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タグ:鎌倉公方

神奈川県横浜市金沢区は横浜市の中の旧久良岐郡域に属する地域ですが、鎌倉時代から金沢区六浦が鎌倉の東京湾側の港として機能していたので文化圏としてはもう完全に鎌倉文化圏に属しています。
そんな土地柄なので金沢区には平安時代末期~鎌倉時代~室町時代~戦国時代(室町後期)~安土桃山時代にも重要な歴史偉人達が関わった神社仏閣や史跡と自然が沢山現存しています。
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竹嵓山 禪林寺(ちくがんさん ぜんりんじ)最後の鎌倉公方足利持氏公開基、初代古河公方足利成氏公再興、小田原北条家臣伊丹永親公支援の寺。

そんな金沢区の中に釜利谷東と言う地域が有り、そこには竹嵓山禪林寺と言う御寺が存在します。
小泉夜雨 葛飾北斎 
この禅林寺が存在する地域は歌川広重の描いた❝金沢八景❞で❝小泉夜雨❞と呼ばれた海近くの景勝地として近代まで知られていましたが、その海も昭和に成り戦後に県外からの移民が教育委員会の席を占める様に成ると歌川広重の金沢八景すら知らない彼等は保護を怠り、埋め立て地利権によって海は消され宅地造成によってその景勝は失われました。
さて、そんな景勝地であり鎌倉市街へ抜ける間道が通る場所だったので、この地は文系で学生時代に真面目に勉強していた人なら誰でも知っていて当たり前の歴史偉人が御寺を開いたりもしています。
永享の乱で逆徒の山内上杉憲実によって切腹に追い込まれ最後の鎌倉公方と成った足利持氏公により開かれ、その遺児で生き残った足利成氏公の親子によって再興された御寺が釜利谷東の禅林寺です。
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山門や御堂は最近の建替えの様ですが、木造で鎌倉文化を良く再現した造りに成っておりとても落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
残虐非道で籤(くじ)引き将軍として有名な足利義教が自分の不安定な地位を確固たる物にする為に赤松家始め多くの忠臣を謀殺したり挑発して幕府軍を送り込み滅ぼし更に総仕上げとして自分の地位を一番脅かす存在だった鎌倉公方足利持氏公と対立している山内上杉憲実を後援して今川家に命じ今川範忠公引いる鎌倉公方討伐の幕府軍を上杉家の援軍として送り込みました。
足利持氏公は降伏を余儀なくされ、金沢文庫の金澤山彌勒院稱名寺で出家した後に東京都世田谷区の永安寺に移って完全に隠居したにも関わらず、上杉憲実に攻められ自害に追い込まれました。
その後、関東武士団は結束して足利持氏公の維持を保護し有名な❝結城合戦❞を起こしますが、その時に足利持氏公の遺児達も敗戦で殺害され、最後に生き残ったのが足利成氏公でした。
この永享の乱と直前の上杉禅秀の乱が戦国時代の幕開けとされており、関東は関西よりも早くに戦乱の時代を迎える事に成りました。
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写真は鎌倉市浄明寺地区犬懸谷(いぬかけがやつ)の上杉禅秀邸址入口。
少し金沢区から話を外します・・・

足利成氏公に関しては幼少期の生い立ちが諸説あり、詳しい所は最近まで解らなかったそうですが現在では信濃国佐久郡の大井家によって保護されていたとする説が有力だそうです。
この大井家は祖先が東京都品川区大井の出身で、古代より相模国~武蔵国に土着していた紀氏の子孫とされる一族です。
その大井家の下で残虐籤引将軍足利義教の難を逃れた足利成氏公は、室町幕府将軍が八代将軍の足利義成(足利義政)公に変わった頃に幕府に対して関東武士団の強い足利成氏公鎌倉公方への就任の承認要求有り関東武士団を懐柔したい足利義政公の思惑が一致した事に由(よ)って、足利成氏公は父の跡空位に成っていた鎌倉公方の座に返り咲き親孝行を果たします。
そんな足利成氏公に父の代の因縁のままに再度叛旗を翻したのが、山内上杉憲実の子の上杉憲忠でした。
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江島神社(えのしまじんじゃ)
逆徒山内上杉家が従属させている扇谷上杉家と供に足利成氏公に対して叛旗を翻し挙兵すると、足利成氏公は多くの関東武士団に守られ険阻な要害地形で豊富な湧き水が有り、海から海路補給を行える江ノ島に籠城しました。この江ノ島は舒明天皇以来の天皇家勅願所(ちょくがんじょ)で天皇家が国家鎮護や様々な祈祷を行って貰う場所として江ノ島の岩屋(洞窟)を定めていました。その岩屋に源頼朝公が水と戦と音楽と美の女神の弁才天様を祀ったのが江ノ島神社の起源です。
その江ノ島神社の別当職だったのが、後に横浜市域の南部を統治した間宮家の一族で本姓佐々木氏、江島の別当職は岩本坊(真言宗系修験道寺院)と言う僧坊の住職を務め❝俗名を岩本❞、❝普段は間宮❞、❝神事では佐々木❞の苗字をそれぞれ使い分けた近江源氏の一族でした。
岩本坊は現在では岩本楼と名を変え江ノ島の有名旅館として多くの宿泊客で賑わっています。
この間宮家は戦国時代に禅林寺を支援した伊丹永親公の同僚の北条家臣で玉縄衆黄備隊付家老の間宮康俊公や徳川家康公の側室と成り姫を生んだ間宮於久の方や、大坂城総掘り埋め立て作戦を進言し但馬奉行佐渡奉行本牧奉行を兼任した間宮直元公を輩出しています。
その天皇勅願所の聖地江ノ島と弁天様の御利益と、足利成氏公の人望と采配によって山内上杉&扇谷上杉連合軍は撃退されました。

ところが、この頃関西では京都を荒廃させる応仁の乱を引き起こした戦犯の細川勝元が管領(かんれい)職に就任すると、鎌倉公方よりも関東管領上杉家を自分の言いなりに成る手駒として重視し出して関東の将軍である足利成氏公を軽視する政策を指示してしまいました。
すると足利成氏公は親の仇でもある山内上杉憲忠が細川勝元と謀略を巡らしている事を察知し、逆に忠臣の結城成朝公と共に謀略をしかけ西御門の鎌倉公方邸に上杉憲忠を呼び出し暗殺しました。
鎌倉市西御門周辺 久良岐のよし
そして成氏公を支持する大名の多い関東の南部と東部で上杉派を連戦連勝で撃破して瞬く間に関東南~東北部を制圧し上杉家を追い詰めました。
これに怒った人望の無い細川勝元は自分の権威では収拾が着かない事を悟ると御花園天皇に鎌倉公方追討綸旨を出させてしまします。この追討の綸旨は相手を朝敵(日本国の敵)と天皇の公認で指定してしまう事を意味し、こうなると人望が高く戦も上手い足利成氏公でも離反する大名が現れ苦戦を強いられる事に成りました。
そして上杉家は相模国を制圧し、鎌倉公方足利成氏公は鎌倉に帰還する事無く古河を本拠地にして以後は古河公方と呼ばれ歴史の授業では鎌倉公方にカウントされず戦上手で人望が高かった事績も教えられる事の無い人物と成ってしまいました。
この戦乱は❝享徳の乱❞と呼ばれます。この戦乱が続いた事が、もう少し後の時代に戦国時代最高の善政を行った北条早雲(伊勢盛時公)や北条氏綱公や北条氏康公等の北条家の名君達が関東に勢力を広げる切っ掛けと成って行きました。
そして北条家が横浜市金沢区一帯も勢力下に収めると、北条家臣伊丹永親公が禅林寺を支援する時代が来ました。
・・・ここで禅林寺の境内その物の解説に戻ります。
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禅林寺は山門の左手に小さな神社が在ります。
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金毘羅宮つまり神仏習合時代には金毘羅大将を祀っていた神社ですが、元は仏教以前のヒンドゥー教の水神様で鰐(クンピーラ)が神格化された神様でした。釜利谷は小泉辺りまで海が広がっていたので、正に船着き場として水神様の御利益が必要だったのかも知れませんね。
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山門をくぐると境内は室町時代成立の禅寺らしい人工的に谷を広げる為に山の斜面を掘削する❝裾切り❞と言う加工がされた❝谷戸構え❞に成っています。人工的に直角にした谷に囲まれている事で入口に門を築いてしまえば頑強な防犯に成り、更に火事の類焼防止も期待出来る訳ですね。
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桜の木でしょうか?御庭はとても手入れが行き届いて綺麗です。
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御寺なんだけど、手水社が有ります。多分、明治以前は神仏習合だったんだと思います。
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その隣に小さな祠が有り、延命地蔵と書いて有ります。
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御地蔵さん祀ったりしてるのは、どうも金沢区の富豪だった永島家から移されたらしい。
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でも縁起を書いた墨書きが色落ちして良く読めませんでした。
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御本堂も横から見ると又、趣が違いますね。
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さて、この御寺の寺紋は足利家の二つ両引き紋ですが、これも足利持氏公と足利成氏公に使用を許されたのでしょう。御寺の格の高さが解りますが、この日、色々と書物に残らない寺伝を御教授して頂いた御住職様はとても口調も物腰も柔らかい和尚様で偉ぶった感じ等は少しも無い綺麗な御寺と同じ紳士な方でした。
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御本堂は恐らく再建だと思いますが、破風の梁(はり)部分の彫刻は素晴らしい物でした。
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浦島太郎伝説・・・神奈川県域で海と関係の有る古い歴史の有る神社仏閣は、この彫刻が有る処をちょくちょく見かけます。入口の金毘羅様と同じく禅林寺の近くまで昔は海だった名残ですね。
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龍の彫刻も素晴らしい。
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もう梅の季節ですね~。
そう言えば梅の名所一覧も観梅の季節の参考にして頂ければ幸いです。
神奈川県の梅花鑑賞に適した梅林一覧←クリックで記事にリンク!
綺麗な御寺でしょう?
何だか庫裡では地元の老人の皆さんの茶飲み場を提供していたりするみたいです。
静かでゆっくり出来て、海が近くに無くなった現在でも風流な御寺ですね。
そう言えば!
近くに和菓子屋さんが有りましたので紹介します。
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この御店、アパートの1Fのシャッター商店街(笑)に1軒だけ頑張ってたんで気に成って入って見たら、凄く可愛い和菓子が沢山有りました。
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小生は梅の和菓子を買い食いしましたが、上品で美味しかったですよ♪

さて、禅林寺は新編武蔵風土記稿にも登場し以下の解説が有ります。

下総国關宿(千葉県野田市関宿)東昌寺末、竹嵓山と號(号)す。
當(当)寺は源持氏の建立にて、開山は禪藝(禅芸)と云(言う)、本寺開山(かいざん=初代住職)艮庵(ごんあん)禅師の上足(じょうそく=優秀な弟子)なり、永正九年(1512年)十一月二十六日寂す(没)。
中興開基伊丹三河守永親は永禄六年(1563年)閏六月長暦に閏月は十二月とあり十八日卒す(没)。
禪林寺雲岸宗悦大居士と諡(おくりな)せりと云、又江戸浅草寺の傳(伝え)に云、智樂院權僧正忠尊は伊丹三河守永親が子にて、紅葉山東照宮の御別当を兼帶(けんたい=兼任)し寛永年中當村御神領となりし後、其父菩提の爲(為)禪林寺を草々し十石の地を寄付せしと云。當寺の傳と異なり・・・
--以下省略--

要するに、この御寺が鎌倉公方の足利持氏公が開いた御寺で、最初の住職は禪藝和尚様で本寺の艮庵禅師の偉い弟子で、戦国時代には伊丹永親公によって再興され支援されました~って事と「浅草寺の住職の智樂院權僧正忠尊和尚様の御父さんが伊丹永親公で紅葉山東照宮(江戸城内の東照宮)も管理していた偉い人だよ」って事とかが書いて有る訳です。
そうなんです、この伊丹家は北条家臣で後に江戸幕府時代には宗教的な儀式で重要な役割を担う天台宗系修験道の偉い智樂院權僧正忠尊と言う法名の和尚様を輩出し、付近の手子神社を開き浅草寺と江戸城内の東照宮のトップだった人物なんです。

戦国時代の伊丹家の記録も後北条所領役帳に残っています。

江戸衆
伊丹右衛門太夫(康信)
弐百五拾五貫四百六十弐文 久良岐郡釜利谷(横浜市金沢区釜利谷)
弐拾三貫五百五拾文    同所壬寅検地増
此増分役者惣検地上改而可被仰付
六拾九貫百八拾三文    常葉(鎌倉市常盤)
以上三百四拾八貫弐百文
--以下省略--

この所領役帳が成立したのが1559年なので、伊丹右衛門太夫は世代的に伊丹永親公の御父上に当たる世代の人物なので、まぁそう言う事なのかも知れません。つまり、伊丹家は北条氏康公の時代には釜利谷にいて活躍し、禅林寺で座禅組んで精神修養してらっしゃったり学問を学んだりされていたかも知れない訳ですね。
この伊丹永親公の妹君に於菊の前様がいらっしゃり、豊臣秀次公の側室だった人物で女性としては出世された後に秀次公の切腹で一緒に処刑され悲惨な目に遭ったかも知れません。そんな事も有って、伊丹家は宗教的な修行をする智樂院權僧正忠尊和尚と言う偉人を輩出したのかも知れませんね。
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伊丹永親公の御廟所は鎌倉~室町文化の色濃く残る金沢区の御寺らしい矢倉の中に現存しています。
御墓を写すのは殿様に失礼なので、矢倉の上部の写真だけ掲載せて頂きます。
さて・・・
新編武蔵風土記稿で伊丹永親公の戒名は禪林寺雲岸宗悦大居士と紹介されていますが、これは誤りです。新編武蔵風土記稿では取材した人間の質によって書き間違えがどうも多い様です。
正しい永親公の戒名は現在も御寺にちゃんと伝わっています。
禪林院殿雲峰宗悦大居士これが正しい永親公の戒名です。
恐らくこの雲峰宗悦の峰は、付近一帯の円海山の山々~金沢区辺りまでの地域の事を❝峰❞と言う渾名で指していた様で、金沢区町屋の伝心寺にも峰の字を含む江戸時代の山号が記載されていたりします。

まぁ、そんな訳で禅林寺は凄い御寺なんです。
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受領した禅林寺の御朱印。

きっと皆さんの御近所にも凄い歴史偉人が守って来た神社仏閣や公園や山になっている御城の跡や、古代人が大切にした聖地の森や泉が有ると思います・・・
皆さん、御近所の神社や御寺や里山を散歩して、少し説明の看板に目をやり昔の人と一瞬、時間を共有したり新鮮な空気を吸ってリラックスしてみませんんか?

・・・では、又、次のブログ記事で御会いしましょう♪


















前回の休日雑記コレの続き。
       ↓


神崎遺跡を後にして、この日の元々の最終目標である飯田牧場のアイスクリームを食べに藤沢市の飯田牧場を目指して出発した。
今回、休日雑記は4回に分けて1日の行動をつづったが、実は目視すると余り移動距離は長くない。
04月22日の行動道程
黄色い線が最初の訪問地の有鹿神社本宮~飯田牧場の実際に走った道程(みちのり)。
赤い線が距離の定規とする5kmの長さ
御覧の通り、4月22日の訪問先で実際に走った移動距離はせいぜい15km。
余り広くい範囲を動き回っていた訳では無い。
まぁ、行き返り更に横浜までの距離も走っているのだが、それは含まない。
現地での移動は広範囲ではないが、それでも早朝の8時から夕方の4時頃まで目一杯時間を使っていた訳だ。しかし小生の1日の訪問先は分単位で事前に予定を組んで多い時で10件を超すので、この日は余り多くの場所を回ってはいない。
例えば昨年の間宮家の顕彰文の資料写真撮影と織田家の故地探訪で愛知県を旅した際の初日のスケジュールは12ヵ所+ホテル+夕食の居酒屋を回っている。
コレね。
 ↓

只、時間を無駄にしたくないので出かける前は臨機応変に組み替えれる行動予定を何パターンも時間軸で頭に組み込んで置く。
訪問先の優先順位を割り振って、全ての訪問予定先をGoogle mapに登録して置く。そして道路状況等もナビ機能に反映されるので時間との兼ね合いで訪問先で所要した時間に合わせて行き先を削って行く訳だ。すると案外と多くの場所を回れる。

今回は訪問先は比較的少ないし移動距離も短い。その替りに有鹿神社宮司様や温故館や神崎遺跡の学芸員様始め多くの方への質問に時間を使っていた訳だ。
だから、とても充実した1日と成った。
神崎遺跡から飯田牧場に到着すると何と駐車場待ちの車が住宅街の片側1車線の道に並んでいたが、運が良く比較的早く駐車場に入る事が出来た。
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ここは横浜市からも遠くは無い藤沢市。そんな場所で酪農家が乳牛を飼育して乳製品の加工食品やアイスクリームを製造販売している。
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だから当然、牛舎も隣接している訳だ。鎌倉市周辺の小さい子がいる御家庭なんかは近くを通る事が有れば立ち寄りアイスを食べれば、牛サンも見れて子供に自分達が食べる物の由来と感謝を教える良い機会にも成るかも知れない。
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アイスクリームは種類が豊富なのだが、如何(いかん)せん小規模な人気店だけに昼下がりには写真の通り、既に売り切れの商品も多い訳だ。

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芸能人にも知られている店の様で鶴見慎吾サンが趣味のサイクリングがてら立ち寄られたり…
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…何か良く解らん漫画の作家さんや多数の芸能人が訪問している様だ。その色紙の数は観光地の横浜中華街の有名中華料理店と同じ位だろうか?基準が可笑しいか(笑)。
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小生はラズベリーとホワイトラムレーズンを頼んだ。
予想を裏切りサッパリした舌触りと喉越しながらコクが有って美味い。
これを食べるとコンビニや観光地のアイスが如何に人工的な味付けや舌触りに加工されているかが解る。
後日、三浦半島の関口牧場で食べたアイスも飯田牧場に近い味と舌触りだったので自然なミルク由来のアイスは脂肪分もサッパリした物に成る様だ。

以下、飯田牧場の所在地と連絡先。
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飯田牧場の駐車場待ちで道路に車を停めている際に目の前に御寺が有るのに気が付いた。
花應院と言う御寺の様だ。綺麗な名前の御寺だ。
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❝小栗判官・照手姫縁起の寺❞と書いて有ったのだが浅学世間知らずな小生は❝照手姫❞が誰か知らなかった…
小栗判官は徳川埋蔵金で有名な徳川幕府末期の名奉行の「小栗上野介(こうずけのすけ)忠順(ただまさ)公の御先祖様か何かかな?」と思った。横須賀製鉄所を開いて近代日本造船の基礎を築いた偉人だな。東郷平八郎元帥から後に「日本を救った人物」として感謝された偉人だ。
しかし小栗判官について何も知らない小生。

…癖で直ぐに神社や御寺が有ると門前の看板や寺紋や宗派が気に成ってしまうのだが、「これは直接、御住職様に言われを御教授頂きたい」と思い飯田牧場でアイスを平らげてから訪問して見た。
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禅寺に有るアレ。「酒の匂いさせて山門(寺)に入っちゃ行かんよ~」ってアレ。
うん、禅宗(曹洞派=現在の曹洞宗)確定!
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この時点での認識…
「う~ん。小栗判官と照手姫ってのは何かの物語らしいが良く解らん」
…程度。ウダウダ読んでも考えても知らない物は埒(らち)が開かないので知ってる人に教えて貰った方が早い。さっさと御住職を訪ねようと中に入る。
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参道は細い。しかし恐らく明治時代以前は両脇の民家に成ってしまっている場所は塔頭寺院かなんかで境内地だったんだろう。
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石仏群が保存されている。謂(いわ)れは解らなかった。
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庭に落ち葉や雑草がチラホラ有ったので何だか無人の御寺の様な雰囲気で、人がいるのかな~?と思った。
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どうみても境内地なのだが普通の民家っぽい建物、離れの庫裡かな?と思いつつ本堂へ…
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どんな御寺か良く解っていずに参拝したのだが、取り合えず曹洞宗の御寺の様なので御本尊は釈迦牟尼仏だろうと思い、今回訪問の機会を思わず頂けた御縁と参拝させて頂けた事を釈迦牟尼仏様に御礼を申し上げ横浜までの帰路無事に帰れる事、そして小生が神社仏閣の保護や支援を担い先人の偉業を現代人に伝える事業が出来る様に、文化的な事や何か社会の役に立つ事が出来る様に、地域の産業に資する事を創生出来ます様にと大願をお伝えし、その様な事を行うに相応しい人間に成れる様に御導き下さいと御参りをして来た。
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まぁ、釈迦牟尼仏様を含め、いつも日本の神様達と仏様達と偉人達と御先祖様にしている祈念と同じ。
参拝を終えて取り合えず玄関に回ってインターホンを鳴らすが誰も出て来なかった。
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御自由に御持ち下さいと書いて有り冊子と札が置いてったのだが、流石に札は勝手に拝借する気にも成らずに写真だけ撮影させて頂き、照手姫の事が何やら書かれた印刷物の方は1枚づつ頂いて玄関を出た。
すると庭先に御住職が待ち構えており「いらっしゃい」と声を掛けて頂けたのだが…
「あれ?今外出からお戻りに成られたのかな?」と思って「冊子を頂きました。」とお伝えした所「全部見てたよ」との事。
小生→「?」「何ぞ?」
…と思った。
御住職様に「まぁ、入りなよ」と気さくに声を掛けて頂き玄関へ再度入り椅子に座らせて頂いた。
内心…
「何か怒られるのかな?」
…と、思いながらドギマギしてると御住職から意外な一言。
「実は最近、賽銭泥棒が多かったので全部遠隔監視出来るシステムにしてあんだよ!」と笑いながら教えて下さった。最近は日本でも物騒なので納得。
凄いのは出張先からでも監視出来るし、どこから入っても解るそうだ。
「先進的な御寺だな」と思い、そして同時に「御住職様気さくな方だな」と思ったら実は御住職、曹洞宗の偉い方だった。名刺を頂いて分かった。
色々と曹洞宗の組織や運営の話が聞けて非常に面白かった。
そして本題の照手姫の伝説を質問すると丁寧に解説をして頂けた。
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大まかな話は以下の通り…
室町幕府の時代、鎌倉府最後の鎌倉公方の足利持氏(もちうじ)公に永享の乱で小栗判官は今の茨城県に在った居城を落とされてしまう。そこで相模国の鎌倉郡俣野(今の横浜市戸塚区俣野)に落ち延びて潜伏していた。
※個人的な意見だが、鎌倉を本拠地にする鎌倉公方の足利持氏公に
常陸国(茨城県)の居城を落とされたのに鎌倉郡に逃げて来ると言うのは不可解な伝承。
そこで横山大膳と言う盗賊の元に訳(わけ)有って仕えていた照手姫と言う美女に出会った。
照手姫は本来は高貴な武士の娘だったそうだが、親を早くに亡くして横山を頼った様だ。
照手姫と小栗判官は恋に落ちて婚約した。
しかしこの横山は武士であり盗賊でもあったので、小栗判官の財産の横領を目論み照手姫の不義も許す訳もなく小栗判官を権現堂で暗殺してしまう。
→権現堂が花應院と関係あるらしい。
小栗は死ぬのだが生前の行いが良く、閻魔大王によって蘇(よみがえ)らせられる。
→だから花應院には閻魔大王が祀られている。

生き返ったものの化物の様な外見に成る病で歩く事もままならなかったのだが、藤沢の遊行寺(時宗の総本山)の大空上人の協力や照手姫の協力で和歌山県田辺市の温泉で湯治して回復すると、再び領地を与えられた。その後手勢を率いて俣野に攻め込み横山大膳を討ち取った。
→常陸国から鎌倉の他人の領地へ出兵したら室町幕府で大事に成って切腹されられるのでオカシな話し。この話の元には何か別の解釈が有るのかも知れない。
一方で照手姫は不幸が続き人身売買で売られて美濃国に流れ着いていたのだが、小栗判官に探し出されて目出度く結婚した。

…って話らしい。
昔は道徳教育の教材に成った話らしい。正直、そんな話を神奈川県民として知らなかった事が恥ずかしい。まぁ、そんなこんなで花應院の御住職に伝承やお寺について御教授頂けてとても嬉しかった。
更に本堂に通されて、目の前で閻魔様の木造を拝ませて頂く事が出来た。
この他に、御住職様が曹洞宗の偉い方と解ったので、同宗派で織田信長公所縁の御寺の江南市久昌寺が廃寺の危機に瀕している事を御伝えし、存続に向けた知恵を御教授頂く事も出来た。さっそく釈迦牟尼仏様に御参りした御利益が有った訳だ。

一頻り御住職から御知恵を御教授頂いて、車を停めたままの飯田牧場に戻った。
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牛さんズに御別れして、横浜の自宅までの帰路についた。

今回は4回に分けて22日の休日雑記を書いたが、当日は色んな偉い諸先輩方から様々な事を御教示賜り、食べ物も美味しく非常に良い休日と成った。
又、有鹿神社を参拝する際は飯田牧場も来たいし花應院の閻魔様と御釈迦様にも御参りに来よう。

これにて22日の休日雑記は御終い。

2016年06月15日水曜日休日…
この日は、歴史に興味無い観光客は知らないいくつか名寺院と史跡を訪れる事に成った。

いつもの休日通り、時間が寝る時間勿体なくて徹夜のままお出掛け。
小町通りに買い物と、鶴岡八幡宮の某所に用事が有り鎌倉訪問。
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曹洞宗の道元禅師の顕彰碑が有る辺り、鶴岡八幡宮の駐車場からスタート。
鶴岡八幡宮の蔵書管理部門に鶴岡八幡宮の研究職の方の研究報告のコピーを依頼に行って来た。
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世間は平日のはずなのに、すげ~観光客。
それもそのはず、長谷寺と明月院の紫陽花が見頃だからね。長谷寺なんか整理券貰って1時間くらい待つし。
昼チョット前に到着、小腹空いていたので小町通に買い食いの為に移動。
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行きつけの❝シラスたこ焼き❞の店でブランチ。
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これ、シラスは入っててもアンマリ感じない(笑)けれど、関西に御縁の有る小生からしても❝たこ焼きその物❞として結構美味しい。
目標はミカドコーヒーの有る路地。その隣がタコ焼き屋。
食べ終わり、依頼した資料のコピーに時間がかかるとの事で普段は余り行かない扇ヵ谷(おおぎがやつ)地区を散歩に行った。
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小町通りの北側から脇道に入り東海道線の踏切を超えると、そこが扇谷地区。
そこは源頼朝公の祖先の代からの屋敷が存在した地区。
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実は鎌倉は、この扇ヵ谷地区、それと反対側の材木座地区の両端からスタートした町だ。
そしてメインストリートから外れている為(ため)に、この地区と浄明寺地区と言う辺りには鎌倉市の原風景が良く残っている。
小生が毎日心の中で御参りをする神社の一つが、ここに在る。
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八坂神社。
坂東でも名門の武家、相馬氏の居館に勧進された牛頭天王素戔嗚尊を奉る神社。
相馬家の居館の役割を終えて、神社として造営さた。
相馬氏は平将門(まさかど)公の子孫。更にそこに平良文(よしふみ)公の子孫が養子に入り家を継いだ坂東平氏きっての名門。何故名門かと言うと桓武天皇の直系子孫に当たるからだ。
桓武天皇統治の世は牛頭信仰が盛んだったので桓武天皇の建設した長岡京からは民間の牛頭信仰の遺物が発掘されてもいる。
DSC_2429桓武帝御子孫の坂東平氏の武将達も当然その牛頭天王=素盞嗚命と桓武天皇の御霊を崇拝した。
その典型的な場所が、この相馬氏邸宅跡の八坂神社だ。
この八坂神社の隣が報国寺で、そこが河内源氏の棟梁の屋敷地古址。
2015-12-08-16-14-27
明治政府成立以後、多くの神社仏閣の組織が解体されて個人の所有物として独立したり、組織的には国家体系に組み込まれ民間信仰が破壊された。
こちらも鎌倉時代~江戸時代終焉の長きに渡って鎌倉五山と呼ばれた国家運営の寺院だったのに、現在は個人経営状態に成ってしまった。
なので現在の御住職が老齢で体調も可成り悪いのに引退出来ず、巡礼者への御朱印も満足に応対出来ない程の状況に陥っている。そうやって多くの寺や小さい神社が滅んで行った。
現在の状況に困り果てた奥さんは参拝客に応対する事もままならず、御朱印も一切受け付けていない。
防犯すらも老人二人では覚束(おぼつか)無いので共に疲弊し、本堂への参拝も進入禁止されてしまっている。
御住職の妻帯による世襲や家族運営に頼らない、本来の仏教組織形態を維持出来ていたならば、こんな事にも成っていなかっただろう。
明治政府の唯一の失敗は、宗教改革の一点に尽きる。明治政府の宗教改革の失敗のせいで多くの神社と御寺が此の世から消えてしまった…

さて、寿福寺は今回は山門の前から御参りして終り、目的地じゃないから。
行きたかったのは銭新井弁天、鎌倉山の反対側の佐助地区。
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そこに至る道は緑深く空気も綺麗な上に、鎌倉時代に掘られた岩屋=❝やぐら❞や小さな御社や御地蔵様等、鎌倉文化の原風景が先述の通り多く残っている。
そして歴史に興味が無い観光客には余り知られていない名寺院が沢山在る…
例えば、この御寺…
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英勝寺。
浄土宗の尼寺。鎌倉で唯一現存する現行の尼寺。
そして、ここが何故臨済宗の多い扇ヵ谷地区において浄土宗として存在するかと言うと、浄土宗に帰依していた徳川家康公の愛妾の❝お梶の方❞が晩年、尼僧として暮らした御寺で彼女自身の菩提寺だからだ。
更に、この御寺は❝お梶の方の祖先の太田道灌公の屋敷跡❞に建つ寺院でもある。
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ここは建築遺産も立派だが❝隠れ紫陽花の名所❞であり❝隠れ竹林の名所❞で歴史好きと日本文化好きの隠れオアシスの様な聖地に成っている。規模が広い訳じゃない。
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詳しい事は、又、独立した解説記事を書きたい。
ここは小生が崇拝する偉人の一人の太田道灌公の邸宅古跡だけあり思い入れが有る。
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扇ヵ谷地区は観光地区では無いので、平地には鎌倉市民の一般住宅が多い。
さて、英勝寺を後にして先(ま)ず訪れたのが海蔵寺。
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ここは❝井戸❞と❝やぐら❞の御寺。
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山門入口に在る❝底抜け井❞は鎌倉で名水と言われた鎌倉十井の一つで、安達家の姫君の逸話が残る。
この井戸だけでなく、海蔵寺所管の井戸には名所が多い。
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普段は非公開の十六井
ここの御寺は多くの文化人が俳句に詠んだ場所でもある。
いずれ又、詳しく解説しようと思うが海蔵寺は扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)家が開基したと現在は伝承しているが小生は状況証拠から少々違うと思う。
ここは恐らく佐原三浦家が扇谷上杉家の命で開基した寺だと思う。
何故なら、三浦家終焉の土地、三浦半島油壷の新井城址、その傍に在る三浦道寸公と三浦義意公の菩提寺の名前も海蔵寺だからだ。そして、❝海❞蔵寺の海は正に水軍の三浦家に相応しい寺名。
恐らく歴史はこうだと思う…
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佐原三浦家の祖先、三浦家の宗家が存命中、まだ鎌倉時代に成る以前の平安時代末期、鎌倉の館を構えていたのがこの海蔵寺の場所。近くには三浦家が与力した大将の源義家公の御屋敷跡の寿福寺もある。
近習するには扇ヵ谷に屋敷も必要だったろう。
時代は下り、三浦家の宗家は鎌倉幕府の執権北条家に滅亡させられ、分家の佐原三浦家が三浦家の名跡を継いだ。
その佐原三浦家の鎌倉時代の菩提寺は以前も紹介した横須賀市大矢部の清雲寺、三浦家の本城の衣笠城近くに現存する臨済宗の寺だ。
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対して新井城址近くの海蔵寺は、曹洞宗。
この海蔵寺は三浦道寸公が開基した寺だ。
現在でこそ曹洞宗だが、これは戦国時代の三浦家を滅ぼした小田原北条家が曹洞宗に帰依していたので曹洞宗寺院として改宗させたのだと思う。
元は恐らく鎌倉の海蔵寺、それを佐原三浦家が本拠を新井城に定めた時代、つまり道寸の時代に鎌倉の海蔵寺を三浦半島新井城の近くにも分教区の寺院の様な存在として勧進したのだと推測している。
…あくまで、想像。
そこで、この鎌倉の海蔵寺の話に戻る。
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海蔵寺は裏庭が綺麗なのに、ここを見ようとする参拝客は少ない。
この海蔵寺、鎌倉時代に将軍家を守ろうとした三浦家の本家の事績に肖りたかった鎌倉公方(鎌倉公方足利家は京都の足利将軍家と対立していて常に窮地に在った)が、三浦家の子孫である佐原三浦家に祖先の屋敷地の跡に鎮護の寺院を開基する様に❝佐原三浦家に佐原三浦家の上官である扇谷上杉氏定を経由して命令を下し造営させた寺院❞だったのでは無いかと妄想している。
証拠が状況証拠しか無いので、妄想や推測としか言えない。
因みに、この上杉氏定、鎌倉公方足利持氏公と山内上杉(やまのうちうえすぎ)家の上杉禅宗(うえすぎぜんしゅう)が対立した際に❝足利持氏公に忠義を尽くし負傷、藤沢で自害❞とされているが、この❝藤沢で自害❞の舞台が初期の扇谷上杉家の居城と考えられる藤沢市の大庭城だと推測出来る。
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もっとも、この大庭城址、メジャーな古文書しか読まない若しくは誰かの書いたメジャー論文しか読まないパクり俄か学者や研究者は存在すら知らないバカが多い(笑)。
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実は、扇谷上杉家の居城の中でも糟屋館と同規模、初期の江戸城や河越城を凌駕する規模と堅固な地勢に在った。
扇谷上杉家が江戸城や河越城を本城に定めるのは糟屋館や七沢城や大庭城を次々と失陥した後の話し。
これは関東南部の郷土史を読み漁る人間しか知らない事で、近畿と東海地方史観のメジャーな本を幾ら読んでいても微塵も登場しない事実。

さて、海蔵寺が鎌倉公方鎮護の寺と位置付けられていたと推測するには一つ根拠が有る…
実は鎌倉幕府が滅亡した際に、幕府の執権だった北条高時を攻めた新田義貞が鎌倉への侵攻口が正に、この海蔵寺に近在する鎌倉の切通し七口の一つ、❝化粧坂(かわいざか)の切通し❞なのだ。
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化粧坂に通じる道の入口には当時の道の高さに石碑が立っている。
実は!この上部の石碑がある方形の窪み、有名な悪七兵衛景清こと、伊藤(藤原)景清が閉じ込められた当時の岩屋牢屋の跡で歴史遺跡でもある。
現在では道が掘り下げられてしまい、当時の地表の高さの位置に牢屋の岩屋が半分破壊された様態で取り残された訳だ。
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現在は歩きやすく舗装され、道幅も車が通れる様に開削されているが、明治時代に成るまでの切通の道は人二人が並んで歩ける程度、つまり往来があって辛うじてスレ違える程度の道幅だった訳だ。
ただの街道なら道は広く真っすぐ作るが、鎌倉は幕府の首府だったので山々を直角に切削し城壁として防衛し、出入り口も防衛施設の機能を有していた。
この道も屈曲しているが、昔はもっと鋭角にS字に成っていて軍馬に騎乗した武者が容易に通れない構造だったと推測出来る。つまり、後の城郭の喰い違い虎口の走りだな…。

ここを過ぎると直ぐに、鎌倉時代の切通しが姿を見せてくれる。
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鎌倉石と呼ばれる砂岩の地層を削りだした道は、豊かな緑が雨水を染み込ませ粘土層との隙間から僅かな湧水をしたたらせ要害性を増す泥坂と成る…
この地層を利用して日本屈指の城郭建設技術を確立したのが戦国時代の小田原北条家の北条早雲公な訳だ。
そして、古代の海底だった土腐(どぶ)に囲まれた低湿地地帯の丘に築城する技術を発展させたのが先に訪れた英勝寺の❝お梶の方❞の祖先の太田道灌公だ。
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この切通しが貫く鎌倉城(山に囲まれた鎌倉市街中心部を歴史的には鎌倉城と呼ぶ)の城壁代わりの鎌倉山や十二所の山々は、直角に削られている訳だが、この構造は以前「カテゴリー城郭」で紹介した三浦家の❝衣笠城❞の記事でも紹介している。鎌倉武士が培(つちか)った築城技術だ。
この道を多くの人々が往来した。
既に季節は梅雨だが、鎌倉山は新緑に覆われ日差しから小生を守ってくれ、風も涼しかった。
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化粧坂を越えて、再び分かれ道を鎌倉市街方面に降りて行くと佐助地区に出る…
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佐助地区に入って最初の神社仏閣が銭洗い辨財天で有名な宇賀福神社だ。
独立解説記事をその内書いて改めて解説するが…
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ここは本来、弁財天を奉っている神社と言う訳では無い。
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宇賀神と平安時代の人々が呼んだ神様が、後に弁財天様と習合されて同一視されたので名前は宇賀福神社として残りながら御祭神が弁天様として現在に至っている訳だ。
この宇賀神と言うのは日本神話による所の❝倉稲魂命(うかのみたまのかみ)❞=❝宇迦之御魂神❞を指す。
豊かさの象徴の女神として信仰されていた。
古代に於(お)いては穀物やなんかの豊穣の女神で、頭人体蛇の姿をした女神だった。
鎌倉時代に成ると、中国から宋銭が輸入され富の象徴は穀物経済から貨幣経済に変化したので、本来は穀物の豊穣の女神が財神の性格を持つ様に成った訳だ。
そして、後に日本に来られた七福神の弁天様が戦神と財神と美人神の性格を併せ持った、宇賀福神様と似た神様だったので武士や民間の信仰で同一視される様に成った訳だ。
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なんにせよ、富の神様。
ちゃんと弁天堂の霊水で御金を洗って来た。今は小生の部屋で神様と仏様の前に御供えしている。
もし、御利益が有って大金が手に入ったら、必要な分以外の富は全て日本文化保護と郷里の産業振興に役立てたいと心願を御伝えして来た。

この日はこの後で、佐助稲荷神社にも御参りしようと思っていたら…
トイレでチャックが壊れて社会の窓が閉じなく成った‼
…そんな状況で観光を続けれる訳も無く、ズボンの前が開かない様にズボンのベルトを上に引っ張りポロシャツを下に伸ばして不自然な状態で鶴岡八幡宮に戻った。
鶴岡八幡宮の親切で美人な司書の巫女さんが準備していて下さった研究報告書のコピーを受け取り代金を払い、いつも親切にして下さる御礼に、いつもの小生の儀礼通り小町通りで購入した御菓子を差し入れして帰って来た。

ふむ、社会の窓のチャックが壊れてブルーに成った以外、非常に充実した1日に成った♪

ブログネタ
日々の生活 に参加中!
日々の生活の疲れを忘れさせてくれる場所があります…

鎌倉市街地の少し外れ…
浄妙寺地区に在(あ)る報国寺と言う名古刹(こさつ=歴史の古い御寺)です。
こちらは室町幕府 初代征夷大将軍 足利尊氏 公の御爺様の足利家時 公と…
関東管領上杉家筆頭四家の一つ宅間上杉家の創始者の宅間上杉重兼 公
…その御二人が開基された御寺です。
宅間上杉家は以前紹介した永谷天満宮を開基し、榎下城を築城した足利家と親密な家柄でした。

秋は特に綺麗な御寺です。


つい5〜6年程前まで小生達歴史好きだけが行くような落ち着いた安らぎの場所でした。
歩いて直ぐの近所に旧皇族:華頂宮家の邸宅も保護・無料公開されています。

報国寺は近年、迷惑なミシェランガイドで三ツ星認定されて以来、文化に関心の無い客が増えて大声で話したり、反日某国人観光客が庭園植物にハングルで落書きしたり迷惑千万な状況に陥ってしまいました。

が!

風景は変わらず綺麗です。
この御寺は先述の通り開基された方々からして由緒ある御寺でして…
室町幕府設立後は、室町幕府鎌倉将軍府の鎌倉公方足利家と関東管領上杉家の菩提寺として栄えました。
鎌倉将軍府や関東管領とは何ぞ?
…と言う方の為(ため)に文末に関係記事リンクを貼ります。
もぐりの寄せ集めWikipedia(笑)なぞより詳しく写真付き説明のブログ記事があるので御覧下さい。
他にも報国寺周辺の文化財や風景の記事を書きためて有るので御興味有れば是非、御覧下さい。

コンナ場所とか。

さて…

報国寺は竹林の中でゆっくり抹茶とお茶菓子を頂ける安らぎの場所です。
関東特有の谷戸の切岸に囲まれた地形の放つヒンヤリとした(以前は人も少なく)落ち着いた雰囲気と、竹林の放つマイナスイオンを肌で感じられる場所です。
この奥に東屋(あずまや=休憩小屋)が在(あ)り、そちらで抹茶を頂きながら椅子に座りボぉ〜っと時間を過ごせます。

歴史の深い寺院なので、当然、歴代の武将の矢倉(やぐら=墓:関東では武士の壁面に高い位置に掘れた横穴式墳墓、戦時には本当に砦の矢倉として使用する)もありますが…
偉人の皆様、死して尚(なお)風流と言いますか、安寧の地は真に美しい日本庭園の体を成しておられます。

本当にこの御寺は美しい…
可愛い金魚さん達もお出迎えしてくれますよ(笑)!

皆さん、どうか、この子達のいる報国寺に訪れる機会がありましたら…
素晴らしい文化財、歴史遺産を私達に遺(のこ)して下さった歴代足利家の御当主様達と関東管領上杉家4家の皆様に…
一言、御堂でお参りする際に感謝を伝えて手を合わせてみませんか?

きっと鎌倉公方様も関東管領の皆さんも、喜んで下さると思いますよ♪

あ!
約束したリンク貼ります!

以下が鎌倉公方と関東管領上杉家、報国寺関連の過去ブログ記事のリンクです。

●関東管領上杉家筆頭4家の説明と菅原道真公の五男淳茂公と三男景行公の永谷天満宮の記事「ココ」←クリック!

●関東管領宅間上杉家と榎下城址の記事は「ココ」←クリック!

●関東管領上杉謙信と実家の長尾家長尾城の記事「ココ」←クリック!

●釈迦堂の切通しの記事は「ココ」←クリック!

他にも関係記事多数有るので御興味有りましたら以下のカテゴリーリンクから御覧下さい!

横浜市緑区三保と言う地域に旧城寺と言う名前の御寺が在(あ)ります…
御寺さんの名前が示す通り、実は此処(ここ)、そのまんま御城の跡なんです。

…横浜市の人もあまり知らないですけどね。
榎下城と言う御城でした。

しかも!

"かなり"重要な武士の拠点でした。
その武士とは関東管領上杉家です。
その上杉家の内の筆頭四家の一つ、宅間上杉家の御城でした。
宅間上杉家の本拠地は旧鎌倉郡永谷郷、現在の横浜市港南区下永谷の永野地区にあった永野城址ですが、歴史的に有名なのは、こちらの榎下城址なんです。
なんと!このお城は日本史でも勉強する室町時代に起きた永享の乱の舞台でもあります。

※宅間上杉家の詳細と永野城址付近の永谷天満宮に関しては「コレ」←クリック!以前書いたブログの中の説明を読むかググッて下さい。
※永享の乱に関しては「コレ」←クリック!以前書いた称名寺も宅間上杉家や鎌倉公方と関連が有りますので、御興味あればどうぞ。

因(ちな)みに室町幕府で関東の総理大臣みたいな仕事をしていたのが、関東管領と言う役職なんですね。
山門(さんもん=御寺の門※時として御寺そのものを指す)の表札には旧字体で"旧城寺"と書いてあります。

この山門は昔の城郭の内側の城域を守っていた"大空堀"の土橋(つちはし=まんま曲輪と曲輪を繋ぐ土の橋)の上に建てらています。
つまり榎下城の城門ではありません。
旧城寺山門の両脇には今でも大空堀の遺構が在ります。
これ↑山門横の空堀の一部です。
…何故か空堀に民家が建てられていますがね。
小さい堀と感じますよね?
違いますよ…
本当に大空堀だったんですよ。

この山門横の空堀を辿っていくと…
この公園にブチ当ります。
この公園は山門の空堀に繋がる谷底に在ります。
自然地形を利用しつつ切岸(人工的に山を掘削した崖の防壁)で堀状にした"空堀の底"に公園が有るんですね。
この大空堀で仕切られた内側が中国の御城で言う所の"内城"の役割を果たし、外側が外郭として機能していたんでしょう。
この空堀より外側の周辺地形を見るに、更に空堀として機能していたと思われる住宅地の道路がありますから…
つまり、その外側部分に大坂城や高槻城や小田原城の総構えに当たる兵士の駐屯区域が有ったんでしょうね。
上杉家の城は仮想敵兵士数が最低でも数千単位ですから。

さて…

山門を抜けると両脇には"こんもり"とした
小さい山が有ります。
コレ、食い違いと呼ばれる防御施設の遺構で、実は内城の城門の有ったはずの場所でもあります。
石は何か施設跡の礎石かなんかかな?
ちなみに…
食い違いと言うのは↓この部分。
文字通り食違いの城壁。
城壁をS字クランク状にする事で、城門を突破し進入して来た敵兵を正面の城壁の上から弓で射殺したり石を落として撲殺したりする防御施設です。

中には今では旧城寺の本堂が建ち、本丸跡は弓道場になり、本丸直下の空堀は墓地と成っていますが、その地形は今でも見てとれます…
この墓地↑が本丸下の空堀跡。
完全な箱堀(はこぼり=堀の底が平らで箱みたいな空堀)です。
山門前の大空堀も堀底が箱堀でした。
どうやら上杉家は箱堀が好きだったみたいですね。

…そう言えば伊勢原市の扇谷上杉家の拠点、七沢城址の伝・大空堀と言う場所も底が平らな畑地でした。
関東流の築城技術は、基本、谷戸の多い南関東独特の地形を活かす縄張りですから、自然地形の谷間の崖を切岸にするんですね。
だから、この墓地の両側もちゃんと「切岸」に成ってます。

関東平野は縄文時代には海の底だった部分と半島や島だった地形が入り乱れているんで、平野とは名ばかりで埼玉県辺りと神奈川の川崎市辺りを除いては比高10〜50mの細かい丘伏の起伏の連続なんですね。
…特に横浜市や鎌倉市はね。

さて…
以下は榎下城址の解説から話題を関東と京都の関わりの歴史に移します。

榎下城址は先述の通り宅間上杉家の持ち城で関東管領上杉家の拠点の一つでした。
戦国時代に室町幕府鎌倉府の重鎮である上杉家と関東管領職を山内上杉家から継いだ上杉謙信は元の名を長尾景虎と言い、先祖は横浜市栄区の長尾城を拠点にした長尾家で、更にその先祖は平安時代の鎌倉景政と言う名武将で景政公は関東では御霊神社の神様として祀(まつ)られています。
鎌倉家の更に祖先は神奈川県藤沢市村岡城址を本拠地にしていた平良文と言う元皇族の鎮守府将軍を務められた御偉い方でした。
以前の永谷天満宮紹介のブログで書いた事ですが…
平良文公の更に祖先が平高望 王ですが、平良文公の時代に、この上杉家の御先祖様に当たる勧修寺藤原家と関東の平家は平安時代の京都で繋がりが既に有ったんです。
更にその両家と関わりが有ったのが日本全国にある天神様(天満宮)で神様に成っている菅原道真公の三男の菅原景行公と五男の菅原淳茂公なんですが…

その平良文公・菅原景行公・菅原淳茂公・上杉家の祖先の勧修寺藤原家・神田明神の神様の平将門公主君だったのが"醍醐天皇"だったんですね。
つまり飛躍した例えをすると醍醐天皇の命令と上記の偉人達がいなければ今日の関東の文化は成立し得なかった訳です。
そんな西暦700年代〜現代の関東の発展を築いて下さった醍醐天皇と偉人達と上杉家への感謝を感じる場所…

そんな大切な場所が、この榎下城址なんです。

御近所の方、そろそろ藪蚊やスズメバチもいなくなる季節です。
旧城寺がお城と知らなかった人も、小生のブログ見ながら何となく散歩されて見ては如何(いかが)でしょうか?

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