歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:鎌倉市

今日はInstagramに投稿した記事と近況報告です。
ギックリ腰になりました。

実は先々週末に左足首を捻挫して、庇いながら歩いたり仕事して腰のバランスがおかしく成ってたらしく、先々週末に朝から夕方17時過ぎまで休憩昼の30分だけで授業複数科目1日中座ったままでいたら見事に腰痛になりました。
で先週、こんどは腰痛を庇いながら仕事してたら、腰ピキッと仕事中にやりました。
そんでも月曜、火曜と我慢して仕事したら一昨日火曜に帰宅後、今は母が入院中でして家の中もシーンとしてるのですが、父と食事の準備して、風呂入って、自室のフローリングの床に座って卓袱(ちゃぶ)台でPC開いて教科書開いて夜中まで勉強してたら坐骨神経痛に成ってしまい、翌朝(昨日)も治らなかったので仕事を休ませてもらいました。
ちょうど、母が入院中の病院が整形外科もある一般外来も受付してる所だったので、父が母に面会に行く際に車に同乗させてもらい病院に行く事が出来ました。
今日は昨日よりだいぶマシで歩く事は何とか出来る程度に治ったのですが、やはりちゃんと回復させないと又悪くなるので今日も仕事を休ませてもらい、昼過ぎまで布団からも出ずに股関節と腰椎の筋肉を柔らかくするストレッチをした以外は寝て過ごしました。
夕方過ぎ、痛みは若干ありましたが漸(ようや)く椅子にも座れ歩行も普通の速度で出来る程度に回復したので、風呂洗って二人分と食事作って、父がちょうど病院から帰って来て、自分が先に風呂に入らせてもらい、食事してから床では無くて椅子に座って机で課題をやってました。

その休憩中にインスタにささっと書いた事に少し手を加えた内容が以下の通りです。
Instagramはリア友しかいない鍵垢にしてしまったので、非公開なのでコピペし少しブログ用に手を加えます。

2017年 材木座旧飯島村の海~御霊神社
1~2枚目 
地元の高校生が後ろ姿のモデルに成ってくれた写真。
image
CIMG2397

3~4枚目
現在の逗子マリーナの横、昔は飯島村と呼ばれた材木座と小坪海岸の間の地域の海。
CIMG2395
CIMG2389

5~7枚目
鎌倉市坂下地区の御霊神社。
CIMG2379
CIMG2378
CIMG2375

この写真を撮影した頃はInstagramもやってなくて、フォロワーの風景写真のプロやセミプロの写真家の知り合いもいなくて、マジックアワーの概念さえ知らなかった。
1~2枚目は一番好きな富士山遠景の写真、風景は人がいると物語が出来て素敵に成る場合も有ると思った切っ掛け。
撮影してる場所の、直ぐ横が源実朝が当時は南宋だった中国に渡航しようと船を造船させていた材木座海岸で、そこには和賀江島の跡の崩落した積石の浅瀬が広がっている。

ここは何回も小生がビュースポットとして記事にしている場所。


最後の写真3枚の坂下地区の御霊神社は今では御祭神は鎌倉景正公だけど、本来の御祭神は鎌倉景正公の御先祖の平良文公や平高望王、葛原親王や桓武天皇の歴代坂東平氏の御先祖を祀っていた神社。

司馬遼太郎さんが執筆した「街道を行く」 シリーズの「三浦半島記」を書く時にこの辺りを歩いて観光してる様子が登場する。
この辺りも当時頻繁に歴史散策をしていたので数回記事に書いている。


この年は、前年まで平良文公以来、坂東平氏嫡流の村岡家最後の御当主の小林宮司(旧姓村岡)が旦那様との間に子供が生まれず御高齢になり旦那様の介護のために千数百年間続いた村岡家から宮司家が現在の熱海出身の一般人家系出身の宮司様に変わった最初の年だった。
小林宮司には坂東平氏と源氏の関係性を「主従」とする学者の認識が間違っている事を坂東平氏の武家の方々の立場から主従ではなく「協力者(坂東平氏)とリーダー(源氏嫡流)」だよ、と言う事など色々と教えて頂いた趣味の歴史の恩師の一人に当たる方。
尊敬する歴史偉人の御名と御朱印を色紙に拝受し今も尊敬する歴史偉人の御分霊代わりに毎朝拝む習慣が出来るきっかけに成った人だった。
御朱印7御霊神社久良岐のよし
平成二十六年(2014年)八月三十一日に拝受してる。
ちょうどブログ書き始めた頃かな?
どうやら同日に小生が好きな戦国時代開始の切っ掛けを作った武将の一人で最後の鎌倉公方の足利持氏公と御子息の足利成氏公の忠臣だった宅間上杉家の開いた横浜随一の学問の神様である永谷天満宮でも御朱印を拝受してるので、先に永谷天満宮を参詣して郷土の知恵の神様の御朱印を拝受してから、やはり横浜市栄区出身の長尾家(上杉謙信の祖先)の、更にその御祖先の鎌倉景正公の御朱印を真っ先に拝受に行っていた様だ。
PXL_20240125_123158172
この御朱印帳は、神奈川県で初購入した思い出の御朱印帳で今でも継ぎ足し「延喜式内社以外の神社用」として使っているものだが、小林宮司が兼務されていた佐助稲荷神社で購入した物だった。


ここで購入した御朱印帳・・・
PXL_20240125_123220863
ページ継ぎ足し使ってたら現在は厚さは三冊分+α(自作ページ)、片面約80ページ。
御朱印帳については御朱印帳の外装を変える工作方法等も記事を書いているので興味の有る人は読んで欲しい。


話を元に戻すと・・・
image
冒頭の海の写真は新しい宮司様に御挨拶兼ねて御霊神社に御朱印拝受に行った帰り、材木座に立ち寄った。
PXL_20240125_123147463
その時に拝受した御朱印。
平成二十九年(2017年)の今日。
そこで偶然、青春っぽい地元女子高生二人を見かけて、「二人の仲良しの姿と富士山と夕焼がとっても絵に成るから写真撮らせて!」と交渉したら快諾してくれて、御礼に二人のスマホにも写真を撮影してあげた。
この頃は転職した頃だった。
その前は自動車部品の技術営業職だったけど、リーマン破綻で2人分の営業の仕事と解雇されたアシスタントオフィスワーク引き継がされて毎日17時半にタイムカードを無言の圧力で切らされて朝の6時頃まで働いて、社員寮でシャワーだけ浴びて2時間寝れたら良い生活が3ヶ月続いて過労で医師から3ヶ月休めって診断書かかれて仕事辞めて、そんで始めた電動バイクの輸入販売が上手く行かず、廃業して
転職して、平日休みの日も有り資格の勉強もしてなかったし時間も有った頃だった。
まぁ、2019年からなんか色々と資格とり続ける人生に変貌したのだけど。
だからこの頃はブログ素材の取材にあちこちの「歴史史跡」巡りを凄まじい件数してた頃だった。

この頃はライブドアブログの旅行全般カテゴリーで毎日5位以内に入ってた。
年末年始は1位常連だったし
今は全然、資格の学校通いだしてブログ更新しなくなったら20位前後彷徨ってる。

んで、今日はギックリ腰で休んでたら色々とこの10年振り返る時間が有って、2014年頃の事とか当時の彼女さんの事とか思い出してた(笑)。

正月も残り6日で終わり如月(2月)に成ると、本来の旧正月の春の節句が来ますね。
梅の綺麗な季節が来ます。
CIMG8480
CIMG8481
CIMG8509
皆さんにとって実りある残り1週間、そして充実した2024年に成ります様に!
そして戦争が早く終わり、平和で経済と精神的な豊かさの発展と日本の同盟国と同盟有無問わず親日家の皆さんと、日本文化と日本の歴史を大切にする人々と、宗教国籍人種問わず善良で実直な方々にとって幸福の多い1年になりますように。

能登半島の人々が早く普通の生活に戻れます様に。
熊本地震、東日本大震災の被災者で生き残った方々も新たな平和で楽しい時間がたくさんあります様に。

ロシアとウクライナ、ユダヤ人とパレスティナ人の中の善良な一般市民の皆さんも、早く戦争が終結しこれから10~20年かかっても、早く普段の生活を取り戻し、一日も早く御互いの憎しみが発展を享受する協力関係に変わります様に。
それらの国が日本と協力し苦境を乗り越えて仕事仲間に戻れる日が来ます様に。

戦中の対立関係や戦後の東西冷戦の価値感にも縛られず、下らない共産主義や資本主義等の価値感よりも共存共栄を個々の個性を認め合いつつ目指せる全く新しい世界的な価値観が出来たら良いな~。

20年後、日本でロシア人とウクライナ人が日本企業のパートナーとして共に発展を享受し、ユダヤ人とパレスティナ人と日本人が一致協力して生活を立て直し豊かになり、他の貧困にあえぐ国を救済する側に御金と人を注力出来る社会が出来上がっていたら嬉しいなと思います。
そしてアメリカは仁君として王道に軌道修正しアメリカ国内の貧困格差や薬物の乱用者増加や人種差別問題も解消し、同盟国を対等に扱い地位協定は対等な物になり、世界のリーダーとしての道を切り開き説得力のあるリーダーシップを発揮して世界を豊かにそして日本人はじめアメリカに憧れる映画のバックトゥザフューチャーやETやグーニーズを作っていた頃の様な明るいアメリカに戻っていたら嬉しいなと思う。


当然、その時にはアメリカの重工業軽工業が80年代の様に復興する必要が有るので、日本人もアメリカ人も当時の様に日本と台湾と韓国とアメリカで消費する物は、その商圏内で生産提供し合う商業工業農業の構造、当時の経済活動と生産活動の商圏に戻す必要があると思う。
そうすると必然的に農業もアメリカ日本は自国に生産力を回帰するから、農業畜産業も復興すると思う。
ロシアとウクライナは、EUの中で下らないアメリカに対抗して仲裁のリーダーの主導権争いの為にロシアにもウクライナにも良い顔して戦前の状態維持を阻止し両国民を故意に疲弊させたドイツとフランスに責任取って貰う必要が有ると思う。
彼等の経済活動とロシア・ウクライナの得意分野は競合するので親米商圏からドイツ・フランスには御退場頂き、交代してロシア・ウクライナに仲間に成って貰えば良いと思う。
そして1~2年後、ウクライナ復興とロシアの経済復興が始まり、10年~20年かけて両国友好関係の再構築と全ての経済活動に日本企業と日本政府が寄与する時、その時に自分が今学習してる資格で、少しでも社会貢献出来たら嬉しい。
トランプさんは大統領に成ったらドイツとフランス嫌いだし、嫌がらせマクロンにされたし、おのずとそうなる可能性も有るし。

ロシアとウクライナに関しては、双方に賠償金を放棄して貰い、それ以外の全世界で双方の国の復興と発展に協力するべきだと思う。
その過程でロシアとアメリカには世界のリーダーとして、全く新しい価値観の世界構築で協力し、御互いの過去を捨て去り、日本とも同盟国に成って欲しい。
当然、その時に役に立たない国連は破棄して、環太平洋と北極海の同盟圏で平和な社会を確立して領土的野心持つ覇権主義を進もうとする国と、その国に追随する利己主義の国に対しては参加拒否して貰いたい。

近代や近世の歴史文化としては大切にしても良いけど、当時の軍事的な対立や価値感や冷戦時代の世界観を現代にひっぱるのはおかしい。

世界が平和で豊かに、富む者が立ち直ろうとする弱者を手助けして仲間に出来る社会になりますように。

ついでに個人的にも普通の家庭的な夫や父、叔父、そして知識共有する側として高い評価を得られる人材になれていたら嬉しい。

今週末、土曜日にこの記事⤵の続きを書きます。


先ずは河村城を紹介するつもりです。
書けたら深沢城も書きたいかな。

では、皆さん、健康に気を付けて充実した時間を過ごされてください!
応援してますよ!小生も頑張ります。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

これ⤵再生して曲聞きながら読んでくれたら嬉しいです。

百合と萱草の咲く季節
小生の個人的に好きな花。
一番好きな花が野萱草。
DSC_3443
痩せた海岸でも元気に咲く花。
だいたい好きに成る女の人は野萱草が似合いそうな人。
実は中華料理の食材の金針菜は萱草の蕾なのは余り知られてないですよね(笑)?
CIMG0401
昨日07月07日~週末は日本は新暦(太陽暦)に合わせた七夕まつり。
DSC_0969
平塚駅前~平塚八幡宮の商店街では日本三大七夕祭りの一つの平塚市七夕祭りが開催されているけれど、この記事を書いている時間以外は資格の勉強してるので今年は行けない。
そしてもう直ぐ11日。
1516年の7月11日は平安時代からの武家の名門の三浦家が壮絶な日本最長3年半の籠城戦を小田原北条氏相手に戦って玉砕した日。
DSC_0994
小生が尊敬する戦国武将の一人で三浦家最後の当主でもある三浦義意(よしおき)公が500年前、新井城と呼ばれていた油壺マリンパーク跡地の半島の要害に籠城し、1つの局地戦としては日本最長期間の戦いを展開していた。
CIMG4580
相手は北条早雲こと伊勢宗瑞(そうずい)公と北条家二代当主で城攻めの名手の北条氏綱公。
三浦家は先代で隠居の三浦道寸公が、最初は伊勢原市と平塚市の境界である岡崎に有った岡崎城で10年間抵抗する。
2016-01-03-15-25-35
2016-01-03-15-18-43
しかし岡崎城が北条氏綱公により陥落させられると三浦道寸公は鎌倉に敗走し弟の道香公が城主を務める住吉城に籠もった。
CIMG8566
CIMG8568
今の鎌倉と逗子の市境、リビエラ逗子マリーナ近くの小坪飯島公園のプールから見た背後の丘は要害化された住吉城だった。
CIMG9361
そこで三浦家は再起を期して戦うが再び敗走。
小坪の社寺位置関係小坪旧道廃道
この戦いでは今は廃道の古墳時代から昭和まで使われていた逗子マリーナ前の正覺寺〜海前寺を繋ぐ山腹の切通古道で激しい撤退戦が展開された。CIMG9369
この道は実は倭建命が東征の折に通った古代東海道と考えられている。
CIMG9371
今も海前寺の墓地には首供養の墓がヒッソリと存在する。
CIMG9363
ここから披露山に抜けると、披露山公園から逗子市新宿に降りる林道と浪子不動に降りる林道、それと旧名主高橋家の前を抜ける道がそれぞれ古代東海道だったと考えられている。
KIMG2342
披露山公園から見る富士山の景色も中々に綺麗だったりする。
古代の人々にも景勝地だったのかも知れない。
CIMG8820
三浦義意公道寸公の道寸と言うのは臨済宗系の法名つまり入道号で、彼の親友であり扇谷(おおぎがやつ)上杉家の家臣として同僚でもある不敗の名軍師、太田道灌公も幼少期に北鎌倉にある室町幕府で将軍のみが住職の任命権を持つ鎌倉五山(臨済宗の東日本を統べる5つの寺院)の第一位であった建長寺で修業していたので道灌の法名を名乗っていた。
三浦道寸公の実弟で住吉城主だった道香公も実名ではなく法名が伝わっているので、どうやら仏門に入って入道号を称している訳だ。
因(ちな)みに北条家は歴代当主含め家臣団の大半の武士が初代の伊勢盛時公=北条早雲こと伊勢宗瑞公と同じく宗〇と仏教の法名を名乗っていたが、これは宗〇と言う法名が京都の臨済宗大徳寺や曹洞宗の当時の僧侶に多かったので、伊勢宗瑞公が大徳寺で修業していた事も有り家臣団は禅宗で教養を学ぶ機会が多く当時の北条家臣団が建立したり荒廃していた場所を再興した寺院も曹洞宗が多かったりする。
道香公に話を戻すと披露山に上って行く道は当時は3筋程有った様で、その内の1つが今では地域の若い人は名も忘れた秋葉神社の前の道だったりする。
CIMG7815
秋葉神社からの富士山と逗子マリーナの景色も又美しい。
道香公は兄と三浦家の将兵を三浦半島へ撤退させる古代の東海道での戦いの挙句、この古道のどこかで討たれたか自害した様だ。
CIMG7251
逗子駅近くには逗子大師こと延命寺と言う、始まりは行基サンの時代に行きつく寺院が有る。
延命寺には地元の人に慕われた三浦道香公とその家臣団の供養墓が今も守られており、御寺の檀家さんや歴史好きが現在も御参りに来る。
CIMG7253
この辺りは実際に古墳時代には砂州の半島か既に海の中に突き出して隆起した地形だった様で、発掘調査で古墳時代の遺物も周辺から見つかったりしている。
この奥の谷間の地域は沼間と言う地名で、平安時代末に源氏が関東における本拠地を移す以前、源頼朝公の実父の源義朝公によって今の天台宗神武寺~日蓮宗法勝寺にかけての山稜が詰め城化されていて、屋敷地は神奈川県逗子市沼間2‐23辺りに置かれていたようだ。
CIMG9581
CIMG9090
CIMG9107
逗子市の沼間は当時は沼濱と書いたのでまだ満潮に成ると海水が入る干潟がだいぶ内陸まで川沿いに広がっていたようだ。
逗子駅周辺に話を戻すと、以前も紹介した六代御前不動院は平維盛公の遺児と真言密教の高僧で源頼朝公の友人でもあった文覚上人の菩提寺でもある。
CIMG0270
古代東海道の逗子側の山道の入口に当たりそうなのが延命寺~六代午前不動院の辺りだろうか?と個人的には考えている。
CIMG0253
今は市街化して平地部分の古東海道の詳細は良くわからないけれど、六代御前の墓の横には今もハイキングコースの入口が有る。
この山稜沿いに行くと鎌倉時代の三浦家の本拠地の衣笠城へ抜ける事が出来るが、三浦道寸公は海沿いを南下して葉山町へと出たようだ。
CIMG1619
この立石公園も富士山の景勝地として知られており、歌川広重が江戸時代に描いている事は古参の読者の皆さんは小生のブログでも読んだ事が有ると思う。
相州三浦秋谷
CIMG1616
CIMG1618
道寸公は現在は少し内陸部に移転している正行院と言う寺院の旧所在地だった今の葉山の立石公園の先の秋谷海岸のマンション辺りの岬を要害化していた様だ。
CIMG9150
実はこの御寺、和田義盛公と再婚した巴御前の菩提寺でもあり、和田義盛公敗死後の生死は不明なものの彼女の遺髪塚が現在も守られている。
CIMG9169
現在では余り手入れが行き届いておらず、地形しか塚は残ってない。
まぁ、普通に考えて正行院が巴御前の隠居寺で、居所が現在の御寺の地所だったんだろうが古文書が残らないので良く分からない。
この御寺は秋谷海岸から移転している理由が正に戦火だろうと、再興時期から思う。
和田家関連で由緒が有るのに古文書や寺宝が残らないのは、この地域が正に鎌倉時代と戦国時代に異なる2つの北条家との戦いに巻き込まれて焼かれたからだろう。
道寸公は秋谷の城で戦った事は伝わっているので、その城と言うのが海岸に突き出した岬の旧跡地時代の寺院を要害化した物だったんだろう、其処で北条家を迎え討つが再び敗走。
DSC_3578
KIMG6759
最後に三浦半島南端、小網代湾と諸磯湾と油壺湾に挟まれた荒井浜の丘上、旧油壺マリンパークの半島全てを城塞化した新井城が決戦地に成った。
CIMG9651
実は新井城の下の海岸、荒井浜も富士山の景勝地だったりする。
この新井城を守っていたのが小生の尊敬する歴史人物の一人である三浦義意公。
DSC_1005
CIMG0813
彼は房総半島の小大名で三浦氏族の正木家から海路で三浦半島へ兵糧支援を受けつつ約4年間戦い抜いた。
DSC_1006
その兵糧を保管したのが千駄矢倉と呼ばれた横穴式の人工洞窟だった。
DSC_1018
現存する弁天矢倉もその1つ。
DSC_1020
北条家は旧三崎高校、今の引橋のバス停近くの三浦消防署〜ベイシア辺りに陣城を築き長期戦に持ち込み少しづつ三浦氏を孤立させる。
CIMG4579
KIMG9666
最後の時、三浦義意公は共に戦った領民兵士や部下を荒井浜や胴網海岸から船で房総半島や横浜方面に逃すと、自身は僅かな部下と共に海岸直上の城の武者走りと呼ばれる隘路で最後に玉砕戦を仕掛けて兵士達の逃げる時間稼ぎを行う。
生きて帰る場所の無い絶望的な決死の戦いを始める。
道寸祭り公式DSC_3543
DSC_3544
三浦義意公と部下達は槍や刀ではなく金砕棒で北条兵を殴り倒し、海岸の城から油壺の湾に突き倒し或いは撲殺し或いは部下達が弓で敵を射殺し、寡兵で北条軍500人を道連れにしたと伝わる。
DSC_0181
史料を読む前の2017年、おおまかな話をコロナで余り営業しなくなってしまった油壺の駐車場の御土産屋の御婆さん等、地元の方達から聴いて三浦道寸公と三浦義意公の墓参りをした帰りの車中•••
三浦義意公の指揮官としての覚悟と死に様を思い、彼の気持ちを考えて咽び泣いた。
•••実は小生は留学から帰国して就職した会社がブラック企業で前任者が残業200時間超働いた挙げ句、営業中に過失運転致死を起こして小生が引継ぎ、更に中国転勤の同僚の業務も引き継がされた小生は3ヶ月休み無し毎日20時間労働を強いられて過労で鬱になり、上司はお咎め無く小生が会社から早期退職応募の紙を送りつけられて会社を辞めた。

そんな経験があり、三浦義意公の様なちゃんと責任をとる上司の話を聞き、何だか咽び泣いてしまった。
丁度、野萱草や百合の花の咲く季節の歴史と自分の思い出の話し。


今年は命日にお墓参りには行けないけれど、三浦義意公の為に近所のお寺で明日はお線香をあげたいと思う。

過去に書いた関係記事⤵

 

写真も過去写真使いまわしで余り内容濃く在りませんが、七夕の季節の思い出です。
今回の話しで紹介した三浦半島の海岸には水質がとても良く隠しビーチの様な穴場の浜辺が沢山有りますが、昭和には栄えていたのに失われた30年で多くの場所が今の学生世代には知名度が有りません。
皆さんの夏の参考にコノ記事⤵が成れば幸いです。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

長興山妙本寺の紅葉
源氏の忠臣比企氏邸宅跡の大寺院の秋景色

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

ブログネタ
紅葉の写真 に参加中!
さて今年も秋に入り、もう直ぐ紅葉の季節です。
過去に書いた記事をベースに新しい写真に差し替えて、何ヶ所か追記して紅葉の名所紹介をリニューアルします。

●各所紹介に個別の詳細解説へのリンクが貼って有ります
この記事の一覧と異(こと)なり
個別の詳細解説には更に多くの写真と情報を掲載してあります。
個別の解説記事では住所をクリックするとGoogleMapにリンクし場所が表示されます。
GoogleMapをスマホで使うと電車乗換検索やカーナビとして機能しますので非常に便利です。

現地写真と現地を訪問した小生の個人的感想で各項目毎に評価します。
最良を★★★★★5~最低を1で相対評価します。
(参考例)
【景観】
    ←本数ショボい、もしくは見る価値無い景色。
★★   ←まぁ、近所なら悪くはない。
★★★  ←紅葉少ないが景色が綺麗。
★★★★ ←紅葉も多く景色も素晴らしい。
★★★★★←スペシャル!
※電車アクセスに関して
    ←2kmは歩くよ~。
★★   ←バス乗換え乗車30分超。
★★★  ←バス乗換え乗車30分内。
★★★★ ←駅を降りて徒歩圏内。
★★★★★←駅の目の前。

【紹介箇所】
東京都中央区  

浜離宮恩賜庭園(甲府松平家邸址)

東京都世田谷区 

大谿山豪徳寺(世田谷城址)~世田谷八幡宮

東京都世田谷区
九品山淨眞寺(奥沢城址)

川崎市多摩区
生田緑地
岡本太郎美術館~生田緑地菖蒲園のセコイアの林
~日本民家園~桝形城跡

川崎市宮前区
東高根森林公園(神奈川の景勝50選)

川崎市麻生区
星宿山王禅寺(歴代天皇の勅願寺)の紅葉

横浜市中区
山下公園~横浜スタジアムの銀杏並木
と彼我庭園(旧岩亀楼庭園)の紅葉

横浜市中区   

国指定名勝:横浜三渓園(原財閥邸址)

横浜市戸塚区
舞岡公園


鎌倉市北鎌倉
松ヶ岡御所東慶寺~金峰山浄智寺(鎌倉五山第四位の寺院)

鎌倉市雪ノ下

鶴丘八幡宮~白幡神社(鶴岡八幡宮境内社)~鎌倉国宝館

鎌倉市浄明寺地区①

稲荷山浄妙寺(足利家菩提寺)

鎌倉市浄明寺地区②
功臣山報国寺(宅間上杉家菩提寺)~華頂宮邸(旧皇族邸宅)~釈迦堂切通し

鎌倉市二階堂
金屏山瑞泉寺~天園休憩所

伊勢原市大山

大山国定公園~雨降山大山寺(関東三不動)~大山阿夫利神社(延喜式内社)

秦野市曽屋

弘法山公園~鶴巻温泉

秦野市今泉    

震生湖~福寿稲荷社

南足柄市大雄町

大雄山最乗寺

足柄下郡箱根町 
←追記予定
公時神社~金時山周辺(伝:金太郎出生地の一つ)



浜離宮恩賜庭園の紅葉
(旧甲府藩松平家邸址)
〒104-0046 東京都中央区浜離宮庭園1−1
【景観】★★★
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

鎌倉の一般的な観光地は小町通や北鎌倉、鶴岡八幡宮や長谷地区、或いは浄明寺地区ですが余り観光客が訪れず、少し歴史好きな方々なら老若男女問わず訪れる御寺が有ります。
その地域は❝扇谷(おおぎがやつ)❞と言う地域で本来の鎌倉らしくとても静かで良い場所で、少し歩けば北鎌倉や化粧坂切通から浄智寺や葛原岡神社や鎌倉山へハイキングがてら散歩も出来ます。
以前の記事で少し紹介しましたが、本当は源義朝公は鎌倉幕府を扇谷の中の亀谷(かめがやつ)と呼ばれる谷戸にある金剛寿福禅寺(通称:寿福寺)を中心に扇谷に開きたかったそうです。
実は最近の小生のブログ記事で頻繁に登場する源義朝公(源義朝公の実父)時代の源氏の本拠地が扇谷でした。寿福寺の有る場所は源義朝公時代には源氏の邸宅だったからなんですね。
この寿福寺は以前も紹介している⤴ので、御興味の有る方は過去の記事を御覧下さい。
吾妻鏡によれば岡崎義實(よしざね)公が平氏の追及も恐れずに亡き義朝公の菩提を弔う為に旧邸宅内に御堂を建てて義朝公を弔っていた事から、その寺院を破壊する事を遠慮したそうです。
「死んじゃった!」⇦「御恩は忘れぬ」
    ↖       ⇩      ⇧
     ↖     供養堂建立⇧
  「父上の無念は必ず晴らす」  ⇧
         ↖「忠義感謝致す」
         鎌倉殿源頼朝4
結局の所、頼朝公は幕府を父の邸址ではなく御先祖の源頼義公の時代の源氏の邸宅跡の大蔵の邸址、つまり現在の横浜国大付属中学校~清泉女学院中学高等学校の辺りに大規模な幕府の建築物を建てる事に成ったそうです。
ついでに鶴岡八幡宮寺と頼朝公が現在地の小林岡に社殿を新築する以前の元宮である元鶴岡八幡宮の記事もリンクを貼って置きます。


さて、今回の御寺は観光地としてそこそこ有名な室町時代に建立された海蔵寺でもありません。
今回ご紹介するのは浄光明寺と言う御寺で真言宗に属す仏教寺院です。
PXL_20220925_051935875
泉谷山 浄光明寺
この御寺、実は明治時代の国家神道成立以前の飛鳥時代~明治元年(1868年)迄の神仏混交で日本独自の仏教的な蔵王権現や白山権現等の修験道や真言宗や天台宗や権現信仰とも関係のある本来の神道とも密接に関係していた寺院でした。なので仏教の律宗・浄土宗・禅宗+神道の複合された様々な宗派を兼学出来る道場として栄えていました。
先述の通り鎌倉時代の建長三年(1251年)に北条家によって開かれた寺院ですが、もしかしたら地域的に前身の聖地霊廟か小さな御堂が有ったかも知れません。
御寺の山号が泉谷山と言うのは推測ですが・・・
元々は古代に海や干潟だった鎌倉の扇状地は飲料水に成る様な水質の良好な井戸が無かったので、清浄な湧水地がとても大切でしたから鎌倉時代に鎌倉十井(かまくらじっせい)と呼ばれた代表的な10カ所の飲用井戸水とされた湧泉地が珍重されていました。
KIMG8965
丁度この浄光明寺の直ぐ目の前には❝鎌倉十井の1つ❞に数えられた名泉❝泉ノ井❞が有る事から、元々はこの浄光明寺の在る谷の泉が鎌倉時代より遠く昔から飲用湧水の聖地化されていたのでは無いのかな?

そこに寺院を建てたので山号の元に成った谷の名前が元々は泉谷だったのが、後世、藤原氏族の冷泉為相公が居住した事で藤谷(ふじがやつ)に改名されたのではないかな?
・・・と言うのが小生の推測です。
泉の井を初め、前回の記事でも紹介した六角井等、本来は地震や津波災害発生時に鎌倉市街地の水道インフラ崩壊時の緊急用水のリザーブとしても史跡としても整備され水質管理されるべきなのですが、鎌倉市役所はソコ迄管理をする余力が無い様ですね。
KIMG8967
現在ではこの様な有様の井戸ですが、恐らくこの井戸の水が鎌倉時代~室町時代の武士僧侶神職にとってとても大切な場所で多くの人が水を汲みに訪れたのでしょうね。
PXL_20220925_060813240
今回紹介する浄光明寺は広大な元境内地が閑静な住宅街に変わった事で住宅街の中に所在し少し場所が解り難い状態ですが小町通や鎌倉駅から徒歩10分かからない距離なので訪れるのは容易です。
PXL_20220925_060833591
PXL_20220925_060819322
藤ヶ谷黄門と言うのは冷泉為相(ためすけ)公の事で、この冷泉家は京都貴族でも高位の文化教養を誇る一族でした。冷泉為相公の親の代に土地の所有権利を巡って鎌倉幕府迄出向いて訴訟を行い、彼の代にその教養を幕府の北条一族や北条家の幕府の御家人達に惜しみなく伝えて一定の地位と尊敬を得て鎌倉で人生を終えた後、この浄光明寺が彼の菩提寺に成りました。
PXL_20220925_051949656
浄光明寺は門をくぐると緑豊かな境内が目に入ります。
PXL_20220925_051908290
入って左手の立派な建物が本殿の様に勘違いしがちですが、実は客殿でその更に奥には庫裏(くり:生活空間)が有ります。
PXL_20220925_051859154
山門を入って左手手前には楊貴妃観音、つまり中国唐時代の美人で有名な楊貴妃様の名を冠した観音様がいます、女性は縁結びの御利益や美容健康の御利益を御願いすると良いかも知れませんね。
客殿と庭を挟んで反対には不動堂が有ります。
PXL_20220925_052545022
御不動様を祀るのは真言宗寺院らしいですし、水場の守り仏でも有るので山号や現在は住宅街の旧寺院の境内である泉ノ井が有る事にも整合性が有りますね~。
この不動堂の前には❝公衆トイレ❞が有るので、扇谷地区での散策の拠点としての機能も有ります。
実は扇谷地区は観光地化が余りされてない本来の鎌倉時代の景色を残す分、コンビニが無かったりするので公衆トイレは貴重な存在だったりします。
丁度、葛原岡神社や源氏山や北鎌倉方面に行く中間地点なので浄光明寺様の御厚意で公衆トイレ設置を認めたのでしょう。
不動堂と客殿の間の道を進むと階段が見えてきます。
PXL_20220925_052600797
しかし、この階段は通行不能で右手に折れて段地状に削られた丘の上の削平地に続く❝切岸(きりぎし)❞に設けられた通路が有ります。
この段地は人工地形で切岸にされている崖です。計画的に谷間に寺院を作り更に客殿、上部の本殿等の重要施設を区切るのは鎌倉の寺院らしい構造と言えます。
本殿である❝仏殿❞や阿弥陀三尊が祀られている御堂に上がる道を登ると又別の仏様が出迎えてくれます。
PXL_20220925_052623356
この仏様の先に宗教的なメインの施設が集まっています。
PXL_20220925_052838891
仏殿、こちらは本堂の訳ですが、実はもっと大切な建物が左手に見切れている鉄筋コンクリートの建物で収蔵庫の役割を果たしている一見すると御堂に見える建物です。
この中には撮影が不可能ですが国指定重要文化財の阿弥陀三尊様が祀られています。
小生は織田信長公と徳川家康公も建勲神、東照大権現の名の神様としても歴史偉人としても崇敬しているので、この御二人が崇拝していた阿弥陀如来様や牛頭天王=素戔嗚尊や御稲荷様も非常に大切に考えています。
・・・と、織田家と徳川家は今回は関係無いので説明を省きますが、直ぐ近くの日蓮宗の薬王寺は旧寺名を夜光寺と呼び鎌倉時代の千葉家や、江戸時代には織田家、徳川家、蒲生家と密接に関係の有った御寺だったりしますが、ソチラは又いずれ御紹介したいと思います。
さて、阿弥陀三尊様の御堂の隣には観音堂が有ります。
PXL_20220925_055524803
残念ながら扉は開いていませんが、古い宗派の観音様を祀るのも真言宗寺院らしいですね。
今多宗派で御不動様や観音様や御地蔵様を御本尊にする寺院は、実は改宗前の前身寺院があり旧真言宗や天台宗だった場所が多かったりします。
PXL_20220925_055533594
さて、この観音堂の前には奥に続く道があり非公開と公開の時が参拝日の運次第別れる更に丘の上段に設けられたスペースに続く隠し道の様な人工的に岩を削り出し作られた道が有ります。
一見するとドン突きの様ですが奥に行くと右に折れて昇る石階段が有ります。
PXL_20220925_055547167
長い年月で人の足で余り強くない鎌倉石の地盤が風化して更に山の湧き水で滑りやすいので、参拝者の危険度を考えて公開と非公開する日を決めている様ですね。
PXL_20220925_055624659
更に登り進めます。
すると開けた段地が又姿を現します。PXL_20220925_055732621
その削平地は今の時期は矢倉(墓所や仏像や御神像を祀るスペース)と言う人工洞窟の御廟所の前に彼岸花が咲いている長閑で少し現実離れした様な緑に囲まれた景色を目にする事に成ります。
PXL_20220925_055730129
近づいてみると構造的に間違いなく鎌倉時代の矢倉状構造物なのが解ります。
PXL_20220925_055802551
この様に人工的に岸壁に掘った矢倉に壁を掘り残したり複雑な構造をしているのは鎌倉時代の矢倉に多く、室町時代の後半には完全に無く成る様式です。
PXL_20220925_055811309
天井に天蓋(てんがい)が掘られていますね~。
この仏様は御地蔵様で網引き地蔵と呼ばれています。
なんでも海で漁師の網にかかって引き上げられて、浄光明寺様に祀られたと伝わります。
この仏様が実は鎌倉時代の凄い文化人と関係が有ります。
それが先に御寺の山門前の顕彰碑の写真に関連付けて説明した冷泉為相(れいぜいためすけ)公です。
冷泉為相公は亡くなってから(関東では一般的に鎌倉で没したと伝わるが京都人は反論が有るらしい)、浄光明寺にて菩提を弔われて墓所が築かれたのですが、それが網引き地蔵様の更に奥の少し上に上がった場所に在ります。
PXL_20220925_060034919
泉谷山 浄光明寺
御参り出来る日も有りますが出来ない日も有るので、先に浄光明寺様に御電話してから参拝するか決めると良いと思います。
所で浄光明寺には明治以前の神道文化を伝える貴重な場所も有ります。
明治時代まで鶴岡八幡神宮寺として源頼朝公によって創建されて以来、頼朝公の命で歴代の鶴岡八幡宮寺の神事の神主を治承四年(1180年)~明治四年(1872年)の長きに渡って務めた大伴家の菩提寺でした。
PXL_20220925_054843456
大伴家は恐らく卑弥呼(=倭姫)である女王の甥っ子である倭建(ヤマトタケル)に従って東征に従い、氏神として天下春(うわしたはる)命を祀る一族として関東地方の相模国国中部の愛甲郡~高座郡~武蔵国の多摩郡~秩父郡にかけて土着した一族なのを敬虔な神道と修験道と真言密教と天台密教の信仰者だった源頼朝公が日本神話にも精通していたので大伴家を鶴岡八幡宮の宮司家に任命したのでしょうね。

同じく倭建命関連で関東最古の大社格の神社である埼玉県の鷲宮神社の宮司家は大内家が任命されて同じ様に明治時代まで宮司家を務めていました。

鷲宮神社参拝の記事を書いた頃は未だブログ開始直後で拙い内容だったので、又いずれ書き直したいと思います(笑)。
鷲宮大社も戦国時代に成っても関東武士団に崇敬され、関東の大半を治めた小田原城主の北条家から鷲宮大社宮司家の大内家に当てて書かれた古文書が今も多く残っていますし、江戸時代も旧北条家臣から徳川家臣と成って横浜の本牧奉行、但馬銀山の初代生野代官、佐渡金山の二代代官を務めた間宮直元公の叔母が鷲宮大社宮司の大内泰秀公に嫁いでいます。
この大内泰秀公は利根川で徳川家光公が突然❝自分で泳ぐ❞とか言い出して溺れた(笑)際に、家光公を救出した人物としても知られており、更に間宮家も分家の岩本家が江ノ島神社別当家を明治時代まで務める等、実は関東の古代豪族の末裔や武士団で宗教的な教養に精通していた家柄は宮司や別当寺の長官を務める事が多く有りました。
この間宮家も近江国の佐々木氏族であり、佐々木家の氏神で鷲宮大社と同じく延喜式内社に列せられる安土城下の沙沙貴神社の宮司家出身の教養高い武士として足利尊氏公の二男の足利基氏公に従って鎌倉公方家の家臣団として伊豆に土着した武士でした。
丁度、鎌倉公方の話が出たので鎌倉公方の足利家に話題を移すと、室町幕府は足利尊氏公が京都に征夷大将軍として在京し、関東の政治は彼の二男の足利基氏公の子孫が統治しました。
浄明寺から近い、北鎌倉の長寿寺は足利基氏公が父上の足利尊氏公の関東での菩提寺として開いた寺院なのは有名です。
CIMG6136
宝亀山 長寿寺
そう言えば長寿寺は未だちゃんと紹介した事が無い様なので、秋の紅葉シーズン前に鎌倉版の紅葉名所紹介で個別の紹介記事に改めて書きたいと思います。
話を浄光明寺に戻すと、足利尊氏公の実弟の足利直義公が護良親王の供養の為に慈恩院と言う御堂を開いた事も歴史ファンには有名です。
更に鎌倉公方と成った尊氏公二男の足利基氏公の嫡孫で三代目鎌倉公方の足利満兼公が、祖父基氏公と実父の氏満公の遺骨を分骨し、鎌倉公方家草創期の菩提寺として浄光明寺を定めた事も歴史ファンの知る所で、今でも御朱印拝受が趣味の方々や歴史ファンが観光客が余り足を向けない扇谷地区の亀谷切通方面にちらほら見かける理由の一つが、この浄光明寺と薬王寺の存在だったりします。
それと余り知られない復興された史跡の1つに源頼朝公の御息女の大姫の菩提を弔う為に地蔵菩薩を祀つる御堂として建立された岩船地蔵が近くに在ります。
KIMG8882
岩船地蔵(大姫菩提所)
大姫は源義朝公の長女であり、源義仲公の御子息の源義高公の許嫁だったのが、鎌倉幕府の方針として父の命令で義高公を殺害された事で気を病んで亡く成ってしまった悲恋の女性として知られますが、今も扇谷地区の人々に慕われ菩提を弔われています。
鎌倉殿源頼朝4鎌倉殿源義仲2
⇩ ↘敵対勢力↙ ⇩
親子 殺害    親子
⇧   ↘    ⇧
鎌倉殿源大姫鎌倉殿源義高
↘婚約相思相愛↙
まぁ、悲恋の御姫様ですから逆に結婚で親に反対された女性や、恋人の男性や夫が困難に直面している女性が岩船地蔵を御参りして大姫様と地蔵菩薩様に祈願すれば、恋人や夫の男性の困難を克服する原動力と成れる様に参拝者に御利益を与えて下さるかも知れませんね~。
さて、最後に本日2022年09月15日、ブログに浄光明寺様を書くに差し当たって天気が良かったので自転車で久しぶりに参拝しに行って御朱印を拝受して来ました。
PXL_20220925_135042187~2
浄光明寺様は7種類の御朱印が有るので、扇谷地区を訪問する度に毎回1つだけ拝受すれば7回は参拝出来ますね(笑)。
浄光明寺様と地域の話をしましたが、浄光明寺様が凄い御寺なのは伝わったでしょうか?
この様に、扇谷地区は余り観光地化されておらず有名では有りませんが歴史豊かでスゴイ神社仏閣や史跡が集まっているので歴史散策をするには最適です。
皆さん、是非、晴れた日に鎌倉の閑静な地域の散歩で訪れて見ては如何でしょうか?

今日のブログはここまで!
この記事を書いている2022年09月末、蒸し暑い夏も終わりました・・・
鎌倉だけでなく、きっと皆さんの御近所の神社仏閣や城址の林や公園も凄い歴史偉人と関係が有る場所が沢山あるはずです、ちょっとお散歩して説明看板を読んでみませんか?
きっと皆さんと歴史偉人を繋ぐタイムマシーンの役割を果たしてくれる筈です。

では、また次の記事で御会いしましょう~♪



このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


皆さん鎌倉殿の13人はご覧に成ってるでしょうか?
源頼朝公や源範頼公、義経の兄弟は歴史上でも個性を活かして活躍しましたが、ドラマでも夫々(それぞれ)史実と異なる描写は有りますがドラマのキャラクターとして人を引き付ける演出がされていましたよね〜?
鎌倉殿源頼朝3
鎌倉殿源範頼2鎌倉殿源義経2
実は彼等よりも武将として優れた人物が彼等の近親にいたのを御存じでしょうか?
しかも、その人物は京都から見た中央史観では伊豆大島で死んだ事に成っているのですが、どうも源氏の根拠地に成っていた相武地域、つまり現在の神奈川県〜東京都〜埼玉県では状況的に・・・
「あれっ・・・これ生きてたんじゃね?」
・・・と言う複数の繋がりが出来る史跡が有るんです。
その源氏最強武将と言うのが、京都から追放されるたびに流刑地を一人で征服して領地にしてしまう凄まじいバイタリティーと指揮官としての軍才と個人戦闘能力の高さを合わせ持っていた武将で名前を源鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)と言います。
鎌倉殿源為朝
「ん・・・呼んだ?」
この人の事を知らない人の方が余り歴史に興味の無い人は多いと思いますので、皆さんも見ているかも知れない鎌倉殿の13人の登場人物紹介を拝借して人間関係を整理するとコンナ感じの相関図です・・
↙(遠縁の親戚)↘ 
鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿上総広常3
 (三浦家二男)↘ ↙(有力者)(後見)
         ↙協力↘     ⇩
  (三男)    ⇔      (父親)  ⇩
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿源義朝
   ⇩     ↘↙  (長男) ⇩
  (叔父) (弟) ↙↘  (叔父)  (弟)
鎌倉殿源為朝鎌倉殿源行家
(兄)   ⇔   (弟)
さて、朝廷側の史観からは源為朝公は伊豆大島と伊豆諸島を征服した後で後白河天皇から討伐軍を送り込まれて死んだ事に成っています。
しかし神奈川県内には、彼が匿われながら移動していたと解る点が線で繋がる生存伝承地が幾つか現存していて、伊豆大島から横須賀市浦賀港~鎌倉市材木座/逗子市飯島地区~横浜市上大岡と一筋に繋がる生存ルートの為朝公伝承地が有ります・・・

DSC_0524
鎮西八郎為朝神社
(濱町の為朝神社)

この鎮西八郎為朝神社は実は伊豆大島に討伐軍を差し向けられた際に彼が浦賀に逃げて来たと伝わり、彼の武勇を慕った地元の方達の御先祖様が源為朝公を御祭神として神社を開いたそうです。この鎮西八郎為朝神社は西叶神社の宮司様が兼務されていますが、神社庁に属さない地域持ちの神社なので余り知られていない上に、地域の人達に取材しないと説明書きも無いので由来も解らず終わってしまします。
この場所は完全に三浦家の支配圏内ですから、状況的には彼は保元の乱では対立した源義朝公や三浦家によって救出されて死んだ事にされた上で、横須賀の浦賀港に上陸し更に鎌倉に一度入った様です。
DSC_0521
DSC_0527
ですから源為朝公は、目立つ三浦半島西海岸の三崎港や新井城下の小網代港や諸磯港ではなく、伊豆半島の網代港でもなく、平塚市の須賀港等の古代からのメジャーな風待ち港ではなく、この地域に上陸し密かに匿われた様です。
鎌倉殿源為朝鎌倉殿源義朝
「兄上HELP!」「もぅ仕方無いなぁ」
         「三浦サン頼むわ!」
            ⇩
         鎌倉殿三浦義澄
       「・・・合点でぇい!」
鎌倉の方の話しに移る前に・・・
余談ですが鎮西八郎為朝神社は以前紹介した燈明堂海岸の比較的近くに存在しています。


もし源為朝公ファンの方は上大岡の歴史散策とSETで浦賀も訪れ、千代ヶ崎砲台や燈明堂海岸や西叶神社と東叶神社を散策すると非常に充実した1日に成るかと思います。

千代ヶ崎砲台は見学済みですので又、改めて解説記事を書きたいと思います。
江戸時代にも千代ヶ崎台場が築かれ明治時代には砲台化され、更に対岸の東浦賀の叶神社の背後の山稜は三浦氏の浦賀城として城塞化され戦国時代にも北条家によって配下武将が配置される等、浦賀は重要な港湾であり尚且つ平安時代には既に海上交通の要衝に成っていました。
それを説明するのに保元の乱の話しをしたいと思います。
保元の乱では兄の源義朝公の敵側である崇徳上皇に父の源為義公と共に与力してしまい、後白河天皇に与力した義朝公と平清盛と戦う事に成りました。
鎌倉殿後白河法皇
鎌倉殿平清盛鎌倉殿源義朝
鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿大庭景親
VS
鎌倉殿源為朝

崇徳上皇、藤原頼長、源為義(義朝/為朝/行家実父)、源頼憲、平忠正、平家弘等・・・
この戦いで源為朝公は善戦しますが、彼と父の源為義公等の与力した崇徳上皇の軍勢は、為朝公の実兄の源義朝公や平清盛公の軍勢に大敗します。
結果的に源為義公と平家弘公は斬首に成り、源為朝公は逃走して近江国に隠れていた所を捕縛されて、三浦家や伊東家等の水軍を持っている武家しか行く事の出来ない伊豆大島に島流しに成りました。
伊豆大島に島流しに成った源為朝公は元々個人的な武勇が優れているだけでなく可也(かなり)指揮官として優れた軍人で人望も有ったので瞬く間に伊豆大島を支配下に治めてしまうと、今度は伊豆諸島の離島まで征服してしまいました。その為に追討軍を差し向けられて殺害されたとメジャーな話では伝わるのですが、伊豆大島から横須賀~逗子鎌倉~上大岡に足取りを辿れる様に中継地点の史跡が幾つか残っています。
鎌倉市の材木座海岸と逗子市の小坪の丁度、境界線に当たる地域にも源為朝公の足跡を辿る事が出来ます。
当時の旧鎌倉郡は逗子市も含まれていました。戦国時代頃には三浦郡に成っていた様です。
江戸時代の三浦郡小坪村飯島には鎌倉十井の一つに数えられる六角井が有り、この井戸が現存しているのですが、実は源為朝公の伝説が残っている場所です。
CIMG0397
鎌倉十井の1つ 六角ノ井
すみません、しょっちゅう行ってる場所なのに史跡としては鎌倉市が管理を怠っていてブルーシートで覆われている様な状態でショボ過ぎる写真しか有りません(笑)。
CIMG0398
この六角井は伊豆大島から放った為朝公の屋が井戸の中に落ちた云々の非現実的な伝承が伝わっていますが、現実的な解釈をすれば伊豆大島で戦乱を起こした為朝公は実兄の源頼朝公と三浦義明公義澄公に救出部隊を送られ浦賀に上陸してから、更に海路で小坪か材木座に上陸し、この付近に一時期潜伏していた時に、当時は井戸を掘る時に水神様や土地神様への御供物として武具や調度品を入れたり神事を行う習慣が有ったので、為朝公が六角井の建設に関わったのかも知れないのが死んだ事に成っていたので伝承が間違って伝わったと考えると現実的ではないでしょうか?
この六角井辺りは丁度最近、富士山の景勝地として3ヵ所に分けて紹介しています。

凄く綺麗な場所なので天気の良い日に逗子〜鎌倉観光をされる人は是非、源為朝公の六角井や富士山の景色を見に訪れてみては如何でしょうか?
さて、この六角井は現代の鎌倉と逗子の境界線に成る訳ですが、鎌倉郡と三浦郡と久良岐郡は共に三浦家の氏族の領地が多く有りました。
今回紹介する場所には上大岡も有ります。六角ノ井の所在地は当時の鎌倉郡に当たる訳ですが、もう1つ為朝公の隠れ里の伝承が有る上大岡は久良岐郡に在り鎌倉郡に隣接します。
ここまで伊豆大島⇨浦賀港⇨小坪港西浜〜材木座と着実に上大岡に近づいてきていますね〜。
これね、メジャー文献しか読まずコピペばっかして自分で歩いて見て取材しないガクシャ様は知らない伝承なんです。
文献考古学で解る範囲の事は必ず為政者や筆者にとって都合の悪い事って書かれないんですよ、ほとんどね。だから歴史民俗は状況判断にとっても重要。
現代だって御役所の中でソンナ事は沢山有るし、公務員に限らず民間人の皆さんだって小生と違って自覚が有るんじゃないですか〜?
上司の命令で法律や規定を逸脱した方法で仕事したりしてませんか?
契約の評価基準下回ってるのに良品として納品したりしてませんか?
中小企業の社長サンにも求人は偽の雇用条件が堂々と記載されていて労働条件通知が出されると全然内容が違ったり、労基法すら全く順守せずブラックな労働条件で働かせたりする人沢山いるでしょ?

中小企業の社長サンには労働基準法を順守せずに新しい親日国のベトナムの友人達を技能研修性と称する❝奴隷化❞して反日ベトナム人を増やして将来の反日国を増やす事を何とも思わず日本の国防と国益を脅かす❝国賊❞の様な真似をしておきながら「自分は普通の市民」面して生きてる人もいるでしょ?
日本の国力を衰退させ友好国を非友好国に変えてしまう「外患誘致」ならぬ「外患製造装置」みたいな中小企業の経営者が現代の日本にも沢山いるよね〜。
ハッキリ言って中道保守派の小生から見てソイツ等悪人中小企業経営者は、友好国ベトナムの方々を奴隷化して友好国を減らし反日装置を製造する❝国賊❞だわな。
そんな連中は日本人失格。
武士も嘘を吐きますけど家族みたいに部下を大切にして部下が死んでも収入を保証して結婚相手まで面倒見たり、当主が討死した家の子の後見人に成ったり配下武将の家族の面倒を見たりするから、武士の棟梁に対する忠誠ってのは強固だったんです。
この理念を常日頃言っていたのが松下幸之助師匠ですね。

つまり松下幸之助師匠や町単位で市民の生活を考える豊田章男社長の様な人は、現代人ですがやっている事は丸っきり武士の発想なんですよね。

皮肉な話ですが、この御二人は紀州人と三河人なので平安末期の感覚で言う所の三河以東や関東地方以東を意味する坂東人ありませんが、東海地方や畿内に平安時代の武士イズムが脈々と受け継がれているのは、逆に腐れ儒教の影響を色濃く受けた江戸幕府の影響下に無かったから平安武士と同じ感覚が企業経営理念に残っているのかも知れませんね~。
小生の雇い主は客観的に見て松下幸之助サンに理念が似ている上に営業職の小生が加工技能習得の研修を志願したら意を組んで下さったり豊田章男社長の理念も持ってらっしゃいます。
頼朝公や信長公が頼りにした平安時代~室町時代の熱田神宮の宮司家であり武装豪族だった千秋家や、平安末期の坂東武者の棟梁の様に兄貴的な人なので、小生は雇用主の配下として三國志の孫策・孫権に仕えた呂蒙や関東地方の北条綱成公や梶原景時公や長尾定景公の様に働く存在に成りたいと思えたりします。
小生の雇用主御本人には、直接こんな小生が思ってる事なんて言いませんけどね、なぜなら小生は上司に媚び売る姦賊が大っ嫌いなので。
実力でサポートし、雇用主が言い難い事ややり辛い事を先陣切ってやったり、実力を付けて時には雇用主が危険な判断をしそうな時は数パターンの諫言を用意出来る様な人材でありたいと思う、今直ぐじゃなくても。
立派に業績を打ち立てる日本を代表する経営者は坂東武者に似ていると言う話をした訳ですが・・・
まぁ、武士の時代以前の神話の神様に神格化された古代の豪族の時代~現代まで人材を人材として家族の様に扱わない集団、過去の成功パターンに固執して新しい事に挑戦しない集団、家族や配下を食わせる為に必要な潮流を読み時流が動き出す前に機会を先取りしない集団は必ず滅びた例が現代企業でも溢れているって事です、歴史を見れば。
現代の日本企業は外資系企業と比較して人を大切にしないし従業員の家族なんて眼中に無い場所ばかり。古い事に固執して発展を止め、挙げ句の果てにデータの数値改竄や労基法違反隠蔽し更に友好国から来た研修生を奴隷にし反日国を増産してる国賊経営者もいる訳で、ソンナ連中は昔風に言うなら国賊です。
鎌倉殿源頼朝2
鎌倉殿源範頼2鎌倉殿源義経3
鎌倉殿源大姫鎌倉殿源頼家鎌倉殿源実朝

鎌倉殿北条時政2鎌倉殿牧りく鎌倉殿北条政範
鎌倉殿北条政子2鎌倉殿北条義時小鎌倉殿北条時連
鎌倉殿北条泰時

そんな現代日本人の悪人首領と同じように吾妻鏡だって北条家にとって都合の悪い事は粉飾したり削除してる形跡だらけですしねぇ〜。
恐らく源頼朝公も北条家が主導した暗殺だったでしょうし、源実朝公を殺害させた主犯も北条家でしょう。何だったら大姫だって毒殺で殺されたかも知れないし、上総広常公の暗殺も北条家や三浦家の主導だった可能性が可也高く有ります、だって上総広常殺害して奪った領地を給与されたのは三浦一族と北条一族と千葉一族ですからね。
まぁ、北条家は謀略で沢山の主家源氏の忠臣である同僚を謀殺し、更には主君の源家を暗殺で根絶やしにし、発言権の強い別の鎌倉御家人を全てから滅ぼして❝身内人❞と呼ばれる自分の家族に等しい北条家臣団中心の幕府運営に組織を作り替え、従属する源氏の御家人も大切にして日本を纏め上げた結果、元寇襲来時に武士団がバラバラにならず指揮系統が強固に保たれ世界最強のモンゴル軍を追い返せた訳です。
現代の国賊中小企業経営者とは違いますね・・・
今の日本企業経営者は海外に技術流出させまくり。
親日国の人々を技能研修生の名目で奴隷化して反日国を量産、日本の発展と日本国民の生活を脅かす内憂であり国賊でしたかない。
・・・とは言え先述の通り吾妻鏡は北条家にとって都合の悪い事は省かれている様に、メジャー文献からは消されたり違う事を書かせたり愚管抄の様に他人の又聞きを書いてるに過ぎなかったり粉飾や隠蔽で辿れない事も多いんです。
例えば愚管抄は比企氏と源頼家公を守ろうとして死んだ小生の尊敬する武将の一人である糟屋有季公の子等の伝聞で書かれた物で、多くの❝鎌倉時代の研究者❞を自称する文献考古だけでは見落としがちなのですが・・・
広範囲に調べたりせず自分で地元を歩いて廻ったり別の時代の史料を読まないタイプの文献考古のセンセイ様(笑)は愚管抄を妄信したり思い込みで伊勢原市の糟屋氏は相模国では滅亡したと思っている人が多いのですが、実際は室町時代にも相模国に一族が生き残り扇谷上杉家の家臣団として藤沢市域に残っていたり、室町時代後期にも小田原北条家臣として所領役帳に記載が有ったりします。
ましてや畠山重忠公討伐の北条家による騙し討ちの二俣川の合戦では愛甲季隆公が活躍していますが、この時に活躍したのが伊勢原市~厚木市の軍勢だったのは有名な話ですね。

そりゃそうですよね~、三浦家だって本家は滅亡しても分家の佐原義連公の家系が存続して活躍し苗字を佐原から三浦に復しているのですからwww。
和田義盛公の御子息の朝比奈義秀公の御子孫と思しき三浦一族も戦国時代に北条家の主な根拠地の1つになっていた駿河国に戦国時代も存在して今川家臣団として登場します。
吾妻鏡の隠蔽については以前に書きましたが、上総広常公の死に様の1年間の削除なんて代表例でしょ?
この人⤵
鎌倉殿上総広常3
「え、俺の話?」

だから色々と古文書に書かれた事なんて検証せずに鵜呑みにしてコピペして本にしたら❝OUT❞なんですよねぇ〜。
本物の歴史家を尊敬する小生は素人歴史オタクとして数人の歴史かの知り合いがいます。
尊敬するプロの歴史家の博士や学芸員サンとダメな❝歴史ガクシャ先生❞化した人を見て来て思うのは、歴史のプロの方々にとって大切な刑事の様な人の嘘を見抜いて情報を収集し取捨選択して、現代の行政区分の市境や区境の範囲や地形の先入観にも捕らわれず、自分の興味や研究の対象外の雑談からも情報を吸収し関連付けてから立証していくエジプト考古学の様なスタンスが必要なのだと思います。
だから小生が尊敬する歴史家ってのは現地を実際に見て廻ったり現代に成っても御子孫達に聞き取りをして廻ってる人ばかりなんですが・・・
神奈川県には鎌倉殿の13人に登場した源氏の人物に関連する武家の御子孫が2家現存しています。
その鎌倉殿の13人に登場した重要な人物はこの人です・・・
鎌倉殿源為朝鎌倉殿源頼家
※故人:息女が嫁ぐ↗     ⇩
    実弟  甥    親子
    ⇩     ↘    ⇧
2鎌倉殿源行家鎌倉殿源頼朝
「挙兵しろぉ〜」⇨「煩い叔父だ」
    ⇩        ⇩
鎌倉殿源行家鎌倉殿源頼朝2
「領地よこせぇ」⇨「オッサン邪魔」
この源為朝公の子孫が海老名の大島家や源頼朝公に伊豆大島の代官に任じられた大島家な訳ですが、もう一人の頼朝公と対立した源行家の関係先と伝わる家が、為朝公生存説の史跡の有る地域に存在します。
それが源行家公の家臣団と伝わる家柄の田野井家、山野井家で、この家が為朝公の隠れ里と伝わる当時は三浦一族の領地だった大賀郷と呼ばれた地域一帯に現存しています。
山野井と田野井って何だか童話に出て来る金閣・銀閣のコンビ名の様な苗字ですが(笑)、横浜市の郷土史では田野井家と山野井家は新宮十郎行家の家臣と伝承しています。

横浜市会議員だった田野井一雄サンは源行家公の御家臣に当たる訳ですね。
この田野井家は現在の港南区日野と言う旧鎌倉郡との郡境に根付き室町時代には豪農的な立場に成っていた一族の様で、その一帯は室町時代に成ると地域的に戦国大名の北条一族で北条本家の軍師を務めた北条幻庵公の所領に成っていたので小机衆として動員されていた可能性が有りますが、その地域一帯は概ね間宮林蔵の祖先の間宮康俊公の領地にも被っていたので玉縄衆だったかも知れません。
玉縄衆や間宮家に関しては以前紹介した記事が有るので、御興味有る方は以下の過去記事を参考にして下さい。


山野井家の方はと言いますと現在のG麺7の有る上大岡地区、旧久良岐郡禅馬郷大賀村とか平子郷大賀村とか大賀郷大賀村上大岡村とか地名が何回か変わってり村区分が分割されたりしたらしい京急上大岡駅の辺りにいて、その辺りは平安時代末には源頼朝公の父君の源義朝公と源行家公の実弟の源為朝(ためとも)公の所領だった様です。

以前、G麺7の紹介記事や、この地域の丘を登った場所にある森浅間神社の記事では上大岡は少し紹介した事があります。
今回は源氏最強の源為朝公の史跡紹介で上大岡に辿り着いた訳ですが、本題の源為朝公の史跡の話に戻ります。
G麺7から上大岡駅東口の方へと戻る途中、駅の右手は丘に成っているのですが上大岡駅を少し過ぎて右手のビル1Fに❝花ともだち大塚❞と言う生花店が有りますので、そこを右折して少し上がると駐車場の中にヒッソリと源為朝公の御霊社が現存しています。恐らく江戸時代に作られた供養塔の祠ではありますが、この地域は大昔から源為朝公の隠れ郷と伝承していた様です。
IMG_1951
源為朝之廟社
この一帯は律令制度では武蔵国久良岐郡に当たり郡役所の郡衙は弘明寺だったと考えられています。その久良岐軍を平安時代に治めたのが坂東平氏であり、大江山の鬼退治で活躍した三浦一族初代の平為通(ためみち)公の子孫の久良木三郎通継(みちつぐ)公でした。三浦為通公の御子息に三浦為継公がいますので、その子供の三浦義継公の御兄弟が久良木三郎通継公に当たる様です。
この久良木三郎は後にこの地域を治めた平子家の祖先でも有るので平子の苗字で江戸時代には記録されているケースも有る様です。
鎌倉殿源義朝鎌倉殿源行家鎌倉殿源為朝
源為朝公達兄弟の父上の名は源❝為❞義ですから、三浦氏の家祖である三浦大介(三浦郡知事)を務めた平❝為❞通(ためみち)公の代から既に三浦家と源頼朝公の家系の河内源氏は関係が有った事が窺えます。
その様な状況から久良木三郎公の治める久良岐郡に源為朝公の所領が有り、三浦家が当初は為朝公を後見していた可能性も有るかも知れませんね。
この上大岡一帯が源為朝公の隠れ郷だったそうです。
久良木通継公に関しては、未だちゃんと紹介した記事を書いていないので何(いず)れ久良岐郡の中で現在の磯子区~中区と南区の本牧半島を治めた三浦一族の平子家の紹介記事を書いて又いつか歴史を今回みたいに無理やり絡めて紹介したいとおもいます・・・いつかね(笑)。

さて、ここで源為朝公の消息は途絶えますので、もしかしたら死没地はここだったのかも知れません。
上大岡の丘の周りには御寺が沢山有りますし、近くには久良岐郡衙(ぐんが:郡役所)跡と伝わる弘明寺も有りますから、もしかしたら弘明寺は源為朝公の菩提寺だったりしたかも知れませんね~。
源為朝之廟社の近所には初夏には3万本の向日葵(ひまわり)が咲き誇る❝大賀の郷ひまわり畑❞も有ります。
CIMG3638
大賀の郷ひまわり畑
3万本の向日葵が咲き誇り入園無料

この大賀の郷は現代では横浜市港南区と南区と磯子区の区界の地域で港南区に属しますが、公式の広報ページが無く港南区も2021年度の❝ひまわりフェスタ❞中止と言う告知しか無かったので下のInstagramの♯大賀の郷で皆さんが投稿している一覧を表示するリンクを貼って置きます。
Instagram⤵の皆サンの投稿
https://www.instagram.com/explore/locations/676722655/?hl=ja
小生の写真⤵
CIMG3628
近所の人に親しまれているイベントのようで、為朝公の史跡巡りがてら初訪問だった2021年には多くの親子連れや女性同士で写真撮影している姿を見かけました。
CIMG3630
CIMG3633
CIMG3634
CIMG3636
是非、源為朝之廟社と合わせて大賀の郷ひまわり畑で写真撮影やTOHOシネマズ上大岡で映画デート~G麺7でのランチ等と合わせて休日の歴史散策をされては如何でしょうか?
映画館の話しをしてて思い出しました。

東野圭吾原作小説のドラマ、ガリレオの映画「沈黙のパレード」を土曜日に見て来たのですが凄く楽しかったですよ!ロケ地巡りをもししたら、いつか記事にしたいと思います~。
話を上大岡に戻します。
大賀の郷まで行くと、徒歩の距離に❝ゆず❞の地元の岡村町も有ります。

その周辺には先に紹介した玉縄衆の総大将の玉縄北条家所縁(ゆかり)の龍珠院と言う御寺も有ります。

更に歩けば未だ紹介して無い平子家の菩提寺の真照寺や戦中戦後のブラックマーケットから商店街化した浜マーケットも在ります。

KIMG5260
浜マーケット
さて、横浜市は他都市からの移民だらけで郷土史は忘れ去られがちですが、こうやって実は伊豆大島や横須賀市の浦賀や鎌倉市や逗子市とは源氏と北条家の歴史で密接に繋がっているんですね~。
浜マーケットの直ぐ近くの金蔵院も未だ紹介していませんが北条泰時公が磯子区広地町のマンションが建っている場所に前身寺院を開基(かいき:社寺を開く事)した御寺だったりします。

今回は伊豆大島~三浦半島の横須賀市浦賀港~鎌倉市材木座/逗子市飯島地区~横浜市上大岡と源為朝公の史跡を辿ってみましたが、きっと皆さんの地元にもスゴイ歴史偉人との繋がりが有る伝承地の史跡が有る筈です。
だから皆さん、ちょっと近所の城跡の公園や山、神社や御寺を参拝して説明書きの看板を読んでみませんか?
散歩すると気分も良いですしね~♪

さて、今日はここまで!
では皆さん、又、次の記事で御会いしましょう~♪
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

読者の皆さん、08月11日の更新から半月以上もブログ更新をサボっていた久良岐のよしですwww

2017年から始めた三浦半島の水質の良い穴場の海岸の紹介一覧記事を、コロナで三浦半島の観光産業と水産業農業の生産者が困窮しているのを目の当たりにした2020年夏、三浦半島の人達の力に成りたい一心で少しでも多くの人の役に立ちたいと思い記事のリニューアルを二十代~六十代までの男女問わず友人や恩師や後輩に「どうしたら見やすいか」「どういう情報が欲しいか」数パターンのプロトタイプを作って意見を聞いて再編集して、2022年08月03日に最終回の記事を書き終えて燃え尽きました。
コレが⤵2017年から約5年間かけてまとめた一覧。

最終回の記事はコレ⤵

これ書き上げてからブログをまともに更新せず夏休みを頂いていましたwww。
この間に何をしていたかと言うと、減量の為に丁度車検切れる車を6月に手放して7月からは自転車に乗り換えて、毎日天気の良い夜は最低20km、昼から動ける日は18時~19時の日没のマジックアワーに合わせて夕方に太陽が傾き始めて熱中症にならない15時~16時頃から中距離(往復40km~50km)を❝ぜぇぜぇ❞言いながらチャリンコで走って夕陽や夜景や朝陽の写真を撮影に行ってました。
なので・・・
チャリ乗ってる時間=今までブログ書いてた時間
・・・に成っていたので必然的に更新が途絶えた訳です(笑)。
会社の総務部長様に許可を貰い09月から片道15kmのチャリ通勤を「減量の為にやらしてくだせぇ~!」と御願いした所・・・
「いいですよぉ~」
・・・と快諾して下さった上に・・・
「なんならバイク通勤扱いと同等の交通費支給するので雨の日は電車で良いですよ~」
・・・とまでに言って下さいました。
4年前に減量して最終的には体脂肪率10%の全身筋肉量65kg、体重78kgに成って6packだったのは古株読者の方は御存知の所かと思います。
これ途中⤵基本目標達成時に書いたヤツ。

腹筋はコロナ禍でジム通いを止めて炭水化物を夏祭りの粉物食べてから歯止め効かなく成り又食べ始めたらあっという間に太りまして、いや~、人間って簡単に太れるものですね・・・
78kg⇒115kgに約40kg太りました(笑)!
・・・まぁ、そんな訳で一念発起して自分が強制的に移動手段で痩せる為に車を売り払いチャリンコに乗り換えて移動手段を❝運動❞にした所、07~08月現時点で12kg±01kg減量しました。
±は運動量の水の抜け方で最大1日の体重差が約03kg有るので、食事しても01kg前後の変動が有るんです。
で、08月中頃からはチャリに乗っててブログは書いていませんでしたが、それなりに写真は撮影したのでベチャベチャ写真だけ貼ってみます!
また、それぞれチャントした記事に編集しますが、今日は風景写真だけで勘弁してください。
23時に寝ても05時に起きないといけないので、記事書いてると睡眠時間無く成っちゃうんですwww。
【逗子市 披露山公園の夕景】
CIMG0426
CIMG0422
CIMG0427
CIMG0430
CIMG0432
CIMG0428

【横須賀市 走水海岸破崎の夕景】
CIMG0465
CIMG0466
CIMG0468
CIMG0469
CIMG0500
CIMG0501
CIMG0511
CIMG0510

【横浜市中区 横浜港シンボルタワー夕景】
KIMG3032
KIMG3034
KIMG3036
KIMG3038
KIMG3043
KIMG3042
KIMG3046
KIMG3047

【横浜市中区 山下公園の朝焼け】

CIMG0584
CIMG0571
CIMG0570
CIMG0577
CIMG0578

【みなと未来21地区~象の鼻パークの夜景】
KIMG3150
KIMG6690
KIMG6649
KIMG6655
KIMG6658
KIMG6660
KIMG6665
KIMG3151
KIMG3152KIMG6696
KIMG3153
KIMG3156
KIMG6702
KIMG6703
KIMG6718
KIMG6719
KIMG6722
KIMG6723
KIMG3157
KIMG3158
KIMG3160
KIMG3161
KIMG3162
KIMG3048

【鎌倉市 稲村ケ崎の夕景】
CIMG0590
CIMG0591
CIMG0593
CIMG0595
CIMG0597

この他にもチャリでの行動範囲なので同じ場所ばかり(笑)沢山写真撮影しましたが、これらの景色や神社仏閣の紹介と富士山の景勝地の紹介記事や、05月に調べ始めて少し書いてた逗子市小坪の神社仏閣の廃仏毀釈での変遷の歴史や逗子市と鎌倉殿の13人に登場する平維盛公の関係等、前半部分だけ書いて放置してる記事の続きも書いていきたいと思います。
この辺り⤵の記事の続きやシリーズかした個別解説ですね。


・・・小生はそろそろ寝ないと明日仕事中に寝てしまうので、他にも御見せしたい写真も有りますが、今日は09月からブログ記事再開の告知と言う事で今日はここまでにさせて頂きます。

では皆さん、まだまだ暑い日も有ります、熱中症に気を付けて今年残り4ヶ月間を実り多く健やかに過ごして下されやぁ~♪

また、次の記事で御会いしましょう~♪
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

2022年も世界遺産級史跡の蹈鞴(たたら)製鉄遺跡で飛鳥時代〜平安時代の百年単位で稼働した歴史が有り尚且つ旧鎌倉郡唯一、日本国内最大級の刀剣の故郷、上郷深田遺跡猿田遺跡の一帯に流れる瀬上沢の下流〜上流でホタル観賞最盛期を迎えています。
2022年は06月第3週末〜第4週末の現在の見頃だと思います。


円海山
 の麓にある 上郷深田遺跡 近くの 瀬上沢 で 蛍 鑑賞、リンクの記事内に見れる場所が書いてあります。

蛍を鑑賞しやすい場所の解説は上のリンクから過去記事を御覧ください。

解説のリンク内には現地の地図と住所緯度経度をクリックするとGooglemapナビに繋がるリンクが張ってあります。

2019年秋の台風時に土砂崩れで一旦蛍が減ってしまいましたが、逆に新しい土が柔らかくよく繁殖に適したらしくて、今年の蛍は素晴らしく2017年〜2019年にツイッターを見た皆さんが数万人単位で見に来て下さった頃と同程度に蛍の数も回復し、小生が一昨昨日見に行った時は30分の滞在時間で50匹位見る事が出来ました。

最盛期を終わりに以後どうかは解らないので、皆さん足を運んでみては?

——さて——

上の記事の記載の通り、現地は林文子前市長が容認した現在開発計画に巻き込まれており5月下旬に蛍の鑑賞のピークを迎える栄高校下の瀬上沢入口の東側一帯の瀬上沢は人工河川化と溜池にされる計画に成っている上に、日本最大級の蹈鞴遺跡である上郷深田遺跡は削取られた上に水源地である谷底は10mも盛土されて嵩上げされる計画で、SDGsの流れに逆行している状態です。
今の山中市長は前の市長さんより文化的な側面を大切にして広く市民の御意見を拾う姿勢が今の所有るように見受けられます。

山中市長SDGs 実現の代表例に成ります、神奈川県や埼玉県の本来の武州の自然と町の住み分けをする里山思想で東京都心の人間に対して横浜が先駆けと成って手本を示してあげましょう。
東日本最大のタタラ製鉄遺跡である上郷深田遺跡完全保護と横浜市南部最大の広域蛍生息地の瀬上沢全域の日本遺産級の環境保護、世界遺産級の史跡保護を実現し、東急サンにも不採算事業の上郷深田遺跡破壊と瀬上沢人工河川化を中止させる代替地に新山下を提案交渉する等頑張って下さいねぇ〜!

以下は過去の関連記事です。

このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


鎌倉殿の13人、04月17日の上総公暗殺の回、御家人の反応はどこかのO塚家具とかO戸屋とかイニシャルがOの現代の会社でも創業家追い出しでたまにニュースに成ってたのと同じロジックでしたね。
今回先ずは史実の話はしないとして、当初は上総広常公が頼朝公陣営からの埋伏の毒として御家人に送り込まれている筈でした。
鎌倉殿源頼朝鎌倉殿源阿野全成鎌倉殿源範頼鎌倉殿源義高

鎌倉殿北条政子2鎌倉殿北条実衣2鎌倉殿北条義時2鎌倉殿比企能員

鎌倉殿安達盛長鎌倉殿大江広元鎌倉殿梶原景時鎌倉殿上総広常
        VS
鎌倉殿千葉常胤鎌倉殿三浦義澄鎌倉殿三浦義村鎌倉殿三浦岡崎義実

鎌倉殿和田義盛鎌倉殿畠山重忠鎌倉殿土肥実平
最近だとO戸屋創業家vsCロワイドとかO塚家具の創業家vsKみこサン所みたいな感じですね~。
いつの時代も人間て進歩して無いんですね~。


この❝ひろゆき❞サンが言ってる人材処遇の話は歴史オタクなら結構知っていて私もちょくちょく人の種別で話すのですが、O塚家具の話のKみこサンの話でまさか出て来ると思いませんでした。
皆で仲良くする事なんか出来ないのかね?
人間のドロドロめんどくさっ!って思ってるので宝くじ当たったら三浦の休耕地買って家建てて毎日釣りと畑仕事して隠棲生活するか、学生に戻って奈良大学に入学して千田先生の弟子に成りたい久良岐のよし・・・
鎌倉殿源頼朝小鎌倉殿北条時政小
   ⇧将来邪魔に成る関係性 ⇧
鎌倉殿北条義時小鎌倉殿三浦義村小
創業者が最初は利用していたはずの幹部社員にいつのまにか依存し過ぎて業務を丸投げしてる内に、部下達が担ぐ神輿別にコレじゃなくても良いよね?と気が付いてしまう。
しかも上の状態から更にドラマでは上総広常公と梶原景時公が御家人側に埋伏の毒として送り込まれてグチャグチャしたダメな中小企業の主導権争いみたいなゲスい状態に成ってました。
鎌倉殿源頼朝
「んじゃ、任せたよ!」
     ⇩
「解りましたぁ~♪」
鎌倉殿梶原景時鎌倉殿上総広常
関東平野と言う限られた土地のピザ🍕の再分配が必要だったんですかねぇ~。
結果の良し悪しは別にして、ドラマではこの時に上総広常公は既に殺される運命だった事に成っています。

余談ですが、この上総広常公の居城は千葉県の一之宮町、高藤山城と伝わります。
城の周りには神話の舞台の鵜羽神社と玉前神社が存在し、そちらは以前解説記事を書いた事が有りますので御興味が有る方は以下のリンクから記事を御覧下さい。

いつの時代、どこの国でも同じ人間の成長しない限界。
能力が衰えると人は防衛本能が強く成り猜疑心が強く成ってしまったり攻撃的になってしまうそうです。
それは、この二人も御互いにそうだったかも知れません。
織田信長明智光秀公
前線に出なくなった大将は部下とのパワーゲームに成ってしまい部下粛清か頭領が隠居して代替わりしてリフレッシュするか部下の下剋上や外部の乗っ取りが待っている。
上司や部下の感情や悩みが共感出来なく成っちゃったり、傍にいないと信頼関係も薄れてきちゃうのよね、人間様は。
まぁ~織田家の本能寺の変に関しては個人的には明智光秀個人の野心とか感情も有った上で当時の近衛前久も足利義昭も細川幽斎も本願寺も堺町衆も全てが関わってたと思いますが。
個人の器にもよるのだけど目標(ビジョン)が低く小さい人程、仲間を仲間と意識できなくなるのが早く自己保身や他人を陥れる事を始めるみたいですね。
ピザ🍕の分配にすると自分の食べる分を多くするには大きく分けて2つの方法が有ります。
①美味しいピザの生産性を皆で協力して向上させて少しでも増やすか1つのピザを大きくして皆で分ける量自体を増やす。
②今あるピザ🍕を少しでも多く食べたいから他人の取り分を横取りするか、自分以外の人間を消す。
決められた利益のピザ🍕を少しでも多く獲りたいと思う②の目標が小さく利己的な人がいると、ピザ🍕全体の出来栄えを考えて作る前に作った後で独占する為に人を陥れたり排除しようとするんですね。
この人⤵みたいにね。
鎌倉殿源義経
「義円、戦ガンバ!」 
(邪魔だから死ね・・・) 
    ⇕
「兄上の為に頑張る!」
(義経あんがとっ!)
鎌倉殿源義円
義経に⤴騙されて死んだ人。
世間では協調性と言う簡単な言葉で片付けるけれど、完成するピザを100点にしたいと思ってるリーダーや優秀な部下がいて、60点の能力しかない人間が多いと60点のピザで終わらせない人間に対して自分達が出来ない事をやるのは「協調性が無いよオマエ」と負の作用をする事もあるので難しいですね。
小生現実社会でこんな事が有りました。
自分が営業職なのに生産管理支援をやっていた時に生産効率を改善して1時間の生産数を例えば100個作れるようにしたんですね、すると生産管理の管理職からこう言われたんです・・・
「報告する生産数、1時間当たり80個で書いておいてね」
「皆でそういう事にしてるから」
これね~、会社の経営者が実力主義で査定したいと思ってても、皆が同じ様にお給料を貰えれば良いと言う負の協調性が働いてる会社なんですよね~、昔の会社の話だから言いますけど「クソ」ですよね。
こう言う事も有って人間は分かり合えないんだと思います。
鎌倉殿源頼朝
「上総56してね~」
    ⇩
「えぇっ・・・ラジャっ!」    
鎌倉殿梶原景時
「双六やりませんか?」
(皆(自分)の為に4ね)
    ⇩
「おっ強いね梶原君」
鎌倉殿上総広常
双六好きで⤴殺されちゃう。
ドラマを見ても見なくても、結果は皆さん御存知の通り。
今回の上総サンの暗殺動機に関してはリーダーが2人いるみたいな状態に成っちゃったからとか諸説有るので話すだけ無駄として、三谷幸喜本人がTV業界で政治ゲームを生きてるだけあり説得力ある話に成っていて良かったと思います。
ただ個人的には鎌倉の伝承を聞いて回ったり自分で古道を歩いて回ってる小生としては地理的に納得いかないのは殺害場所です。

鎌倉殿の13人の脚本では京都人が伝聞で書いた愚管抄の大蔵幕府が暗殺場所として記載が採用されていました。
大蔵幕府は鶴岡八幡宮の東側の清泉小学校の辺りに~横浜国大付属中の手前くらいの辺りに存在しました。
CIMG5846
大蔵幕府𦾔跡
しかも現代の道で3kmも先の上総邸で刀洗って帰って来るとか余り現実的では無く意味不明ですよねぇ~?
当時の京都人が伝言ゲームで書いた愚管抄を無視すると鎌倉の伝承では十二所、明王院裏の谷戸の梶原景時邸に招いて双六をして暗殺した説と上総広常邸で双六をした殺害した説の二つが有ります。
これ恐らく2つの伝承が1つでセットに成っていて正解だと思います。
上総広常公の暗殺場所・・・梶原邸
上総家臣団の粛清場所・・・上総邸
相手の家に行って暗殺をすると言うのは余り現実的では有りませんねぇ~?
梶原景時公が単身で上総邸に乗り込んだら殺す事は出来ても先ず生きて帰れないでしょうし、これから逃げるのに上総邸の前の川で悠長(ゆうちょう)に太刀を洗ってる余裕は無いでしょう。
位置関係を見て見ましょう。
※クリック⤵して拡大して見て下さい。
大蔵幕府~上総邸
現実的な事を考えると大蔵幕府で殺害してわざわざ相手の家まで3km歩いて行って太刀を洗う事は無いので愚管抄は伝聞の間違いでしょう。
相手の家に乗り込んでも御覧の通り上総邸は山深く谷の1本道、梶原景時公が単身上総邸に乗り込んで暗殺を行ったとしても、上総家の家人が血眼(ちまなこ)に成って刀や弓を手にして追いかけて来るので自分の生存率自体が下がってしまいますね。
なので小生は現実的に梶原邸に呼び出して接待して飲みながら双六を行って殺害⇨その後に十二所の上総邸(後に朝比奈峠切通の入口に成る地域)へ武装した兵士を引き連れて襲撃し上総家の人間に対する掃討戦が行われたと考えるのが自然だと考えています。
そうすれば当然ながら上総邸の横の滑川の三郎の滝で梶原景時公と彼が率いた兵卒は血濡れた太刀や衣類と体の汚れを行水して落としたでしょう。十二所と呼ばれる地域の明王院と言う格の高い真言宗寺院に正対して左手に梶原景時公の邸宅が有ったと伝わり、梶原井戸と言う井戸が現存しています。

仮に梶原単独犯で大蔵幕府で暗殺を行ったとなると問題は雪ノ下地区~上総邸の在る十二所まで上総家の郎党を掃討しに行く訳ですから、数十人の武装兵を連れて行くので行軍する途上には畠山邸~足利邸~梶原邸~大江邸~上総邸と御家人の邸宅が並び守衛が立っている訳です。
物々しい数十人の武装兵の集団が大蔵幕府から3kmも上総邸まで歩けば直ぐに騒ぎに成る訳です。
2万の兵を束ねる上総邸の奉公人の人数に対して、武装しても梶原家の単独犯で兵士を引きて襲撃したとしても簡単では無いでしょう。しかし御家人やその家臣達が行軍を目撃した記録が残っていない。と、言うか北条家が編纂した吾妻鏡では上総広常公暗殺の年の記録が丸っと抜け落ちています。
でも上総家では生存者は逮捕されている事は解っているんですよ?逮捕者がいるなら普通に掃討戦が行われている訳です。
この行軍ルートにかんしては当時は真っ直ぐ3km便利に直進とは行きませんでした。
CIMG5867
歌之橋
当時は未だ渋川家によって源実朝公の時代に架橋された歌之橋は存在していませんし、朝比奈切通も開削されていませんでした。
太刀洗の方に行く道は十二所~朝比奈に抜ける熊野神社の古道抜けて鎌倉の外港として機能した六浦(昭和の埋め立てで消滅した湾)を目指すルートでした。上総家は房総半島が本拠地なので海に行き易い一番熊野神社に行き易く尚且つ比較的平坦な道で大蔵幕府に出仕出来る当時のセレブ住宅街の一番奥に居館を構えていた事が解ります。
大蔵幕府~上総邸2
下手すると当初は鎌倉の港は由比ヶ浜だけで良いと考えられていた所を上総家が六浦~熊野神社~大刀洗~浄妙寺地区のルートを開拓して六浦港の使用権を上総家が独占していたのだとしたら、その六浦の利用権共有を求める鎌倉御家人達や幕府との軋轢を生んだ一端何て説も有りかも知れませんねぇ~。
なんせ源実朝公が造成した築地(埋め立て地)港の和賀江島の使用を巡っても出入り口一つで裁判が起こされていた程なので港の利用権と言うのは大きな権益な訳です。

和賀江島は今では港の機能は失われ景勝地として地元民や観光客に広く愛される場所ですが、何の因果か鎌倉幕府にとって重要だった六浦も昭和に埋め立てられ消滅し港としての歴史を閉じました。
六浦港を上総家が支配していたとすれば後に千葉家が六浦に勢力を持っていた事にも説明が着きます。
港に通じる朝比奈切通と切通開削以前の熊野神社の古道を押える位置に上総家の邸宅が陣取っていますが、この道は室町時代にも重要だったので鎌倉市街地側で朝比奈切通の本来の道筋だった場所に存在する時宗の岩蔵山光触寺は、この古街道を往来する製塩業の商人達に信仰され御地蔵様に塩を備える風習が残っている他、室町時代の関東を支配する将軍だった鎌倉公方足利持氏公によって御本尊の御厨子が寄進されていたりします。
CIMG8580
岩蔵山 光触寺(こうそくじ)
時宗の開祖の一遍上人と御弟子サン達は交通の要所の出入口にある御堂や荒廃した寺院を復興して布教拠点化していた事が各寺院の場所と地理から解るので、この光触寺は往来する人々に休憩場所として提供されつつ布教の拠点にも成っていたのでしょう。
六浦の港は戦国時代の北条所領役帳に北条家に亡命し家臣化した上総国の大名真里谷武田家の所領として登場します。

武田殿
百廿七貫文 六浦木曽分
 自前々役無之 但御人数者可有其改

自前々役無之但御人数者可有其改の部分は現代口語訳にするとこんな感じです・・・
「前々から兵役は免除してたんだけど~人揃えて貰う事にルール変えっからヨロ~♪(亡命して来た盟友扱い止めるから君は家臣てことぉ~!)」
・・・みたいな感じです。この地名が木曽分と言うのは恐らく上総家が六浦を占有していたならが取り上げられた後、千葉家や木曽義高公へ再分配された名残りが地名の「木曽分」として残っているのでしょう。
鎌倉殿源義高鎌倉殿千葉常胤
木曽源氏の御曹司だった源義高公は誅殺されてしまい領地を引継ぐ人はいなかった訳ですが、一方で千葉家は六浦の権益を鎌倉時代にも維持しており、これが日蓮聖人の船中問答の舞台の一つである六浦山上行寺を千葉家臣富木胤継入道常忍公が日蓮さんと船に同乗して房総半島から任地の六浦に戻る際に教化されて真言宗から日蓮サンの法華経信仰に改宗し、入道号を日常と改めて市川市に在る日蓮宗大本山の中山法華経寺の前身と成った奥院の法華寺を自宅に開いた事が知られています。
木曽分の他にも鎌倉時代の御家人の所領の名残と思われる場所は鎌倉幕府設立から約400年も経過している1560年頃に検地をした北条所領役帳他に散見出来ます。

宗甫
八貫五百文 神奈川斉藤分

この宗甫は間宮宗甫と言う人物で北条氏康公の奏者(秘書)を務めた人物です。他に横須賀市の西浦賀にも所領を持っていて子孫は江戸時代に三ツ沢壇林と呼ばれ学問所化していた法華宗の豊顕寺の檀家に多く残っています。
豊顕寺について興味の有る方は以下のリンクの記事を御覧下さい。

戦国時代の間宮宗甫の所領の一つとして登場する神奈川区斎藤分町ですが、斉藤と言えば元は木曽の源義仲公の父の源義賢公の忠臣だった家系ですが他にも箱根駅伝で有名な戸塚区不動坂には鎌倉幕府滅亡前後に斉藤家の所領に成っていた様でして大塔宮護良親王が殺害された際に妻女ひなつる姫と侍女が斉藤家に助けを求めて逃げて来た伝承が有ります。

保土ヶ谷区に今井兼平の領地だったとされる今井城址も寺院化と宅地化されて曲輪一つしか現存しませんが今井の地名も残っています。
巴御前も降伏して和田義盛公に継室として嫁ぎ三浦半島の三浦市初声和田に存在した和田城で余生を過ごしたと神奈川県では伝承します。

実は通説と異なり木曽源氏の家臣団は木曽義仲公の滅亡後に巴御前を含めて悉(ことごと)く降伏し幕府に帰順して源頼朝公の家臣に成っていた様です。
鎌倉殿和田義盛鎌倉殿巴御前
和田義盛公も和田合戦で滅亡したとされていますが実際は鎌倉時代には北条家の所領だった駿河国に室町時代に今川家重臣には三浦、由比、朝比奈と和田家や三浦一族所縁の苗字が多く登場します。
更に横浜市港北区の大倉山~太尾見晴の丘の大曾根城の麓にある長光寺は木曽源氏所縁の御寺として知れています。
鎌倉殿木曽義仲
この様に木曽源氏旧臣達は実際には義仲公の討死後には源頼朝公に取り立てられ港や陸路の要衝を押える場所に所領を得ていた状況証拠が地名や社寺の伝承に残っていたりします。
これらの場所は若(も)しかしたら、一部は源義高公の祖父に当たる木曽源氏の家祖の源義賢公や上総家の治めたと思われる六浦の様な場所を、源頼朝公によって木曽源氏滅亡後に木曽源氏旧臣や千葉家に再分配されているのかも知れませんね。
KIMG7728
話しを鎌倉時代の上総家に戻すと、上総広常公の御屋敷は六浦と鎌倉の往来に便利だった十二所の中の太刀洗いと呼ばれる地域に所在し、鎌倉市街地側から行くと三郎の滝の手前辺りと伝わります。
大蔵幕府~太刀洗に至るには、当時は二階堂川を避けて二階堂地区永福寺方面を経由して山を越えて梶原邸の方に出るか、滑川の南岸を通過し大江邸を通過し少し奥の光触寺の前を通って川沿いに十二所太刀洗の上総邸に行くルートしかありません。
山越えで梶原邸に戻るルートなら暗殺し汚れた太刀や服は自宅で洗濯するでしょう(笑)?
滑川南岸を行くなら梶原邸に戻るまでに遠回りになり源氏の菩提寺だった勝長寿院の僧侶達や北条家や大江家の家人や御家人本人に目撃されるか騒ぎに成るでしょう?でも何にも記録が無いんです。
CIMG7531
大江広元邸址
オカシイですよねぇ~?
わざわざ自宅をスルーして単独で上総邸に乗り込む筈も無ければ殺した相手の家の前で刀洗って帰って来る事も無い訳です。
なので梶原単独犯は成立しません。
普通に考えて彼の単独犯だとして畠山、足利、北条、大江が梶原家の軍勢を黙って通過させるでしょうか?
いずれにしても大江さんと言う幕臣の重鎮の家が最終的に有るのですが梶原公による単独犯なら上総公暗殺の事後の上総家の家人による山狩り状態で大騒ぎに成っている描写も無い。
逆に最初から軍勢で攻めても双六やる伝承は残らないし、そもそも騒ぎを大江家の人間だけなく途中の武将の家人も見聞きしていないのはオカシイ。
大江邸での記録が無く素通り出来たならそれはもう幕府公認の活動でしょう。
もう一つクッソ遠回りのルートで大町方面小町大路から名越に向かい北条家の名越邸の下の釈迦堂切通や逗子ハイライドに有った巡礼道(三浦道)を通過する経路が有ります。
CIMG5830
釈迦堂切通
公認ならば梶原単独にやらせる訳が無い、と言うか大軍勢を領国に抱える上総家家臣団を絶対に討ち漏らす事は許されないので、源頼朝公や北条家が加担してない訳が無いでしょう。
そこ等辺りが吾妻鏡の抜け落ちた1年の記録で、あくまで梶原家に罪を着せた後世の偽書の要素が吾妻鏡には幾つか有ると言う事でしょうし、愚管抄は詳しく知らない御家人の糟屋有季公の更に子供からの伝聞を書いたに過ぎない伝言ゲームの結果と言う事なのかも知れませんね。
KIMG8745
飯盛山 明王院 寛喜寺梶原景時公が通説通り暗殺を明王院の付近に有った梶原邸で行い、独自に私兵を率いて上総邸襲撃も出来た可能性が高いので梶原家の単独犯なら普通に伝承が一番整合性が高いでしょう。
相手の多さに相当苦労すると思いますが奇襲で相手は普段着、自分達は甲冑着込んでる訳ですから勝機は十分ですよね。
より確実なのは暗殺と掃討を分業して北条家と大江家が手っ取り早く幕府の兵を率いて上総邸を襲撃する方法です。
鎌倉殿梶原景時
 暗殺の実行犯⤴
 掃討戦実行犯⤵
鎌倉殿北条義時2鎌倉殿大江広元
この構図が一番現実的だと思います。
暗殺と掃討を確実にするには有力御家人に共犯がいるなら役割を分業したら良いのです。
梶原サンが暗殺している内に、幕府の中枢の人間であり尚且つ上総邸を襲撃しても他の御家人に目撃されない場所に住んでる二人が手勢を率いて上総邸に駐在している上総家親族と家臣団を襲撃して抵抗する者は虐殺し、降伏した者の中で重要では無い者は追放するのが一番効率的で失敗も少ないでしょう。
吾妻鏡では上総サン暗殺の年の記録を削除しているので、大河ドラマとは正反対で北条家が共犯か主導していたと考えるのが自然ではないでしょうか。
何時の時代も官僚や政治家にありそうな証拠隠蔽ですよね。
鎌倉時代に限らず江戸時代に成っても幕府が寺社に発給した領地保証の朱印状ですら寺名の誤記も有るし寛政重修諸家譜でも人名の誤記も有ります。
いずれにせよ、梶原単独犯の凶行で大蔵幕府で殺害し自邸に戻らず、上総邸の目の前の滑川上流まで太刀を洗いに行く訳がないですし、梶原家が単独で攻め込むと言うのは多くの御家人が黙殺する必要が有るので地理的に非現実的ですね。
KIMG7727

蝉も鳴かない空気の澄んだ2月、切り合いと怒号と阿鼻叫喚の悲鳴は鎌倉の谷間では遠くまで良く響きますよぉ~(笑)。
横浜~鎌倉の細長ぁ~い谷で繋がる谷戸地形はね、夜になり往時の様に静かな時間帯に成ると5km先の電車の走る音も谷間に反響して良く聞こえてくるんですよ~www。
最後に上総広常公の跡地に跡に開削された朝比奈切通と、切通開削以前の古道だった熊野神社の参道の写真を見て今日のブログを終えたいと思います~。
KIMG7701
KIMG7704
KIMG7705
KIMG7706
KIMG7708
KIMG7725
KIMG7726
KIMG7727
KIMG7728
最近は春に成ったのに関東では天気の悪い日が続きますが天気が良く成ったら天園ハイキングコースの古道や朝比奈峠~鎌倉駅までの散策を楽しんでみては如何でしょうか~?
コロナに感染しない様に対策をシッカリしつつ歴史散策や鎌倉観光楽しんで下さいねぇ~♪

では皆さん、又、次の記事でお会いしましょう~。
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


2週間ブログ更新してないんだけど・・・
今回は近況報告です。
別の記事で鎌倉殿の13人の番組終りのNHKアナウンサーの解説で触れられていた源義朝公の屋敷の事で文献しか読まない人が大間違いしてるのでソレを解説する内容をUPしたいと思ってます。

なんせ4月の更新ペースも遅かったのですが、何も歴史関連の事してなかった訳じゃなくて色々と❝文献に記載の無い事❞の調査に行ったり、富士山の写真撮影するのに苦戦してムキぃ~!って成りながら尊敬する人の敵討ちで人を殺しまくってました、意味不明かなwww?。
富士山の撮影は4月は逗子市の披露山に通ってました。
過去撮影した物より、より良い富士山の写真を撮影したくて何度もチャレンジしてるんですが桜の季節に入ると関東人にとっては嬉しくない現象が起きるんですよね・・・
CIMG8850
CIMG8842
CIMG8846
富士山が見え難(にく)い春霞(はるがすみ)の季節に突入するんですね。
納得行く写真が全然取れないんですよ。
富士山のシルエットしか見えない上に、それすら見えない日が増えて来ます。更に静岡県と山梨県側の天候で神奈川が晴れていても向うが曇ってると根本的に富士山は隠れて見えないんですよねぇ~。
小生のインスタのフォロワーさん達は写真家の人達ばっかりで皆さん超絶写真が凄くて、ソレと比較すると自分の写真が惨めに見えるくらい下手なんですよね。
KIMG1802
ダイヤモンド富士を撮影に行っても全然っ富士山見えねぇ~よ(怒~悲)!
夕陽でコレですからね、もうガックシです。
前日が荒天で海が撹拌されて相模湾の水蒸気が少ない日、早朝4時半頃から家を出て5時前後の日ノ出に合わせて朝のマジックアワーのピンク富士を桜と一緒に撮影したくて4月初頭は早起きして何回も撮影しました。
CIMG8883
CIMG8894
CIMG8892
もう、1日で日照の有る時間で1番気温低く空気が澄んでるAM:05:00~05:15の時間帯でこの見え方の不鮮明さよ・・・
CIMG8650
上の写真は披露山公園から葉山マリーナを見ている写真です。

——話しを近況報告に戻します——

最近やっていた事は披露山での富士山写真撮影だけでなく、所謂(いわゆる)文献には乗らない明治以降の鎌倉市のとある2つの神社と御神体の移転の話を現地散策しながら昔から住んでそうな知らない人の家のインターホン「ピンポーン♪」したりして(笑)突然、隣の晩御飯みたいに歴史の取材をしたり・・・
CIMG8997
CIMG8974
文献には「城」としては出てこない文献コピペ学者が吾妻鏡盲信でミスってる源義朝公の館に付属する詰城の名残の削平地や尾根道を藪漕(やぶこ)ぎして探したり、館の場所の正確な場所を地域の旧家の方を探し出して又「ピンポーン」して情報集めて散策したり。
CIMG9101
CIMG9106
古墳時代の武具の展示を見に行ったり。
コレね⤵
CIMG9055
一番左の鏃(やじり)、古墳時代に既に雁股の鏃を使ってるとか凄くないですか?
これ完全に対人兵器で、深く刺さるだけの通常の鏃と違って例えば敵の首とか腕とか足の筋肉を切断して傷口塞がっても永久に障害が残る様にする日本独自の弓矢の発展形式なんですよ。
これから鎌倉殿の13人で登場する機会は既に無くなりましたが弓の名手として有名な那須与一宗高公は、この相手を殺す事よりも如何に後遺症を残し再起不能にするかを考えて凶悪な雁股の矢を愛用していた事が知られています。
スポーツマン的な描写で描かれる武将ですが全然っ!爽やかじゃないですねwww。
CIMG9129
あと尊敬する戦国時代の武将の北条綱成(つなしげ)公の部下だった朝倉政景公の御妻女の御墓参り行って来たりしてました。

ところで冒頭に「敵討ちで殺しまくった」話をしましたがゲームの話です(笑)。
信長の野望覇王伝ですwww。
実はこのゲームを学生時代以来ぶりプレイステーションをひっぱり出して来て最近やってました。

小生は徳川家康公や織田信長公等有名な歴史偉人と同様に歴史に興味が無い人は余り聞いた事がないであろう足利持氏と言う鎌倉市~横浜市域の神社仏閣を大切にした殿様を尊敬しています。
以前、横浜市金沢区の小泉元総理の家の菩提寺の宝樹院と源頼朝公の開いた瀬戸神社の記事でも少し解説した事が有るかと思います。


この方は源頼朝公が開いた神社仏閣を多く保護して参拝したりしていた方でした。
なので横浜市民が現代に例えば源頼朝公と北条政子様御夫妻の開いた瀬戸神社等に御参りできるのも足利持氏公の御蔭だったりする訳です。
関東の将軍である鎌倉公方足利持氏公は籤(くじ)引き将軍で有名な足利義教に因縁つけられて鎌倉の武士団に対する挑発にムキに成ってしまい幕府軍によって攻め殺されてしまいます。
これを永享の乱と現代人は勝手に名付けています。
この足利義教は元は天台座主つまり比叡山延暦寺のTOPだったのですが、足利家の後継者問題で跡継ぎが決まらないまま将軍が死んでしまったので、京都の足利家臣団が籤引きして将軍に選ばれ天台座主の座を捨てて還俗して征夷大将軍に就任した人物でした。
この足利義教は家臣や親族を暗殺しまくった凶人としても有名です。
しかし籤引き将軍に殺害された足利持氏公の御子息の足利成氏公は成人すると親の仇の上杉憲忠を殺害して親の仇を討って、更に幕府軍とも戦い今の江ノ島を扇谷上杉家と山内上杉家の大軍に攻められた際も撃退した当時の関東では最強の戦強さの武将でした。
この足利成氏公も横浜市域の神社仏閣を保護したり新たに寺院を開いた人物で、以前ブログでも紹介した事が有ります。

で、覇王伝引っ張り出して来て持氏公と成氏公の敵討ちをする遊びを最近していましたwww。
足利持氏公の来孫(孫の孫の子)の足利晴氏でプレイして、足利持氏公を殺害した逆徒の上杉家の子孫と京都の将軍足利義輝をブッ殺して征夷大将軍に就任するのが目標(笑)なのですが、そもそも信長の野望覇王伝で足利晴氏公は在野武将として登場して大名ですらないんですね。
KIMG2022
しかも戦闘33とかクッソ弱いwww。
なので足利持氏公の永享の乱の敵討ちを託すべく先ずは古河公方足利晴氏公の大名化を目指すところからゲームスタートしました。

足利家の家紋の「二引両紋(ふたつびきりょうもん)」と同じ家紋の里見家で開始。

二つ両引き


このゲームは昔のゲームなのでシステム上の弱点が有って、最初は兵100で毎月隣国に侵攻しゲーム特性活かした兵糧攻めをします。こちらが兵力100でもコンピュータはAIがガバガバなので最大兵力で出陣して来るので、ゲーム開始直後は相手の兵糧が尽きるまで只管(ひたすら)逃げ回り戦争を終える事を何回か繰り返すと勝手に相手が兵糧切れで負けてくれて領地と家来を奪い取る事が出来るんですね。
まぁ、笑えない話でプレイヤーとして選択した大名家の里見家は実は東京や神奈川に史実でもしょっちゅう海賊化して略奪放火に来ていた連中(笑)なので、ゲームのなかでも実際の里見家の歴史と同じ事をしている訳ですが・・・

以前ブログで紹介した横浜市磯子区杉田に在る熊野神社は明治時代以前は泉蔵院と言う源頼朝公が開いた熊野社を管理する修験道の大寺院でしたが、この杉田地域は戦国時代に里見家に略奪されて大変な目に遭(あ)っていたんですね。
・・・まぁ、史実通り海賊野党軍団と化す里見軍団(笑)プレイして足利晴氏公が在野武将として関東のどっかで登場するのをひたすら待ちました。

最初の標的は北条領、手始めに江戸城から始め~河越城~滝山城と恨みの全く無い(笑)北条氏康公に兵100攻め繰り返し兵糧攻めで開始07ヶ月でブチ殺すwww。
でも、これゲームだから簡単に言ってるんですが当時は江戸城を占領下に置く事すら房総半島から侵略するには大変だったんです。
南関東
上側が房総半島、真ん中が東京湾、下側が三浦半島です。
この地図は明治時代の迅速測図と言う海が埋め立てられる前の地図をGoogleEarthに表示させて更に訪問した事の有る城を表示しているのですが、画面上の真ん中の久留里城が小生がプレイヤーとして選択した里見家(後で足利晴氏に継がせる)の本拠地です。
江戸城は画面やや左下に在るのが解るでしょうか?東京湾の最深部に攻め込む際には周囲の城から当然ながら援軍が来る訳です。
史実では房総半島の里見家が鎌倉の鶴岡八幡宮を焼き払って玉縄城に攻め込んだ際は画面真ん中の笹下城の辺りから上陸して瞬く間に鎌倉まで攻め込んでいます。この事件が有ってから北条家臣間宮家によって笹下城が築城されて、以来、横浜市域~横須賀市域へ里見家の海賊が来る事は安土桃山時代の北条家滅亡直前まで無く成っていました。
実際には日本に存在した城の数は大小合わせて3万に迫る数だったと言われるので、里見家が房総半島を統一する事も出来なかったし、北条家初代の北条早雲公~五代氏直公の約100年でも関東を完全に領国にする事は出来なかった訳です。
源頼朝公
織田信長
源頼朝公や織田信長公が如何に凄かったか城を表示した地図を見ると良く解りますね~。

取り敢えずゲームなのでサクっと北条家を滅ぼして(笑)、結城→武田を滅亡させ人材を奪い取ってイク♂訳ですが・・・

ここで激弱武将の古河公方の足利晴氏公登場!
KIMG2022
でも、この能力評価はシリーズを通して高い方なんですよwww。
この人は史実では8万の軍勢を率いて北条氏康公の支配する河越城を攻めて、当時河越城を兵3000で守備した北条綱成公を半年間も包囲しながら破る事が出来ず、挙句の果てに小田原城から河越城の援軍に来た北条氏康公の8000の軍勢に夜襲を仕掛けられて自分の軍団壊滅させられてんですヨwww。

なので信長の野望覇王伝では足利晴氏公の能力ちょっと過剰評価なんですね。
因みに河越城に援軍で入り指揮を執った北条綱成公については居城の鎌倉市の玉縄城を以前紹介しているので御興味の有る人はリンクをクリックして下さい。

玉縄城散策の栞(しおり)代わりに成るかと思います。
小生が足利晴氏公を査定したらこんな成績だと思います。
信長の野望覇王伝での評価
足利晴氏
覇王伝⇒小生査定
政治62→80  
戦闘33→10
采配58→40
智謀54→10
野望70→99
義理08→01
比較対象として北条氏康公の評価も載せておきます。
北条氏康
政治96→96
戦闘80→80
采配97→92
智謀82→87
野望75→90
義理10→60
KIMG2022
足利晴氏公8万の兵力を掻(か)き集める派閥形成的な政治力は素晴らしいとして・・・
半年間河越城を落とせないとか無能すぎるでしょう。
戦闘では陣地で酒宴開いて統制を乱すとか邪魔(史実)。
采配は指揮官として軍勢をまとめ上げれていなかったから現場に出て来ないで欲しい。
智謀も頭悪いから油断して攻めるべき時に攻めずに敵援軍が来るまで半年間もダラダラして負ける。
野望は自身が古河公方就任の道筋を作ってくれた支援者で恩人の北条氏康公をアッサリ裏切った挙句、実力は無いのに独立心だけ強くて何を勘違いしてるのか自分の権威に皆従うと思ってる社長。
・・・あのねぇ~、こう言う人は現代の政治家にも企業にもいますよね~、誰とは言いませんが与党にも野党にも威張り腐ってるだけで派閥形成の陰謀は得意だけどトラブル発生したらどう対処して良いか解らなくてアワアワして「頑張ってるんです!」って逆ギレする人ね。
つまりヤル気に満ちた馬鹿。
軍隊の人材評価基準で鉄則が有るんですが・・・

①ヤル気の無い馬鹿
前線に送り込め、頭数には成るから死んでも良いし。

②ヤル気の無い頭良い奴
企画担当や作戦参謀にしなさい労力や損害を最小限に抑えて相手に勝つ手段を考えるのが得意だから。

③ヤル気の有る頭良い奴
将軍に任命しなさい、作戦実行するために頭を使うから。

④ヤル気の有る馬鹿
努力とかヤル気とか非合理的かつ精神主義で味方に敗因作り損害与えるから早く殺せ。
現代の会社で言うと部下に対してブラック残業強いて部下を過労死させたるタイプ。又はヤル気を買って仕事を与えると会社に大損害与えるミスする奴ですねwww。
旧軍で言うと陸軍だと牟田口廉也と海軍だと黒島亀人が正にこの④の典型例。

これ前回の鎌倉殿の13人の解説でも冒頭O塚家具の話でヒロユキさんも解説してた動画を紹介しましたよね。
まぁ~、そんな足利晴氏公は史実では北条家に捕虜にされて小田原城に抑留されて、仇敵であるはずの北条氏康公の姫と仲良く♂♀シテ跡継ぎの足利義氏公が誕生している謎の思考回路の持ち主でもありました・・・
人に乗せられやすいスケベで見境ないあの人みたいな感じなのかも知れません。

・・・誰とは言いませんが(笑)、酒池肉林で懐柔されるバカ殿でもあった訳ですね?

とりあえず今回の小生の目的は里見の姫を晴氏公に嫁がせ里見義尭に隠居させ大名足利晴氏爆誕💥
憎き足利義教の来孫の征夷大将軍足利義輝が三好長慶と抗争してる間に幕府の承認得ずに古河公坊家勝手に復興(本当は鎌倉/古河公坊就任には幕府の叙任が必要)♪

本来、鎌倉公方に就任するには先ず鎌倉中心街に入る前日、巨福呂坂切通しの外にある北鎌倉の浄智寺に滞在するのが室町幕府統制下での鎌倉府の伝統でした。

その事は以前、浄智寺の紹介で少し触れているので興味の有る人は読んで見て下さい。
現在は北鎌倉は綺麗な観光地ですが、当時は臨済宗の宗門でも特別な寺院が建長寺、円覚寺、浄智寺、東慶寺と集中して4ヵ寺も集まる特別な場所でした。

鎌倉の防衛上も最終防衛ラインの巨福呂坂(こぶくろざか)切通しが存在した事で特別な地域だった訳ですね。
下の写真は本来の鎌倉時代の巨福呂坂切通しです。
CIMG5621
この道は一度山の上に登り、そこから下る切通しが山腹に穿ってあり円応寺の山門の前を通過して建長寺の総門の前に出る構造でしたが、神奈川県道の開削の際に近代に国の史跡扱いだったにも関わらず鎌倉市教育委員会が保護を怠り切通を分断して国に国史跡範囲申請して円応寺側が私有地化されてしまった為に個人宅の駐車場開削で路盤が削り取られ消滅し通り抜ける事が出来なく成ってしまいました。
CIMG5649
挙句の果てに市街地側からの巨福坂切通古道も市道として登録されて保護されているにも関わらず地元住民によって現状国指定史跡が荷物置き場にされてしまっています。
この荷物置き場から急に左上に上がるの旧道でした。
まぁ、浄智寺に滞在してから鎌倉府の役所に入るのが鎌倉公方就任の慣例だったので、現代では国指定史跡なのに資材を投棄されているこの道を足利持氏公も足利成氏公も通り鶴岡八幡宮を参拝し役所に入り鎌倉公方に就任した訳ですね、こんな事を放置してるからユネスコに世界遺産登録落選させられるんですよ鎌倉市は。
このゴミだらけの国指定史跡、鎌倉市役所に指導して欲しいですね私道じゃなくて市道なだけにwwww。
KIMG1972
で、ゲームに話しを戻すと取り敢えず玉縄城(鎌倉市)には最初拠点置いたけど、幕府はやっぱ江戸ッしょ!ってノリで鎌倉はアッサリ他の武将を配置して委任。
歴史を変える為にも晴氏公には足利家の江戸幕府を開いて頂く事にした。
つまり江戸公方爆誕●~*www!
実際に鎌倉ってクッソ狭くて、あんな場所に安土桃山時代の人口増加で耐えられる訳がない。
鎌倉時代の日本の総人口は800万人で鎌倉市街地の人口は3万人。
安土桃山時代の総人口は1200万人に膨れ上がっていました。
鎌倉城防衛網
つまり普通に鎌倉のコンナ⤴切通しの内側の狭い範囲に3万人×1.25倍=4万人近くも住人が住み更に戦国時代なので兵士も数千単位で駐留させるスペースなんか有る訳無いんですね。
なので足利“Evolution”晴氏公(笑)の判断としては将来は天皇陛下を御迎えして御所を造営し遷都して頂き首都にするには鎌倉何てクッソ狭い場所は論外じゃんね?と南関東弁できっと言ったはず。
そもそも裏切り者の上杉の連中の苗字の山内(やまのうち)とか扇谷(おおぎがやつ)とか犬懸(いぬかけ)とか地名が有る様な場所には御住まいに成りたくない筈。
ここは首都にするなら京都に入府するか海運と河川運搬の便利な品川を持ってる江戸1択っしょ!と言う判断で江戸城を本拠地にしてみる。
そしてココから敵討ちでブッ殺すマン発動。

室町幕府の手先で高祖父チャンの足利持氏公の仇敵の関東管領山内上杉憲実の曾孫の上杉憲政をブチ殺すべく兵を上野国に送り込む。

山内上杉家👎ブっ殺す軍
総大将 北条綱成公
覇王伝では顔グラ一般武将だよ北条綱成公。里見の残りの姫嫁がせ♀️て義弟に成ってた。
戦争始まったばっかなのに「勝ったぞ~!」と言って敵軍に攻撃を仕掛けて相手混乱させる詐欺師。
でもクッソ強くて敵の武田信玄から褒められたり、北条綱成公に苦戦させられた上杉謙信公が綱成公が武田信玄に城を取られて(北条氏政の本隊の到着が遅れたせいで)負けた際に「あいつが負けたの(俺苦戦したのに)?」と悔しがられたエピソードが有る人。

副将  里見義堯公
史実で東京湾沿岸で寺社や農村に略奪放火しまくり恩人親戚殺し捲りヒトデナシで4歳年下義父の里見義尭公。史実で関東管領(関東の官房長官)って自称してた痛い人。
でも地元では善政、国力弱いプーチンみたいな人。
ん?プーチンはコロナワクチン接種率すら皆無に等しい不満噴出で戦争して批判反らしの内政ヘッタ糞だな。

軍師  太田資正公
亡命先の恩人騙して城奪い取る名人、恩知らず究極最悪な間男の鬼畜太田資正公。
人の城盗む切っ掛けは長男に自分の城を盗まれたからwww。
でも自分は長男に城を追い出されても、人の城は何個も奪い取る戦略の頭の良さは流石太田道灌公の御子孫だね。
家族の信頼関係に難が有るのは、この人は実家じゃなくて自分の奥さんに成る人の家で育てられたから歪(いびつ)な家族関係しか構築できなかったのかもね。

このロクデナシ(綱成公を除く)軍団で見事に上杉憲政自害させ曾祖父足利成氏公の山内上杉潰し悲願と高祖父の敵討ち達成ぃ~🙏
↓ 
上杉家配下武将を2人リクルート。
群馬が生んだ知勇兼備の名将長野業正公と剣聖上泉信綱公。
2人を配下にして隣の信州侵略を目指す。
信州北部には足利尊氏公の時代に幕府に楯突いていた南朝の村上源氏の子孫の村上義清公がいる。
コレをブっ殺す事を画策。
リクルートした2人の名将を信濃国善光寺平~佐久平を潰しに攻め込ませる。

南朝潰す軍
大将 長野業正公
在原業平の子孫。在原業平って歌人としても有名な武将で関東だとスカイツリーの下の業平橋の地名由来の人だね。
武田信玄の上野国侵攻を何回も阻止した知勇兼備の名将として有名。
突っ込み所無し。
しいて言えばバカ殿上杉憲政と頭スッカラカン色ボケ公坊足利晴氏と言う無能上司をサポート出来なかった点で良い家臣ではない。

副将 上泉信綱公
長野配下で剣聖と名高い柳生新陰流の柳生宗厳さんの師匠で新陰流の開祖。
主家の長野家が滅亡した後は武将辞めちゃって剣術化に専念して京都に行って将軍に剣術教えたりしてた偏屈な剣士。
今回は京都の将軍の所に行かせず関東の鎌倉もとい江戸公坊の為に頑張ってもらう事に成りましたwww。

この二人に合計4万の大軍持たせて村上義清公を討伐。
討伐された義清公は小生の歴史仲間の御先祖様の同族で小生の祖先の同僚の子孫にも当たるwww。
この合戦で事も有ろうか、曾祖父の足利成氏公に謀反した山内上杉憲実の家来で足利成氏公を江ノ島で攻め殺そうとした逆徒の長尾氏の一族の癖に軍神とか言われて邪魔な上杉謙信公が援軍送って来たが壊滅させ撃退。
下の絵は上杉謙信公の肖像画と信長の野望の新しいシリーズの上杉謙信公のアイコン。
上杉謙信
上杉謙信KOEI
肖像画にゲームの絵少し似せて書いてるんですね。
小生と小生の親友の祖先関連の武将の村上義清公誅殺(ちゅうさつ)し尊氏公の宿敵の南朝潰しに見事成功♪
この合戦で援軍に来た上杉謙信公の春日山城の兵士を全滅させる事にも成功。

援軍が全滅し兵力0の越後国春日山城にそのまま攻め込み越後国奪取🙌
晴氏公の御先祖の足利成氏公に楯突いた越後上杉家の家来だった旧名長尾景虎こと上杉謙信公をも殺害wwww。
越後も併合~♪

そしてついに、足利持氏公が死ぬ直接的な原因を作った今川範忠公の子孫の今川義元公も滅ぼして徳川家臣団も配下に入れた。

今ここ!
KIMG1973

必ずややり遂げる高祖父を殺した足利義教の子孫の足利義輝公排除。
打倒室町幕府👎の敵討ちで足利晴氏公の御先祖の敵の子孫殺しまくりwwwに邁進中~♪
これで冒頭の話回収ですね(笑)。

目指せ足利江戸幕府開府www!

さて、今回フザケたブログ書きましたが、次回は源頼朝公の源義朝公の館跡について鎌倉殿の13人のドラマ後の登場人物所縁(ゆかり)の場所解説みたいなNHKアナウンサーのナレーションで「それちょっと違うな~」と言う部分が有ったので、逗子市の観光地紹介がてら源義朝公の沼濱亭と吾妻鏡の問題点を解説してみたいと思います。

では次の記事で御会いしましょう~♪
このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

↑このページのトップヘ