった人物なんて教えてもらえません。そうすると、自分の地元の神社仏閣が凄い歴史偉人と関わりが有ったり強い御利益が有ったり、古代の史跡の上に建っている事を知らずに育ってしまうので、反日的な教育を受けた某隣国系のヤクザが多く入り込んでいる土建屋と左派政治家の好き放題に日本の自然と史跡と宗教施設の旧境内地が破壊されて日本の風景がどんどん劣化して無機質な町が増えてしまい風流さも伝統の欠片も無いコンクリートだけの町に成ってしまうんですよ。

ですから皆さん、御近所の山や御寺や神社を是非散歩して見て下さい!
町中に残る山は平安時代~戦国時代の史跡で有る事が多いですし、神社仏閣は小さくても、鎌倉時代や戦国時代の英雄や御姫様と関わりが有る場所が沢山有ります。

この野島稲荷神社が、その典型的な例なので紹介して見ました。
町の中の小さな神様の御社や御地蔵様を見かけたら、心の中で声をお掛けして、手を合わせて見て下さい。

無論、神社仏閣だけでなく我々の住む横浜には幕末に英国によって建てられた山手聖公会教会等も横浜市の歴史の一部に成って行き、我々異国文化にも寛容な日本人に史跡/文化財として大切にされて行く事でしょう。

皆さん、町の中の御寺や神社や自然の湧水池や森や山を散歩してみませんか?
きっと其処は、過去の神様に成った縄文~弥生時代の偉人達や鎌倉武士や戦国武将と我々を繋ぐタイムマシーンに成ってくれるはずですから・・・
 

ブログネタ
「夏の終わり」感じるのはどんなとき? に参加中!
横浜市金沢区の野島公園は、キャンプ場が有り夏はBBQで一家団欒を楽しむ家族連れや、近隣の大学生グループで賑わいます…
眼前には金沢八景島シーパラダイスがあり「海の公園」側やこの野島公園で潮干狩りをする人達も多くいます。
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実はこの野島公園が、江戸時代に徳川家康公の十男で、紀伊徳川家の初代藩主徳川頼宣公の別荘が在った場所だったり…
初代総理大臣の伊藤博文公の別宅があったり…
大日本帝国憲法の草案が纏(まと)められた場所であった事を知る人は今では少なく成ってしまいました。
また、太平洋戦争時の末期には隣接する横須賀市に横須賀鎮守府があった関連で現在の日産自動車工場追浜工場には横須賀海軍飛行場があり、野島には零式艦上戦闘機の防空格納基地が建設されました。

※その辺りの情報は以前の記事で紹介したので以下にリンクを貼ります。
●野島の零戦格納庫の記事は「ココ 」←クリック!

大きくは無い島で、現在はレジャーの島に成っていますが、こんな狭い面積に沢山の重要な歴史が詰まった場所なんです。
今回は夏も終わりに近づき、御抹茶を頂きながら海辺の夕涼みが出来る場所として、又、日本が法治主義国家を歩みだした、その場所としての伊藤博文公別邸を紹介したいと思います。

小中学生の残り少なく成った夏休みの自由研究宿題のテーマとしても役に立てるかな~と思います。
この施設や野島内の周辺史跡を見学して写真を撮影し、野島の歴史自由研究として時代と説明文を原稿用紙に書き、そこにプリントアウトした写真を貼れば十分、提出に十分足(た)る内容になるんじゃないかと思います。

では…
キャンプ場と反対側に閑静な松林が在ります。
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小生が子供の頃は、まだ眼前の八景島は無く、この豊穣な海では海苔の養殖が盛んに行われ、特産品の海鼠(なまこ)や小柴のシャコが沢山獲れました。
その横、駐車場の目の前の牡丹園と古民家が伊藤博文公の金沢別邸です。
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この伊藤公別邸は無料で拝観できます。
入口の係員の方に、抹茶を飲みたい事を伝えると客間で抹茶を頂けます。
御茶の料金は乾菓子のセットは300円、茶菓子のセットは500円で頂けます。
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小生は、この日は御乾菓子を頂きました。

さて、建物を解説します。
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建物自体は昭和まで良く見かけた、明治~大正期の日本建築で、入口からは解りませんが結構な奥行が有ります。
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この玄関、昭和生まれ世代は結構多くの人が御婆ちゃんの家を思い出すんじゃないでしょうか(笑)。
まぁ、実際、ここには明治~大正時代に伊藤家の御一家や、その後も管理人さんがいらっしゃったから生活感有って当たり前ですよね。
とは言いつつも、ここは一回老朽化で解体修理され復元再建された建築遺産でもあります。

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中には、各部屋や歴史の詳細な説明も個々に展示されています。
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玄関を入ると、純和風の廊下の両脇に、客室用の雪隠(せっちん=トイレ)や炊事場(すいじば=キッチン)が在ります。
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その廊下からは中庭が覗けます。
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素敵な小庭ですね。
昔の少し立派な日本家屋は京都の京町屋と呼ばれる様式でもそうですが、この様な中庭を作る事で風の吹き抜ける通り道を作り、エアコンの無かった時代に自然の力で十分に涼む仕組みが設けられていたんですね。
中庭の右手に見える配管は、浴室から延びる煙突です…
実はこの煙突も明治時代には画期的な仕組みの一部なのですが、その説明は又後で。
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これが炊事場の写真です。
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明治時代の炊事場ですが、江戸時代の炊事場と余り機能的に変わりは無いですね…
まだまだ井戸水を汲み上げて飲料水にし、薪と炭で煮炊きし料理を作っていたようです。
…当時の使用人さん達は大変だったでしょうね~。
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それでも台所の外側の土間(どま=土足で行動出来る部屋)に、この家専用の井戸が有るだけ、別の庶民の家より重宝した事でしょう。

で、反対側の客間用の雪隠(せっちん=トイレ)へ…
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これも又、江戸時代の御城に有るトイレと余り変わらない木製の和式で、この状態からトイレの文化は近代に急速に発展した事が良く解ります。
大(笑)
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小(笑)
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小生、ここに来るまで知らなかったのですが…
トイレは和名では2種類に分類されるそうで、時代劇や老人が雪隠や厠(かわや)と呼ぶのは、実はトイレのタイプによって区別が有るそうです。
こんな感じ…
雪隠(せっちん)…ボットン便所、汲み取り式で人糞を肥料に再利用出来る様にトイレ下に穴が掘られている。
厠(かわや)   …水洗トイレ、川の水流を利用したトイレ。
…川の小屋のトイレだから、略して川の小屋=かわや=厠なんですね。

さて、客間です。
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この写真では余り解りませんが、眼前には海が広がり当時は金沢八景と称され、江戸時代に歌川広重が浮世絵に描いた程の景勝地でした。
水戸徳川家の黄門様こと水戸光圀公が明の禅僧の東皐心越(とうこうしんえつ)和尚を御連れして、この一帯の風景を遊覧された程でした。

この客間の入口からも中庭が見えます。
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反対側から見る中庭はさっきと様子が少し違います。
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さっきの煙突、実は浴室から延びています。
客間からも居間からもすぐに浴室に行ける便利な構造に成っていますね。
そして風呂場が中庭に面していると言う事は、入浴中、涼しい爽やかな風が吹き込んできたんでしょうね~。
流れで浴室を紹介しましょう。
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この浴室の壁は人口の御影石で出来ています。
昭和期まで、日本家屋に多く見かけられた人工石ですね。コンクリートより高級感が有ります。
さて、さっきの煙突の正体ですが…
右側から延びる配管が、浴槽の中に入って行ってますよね?
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実はコレ!明治時代には画期的だった湯沸かし器の構造物なんです!
当時は庶民の家では五右衛門風呂が主流で、直接、竈(かまど)の上にでっかい鍋みたいな風呂を置いて直に火力で御湯を温めましたが、この機能はボイラーの熱を配管で送り浴槽内の御湯を温める仕組みなので、火傷する心配が有りません。
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そして温泉の様に檜風呂で入浴出来る画期的な構造な訳です。
現代のガス式風呂釜湯沸かし器に通じる構造ですね。
この配管を伝う熱源の排煙をするのが、先程の中庭の煙突と言う訳です。

さて、客間に戻ります。
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御茶はこの客間で頂けるのですが、ここからの眺望は凄く素敵で、小生はたまにここにノンビリと頭をリセットしに来させて頂いています。
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繰り返しに成りますが、目の前が海。
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ここで御茶を飲んでゆっくり…いいでしょう?

昔の家らしく、縁側も有ります。
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平成世代は余り見た事が無いかも知れませんね。
昔の人は、こういう縁側でゆっくりと贅沢な時間を日常的に過ごしたもんなんですよ。

この金沢別邸には伊藤公の私室も当然有ります。
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意外かも知れませんが、居間は広くはなく、普通の家と余り変わらない大きさです。
伊藤公は賭け事が大嫌いな性格だったそうで、個人でいる時は余り華美な生活を好まれなかった様ですね。
公人として西洋式の華やかな生活を送らなければいけないので、普段は落ち着きたかったのかも知れませんね~。
この居間側にも裏口があり、そこからも庭に出られます。
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御庭から見た客間越しの金沢の海。
御庭は牡丹園の名前で同じく無料公開されています。
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牡丹園側から見た、居間の様子。
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庭には綺麗な花が咲いていました。
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こちらの牡丹園側の入口、つまり勝手口が下の写真です。
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意外かも知れませんが実は伊藤博文公、外戚閔妃派と日本政府の関わりで伊藤博文公のイメージを悪く混同されていますが…
韓国初代大統領の李承曉のロビー活動による結果で、悪いイメージを持つ韓国人も多くなっています。
しかし実は朝鮮王室との関係は極めて良好でした
ですので、、朝鮮の最後の皇太子李垠殿下も御滞在された場所でもあります。
李垠殿下も伊藤公の私邸へ度々(たびたび)御宿泊され金沢八景の風景を楽しみ遊覧される程に信頼関係が深かった訳です。
余談ですが、戦時中も日本の太平洋戦争終結後の無条件降伏時も李垠殿下は日本でちゃんと王族として保護されていました。終戦後に奥方と韓国に帰国しようとした所、李垠殿下御夫妻の韓国復帰を阻止したのが、朝鮮王室復興による失脚を恐れた李承晩だった事を多くの韓国人は知りません。
親日派だった朴正煕大統領に成って、漸(ようや)く李垠殿下御夫妻は韓国に帰国出来ました。
つまり、李承晩自身が知日派の李垠殿下に帰国されると非常に困る事情が有った訳ですね。
李承晩がいなければ、併合後に朝鮮王室を李垠殿下が復興し、現在の日本の天皇家と復興した朝鮮王朝で友好的な王室外交が成されていたはずなんです。
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野島の眼前には、野島と同じく伊藤公が大日本帝国憲法草案をまとめた場所の一つである夏島が見えます。
その夏島の前にあるのが、旧海軍飛行場、現在の日産自動車追浜工場です。

ここ野島は日本の近代化や法治主義化の礎と成った舞台でも有り、良くも悪くも、両方の歴史を伝える歴史遺産群が密集した場所でもあるんですね。
先人の苦労と同時に、明治政府樹立による法治主義の開始や鎖国からの脱却の重要性や、防衛戦争の必要性と、戦争の負の側面も考えさせてくれる場所であり、そして又、前政権徳川家の紀州藩別邸跡の有った場所であり徳川家が御参りした野島稲荷神社が現存し…
金沢八景の一つであり文化醸成地だった、横浜市民のみならず日本国民にとっても大切な場所と言えます。

夏も終わりですね…
皆さん、体調を崩されませんように。
では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

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