2016年06月15日水曜日休日…
この日は、歴史に興味無い観光客は知らないいくつか名寺院と史跡を訪れる事に成った。

いつもの休日通り、時間が寝る時間勿体なくて徹夜のままお出掛け。
小町通りに買い物と、鶴岡八幡宮の某所に用事が有り鎌倉訪問。
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曹洞宗の道元禅師の顕彰碑が有る辺り、鶴岡八幡宮の駐車場からスタート。
鶴岡八幡宮の蔵書管理部門に鶴岡八幡宮の研究職の方の研究報告のコピーを依頼に行って来た。
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世間は平日のはずなのに、すげ~観光客。
それもそのはず、長谷寺と明月院の紫陽花が見頃だからね。長谷寺なんか整理券貰って1時間くらい待つし。
昼チョット前に到着、小腹空いていたので小町通に買い食いの為に移動。
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行きつけの❝シラスたこ焼き❞の店でブランチ。
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これ、シラスは入っててもアンマリ感じない(笑)けれど、関西に御縁の有る小生からしても❝たこ焼きその物❞として結構美味しい。
目標はミカドコーヒーの有る路地。その隣がタコ焼き屋。
食べ終わり、依頼した資料のコピーに時間がかかるとの事で普段は余り行かない扇ヵ谷(おおぎがやつ)地区を散歩に行った。
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小町通りの北側から脇道に入り東海道線の踏切を超えると、そこが扇谷地区。
そこは源頼朝公の祖先の代からの屋敷が存在した地区。
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実は鎌倉は、この扇ヵ谷地区、それと反対側の材木座地区の両端からスタートした町だ。
そしてメインストリートから外れている為(ため)に、この地区と浄明寺地区と言う辺りには鎌倉市の原風景が良く残っている。
小生が毎日心の中で御参りをする神社の一つが、ここに在る。
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八坂神社。
坂東でも名門の武家、相馬氏の居館に勧進された牛頭天王素戔嗚尊を奉る神社。
相馬家の居館の役割を終えて、神社として造営さた。
相馬氏は平将門(まさかど)公の子孫。更にそこに平良文(よしふみ)公の子孫が養子に入り家を継いだ坂東平氏きっての名門。何故名門かと言うと桓武天皇の直系子孫に当たるからだ。
桓武天皇統治の世は牛頭信仰が盛んだったので桓武天皇の建設した長岡京からは民間の牛頭信仰の遺物が発掘されてもいる。
DSC_2429桓武帝御子孫の坂東平氏の武将達も当然その牛頭天王=素盞嗚命と桓武天皇の御霊を崇拝した。
その典型的な場所が、この相馬氏邸宅跡の八坂神社だ。
この八坂神社の隣が報国寺で、そこが河内源氏の棟梁の屋敷地古址。
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明治政府成立以後、多くの神社仏閣の組織が解体されて個人の所有物として独立したり、組織的には国家体系に組み込まれ民間信仰が破壊された。
こちらも鎌倉時代~江戸時代終焉の長きに渡って鎌倉五山と呼ばれた国家運営の寺院だったのに、現在は個人経営状態に成ってしまった。
なので現在の御住職が老齢で体調も可成り悪いのに引退出来ず、巡礼者への御朱印も満足に応対出来ない程の状況に陥っている。そうやって多くの寺や小さい神社が滅んで行った。
現在の状況に困り果てた奥さんは参拝客に応対する事もままならず、御朱印も一切受け付けていない。
防犯すらも老人二人では覚束(おぼつか)無いので共に疲弊し、本堂への参拝も進入禁止されてしまっている。
御住職の妻帯による世襲や家族運営に頼らない、本来の仏教組織形態を維持出来ていたならば、こんな事にも成っていなかっただろう。
明治政府の唯一の失敗は、宗教改革の一点に尽きる。明治政府の宗教改革の失敗のせいで多くの神社と御寺が此の世から消えてしまった…

さて、寿福寺は今回は山門の前から御参りして終り、目的地じゃないから。
行きたかったのは銭新井弁天、鎌倉山の反対側の佐助地区。
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そこに至る道は緑深く空気も綺麗な上に、鎌倉時代に掘られた岩屋=❝やぐら❞や小さな御社や御地蔵様等、鎌倉文化の原風景が先述の通り多く残っている。
そして歴史に興味が無い観光客には余り知られていない名寺院が沢山在る…
例えば、この御寺…
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英勝寺。
浄土宗の尼寺。鎌倉で唯一現存する現行の尼寺。
そして、ここが何故臨済宗の多い扇ヵ谷地区において浄土宗として存在するかと言うと、浄土宗に帰依していた徳川家康公の愛妾の❝お梶の方❞が晩年、尼僧として暮らした御寺で彼女自身の菩提寺だからだ。
更に、この御寺は❝お梶の方の祖先の太田道灌公の屋敷跡❞に建つ寺院でもある。
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ここは建築遺産も立派だが❝隠れ紫陽花の名所❞であり❝隠れ竹林の名所❞で歴史好きと日本文化好きの隠れオアシスの様な聖地に成っている。規模が広い訳じゃない。
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詳しい事は、又、独立した解説記事を書きたい。
ここは小生が崇拝する偉人の一人の太田道灌公の邸宅古跡だけあり思い入れが有る。
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扇ヵ谷地区は観光地区では無いので、平地には鎌倉市民の一般住宅が多い。
さて、英勝寺を後にして先(ま)ず訪れたのが海蔵寺。
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ここは❝井戸❞と❝やぐら❞の御寺。
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山門入口に在る❝底抜け井❞は鎌倉で名水と言われた鎌倉十井の一つで、安達家の姫君の逸話が残る。
この井戸だけでなく、海蔵寺所管の井戸には名所が多い。
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普段は非公開の十六井
ここの御寺は多くの文化人が俳句に詠んだ場所でもある。
いずれ又、詳しく解説しようと思うが海蔵寺は扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)家が開基したと現在は伝承しているが小生は状況証拠から少々違うと思う。
ここは恐らく佐原三浦家が扇谷上杉家の命で開基した寺だと思う。
何故なら、三浦家終焉の土地、三浦半島油壷の新井城址、その傍に在る三浦道寸公と三浦義意公の菩提寺の名前も海蔵寺だからだ。そして、❝海❞蔵寺の海は正に水軍の三浦家に相応しい寺名。
恐らく歴史はこうだと思う…
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佐原三浦家の祖先、三浦家の宗家が存命中、まだ鎌倉時代に成る以前の平安時代末期、鎌倉の館を構えていたのがこの海蔵寺の場所。近くには三浦家が与力した大将の源義家公の御屋敷跡の寿福寺もある。
近習するには扇ヵ谷に屋敷も必要だったろう。
時代は下り、三浦家の宗家は鎌倉幕府の執権北条家に滅亡させられ、分家の佐原三浦家が三浦家の名跡を継いだ。
その佐原三浦家の鎌倉時代の菩提寺は以前も紹介した横須賀市大矢部の清雲寺、三浦家の本城の衣笠城近くに現存する臨済宗の寺だ。
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対して新井城址近くの海蔵寺は、曹洞宗。
この海蔵寺は三浦道寸公が開基した寺だ。
現在でこそ曹洞宗だが、これは戦国時代の三浦家を滅ぼした小田原北条家が曹洞宗に帰依していたので曹洞宗寺院として改宗させたのだと思う。
元は恐らく鎌倉の海蔵寺、それを佐原三浦家が本拠を新井城に定めた時代、つまり道寸の時代に鎌倉の海蔵寺を三浦半島新井城の近くにも分教区の寺院の様な存在として勧進したのだと推測している。
…あくまで、想像。
そこで、この鎌倉の海蔵寺の話に戻る。
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海蔵寺は裏庭が綺麗なのに、ここを見ようとする参拝客は少ない。
この海蔵寺、鎌倉時代に将軍家を守ろうとした三浦家の本家の事績に肖りたかった鎌倉公方(鎌倉公方足利家は京都の足利将軍家と対立していて常に窮地に在った)が、三浦家の子孫である佐原三浦家に祖先の屋敷地の跡に鎮護の寺院を開基する様に❝佐原三浦家に佐原三浦家の上官である扇谷上杉氏定を経由して命令を下し造営させた寺院❞だったのでは無いかと妄想している。
証拠が状況証拠しか無いので、妄想や推測としか言えない。
因みに、この上杉氏定、鎌倉公方足利持氏公と山内上杉(やまのうちうえすぎ)家の上杉禅宗(うえすぎぜんしゅう)が対立した際に❝足利持氏公に忠義を尽くし負傷、藤沢で自害❞とされているが、この❝藤沢で自害❞の舞台が初期の扇谷上杉家の居城と考えられる藤沢市の大庭城だと推測出来る。
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もっとも、この大庭城址、メジャーな古文書しか読まない若しくは誰かの書いたメジャー論文しか読まないパクり俄か学者や研究者は存在すら知らないバカが多い(笑)。
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実は、扇谷上杉家の居城の中でも糟屋館と同規模、初期の江戸城や河越城を凌駕する規模と堅固な地勢に在った。
扇谷上杉家が江戸城や河越城を本城に定めるのは糟屋館や七沢城や大庭城を次々と失陥した後の話し。
これは関東南部の郷土史を読み漁る人間しか知らない事で、近畿と東海地方史観のメジャーな本を幾ら読んでいても微塵も登場しない事実。

さて、海蔵寺が鎌倉公方鎮護の寺と位置付けられていたと推測するには一つ根拠が有る…
実は鎌倉幕府が滅亡した際に、幕府の執権だった北条高時を攻めた新田義貞が鎌倉への侵攻口が正に、この海蔵寺に近在する鎌倉の切通し七口の一つ、❝化粧坂(かわいざか)の切通し❞なのだ。
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化粧坂に通じる道の入口には当時の道の高さに石碑が立っている。
実は!この上部の石碑がある方形の窪み、有名な悪七兵衛景清こと、伊藤(藤原)景清が閉じ込められた当時の岩屋牢屋の跡で歴史遺跡でもある。
現在では道が掘り下げられてしまい、当時の地表の高さの位置に牢屋の岩屋が半分破壊された様態で取り残された訳だ。
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現在は歩きやすく舗装され、道幅も車が通れる様に開削されているが、明治時代に成るまでの切通の道は人二人が並んで歩ける程度、つまり往来があって辛うじてスレ違える程度の道幅だった訳だ。
ただの街道なら道は広く真っすぐ作るが、鎌倉は幕府の首府だったので山々を直角に切削し城壁として防衛し、出入り口も防衛施設の機能を有していた。
この道も屈曲しているが、昔はもっと鋭角にS字に成っていて軍馬に騎乗した武者が容易に通れない構造だったと推測出来る。つまり、後の城郭の喰い違い虎口の走りだな…。

ここを過ぎると直ぐに、鎌倉時代の切通しが姿を見せてくれる。
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鎌倉石と呼ばれる砂岩の地層を削りだした道は、豊かな緑が雨水を染み込ませ粘土層との隙間から僅かな湧水をしたたらせ要害性を増す泥坂と成る…
この地層を利用して日本屈指の城郭建設技術を確立したのが戦国時代の小田原北条家の北条早雲公な訳だ。
そして、古代の海底だった土腐(どぶ)に囲まれた低湿地地帯の丘に築城する技術を発展させたのが先に訪れた英勝寺の❝お梶の方❞の祖先の太田道灌公だ。
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この切通しが貫く鎌倉城(山に囲まれた鎌倉市街中心部を歴史的には鎌倉城と呼ぶ)の城壁代わりの鎌倉山や十二所の山々は、直角に削られている訳だが、この構造は以前「カテゴリー城郭」で紹介した三浦家の❝衣笠城❞の記事でも紹介している。鎌倉武士が培(つちか)った築城技術だ。
この道を多くの人々が往来した。
既に季節は梅雨だが、鎌倉山は新緑に覆われ日差しから小生を守ってくれ、風も涼しかった。
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化粧坂を越えて、再び分かれ道を鎌倉市街方面に降りて行くと佐助地区に出る…
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佐助地区に入って最初の神社仏閣が銭洗い辨財天で有名な宇賀福神社だ。
独立解説記事をその内書いて改めて解説するが…
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ここは本来、弁財天を奉っている神社と言う訳では無い。
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宇賀神と平安時代の人々が呼んだ神様が、後に弁財天様と習合されて同一視されたので名前は宇賀福神社として残りながら御祭神が弁天様として現在に至っている訳だ。
この宇賀神と言うのは日本神話による所の❝倉稲魂命(うかのみたまのかみ)❞=❝宇迦之御魂神❞を指す。
豊かさの象徴の女神として信仰されていた。
古代に於(お)いては穀物やなんかの豊穣の女神で、頭人体蛇の姿をした女神だった。
鎌倉時代に成ると、中国から宋銭が輸入され富の象徴は穀物経済から貨幣経済に変化したので、本来は穀物の豊穣の女神が財神の性格を持つ様に成った訳だ。
そして、後に日本に来られた七福神の弁天様が戦神と財神と美人神の性格を併せ持った、宇賀福神様と似た神様だったので武士や民間の信仰で同一視される様に成った訳だ。
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なんにせよ、富の神様。
ちゃんと弁天堂の霊水で御金を洗って来た。今は小生の部屋で神様と仏様の前に御供えしている。
もし、御利益が有って大金が手に入ったら、必要な分以外の富は全て日本文化保護と郷里の産業振興に役立てたいと心願を御伝えして来た。

この日はこの後で、佐助稲荷神社にも御参りしようと思っていたら…
トイレでチャックが壊れて社会の窓が閉じなく成った‼
…そんな状況で観光を続けれる訳も無く、ズボンの前が開かない様にズボンのベルトを上に引っ張りポロシャツを下に伸ばして不自然な状態で鶴岡八幡宮に戻った。
鶴岡八幡宮の親切で美人な司書の巫女さんが準備していて下さった研究報告書のコピーを受け取り代金を払い、いつも親切にして下さる御礼に、いつもの小生の儀礼通り小町通りで購入した御菓子を差し入れして帰って来た。

ふむ、社会の窓のチャックが壊れてブルーに成った以外、非常に充実した1日に成った♪