歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:金沢区

記事に写真追加してリニューアルしました。

記事冒頭に政治の話題が有るので苦手な人は下の写真が、出る所までスクロールしてスッ飛ばして下さい。
コノ写真⤵
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コレ⤴が再登場する場所までスクロールしてスッ飛ばして漢字の意味に対応した写真の部分だけ読んで下さいね!

――さて――
皆さんはマジックアワーは御存知でしょうか?私は最近インスタを多用する様に成って最近教えて貰った言葉です。
マジックアワーと言うのは日が沈んでから太陽光が雲と空だけを照らす完全に夜になる直前の時間帯を指す日本人の造語の様です。

その時間帯が薄明・曙・暘・黄昏・宵。

下の写真の様な色合い、日没後の時間帯を指します。
マジックアワー⤵
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マジックアワーの後半“ブルーアワー”⤵
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夕陽も綺麗ですが日没後15分後~30分後の方が富士山や夜景の撮影が綺麗だそうで、その時間帯を表現した言葉だそうです。
それを過ぎると凄く短いブルーアワーに変り更に時間が経って夜が来ます。
このマジックアワーに対応する漢字が実は日本では平安時代に貴族や鎌倉武士が教養として学んだ漢詩にその漢字が既に登場します。

薄明、曙、暘、黄昏、宵と言う時間帯による空の明るさを表現した感じが有るんです。
字が既に風流ですよね~。

その解説は後にしますが・・・
これらの漢字の表現や文化を取り入れ、日本の文化と精神と融合させ生まれた文化が平安文化です。
この平安文化の根幹が菅原道真公曰く“和魂漢才”で表される日本に合わせてチューニングして文化と学問を使い発展させてきました。
そこから武家政権が誕生すると関東に残る自然崇拝の日本の習俗に都の平安文化を合わせ、更に南宋の仏教文化を馴染ませ発展させたのが鎌倉文化。
・・・と独特の日本文化が生まれました。
平安~鎌倉を生きた人々は時間を表す言葉に対応する薄明、宵、暘等の漢字を導入し漢詩を読み和歌を詠み季節を感じて風流な文化を作って下さいました。
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武士の時代が終焉を迎え明治時代が到来すると急速な西欧化が進みますが、大正時代に入ると少し急激な西欧化に元来の日本文化を見直し活用し双方の良い所をに取り入れた大正時代の華やかで壮麗な西洋建築の町並みに、広大な敷地に移築保護される社寺建築と武家建築の日本庭園が増えます。現代の無文化成金と違って当時の財閥の総帥達は日本文化と芸術の保護を進め、その流れは昭和最初期まで続きました。
平安~鎌倉の人も明治~大正の人も海外文化と技術知識を取り入れ日本に合わせて活用し文化と国と庶民の生活基盤を再構築した訳ですね。
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正に菅原道真公の“和魂漢才”を更にアレンジした“和魂洋才”と言う四字熟語を実践し内外の文化や技術を発展させたのが幕末や明治に生まれて明治~大正時代~昭和最初期の時代を生き活躍した人々だった訳です。
最近、鬼滅の刃の時代考証したら改めて大正時代って素敵だなと思ったんですよね。
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横浜開港記念会館 国指定重要文化財
下の写真は初秋に三浦半島の長浜(なはま)から撮影した和田義盛公居城の和田城の丘に昇る月です。
ブルーアワー、宵の頃ですね。
我々日本人は公害も1990年代終盤から改善させて、関東各地からは秋~冬~春にかけて海の水蒸気が少なくなると空気も綺麗に澄む日が増えて富士山が綺麗に見えると感動し生活の中でも記念行事や季節折々に和服を着て漢詩や和歌を詠み特別な御重を食べ神社や御寺で祭祀を執り行い唐に憧れ独自の平安文化や鎌倉文化を築いた貴族や武士の人々と今でも価値観を共有しています。

特に文化財の有効活用と保護を行っていない町が横浜に縁深い“あぶない刑事”で主演し、歴史大河でも織田信長公の役も演じた事の有る舘ひろしサンの出身地の愛知県江南市役所。
舘さんの演じた信長公の愛妻、吉乃様の菩提寺をガンとして寺院部分を史跡指定せず廃寺に追い込もうとしています。
絶対に他都府県の自治体の史跡保護の仕方と相対評価してないし下らないローカル前例主義。

詳しくは⤴コレを読んで見て下さい。
まぁ、こんな風に令和の現代人は文化軽視で風流さのかけらも無い街づくり?破壊?をする訳ですが、横浜市役所にチクリ・・・

今の何の季節感も仕掛けも無ぇ東京に大量に有る様な新市庁舎とか新山下の閑散としてるガンダムばっか作ってる横浜市役所の人、本当ちょっと昔の人見習って、やるなら風流な事やって。
カジノ林文子から山中市長に代替わりしたんだし文化と史跡保護とその活用をちゃんとやって欲しい。
この最近20年間~令和2年までと違って以前の再開発で都市設計されたミナト未来21地区の景観、ドッグヤードガーデンとか赤煉瓦倉庫とか汽車道の活用とか、大黒海釣り公園とか、ベイサイドマリーナとか埋立地の施設にも史跡文化財を活用した所や季節感を出して人が集うように計算されて作られた仕掛けが沢山有るんだわ。
こう言う仕掛けが有るのは高秀市長や当時の市役所職員の文化的素養が高かったから。

横浜市役所が林文子時代にやった事、全部クソつまらんし自然破壊、景観破壊、史跡破壊ばっか!
センター南の史跡保護を見習って飛鳥時代~平安時代の可動期間を誇り且つ規模が日本最大級のタタラ製鉄遺跡の上郷深田遺跡の国指定史跡化と横浜市南部最大の蛍生息地の瀬上沢の完全保護と自然公園指定、そして戦国時代の北条家の重要拠点で❝続日本の100名城❞の1つ小机城址と、神奈川区の旧高島線引込線に有る❝日本最古の溶接建造の鉄橋である高島線瑞穂鉄橋❞と線路の国指定史跡化はどっからどう見ても必須。
瑞穂鉄橋と高島線の線路を赤煉瓦倉庫みたいに活用した瑞穂埠頭再開発を成功させて、今の横浜の観光資源や美しい都市計画が成功して人口増加しているセンター南や、今の赤煉瓦倉庫周辺の高秀市長の様に史跡保護と自然環境の魅力を完全に残し横浜の歴史文化の個性を活用した素敵な都市開発参考にして“レガシィ”にして下さいね。
東京のコピーとか本当、2番煎じだらけにしたらコピペされる東京にも失礼だし無個性だから。

――ここから時間の漢字の話――
浅草の昔の写真とか見ても大正時代の人の町作りって素敵ですよね~!

これ⤴以前にも紹介したのですが原三溪サンの原財閥が創設した旧第二銀行=横浜銀行が明治~大正~昭和の昔の風景と現在の風景を比較する面白いコンテンツを作ってくれているので、是非皆さん見て見て下さいね♪
さて、そんな訳で大正時代の人は古代中国で生まれた薄明、曙、暘、黄昏、宵の各時間帯の美しさを表す漢字で漢詩や和歌を風流に詠み、和服と洋服を着こなして西洋建築と日本庭園を大切にし、文学でも街並みでも和洋折衷、オシャレを地で実践し西洋式の綺麗な町と自然と神社仏閣のを沢山私達に残してくれた訳ですが・・・
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・・・これ⤴曙と言われる時間帯です。
漢字が時間帯を表すって言われても情景がピンと来なくても写真で見ると解り易(やす)いですよね?
そこで小生の写真で時間帯の空の様子を見て頂いてから、この時間の感覚と日本文化の繋がりも書いて見たいと思います。
では薄明、曙、暘、黄昏、宵の時間帯を横浜ベイサイドマリーナと逗子マリーナの写真で解説します。
スタート!⤵
——薄明(はくめい)の頃——
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空が未だ宇宙の藍色で漸(ようや)く空が薄ら明るく成って来て、これから陽光が差し始める写真が丁度、薄明の時間帯です。
薄明(はくめい)は漢文から輸入された朝方のマジックアワーの時間帯の表現ですね。
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薄暗さの中に明るさが差し込み始め、空は宇宙の藍色が残り水平線にオレンジ色の線が浮かび上がる時間帯が“薄明”。夜だと“宵”と表現され、和製外来語だとブルーアワーですね。
——曙(あけぼの)の頃——
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薄明(朝のブルーアワー)から太陽が水平線に近づくにつれて藍色と橙色が交わり空が白色に変りやがて水平線にピンク色が広がり見る見る空のオレンジ色が濃く成って行きます。
日は出ていなくても、この時間帯も綺麗です。
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高秀市長の頃に第三セクターのベイサイドマリーナ建設担当の方が我々に残して下さったマリーナの個性を活かした秋分の日に暘(よう)の頃を楽しむ素敵な仕掛けが見られます。
——暘(よう)の頃——
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太陽が姿を表す様が暘(よう)です。
描写としては時間帯も曙(あけぼの)に含まれる様です。
秋分の暘にベイサイドマリーナ社屋に朝陽が真っ直ぐに登って来るのですが、これエジプトのピラミッドとか神殿群と同次元の事をやっているんですよね。
当時の市長だった高秀市長がいかに文化度が高い都市計画を志していたか解る現象であり、それを理解して具体的に形に出来るブレーンが当時の市役所にはいたって事が判るんですよね。
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暘(よう)は日本国の比喩としても中国では使われていたしそうです。
古代の中国では暘に谷の字を加え暘谷(ようこく)にすると日が昇る国である扶桑(FuSan:ふそう)を指し、暘“谷”=扶桑国=倭=邪馬台国=大和=日本の比喩の意味で漢詩に使われた単語でした。
12月冬の暘~曙にベイサイドマリーナの親水公園ではヨットの間から朝陽が昇る景色を見る事が出来ます。
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どうでしょうか?
ベイサイドマリーナの“薄明”も捨てがたいけど“暘”も美しいでしょう~♪でもベイサイドマリーナは西側が陸で夕陽が海に沈まないので、三浦半島の付根、鎌倉市と逗子市の境目のリビエラ逗子マリーナ周辺で“黄昏”と“宵”の景色を見て見ましょう~♪
——黄昏の頃——
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小坪飯島公園~逗子マリーナ
で、漢文に興味の無い皆さんにも先程写真を見て頂いたので黄昏や宵と言う夜に入った時間帯の情景が何となく伝わったと思います。
そこで、漢文の文化が日本人の文化に今も残っている事を少し紹介したいと思います・・・
——暦上の日本と中国の共通文化——
先程、時間帯を表す表現で宵(よい)の頃を紹介しました。
実は“宵”に関しては特に日本古来の特別な風習の1日にも関係が有ります。
中国では今も元宵節と言う冬の節分の習慣が残っています。


日本人の言う所の旧正月の第十五夜に行う御祭りで、つまりコレが日本の小正月の由来なんですね。
現在では何故か三賀日で終わってしまう風潮ですが、本来なら15日までが正月の祝日で元宵節=小正月が〆日なんですね。
本来は薄暗く成り始めたら町を提灯(ちょうちん)や行燈(あんどん)で飾り照らす御祭りでした。
私が中国に留学していた頃には爆竹をアホみたいに町中の皆で鳴らしまくって日が落ちてから夜中まで成りっぱなしで火薬の煙の臭いに燻された思い出が懐かしいです。
これが日本の小正月の由来な訳ですが・・・
つまり以前の記事でも紹介したのですが仁徳天皇と莵道稚郎子の御兄弟が漢皇室後裔の阿智使主(あちのおみ)に暦や政治制度を含む漢学を学んだ初代のなので、次代の履中天皇から日本の暦が古代の半年=1年から陰暦の12ヶ月=1年の計算方法に変っている事が歴代天皇の崩御の年齢から一目瞭然で解ります。

※縄文・弥生時代の平均寿命30歳
伝承年齢 → 1年=6ヶ月で再計算

神武天皇 127歳 → 63.5歳
綏靖天皇   84歳 → 42.0歳
安寧天皇   67歳 → 33.5歳
懿徳天皇   77歳 → 33.5歳
孝昭天皇 114歳 → 57.0歳
孝安天皇 137歳 → 68.5歳
孝靈天皇 128歳 → 64.0歳
孝元天皇 116歳 → 58.0歳
開化天皇 111歳 → 55.5歳
崇神天皇 119歳 → 59.5歳
垂仁天皇 139歳 → 69.5歳
景行天皇 143歳 → 71.5歳 
成務天皇 107歳 → 53.5歳 
仲哀天皇   53歳 → 26.5歳
応神天皇 111歳 → 55.5歳
仁徳天皇 143歳 → 71.5歳
履中天皇   70歳 → 35.0歳👈注目!
反正天皇   75歳 → 37.5歳
允恭天皇   78歳 → 37.5歳
安康天皇   56歳 → 28.0歳
雄略天皇   62歳 → 31.0歳
これを見ると仁徳天皇の次代、履中天皇から明らかに1年=12ヶ月に暦が変わっている事が判ります。
なので、どんと焼=小正月=元宵節も、その時に導入されている可能性が有る事が判ります。
逆に言うと古墳時代以来遅くとも1500年前から脈々と日本人は少し御祭りの形を和風に変えて、この古代の習慣を受け継いできている事が判りますね。
この行事が終了すると本格的に春の到来に成る訳ですが、中国で旧正月=春節と言うのは正に“春の節目”であり、他にも端午節、七夕節、中秋節と日本に輸入されている陰暦の季節の行事が漢字もそのまま暦として導入されている事も解る訳すが、当然ながら内容は変化が有りますよね。
例えば・・・
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中秋の名月では食べる物が日本と中国で違っていますが、出来る限り近い事をしようとして文化に残っている事も解ります。
日本では中秋の名月に団子を御供えしますよね。

まぁ団子なので“餅”な訳です。
中国の文化でも“餅”を食べます月餅ですね。

ただ漢字の意味が今の日本と違って穀類由来のコネて作った物に餅と言う字を当てるので小麦粉由来の物にも“餅”の字を使います。
餅干と書くとビスケットに成っちゃったりしますしウィグル族のパンにも“餅”の字を当て嵌めます。
この様に古墳時代から日本では中国の暦や仏教文化の影響を飛鳥時代には形を変えて日本文化に融合し馴染み、村の鎮守の神社の氏子が集まり旧暦(陰暦)の暦が農業の共同作業にも役に立っていたり昔は村々の農家や町なら町人が、“どんと焼”で正月飾りを焼いた訳です。
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今でも郊外の神社では“文化として保存する為に”わざわざ小学生を近隣の学校から招待して“どんと焼”を行ったり、氏子サンがシッカリしている場所は古代古墳時代の履中天皇が暦を改める以前の日本が1年=6ヶ月だった時代の風習の名残りが夏越大祓と冬越大祓として神事に有るんですね。
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茅の輪くぐりを行う神事ですね。
そんな訳で日本の神社には中国から渡来した小正月の“どんと焼”や“七夕祭り”の風習も残るし、日本の伝統的な追儺祭の神事の風習に中国伝来の仏教の不殺生の哲学を実践する放生会が平安時代には融合されて池に生き物を放す習慣が出来たりしています。
今でも上賀茂神社と神奈川県相模国一之宮寒川神社では仏教の影響を受けていない古来の追儺祭の神事が行われています。

そんな訳で今でも神社や御寺では毎年1月15日前後にで正月飾りや去年(きょねん=中国語)の神棚の御札を“どんと焼”で処分して貰いますよね。
でもね、その“どんと焼”を新暦=西暦=太陽暦でやっては本来の農業と結びついた季節感の陰暦と旧暦の呼称と整合性が無くなってしまうんです。

例えば旧暦の正月で1年を始めなけれ睦月や水無月等の季語と季節感もズレてしまうんですね。
今の年賀状で昔のまま“迎春”とか書いてもアホらしいくらいに真冬でクッソ寒いでしょ(笑)?
今の季節感で水無月と言うと6月で梅雨じゃん!と成りますが、実際は月齢の陰暦だと梅雨明けの時期にちゃんとかかって当て嵌まるんですね。
更に旧暦は閏7月=閏文月も有ったり全く違うので、この混乱は旧暦の月名を無理矢理に明治政府の西暦導入時に当て嵌めてしまったから混乱を生んだんですね。
西暦(太陽暦)の運用と、神事は旧暦と分けて行えば良かったんですがね~。
今この記事を書いているのは西暦の2021年12月22日です。もういくつ寝ると御正月です。
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・・・でも西暦での正月は未だ陰暦(月齢計算)では真冬の師走の最中なんですよ。
そもそも古代と師走の漢字も変わっていると思いますよ、完全に。
元々は師走(しわす)では意味不明な漢字に成ってしまいますが、これは100%当字でしょう。和尚さんが忙しく成るからなんてのは後付けでしかない。
本来は臘数(しわす)の漢字だったと考えられます。
この臘数=歳末と言う意味で仏教用語として現在の日本でも残っていますし中国由来ですから、もうそのままですね。
仏教の僧侶が出家してから男性なら比丘(びく)や女性なら比丘尼(びくに)と言う位階を得てからの年数を数える単位に用いられるそうです。

これについては“字通”と言う書籍に記載が有ります。
小生はこの説を支持します。旧暦に当て嵌めれば季節感も意味も暦の漢字とピッタリに成りますしね。
でもこの臘(しわ)の字をいつの時代にか音読みしか残らなくなり臘(ろう)とだけしか漢字の文化として発音が伝わらなくなったのは難読漢字で浸透せず師走(しはする→しわす)と言われる様に成ったと推測出来ます(当字の由来は推測www)。

どうでしょうかマジックアワーの写真撮影が得意なカメラマンの皆さん。
マジックアワーやブルーアワーやトワイライトの表現も何だか可愛らしいですよね。
漢文に使われた時間帯の表現、和文の季節感の暦も両方とも風流で“エモイ”でしょwww?
最後にもう一度、各時間帯の漢文の単語と情景を見比べて今回のブログ記事を終わりにしましょう。

——薄明(はくめい)――
朝のブルーアワー、日の出前の薄暗く明るく成り始める頃。 
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——暘(よう)――
朝陽が昇る様。
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——曙(あけぼの)の頃——
太陽の昇る方向と反対の空を低い位置から陽光が照らすとピンク色の帯を作る。
太陽の昇る方角の空は少しづつオレンジ色に染まって行く。
二つの色の空を楽しめる時間帯。
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——黄昏(たそがれ)の頃――
日没~黄昏時の夕焼けと青空、午後のマジックアワー。
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——宵(よい)の頃――
午後のブルーアワー、陽の光がほぼ水平線を照らすだけになり宇宙の藍色と陰影の世界。
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・・・漢詩に使われた時間帯の空のピンクとブルーとオレンジのコントラスト綺麗でしょ?
これを知ってから、薄明、曙、暘、黄昏、宵と漢字を見ると表現も風流で綺麗な情景が目に浮かびませんか?

朝焼けや夕焼けの写真が好きな人、機会が有ったら漢詩の表現を写真のタイトルに使ってみて下さいね~♪

また瑞穂埠頭の記事書かなかった(笑)。絶対に明日の夜書く!・・・と、思う。
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記事を書く材料が揃ったので、ちょっと待ってて下さいね!
さて・・・

では次回❝こそ(笑)❞は、この記事⤴の続きの記事で御会いしましょう~♪
風引かないでね~!

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前回の記事⤵

これの続き。

前回は寶樹院高照寺が元は侍従側沿い、昔の海辺に向かう谷の三艘谷戸に存在した事と、高照寺が隣の谷戸に有った廃寺常福寺の歴史と歴代住職の菩提を引き継いでおり、常福寺は元は室町時代の足利幕府鎌倉公方足利持氏公の祈願所で金沢文庫の由来に成った稱名寺の末寺だった事や今の大道一帯を寺領として所有しており関所を設けて関税を徴収して反映していた歴史を紹介しました。

今回はその寶樹院の現代の施設の様子を紹介したいと思います。
現在の寶樹院は高台の上に在ります。
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境内から見た景色はこんな感じで、昔はこの御寺の下の近くまで海が入り込んで来てたんですね~。
ここなら関東大震災が起きて昔の海の部分に津波が遡上して来ても安心ですね。

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高榮山 寶樹院 高照寺実は古代の‟延喜式内社”と呼ばれる西暦900年代の醍醐天皇が政令で‟朝廷で保護しなさい”と定めた神社や弘法大師様が開いた御寺は古代の海から湿地帯に成った場所を避けた丘の上の郡衙(ぐんが:郡庁舎)跡地や縄文弥生古墳時代の集落の跡地から聖地化された場所や、昔は山の尾根道が主要街道だったので山道の入口の飲用水補給基地に成る湧水の沢や滝や池が聖地化されて寺院が建てられる事が多いんです。
寶樹院の近くで弘法大師様が関与した場所だと、南区の弘明寺、鎌倉市の覚園寺、今は浄土宗で元は真言宗だった鎌倉今泉の称名寺なんかが正にそういった背景が有る場所ですね。
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でも高照寺の移転時期は江戸時代なので、もしかしたら三艘谷戸の旧境内が火災で焼失して移転して来たのは、地形的に最初から津波対策を期待されての事だったかも知れませんね。
実際、衛星画像に古代の海岸線の画像を張り付けると寶樹院の手前まで海だった事が解ります。
六浦周辺の古代海岸線 久良岐のよし
青い色の地域が昔の海なので、高照寺は安全圏ですね~。
大道の皆さんは大地震が起きたら高照寺に逃げ込んだら良いと思う。
さてさて、そんな訳で高台に移転している高照寺ですが、地形上参道の階段もちょっと長くしたからでは御堂が見えません。
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この下の階段を上って真っ直ぐな階段の下に行くと、小泉さん家の菩提寺なのが判ります。
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この階段の手すりの前の石柱に注目して見ましょう。
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もろに‟小泉家”って書いて有りますね(笑)。
実は小泉元首相の御爺さんの又次郎サンの代まで大道に住んでいた御縁で今でも菩提寺なんです。
昭和28年09月と彫って有るので、又二郎さんが亡くなって2年後に寄進されている様です。
つまり小泉孝太郎君の御爺ちゃんで又次郎サンの婿養子の小泉純也サンが寄進している事が解ります。
階段を上ると御本堂が有ります。
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寶樹院高照寺としての御本尊は大日如来様です。
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常福寺の歴史を受け継いでいるので、足利家に使用を許された足利家の家紋の‟二つ引き両紋”の寺紋に成っています。
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彫刻はシッカリした物ですが木材を見ると御堂が最近再建されている事が解ります。
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扁額は新しい様ですね。
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この家紋の由来も来たけれどちょっと忘れちゃいました(笑)。
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屋根の家紋も独鈷と余り見た事の無い寺紋が使われています。
昔御寺に関わった武家の家紋でしょうか?
御寺の奥さんに聞いたけど、こちらは良く解らなかったと思います。
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そして御寺には真言宗らしく御地蔵様も祀られています。
御本堂の前には小泉さん家との繋がりが良く解る物が有ります。
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小泉元首相が植樹した樹。
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立派な枝ぶりですね~。
元々どっかの造園屋サンが持ってた高価な庭木を買って来たんでしょうか?
御本堂の左手には阿弥陀堂が有ります。
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こちらが常福寺の歴史を引き継いでいる建物です。
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御堂の前には御由緒書きが有ります。
常福寺が鎌倉幕府設立前から有る由緒正しい御寺だった事が解りますね。
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阿弥陀堂と書いて有ります。
この中を覗かせて頂くと・・・
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鎌倉幕府や室町幕府鎌倉将軍府を守護して来た常福寺の偉い歴代住職の菩提が今も寶樹院高照寺の御住職によって祀られています。
ところで、この高照寺の裏手駐車場側に気に成る地形を見つけました。
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鉄塔の手前に削りの押された岩盤、明らかに元々はあの高さに矢倉(横穴式墳墓)が有った様なので、下の常福寺跡~この江戸時代に移転して来た高照寺の境内は一体に成っていたんでしょう、尚且つ、この高台には人の往来が有る道が有った様です。
つまり未開の山を開削して開いた寺院ではなく、もともと常福寺に纏わる御堂か有った削平地も有ったのかも知れません。
それと常福寺跡の奥の歴代住職の御廟所ですが・・・
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この場所の地形が明らかに要塞化されたいた様な形跡が有り、尚且つこの今は人の往来の無い場所は古道で朝比奈峠に繋がっていた間道だった様です。
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直角に切り抜かれた平場と裾切された地形が今も残っています。
なので高照寺の墓地の地形・・・
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こちら側の今は高い所に残された矢倉跡の位置を通る山道も昔は比較的人の往来が有り、もしかしたら足利持氏公か足利成氏公の時代に京都の幕府勢力に付いた上杉家との戦闘を想定して要害化されていた時代も有ったのかも知れませんね。
上行寺の伝承を見るに、状況証拠的に昔の海を挟んで対岸の御伊勢山と権現山は荒尾城として要害化されていた様ですから、こちら側にも防御構造は多少は作られていなければ可笑しいですから。

いずれにせよ、昔の平安時代には常福寺が存在していたので平安時代の道は尾根道ですから、普通にこちらの山も鎌倉に抜ける道だったんでしょう。
そして、その歴史を持つ地形から大地震の時の津波から逃げるのに適した場所でもある訳です。

昔は鎌倉将軍に大切にされ、最近では内閣総理大臣を輩出した御寺、強い御利益も有りそうですね。
今では住宅街の裏山の普通の規模の御寺ですが、スゴイ歴史が有るのが前回の記事と合わせて御理解頂けたでしょうか?

きっと皆さんの御近所にもスゴイ歴史偉人との関わりの伝承を持つ神社仏閣が有るはずです。
ちょっと街の中を御散歩して、城址の公園や御寺や神社を散歩してみませんか?
そこで説明の看板を読んでみて、凄い人との繋がりを知ると自分の地元をに誇りと愛着を更に感じれるかも知れませんよ?

・・・では今日はここまで。又次のブログ記事でお会いしましょう~♪

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今回は鎌倉公方足利持氏公が信奉した常福寺と寶樹院言う2つの御寺を2回の記事に分けて書きたいと思います。
今回は歴史解説、次回は寶樹院の様子を写真解説したいと思います。

横浜市金沢区には沢山の歴史が有る御寺が有る事を皆さん御存知でしょうか?
街の中の小さな神社や御寺や良く解らない御墓も実は凄い歴史偉人の関わった場所だったりしますが、そんな史跡の中でも鎌倉時代~室町時代の名将達が特に関わった場所が多いのが横浜市金沢区です。
そんな場所の一つが、金沢区六浦に在る高照寺と言う御寺です。
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高榮山 寶樹院 高照寺この御寺の高榮山 寶樹院 高照寺は現代の漢字にすると高栄山宝樹院高照寺と書きます。
宗派は古義真言宗です。
一般的には寶樹院の院号で呼ばれますが、小生は高照寺の寺号で呼ばせて頂きたいと思います。
高照寺の開基(かいき:御寺や神社を開業く事や開業した人)は恐らく宗派と周辺の状況から平安時代末期~鎌倉時代に遡れるはずです。
金沢区観光協会の方では慶安三年(1650)年と掲載していますが、この慶安三年開基は開基では無く再興された年を示しているので本来は‟再興開基”と書くべきなんですね~。
金沢区観光協会の解説は事実誤認生んでしまい良くない書き方です。教えた教育委員会が良くない。

では御寺の地形や施設より先に、歴史を解説したいと思います。
先ずは横浜市役所に‟再興開基と書くべき”とツッコミを入れたので御寺の旧境内地を見てみましょう~♪
高照寺の旧境内地は三艘(さんそう)と書いて三艘谷戸(さんぞうやと)と呼ばれている場所でした。
寶樹院旧境内地 久良岐のよし
今では住所として三艘の地名は消えてしまいましたが、現地の人は今でも旧字(あざ)の小名(こな)を伝えていて三艘町内会館が京浜急行六浦駅東側の線路沿いに残っています。
三艘谷戸(さんぞうやと)と言う地名から御寺を囲う様(よう)に山に囲まれた谷間に存在していた事が解ります。
正に画像で三艘町内会館の左奥(南西)が谷戸地形に成っていますねぇ~。
前を流れるのは侍従川(じじゅうがわ)ですが、この付近の川は現代に成って埋め立てられた海の名残りです。
昔、鎌倉時代~室町時代に御寺がここに有った時代は海に面した風景の綺麗な御寺だったようです。
ところで・・・
谷戸(やと)と言うのは馬蹄型のU字谷の谷底に寺院や城館を築いて谷の入口に門と塀を築いて塞ぎ、山を城壁代わりに使っていた事を示す地名です。
三艘谷戸 上 久良岐のよし
三艘谷戸は典型的なU字谷ですねぇ~。
横浜市や鎌倉市の鎌倉文化の影響を受けた地域の平安末期~室町時代に成立した寺院は凡(おおよ)そ、この地形に有ります。
現代人は勘違いしていますが、谷を谷戸と呼ぶわけでは有りません。山に囲まれたU字型の谷間を利用して御屋敷や神社仏閣や尾根に繋がる道を築く時に、U字谷の開口部を封鎖し門を築いていた場所を谷戸と呼びました。今では建物や古道が無く成り谷戸(やと)の地名だけ残った場所を現代人が谷=谷戸と勘違いしているんですねぇ~。
谷だけを示す場合は、例えば鎌倉だと・・・
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写真は犬懸谷(いぬかけがやつ)⤴の入口。
そして宅間谷(たくまがやつ)⤵
2008-12-12-15-08-33
旧相模国では‟谷”と書いて現代の書き方で~ヶ谷(がやつ)と読みます。
これは相模国の方言です。
谷の読み方は寶樹院の在る旧久良岐郡域に入ると方言で又変化します。
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写真は京急神奈川駅を青木城址の本覚寺から見下ろした写真です。青木城は戦国時代の北条氏康公の軍師だった多米元忠公が城主を務めた御城でした。
この写真の神奈川駅の裏に在る山が‟幸ヶ谷(こうがや)公園”です。
旧久良岐郡に入り武蔵国域南部に成ると方言で‟谷(~がや)”と呼び方が又変わるんですね。

青木城に興味が有る人はコレ⤴過去に書いた記事です。
ところで幸ヶ谷公園は青木城の前身と成った権現堂(権現山)城の跡です。
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今の横浜中央卸売市場の辺りに幕末に勝海舟サン達が神奈川台場を建設する際に権現堂城跡の権現山を削ってしまったので今では上の写真の様にちょっと段差が有る位になってしまってます。
この高さだと、丁度小生が夏に三浦半島で落ちて骨折した崖の高さ位(笑)。昔はもっと高い山と深い谷でした。
まぁ、幸ヶ谷の地形の話は置いておいて、そんな訳でU字谷と谷戸とは同じ地形でも別物です。
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上の写真は藤沢市の宗賢院です。曹洞宗でそれ以前の事は何にも古文書が残っていませんが、遺物の状況的には平安時代末期には前身寺院が存在し鎌倉武士の大庭家に保護されていた御寺の様です。
この写真の様にU字谷に御寺を築いて谷の開口部を土塀と門等で塞いだ場所を谷戸と言ったんですね。
U字谷でも只の谷は~谷(がやつ/がや)です。

さて、高照寺の旧境内地の場所と地形が解った所で移転先の現代の境内地の地形を見てみましょう。
寶樹院の地形 久良岐のよし
現在は山の上に御寺が有りますね~。冒頭で書いた通り慶安三年(1650)年に三艘谷戸から現在地に移転してきました。移転の理由は火災による旧境内の堂宇の消失です。
寶樹院の隣に何やら御寺が有ってもおかしくない怪しいU字谷が有るでしょう?
実はそのU字谷は谷戸の跡なんです。つまり御寺の跡です。
「え?こんな御寺の隣に御寺作るの?」
・・・と思いませんか?それには理由が有るんです。
実は今では何も無い住宅街のU字谷の真ん中に参道の様に真っ直ぐ道路が有るでしょう?
これが常福寺と言うとっても格式が高い御寺の跡です。
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写真の道が旧常福寺参道で、少し段差に成っている場所から旧境内。
この道を真っ直ぐ進むと、何やら雰囲気が変わってきます。
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遊歩道みたいに成ってますよね。この奥に常福寺の名残が今も有ります。
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歴代御住職や、恐らくここを支援した武将の御墓が今も残っていて高照寺の御住職によって守られています。
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字が磨滅してしまって読めない物ばかりですが、石塔の形状を見ると戦国時代~江戸時代にはちゃんと檀家さんがいた様です。
この場所が地図に登録されていなかったので小生が登録して置きました。
これ⤵

足利家と小泉家の勝利の源泉はもしかしたら、この鎌倉公方祈願所だった常福寺の御利益かも知れませんね。
先程「常福寺歴代住職の菩提を寶樹院の御住職が守っている」と説明しましたよね?これが移転の理由でしょう。この理由の説明をするには常福寺の歴史を知る必要が有ります。
常福寺は江戸時代までは真言律宗で金沢文庫稱名寺の末寺でした。
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稱名寺は桜の名所として地元の人に親しまれている御寺で、真言律宗の別格本山です。
この称名寺の末寺だった事から、鎌倉時代の常福寺の支援者は六浦の支配者であり鎌倉幕府の重鎮であり稱名寺の大檀那(オーナー)だった金澤北条家だったはずです。それを示すのが江戸時代に編纂された‟新編武蔵風土記稿”の常福寺の項目に登場する室町時代の支援者の家格です。
実は常福寺は鎌倉幕府滅亡後、室町幕府足利家によって支援されていました。
記録に名前が残るのは関東を治めた鎌倉公方の足利持氏公です。
常福寺の項目にはこう書かれています。
境内年貢地、同所に在(あり)、眞言律宗金澤稱名寺末、大道山と號(ごう)す。
足利持氏の祈願所にて古(いにしえ)は寺分の地一圓(いちえん)に当寺領なりしと云(言う)。
金澤稱名寺に藏する應永廿九年の文書に、六浦庄の内常福寺云々とあれば古刹なる事は論なし。
又【北条役帳(小田原北条所領役帳)】に六浦大道分とあるは則(すなわち)當(当)寺の領せし所を云(言う)なるべし。後年次第に衰廢して寺領も皆失ひ、今は領主より阿弥陀免として~
~以下省略~
これを読むと解りますが、関東を統率する足利持氏公が祈願所に定める程の寺格を持っていた寺院だった事が解りますね。つまり足利家に匹敵する家格の武士が支援した事に結び付くので、鎌倉時代の金沢領主で常福寺の本寺だった稱名寺のオーナーの金澤北条家が支援していたと考えるのが極々自然な訳です。
更に何で現在は寶樹院高照寺が旧常福寺の境内を管理しているかも解る事が書いて有ります。
元々は今の住所で金沢区大道と呼ばれる地域は全部、常福寺の土地でした。
金沢区大道 久良岐のよし
赤い範囲が大道と呼ばれる地域。
地域名の大道の由来に成っている朝比奈峠~鎌倉に抜ける六浦道(むつらみち)をスッポリ持っていたので、道に関所を築いて通行税を徴収して栄えたりしていた様です。しかし‟後年次第に衰廢して寺領も皆失ひ、今は領主より阿弥陀免として~”と書いて有る通り何時の時代にか常福寺が所有していた大道の土地は全て失ってしまい、少なくとも戦国時代の小田原北条家が関東を統治した頃には別の御寺に土地を取られてしまった様です。
北条所領役帳の寺領の項目に大道分が一行だけ登場するので見てみましょう。
一 卅三貫文 六浦大道分 龍源軒
これしか大道分の地名は出てきません。歴史学者サンはこの‟龍源軒”を鎌倉の建長寺の塔頭、龍源軒だろうと推測しています。
小生は学者さんと違い、町屋の龍華寺の事じゃないかな?と思っています。
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六浦には源頼朝公と真言宗の文覚上人が開いた浄願寺と言う御寺が有りました。実はこの御寺を北条家が金沢一帯を支配する少し前に太田道灌公が龍源寺として同じ金沢区の町屋に復興しているんです。
恐らく龍源軒と言うのは江戸時代には名前が龍華寺に変わってしまっていた龍源寺を辿る事が出来なかったんじゃないでしょうか?
・・・とは言え臨済宗の建長寺にしろ、町屋の龍華寺にしろ、恐らく常福寺の土地を取り上げて勝手に他の御寺にあげてしまったのは関東管領上杉家や太田道灌公達でしょう。
太田道灌公
実は太田道灌公とその父上の太田道真公の家系は足利持氏公やその子の足利成氏公と対立した家柄でした。その対立が大規模合戦に発展したのが‟享徳の乱”と呼ばれる太田家&長尾家が仕えた上杉家連合軍vs鎌倉公方足利成氏公の軍勢の全面戦争でした。
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この抗争の結末は‟江ノ島合戦”で鎌倉公方の足利成氏公が関東東部の諸将に支持され勝利する等、最初は上杉家臣の太田家長尾家は敗北します。しかし上杉家の後援者が室町幕府征夷大将軍足利家本家だったので結局は政治的に足利成氏公は劣勢に成り、今の茨城県の古河市に在った古河城に移住する事に成ってしまいました・・・
すると当然ながら鎌倉公方家に支援されて戦勝祈願を行っていた常福寺は京都の将軍家や、その手先の関東管領上杉家や部下の相模守護代の太田家から目の敵(カタキ)にされる訳です。
・・・そして、そのタイミングで太田道灌公が当時六浦の廃寺になっていた龍源寺を町屋に復興したと成ると、眞言律宗の常福寺から取り上げた土地を真言宗御室派の龍源寺=龍華寺に寄進したと考えれば自然な事でしょう。
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でも学者サンの推測する建長寺塔頭龍源軒説も有りえる話です。なんせ太田道灌公は幼少期から思春期まで建長寺で修行して兵法や学問を身に付けた人物ですからね。
まぁ、正直な所は大道分の土地の持ち主が龍華寺の龍源寺の事か、建長寺の龍源軒の事かは今では解りません。
でも太田道灌公や上杉家によって懲罰的に常福寺の土地が取り上げられ、その数十年後に北条氏綱公がこの一帯を支配した頃には既に常福寺はヤバい状況だったのでしょう。
ちなみに龍華寺サンも北条氏綱公の頃に怒りを買って土地を取り上げられているようです。
この伝心寺⤴の記事で少しソレに触れています。
江戸時代の常福寺は横浜市域で唯一の大名だった六浦藩主米倉家(柳沢吉保の子孫)から支援されて細々と存続する位に衰退していた事も新編武蔵風土記稿の記録から解ります。
更に龍華寺も戦国時代末期には北条家の怒りを買ったらしく、土地を没収されていますので大道分は安土桃山時代位に北条家かその家臣団によって寶樹院高照寺に寄進されたのだろう事が江戸時代1650年には常福寺の真横に三艘谷戸の高照寺が火事で焼けて移転してきている‟土地の所有者”に成っている事から解る訳です。
寶樹院旧境内と現在地位置関係 久良岐のよし
実際、近いですしね。大道分の侍従川を挟んだ片側が高照寺の寺領に成ったみたいですね。
だから移転出来た。
そして幕末~明治時代に廃藩置県が行われ常福寺を支えていた米倉家が大名じゃなくなり常福寺の収入減が無く成り、更に明治政府の廃仏毀釈で維持困難に成り、その際に隣接する寶樹院高照寺サンに全てを託して廃寺手続きを行ったんでしょうね。
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でも今でもちゃんと、ここで寶樹院高照寺の御住職によって歴代住職の墓所が守られている訳です。
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ちゃんと高照寺の御堂の中には常福寺の歴代住職の御位牌が祀られていました。

今では地形と歴代住職の御廟しか常福寺の境内は残りませんが、ちゃんと高照寺の歴代御住職によって常福寺と足利持氏公の歴史は守られています。

その②に続く⤵

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みなと湯
現代では希少なビジネス旅館みなと旅館の銭湯
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☞銭湯の個性と周辺見所 (・◡・)♫  
 ビジネス旅館みなと旅館の銭湯。
 共済病院前で御見舞い滞在に便利。
 タイルのモザイク画が可愛い
 鷹取山ハイキングコース近く。
 野島公園BBQキャンプ場近く。
☞施設・備品関連 (•ω•)ノ      
【入浴料】
 大人490円
 子供200円
 幼児100円
【アメニティー】
 シャンプー等浴室に有り
 使い切りシャンプー類販売有り
 レンタルのハンドタオル有り
 飲料販売有り
 ビジネス旅館併設
【電車】
 京浜急行追浜駅~徒歩8分
【  車  】
 駐車場若干有り
 周辺に有料駐車場複数
――以下 写真と詳細( ՞ਊ՞)ʃ♪だよ⤵――
ーー入口~建物の外観ーー
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――番台――
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――更衣室――
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――浴室――
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横浜では少なくなった日本建築のビジネス旅館が運営する銭湯。
外観は日本風だが男湯と女湯でピンクと水色のパステルカラーに分かれていてタイルのモザイク画が可愛い~(笑)。しかし天井は高く昔ながらの風格と威厳有る建築に成っている。
老舗銭湯は据付のシャンプーとボディーソープが無い場所が大半だが、ここはビジネス旅館の運営する銭湯なので購入不要。突然行っても貸しタオルをレンタル出来るので、タオルを2本レンタルすれば持参しなくても大丈夫。
バスタオルは要持参。
立地的に野島公園のBBQ場から徒歩20分ちょと、神武寺~神奈川の景勝50選の一つ鷹取山の鎌倉石採石場跡や磨崖仏のハイキング帰りに立ち寄り入浴してサッパリしてから帰るにも丁度良い。鷹取山からは徒歩25分位。
近代には伊藤博文公が野島と夏島に滞在し大日本帝国憲法の草案を起草した。
実は平成世代には余り知られて無いが釜利谷~能見台~瀬戸神社~琵琶島~須崎や野島~六浦や内川周辺は江戸時代の歌川広重等が愛した景勝地で、見所が8ヵ所有った事から“金沢八景”の駅名由来に成っている。瀬戸神社と琵琶島辯財天は源頼朝公と北条政子様の御夫妻によって伊豆国一之宮三嶋大社と近江国竹生島辯財天が勧進され開かれた由緒ある神社で金沢八景駅前に存在する。
戦国時代にも太田道灌公、北条早雲公、徳川家康公等が町屋町の龍華寺に滞在し周辺を楽しんだ事が現代に伝わり、昔は名将達のリゾート地だった。
その龍華寺の元の境内地が浄願寺跡と伝わった上行寺東側の丘陵の上で鎌倉時代末期には兼好法師の名で有名な吉田兼好も浄願寺に長期滞在した程の景勝地が、みなと旅館周辺の埋め立てられる以前の景色だった。
そんな訳で、現代では埋め立てられて景勝地ではなく成ったが、鷹取山~神武寺ハイク、野島公園BBQ、周辺の歴史散歩で汗をかいた後に立ち寄るにはもってこいの銭湯が、みなと旅館の“みなと湯”だったりする。

みなと旅館の直ぐ目前にはヘルニアの手術やスポーツ選手の機能改善治療で有名な横浜南共済病院が有るので、長期の御見舞いで滞在する場合の宿泊にも便利だったりする。

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朝比奈峠等が鎌倉時代に整備される以前、平安時代の鎌倉武士達が鎌倉に集結する際に使っていたバイパスの古道が今も横浜市栄区~港南区~磯子区~金沢区~鎌倉市朝比奈~十二所にかけて幾筋も現存しているのを皆さん御存知でしょうか?
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この写真の尾根道も、谷筋に降りる道も、実は昔々、武士のみならず多くの人が往来した古道です。
そして円海山の富士山と夜景の絶景地でもあります。
今回は随分前に歩いた際の写真を用いて、そんな富士山の絶景地を古道のスタート地点として選び解説したいと思います。
先ずは少し尾根道の話をします。
円海山の尾根の農道は武士達が往来した脇道でした。川沿いの鎌倉街道が平和になった鎌倉時代に整備される以前に使われていた“鎌倉上道”、“鎌倉中道”、“鎌倉下道”の鎌倉古道が存在し、更に毛細血管の様(よう)に張り巡らされたショートカットの道は全て水害に強い尾根道でした。
ですから今でも、この道を伝って1時間半~2時間くらい歩くと鎌倉市街地⇔横浜市栄区港南区磯子区金沢区を往来する事が出来ます。
鎌倉武士早駆けの道尾根道 久良岐のよし
第三管区海上保安本部関東統制通信事務所
※画像クリックして拡大して下さい。
このスタート地点、実は海上保安庁の通信事務所で普段は無人なのですが、この円海山の山麓には飛鳥時代~平安時代の長きに渡り大和朝廷に金環太刀や鏃(やじり)や馬具や鎧の軍事物資の材料となる玉鋼(たまはがね)を生産する“東日本最大のタタラ製鉄遺跡”の上郷深田遺跡と上郷猿田遺跡が2020年03月現在ではまだ存在しています。この地域は古代には鎌倉郡に属していました。
また横浜市最大最後の蛍の大生息地である瀬上沢の西側蛍生息地域も“まだ”存在しています。
・・・まだ、と敢えて言うのは東急建設が4月に遺跡と蛍のいる瀬上沢西側を削り取り商業地と宅地と人工池にする計画を横浜市が承認してしまう可能性が有るからです。
そこら辺りの歴史は以前、記事にもしているので興味の有る方は下のリンクから御覧下さい。
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鎌倉にある天下一の名刀「正宗」の工房…正宗工芸美術製作所
クリックで記事にリンク⤴

さて、こんな風に古代から製鉄拠点としての文化歴史と、更に横浜市最大最後の自然林を残す円海山の尾根だから鎌倉市街に通じる道が当時のまま風化しながら現存しています。
今回は以前歩いた時の写真を交えながら解説したいと思います。
因(ちな)みに昨年9月の台風で倒木が多発しましたが、横浜市側は素早く倒木を撤去し遊歩道を再整備しました。
しかし鎌倉市の松尾市長は特に文化財の保護に不熱心な方で、貴重な文化財の釈迦堂切通や北條時政邸城塞跡の衣張山~名越の遊歩道の復旧を怠っています。
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未(いま)だに原状回復整備を怠っているせいで今は名目的に通行止めでハイカー達が自己責任で登山を楽しまざるを得ない状態が続いています。途中には私有地も有るので鎌倉市には史跡保護と生活道路保全の意味からも至急復旧する義務が有るのですが・・・
もっとも、昔から円海山のハイキングを楽しんでた横浜市民も、鎌倉市側から六浦や港南台方面にハイキングを楽しんでいた鎌倉市民も今でも横浜まで歩いてくるので、海上保安庁の通信事務所のあたりで富士山を撮影していると挨拶を交わす機会が良く有ります。
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さて・・・
スタート地点の海上保安庁の通信事務所から南に進みます。
円海山~大丸山~関谷見晴台 久良岐のよし
※クリックして拡大して下さい。
最初の目標地点となるのは大丸山、その次が関谷奥見晴台です。
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この少し左手前の農道を降りて行った先の丘からは横浜港の夜景が一望出来ます。
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ではズンズン進みます・・・
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分岐点の所々にちゃんと道標(みちしるべ)が有るので迷う事は有りません。
寧(むし)ろ現地案内図よりGoogleMapなんかを見ていると山では迷ってしまいます。
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ちゃんと案内図有るから安心してください。
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もし変な場所は入っちゃったらさきに進まずに元来た道を戻って下さいね。
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たかだが横浜市内の海抜300mの山でも昔の廃道とかに入ったら迷いますよ、本当に。
昨年、小生が昔の廃道を散策して遭難しかけましたから(笑)。
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こんな感じで景勝地や植生の解説も随所に有ります。
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横浜市でも貴重な自然が残されているのですが・・・
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・・・昭和期~平成の乱開発で庄戸地区等が宅地化され森林が消えた事で麓の生態系も変わってしまいました。
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でも歩いていると自然豊かで清々しい風景が続きます。
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道は前日の天候によってとんでもなくヌカるんでいたりしますので、いくら整備されていても注意して歩いてくださいね!
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横浜市側は割とサクサク歩けます。
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さて、看板に大丸広場と出て来ましたね。
前振りして置きますと、この大丸山は恐らく記録に残らない要塞の跡です。
それはもう少し後で話しましょう。
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荒れて通れなくなってる場所も有るので気を付けてください。
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こんな分かれ道もちゃんと手前の看板を見てくださいね!
間違えて降りた先が全然違う場所で目的地に行けなかったとか悲し過ぎますから(笑)。
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猿の腰掛が沢山木に寄生していました。
中国に売れば漢方薬ですね~。
さて・・・
そろそろ大丸山に話を戻します。大丸山一帯は恐らく周辺の地名“関”の由来になった尾根道を封鎖する関所=砦の跡でしょう。
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この付近で各方面に道が分岐するので、未だ鎌倉幕府が未整備で奥州だけでなく北関東武士団が敵だった時代に、円海山~天園ハイキングコースの鎌倉武士の古道を一歩鎌倉側手前の尾根が1本に纏まる大丸山に関所兼要塞を築いて鎌倉防衛網の一ヶ所としていたのでしょう。
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実は大丸山周辺まで来ると、尾根側面に人工的に竪堀(たてぼり)を掘って尾根道の道路を制限したような地形が増えます。そしてこの大丸山や見晴台は敵の襲来を伝える烽火台(のろしだい)の役割も有ったと小生は推測しています。
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何故なら・・・
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神奈川の橋100選の一つ“昇龍橋”と白山社古址という場所が有りますが・・・
ここと大丸山を経由し金沢区の白山古道に抜ける道が、どうやら平安時代末期に頻繁に使われ鎌倉時代初期に朝比奈峠の開通で廃れていた旧金沢湾に抜けるショートカットの道だった様です。
後に室町時代中期に戦国時代の発端となった永享の乱~享徳の乱頃に室町幕府最後の鎌倉公方と成った足利成氏公もこの古道を再整備して利用したようで、十二所~釜利谷~金沢称名寺や富岡並木千軒に通じる道の途中に“禅林寺”を、氷取沢側に“宝勝寺”を開いていたりします。
この道が大丸山一帯が旧尾根道古道の要所だった事を説明する為に鎌倉時代の事件を以前書いたブログの紹介を交えながら、少し解説します・・・
鎌倉幕府の成立数年後に鎌倉幕府執権北条家の陰謀で名将畠山重忠公が謀反の“冤罪”を着せられた事件が発生しました。
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※写真は旭区二俣川古戦場の畠山重忠公首塚。
御子息の畠山重保公は由比ヶ浜を北条家の手勢に襲撃されました。
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※引き潮の由比ヶ浜の風景
新編相模風土記稿では由比ヶ浜で交戦した伝承から重保公の討死の場所は恐らく由比ヶ浜の屋敷だろうと推測しています。しかし、それでは横浜市金沢区に畠山重保公が切腹した伝承地に供養の為の御廟所が昔から大切に地元民によって守られており由比ヶ浜での討死にでは整合性が無くなってしますます。
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※金沢区釜利谷の畠山重保公の御廟所
そこで小生が史跡と事件のパズルを組み合わせると、実は簡単に横浜市旭区と金沢区と鎌倉市の伝承の全てに整合性が有る事を開設する事が出来ます。
この伝承に、もう1つ、事件当日の伝承に登場していない場所を登場さてみましょう・・・
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実は鶴岡八幡宮の東側門前には畠山重忠公の館が存在しました。
恐らく鎌倉幕府執権北条家の与力武将達は、真っ先に鎌倉での畠山家武士団を無力化させる為に、留守居役であり指揮官の畠山重保公を討取るべく、鎌倉市での伝承通り由比ヶ浜の重保邸を急襲した事でしょう。所が当日もしくは翌日には畠山重忠公が鎌倉に入る予定だったので、重保公は恐らく自分の邸宅ではなく重忠公の屋敷で父上の到着に備えて色々と準備をしていたのだとしたら・・・?
由比ヶ浜の屋敷で畠山家臣団が襲撃され、北条家と交戦中に畠山配下の武士が鶴岡八幡宮横の畠山本宅に北条家急襲による危急を伝えたはずですね。
古東海道 国土交通省から画像拝借 久良岐のよし
※国土交通省関東地方道路整備局横浜国道事務所より拝借画像
上の画像は鎌倉街道が未整備だった平安時代初期くらいまでの主要街道です。
畠山重忠公は旭区の二俣川で八王子街道を下って来た愛甲季隆公や糟屋有季公の軍勢と衝突し討死にしていることから、埼玉県の秩父地方を出発して旧奥州街道から(町田の)店屋で鎌倉街道下道に迂回ないし、一度横浜市域のかなり鎌倉付近まで来てから知らせを聞いて秩父に戻る途中で交戦した事が判ります。
・・・すると由比の自邸が襲撃された事を知った重保公が逃げつつ父上に陰謀を知らせる為に進む道はおのずと大丸山に通じる“天園ハイキングコース”~“円海山”の平安時代の古道に限定されます。
大丸山地形 久良岐のよし
大丸山は今でも空堀地形が現存しています。そしてここを通過しないと鎌倉十二所方面から北側に抜ける事が出来ません。
畠山家史跡位置関係 久良岐のよし
※画像クリックして拡大し位置関係を確認して下さい。
新しく開削され通行しやすかった朝比奈峠は北条家の本拠地の衣張山直下の細い街道と歌の橋を越えなければ行けないので敵兵が待ち構えている事は間違いないでしょう。
更に円海山大丸山の要塞に北条家の兵士が既に配置されて居る事を想定すると、鶴岡八幡宮の横から畠山重保公が逃げ延びる道は鶴岡八幡宮から北東側の二階堂方面~十二所山中~円海山~白山古道1択しか残っていなかったはずです。
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今では畠山重保公が逃げた鎌倉武士の古道には横浜自然観察の森が有り、中にある上郷森の家には宿泊する事も出来ます。
白山古道周辺 久良岐のよし
この自然観察の森一帯が、北条家の陰謀で鎌倉に召還されて八王子街道~鎌倉街道下道を下って来ている最中の父上に北条家による罠だと言う緊急事態を伝える為に鎌倉を脱出した畠山重保公の逃走経路で、恐らく釜利谷西や関東学院大学金沢文庫キャンパス建設で消えた部分の白山古道でしょう。
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それよりも南に逃げてしまうと、浄願寺跡の上行寺東遺跡が存在する山が実は要塞でした・・・
六浦の港を守っていた権現山御伊勢山の荒尾城が存在し幕府の軍勢に捕まってしまいます。なので結局白山古道に入り、恐らく武士の屋敷か名も忘れられた寺院が有った様な谷戸地形の畠山重保公御廟所の場所に有った建物で束の間の休息をして、御父上に合流するのを諦めて自決したのかも知れませんね。
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大丸山の直ぐ近くには見晴台と言う広場があり、横浜港を遠望する事が出来ます。ですから、この一帯は烽火台にも適している訳です。
昔々、港南台や洋光台方面が開発される前は、ここの風景が東京湾を見る有名な場所だったのかも知れません。
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この見晴台の先に進むと鎌倉市との境目にたどり着きます。
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ここから先に進むには鎌倉市側の天園ハイキングコースに進まなければいけません。
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この先に進むと・・・
第一横浜霊園と鎌倉霊園の間を通過する鎌倉防衛網、鎌倉城の外郭にぶつかり、いよいよ鎌倉旧市街に入ります。
鎌倉市と横浜市の境、朝比奈トンネル 久良岐のよし
まぁ、実は自己責任で歩いてる人も多いしそんなに危ない訳でも無いので自分で行くか行かないかは判断してください。
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行く先には鎌倉武士が朝比奈峠開削以前に岩場を切り開いた切通も存在します。
さて・・・
長くなりそうなので鎌倉市域の天園ハイキングコースは、又、続きの記事を分けて書きたいと思います。次の記事、天園ハイキングコースで可愛い御婆ちゃんの休憩所を紹介するので楽しみにして下さい。

最後に今回解説した部分と関係の有る記事のリンクを以下に纏めて置きます。

興味の有る方は御覧下さい。
鎌倉にある天下一の名刀「正宗」の工房…正宗工芸美術製作所
蛍(ホタル)の季節到来!円海山瀬上沢で5月中旬から。
  東急建設の破壊計画で最後のチャンスかも?

神奈川の橋100選の一つ“昇龍橋”と白山社古址。横浜市栄区長倉町
畠山重忠公の最期の時、畠山重忠公と愛甲季隆公の二人の名将が死力を尽くし戦いあった古戦場
  ・・・横浜市旭区役所周辺一帯。

畠山重保公の御廟所、横浜にも御縁が有る鎌倉武士の名門畠山家御曹司の供養塔
  ・・・横浜市金沢区。

【城郭ファンへ拡散】六浦山上行寺の解説と、間宮家臣荒井家の鎌倉武士時代の幻の城址❝荒尾城❞発見?の報告と協力要請。

では、皆さん、また次の記事でお会いしましょう~♪
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金沢文庫称名寺で黄色の菖蒲が見頃と聞きましてお散歩して参りました~。
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金澤山 彌勒院 稱名寺
秋晴れと桜の季節の印象が強い称名寺。
今の季節と言えば例年、野島の伊藤博文金沢別邸やキャンプ場か三浦半島の海側に散歩に行く事が多く、蚊の出始める直前の称名寺の菖蒲をゆっくり見に来た事が有りませんでした。
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橋の両脇から池の畔(ほとり)のあらゆる所
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可愛らしい黄色い花が群生していて気持ちを明るく爽やかにしてくれます。
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参拝客もこの季節は多くはなく、ゆっくり散歩出来ます。
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でも菖蒲も少し有名らしく凄いカメラを持って来ている人が何人かいらっしゃいました。
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う~ん、桜も良いけど緑と黄色に朱塗りの橋、山の緑に空の青がとても綺麗~♪
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まだまだ蕾(つぼみ)の花弁が開いていない株も多く、あと1週間は楽しめそう♪
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来週、又、菖蒲を見に来よう!
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柴漁港 小柴のどんぶりや
柴漁港の天丼小屋に小柴の穴子の天丼食べて、ついでに海の公園をランニングしよかな!
小柴の穴子天丼と小柴の蝦蛄刺身 久良岐のよし
皆さんも称名寺と海の公園、セットでお散歩しては如何でしょう?
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喜多屋旅館 CaféDining ぼたん近くに在る明治時代の日本建築文化財の旅館、喜多屋のカフェ部門ぼたんでランチやお茶したりも出来ます。
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八景島シーパラダイスも近いですし、海でも遊べるので良い休日を過ごせますよ~♪
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本当は昨日、北条家臣中田加賀守の記事を書く筈だったのですが忙しくて今日も書けていません(笑)。
でも週末に行った横浜市金沢区の称名寺、金沢文庫駅の名前の由来の御寺サンの参道と境内の桜が丁度、9分咲きで見頃だったので、歴史解説記事代りにその写真を掲載します。

きっと今週中に見に行けば、まだまだ見頃だと思いますよ♪

御近所は喜多屋と言う明治時代の料亭を旅館&Caféに業種替えしたオシャレな店や、小柴の柴漁港天丼小屋、もう少し歩けば海の公園や八景島シーパラダイスが在り、レジャーやランチのついでに桜散策には持って来いの場所ですよ!
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金澤山 彌勒院 稱名寺・・・真言律宗別格本山
(きんたくさん みろくいん しょうみょうじ)
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とっても春は雰囲気の良い御寺なので、是非足を延ばして見ては如何でしょうか~?
この御寺は鎌倉時代の名将、北条実時公の邸宅跡を寺院化した場所で、真言律宗別格本山の格式を持つ御寺です。北条実時公の金沢北条氏は鎌倉幕府の重鎮で六波羅探題と言って今の関西地方を治める役職を担った家柄でした。
恐らく全時代の武士を通じて屈指の、戦国時代の細川藤孝公以上の文化人だったので北条実時公が収集した経典や花器仏具等は膨大な量に及び、更に後に鎌倉公方とも密接な関係に成った寺院だったので多くの古文書も残る事から歴史学者には「東の正倉院」の異名で呼ばれた場所でした。
御寺の境内の隣の谷に北条実時公が収集した文化財を保管するする称名寺の文庫が有ったので、そこが文庫谷(ぶんこがやつ)と呼ばれる様になり、それが地名と京浜急行金沢文庫駅の駅名由来に成ったんです。

実は今年に入ってから先月迄、国家資格をいっぺんに3つ取得したり、今月から仕事で使えそうな別の資格の勉強も始めるので今週末までちょっと忙しくて、中田加賀守の矢上城の記事を書けるか分かりませんが出来るだけ週末にはUPする様にしますね!余り濃い内容には成らないとは思いますが、久しぶりに地形の解説なんかも入れたいと思っています。

ささ!今年は桜がベストコンディション!
皆さんにも小生にも今年の桜同様に元気いっぱい明るい良い年に成ります様に~♪







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さて、歴史が好きな人も嫌いな人もいると思いますが、皆さんは源頼朝公の弟で名将だった源範頼公を御存知でしょうか?
源範頼公
この人は兄である源頼朝公から軍才を信頼され、実際は源義経よりも高い統率力を発揮した名将でした。しかし恐らく源頼朝公をヒ素で暗殺した北条時政やその婿の稲毛重成、北条政子様と北条義時公の北条一族の謀略に巻き込まれ横浜市金沢区で自殺して生涯を終えた悲しくも潔かった私利私欲の無い名将です。この人がいたから鎌倉幕府は樹立され、その後にモンゴルと朝鮮人の元軍による侵略から我々の祖先の命は助けらた訳です。
だけど範頼公は死して尚、現代に至っても昭和期にバカ共のせいで悲しい目に遭っている悲惨な偉人でもあります。
今回はこの名将の菩提寺の紹介と歴史変遷の解説を書きます。
小生は❝中道保守派❞の人間なので平素よく日本文化を軽視し自然破壊する土建屋と結託し在日ヤクザ勢力を批判しない左派思想分子を批判しますが、今回の記事はこの偉人と御寺の歴史を通じて盲目的な右派に釘を刺し批判する事を書く事にも成ります。
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以前、欧米諸国の軍人さん達からその存在を称賛されている世界三大旗艦の一つ戦艦三笠の解説記事で書いた事が有るのですが、宗教を国内統制に悪用した一夕会独裁の昭和初期の軍事政権下の軍幹部は口では神に対して信仰を持っている様な事をのたまいながら大部分の連中は古来の神道に対する信仰心も日本文化を醸成して来た仏教文化に対する敬意も微塵も無く、国家神道と言う新興宗教に造り変えられた日本の神々を崇敬する様な事をしながら倒幕志士世代明治の政治家や軍人には実際は全く信仰心が有りませんでした。
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戊辰戦争世代の明治の帝国海軍軍人達は日本文化や古来の神様に対する崇敬の念が深く、奇跡的にロシア帝国に勝利した対馬海戦時の旗艦だった戦艦三笠は❝八幡大菩薩❞の神名で神仏習合時代の古来の文化で応神天皇に習合された水神様の御分霊や伊勢神宮の天照大御神の御分霊を戦艦内に祀っていました。
だから海軍設立の立役者に等しい坂本龍馬サンの奥さんの❝お龍サン❞が亡くなった際、横須賀市大津の信楽寺で海軍の軍人達が集めた寄付金によって仏教形式でお龍サンの葬儀が行われ墓所が造られました。
又、明治時代初期にプロテスタントに改宗したキリスト教徒日本人政治家達によって宗教改革や軍政が行われ日本神話の神様も弾圧されました。日本神話でとても重要な役割を果たしている日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)の夫婦神が滞在した三浦半島横須賀市走水の旗山崎、御所ヶ崎には弟橘姫を祀る神社が有りました。
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写真の船溜まりのある半島状の土地が御所ヵ崎です。
しかしこの御所ヵ崎、山県有朋と言う長州人の陸軍人の後に政治家に成る腐敗分子による立案で猿島や観音崎砲台が整備された際に、弟橘姫を祀っていた橘樹(たちばな)神社は破壊され砲台が据えられてしまいました。
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旗山崎こと御所ヵ崎に隣接する展望台からは三浦半島の海岸線の先に富士山と大山を眺める事が出来ます。
この御所ヵ崎の橘樹神社を破壊させる砲台建設をさせた山県有朋はクソ野郎で、明治時代に議会制民主主義導入されるまでの合議制時代、陸軍人だった頃に現代の貨幣価値で軍の予算120億円相当を着服し勝手に民間企業に投資した腐敗した政治家でした。しかも腐敗が発覚した際に命まで奪わなかった上官の西郷隆盛公を結果的に殺した人物だったりもします。
そんな明治時代の日本の神様や仏教の仏様を愚弄した蛤御門の事変や倒幕を経験した世代の利権主義腐敗政治家や腐敗軍人達に異を唱えたのが戊辰戦争世代の明治~大正に活躍した世代の軍人サン達でした。
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幕末~明治初期に活躍した外国かぶれ世代の軍人政治家達によって橘樹神社等の日本武尊と弟橘姫が滞在した行在所(あんざいしょ)だった神話の聖地が破壊されると、それに心を痛めた戊辰戦争世代の東郷平八郎元帥達によって神社を潰されてしまった日本古来の神様達の御神霊は走水神社本殿に合祀されたり奥宮と言う形式で走水神社背後の山に遷宮され祀られました。
その東郷平八郎元帥が司令官として乗艦したのが戦艦三笠だった訳です。ですから戦艦の守護神に神仏習合時代の習慣の御神名で❝八幡大菩薩❞が祀られていたんですね。
しかし昭和に成ると明治の腐敗政治家を批判して始まった一夕会と言う組織が台頭します。その組織を大戦末期に牛耳っていたのが東条英機等で、彼等は元々明治の元勲達の利権政治を批判して大義名分を得ていた筈が結局自分達が権力の座に着くと独裁政治を始め戦況報告ですら事実を伝えなく成りました。彼等の政治組織は軍人の任命権を独占し悪用、軍事政権が打ち立てられるのですが、彼等は共産主義者を弾圧しながら行った政治は計画経済、配給制度と共産主義その物、つまり同族嫌悪に等しい左翼弾圧を行い更には古来の神道も仏教も否定したり軽視した軍人を増産していった訳です。
大戦末期の右翼と左翼は天皇家を利用したいか排除したいかの差は有れど本質的にやってる事は何も変わらんかった訳です。
無論、井上成美先生の様に中道派の真ともな軍人さんもいた事も無視してはいけない事実です。
これは小生達生粋の古来の豪族の血を引き、天皇家と同じ神仏習合の日本宗教観を大切に思う保守派である本物の日本人から見るとチャンチャラおかしい政治で、一夕会のやった事はとても保守派とは言えませんでした。
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さて数年前、神奈川県立歴史博物館でも展示されたり小生が今から話す事と同じ内容の歴史事実の解説も行われましたが、第二次世界大戦で日本がアメリカに唯一勝機を見出す戦いで決選兵器となるべき戦艦大和の不戦撤退があった事は有名な話です。
実は、その当時の戦艦大和は東郷元帥達明治~大正時代の軍人達が見たら昭和の軍人を怒り罵倒しながらドツキ回すであろう状況に成っていた事を知る人は多くは有りません・・・
実はこの時、戦艦大和は海軍幹部達によって撃沈されたら困る内装の❝高級ソファー❞や守り神である❝神様達の御分霊❞が撤去されていたんですね。
・・・つまり対米戦線の火蓋を切った昭和の軍幹部、一夕会の影響下での出世に靡いた連中は❝最初から勝つ気も日本人を御守り下さる神仏に対する信仰心も無く負ける事を考えていた❞事が戦艦ヤマトへの❝仕打ち❞で証明出来る訳です。更に彼等は口先では国民や軍の低階級指揮官には「負ける訳が無い」とデマを流しながら自分達の司令部は海軍なのに海の無い慶応大学日吉キャンパスの地下に造られた地下道塹壕網の中に引き込もらせ空襲を警戒したり、最初から完全に勝つ気なんか無い癖に自分達の身体だけはシッカリ守ろうとしていた訳です。
マジで保守派から見れば勝つ為の信仰も捨て、不利な現実を直視し落し所を見つける努力もせず、下級職の部下を使い捨てにして、本当に統治崩壊していた訳です。
さて、今回紹介する御寺はアホな小説家達のせいで愚鈍なイメージで演出され、それを自分で検証確認もせず妄信する阿呆な半端な歴史好き共に実績を無視された平安時代末期の悲劇の名将❝源範頼❞公の菩提寺の御話ですが、その御寺は一夕会軍事政権の政治のせいで今では凄く解りずらい場所に在ります。
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御寺に行くには京急の隧道をくぐって、横浜市金沢区片吹と言う場所の住宅街の奥の谷地形まで行かなければいけません。横浜市歌を歌える生粋のハマっ子でも国道16号線が通り、一般住宅が立ち並ぶ普通の住宅街のイメージしか湧かない人の方が多い場所で、地元民でも無いとそこに由緒正しい御寺があるなんて気づく事も出来ません。昔は関東学院全ての敷地が広大な御寺の境内地だったのに昭和の一夕会軍事政権のせいで今の狭い敷地に不幸な移転を強要され縮小させられた凄い歴史偉人、源範頼公の菩提寺が在るんです。
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海蔵山 太寧寺その御寺の名は海蔵山太寧寺と言います。名将源範頼公の菩提寺で臨済宗の元大寺院でした。
元は今の関東学院の埋め立て地を除いた全域が境内地だったですが、今では無残な程に縮小されており小生は昭和の軍幹部と、敗戦後に寺境内地を勝手に登記する詐欺的な連中とそれを容認した明治大正生まれ世代で横浜市役所に勤務したクソジジイ共に殺意に等しい怒りを感じます。
そもそも源範頼公は源頼朝公の弟と言うだけでなく御自身が名将だったのに阿呆な江戸時代や昭和の小説家の演出を妄信する馬鹿共のせいで愚将のイメージを持つ奴ばかりで歴史事実と乖離した悲惨な待遇を現代人からも強いられています。
実際は実戦経験の豊富な平清盛や平宗盛旗下の平家軍を相手に堅実に大損害を受けずに勝ち続けた源氏勝利の立役者が源範頼公の実像で、兄君の源頼朝公も生前は範頼公を深く信頼していました。
源義経が名将の様なイメージで評価を混同する馬鹿が多くいますが、一之谷の合戦でも準備万端な平家軍を釘付けにして損害を最小に抑えたのは範頼公の統率力と作戦に由(よ)りますし、そもそも鵯越の逆落としと呼ばれる作戦を立てたり実行したのも源義経ではなく横浜市都筑区の茅ヶ崎城主だった多田行綱公と、名軍師で三浦一族だった三浦半島横須賀市佐原城主だった佐原義連公の功績による物です。
その作戦を採用したのが当然ながら源範頼公だった訳で、源義経公はその実行部隊の隊長を任せられて多田行綱公と佐原義連公の御膳立てに乗っかり、頼朝公の与力の名将、土肥實平公や畠山重忠公や熊谷直実公が軍勢を統率しての挟撃作戦成功に他なりません。
太寧寺周辺 久良岐のよし
そんな名将、源範頼公の菩提寺の太寧寺は現在では❝絶対に太平洋戦争中迄は全てが境内地だった狭い谷間❞の中に在ります。
しかし、この狭い谷間さえ戦後の混乱に乗じて土地が何某の連中に登記され宅地開発されてしまい見る影も無く縮小、御本堂と御住職の比丘尼様の住む庫裡が有るだけに成ってしまいました。境内の庭すらロクに有りません。
この御寺が移転縮小させられた原因は小生が批判する昭和の一夕会政権に責任が有ります。
昭和の一夕会政権下の軍幹部達は各地戦線の不利を正しく天皇陛下に上奏せず隠蔽し、しかも負けるが前提の勝つ作戦や落し所を合理的に見出す精神論では無い作戦とは乖離した、実際は逃げて回り兵站(へいたん=食糧軍需品の輸送路とその中継基地)すら確保せず兵糧も補給できない状況も直視せず末端の兵士を使い捨てにした現実逃避の隠蔽主義で軍政を行っていました。
自分達の司令部は横浜市港北区日吉の慶応大学地下に作ったり、東京都の高尾山の山中地下に作ったり、自分達の身を隠す事に執着しながらも、その圧倒的不利を直視していなかった訳です。
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そして自分達の身を守る為だけに首都東京の制空権を守ろうとして横浜市金沢区野島に零式艦上戦闘機通称❝零戦❞の格納庫がわりの大地下壕を建設開始します。
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その為に現在の日産追浜工場とテストコースとなった横須賀飛行場の拡張工事も始めました。
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金沢区は金沢八景の名で景勝地として知られた場所だったのですが、アホの昭和の軍事政権下の軍幹部と、戦後のアホの市長の政策で京都の天橋立以上に美しかった海や島々や半島が無残に埋め立てられてしまいました。この太寧寺もそんな一夕会軍事政権の❝現実逃避作戦❞と宗教に対する文化と信仰心の欠如で拡張された横須賀空港の犠牲と成りました。
太寧寺旧蹟周辺 久良岐のよし
太寧寺は元々は瀬ケ崎と呼ばれた土地だった関東学院小学校の敷地に在りました。
瀬ケ崎時代の太寧寺
そして今の日産の工場一帯と一緒に空港拡張の為に臨済宗の大寺院として各時代の歴史偉人達に大切に保護されて来た歴史を無視され、現在の片吹の奥の谷間の狭い敷地に追いやられ、その時に範頼公の墓所も止む無く一緒に掘り返されて現在地に墓石と一緒に移転して来ました。
しかも!例によって終戦直後に信仰心の無い左翼建設利権や外国勢力の強い横浜市は多くの神社仏閣の境内地が勝手に地元民によって土地登記されてしまい、縮小し衰退した場所が多く、太寧寺も例に漏れず現在の惨状と成ってしまいました。
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由緒ある御寺なので、源範頼公の菩提寺として鎌倉幕府執権北条家からも支援を受けていた為か御寺の寺紋も〇の囲いの無い三鱗紋の使用を許されています。
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小さくなっても文化を大切にしている御住職の比丘尼様の趣向で掲示板には博物館の広告も掲示されています。
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他にも、その日の法話みたいな良い心構えが掲示されていました。ここの御住職の比丘尼様は若かりし頃インドやタイやスリランカにも仏教寺院に留学したり、偉人の顕彰活動に訪れていた活動的な方でした。
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だからこそ源範頼公の菩提を弔うのに相応しく、座禅会を開いて御近所の子供に精神修養の機会を与える役割を担うのに相応しい人物ですね。
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御寺の規模は本当に往時の様子を窺い知る事は出来ません。
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でも御近所の子供のいる御父さん御母さんにとっては親しみ易い御寺として機能しているみたいです。
小生が訪問した時も御住職様が御菓子を出してくれたり、色々と熱心に説明して下さったり、若い頃の話をして下さったり・・・
「あなた、私の名前を出して良いからタイに留学しなさい。論文のコンペに出なさい」
・・・と言われてしまいましたが、すみません比丘尼様。小生俗物なのでこの間頭丸めるのが嫌で別の御寺で「寺継がない?」と言われたのを御断りしたばかりなんです(笑)。
そう言う貴重な機会は真面目に修行してらっしゃる御寺の跡継ぎとして修行している若様達に差し上げた方が宜しいかと思います。そもそも小生は神社も好きなので御寺だけは無理ぃ~(笑)。
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本堂の左手には今では見かけない井戸が現役で使われていました。
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その更に右手奥に、凄く窮屈そうに源範頼公の瀬ケ崎の丘から御引っ越しして来た御廟所が在りました。本当に現実逃避せず多数派に流されず自分で分析する軍人サンだったら源範頼公の功績を理解できて、こんな酷い扱いをしなかったはず。
終戦直後の横浜市の役人も同じ様に谷間の元境内地の住宅地登記を認めた罪は重い。

源範頼公の能力は中国の将軍に例えれば秦の王翦将軍に等しい素晴らしい物だっと小生は思います。
もっと大切にされて然(しか)るべきだと思う。

さて、この太寧寺みたいに今は小さく成っていても凄い歴史偉人と関係の深い神社や御寺や城跡の公園や山がきっと皆さんの家の御近所にも有る筈です。
だから皆さん、御近所御散歩して神社や御寺や城跡の公園や山の看板を少し読んで見ませんか?
そうすればきっと皆さんと歴史偉人を繋ぐ場所にそこが成って、自分の地元に更に愛情も湧くかも知れません。
そして、多くの苦労や悲しみや少しの成功と喜びを積み上げて今の私達の生活を作ってくれた先人達に感謝の気持ちを伝えてあげて下さい、きっと歴史偉人や神様や仏様も喜んで下さると思います。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪







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今月は休日も色々と遊びでは無くて人に会う用事が立て込み、週末なのにスーツや少しカジュアルだけどカチっとした格好で過ごし慌ただしかった。
そして今日(現時点では前日)10月27日の日曜日は久しぶりに休日らしい日を過ごす事が出来た・・・

今月中旬、はまレポの記者もやってるブロガーの❝知の冒険❞サンの中の人(笑)と初対面した時以来、やっと今月2回目の完全な休日だった。
知の冒険さんは近世~近代の色町の文化や、現代に影響を与えた民間事故の記録等を掘り下げるニッチなジャンルの歴史オタク記者で、小生の知らない事を多く知っていて記事も面白い。
知の冒険ホームページ⤵
https://chinobouken.com/

今日会ったのは知の冒険の中の人(笑)ではなくて、鎌倉市の文化的な仕事をしている歴史仲間と言いましょうか、何と言うか安心して色々と将来の事も話せる先輩と言うか、こんな大人に成りたいなと思う先輩。
日本と中国の歴史と文化が好きで小生より色々と詳しい人。
奥さんも美術品とか好きで御夫婦で文化的な事が好きらしい
共通する文化が好きな人同士で夫婦に成った先輩の話を聞いて正直に羨ましいなと思う。でも今日会ったのは旦那さんの方の先輩。
以前は仕事で御一緒する機会が良く有ったのだが最近は顔を合わす機会が無くて・・・
「どうされていらっしゃるだろうか~?」
「こちらも色々と人生の岐路に差し掛かり近況報告も有るし、お会いしたいなぁ~」
・・・と思い、久しぶりに今月中旬に連絡をとって約束をしていた。

朝方、午前11時に先輩が住む鎌倉市の浄明寺地区近くの某駐車場で待ち合わせをして先輩をピックアップした。当初の計画では何ヶ所か小生がランチの候補地を先輩に提案して、先輩は佐島マリーナの❝海辺❞と言う和食レストランをチョイスしたのだが朝方暴風雨で昼近くに成っても天気が安定しなかった事と、先輩はよりにもよって前日に飲み会で❝刺身❞をたらふく食べていて生物を立て続けに食べさせるのも悪いと思い予定変更を早朝にメールで提案しておいた・・・
「鎌倉から近い金沢区の❝柴漁港の天丼小屋❞か❝喜多屋❞にランチ変更しませんか?」
・・・と提案した所、喜多屋をチョイスされたので車で先輩をピックアップして朝比奈峠を越えて金沢区へと出発した。実はこの先輩が小生に博物館のチケットや鎌倉市の調査報告書等を下さる人なんだな。

先輩から15時迄に鎌倉に戻りたいと事前に申告されていたので、それに合わせて食事以外に何ヶ所か喜多屋付近の歴史観光地を車中で推薦した。
・野口英世博士がペストの日本上陸を食い止めた旧横浜検疫所の長浜野口記念公園
・金澤山彌勒院稱名寺
・野島の伊藤博文公金沢別邸
先輩は神奈川県立金沢文庫(博物館)は仕事で用事が有り珍しくも無いと思い、敢(あ)えて選択肢として提案しなかった。まぁ、仏像に詳しい御方だし。
で、浄明寺地区某所から車を走らせる事20分位だろうか?直ぐに長浜野口記念公園の長浜ホール(旧横浜検疫所)に到着した。
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長浜ホール(長浜野口記念公園内、旧横浜検疫所事務所棟)
ここに来るのは小生2回目で、今年初春にも紹介記事も書いている。
以前書いた記事⤵
旧長濱検疫所の細菌検査室  野口英世記念公園内に保存される明治時代の建築遺産にして医療文化史跡・・・横浜市金沢区長濱。
今年初頭に写真撮影に訪れた際は旧横浜検疫所事務所棟の❝長浜ホール❞はペンキ塗り直しで外観撮影が出来なかった。今日は外観も化粧直しされ、素敵な近代西洋建築としての価値を自負する様に立派な姿を見せてくれていた。
先ずは管理室の職員さんに確認して1Fの展示を見学した。
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綺麗な応接室の様な階段下のエントランス。
その横に簡単な説明が有り、詳しい内容は別棟の❝旧細菌検査室❞に展示されている。
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長浜ホールの方には福島県の野口英世先生の生家の模型とか・・・
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・・・明治時代当時の周辺のジオラマとかが展示されていて、埋立による地形変化前の様子が良く解る。現在は目の前に団地が広がる長浜野口記念公園だが、当時は埠頭に囲まれ横浜港に入港する前の船を停泊させて防疫検査を行っていたんだな。
言い換えれば明治時代の日本における感染病原菌防疫の最終防衛ラインが、この横浜市金沢区長浜地区だった訳だ。
長浜ホールをサクっと見学してから旧細菌検査室にも行き、野口先生の人生の解説展示をたっぷり見て、それから細菌検査室内にも先輩を案内した。
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簡単な野口先生の足跡。
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細菌検査室内の様子とかは以前の記事でも紹介したので端折るが当時の機材がそのまま展示されているのだが見学すれば皆例外なくこう思うはず・・・
「え~!当時こんなショボい機材でペストから日本を守ったの‼」
・・・ってね。本当に野口英世先生の偉大さが判るから、横浜市の小学校は付近の横浜市南部市場で働く人の見学と八景島シーパラ遠足と合わせて社会科見学遠足させるべきだと小生は思う。
見学を終えて先輩と車に戻り、そこから10分かかるかかからないかで喜多屋に着いた。
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喜多屋 & CaféDiningぼたん実はつい最近も知の冒険サンとオフ会で来たばかり!歴史好きな人はいくつか食事処を提案しても皆ここに来たがる。歴史好きだけでなく女性にも人気が有るので、着いた頃には若い女性の友達同士らしい二人組や近隣の夫婦らしい御客様で昼の12時前に既にほぼ満席の賑わいを見せていた。
先輩は昔からの横浜の名物の❝小柴の穴子❞の天ぷらを食べれるランチを、小生は秋刀魚を使ったランチを注文したのだが・・・
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御店の人の間違いで小生には横浜の新名物❝ハマポーク❞と柿のソテーが調理されて来た。一応、御店の人に注文と違う事を伝えた。
「僕が注文したのは秋刀魚の料理なのですが・・・」
「もし、まだ秋刀魚を調理して無ければコレでも結構です。でも一応、他の御客サンと間違えでは無いか確認して頂けませんか?」
・・・と申告した所、御店の調理担当の方の配慮で「秋刀魚の料理も後から出すのでハマポークのソテーもサービスさせて下さい。」と何ともラッキーな展開に成った。
「結構ですよ、御気遣い無く。」
・・・と再度言ったのだが店員さんが謝罪として料理を提供して下さったので、先輩と半分こして食べた。
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ハマポークも秋刀魚もとっても美味しかった!
でも・・・う~ん・・・男同士で料理シェアするって変な気分だった(笑)。早く奥さん見つけて奥さんと料理半分こ出来る様に成らんといけないなぁ(笑)。

この時に先輩にも披露した小話を皆さんにも紹介すると、心理テストで実は飲食店で間違えて提供された料理を店員に間違いを告(つ)げず食べる人は不誠実で異性に対しても恋人がいても別の異性から告白され浮気のチャンスが有れば拒まず肉体関係を安易に持ってしまう確率が高いそうだ。
そりゃそうだ、来る者拒まずって事だからね、そうなるだろう。更に食べてから店員に「自分が注文した物を出せ」と喚く奴は悪人で相手に間違いを告げず騙して食べてしまい食べてから言う訳だから妻子がいても相手に何も教えず不倫して、相手が本気に成ってから妻子がいる事を告げて異性を捨てるクソ野郎って事に成るな。
・・・先輩は笑いながら聞いていたが、本当に結婚前からの彼女とは結婚せずに別の女性と結婚し子供まで作りながら彼女と別れず不倫して、挙句の果てに「好きでも無い女と腐れ縁で結婚前から続いている」なんて言い腐る悪人も小生の知ってる男性にいる。

まぁ、そんな事を思い出したりした。
このランチは1500円でデザートも付く。小生と先輩は二人共、栗のクリームブリュレを頼んだ。
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これもとても美味しかった。
食事を終えてから文化財していされている喜多屋の館内を少し見学させて頂いたのだが、生憎(あいにく)と昨日は研修旅行客で満室になっており客室の見学は出来なかった。
しかし明治時代の建物で、大正時代には確実に存在して品川~横浜~現在地へと移築されて来た浴室だけは御厚意で見学させて頂けた。
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写真は以前の物だが、大正ガラスのステンドグラスがとても綺麗な御風呂。
喜多屋については以前、紹介記事を書いているので御興味有る方は其方も御覧頂ければ客室の写真が掲載して有ります。
これ記事⤵
金沢区の喜多屋は元料亭の日本建築文化財の旅館&cafe。
館内を少し見学させて貰ってから鎌倉の入口朝比奈峠へ向かう途中に在(あ)る横浜市がマンション建設容認して破壊させた上行寺東遺跡の模造復元地にも先輩を案内して来た。
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上行寺東遺跡模造再現地
ここを横浜市は遺跡として主張するが、正確には背後のマンション敷地が昔の遺跡跡地。破壊直前、高名な東大や有名大学の歴史学者や神奈川県の郷土史家や地元住民たちが多く保護を要求し破壊反対したのに横浜市は文化保護意識が低く、日本屈指の矢倉研究の貴重な遺跡だった上行寺東遺跡を消滅を容認させてしまった。その批判が殊(こと)の外(ほか)大きく成ると、今度は横浜市教育委員会は批判の矢面に立たされた事に恐怖して慌てて強化プラスチックで模(かたど)りして、この偽物遺跡を造った挙句に❝保護❞と嘘の主張を始めたのだが・・・

・・・残念ながらその嘘は記録フィルムで拡散され、ライオンズヒルズ金沢八景が言うなれば壮大な事故物件に等しい程に開発中に敷地から夥(おびただ)しい武士や僧侶の人骨が掘り返された事は歴史家や正義の横浜市民達の知る所に成っている。
まぁ事故物件どころの騒ぎでは無いな、源頼朝公と文覚上人と言う鎌倉時代の偉人が建立した寺院跡なので壮大な聖地&墓地を破壊した訳だ。
横浜市は現在も12万人弱も開発反対署名が集まり、横浜市の有識者で評議し議決で過半数も反対した❝円海山瀬上沢流域一帯の横浜市最大最後の蛍群生地❞すら、林市長以下役人と東急グループはその反対を無視して東急グループに開発させ様としており、現在多くの横浜市南部地域の市民から東急諸共批判にさらされていたりする。
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詳しくは蛍観察出来る場所の様子や歴史を合わせて以前、記事で紹介しているので御興味有る方はソチラも御覧頂ければ宜しいかと思う。
これ⤵
円海山で蛍が観察出来る季節です。横浜市磯子区~金沢区~栄区~港南区に跨る横浜市最大最後の自然保護区。
上行寺東遺跡のハリボテを文化財を大切にする鎌倉市に住む先輩はコンコン叩きながら笑っておられたが、横浜市の築地育ちでハマっ子ではない林横浜市長と同じく、現在の鎌倉市長も郷土文化歴史への知識が欠落した上に物事を自分一人で判断出来ない人で、釈迦堂切通しや釈迦堂口遺跡や名越邸址等の重要な歴史史跡&文化財の保護や住宅道路や散策路の再整備を行わず放置したまま❝とりあえず封鎖❞したまま放置していたり、先年から問題に成っている北鎌倉の隧道も市民と土建屋の板挟みのまま保護も補強もせずに放置して無能振りを晒して鎌倉市職員や教育委員会や文化意識の高い市民からも白い目で見られているそうだ(笑)。
一頻(しき)り上行寺東遺跡の❝ニセモノ(笑)❞を見物してから先輩を鎌倉に送る為に車に乗り込み、車中で先輩にずっと疑問に思っていた鎌倉市のとある遺跡について質問をした・・・
「そういえば今年の正月に鎌倉幕府初代政所別当の大江広元公の所領だった厚木の毛利台に行って来たのですが、大江広元公の御廟所の矢倉って法華堂では無くて十二所山中に有ると言うのは知っているのですが、場所御存知ですか?」
・・・と質問をした所、実際の所、伝承によって大江広元公の御廟所と伝わる矢倉が十二所山中に在るそうで先輩も調べに行ったのだが結局詳しい事は解らなかったとの事だった。でも十二所の朝比奈峠入口近くに「❝大江広元公邸址❞は在るよ、案内しようか?」と思いもよらない回答が出て来たので、近くのコンビニに車を停めて先輩の案内で石碑を見に行って来た。
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本当に熱心な大正時代の鎌倉町青年団、この先人の御陰で小生達現代の若い世代は史跡の場所を確認する事が出来る。先輩と鎌倉町青年団の先人達に感謝。
先輩を御自宅近くの某駐車場まで送り別れ、一度帰宅してから今度は夕刻に❝小机城址竹灯籠祭り❞を見物に行って来た。
2018年度小机城址竹灯籠祭りポスター
昨年は大雨で中止に成り見物出来なかったんだな、毎年行ってたのに。
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今年は5千本の伐採した竹で作ったキャンドルの展示の仕方を例年とは変え、順路の導線が混雑しない様に工夫されており非常に見易(やす)かった。
・・・あ~、来年の竹灯籠祭りは大切な女性を連れて来てあげられたら良いのになと思いながら一人で見物。
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今年は今までと少し違って時期的にハロウィンも意識しているのだろうか(笑)?
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綺麗綺麗!
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近所の小机小学校と城郷小学校の生徒達によるキャンドル作品も出展されていた。
うん!こう言う事を子供の頃にやっていると自分の地元に関わった歴史偉人が凄い人だったって大人になって改めて知る事が出来るんだな!
小机城代だったのは戦国時代の関東の覇者、北条家で家老と外交を務めた笠原家、特に有名なのは笠原信為公だな。KOEIは横浜の歴史ゲーム会社なのに歴史知識が浅い奴等ばっかで笠原信為公や間宮康俊公等、東海地方の武将を痛撃した名将達を登場させなかったり登場させて以後も実績に反して低評価のままにしていたりするのだが、こうやって子供の頃に歴史偉人の足跡を学ぶ機会を得ていると、人のデマや噂に騙されず自分で情報を確認する分析力も身に付く。
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何か可愛らしいキャンドルが多かったな。
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竹取物語の再現は少し不気味だった(笑)。
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でも今年は部分部分にキャンドルを集中さえた御陰で竹が幻想的に照らされとても見応えが有った!
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日本の竹ファンクラブの皆さん、今年もご苦労様でした。
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この活動は非営利団体❝日本の竹ファンクラブ❞がボランティア活動で行っている。
ホームページ→http://takefan.jp/
誰でも参加出来るので御興味有る方は是非、御連絡を!皆さん喜ぶと思います。
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今年は残念ながら昼まで天候不順で雨もパラパラしていたので屋台が無かった。
でも住宅街の駐車場で地元の人が焼き鳥の屋台を出していたので晩御飯代わりに6本購入して頂きました。
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とても美味しかったですよ♪
小机城に関しても以前に解説記事を書いているので、御興味有る方は記事を読んで見て下さい。
中には城の解説、各武将の関連解説記事へのリンクも貼ってあります。
コレ⤵
2017年度 小机城市民の森竹灯籠まつりは10月28日に開催!小机衆家臣団の紹介も!
城からの帰り道、月明かりと日産スタジアムが綺麗に見えた。
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もう涼しく成りスッカリ秋の夜空だなぁ~。
そうそう、先輩からこんな御土産を頂きました。
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鎌倉市の調査報告書。これ去年の奴なんでとても楽しみにしていた物。必要なくなった分を下さいました。内容も当然、小生の興味対象ばかり。
先輩、ありがとうございました♪

さて、次回は何か歴史解説記事を書きたいなぁ~。




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前回の歴史解説記事⤵
瀬戸神社と手子神社・・・①金沢区の手子神社は瀬戸神社分社で東京の浅草寺の僧正が開いた神社。
コレ⤴の続き・・・

横浜市は実は鎌倉幕府の将軍や執権、室町幕府の将軍や鎌倉公方や関東管領上杉家、江戸幕府の徳川家康公を始め歴代将軍達が愛した景勝地や神社仏閣や関わった城址が沢山❝在(あ)った❞のですが、残念ながら2018年現在の横浜市長もそうである様に他所からの移民が政治家や市役所役人として就職する事が多く、その中の横浜への郷土愛も日本史や日本文化や文化財への理解も無い人によって大切な神社も境内地を大きく削られ歴史偉人の愛した景観が損なわれた場所も少なく有りません・・・
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実は金沢八景駅の直ぐ目の前に、そんな横浜市による文化軽視の悪い例でもあり、鎌倉幕府征夷大将軍の源頼朝公や執権の北条貞時公、室町幕府鎌倉公方の足利持氏公、徳川幕府初代征夷大将軍の徳川家康公が風景を愛し保護した神社の❝瀬戸神社❞が存在します。
金沢区昔の海岸線 久良岐のよし
地図上の白い場所が金沢八景の地名由来に成った当時の日本に名を轟(とどろ)かせた景勝地時代に海だった範囲です。
瀬戸神社の山は元は半島の突端で金沢八景の海の入江と入江を繋ぐ半島と半島が近接し、そこに橋を架けられた❝ランドマーク❞と成る場所だったんですね。
今では面影も無く他都市からの移住者役人だらけの横浜市により瀬戸神社旧境内地の山は切り取られ見るも無残に僅かに社殿裏側の一部を残すだけに成ってしまいました。昔は金沢八景駅周辺までずっと続いていたんです。
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瀬戸神社(各時代の幕府の歴代将軍が大切にした神社)
さて、この神社は目の前の海に突き出した琵琶島弁才天と一体型の神社で、既にその事から昔は周辺をとりまく海の安全を守り且(か)つ周辺の海も山も含めて神社だった事が解かります。言葉を変えると自然信仰である神道の概念を無視し横浜市教育委員会が景観保護を怠り❝神社の一部を破壊した❞とも言えますね。
この瀬戸神社、最初は源頼朝公が伊豆の三島大社から大山祇大神(おおやまづみおおかみ/おおやまつみのかみ)の御神霊を分祀して頂き開いた神社です。
つまり・・・
源頼朝公が相武地方に三島大社から御分霊を勧進した10ヶ所の神社の一つである事が解かります。
足柄上郡開成町古田島の吉田神社や・・・
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吉田神社
三浦半島葉山マリーナ近く森戸海岸の森戸神社・・・
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森戸大明神(森戸神社)
・・・これらの源頼朝公が三島大社の御分霊を勧進して開いた神社と同時に源頼朝公によって開かれた事が由緒から解りますが、特に鎌倉市街の外港玄関としての機能が在った金沢の瀬戸神社三島大明神と琵琶島弁才天は別格に将軍家から大切にされた様ですね。
今でこそ❝瀬戸神社❞と呼ばれていますが、三島大社の御分霊なので江戸時代までは❝三島大明神❞とも呼ばれ、当時の扁額(へんがく)にも三島大明神の名前が彫られ文化財に成っています。
三島大社や瀬戸神社の主祭神である大山祇大神は、神奈川県最古級の神社である延喜式内社としても有名な大山阿夫利神社と大山山体の神様でもあり、相模湾と相模平野のランドマークとして❝関東総鎮守❞の異名を持つ❝海の守り神❞でもあります。
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そして眼前の琵琶島弁才天も源頼朝公と北条政子御夫妻が今の滋賀県、近江国の琵琶湖に浮かぶ竹生島弁才天様から御分霊を頂き開いた、水神様で軍神で音楽神で美の女神でもあります。
そんなとんでもない由緒が有る凄い神社が瀬戸神社と琵琶島弁才天なんですが・・・
そんな事を知らない役人が横浜市には多い様です。
そんな凄い神社だけに残る文化財の数も現代の境内の規模から想像もつかない程沢山残っています。
数えればキリが無い位なので、もし興味が有る人は❝神奈川県立金沢文庫博物館❞で2013年に行われた特別展❝瀬戸神社~海の守護神~❞の時の図録が金沢文庫博物館の図書室で閲覧出来るはずなので探して見ると良いと思います。
一応、神社の説明の看板に幾つか文化財の説明が有りますので写真を添付します。
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この神社の凄い所は、江戸時代迄日本の神道の親玉で今の京都市左京区の吉田山~京都大学一帯が全て境内地だった吉田神社との関係が深く、明治時代に成ると国家神道から目の敵にされ弾圧された吉田神道と言われる神仏習合の神道の長であり、明治まで歴代天皇と将軍家から神祇官を束ねる役割を仰せつけられていた吉田(卜部)家からも大切にされていた事が古文書から解っています。
実際に享保三年(1718年)に神祇管領長上だった卜部兼敬(うらべかねたか)公は❝三嶌(みしま)大明神❞の揮毫(きごう=記念に書く事)をし扁額の字を書いています。そして彼はわざわざ京都から瀬戸神社に参詣に来て初穂料(はつほりょう=御賽銭)に白銀1枚、当時の宮司家の千葉胤治(ちばたねはる)公に金と藤原定家や寂連法師や西行法師(和歌三夕と呼ばれた和歌の名人達)の和歌が書かれた色紙を与えています。
今の横浜市は瀬戸神社の文化歴史を理解できておらず景観も破壊しますが、昔は神社世界のトップが直々に来る程に大切な場所だった訳です。
そして横浜市や房総半島や日蓮宗の歴史に詳しい人は「ん?」と思ったかも知れませんが、大名としての地位は戦国時代に終了した平安時代以来の武家の名門の千葉家は、実は金沢区六浦や瀬戸神社ととても関係が深く、日蓮宗の聖地の一つであり日蓮上人の船中問答の舞台である六浦山上行寺は千葉家臣団が房総から鎌倉に出勤する際の船着き場で、そこを管理した富木(とき)家の屋敷が前身に成っている御寺です。
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六浦山 上行寺
千葉家が没落し富木家の後に鎌倉時代上行寺を支援したのは金沢北条家臣と思われる荒井家で、後に戦国時代の北条家臣間宮家の家老の一家と成る家ですが、この荒井家も瀬戸神社に関わりが深く瀬戸神社と琵琶島の弁天様の在る島を結ぶ二重橋だった琵琶島弁才天の参道の橋を単独で寄進したのも荒井家でした。上行寺の御住職様に取材した時にこの話を伺(うかが)ってたまたま小生はこの歴史事実を知っていますが、恐らく知らない歴史学者の方が多いかも知れません。
この荒井家は横浜市磯子区杉田の牛頭山妙法寺も開いており、今も檀家として荒井家の御子孫が妙法寺には残っておりますし、江戸時代に笹下城主間宮家から分家した杉田間宮家の菩提寺として妙法寺は今も立派な間宮家御廟所が存在しています。
2015-01-21-13-16-37
牛頭山妙法寺
妙法寺はヤマトタケル神話の舞台の一つでもある元は弘法大師様が牛頭天王の御堂を立てた事に聖地としての歴史が始まる御寺ですが、こちらも以前に解説記事を書いたので御興味御有りの方は合わせて御覧下さい。
妙法寺の記事はコレ⤵
妙法寺…日本武尊神話の有る後北条重臣間宮家の菩提寺…横浜市磯子区杉田。
多分、瀬戸神社の琵琶島に架かっていた太鼓橋を荒井家が単独で架橋奉納した歴史を御存知なのは上行寺の御住職と檀家役員さん達位でしょう。それと北条家臣団と間宮家研究の第一人者である盛本昌広先生なら御存知かも知れません。
鎌倉幕府将軍家や執権北条家が直接関与する程の格の「瀬戸神社」に単独で橋を寄進する事を許される家格と経済力が荒尾城主荒井家に有った事、そして千葉家が鎌倉時代~江戸時代末期までずっと金沢に宗教面で影響力を持ち続けて家も存続していた驚愕の歴史事実が、これらを繋ぎ合わせるとハッキリと解るんです。
因みに荒井家の荒尾城は幻の城ですが、小生は上行寺~横浜市大の裏山である御伊勢山~権現山一帯全てが荒尾城と推測し、実際に現地を歩いて城址としての削平地や竪堀や堀切の跡地形を見つけています。
それも以前、記事に書いて有るので興味の有る人は御覧下さい。
これ記事⤵
【城郭ファンへ拡散】六浦山上行寺の解説と、間宮家臣荒井家の鎌倉武士時代の幻の城址❝荒尾城❞発見?の報告と協力要請。
室町時代には最後の鎌倉公方(関東を治める鎌倉将軍)と成った足利持氏公も直接参拝に来ていてこんな古文書が残っています。
塙不二丸所蔵文書
これは塙不二丸氏所蔵文書の一通として残る古文書の写しを小生がタイピングした物ですが、文中に登場する❝上様(将軍様)❞はつまり足利持氏公です。
因(ちな)みに何で小生がこの文書を知ったかと言うと、盛本先生が書いた❝瀬戸神社に来た足利持氏❞と言う文章を読んだからで、盛本先生の受け売りですね(笑)。
そしてこの文書のあて先は鹿島神宮の大禰宜(大宮司)中臣家宛てと盛本先生は推測されています。
ね?
神社仏閣好き、御朱印好きなら、もうここまでの小生の説明で瀬戸神社がとんでもなく格の高い神社だった事が御理解頂けるかと思います。
そして横浜市教育委員会が景観保護しなかったせいで土建屋が景観ぶっ壊しまくった悪事が判るでしょう?
そんな瀬戸神社と日本屈指の景勝地だった金沢の八ヵ所の景勝地、略して金沢八景を徳川家康公も遊覧に来ていて、洲崎町屋地区の龍華寺に徳川家康公が滞在し、瀬戸神社にも社領100石と破格の待遇で瀬戸神社を保護をしています。
2015-03-04-17-10-31
知足山 龍華寺
龍華寺の歴史は以前紹介記事を書いているので、御興味の有る方はソチラも合わせて御覧下さい。
龍華寺の記事はコレ⤵
龍華寺…源頼朝公が開いた横浜市金沢区の古刹。
瀬戸神社の社領(神社の収入)は徳川家康公から100石分与えられていますが、普通の神社や御寺の収入は歴史が有る場所も普通は5~10~15石程度が標準的なので、瀬戸神社がとんでもない大切な場所だったのがその社領の多さからも判ります。余談ですが出雲大社は2000石で最早ちょっとした勢力でした。

さて、瀬戸神社の歴史解説どうでしたか?
とぉ~っても!日本レベルで大切な神社さんなのが御解り頂けたでしょうか?
次回は三島大明神と呼ばれた瀬戸神社~琵琶島弁才天の社殿や風景を写真と共に解説します!
今日帰ってきたら書けるかな~?
もし書けなかったら又、来週末にUPしますね!

瀬戸神社と手子神社・・・③瀬戸神社、源頼朝公北条政子様御夫妻の愛した神社の現代の風景。の記事に続く・・・






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