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タグ:鎌倉幕府

高部屋神社:高部屋八幡宮
(延喜式内社・古代神事を守る国指定文化財の神社)
丸山城址公園(鎌倉時代の名将、糟屋有季公の城址)
高部屋神社元宮(古代人の聖地、渋田山山腹の水源)
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2016-01-03-13-53-18高部屋神社本宮の位置 久良岐のよし
  御祭神・御本尊等:神倭伊波禮彦命(かむやまといわれひこのみこと:神武天皇)・息長長足媛命(おきながのたらしみめのみこと:神功皇后)・三筒男命(みつつおのみこと:住吉三神)・誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)・大鷦鷯尊(おおささぎのみこと:仁徳天皇)・磐之媛命(いわのひめのみこと:仁徳天皇皇后)
  御利益:武芸(スポーツ)上達・戦勝祈願・漁業豊漁・農業豊穣・治水・雨乞い・地鎮・交通安全(海)
  関係者:
  開基:聖地渋田山(奥津城)周辺の古代人
  中興:糟屋庄領主 糟屋 有季 公
     関東管領家 上杉 定正 公=扇谷上杉家当主
     相模守護代 太田 道灌 公
     左京大夫  伊勢 宗瑞 公=北条早雲
     北条家臣  渡辺 岩見 公
     征夷大将軍 徳川 家康 公
  旧郡名:大住郡 
  所在地:高部屋神社と丸山城址公園・・・伊勢原市高部屋付近、国道246で分断された丘
  所在地:高部屋神社本宮・・・大山山系の伊勢原市下糟屋、渋田山の山腹
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
本来の神社の発祥地である元宮は関東総鎮護の聖地、大山山系の一つ、渋田山に紀元前より存在したと伝承する。
御祭神は三筒男命(みつつおのみこと=住吉大神)、神倭伊波禮彦命(かむやまといわれひこのみこと=神武天皇)、息長長足媛命(おきながのたらしひめのみこと=神功皇后=臺与?)、誉田別命(ほんだわけのみこと=応神天皇)、大鷦鷯尊(おおささぎのみこと=仁徳天皇)、磐媛之命(いわひめのみこと)と、いずれも海上交通や土地開発や海外渡航と戦争に関係の有る天皇や神様な上に、本宮の在った渋田山が弥生時代前後まで周辺が海だった事からも、水神様と土地開発と先勝祈願の神様としての性格が有る。
古来渋田山は奥津城と呼ばれた霊域だったので、古代人の関与が深い土地でもあった。
明治時代まで「汐汲み神事」が行われており、海岸線が後退し内陸16kmに神社が取り残されても歴代の宮司が徒歩で海まで海水を採取しに行く神事が続き明治時代に伊勢原皇大神宮の管理下に置かれ伝統神事は一時途絶えたが、現在の伊勢原皇大神宮の宮司家によって150年前に途絶えた神事が2018年から再開された。現在も海が近かった時代の風習を垣間見える風習が有り社殿の注連縄(しめなわ)に海藻の「神馬藻(ホンダワラ)」を飾る。
平安時代末期に成ると現在の社殿のある丘陵に要塞を築いて糟屋庄を領有した糟屋有季公が、所領の総鎮守として渋田山から現在の高部屋神社の所在地に社殿を移転させた。本来の渋田山の本宮跡には現在は社殿は無いものの御神霊を祭る祠(ほこら)が今も鎮座している。
糟屋有季公は武勇に秀で、源頼朝公による逆臣源義経討伐で活躍し、義経の重臣佐藤忠信を討取り堀景光を逮捕する事に成功している。
戦国時代に渡辺岩見守により社殿が再建し、江戸時代に成ると徳川家康公より社領安堵の御朱印を賜り江戸幕府より保護された。
この高部屋神社は式内社で有る事から古来より有名で、江戸時代に江戸の町人や武士に流行した「大山参り」のコースに組み込まれており、神社の鳥居前の道も旧大山街道だった事や下糟屋の宿場町だった事で、御利益に肖(あやか)りに来る非常に多くの参拝客で賑わった。
又、いずれも天皇も「天皇」の呼称が始まる前の古代の正式な名のまま祀られている事も、由緒有る古社である事を物語っている。江戸時代には高部屋八幡宮の名で親しまれ雨乞いの神様として有名だった。
高部屋神社の丘一帯は軍事拠点としても重要な場所だったので、鎌倉時代~戦国時代の歴代の領主によって城塞として使用され、各時代ごとに改修された事が解る城址公園として、近年国道建設で分断された丘陵の一方は丸山城址公園が整備されて見学出来ます。
海に関係する神社だけあり、屋根の唐破風部分には浦島太郎伝説にまつわる彫刻が有り、社殿は2017年に国の登録有形文化財に指定された。

さて、歴史が好きな人も嫌いな人もいると思いますが、皆さんは源頼朝公の弟で名将だった源範頼公を御存知でしょうか?
源範頼公
この人は兄である源頼朝公から軍才を信頼され、実際は源義経よりも高い統率力を発揮した名将でした。しかし恐らく源頼朝公をヒ素で暗殺した北条時政やその婿の稲毛重成、北条政子様と北条義時公の北条一族の謀略に巻き込まれ横浜市金沢区で自殺して生涯を終えた悲しくも潔かった私利私欲の無い名将です。この人がいたから鎌倉幕府は樹立され、その後にモンゴルと朝鮮人の元軍による侵略から我々の祖先の命は助けらた訳です。
だけど範頼公は死して尚、現代に至っても昭和期にバカ共のせいで悲しい目に遭っている悲惨な偉人でもあります。
今回はこの名将の菩提寺の紹介と歴史変遷の解説を書きます。
小生は❝中道保守派❞の人間なので平素よく日本文化を軽視し自然破壊する土建屋と結託し在日ヤクザ勢力を批判しない左派思想分子を批判しますが、今回の記事はこの偉人と御寺の歴史を通じて盲目的な右派に釘を刺し批判する事を書く事にも成ります。
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以前、欧米諸国の軍人さん達からその存在を称賛されている世界三大旗艦の一つ戦艦三笠の解説記事で書いた事が有るのですが、宗教を国内統制に悪用した一夕会独裁の昭和初期の軍事政権下の軍幹部は口では神に対して信仰を持っている様な事をのたまいながら大部分の連中は古来の神道に対する信仰心も日本文化を醸成して来た仏教文化に対する敬意も微塵も無く、国家神道と言う新興宗教に造り変えられた日本の神々を崇敬する様な事をしながら倒幕志士世代明治の政治家や軍人には実際は全く信仰心が有りませんでした。
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戊辰戦争世代の明治の帝国海軍軍人達は日本文化や古来の神様に対する崇敬の念が深く、奇跡的にロシア帝国に勝利した対馬海戦時の旗艦だった戦艦三笠は❝八幡大菩薩❞の神名で神仏習合時代の古来の文化で応神天皇に習合された水神様の御分霊や伊勢神宮の天照大御神の御分霊を戦艦内に祀っていました。
だから海軍設立の立役者に等しい坂本龍馬サンの奥さんの❝お龍サン❞が亡くなった際、横須賀市大津の信楽寺で海軍の軍人達が集めた寄付金によって仏教形式でお龍サンの葬儀が行われ墓所が造られました。
又、明治時代初期にプロテスタントに改宗したキリスト教徒日本人政治家達によって宗教改革や軍政が行われ日本神話の神様も弾圧されました。日本神話でとても重要な役割を果たしている日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と弟橘姫(オトタチバナヒメ)の夫婦神が滞在した三浦半島横須賀市走水の旗山崎、御所ヶ崎には弟橘姫を祀る神社が有りました。
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写真の船溜まりのある半島状の土地が御所ヵ崎です。
しかしこの御所ヵ崎、山県有朋と言う長州人の陸軍人の後に政治家に成る腐敗分子による立案で猿島や観音崎砲台が整備された際に、弟橘姫を祀っていた橘樹(たちばな)神社は破壊され砲台が据えられてしまいました。
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旗山崎こと御所ヵ崎に隣接する展望台からは三浦半島の海岸線の先に富士山と大山を眺める事が出来ます。
この御所ヵ崎の橘樹神社を破壊させる砲台建設をさせた山県有朋はクソ野郎で、明治時代に議会制民主主義導入されるまでの合議制時代、陸軍人だった頃に現代の貨幣価値で軍の予算120億円相当を着服し勝手に民間企業に投資した腐敗した政治家でした。しかも腐敗が発覚した際に命まで奪わなかった上官の西郷隆盛公を結果的に殺した人物だったりもします。
そんな明治時代の日本の神様や仏教の仏様を愚弄した蛤御門の事変や倒幕を経験した世代の利権主義腐敗政治家や腐敗軍人達に異を唱えたのが戊辰戦争世代の明治~大正に活躍した世代の軍人サン達でした。
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幕末~明治初期に活躍した外国かぶれ世代の軍人政治家達によって橘樹神社等の日本武尊と弟橘姫が滞在した行在所(あんざいしょ)だった神話の聖地が破壊されると、それに心を痛めた戊辰戦争世代の東郷平八郎元帥達によって神社を潰されてしまった日本古来の神様達の御神霊は走水神社本殿に合祀されたり奥宮と言う形式で走水神社背後の山に遷宮され祀られました。
その東郷平八郎元帥が司令官として乗艦したのが戦艦三笠だった訳です。ですから戦艦の守護神に神仏習合時代の習慣の御神名で❝八幡大菩薩❞が祀られていたんですね。
しかし昭和に成ると明治の腐敗政治家を批判して始まった一夕会と言う組織が台頭します。その組織を大戦末期に牛耳っていたのが東条英機等で、彼等は元々明治の元勲達の利権政治を批判して大義名分を得ていた筈が結局自分達が権力の座に着くと独裁政治を始め戦況報告ですら事実を伝えなく成りました。彼等の政治組織は軍人の任命権を独占し悪用、軍事政権が打ち立てられるのですが、彼等は共産主義者を弾圧しながら行った政治は計画経済、配給制度と共産主義その物、つまり同族嫌悪に等しい左翼弾圧を行い更には古来の神道も仏教も否定したり軽視した軍人を増産していった訳です。
大戦末期の右翼と左翼は天皇家を利用したいか排除したいかの差は有れど本質的にやってる事は何も変わらんかった訳です。
無論、井上成美先生の様に中道派の真ともな軍人さんもいた事も無視してはいけない事実です。
これは小生達生粋の古来の豪族の血を引き、天皇家と同じ神仏習合の日本宗教観を大切に思う保守派である本物の日本人から見るとチャンチャラおかしい政治で、一夕会のやった事はとても保守派とは言えませんでした。
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さて数年前、神奈川県立歴史博物館でも展示されたり小生が今から話す事と同じ内容の歴史事実の解説も行われましたが、第二次世界大戦で日本がアメリカに唯一勝機を見出す戦いで決選兵器となるべき戦艦大和の不戦撤退があった事は有名な話です。
実は、その当時の戦艦大和は東郷元帥達明治~大正時代の軍人達が見たら昭和の軍人を怒り罵倒しながらドツキ回すであろう状況に成っていた事を知る人は多くは有りません・・・
実はこの時、戦艦大和は海軍幹部達によって撃沈されたら困る内装の❝高級ソファー❞や守り神である❝神様達の御分霊❞が撤去されていたんですね。
・・・つまり対米戦線の火蓋を切った昭和の軍幹部、一夕会の影響下での出世に靡いた連中は❝最初から勝つ気も日本人を御守り下さる神仏に対する信仰心も無く負ける事を考えていた❞事が戦艦ヤマトへの❝仕打ち❞で証明出来る訳です。更に彼等は口先では国民や軍の低階級指揮官には「負ける訳が無い」とデマを流しながら自分達の司令部は海軍なのに海の無い慶応大学日吉キャンパスの地下に造られた地下道塹壕網の中に引き込もらせ空襲を警戒したり、最初から完全に勝つ気なんか無い癖に自分達の身体だけはシッカリ守ろうとしていた訳です。
マジで保守派から見れば勝つ為の信仰も捨て、不利な現実を直視し落し所を見つける努力もせず、下級職の部下を使い捨てにして、本当に統治崩壊していた訳です。
さて、今回紹介する御寺はアホな小説家達のせいで愚鈍なイメージで演出され、それを自分で検証確認もせず妄信する阿呆な半端な歴史好き共に実績を無視された平安時代末期の悲劇の名将❝源範頼❞公の菩提寺の御話ですが、その御寺は一夕会軍事政権の政治のせいで今では凄く解りずらい場所に在ります。
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御寺に行くには京急の隧道をくぐって、横浜市金沢区片吹と言う場所の住宅街の奥の谷地形まで行かなければいけません。横浜市歌を歌える生粋のハマっ子でも国道16号線が通り、一般住宅が立ち並ぶ普通の住宅街のイメージしか湧かない人の方が多い場所で、地元民でも無いとそこに由緒正しい御寺があるなんて気づく事も出来ません。昔は関東学院全ての敷地が広大な御寺の境内地だったのに昭和の一夕会軍事政権のせいで今の狭い敷地に不幸な移転を強要され縮小させられた凄い歴史偉人、源範頼公の菩提寺が在るんです。
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海蔵山 太寧寺その御寺の名は海蔵山太寧寺と言います。名将源範頼公の菩提寺で臨済宗の元大寺院でした。
元は今の関東学院の埋め立て地を除いた全域が境内地だったですが、今では無残な程に縮小されており小生は昭和の軍幹部と、敗戦後に寺境内地を勝手に登記する詐欺的な連中とそれを容認した明治大正生まれ世代で横浜市役所に勤務したクソジジイ共に殺意に等しい怒りを感じます。
そもそも源範頼公は源頼朝公の弟と言うだけでなく御自身が名将だったのに阿呆な江戸時代や昭和の小説家の演出を妄信する馬鹿共のせいで愚将のイメージを持つ奴ばかりで歴史事実と乖離した悲惨な待遇を現代人からも強いられています。
実際は実戦経験の豊富な平清盛や平宗盛旗下の平家軍を相手に堅実に大損害を受けずに勝ち続けた源氏勝利の立役者が源範頼公の実像で、兄君の源頼朝公も生前は範頼公を深く信頼していました。
源義経が名将の様なイメージで評価を混同する馬鹿が多くいますが、一之谷の合戦でも準備万端な平家軍を釘付けにして損害を最小に抑えたのは範頼公の統率力と作戦に由(よ)りますし、そもそも鵯越の逆落としと呼ばれる作戦を立てたり実行したのも源義経ではなく横浜市都筑区の茅ヶ崎城主だった多田行綱公と、名軍師で三浦一族だった三浦半島横須賀市佐原城主だった佐原義連公の功績による物です。
その作戦を採用したのが当然ながら源範頼公だった訳で、源義経公はその実行部隊の隊長を任せられて多田行綱公と佐原義連公の御膳立てに乗っかり、頼朝公の与力の名将、土肥實平公や畠山重忠公や熊谷直実公が軍勢を統率しての挟撃作戦成功に他なりません。
太寧寺周辺 久良岐のよし
そんな名将、源範頼公の菩提寺の太寧寺は現在では❝絶対に太平洋戦争中迄は全てが境内地だった狭い谷間❞の中に在ります。
しかし、この狭い谷間さえ戦後の混乱に乗じて土地が何某の連中に登記され宅地開発されてしまい見る影も無く縮小、御本堂と御住職の比丘尼様の住む庫裡が有るだけに成ってしまいました。境内の庭すらロクに有りません。
この御寺が移転縮小させられた原因は小生が批判する昭和の一夕会政権に責任が有ります。
昭和の一夕会政権下の軍幹部達は各地戦線の不利を正しく天皇陛下に上奏せず隠蔽し、しかも負けるが前提の勝つ作戦や落し所を合理的に見出す精神論では無い作戦とは乖離した、実際は逃げて回り兵站(へいたん=食糧軍需品の輸送路とその中継基地)すら確保せず兵糧も補給できない状況も直視せず末端の兵士を使い捨てにした現実逃避の隠蔽主義で軍政を行っていました。
自分達の司令部は横浜市港北区日吉の慶応大学地下に作ったり、東京都の高尾山の山中地下に作ったり、自分達の身を隠す事に執着しながらも、その圧倒的不利を直視していなかった訳です。
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そして自分達の身を守る為だけに首都東京の制空権を守ろうとして横浜市金沢区野島に零式艦上戦闘機通称❝零戦❞の格納庫がわりの大地下壕を建設開始します。
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その為に現在の日産追浜工場とテストコースとなった横須賀飛行場の拡張工事も始めました。
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金沢区は金沢八景の名で景勝地として知られた場所だったのですが、アホの昭和の軍事政権下の軍幹部と、戦後のアホの市長の政策で京都の天橋立以上に美しかった海や島々や半島が無残に埋め立てられてしまいました。この太寧寺もそんな一夕会軍事政権の❝現実逃避作戦❞と宗教に対する文化と信仰心の欠如で拡張された横須賀空港の犠牲と成りました。
太寧寺旧蹟周辺 久良岐のよし
太寧寺は元々は瀬ケ崎と呼ばれた土地だった関東学院小学校の敷地に在りました。
瀬ケ崎時代の太寧寺
そして今の日産の工場一帯と一緒に空港拡張の為に臨済宗の大寺院として各時代の歴史偉人達に大切に保護されて来た歴史を無視され、現在の片吹の奥の谷間の狭い敷地に追いやられ、その時に範頼公の墓所も止む無く一緒に掘り返されて現在地に墓石と一緒に移転して来ました。
しかも!例によって終戦直後に信仰心の無い左翼建設利権や外国勢力の強い横浜市は多くの神社仏閣の境内地が勝手に地元民によって土地登記されてしまい、縮小し衰退した場所が多く、太寧寺も例に漏れず現在の惨状と成ってしまいました。
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由緒ある御寺なので、源範頼公の菩提寺として鎌倉幕府執権北条家からも支援を受けていた為か御寺の寺紋も〇の囲いの無い三鱗紋の使用を許されています。
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小さくなっても文化を大切にしている御住職の比丘尼様の趣向で掲示板には博物館の広告も掲示されています。
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他にも、その日の法話みたいな良い心構えが掲示されていました。ここの御住職の比丘尼様は若かりし頃インドやタイやスリランカにも仏教寺院に留学したり、偉人の顕彰活動に訪れていた活動的な方でした。
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だからこそ源範頼公の菩提を弔うのに相応しく、座禅会を開いて御近所の子供に精神修養の機会を与える役割を担うのに相応しい人物ですね。
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御寺の規模は本当に往時の様子を窺い知る事は出来ません。
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でも御近所の子供のいる御父さん御母さんにとっては親しみ易い御寺として機能しているみたいです。
小生が訪問した時も御住職様が御菓子を出してくれたり、色々と熱心に説明して下さったり、若い頃の話をして下さったり・・・
「あなた、私の名前を出して良いからタイに留学しなさい。論文のコンペに出なさい」
・・・と言われてしまいましたが、すみません比丘尼様。小生俗物なのでこの間頭丸めるのが嫌で別の御寺で「寺継がない?」と言われたのを御断りしたばかりなんです(笑)。
そう言う貴重な機会は真面目に修行してらっしゃる御寺の跡継ぎとして修行している若様達に差し上げた方が宜しいかと思います。そもそも小生は神社も好きなので御寺だけは無理ぃ~(笑)。
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本堂の左手には今では見かけない井戸が現役で使われていました。
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その更に右手奥に、凄く窮屈そうに源範頼公の瀬ケ崎の丘から御引っ越しして来た御廟所が在りました。本当に現実逃避せず多数派に流されず自分で分析する軍人サンだったら源範頼公の功績を理解できて、こんな酷い扱いをしなかったはず。
終戦直後の横浜市の役人も同じ様に谷間の元境内地の住宅地登記を認めた罪は重い。

源範頼公の能力は中国の将軍に例えれば秦の王翦将軍に等しい素晴らしい物だっと小生は思います。
もっと大切にされて然(しか)るべきだと思う。

さて、この太寧寺みたいに今は小さく成っていても凄い歴史偉人と関係の深い神社や御寺や城跡の公園や山がきっと皆さんの家の御近所にも有る筈です。
だから皆さん、御近所御散歩して神社や御寺や城跡の公園や山の看板を少し読んで見ませんか?
そうすればきっと皆さんと歴史偉人を繋ぐ場所にそこが成って、自分の地元に更に愛情も湧くかも知れません。
そして、多くの苦労や悲しみや少しの成功と喜びを積み上げて今の私達の生活を作ってくれた先人達に感謝の気持ちを伝えてあげて下さい、きっと歴史偉人や神様や仏様も喜んで下さると思います。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪







皆さんは平安時代末期~鎌倉時代を通じて❝坂東武者の鑑(かがみ)❞と評された名将の畠山重忠公を御存知でしょうか?
きっと少し歴史が好きな人ならば必ず名前を聞いた事の有る名将だと思います。清和天皇の直系子孫で臣籍降下した源氏一族を代表する武将であり鎌倉幕府を樹立した征夷大将軍の源頼朝公に最も信頼された人物が畠山重忠公でした。重忠公の所領は今の埼玉県南西部辺りでしたが、実は畠山家の御一族が鎌倉市や横浜市に御縁が深かった事を知る人は移住者だらけの現代横浜市民には❝知る人ぞ知る❞と言った所でしょうか?
横浜市金沢区釜利谷南と鎌倉市の鶴岡八幡宮の直ぐ隣りに現在も伝承地の石碑や供養塔が残っています。
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江戸時代の歴史学者地理学者であった間宮士信サンが❝新編武蔵風土記稿❞と言う文書の中で疑いの余地有りと推測しているものの❝畠山重保公墓❞として紹介している場所です。
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伝畠山重保墓
※住所クリックでGoogle mapにリンクします⤴
普段は御墓の写真は掲載しないのですが、史跡としても又、現代では余り横浜市との関係を語られ無くなった武家の名家畠山家との御縁を再認知して貰う為に畠山重保公の御霊に御活躍して頂きたく、敬意を込めて供養塔の在る御廟所の写真を掲載させて頂こうと思います。
この畠山重保公は鎌倉武士を代表する名将の畠山重忠公の御子息でした。
今日は横浜市金沢区の史跡であり畠山家の武将、畠山重保公の❝御霊を供養する御廟所❞の紹介をする為に、少し源頼朝公と畠山家と源氏最大の協力者の三浦家との因縁(いんねん)を交えて解説したいと思います。
さて、源頼朝公の最初期の協力者として有名な武将は以下の方々でしょうか?

【坂東平氏の祖、桓武天皇の孫の平高望王の後裔達】
●三浦家・・・三浦半島を治めた一族。
三浦義明公、岡崎義実公、三浦義澄公、和田義盛公、佐原義連公、真田義忠公等・・・
●鎌倉家・・・旧鎌倉郡の鎌倉市~藤沢市域を治めた一族。
村岡家(鎌倉の権五郎御霊神社の2015年迄の宮司家)、懐島(大庭)景義公、梶原景時公等
●中村家・・・伊勢原市~小田原市~湯河原等の西湘を治めた一族。
中村重平公、土肥實平公、土屋遠宗公等
●千葉家・・・房総半島北部を治めた一族。
千葉常胤公、千葉胤正公、相馬師常公等
●秩父家・・・埼玉県域を治めた一族
熊谷直実公等。

【宇多源氏の祖、醍醐天皇の皇子の敦実親王の後裔達】
●佐々木秀義公、佐々木経高公、佐々木盛綱公、佐々木高綱公等

【秀郷流藤原氏の後裔】
●比企尼、比企能員公等。
さて、冒頭で鎌倉武士を代表する名将の畠山重忠公や今回の主役の畠山重保公の名前は源頼朝公最初期の協力者として登場しませんが、歴史好きなら誰でも知ってる石橋山合戦で源頼朝公が反平家政権の挙兵を行った際、以前は源氏の家来だった畠山家は平治の乱での源氏が衰退すると平清盛公に従属して平家政権の豪族として武蔵国の軍権を任せられる程に❝平家側❞から信頼されていました。
まぁ、能力高く真面目な人でもあった様なので源氏からも平氏からも重用された人物だった訳です。
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その当時の重忠公を模写した人物画や彫像は小生の知る限り現存していないと思いますが、畠山重忠公が着用した武具は現在も武蔵御嶽神社に奉納された物が現存し、真紅の威しで結った煌(きら)びやかな鎌倉武士らしい甲冑を着用した華実兼備(かじつけんび)の武者だった事が窺い知れます。
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写真は鎌倉市歴史文化交流館に展示されているレプリカ。同館は写真撮影自由の珍しい博物館。
鎌倉市歴史文化交流館この畠山重忠公の母上は三浦義明公の姫君でしたが、源頼朝公が兵300を率いて石橋山で挙兵した時に京都で勤務していた畠山重忠公は平清盛公に代わって武蔵国の兵20000の大軍を率いて源氏討伐を任されてしまう立場に成りました。真面目だった畠山重忠公は職務を全うしますが、祖父の三浦義明公率いる三浦党は三浦半島の衣笠城(横須賀市)で挙兵し源頼朝公を支援しました。
そして畠山重忠公の大軍は鎌倉逗子境の住吉城を手始めに三浦家の葉山町桜山の鐙摺城~本拠地の衣笠城を攻める事と成ります。
三浦義明公は衣笠城に手勢で籠り、子息の三浦義澄公や佐原義連公や孫の和田義盛等の三浦一族を久里浜の怒田城の舟倉から水軍で房総半島に逃がす時間稼ぎをして最期は自害したと伝わります。
コレが後の畠山家と三浦家の決定的な対立関係を生む因縁と成りました。
因みに三浦義明公がいなければ源頼朝公は佐原義連公や和田義盛公等の軍略家や軍政家を配下に出来ず、組織立ち上げすら出来なかったかも知れないし横須賀市佐原城主の佐原義連公と横浜市茅ヶ崎城主の多田行綱公が献策した鵯越の逆落としと曲解された迂回挟撃も発生せず源義経公と源範頼公兄弟による挟撃は成功するはずも無く日本は東西に分れ戦況は膠着し鎌倉幕府は樹立されなかったでしょう。
この話は以前に幾つか書いた関連記事が在るので下記にリンクを貼って置きます。
●三浦義明公と衣笠城址。源家最大の盟友、坂東武者の鑑。…三浦半島横須賀市。
●満昌寺…源頼朝公の開基の三浦義明公菩提寺…横須賀市衣笠
●清雲寺…三浦(横須賀市大矢部)…三浦家の菩提寺
●平良文公と二傳寺。日本全国の平氏系大名の祖先。…藤沢市渡内〜村岡。
さて、この真面目で華やかで高い能力の有った畠山重忠公には汚れ役も任された逸話も残されています。
その舞台は鶴岡八幡宮と美しい由比ヶ浜です。
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鎌倉市を代表する鶴岡八幡宮、その朱漆塗りの舞殿は現代では結婚式が執り行われる場所として、参拝客も新郎新婦から幸せの御裾分けをして頂ける場所ですが・・・
ここは鎌倉時代には拝殿や舞台の役割をした施設で、この舞殿から鶴岡八幡宮の本殿の台地を取り囲む様に渡り壁が伸びていました。そして、ここは頼朝公の実弟の源義経公の側室だった❝静御前❞が義経公の子を妊娠した身体で舞を舞った舞台でもありました。
当時、源義経公は源頼朝公に反逆し奥州に逃げていました。そんな中で身重の静御前は逃避行から脱落して頼朝公側に捕縛され鎌倉に連行されてきました。静御前が子を妊娠している事や義経公と一緒に逃避行した愛情の深さに対して、女性として恋愛に情熱的な人物だった北条政子様は大変に同情されて源頼朝公に対して静御前の助命嘆願を自ら行いました。すると源頼朝公はこう条件をつけました・・・
1、生まれて来る子が女子なら生かす。
2、男子が生まれて来たら敵対するので殺害する。
・・・これは頼朝公にしても鎌倉幕府を運営する武士達にとっても非常に静御前に対して寛容な条件で許している事が判ります。何たって敵対勢力に成った人物の奥さんの命と生まれて来る子も女児なら助けると保証している訳ですからね。
しかし不幸な事に生まれて来た義経公と静御前の子供は姫ではなくて男児でした。
この死刑執行を任せられたのが源頼朝公から❝生真面目さ❞と❝能力❞を信頼されていた畠山重忠公でした。静御前の生んだ男児は由比ヶ浜に生き埋めにされたと伝承しています。
もしかしたら・・・殺したと幕府御家人達には報告させて頼朝公の密命で助けたかも知れませんが、まぁ伝承では由比ヶ浜に埋めた事にされています。
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今では夏が来ると海水浴客で賑わう材木座~由比ヶ浜の砂浜や砂丘は実は平安時代頃からは❝公共墓地❞として利用された土地だったので、最近でも発掘調査をすると人骨が普通に出て来たりするのですが❝霊感が有るニセ霊能者(笑)様達は、この辺で何も感じない霊感音痴だらけ❞の様ですね(笑)。
ついでに言えば鎌倉市で戦火に巻き込まれていない場所の方が少ないし、昔は鎌倉の小学校の校庭に砂には普通に風化した昔の人の人骨が混じってるのなんて有名な話だったんですよ!
小生達、地元神奈川の人間だけでなく関西人の司馬遼太郎先生ですら、この事を御存知で❝街道をゆく❞シリーズの鎌倉散策の巻で逸話として紹介していたりします。
さて、この義経公と静御前の嬰児の話の舞台の一つが由比ヶ浜なのは恐らくは❝嬰児の処分❞の命令を受けた畠山家の鎌倉市内での御屋敷が由比ヶ浜と鶴岡八幡宮の隣接地に存在した事に由来すると小生は推測しています。
正確に言うと幕府に出仕していた畠山重忠公の御屋敷が鶴岡八幡宮の横に存在し、海側にも畠山家の別宅が在り畠山重保公等の家族も住んでいた様です。
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大蔵幕府跡鶴岡八幡宮から東に行くと源頼朝公の邸宅兼幕府役所の機能が在った大蔵幕府跡の清泉小学校一帯に大正時代の郷土愛の強かった生粋の神奈川県民の鎌倉町青年会によって建てられた顕彰碑が有ります。
ココと鶴岡八幡宮を結ぶ謂(い)わば源頼朝公の邸宅の最終防衛ラインに成る中間地点の横浜国大付属中学の一帯が畠山重忠公の屋敷地と伝わり、やはり大正時代に鎌倉町青年会が建立した顕彰碑が今も観光客が歩く景色の一部として現存しています。
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畠山重忠邸址さて、源頼朝公は相模川に架けた大きな橋の開通式に参列した際に前日から❝ヒ素中毒❞ぽい症状の記録が残る状態で式典中に馬上から落馬して死んだ事にされていますが、小生は北条時政と稲毛重成の義理の親子による暗殺事件だったと推測しています。小生と同じ説の歴史ファンも結構多いんですよ。
この頼朝公の死の後、鎌倉幕府の御家人達は各家毎に集団として分裂の様相を呈して有力武家vs有力武家の権力抗争が始まってしまいました。鎌倉幕府最初の危機ですね。
この権力闘争で最も権力に執着した梶原景時公は実務力と謀略に優れた知将で頼朝公亡き後も跡継ぎで二代将軍の源頼家公を補佐していましたが、最初期から他の武将をハメてまで出世に執着したので最初の犠牲者に成り、鎌倉御家人66将連名による連判状で弾劾され幕府を追放、更に殺害されました。
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因(ちな)みに相模国一之宮の寒川大社の門前に梶原景時公晩年の居館が在りました。
梶原景時公の次に犠牲に成ったのは比企能員(ひきよしかず)公でした。
比企能員公の実伯母(おば)であり養母の比企尼は源頼朝公の乳母(うば=授乳係兼養育担当者)だった御縁で頼朝公と非常に信頼関係が深く、比企尼の三女の平賀義信公に嫁いだ姫も二代将軍と成る源頼家公の乳母を務めた家柄でした。源頼家公が不可解な危篤状態に陥ると更に不可解な事に未だ頼家公が亡くなっていないのに北条時政が独断で源頼家公の財産分与を取り仕切る事態が発生しました。これも小生は北条時政によるヒ素を用いた暗殺未遂だと推測しています・・・
頼家公は運よく回復すると事の顛末(てんまつ)を比企能員公から聞かされるや北条時政討伐の謀略を比企家や近臣と計画します。
・・・しかし、これが運悪く母で北条家の人間の北条政子様に聞かれ北条時政に通報されてしまいます。北条家との縁が深い源実朝公擁立を鼻から画策していた北条時政は先手を打って比企能員公を北条家の邸宅と要害城を背後に抱えた名越邸に「仏事で相談があるからチョット来てyo~♪」と軽く、且(か)つ本当は源頼家公と比企家と頼家公近臣達が北条家討伐を画策している事を知っているのを微塵も感じさせない様に呼び出し、比企能員公を逆に暗殺してしまいました。
そして・・・
その次に標的に成ったのが頼家公の近臣だった畠山重忠公です。
畠山重忠公史跡二俣川古戦場 久良岐のよし
今の神奈川県運転免許試験場から程近い帷子(かたびら)川~二俣川や鶴ヶ峰は八王子街道から連結する渡河地点でした。「鎌倉で事件が発生した!」と北条家に嘘の連絡をされた畠山重忠公は130騎の兵で埼玉県の菅谷館から馬を走らせ駆け付ける途中、二俣川の河畔で対岸に北条家率いる鎌倉幕府軍20000の大軍を目の前にして全てを悟り、潔(いさぎ)く「ここを死地とする」と覚悟を決めて応戦しました。
因みに、この合戦で畠山重忠公は弓の名手の愛甲季忠公に射殺され討死しました。
愛甲季忠公は現在の厚木市一帯に勢力を誇った古豪で、鎌倉幕府で糟屋有季公等と並び屈指の弓射の名人でした。
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小野神社
愛甲季隆公は神奈川県内で14座しかない延喜式内社の神社の一つ、閑香大明神小野神社を平安時代に支援した事でも有名な人物です。
さて、二俣川の合戦で圧倒的な劣勢の畠山重忠公は自ら弓を取り奮戦し、鎌倉時代を代表するスナイパーの愛甲季隆公に射殺されて討死にしたのですが、御子息で鎌倉にいた畠山重保公も殺害されました。
その異変の発生を鎌倉で察知した畠山重保公は「鎌倉から山中を逃げて来て、この辺りで自害した」と横浜市金沢区釜利谷一帯には古くから伝承しています。
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でも新編武蔵風土記稿の編集者だった間宮士信サンの部下の記者は、この伝承を以下の文章で否定しています・・・
「按に東鑑(吾妻鏡)元久二年六月二十二日の條に、寅刻、鎌倉中驚遽軍兵競争于由比濱之邊、可被誅謀叛之輩、畠山六郎云々・・・(以下省略)」
・・・つまり、❝「鎌倉の由比ヶ浜辺りで謀反を画策した畠山六郎が誅された」と書かれているから、金沢区の畠山重保公がここで自害したのは誤りだ❞と指摘しているのですが、これは悪いが間宮士信公と部下の記者の推測がいい加減だと言えるだろう。
まず、吾妻鏡の内容は「誅罰の兵が差し向けられ戦闘に成った」情況の説明しか書かれておらず、又、討死したとも書かれていない!
そして記者が理解していないのは、この墓所の有る場所は立地が鎌倉~横浜市旧久良岐郡域~八王子~埼玉に抜ける八王子街道への最短ルートだったりする。
この記者の意見は一帯の南部には❝金澤道=六浦道❞と言う主要街道と円覚寺方面に抜ける鎌倉道が存在する先入観からの推論だろう。
伝畠山重保公御廟所位置関係 久良岐のよし
しかし、この畠山重保公の御廟所の場所は❝白山道❞と言う、新編武蔵風土記稿が書かれた頃にはマイナーな道に成ってしまっていた古道が眼前を通り、鎌倉の玄関口である朝比奈峠の切通しへ直結する最短ルートであり、更には久良岐郡の氷取沢へ抜ける六浦道のショートカットコースでもあり、六浦湾から船で逃亡も図れる逃走経路としては打ってつけの道なのだ。
由比ヶ浜の畠山邸から朝比奈峠を超えようとすると北条家の名越邸の眼下を通る必要が有るので、その道は恐らく通れなかっただろう。
当然ながら鶴岡八幡宮の横を抜ける巨福呂坂の切通も兵が待機していただろう。残る八王子街道へ抜けて~埼玉の畠山重忠公に危険を知らせる事が出来る逃走経路は❝金沢区の伝承どおり山中を超える❞しかない、即(すなわ)ち大蔵幕府背後の未開発だった地域の鎌倉カントリークラブや鎌倉霊園の獣道を無理矢理でも越えればショートカットの❝白山道❞まで逃げて来れる訳だ。
白山道は鎌倉幕府が滅亡して室町時代に成っても重視されていたので、最後の鎌倉公方で初代古河公方の足利成氏公が重視して宿泊所としても機能を持つ寺院を開基している。
以前紹介した禅林寺だな。
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竹嵓山 禅林寺そして❝伝畠山重保墓❞の地形を改めて見ると、ここが切腹するに相応しい❝施設❞が在ったであろう事が神社仏閣参拝や御朱印集めが趣味の人なら一目瞭然だと思おう。
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谷戸に囲まれてるんだよね、明らかに谷間を削平して丘陵を裾切りした人工地形。
しかも昭和の埋め立て迄は、この直ぐ近くまで海の入江が迫っていた。
平安~鎌倉~室町時代初期の鎌倉文化を受け継いだ神社仏閣と武士団の邸宅跡は修験道と真言宗の施設以外は十中八九が❝谷戸❞に邸宅や御堂が作られる場合がほとんどだったんだな。
だから、ここには江戸時代には名前も記録も伝わらなくなっていた寺院の跡か畠山家の景勝地金沢における船着き場近くの別邸が在り、畠山重保公は山を越えて来たものの菅谷館まで辿(たど)り着く困難を悟り、ここ白山古道前の六浦❝山中❞に在った何某(なにがし)かの施設内で自害したのではなかろうかと小生は推測する。因(よ)って新編武蔵風土記稿の❝この場所に対する解説に関しては❞解釈も地形と古道への理解も中途半端だと小生は断言出来る。
では、金沢区の禅林寺以外にも室町時代以前、鎌倉時代初期の武士達の横浜市や鎌倉市内における武士邸宅跡の伝承地を既に紹介した事が有る場所の記事で実例として列挙しておこう。
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鳥山八幡宮
・・・佐々木高綱公/佐々木泰綱公邸址、背後の鳥山地区は詰城で神社の前は旧道。正に金沢区の伝畠山重保墓と同様の立地。
※クリックで記事にリンク⤵
●横浜市港北区鳥山の八幡神社…鎌倉幕府の名将:佐々木高綱公の城跡
●2015/04/02時点の横浜の桜名所状況
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稲荷山 浄妙広利禅寺(略寺名:浄妙寺 旧寺名:極楽寺)
●浄妙寺 足利将軍家の祖先の菩提寺にして臨済宗鎌倉五山の一つ。紅葉も綺麗だよ!…鎌倉市浄明寺地区。
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亀谷山 寿福金剛禅寺
源家の本拠地…寿福寺。鎌倉市亀ケ谷。…北条政子様と源実朝公の菩提寺。
まぁ~他にも例を挙げればキリが無い。
そんな訳で、小生は伝畠山重保墓との現代の仮名で登録されている御廟所の主は伝承通り畠山重保公が自害した❝屋敷か御堂❞の跡地だと推測する次第だ。
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今では目の前はマンションが立つ。
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しかし隣接地の宅地の崖には、近くに寺院が有った証拠である矢倉=鎌倉文化の横穴式の御廟所跡が有る民家も在る。
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法輪塔も恐らく後世に再建立されている物だが、デザイン自体は三浦家の三浦義澄公や清雲寺の歴代三浦家御当主の物に酷似しているので最初の墓石を模造したか、谷戸なので劣化のスピードが遅かったのだろうか?
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卒塔婆(ストゥーパ)にはメジャー文献だけ読んでいても伝わらない畠山六郎重保公の戒名がちゃんと書かれています。
大圓鏡智 為 重安(=重保)院 龍嶽雲公大居士 祥月
ね?文献だけ読んでても現地に行かないと歴史には解らない事も有るでしょう?
だから歴史オタクは行動力が有る人が多いんですよ~。城ファンとか神社仏閣ファンとかね。
さて、この畠山重保公や御父上の畠山重忠公が領地の埼玉県西部や鎌倉市だけでなく横浜市一帯にも深い御縁が今では何気ない場所に成っている所で有った事を確認出来るの皆さんにも伝わったでしょうか?
きっと皆さんの御近所にも平安~戦国時代の武士達の城跡の山や歴史偉人の関わった神社仏閣や、古代からの聖地の池や泉や奇岩が有ったりすると思います。そして、そう言う場所は豊かな緑が残っていたりして散歩すれば疲れをすっ飛ばして癒してくれる、先人が我々に残して下さった文字通りのパワースポットや、昔の人が日本文化を残してくれた感謝を感じられる空間に成ってくれます。
・・・みなさんも御近所の山や神社や御寺を散歩してみませんか?

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう・・・って!
前回のこの休日雑記で⤵
【休日雑記】2018年05月13日の訪問先・・・友人と鎌倉の幻の遺跡ハイクと横浜駅で火鍋晩餐。
「さて、今回の休日雑記はここまで!
次は多米元忠公の解説記事の最終章を書きたいな~と思います!
その翌週からは暫く繁忙期と私用と神事と仏事が立て込んでブログ更新遅れたらすみません!」
・・・なぁ~んて書いてたのに全く関係ない鎌倉時代の史跡と偉人紹介してますね(笑)。

多米元忠公の記事、又、ゆっくり書きますよ~♪
では、今日は趣味の外国語学校とジムに行ってきますので、今週の記事はこれで!
皆さんにとっても、小生にとっても今日が良い日に成り、新たな1週間が実り有る時間に成ります様に~♬



前の記事・・・
コレ→【前半:能見堂編】世界屈指の景勝地だった能見堂と鎌倉幕府重鎮金澤北条家の居城青ヶ台城址・・・金沢区
・・・の続きの後編。

前の記事では能見堂と言う、金沢八景の八ヵ所の景勝地を見渡せる場所として室町時代~江戸時代まで先人達に大切にされた場所を紹介しました。
その中で少し触れましたが、能見堂は実は日本城郭大系に記載されている青ヶ台城の一部として鎌倉時代末期に機能していたと推測出来る事と、日本城郭大系の青ヶ台城推定地は間違いではないけれど完全でも無いと指摘して余り詳しくは解説せずに能見堂の解説を行い前編として終了しました。
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その際にも掲載した写真なのですが能見堂は城郭マニアから見ると、どっからどうみても重要な曲輪の遺構の土塁が今も現存しており・・・
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更に、その能見堂入口は元々は木戸で塞がれていた城門の一つ土塁残存部か、能見堂の曲輪に入らないと先に進めない枡形虎口の土塁だった構造が現存している事も紹介しました。

さて・・・
この能見堂は日本城郭大系には青ヶ台城の一部としては紹介されておらず「東青ヶ台の地名は現在では残らない」と言う事実を述べた後で、その地区の城址に関する考察はしないまま「西青ヶ台と呼ばれた地域の阿王ヶ台団地にだけ地名が残っている」という事実と西側の城跡部分の紹介だけをして終わってしまっています。
推定の破壊され消滅した城跡は阿王ヶ台団地の“有る側の”菱形台地である旨が紹介されていたりします。下の写真が阿王ヶ台団地。
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この日本城郭大系を丸のみにして書かれていない部分まで触れない人達は「東側の台地も東青ヶ台と書かれているヒント」を読み解いていませんので、東横レジデンシャル辺りが城址だと書いている人も良く見かけます。
さて先生方が当時、何らかの事情で東側の開発を行った業者に配慮する必要が有ったかは謎ですが、東側の解説について話題を積極的に触れないのは少々不自然な印象を小生は受けました。先生方は当然、この能見堂にも足を運んでいる筈なので、“敢えて書きたくない事情”が有ったのかも知れませんね。


さて、ここからが小生の解説ですが、その前に日本城郭大系を編纂した先生方には御存命中の方もいらっしゃるので先に敢えて秘したであろう東側に触れる事を懺悔をしておきます・・・
「日本城郭大系を編纂した先生方、申し訳ございません。部分的に否定的な事を今回は書きますが、先生方の事業は偉大で、横浜市内の城の存在を知らなかった頃~現在に至るまで教本として拝読させて頂いております。当然、この偉大な事業を行った先生方は学者嫌いの小生ですが尊敬しており侮辱の意図は毛頭無く、それを踏まえて今回は恐らく未調査の能見堂の事と、何故先生達が阿王ヶ台団地の台地だけを城跡として紹介したかの原因の推論と小生の推定城域を解説させて頂きます。」
・・・では!解説に!
新編武蔵風土記稿には以下の様に城跡が紹介されています。

※暫(しばら)く文字だらけに成りますが我慢して読んで下さい(笑)!

※以下( )内の字は旧字体を現代の新字体した字と読み方。
舊蹟(旧跡)城山
高札場より北の方なる山を云(言う)、此(この)山相對(あいたい)して二つあり①、都(すべ)て青野臺(台)②と唱(とな)へ、又東青野西青野と分(わけ)てよべり③、古(いにしえ)金澤右馬助(うまのすけ※官位名)④が居城の地なりと云、山上平かにしていかにも城壘(塁)なとかまえし所と見えたり、右馬助がこと其(その)傳(つた)へ定かならざれど-以下省略-

・・・さて、先ず、この文中で登場した金澤右馬助と言う人物の正体ですが実はとても偉い人物です。この人物の省略名は金沢(かねさわ)北条貞顕(さだあき)公の事を指していて、この方は鎌倉幕府滅亡直前の最後から2番目の執権(しっけん)、つまり鎌倉幕府の総理大臣を務めた人物でした。

そして青ヶ台城の解説として着目すべき地形の特徴と当時の地名も文中に書かれています。
御城の在(あ)った場所は高札場の北側の山で青野台と呼ばれていました。
青野台は向かい合って2つの山から構成されていました。
東西で向かい合う様(よう)な形の青野台は、その位置から東青野、西青野と分けて呼ばれていました。

さて、この①~④だけ読むと何だか現在、阿王ヶ台と呼ばれている台地だけがそれらしく感じてしまい、現在の阿王ヶ台地区の中で東西に山並みが向き合っているのかな?と現地を訪問しないと勘違いしてしまいます。
まぁ、そもそもの地名が青野台(あおのだい)なので、恐らく江戸時代には阿王台(あおうのだい)と文字が転訛して書かれていたのを移民だらけの横浜市役所の役人が地名の読み方を誤って他都市の地名風に阿王台(あおうがだい)と呼んでしまい、更に御丁寧に誤った発音のルビを足(た)して「阿王」+「ヶ」+「台」と地名改変してしまったんでしょう。
これは御役人に横浜市域の事情を知る地元民が少ないならではの事情ですね。

さて、これだけを見ても現代では大まかな位置関係しか解らず“高札場の北側の山の上一帯”と言う事しか分かりません。
そこで調べなければいけないのが“高札場の位置”なのですが、現代では役所も教育委員会も旧地名を把握していませんし、そのせいで恐らく日本城郭大系を編纂した先生達は高札場の位置が詳しく解らなかった可能性も有ります。
城址の位置を紐解くには実は先に紹介した新編武蔵風土記稿の“舊蹟城山”の項目だけ見ても解りません。
先ずは周辺の地理を見て見ましょう。
金澤領赤井村小名大橋の位置 久良岐のよし
※拡大して見て下さい。
高札場は村の旧住所で小名:大橋に在ったとされますが、この「大橋は村の中程に在る」と言う主旨が書いて有ります。この場合の中程と言うのは東西の位置関係を示します。
その村の小名の位置関係を以下に紹介します。
【小名】
赤坂     村の中程を云(言う)
赤井     東の端なり
御中井    中程なり、爰(ここ)に御中井と呼る井戸あり、名義詳(つまびらか)ならず、
宮谷(みやがや) 西の方を云
和田      (宮谷と)同じ方にあり
大橋     中程を云、爰に大橋と呼(よぶ)橋ある故(ゆえ)此(この)名あり、
瀧(たき)    艮(うしとら:北東)の方を云、此所(ここ)に不動山と稱(称)する山あり山上に-以下省略-

【川】
西南の方坂本村より村内に入、川幅二間(にけん:約3.6m)許(ばかり)、手子明神の前にては宮川と呼り

・・・さて、旧北条家臣の御子孫で新編武蔵風土記稿を編纂した学者で東大の前身昌平坂学問所の頭取だった間宮士信さんは以上のヒントを後世でも解る様に残して下さっています。これから大凡(おおよそ)の位置を把握できます。それに加えて以下の取材結果の情報も紹介します。
【正法院御住職談】
「大橋と言う地名が何処かは今では解らないけれど、御仲井(風土記では御中井と書く)の辺りには屋号が"お橋"の家が昔居たんだよ」
この「お橋」は恐らく大橋を指します。
実は!小生を含め久良岐郡の浜っ子は地名の“大(おお)”の字の発音を省略して「大(お)」と呼ぶ事が有ります。その例が電車の到着音に「ゆず」の「夏色」がかかる「上大岡(かみおおか)駅」です。駅のアナウンスや他地域から引っ越してきた人は「上大岡(かみおおおか)」と御丁寧に面倒臭い「お」の発音を3つ全部読んでしまいますが、浜っ子はそうは読みません。正しくは上大岡(かみおおか)と呼ぶのですが、それも移民だらけに成って知らない人の方が増えているのかも知れませんね。

この様な地名の呼び方や発音の変化は横浜市周辺の極狭い地域でも有って、例えば鎌倉の由比ヶ浜(ゆいがはま)の発音も我々神奈川県湘南地域に近い地元民は「由比ヶ浜(ゆ↓いがはま)」と「い」の発音を低くしますが、それを知らない東京や他地域からの観光客は「由比ヶ浜(ゆ↑いがはま)」と「い」の発音を強調して発音してしまいます。これは本来の「由比」と言う地名を知っているかどうか認識の差に起因しています。
他にも読み方自体が変化する例も有ります。
例えば・・・
●鎌倉市の「扇ヶ谷(おおぎがやつ)」
●横浜市の「幸ヶ谷(こうがや)」
・・・この様に隣同士の久良岐郡域と鎌倉郡域で〇ヶ谷の読み方でも訛(なま)りが異なる事実も有ります。
まぁ、そんな訳で久良岐郡域である上大岡同様に、金澤領の赤井村の小名:大橋は大橋(おはし)と発音した事が正法院の御住職の御話から推測出来ます。
そして御仲居と昔呼ばれた地区は現代では宮川左支川と言う宮川支流が暗渠化しており、“大橋”は現代では消滅してしまっている事も解ります。

では、これらの情報を元に暗渠化された宮川支川の位置から大橋(おはし)の位置を推測し、他の地域の小名と一緒に位置関係を表示してみましょう。
旧赤井村小名位置関係 久良岐のよし
※写真は国土地理院の色別標高図をGoogle earthに重ねて登録した各地域の位置を合成したもの。
これを見ると解りますが、「村の中程」と表記された坂本村、御中居、大橋は若干左右にブレており東青野~西青野の両地域のど真ん中ながら両方の台地に跨って新編武蔵風土記稿は「村の中程」と表現している事が解ります。
そして現在の能見堂緑地~阿王ヶ台にかけてを「高札場より北の方なる山を云」と広範囲指して表現している事も解ります。更に、実際の地形は東青野も西青野も赤坂村からしか容易に侵入できない断崖絶壁が続いている事から、赤坂村が青ヶ台城の大手口だったと推測出来て、日本城郭大系で指摘されている“西青野の菱形の台地”も城址の一部である事が解ります。
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上の写真は赤坂公園付近から見た旧東青野台。
下の写真は略(ほぼ)同一から見た旧西青野台。
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とても険阻な地形で、ここからしか大軍で侵入出来ないので防衛に適した東西の台地から敵を鶴翼の配置で挟撃殲滅する事が出来ます。
青ヶ台城地形 久良岐のよし
そして小生は鎌倉時代に海に突き出した能見堂~不動山の半島も金沢湾を守る城の最東端であり城域だったと推測し本丸跡は丁度、西青野台と東青野台の繋ぎ目の能見台南小学校東側の青野台の最高所辺りで、状況的に赤坂~西青野台の東端は城の大手口、東青野台よりに城砦群の多くが存在したと地形的に推測しています。その根拠と成るのが籠城に必須の“水の確保”で、小生が本丸と推測する辺りの東側には大きな湧水と沢を集め池が存在して事、それに加えて能見堂の土塁群と東側の尾根地形は平安~鎌倉時代達に好んで築城された地形であり西青野台(現在の阿王ヶ台)地域より高所に位置するからです。
赤井村 久良岐のよし
※実は2017年11月18日に親切な能見台の住民の方から「不動池は恐らく現代の調整池として整備された人工地形のはず」と御指摘を頂きましたが迅速測図と言う明治初期の地形図を見ると昔から不動池の人口地形が存在している事が判ります。
この不動池の谷戸は竪堀と用水地を兼ねた役割を果たしていた様です。
実は不動池の在る能見堂の北面ではなく、南面の現在は“赤井谷公園”も池だった事が改めて迅速測図を見直して判明したので画像も掲載して置きます。
明治の不動池~赤井谷公園周辺 久良岐のよし
不動池の場所には当時から池だったと小生が誤認した人工地形の谷戸が有ります。城の竪堀を兼ねた平時は灌漑用水池を兼ねた水堀だったのかも知れませんね、水路も描かれているので沢を集めた水路が農業用水には成っていた様です。
では開発前の様子も国土地理院の航空写真で見て見ましょう。
不動池周辺地形写真 久良岐のよし
まだ能見堂緑地が畑地だった頃の空撮を見ると確かに不動池は四角形の人工地形が解ります、南側の谷と合わせて侵入経路を狭める竪堀の役割をする大空堀状の構造体だった事が解りますね。
そして能見堂周辺には人工的に四角く造成された削平地の畑が多く有り、これらが曲輪群だった事も想像に容易いでしょう。
つまり青ヶ台城は従来の日本城郭大系の言う所の西側説より、当時の写真を見ても能見堂周辺のより高所に位置する台地周辺に曲輪群と思しき地形が終戦直後も残っていた事が解ります。
そして、その能見堂一帯には南北の斜面に水源が確保されていたのでしょう。
恐らく現在の不動池と成った当時の大空堀地形に流れ込む水も小さな沢等の水源が有り、城の水確保の一助には成ったのは間違いないでしょう。明治時代の迅速測図の等高線を見ると農地1区画づつを囲む様に畦道にそって等高線が引かれており、不動池と成った大空堀状の地形にも水田が在る事から豊かな水が不動池側にも有った事が解りますね。
そして能見堂の丘を挟んで反対の南側には用水路も池も在る事も解ります。
明治の不動池~赤井谷公園周辺 久良岐のよし
南側の斜面には更に豊かな水源が在った様ですね。ですから推測ですが正法院裏山~能見堂にかけても地形的に城砦として機能していたはずですし、池に流れ込む沢の水源を守る曲輪も有った筈です。だから現在も正法院の裏山と金子鶏卵東側の断崖の先端辺りには人口地形が残っているかも知れませんね。
恐らくこちら側、能見堂方面の東青野台が昭和に着目されなかった付近の地名を"能見台"に改竄されて東青野台の地名を消されたからでしょう。
土着民以外が解らない“政治的工作”が行われたのかな?
開発した人間は“遺跡が出るとマズイ”人で、それを忖度(笑)した連中が市や県にいたのかも知れない。そして上行寺東遺跡の様に日本レベルで重要な武家金沢北条家の居城跡を潰してしまったのかも知れませんね。
秋の終わり頃に成りスズメバチや蛇の心配が無くなった頃に現地を探索して改めて皆さんに報告したいと思います。
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絶対に東側まで城が広がっていた状況証拠と地形と水場が有るからね。
調べない手は無い。

本来ならば神奈川県教育委員会や横浜市教育委員会がやるべき所なのだけれど、上行寺裏の稲荷山も“荒尾城址臭い”所も含めて調べられる“城郭専門家が横浜や県教委”には何故か不可解にいないんですよ~。鎌倉の隣であり北条家の主力が温存されていたのが横浜市なので当然、重要な城跡だらけなのにね。
調べられたら困る“市長”が歴代に多かったんでしょう。
マトモなのは建設族ながら教養と文化度の高かった細郷市長と高秀市長くらいか・・・
逆に御二人は建設族だったからこそ、建設利権に費やすべき予算を使って保護すべきものを保護する術を知っていたのかも知れない・・・
今の市長と前代市長とは大違いだな。まぁ、前の中田さんは横浜の日本最古級だった骨董品水道管を耐久性強い物に交換始め大震災に備えただけ良い市長さんだ。

では皆さん、又次の解説記事で御会いしましょう!






横浜市南区井土ヶ谷には、その井土ヶ谷の地名の由来に成った御寺が住宅街の中に鎮座しています。
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昔は周辺の山林、更にその周りも境内地だったそうです。
実はここ、横浜市民でも現代では余り知る人も少なくなったのですが鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公の正妻、北条政子様が開いた御寺で一時暮らした場所でもあります。
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境内には化粧の井戸と言うのが有りまして、承久の乱の際に当時は引越村と言われたこの土地に逃げて来られたと伝承しています。
この地に逃れて来たものの、水質の悪い水ばかりだった引越村の中で、唯一、この乗蓮寺で掘った井戸だけが水質が良く化粧水に適していたので居所と定めたそうです。
つまり、この井戸が井土ヶ谷の町名の由来に成った訳です。
さて、北条政子さんは承久の乱が起きたから乗蓮寺に逃げて来たと伝わっていますが、この承久の乱と言うのは源頼朝公没後に、貴族達が失った既得権益を鎌倉幕府から奪還しようとして兵を起こした事件で、結果的には北条政子様が旧頼朝公の与力武将達に上方攻略の号令を激を飛ばして武士勢が逆襲し鎮圧に成功した日本国内の内戦の事を指します。
実は、この乗蓮寺の辺り直ぐ裏の山の反対側が弘明寺の駅名でも有名な、厄除け観音の瑞應山蓮華院弘明寺です。
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※弘明寺の山門の写真。
実は源頼朝公、北条政子様と生前に夫婦して弘明寺を熱心に戦勝祈願等の御参りに来ていたので、小生は乗蓮寺が成立したのは北条政子さんが「逃げて来た時に御寺を建てて住んだ」と言うのはちょっと違うと思うのです。
弘明寺は古代奈良時代の郡衙(ぐんが=市庁舎みたいな場所)だったと思われる場所の有力な候補地であり、御寺自体の歴史も既に1300年以上有る名古刹で、弘法大師空海和尚様とも関係の深い御寺なのですが…
この御寺には武士に軍神と財神として拝められた弁才天様も御まつりされているので、先述の通り頼朝公達御夫婦は戦勝祈願や厄除けに訪れていました。
承久の乱が起きた際、この弘明寺の直ぐ裏の乗蓮寺を北条政子様が開いたのは、小生は避難して来たのではなくて、承久の乱が起きていた間、毎日弘明寺に戦勝祈願に通う為だったのでは無いかと感じています。
そして、その場所を選んだのは、嘗(かつ)て亡夫と共に苦労を乗り越えた頃の思い出も有り、より御利益に強い思い入れが有ったのではないかと思う訳です。
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この写真の大木は“北条政子さんが御手植えした榧(かや)の樹”です。
本当に政子さんと御縁が深い御寺ですね~。
この乗蓮寺さん、井土ヶ谷幼稚園も経営してらっしゃるので、この御寺の幼稚園で育った子は、この木みたいにそして鎌倉武士の様に強い子に育ちそうですね♪
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境内にはお稲荷さんもいらっしゃいます。
神様も一緒に御祭するのは歴代天皇と同じく神仏習合の価値観を大切にする真言宗の御寺らしい所ですね。
このお稲荷さんは最近、こちらに御迎えし遷座したそうです。御寺の元々は御檀家さんの家が守って来たお稲荷様だったそうなんですが、子孫の代に守って貰えるか判らないと御住職様に相談に来られたので、御寺に御迎えして代わりに御住職様達で守る事にされたそうです。
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御地蔵様もいらっしゃいました。
御地蔵さまって何だか親しみを感じる仏様ですよね。道端でいつも庶民の安全を守ってくれる、丸い頭の少しユーモラスな優しい仏様。
さて、この御寺は最近、御寺の建替えの際に解体された「尼将軍堂」と江戸時代には呼ばれていた御堂が有りました。現代では「御影堂」と呼ばれていたそうです。
ここは御寺を開いた北条政子様を祀っていた御堂で、その中には“北条政子様が御自分の姿を彫刻した等身大の彫像”が安置され祀られていました。まぁ、言い換えると開山堂って所でしょうかね?
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御住職様に御好意で昔の写真を見せて頂き、更に今は非公開の北条政子様彫像も拝ませて頂きました。
その尼将軍堂が上の写真の手前の茅葺屋根の小さな御堂です。
解体された時に再建を目指して木材を捨てず保存していたそうなのですが、木の腐食が激しく再建を断念したそうです。
北条政子様木像画像
今は一般非公開なので、皆さんは拝む事は出来ませんが、上の写真が乗蓮寺さんのホームページに掲載されている北条政子様彫像です。
御住職様の御好意で、転載の許可を頂きました。
小生、拝ませて頂いて北条政子さんの印象が少し変わりまして・・・
なんだか寂しさを隠して冷静に気持ちを落ち着かせている様な御顔をされていたんです。
この彫像、北条政子さんが鏡を見ながら自分で自分を掘ったと伝承していますが、御住職様は「生前に自分をモデルにして仏師に彫刻させて作らせたから写実的でリアルな造りなんだろう」と推測されていました。
恐らくそうだろうと小生も感じます。だからこそ何だか悲しそうで少し遠くを見ておられる様な気持ちが伝わる様な気がするリアルなんだと思います。
この時期、既に政子さんは自分の二人の子供を、自分の父と兄に暗殺されています。
恐らく夫の源頼朝公も自分の妹婿の稲毛重成に毒を盛られた上、相模川の開通式の最中に暗殺されています。実は頼朝公は開通式の前日から体調不良を訴えていて、当日は意識障害も有ったそうなのでヒ素中毒の説が昔から有ります。そして、不可解な事に、橋の上で落馬して死んだとされていますが、その際に護衛の武士達が「頼朝公を守れなかった罪」で全員処刑されているんです。これは状況的に北条家が退路の無い橋の上で頼朝公を暗殺したと考えた方が自然でしょう。
さて、そんな事も有ったので、せめて夫が武士達と領民達を貴族の搾取から守る為に建てた武家政権を守る為に戦勝祈願に来て、この乗蓮寺に一時住んでいた時期の政子さんをモデルに掘られた彫像だから、この様な少し悲しい、でも凛々しい御顔立ちに成ったんだと小生は思いました。
今では、この彫像が安置された御堂は無いので御本堂の中で、日本の平和を見守って下さっています。
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昔、尼将軍堂の前に在った石碑はちゃんと墓地の中に移設され保存されています。これも御住職様が案内して下さったので写真に収める事が出来ました。一人では探せなかったと思います。
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今では御本堂はコンクリート製。これなら地震にも火事にも強く、周辺が火災に遭ってもちょっとくらいでは類焼する心配も少なく安心ですね。
多くの歴史を伝える為に、御寺の檀家さん達が御金を出して御寺を守って下さってるからこそ、小生の様な人間が尊敬する偉人の御廟所を拝ませて頂けたり、古文書を見せて頂ける訳です。本当に尊い努力をされていると思います。
腐れ学者は、神社の氏子さん達や御寺の檀家さん達が尊敬する偉人を呼び捨てにして、更には御寺や神社の皆さんが守って来たから読める古文書をさも自分の手柄の様に得意満面に解説していますが、奴等の態度には小生は宗教的にも日本人として先人をリスペクトする歴史好事家(オタク)としても、某古代豪族末孫の宮司家一族の子孫としても違和感しか感じません。
ですから、本当に和尚様や宮司様に御話を聞く事を大切に感じ、親切にして頂く度に御礼としての感謝に加えて尊敬する先人の偉業を伝え守って下さっている事への感謝もいつも感じます。

ところで江戸時代、この御寺を支援したのは間宮忠次公でした。
この方は本牧奉行として、今で言う横浜市の中区南区磯子区港南区の重要な地域を治めた知事さんでした。
そして、徳川家の旧本拠地、駿府城の経済を支えた今の静岡市清水区、少し昔の“ちびまる子ちゃん”が育った清水市を治めた蒲原(かんばら)代官の奉行職も務めた偉い人物でした。
この間宮忠次公の御父上の間宮直元公が初代の本牧奉行、更に但馬奉行と佐渡奉行も兼任して金山銀山経営で前任者から不調だった業績を改善させた名奉行で、大坂城攻めの際に銀山衆を連れて参戦し、徳川家康公に「大坂城総掘りと真田丸の埋め立てによる無力化」を進言した名軍師でした。
そんな御父上の血を引いた忠次公も名奉行で、駿河国蒲原の御代官として有名だったので、その屋敷地だった江戸の居所が「駿河台」の地名に成りました。
実は駿河台の地名は、横浜市港南区笹下を本拠地にした間宮忠次公由来なんですね。
そんな偉人達が関わった乗蓮寺、今では住宅街の御寺ですが・・・
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・・・この乗蓮寺の井土ヶ谷幼稚園で育つ子供達、日本の為にとは言わないけれど、周りの人を幸せに出来る、弱い人を守る為に正しい事を出来る言える、そして源頼朝公の様に苦境に在っても諦めずピンチを乗り越えて正しい事を行える鎌倉武士達の様に強い子供に成ってね!
そして間宮家の歴代武将の様に、仲間から信頼され実務力の高い誠実な大人に成って、家族を幸せにしてあげてね!

御寺や神社の価値は、建物の立派さではありません。どれだけ偉人との関りが有り、その伝統を受け継いで人々の心の支えに成り人間形成の役に立てるか、そしてどれだけ歴史的に重要な場所だったか、昔の人達になんで大切にされたか、その理由と結果が大切なんです。
御寺も神社も火事に遭いますし、御城の跡も風化します。でも、地元の人々に忘れられなければ、逆に心の支えや生きていく矜持を学ぶ事も出来る場所として今でも機能してくれるんです。
そして、それが先人達の願いなのだとも思います。
それは他人から言わされたり押し付けられるのではなく、自分で自然に感じるものだとも思います。

さぁ、皆さんの町にも絶対に凄い歴史偉人が関わった神社や御寺や御城の跡の山や畑が有るはずです。
是非、御近所の小さな神社や御寺や一見何も無い史跡を御散歩してみませんか?

では、又、次の記事で御会いしましょう♪

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実は坂本龍馬の奥さんの御龍サンの終焉の地が神奈川県だと言う事を皆さん御存知でしょうか?

横須賀市大津町と言う所に在る信楽寺は、お龍サンの眠る御寺です。
2015-10-28-16-59-09
正式な寺名は宮谷山至心院信楽寺。
信楽寺と書いて「しんぎょうじ」と読みます。
お龍サンは、坂本龍馬サンと死別後、高知の龍馬さんの身内に龍馬サンの名跡乗っ取られたり、龍馬サン没後に支援者だった西郷隆盛サンも西南戦争で亡くなってしまったり、龍馬サンの師匠の勝海舟サンの紹介で横浜の「田中家」と言う料亭で働いた後、再婚した相手が実の妹と不倫をして又、独身に戻ったり…
まだ坂本龍馬サンの偉業を世間が知る前だったので、この横須賀市で政府の支援を受けられないまま、壮絶な人生を送って亡くなりました。
坂本龍馬サン
明治政府内や世間で坂本龍馬サンの偉業が漸く認識され、世間で「お龍サン」の事も話題に成りだした頃には既に、お龍サンは余命僅かでした。
お龍サンが亡くなる直前、坂本龍馬サンの霊が当時の明治天皇の御妃の昭憲皇后(美子皇后)の夢枕に現れ、危篤のお龍サンの身の上を案じられた昭憲から御見舞いの電報が届けられたり、海軍大将だった井上良馨公が発起人となり見舞金の募金が集められ届けられましたが、時既に遅く、お龍サンは亡くなってしまいました。

晩年は幸せでは有りませんでしたが・・・
お龍サンが、この「大津町にいる!」と解って以来、没後も、町の人はその事を忘れていません。
全国的には有名でなくても横須賀の信楽寺のある大津町の地元の人は今でも、お龍サンがこの町で暮らした事を誇りに思っています。

 でも、お龍サン、実は晩年は余り幸せでは無かったんです。 

…と、お龍サンの話をする前に先ずはこの信楽寺サンの歴史と外観から紹介したいと思います。この信楽寺サン、今では一般的な御寺程の大きさの敷地ですが、恐らく昔は可也(かなり)の規模を有していたのだと思います。


その証拠に鎌倉光明寺の末寺だった歴史を有しており、更に周辺地形からも往時の範囲は容易に推測出来ます。
鎌倉の光明寺と聞いても歴史に興味が無い方には良く解らないと思うので御説明差し上げますと、鎌倉〜室町時代の御寺は幕府等の行政機関が御寺の収入源である土地の保護をしたり和尚様の就任を承認したり文章で手続きを管理していました。
鎌倉の光明寺と言う御寺は格が高いので一般的な行政官僚では取り扱いが許されない程で、鎌倉公方や、その権力代行者の関東管領(かんとうかんれい:首相)、又は関東管領の執事(しつじ:官房長官)等の高い身分の執政者が行政文書の発行を行なっていた様です。
光明寺と言う御寺はそれ程の御寺だった訳ですが、現在でも大本山格の御寺として鎌倉材木座に存続しています。
光明寺は信楽寺の本山でしたから、信楽寺は光明寺の直接影響下に置かれていた事に成ります。つまり住職が世襲制に成る前の信楽寺は光明寺の偉い和尚様が赴任して来ていた訳です。
本山⇄末寺の関係と言うのは本社⇄支店の様な関係なので、当然、本山の格が高ければ末寺も栄えていた訳です。
これで信楽寺の権威は御理解頂けたでしょうか?
次ぎに、どれだけ栄えていたかを推測する物証(地形)です。
信楽寺には素敵な鐘楼が有ります…
…御寺の裏の鎮守の山の尾根筋に、水墨画に出て来そうな素敵な佇(たたず)まいで存在しています。
今では背後の山の周辺は削平され宅地化されてしまっていますが…
つまり、この鐘楼の存在が示す通り、昔はこの背後の山も寺領だったはずです。
それでは、この鐘楼が在る山の地形を見てみましょう…
信楽寺がマークされている右手の山に鐘楼が在ります。
そして信楽寺は鐘楼の山に囲まれていますが、これは鎌倉時代〜室町時代の谷戸構(やとかま)えと呼ばれる山を城壁代わりにして谷間に建築物を建設する南関東の丘陵地独特の文化で、信楽寺は周辺の山を谷戸として所有する造りだった推測が成り立ち、大寺院だった事が推測出来ます。
下の写真は鎌倉の浄妙寺です。
綺麗にスッポリ山に囲まれていますね。
谷間に作り、谷の入口に門を設ける事で外部と遮断され防犯や火災の類焼避けに成る訳です。
鎌倉の報国寺や寿福寺も、この様な作りに成っています。

話しを信楽寺に戻します。
信楽寺は多くの檀家さんがいらっしゃる様で大きな観音様?が、お庭にいらっしゃったり土地は全盛期より縮小されても栄えていらっしゃいます。

う~ん、素敵な観音様だ♪
信楽寺には、他に保久利(ぽっくり)地蔵さんと言う六地蔵が祀られています。 2015-12-16-13-40-20
説明の文章によれば、人間が動物的な下等な習性を抑制し成長を助けてくれる御地蔵さんと言う事でしょうか?
昭和52年の建立ですので割と新しい御地蔵さんですが、6体とも、とても御優しい御顔をしてらっしゃいます。
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この保久利地蔵を建立する事に成った切っ掛けは、実在した農家の御婆ちゃんがとても人から尊敬される人格者で長生された方だったそうです。その御婆ちゃんを偲(しの)んで建立されたのがこの御地蔵様だそうで、その言われが下の写真の説明銘板に書いて有りました。
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粗衣粗食…
小生も見習わないといけないなと本気で思います。でも食欲に負けてばっかりです。
…なんかこの食欲をコントロールする方法な無いもんだろうか?
生前の行いを周囲の方々に有り難いと感謝され御地蔵様として祀られるなんて、本当に人格者だったんでしょうね。
本当に見習わないといけない。小生は短気ですからね。

まぁ、こんな感じで現在では広さは普通より少し広い位ですが、昔は立派な規模を誇っていた事を容易に想像出来る御寺な訳です。
しかも関係の有る歴史偉人も凄いんです。
実は、信楽寺の仏様は平安時代末期の鎌倉武士団の名将、熊谷直実公の守り仏だったそうで、それが後に浄土宗の開祖の法然上人お弟子さんの蓮生坊の手に渡り持仏として大切にされたそうです。
そんな歴史偉人達の大切にした仏様ですが、近江国大津の信楽寺に移送しようとした所、使者が誤って鎌倉から近い、この「大津の信楽寺」に安置して現在に至るそうです。
本当なら少し面白いですね(笑)?その間違いの御蔭で、小生達も御参り出来る訳ですから。
でも、この「大津」と言う地名が、この信楽寺に眠る「お龍さん」ととても因縁が有る地名なんですよ!
先ずは、お龍サンの旦那様の龍馬サンの活躍した京都の史跡の位置関係を見てみましょう…
龍馬災難の地 先斗町周辺
※画像をクリックして拡大して見て下さい!
写真上部に在る池田屋は有名な新選組の活躍した池田屋事件の舞台ですね。
今年の9月に、友人の結婚式で京都に久しぶりに帰った際に、丁度撮影しておいた写真が有るので…
三条大橋の近くに、池田屋の跡の石碑が在ります。
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その場所に建つ店は、全て長続きしなかったので「呪いじゃないの?」なんて噂も有りましたが…
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当時の池田屋と同じ名前の「池田屋」と言う居酒屋に成ってから潰れずに繁盛しているそうです!
…逆に池田屋リスペクトで存続出来てしまったら、呪いを証明している様な気が…
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ちゃんと説明の看板も有ります。当時の池田屋の見取り図や、事件の経過と攻守双方の犠牲者の名前も掲載されています。
こうやって双方ともに扱う姿勢は素晴らしいですね。立場の違いは有れど、お互い日本の事を本気で案じていた訳ですから。
この時の近藤さん達の活躍で、当時テロリストだった攘夷派の中の過激派による京都市街大放火のテロ行為が未然に防がれました。
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三条大橋の池田屋側から2番目位の欄干(らんかん)には、この池田屋事件の時に付いたと言われる刀傷が現在も残っています。
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そして、池田屋のある通りから延びる三条通りの三条商店街には、沖田総司の佩刀(はいとう)の菊一文字の名を冠した刃物屋さんが今も在ります。
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もう一度、衛星写真に戻りましょう…
龍馬災難の地 先斗町周辺
…池田屋から直ぐに衛星写真を南北に貫く緑に覆(おお)われた筋に見える道路が「木屋町通り」です。
木屋町通りの直ぐ横、川沿いが有名な観光地の先斗町(ぽんとちょう)です。
それと反対側、写真左側の「河原町通り」沿いに、龍馬サンが暗殺者に襲撃され落命した事件の舞台「近江屋」の跡が在ります。
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現地には龍馬サンの顕正の一環として、史跡として事件が発生した場所だと解る説明と石碑が建てられていて、商店街の皆さんによってちゃんと守られています。
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ファンが御墓参りしやすい様に、下の看板も有りました。
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因みに、お龍サンは亡くなってから、舎利が分けられ、この信楽寺の御廟所と更に今は龍馬サンの眠る京都で一緒に成る事が出来ました。…亡くなってからでも離れ離れじゃなくなって良かった(泣)。
さて、ここからが信楽寺の在る横須賀市大津町と、お龍サンの因縁の話に進みます。
衛星写真で見る京都の範囲を、もう少し広くしてみましょう…
龍馬関連地域
写真の下の方が現在の京都市伏見区です。そこに、お龍サンと龍馬サンとが夫婦生活を送った寺田屋が在ります。
ここは、お龍サンが入浴中に幕府の役人達が龍馬サンを逮捕に来ているのに気付いて、素っ裸のまま危険を伝えて龍馬サンを生きながらえさせた有名な寺田屋事件の舞台です。
でも、因縁の話の舞台はここではありません。
写真の右上、滋賀県の琵琶湖の畔(ほとり)に大津市が在りますよね?
お龍サンが眠る信楽寺の所有する元は熊谷直実公が所有した仏様は、本来、この滋賀県大津市に届けられる筈だった話は先にしましたよね?
つまり、御寺の在る大津町と滋賀の大津は仏さまで地名だけでなく仏縁も結ばれているのですが更に、お龍サンの旦那様の坂本龍馬サンの坂本家の御先祖様とも深く関係が有ります。
龍馬サン御本人の話では、坂本家の祖先は戦国時代に滋賀県大津市の坂本を本拠地にした明智光秀の一族だそうです。ですから、同じ大津の地名の、更に滋賀県の県名の由来に成った信楽(しがらき)の名を冠する宮谷山至心院信楽寺の在る大津町で、お龍サンが晩年を過ごされたのは…
龍馬サンの奥さんに成った御龍サンが、晩年この土地に行き着いたのは、龍馬サンの氏神様と信楽寺の仏様の御導きで呼ばれ守られていたと思いたく成るくらいの偶然が重なった諸縁で結ばれているんですね。
或(ある)いは…
もし死後の世界と言うものが本当に有るのなら、龍馬サンが氏神様や仏様の御力を御借りして、お龍サンを見守っていたのかも知れませんね。

さて、お龍サンと滋賀県と神奈川県の「大津」との因縁はここまでにして、ついでに横浜時代の御龍サンの働いた横浜の料亭の田中家(たなかや)もついでに話します。
冒頭で少し書きましたが、お龍サンは勝海舟先生の紹介で田中家で働き始めたそうです。

この田中家の歴史は古く、江戸時代には存在していました。
東海道五十三次 神奈川宿 田中家
※拡大して見てみて下さい。
上は安藤広重の「東海道五十三次 神奈川宿 台之景」の浮世絵の風景画ですが…
この中に「さくらや」と言う旅籠(はたご:旅館)が描かれているのですが、この店が田中家の元に成った御店なんです!
浮世絵にのっちゃう位、昔から栄えた店だったみたいですね。
しかも、この田中家、今でも絶賛営業中なんですよ!
GoogleEarthの3Dモデル衛星画像で場所を見てみましょう。
田中家近景
上の浮世絵と同じ構図で見ると、やはり坂道に面しているのが解ると思いますが…
あれ?坂の左っ側は海なんじゃないの?と思いますよね?
…実は、この周辺は近世~現代にかけて絶賛埋め立て中なんですね!
では、もう少し地表から離れた田中家の衛星写真で位置関係を見てみましょう。
田中家周辺
写真中央が田中家です。御覧の通り、すぐ左上(東側)に横浜駅が在ります。
つまり、横浜駅周辺は埋め立て地な訳です。
ですから、この間の東日本大震災の際には、この横浜駅周辺で昔は海だった地域は、地震速報で示された震度より実際は強く揺れたみたいですね。
平地は全て昔は海だった訳です。だから、歴史の古い田中家は、元から陸地だった丘に沿った坂道の傍らに在るんですね。
埋め立て地に横浜駅が在るならば、当然、現在の東海道も、お龍サンが横浜で働いていた頃とは様子が違います…
神奈川旧東海道
昔の東海道は元々半島だった丘に沿って通っていました。
この丘は古くは室町幕府初代征夷大将軍の足利尊氏公が築城し籠城した「権現山城」と言う城跡で、戦国時代にも横浜の殿様の間宮信冬(まみやのぶふゆ)公が「権現山合戦」で活躍された舞台にも成った場所で、旧東海道の元に成った街道が古来より存在し、交通の要衝(ようしょう:重要な場所)だったので軍事拠点としても重視された場所だった訳です。
更に戦国時代中期に成ると、権現山城は現在の本覚寺と言う御寺が在る辺りを中心に拡張され「青木城」と言う御城に改修されて小田原北条家の軍師だった多目元忠(ためもとただ)公が城主を務めていました。
ここら辺の歴史は以前書いた間宮家殿様の事績の顕彰文の中で説明しているので、御興味が有れば読んでみて下さい。
間宮家の事績のまとめ記事はココ」←クリック!
現在の東海道は、この青木(権現山)城の在った半島をブッた切る形で切通しが掘られ、そこに国道一号線(現在の東海道)と鉄道の線路が敷設されました。
ですから東海道は、お龍サンが生きていた時代とは違う位置を通っているのですが、昔の東海道は住宅街に埋没したので必然的に田中家も今では住宅街の中で営業する情況に成った訳ですね。

時代が変われば風景も道路も変わってしまう訳です。
では、ついでに、この旧神奈川宿一帯が最近40年間程度でもどれくらい風景が変化したか、1970年代の航空写真をGoogleEarthに張り付けて比較した画像で見比べてみましょう!
神奈川区昔の様子
ごく最近の写真なのに、たった数十年で横浜駅一帯はこうも風景が変わってしまったんですね…。
因みに、上の昔の衛星写真を継ぎ接ぎして作った画像に写ってる貨物列車の線路は、明治時代に伊藤博文公によって建設された新港埠頭に繋がる路線で、その路線は東日本大震災で東北地方の人々が燃料切れで凍死する恐れが有った時期に、日石とJR貨物職員による燃料緊急輸送作戦で横浜市磯子区根岸の石油コンビナートからの貨物輸送で利用され活躍した線路です。
お龍サンと同じ時代の伊藤博文公の偉業で、現代の東北の方々は命を救われた訳です。
※緊急燃料輸送の記事は「ココ」←クリック!
ですからね小生、よくブログで持論として言いますが…
現代の我々の生活は、昔の人の多くの悲しみと失敗と、少しの成功と幸せの結果、先人によって築かれたものだと言う事を忘れてはいけない
…そう思っているから、こうやって先人に感謝とリスペクトの思いを込めてブログの記事に拙い文章を感情のまま殴り書きしています。

今回は、お龍サンと、その人物の歴史を現代に伝えて下さる信楽寺の御話しをしました。
次は何を書きますかね~?
少し歴史偉人から離れて綺麗な風景の記事でも書きましょうか?
…とは言っても、どこに行っても偉人の皆さんの足跡だらけなんですが(笑)。

では、又、次の記事で御会いしましょう♪



前回の記事で伊勢原市の蟠龍山洞昌院公所寺と、そこが菩提寺の太田道灌公である御話し、道灌公がどれだけ偉大な武将だったかを紹介しました。

その際に道灌公暗殺の一部始終も一旦、同じ記事内に書いてみたのですが長く成りすぎて読み難かったので今回の記事に「太田道灌公暗殺の状況」を別記事として分離し、補足情報を追記します。
※前回の記事は「ココクリック!

さて、太田道灌公の説明を改めてさせて頂きます。
太田道灌公
神奈川県の伊勢原市上粕屋町に在る洞昌院公所寺(ぐぞじ)と言う、各時代で関東の歴史事件と関連の有った御寺が有ります。
同寺は室町時代初期〜戦国時代初期の扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)家の拠点:粕屋館(大規模な平山城)の遺構の外郭の一部であり…
道灌公暗殺の舞台です。

太田道灌公の祖先は摂津源氏、家は代々、関東管領を務めた扇谷上杉家の執事(しつじ:社長代行みたいな職)を務めました。 
道灌公は河越城や江戸城、佐江戸城を築城し、川越市、東京都23区、新横浜の発展の基礎を築いた人物です。 
合戦では無敗を誇り、築城した城の多くは戦国時代、江戸時代を通じ名城として存続しました。 
後の世に残る築城の名手でも有った訳です。 
更には和歌に造詣も深く、遠く和歌の本場の京都の貴族達の間でも太田道灌公は和歌の名人として認識されていた有名人でした。 

関東人にとっては、関東の発展や文化、神社仏閣の建築遺産の保護に偉大な業績を残された偉人でもあります。

今回の訪問で、和尚様より文献には載らない寺と地域伝承の道灌公暗殺時の一部始終を御教授頂きました。
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この参道にある石柱は山門(さんもん=御寺の正門)代わりですが、太田道灌公が落命した山門は本堂〜80m、この石柱の手前50mの所に在ったそうです。
山門は大正時代の関東大震災で倒壊して以来、再建されていませんが、道灌公にまつわる話が寺伝として残っています。
洞昌院は「道灌公の暗殺事件発生以来、門を閉じてはいけない。」と言う決まりが有るそうです。
ですから仮の門も造られていないんですね。
この御寺の規則が道灌公暗殺事件そのものと関係が有ります。
この洞昌院の横には自然地形を利用した糟屋館の巨大な空堀跡地形も現存します。
目の前の丘陵が全て糟屋館と呼ばれる広大な扇谷上杉家の城塞の跡で…
…その丘の手前の田圃(たんぼ)の有る長い谷が自然地形を利用し手を加えた空堀跡。
 
当時は、この田圃(たんぼ)が自然の障子掘りみたいな状態だったんでしょうか?
付近は第二東名工事と宅地化の事前発掘がされています。
なんせ、付近は全て糟屋館の城跡ですからね。

上の写真は糟屋館の北東部、「外堀」の地名が伝承する地域の発掘調査中の看板です。
ここの発掘調査自体は戦国時代と全く関係無い「古代遺跡」の調査です。 
伊勢原市は神話の舞台な上に、大山阿夫利神社や比々多神社と言う、縄文時代からの祭祀場跡や古墳時代の遺跡を旧社領に大量に抱える2大聖地が有りますからね…
※比々多神社の記事は「ココクリック!
※大山阿夫利神社の記事は「ココクリック!
伊勢原市に新東名高速が開通するのに伴い、神奈川県が「外堀の遺構」に新たな県道を建設する為、事前発掘調査をしています。
又、一つ、黒岩知事によって超重要な城址が破壊される…。
さて、この一見、糟屋館とは関係無さそうな外堀りの日本草創期の古代遺跡が発掘調査中の御蔭で、付近は丘陵の雑木林が伐採され戦国時代の糟屋館(巨大な平山城)の地形が露出し、その人口掘削された地形が綺麗に露出して見えます。
扇谷上杉家粕谷館の北東方面の切岸や曲輪群と思しき地形。
 
この地形↑なんか良く犬走りや曲輪らしき人工の地形が見えますね…
これも↓切岸に犬走りが有り、そこが農道として利用されたと推測できす地形が。
 
この写真、地面が露出していない部分は竹林に覆われていますよね?
どうも小机城、篠原城、笹下(ささげ)城の遺構を見て来た小生の感想として、室町時代の関東流の御城は、城域の切岸(きりぎし:人工的に掘削した石垣代わりの斜面)には雨天に地形が変わらない様に土止めの竹や篠(ささ)を植えていた様です。
竹だと戦時に伐採し、竹束(たけたば:火縄銃の銃弾を弾き返す盾)や乱杭(らんぐい:水掘りや川に設置するバリケード)、逆茂木(さかもぎ:空堀や切岸の底面に設置し、敵が落ちた時に串刺しにする罠)に加工出来ます。
篠は脂分が多く良く燃える燃料(ただし破裂する)にも成りますからね。
城塞の保持と、軍備、更には秋の筍(たけこの)を干して保存食にしたりと様々な用途で役に立った訳です。
扇谷上杉家糟屋館の推定範囲 久良岐のよし作成
この糟屋館、名前は館ですが地域の方々が守り伝えて来た地名と洞昌院を位置関係を衛星写真で見て見ましょう。
広大な範囲が城域だったのが解りますし、実際にその伝承通りに要害性の有る地域や、施設の跡が発掘されています。
赤枠で囲まれた文字は現在も伝わる地名です。
水色の線で囲んだ範囲が、伝承と小生が今回自分で見て回った周辺地形から見て取れた扇谷上杉家糟屋館の推定城域です。
水色で塗りつぶしている場所は、外郭と城外との境界と思われる沼掘り・空堀・堀切・切岸等の跡らしい地形です。

洞昌院の右手は現在も地元の老人や御寺の和尚様達によって空堀跡と地形が伝承されています。
さて、この衛星図を見て頂いたので道灌公暗殺の状況を説明します。
●以下「黒字」が共通の伝承以外の部分。
●以下「赤字」が室町時代から伝わる地元と洞昌院の伝承部分。
●以下「青字」が江戸時代の太田資武状の伝承部分。
●以下緑字 共通の伝承部分。

道灌公の暗殺の状況として文章しか読まない学者先生が参考にするのは「太田資武(おおたすけたけ)状」と言う古文書です。
…でもその内容、地元の伝承と比較すると、だいぶ端折(はしょ)られている内容ですし地元に伝わるかなり詳細な暗殺の状況を伝言ゲームしたら間違って伝わった様な感じなんです。
其(そ)れも其の筈(はず)で、太田資武状の著者の太田資武は太田道灌公の子孫ですが、糟屋館の所在地である神奈川県伊勢原市上糟屋と遠く離れた今の埼玉県さいたま市岩槻区生れ、その後、父が兄に造反された際に父と共に茨城県に移り、更に福井県に移住した人物なので詳しい事和は知る筈も無いんですね。
更に太田 資武自身が道灌公の死後84年して生まれた人物なので太田資武状が書かれた頃には既に事件から100年は経過した頃なんです。
ですから、正確な内容が伝わる方が困難なんすね。しかし、中にはそれが全てと誤解してらっしゃる方もいるんですね、机に噛り付いて実際に検証しないタイプの人とか。
でもまぁ、地元の伝承は事の始終が、もっとハッキリ伝わっています。

もう一度、衛星画像で位置関係を確認しながら…
扇谷上杉家糟屋館の推定範囲 久良岐のよし作成
1,洞昌院と地元の伝承…暗殺事件発生の原因。
太田道灌公の主家である扇谷上杉家は同族の山内上杉家と関東の覇権を賭けて抗争中だった。
道灌公の活躍により扇谷上杉家は優位な戦況を維持していた。
しかし道灌公の活躍と人望を恐れた器の小さい主君の扇谷定正と関係が段々悪化した。
それに目を付けた山内上杉家は扇谷上杉定正に太田道灌公を殺させ、扇谷上杉家を弱体化させようとした。
その為、定正を煽動(せんどう)した所、器の小さい定正は道灌公を殺害する事にし、糟谷館に道灌公を呼びつけた。
※太田資武状と共通の部分。

2,地元の伝承…暗殺の舞台、糟屋館城域周辺の地形。
洞昌院の場所より内側には、軍兵は進入を許されなかった。当時はここより先は平時は武将のみ入れた。
→洞昌院の直ぐ近くには「しめ引き」と言う地名が有ります。これは恐らく「閉め引き」と書き、そこには引き橋(ひきばし=戦時に撤去出来る橋)と開閉可能な城門が有ったと思われます。ですので、洞昌院の地域に伝わる伝承の証明に成るかも知れない地名です。
→糟屋館は上杉家の屋敷では無く、屋敷を取り込む巨大な糟屋城塞。
※太田資武状では事件の舞台に成った城館が名前の糟屋館から「ただの館」としてしか認識されていない。
※文献には載らない糟屋館の実情を示す地域伝承では立派な城塞の規模と施設を備えていた。

3-1,地元の伝承暗殺された時の状況。
太田道灌公は、主君の扇谷上杉定正に糟屋館(実際は巨大な平山城)に呼び出され訪問した。
その際に定正の館で旅で疲れた体を労わる様に勧められた。
しかし主君は関東管領も務めた家柄なので、家臣の道灌公が主君と同じ風呂に入るのは失礼に当たる為、道灌公は洞昌院の近くにある同寺の塔頭にて休もうと移動した。そこで暗殺者に襲撃された。
その場所は現在、竹藪に成っている辺りと伝わる。
糟屋館近く豊岡(現在の伊勢原市富岡)の在地武将、小沢某も道灌公に与力したが討死した。
道灌公は即死では無く、武装兵の進入が許されない洞昌院に逃げ込もうと傷を負ったまま移動する。
竹藪の近くに在る七人塚の辺りで道灌公の配下武将が敵と交戦し討死
した。
しかし道灌公は洞昌院の山門に辿りついたが、不幸にも門は閉ざされていて逃げ込めなかった。御寺の衆が外の異常に気が付いて門を開け放った時には既に道灌公は虫の息だった。
→七人塚の北側、空堀沿いには竹藪が残る。仮にそこが暗殺者に襲撃された塔頭の所在地だとすると、洞昌院へ道灌公を逃がす為に配下の武将が洞昌院山門への別れ道に当たる七人塚の辺りで敵の追撃を食い止め時間稼ぎをしたと考えられ、七人塚と洞昌院の位置関係と伝承に整合性が高い。
→小沢某は御子孫が富岡に住んでいたので「小沢文書」と言う古文書にも討死の経緯が保存されていた。又、小沢家は在地武将だったので、道灌公が糟屋館に出張する折りの接待役を務めた可能性は高く、寝所の洞昌院塔頭への案内を務めている最中に事件に巻き込まれた可能性は高い。
※地理的にも事件の経過順に位置関係と伝承の整合性が高いので事実だった可能性が高く、しかも詳細。

3-2,太田資武状暗殺された時の状況。
その内容記されている暗殺の状況は、略(ほぼ)以下の様な内容です…
太田道灌公は主君の上杉定正に、扇谷上杉家の糟屋の館に呼ばれた。
定正が道灌公に「風呂にでも入ってゆっくりして行きなさい」と言ったので、道灌公は入浴(当時は蒸し風呂、でも糟屋なので温泉か?)した後、風呂場から出ようとした所、小口で曽我兵庫と言う武将に襲われて、「当方滅亡」と言葉を残し絶命した。
けど、これは先に述べた通り伊勢原の事件現場から、これを書いた太田資武の出身地岩槻まで遠く離れている上に当事者の道灌公達は殺されているので、事件の状況を人づてに伝言ゲームで岩槻に伝えたら不正確に伝わった結果だと、地元の伝承と比較すると解ります。
しかも資武の頃には事件の100年後ですからね。

3-3,「太田資武状」に書かれた状況を、岩槻の人間は知らない現地の伊勢原の地名で解釈すると?
実は「太田資武状」を現地の地名を踏まえて読めばで 「洞昌院伝承」と御互いの情報を補完する自然な解釈が出来るんですね。
道灌公は主君の定正の勧めにより旅の疲れを取る為に湯殿入り小口から出た所を襲撃された。
現地を歩かない、現地の地名を調べない古文書しか読まない怠慢学者が解釈すると誤解しか出来ないし、そのまま「風呂に入って小さい出入口から出ようとした瞬間に襲撃された」としか解釈出来ない。
しかし太田資武状の伝承内容を地名として解釈すると至極自然に無理なく、地元の伝承と整合性が高く解釈出来る様に成る。
扇谷上杉家糟屋館の推定範囲 久良岐のよし作成
現地の地形と地名を見て見ると、「湯殿入」と言う地名が有り、その先には「虎口(こぐち=小口)」に当たると思われる屈曲した道路が有り、その先は馬攻口へと繋がっている。
太田資武状の湯殿入や小口を「風呂場の話しでは無く地名と解釈」する
  ↓
道灌公は主君の扇谷上杉定正に糟屋館で「風呂にでも入って休め」と言われ、(城外の寝所に定めた洞昌院の塔頭に移動する際に)湯殿入り(側)から( 馬攻口へ城を)出る小口(虎口)で暗殺者に襲撃され絶命した。
…これだと極々、自然な解釈ですし、地形的にも地元の伝承と整合性が高い訳です。
虎口と言うのは城門に敵兵を迎撃する為の射撃施設を設けている場所で、現代のトーチカ(要塞)みたいな構造物ですから、道灌公が虎口に差し掛かった時に弓兵を率いた暗殺者が作戦を実行し易い場所でもある訳です。

4,洞昌院の内規…道灌公絶命の状況を証明する洞昌院だけの伝承と規則。
道灌公は洞昌院の再興者で最大の支援者なのに、山門を閉じて居たばかりにその恩人を死なせてしまった事を忘れない為、以後、洞昌院は平成の現在に至っても「山門を閉めてはいけない」言う規則が有る。
※御寺の規則と、道灌公暗殺の地元の伝承には整合性が有る。もっとも、現在、山門は大正時代の関東大震災で倒壊後は再建されていない。

【洞昌院と、地名で解釈した太田資武状の両方を合わせ暗殺状況を検証】
…両方の伝承を合わせると、伝承内容と地名が完全に合致して詳細な暗殺の状況が解る。
扇谷上杉家糟屋館の暗殺場所推定
太田道灌公は、主君の扇谷上杉定正に呼び出され、糟屋館(城塞)を訪問した。
  ↓
糟屋館の中、今の立原(たちはら=館原)に在った、扇谷上杉家の御殿(ごてん=屋敷)で定正に謁見し、会見が終了した頃に定正から「風呂にでも入って休め」と言われ退去した。
※この御殿が「湯殿(ゆどの)」と当時言われていたのではないだろうか?
※伊勢原市糟谷や七沢や大山は現在でも温泉地で、ここは扇谷上杉家の湯治場であり大山参りの際の宿泊所だったのでは。
※大山は平安時代から既に武士達の信仰を集めた聖地で、参拝者の通る道「大山街道」が関東全土に広がっている程だった。
  ↓
道灌公の寝所は糟屋館の外郭機能を果たした洞昌院の塔頭だったので、「湯殿入」と言う地名の方面を抜け、虎口(こぐち=小口)から城を下り馬攻口から寝所の洞昌院の塔頭(が在った七人塚の北方の竹藪) へ向かおうとした所、城内から攻撃し易い虎口の中で定正の兵に襲撃された
  ↓
道灌公は虎口で既に負傷したが、洞昌院の外に待機している自らの兵と連絡をとり安全を確保する為に、兵権不介入の洞昌院に逃げ込もうとした。
その際に、道灌公の配下武将7人が時間稼ぎをして道灌公を逃がす為に、(当時の)洞昌院の寺域を囲む参道への入口( 今の七人塚辺り)追っ手を迎撃した末、全員討死した
  ↓
道灌公は洞昌院の山門へ辿り付いたが、生憎と門は閉まっており既に瀕死だった道灌公は助けを呼ぶのがやっとだった。気づいた御寺の僧侶が状況も解らないまま山門を開いて道灌公を収容しようとしたが、時既に遅かった。
  ↓
道灌公は死亡の間際、残り少ない命と気力を振り絞り僧侶達に「当方滅亡…」と言葉を残して亡くなった。
  ↓
●道灌公の亡骸は追っ手により首を取られ定正に差し出されてしまった。
道灌公の胴体は直ちに蟠龍山洞昌院公所寺の僧等によって、現在の洞昌院北西にある御廟所で先ず荼毘に伏され(火葬)され葬られた。
※蟠龍山洞昌院公所寺の現住職様によると、同寺は元は臨済宗の宗門だった。後に曹洞宗に改宗している。
道灌公の首級は後に、現在の伊勢原市の下糟屋の糟屋城址や高部屋神社近く、法雨山大慈寺に葬られた。
※道灌公は幼少時、鎌倉に在る臨済宗の本山である建長寺で修行をしたが、法雨山大慈寺は現在も臨済宗。
  ↓
●道灌公の元盟友で後のライバルだった北条早雲公は、現在の伊勢原市一帯を支配下に治めると、道灌公の没後に荒廃し廃寺同然だった蟠龍山洞昌院公所寺の道灌公が荼毘に伏された場所に正式な御廟所を築き、洞昌院を支援し復興させ道灌公の菩提を弔わせた。近くの御霊神社に太田道灌公を御祭神として祀った。
※北条早雲公とその一族の小田原北条家、及び、その配下武将達は必ず曹洞宗の寺院を開基したり再興して支援し、北条家の方針として曹洞宗の禅で修行する家風が有った。
※公所寺の曹洞宗改宗時期は北条早雲公による支援を受けた頃と考えると極て自然。
2015-03-24-06-00-23
ちなみに↑北条早雲公。
関東で優れた善政を布いて庶民からの支持を集め瞬く間に領土を拡大した名君。
早雲公は今川家臣に伊豆の大名時代に道灌公と親交が有り、その後、扇谷上杉家と対立した事から敵対する立場に成りましたが、伊勢原を統治してから洞昌院を復興し道灌公の供養をしたり神社で御祭神として祀っている事から、ライバルであり親友だった事が垣間見えます。

どうでしょうか?
両方の伝承を現地の地図と伝承する古い地名を見ながら解釈すると、合点がいくでしょう?
こうやって、実際に地元に行くと自分が選んで読む本以外にも色んな補足情報を地元の人や関係者の子孫、歴代の住職や宮司様が伝える歴史を知る事が出来るってのが、小生の持論な訳です。

もっとも…
冷やかしで行くクズ、偉人を呼び捨てにする尊敬の念も無い無礼な奴、史跡を破壊する政商や商奴政治家の御用学者は関係者と縁を結べないどころか祟りに遭うでしょうね、神仏の神通力が本当に有るならば。
…まぁ、そんな学者が訪問すれば、宮司様や和尚様や御子孫は直ぐに見破るでしょうし、御縁は結べないどころか叱られて、ソイツの大学は出入禁止に成るでしょうね。

だからね!
歴史好きなら実際に現地を散歩しましょう!
そして自分の地元の神社サンや御寺サンや城址の里山をリフレッシュがてら歩いて説明看板を読んでは如何でしょうか?
意外な発見が有り楽しいかも知れませんよ!

では、次は信長公とお類様の恋愛を書いた記事の続きでお会いしましょう!

昨日、伊勢原市に住む義叔父夫妻に年末の挨拶に行き、帰りに伊勢原市上粕屋町に在る洞昌院公所寺(ぐぞじ)に御参りして来た。
この洞昌院様の愛称で地域の方から呼ばれる御寺は、戦国時代の関東を代表する名軍師:太田道灌公の菩提寺です。
この参道にある石柱は山門(さんもん=御寺の正門)代わりですが、本来の山門はこの石柱の手前50mの所に在ったそうです。
山門は大正時代の関東大震災で倒壊して以来、再建されていませんが、道灌公にまつわる話が寺伝として残っています。
洞昌院は道灌公の暗殺事件発生以来、山門を閉じてはいけない。と言う決まりが有るそうです。
ですから仮の門も造られていないんですね。
…太田道灌公を御存知無い方も多いと思いますので少し説明します。
太田道灌公は、現在の東京の基盤に成った江戸城、埼玉県川越市の基に成った川越城、横浜市新横浜辺りに佐江戸城を築城し、それらの地域の発展の基礎を創られた偉大な人物です。
下は旧江戸城の皇居内の衛星写真です。

今でも皇居の御堀には「道灌掘り」の地名も残っているので有名な人物でもあります。
御自身は大大名程の勢力を持ちながら、主家の扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)家の為に執事(しつじ=社長代理みたいな感じ)として主君の扇谷上杉(おおぎがやつうえすぎ)定正(さだまさ)を良く補佐しました。
合戦でも無敗を誇った名将でしたが、野心が無かった為に独立勢力化せず、結果的に道灌公の人望と勢力に嫉妬した暗愚な主君の扇谷上杉定正に暗殺されてしまった人物です。
関東人にとっては関東の発展に寄与して下さった偉大な人物の一人が、太田道灌公な訳です。

これは次回の記事で説明する伝承の複線ですので覚えて置いて下さい。
同寺は、最初、鎌倉時代の征夷大将軍を務めた源家の与力で忠臣である粕屋有季(かすやありすえ)公の一族が大檀那として支援した御寺でした。
ですから昔は塔頭や御社を沢山構える大寺院でした。
その名残で境内には今も神様が沢山祀られています。
しかし、粕屋有季公が北条時政による主家源家への謀反や姦計に憤慨し、源頼家公の乳母の比企家と共に義挙しますが逆に敗北し自害されてしまいました。
その際に同寺は荒廃しますが、室町時代に成ると扇谷上杉家の拠点の粕屋館(粕屋城)の一部、城域鎮護の寺院として太田道灌公により再興されました。
それ以降、道灌公の主家:扇谷上杉家の祈願所に定められ高い格式を持ちました。
その御縁で洞昌院公所寺の寺紋は太田家の太田桔梗紋の使用を許されています。
太田道灌公は戦国時代の関東を代表する名軍師にして無敗の名将です。
この洞昌院は太田道灌公の再興ですが同時に菩提寺であり、道灌公の主家の扇谷上杉家の拠点:粕屋館(大規模な平山城)の遺構の一部であり、狭量な主君扇谷上杉定正による道灌公暗殺の舞台でもあります。
ですから道灌公に纏わる御堂や…

…道灌公の血筋である源氏の武将や、鎌倉幕府以来の坂東武者が信仰した弁財天様の御社も在ります。
昔は本当に大きな寺院だったんでしょうね。
道灌公は品川湊(しながわみなと)を重視し江戸城を築城し今日の江戸=東京の発展の基礎を築いた偉人とも言える方です。
下は道灌公の御廟所の入口
横には、附近の史跡の案内板も有ります。  
この御廟所は道灌公とライバルで協力者でもあり交流の有った北条早雲公が道灌公の御霊を弔う為に造られたそうです。
今回の訪問で和尚様より、文献には載らない寺伝承の暗殺の一部始終を御教授頂き、更に道灌公の御位牌も拝ませて頂きました。…光栄だ。
学者が良く読む文献には簡略化された事件の概要しか無いのですが、御寺や神社には当事者が支援者として関わっているので詳細に歴史事実が和尚様や宮司様により伝承されているんですね。
ですから、小生は文献も読み更に直接、宮司様や和尚様に教えを請いに飛び回ります。
現地には、求める情報以外の発見も有りますからね。
今回、道灌公の墓前にお参りした事や御位牌を拝ませて頂いた事は、以前、直筆の古文書を直に拝見して以来再びの道灌公と小生の御縁です。
来年また年か明けたら御参りにきます。
戦国時代、関東の文化保護や発展、安定に貢献された名将:北条早雲公と並んで尊敬する偉人なので感動の極みだ。
…この気持ちは大切にしよう。
道灌公の御位牌、愛知でも信長公と実質正妻のお類様の御位牌を拝ませて頂いた事は、今後一生の思い出だな。

洞昌院に現存する太田道灌公の御廟所を整備し、付近に太田道灌公を御祭神として御霊神社に合祀されたのは道灌公の暗殺事件後に、この地を扇谷上杉家から奪取し治めた名君として名高い北条早雲公です。
道灌公の元盟友で後のライバルだった2015-03-24-06-00-23
北条早雲公は、現在の伊勢原市一帯を支配下に治めると、道灌公の没後に荒廃し廃寺同然だった蟠龍山洞昌院公所寺の道灌公が荼毘に伏された場所に正式な御廟所を築き、洞昌院を支援し復興させ道灌公の菩提を弔う菩提寺に定めたんですね。
※北条早雲公とその一族の小田原北条家、及び、その配下武将達は必ず曹洞宗の寺院を開基したり再興して支援し、北条家の方針として曹洞宗の宗論を学ぶ家風が有った。
※公所寺の曹洞宗改宗時期は北条早雲公による支援を受けた頃と考えると極て自然。

こちらは↓今回の主役の太田道灌公。
太田道灌公
道灌公が戦に強く築城の名手だった以外に、人格的にはどんな人物だったのか解る文献や伊勢原市や横浜市や東京都の伝承があります。
横浜市の金沢文庫博物館には太田道灌公が関東管領の執事(しつじ=社長代理)として、神社仏閣を保護した際に発給した多くの文章が残っています。
当時は政治問題の処理と神社仏閣の保護管理は鎌倉公方や室町幕府将軍が担っており、鎌倉公方の政権代行者の関東管領の職務の更に代行者の道灌公は、多くの政治文書や神社仏閣関連文書の処理をされていたようです…
戦をしながら城も築城して、更に現地を視察しながら多くの政治と宗教の実務を処理するとか経営者として有能過ぎるくらい有能だった事が解ります。
因みに、戦国時代当時の鎌倉市や関東の格式の高い御寺に関する古文書には人気の高い剣豪将軍足利義輝公が発給した文章も多く現存しています。逆に言うと太田道灌公の職責がとんでも無く重要な位置に在った事が解りますね。

小生の地元横浜の蒔田吉良家の殿様とも交流が有ったので横浜の蒔田の殿様の間宮家や蒔田吉良家の吉良成高(きらしげたか)公の顕彰活動をしていると、道灌公が大変な文化人だった事が解ります。
その成高公の居城今の横浜市の南区蒔田の蒔田城址(蒔田御所)近く、南太田と言う場所は、現在、太田小学校の所在地が道灌公の城館だった事に由来します。
※蒔田城や南太田の地名に関連する記事は「ココクリック!

「万里集九」と言う戦国時代初期の歌人が書いた関東地方の旅行記「梅花無尽蔵と言う本の中に吉良成高公と太田道灌公の信頼関係が解る一文が有るのですが、この本の著者の万里集九は道灌公に江戸城に招待されており、道灌公が江戸城で歌会(和歌を楽しむ集まり)を開いていた事が解ります。
道灌公は武将としても優れていましたが
、実は京都の朝廷でも歌人として有名だった文化人だったんですね。
ですので、道灌公の御廟所には下の顕彰文が有ります。
2015-11-25-15-31-36
伊勢原市や神奈川県育ちの歴史好きには有名な逸話です。
この物語はこんな感じです…
道灌公はある日、大山に狩りに出かけました。その日は生憎(あいにく)の雨天となり…
大山は雨乞いの神様の山なので良く雨が降るので、大山阿夫利(あふり)神社=雨降り山とも呼ばれるのですが、そこで道灌公は道すがら茅葺(かやぶき)屋根の建築の農家に立ち寄り、蓑(みの=雨合羽(あまがっぱ))を借りようとしたそうです。
すると、応対したその家の若い女性は蓑ではなく、道灌公に「山吹の花」を差し上げたそうです。
道灌公は山吹の花の意味が解らず不快に思い怒った所、同行の部下から女性が山吹の花を差出したのは、彼女に教養が有って昔の詩集に載っている唄を引用し「蓑も無い程貧乏で申し訳ない」と、雅に謝罪をしたのだと聞かされ己が風雅の道に疎(うと)い事を恥じて、以降、歌道を深く学ぶ様に成り結果的に詩歌の大家と呼ばれるまでに風流を極めたそうです。
因みに、その若い女性が山吹に思いを込めた歌は下の通りです…
「七重八重 花は咲けども 山吹の"実の"一つだに なきぞ悲しき」
…「実の」と「蓑」をかけたんですね。この女性、こんなに高い教養を持っているとは何者なんでしょうね~?
小生はそこまでは知りませんが、この女性、実は余り貧乏な訳では無かったと思います。
何故なら、この女性、「藁葺(わらぶき)屋根」ではなくて「茅葺屋根」の家の住人ですよね?
茅葺屋根ってのは、普通の母屋(おもや=住居スペース)の屋根を吹き替えるだけでも今の価値で5000万円位するそうです。
ですからね、貧乏農民では無くて土地の庄屋さんや小領主位の家柄の経済力を持つ家の若い娘さんだったから戦乱の当時でも高いレベルの教育を受けれる家庭環境に在った事が想像できますね。
…茅葺屋根の古民家の話しは以前、記事に書いた事が有るので御興味が有れば読んで見て下さい。
※茅葺屋根の古民家の記事は「ココクリック!
※東京や埼玉の人は大山と扇谷上杉家と太田道灌公の深い関係を知らないので、それぞれ、この逸話は東京や埼玉だと思い込んでいるそうです。まぁ、東京や埼玉から見たら神奈川県が思い込んでると思うのかな(笑)?

しかし…
天下の名将、名軍師の太田道灌公に風流を極めさせる切っ掛けに成ったのが若い乙女ってのは…
女性は男性を成長させる存在なんですね~。

こうやって御寺や神社、歴史史跡を御散歩したり、当事者の御子孫と御話をさせて頂くと、昔の偉い人の凄く人間らしい一面を知れたり、ホッコリするエピソードに出会う事も有るんですよ~。
面白いでしょう?
だから文字だけ読んでいても歴史はつまらないので、関係者と知り合いに成るのが一番面白いんですよ!
ただし…
好奇心で行くのではなく、心からリスペクトして行く人にしか御縁は結ばれないと思いますが。

では、次は信長公とお類様の恋愛を書いた記事の続きでお会いしましょう!

笹下城址の宅地化による破壊がいよいよ始まりました。
※本丸跡周辺の地形破壊2015/10月
※堀の役割を果たした旧沢跡の道路に面した堀切地形の地形破壊開始。2015/10月

笹下城とはなんぞや?と言うご存じ無い方は笹下城と城主間宮家を説明した記事ココ」←クリック!して以前の記事をご覧ください。
笹下城址は城域主要部を前土地所有者のIHIにより、既にその大半が破壊されていますが、その破壊を免れた大空堀が最近まで現存していました。
この空堀や切岸の内、完全な状態のままの遺構だった成就院横の大空堀は既に2013年迄に消滅し、残るは本丸跡周辺地形と堀の役割を果たした沢跡の堀切状の道路地形と、出城松本城の地形と笹下中学校周辺の町内会名に残る旧地名のみとなっていました。
その本丸跡周辺地形と沢跡の道路周辺地形も写真の通り破壊が始まりましたので神奈川県民の皆様に御報告差し上げます。
間宮林蔵や杉田玄白に関係が有り、横浜市南部で最重要城跡であった笹下城址が何の調査も保護もされずに消えゆく、その責任者と開発業者の記録をネット上に公に記録し公開し市民が問い合わせ出来るようにしたいと思います。
しかし、これ等の宅地開発は市の許可を得た正当な開発であり、ディベロッパーには罪は無い事を皆さん御理解下さい。

史跡/城址としての調査や保護の責任を有するのは破壊開始された時期に任期を務めている以下関係各所の代表者及び上級管理職者です。
彼等にも法律的に罪は有りませんが、市民に対し、この様な案件の責任所在開示の為に役職及び氏名は公開されているので、そのまま転載します。
※彼等は職務上の責任は問われますが、犯罪を犯した訳ではないので暴言や嫌がらせ等を問い合わせ先に行わないようにして下さい。
笹下城址を未調査破壊した責任者達としての意味でも書いて置きます。

神奈川県教育委員会
  代表連絡先:045-210-1111

  委員長…具志堅幸司
  ※ロス五輪体操金メダリスト
  ※日本体育大学体育学部長
    上記連絡先:広報課03-5706-0948

  第一委員長職務代理者…高橋  勝
  ※横浜国立大学名誉教授
    上記連絡先:045-339-3014
  ※帝京大学大学院教授
  ※帝京大学大学院教職研究科長
    上記連絡先:0120-508-739

  第二委員長職務代理者…倉橋 泰(ひろし)
  ※株式会社ぱど代表取締役会長
    上記連絡先:0120-090-810

  委員…河野真理子(こうのまりこ)
  ※株式会社キャリアン代表取締役
    上記連絡先mail:  info@carian.jp
  ※公益財団法人日本生産性本部 
    ダイバーシティ推進センター 顧問
    上記連絡先:03-3409-1122

  委員…吉田勝明
  ※横浜相原病院病院長
    上記連絡先:045-362-7111

  委員/教育長…桐谷次郎
  ※前産業労働局長
  上記連絡先:045-210-1111

横浜市教育委員会
  上記連絡先:庶務課045-671-3240
  委員長…今田忠彦
  教育長…岡田優子

ディベロッパー側も問い合わせ先情報を開示しているので、写真と共に情報掲載しておきます。
開発者:野村不動産
仲介者:武本測量株式会社
工事者:株式会社竹中土木
開発者:三井不動産レジデンシャル株式会社
工事者:みらい建設工業株式会社
重ねて強調しますが、彼等ディベロッパーは犯罪者ではありません。
史跡を破壊するのは調査も保護も行わない教育委員会の責任です。
また、教育委員会も当然、犯罪を行っている訳では無く、不見識なだけです。
不見識な人間をそのような役割に置いた黒岩県知事と林横浜市長の責任です。
特に林横浜市長は貴重な蛍の生息地で歴代市長が守って来た瀬上市民の森もディベロッパーに宅地開発容認したり、非常に文化史跡と緑地保護の観点からは今の所、問題が有る判断ばかりする市長さんです。
近年の神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会が破壊黙認したり保護を怠っている、又は破壊している最中の史跡と文化財を以下に記します。

上行寺東遺跡(伝:浄願寺旧跡)
マンション:ライオンズヒル金沢八景の建設により破壊された金沢区六浦の大寺院遺跡。
源頼朝と文覚上人が開基した大寺院の史跡で豊富な石窟群や石塔群を有した。
新田義貞の鎌倉攻めの際に略奪放火され廃寺になり、後に金沢区町屋に龍華寺として再興されたが、鎌倉時代末に焼け落ちたままの良好な保存状態を保っていた。
学者、郷土史家、地域住民からの度重なる非常に多くの指摘と保護要請を横浜市教育委員会と横浜市が無視しライオンズヒル金沢八景建設で貴重な史跡は破壊された。
後に重要性に気がついた教育委員会と市により、隣りに無意味なハリボテで破壊した史跡に似せた偽物が作られた。

金沢文庫博物館…蔵書の古文書(経典)
新たな箱物を作りながら、蔵書保管環境関連空調予算を適切に付けず、古文書をカビさせ破損させた。
古書保存は湿度管理が重要であり、20年近く使用し老朽化した空調交換を要していたが学芸員からの適切な度重なる予算請求がされたにもかかわらず教育委員会が空調予算を付けずカビさせた。
…しかし県は数千万単位の箱物は作り続けている。
同地は武家初の私設図書館「金沢文庫」の史跡の上に建っており、周辺全域が鎌倉時代よりの史跡群を地下に埋蔵している。
史跡金沢文庫旧跡及び史跡称名寺周辺の谷戸構え要塞と塔頭群の山々を野村不動産が宅地開発しようとした事もあるが、上行事東遺跡破壊を経験した有識者達の指摘により阻止され守らた。

百姓曲輪:戦国時代小田原城大規模遺構
小田原市にある戦国時代の小田原城の大規模城郭遺構。良好な状態の「曲輪群」「大土塁」「虎口」「切岸」「武者走り」が残る現在破壊の真っ最中で教育委員会は保護するつもりが無い貴重な城跡で歴史史跡。

釈迦堂切り通し
鎌倉市浄明寺地区にある鎌倉時代の貴重な美しい隧道形状の切り通し。
落石を名目に通行止にしたまま、県民の目に触れさせない状況に置き、教育委員会が保全を怠っている。

笹下城址
横浜市最大の城域を誇った城郭史跡だが、教育委員会が調査も保護も行わないので三井不動産レジデンシャル、野村不動産、竹中土木等のディベロッパーにより最後のトドメを刺す残存部も地形破壊の真っ最中。
また、城主間宮家は鶴ヶ丘八幡宮再建や佐渡奉行但馬奉行として金山銀山開発も務め、その他県にある佐渡金山などは歴史史跡に成っている。
間宮家子孫には間宮士信、間宮林蔵、一族に杉田玄白などがおり横浜市民はおろか日本国民にとっても重要な文化貢献をした一族でもある。笹下城址は非常に深い歴史意義を持つ城址であった。

以上、笹下城址完全破壊開始の速報でした。

次回は国家「君が代」発祥の御寺を紹介します!
では、又、次の記事で!

ブログネタ
七夕の思い出を教えてください! に参加中!
7月は七夕祭りの季節ですね~♪
神奈川県では日本三大七夕祭り一つ、平塚市の七夕祭りが有名で毎年数万人の観光客で賑わいました。
…もっとも近年は昔ほどお客さんが集まらないみたいです。
人が定住しなくなり、神社や御寺が生活に身近なものでは無く成って来たからですかね~?
昔は町々の神社や御寺も沢山氏子さんや檀家さんがいて、年中行事の御祭りや神事仏事を皆で行い、伝統文化を伝えると同時に子供達は御小遣いを貰って縁日で買い物をしたり楽しい事が沢山有ったんですがね~。
…お祭りが減って行くのって何だか寂しいですね。

横浜市磯子区の屏風ヶ浦と汐見台地区の境界に森浅間神社と言う古い神社が在ります。
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住宅街と団地の間、昔海岸だった段丘の中腹(ちゅうふく)に下社、丘の上の汐見台地区に本殿を持つ、神社が在ります。
歴史は非常に古く鎌倉時代、源氏の本拠地だった鎌倉市の亀ヶ谷(かめがやつ)と言う地区に在った亀ヶ山福禅寺と言う御寺に源氏の守り神(仏:当時は神道と仏教は融合していた)の不動明王を祀る権現堂が有りました。
※源氏の本拠地の亀ヶ谷については以前の寿福寺の記事ココ 」←クリック!

その権現堂の和尚様の幸蔵坊長慶比丘が建久8年(西暦1197年)に源頼朝公の請願により富士山浅間大社から此花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと=素戔嗚命の奥さん)の分霊を勧進し浅間神社を創建したのが、この森浅間神社の由来です。
鎌倉時代末期には、新田義貞が鎌倉幕府に鎌倉市西側の稲村ケ崎から攻め込んできた際に、最後の鎌倉幕府将軍の守邦親王(もりくにしんのう)が、この森浅間神社の在る旧久良岐郡森村に逃げて来られたそうです。
その際に薬師如来像も戦火に遭わないように守邦親王により森浅間神社に移され、此花咲耶姫命の御霊と共に以後御神体として御祀りする事に成ったそうです。
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昔海だった屏風ヶ浦地区から丘を登ってくると中腹に上の写真の森浅間神社下社が在ります。
久良岐の丘づたいに汐見台地区側からも丘の上から来られます。
しかし、どちらから来ても、本殿と下社両方御参りするには長い参道の階段を上り下りしないといけません。
では、なんでこんな急な丘の場所に頼朝公が神社を創建させたかですが…
それは源氏が山岳信仰の御一族であった事と関係が有ると思います。 2015-06-10-11-22-13
面白い事に、下社には明治まで近隣に存在した神社の神様が合祀されていて、そこに浅間神社の神様の此花咲耶姫命の御夫神様の素戔嗚尊が祀られています。
…奥さんは本殿にいるので、なんだか尻に敷かれる現代の日本人男性の様な構図ですね。

所で森浅間神社を開いた幸蔵坊長慶比丘の御寺、鎌倉の権現堂は不動明王をお祀りしていました。
不動明王を御祀りする宗派は仏教の真言宗や修験道(しゅうげんどう)に多く、何(いず)れも山岳信仰の側面もある宗派です。
鎌倉の権現堂は福禅寺と言う名前で「禅」の字が含まれているので、禅宗の臨済宗なのでしょうか?
或(あ)いは、広島県の鞆の浦にも福禅寺と言う御寺が在り真言宗なので、やはり真言宗なのかも知れません。
鎌倉の権現堂は明応年間(1490年代前後)に廃寺に成り、この森浅間神社に本山格としての機能移転されて解りませんが、近い内に図書館で新編武蔵風土紀稿の森浅間神社の別当寺だった泉藏院の項目を調べて後日追記します。

そんな訳で、創建者が山岳信仰と関係が有る権現堂の僧侶幸蔵坊長慶比丘なので、源頼朝公は彼に依頼し富士山の権化として信仰された此花咲耶姫命の御霊を富士浅間大社から分霊したのだと思います。
何で富士山の神様を勧進したかと言うと、頼朝公は信仰から来る登山マニアで、当時登山グッズなんか無かった時代に富士山の山頂まで御自身で登頂された挙句、富士山の火口を一周されたりしています。
そして富士山の神様、此花咲耶姫命の御父神様の大山祇神の権化とされる神奈川県大山にも登り、大山阿夫利神社を参拝されています。
大山阿夫利神社の記事は「ココ 」←クリック!
山岳信仰の対象で修行場でも在っただけあり、参道の階段は本当にキツイです… 2015-06-10-09-05-43
この写真だと伝わりませんかね?
では地形を見て見ましょう…
森浅間神社地形
すんごい崖でしょ(笑)?
この崖上の丘一帯を久良岐(くらき)の丘と呼び、神話の時代に日本武尊(やまとたけるのみこと)が訪れた地域なんです。
そして、この崖直下の屏風ヶ浦の海は神社の神事に欠かせない海産物の海鼠(なまこ)や鮑(あわび)が豊富に獲れる恵まれた海だった事もあり佐賀牟(さがむ=武蔵国と相模国に分割される前の地域名)国の内乱、佐賀牟国造(くにつくりのみやつこ)の乱の後に天皇家の直轄地の屯倉(みやけ)となり、倉巣屯倉として古事記にも登場する場所でもあります。
古くからの景勝地で、豊かな漁村だった訳です。
…今では海は埋め立てられ面影は有りませんが。

実際、頼朝公と頼朝公の御先祖様の源義家公を含めた河内源氏の一族は山の神に対して非常に強い信仰心を御持ちだった方々で、義家公は方々で蔵王権現と言う神仏習合の神様の御社を創建されたり再建されています。
※義家公の蔵王権現信仰については「滝山街道古道の記事リンク 」←クリック!
※義家公の八幡神信仰については「杉田八幡宮記事リンク 」と「世田谷八幡宮記事リンク 」←クリック!

源氏には山岳信仰の伝統が有ったからこそ、この昔は久良岐郡と呼ばれた地域の中の更に屏風ヶ浦と言う景勝地だった断崖の切れ間のなだらかな部分に富士山の神様を祀ったのだと思います。
そして、この森浅間神社は…
ずっと海岸が長い断崖絶壁に囲まれた久良岐の丘の、数少ない船着き場を設けれる地点で有ったので、鎌倉幕府の陣所も設置された訳です。その場所が現在の京浜急行屏風ヶ浦駅辺り「汐汲(しおく)み坂」と呼ばれる辺りで、この一帯は海面の高かった縄文時代も海に下りれる貴重な通行の要所だった様です。
その証に、汐汲み坂の上の汐見台地区には縄文~弥生時代の史跡や港南区最大の古墳等の史跡が大量に在りました。
もっとも例によって神奈川県と横浜市の教育委員会の必殺技「開発幇助の為の史跡不保護」がここでも炸裂し、港南区最大の古墳すら宅地化され破壊されて残っていませんが

少し、屏風ヶ浦の位置関係を見て見ましょう…
森浅間神社位置関係
…京急屏風ヶ浦駅から丘に延びる緩やかな長い裾野が汐汲み坂です。
そして丘陵地帯以外の平地は全て昭和初期まで海でした。
この屏風ヶ浦湾でとれる海鼠は、明治時代まで清帝国向けの輸出用に干しナマコとして出荷され、品質の高さで有名だったそうです。

さて、森浅間神社そのものに話を戻します。
先程の長い参道の階段の他に、久良岐の丘の方から回ってくる汐見台団地の中からの迂回路の参道も有ります。
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ただ、この神社は上にも下にも駐車場が無いので、屏風ヶ浦駅から徒歩5分と近い事も有り電車での参拝を御勧めします。

参道を抜けると、ひっそりとした場所に在る神社にしては期待以上に素晴らしい本殿です。
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そりゃそうですよね、頼朝公直々の命令で創建された神社ですから。
鳥居の右手には手水舎と、神社の由来の説明看板が有ります。
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手水舎も立派でしょう?
それ以上に石灯籠も立派でした!
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そして、狛犬君達も立派です。
江戸時代位の狛犬ですかね~?詳しい事は判りません。
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因みに、この浅間神社の宮司松本家は歴代笹下城跡の出城松本城址に建っている天照大神宮の宮司でもあります。
家紋も笹下城主間宮家と同じ。
恐らく、戦国時代には間宮家の被官として活躍されたのでしょう。
間宮家の系図にも松本姓の分家が登場しますので、この松本家は恐らく笹下城主間宮家から江戸時代に養子を迎えるか御姫様を御嫁に迎えているはずです。
※笹下城主間宮家については「ココ 」←クリック!

屏風ヶ浦付近に他所から引っ越してこられた方々には、恐らく近所にこんな立派な神社が在る事を御存知の方も少ないんじゃないでしょうか?
是非!お近くの方は御散歩されてみて下さい!

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう!

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