歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:鎌倉時代

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成人したら選挙権貰えますよね?
それは緑地保護や文化財保護をする政治家を選ぶか、破壊する無文化政治家を選んでしまうか、成人する事で責任が発生すると言う事でも有ります。

悪い例が今の横浜市に有ります。
金沢文庫の文化財の腐食を進行させてしまったり、前代までの歴代市長が保護してきた横浜市内各地の緑地や桜並木を今の横浜市長が緑地売却や街路樹伐採をさせています。
関連記事は「ココ」←クリック!

これらの緑地売却や史跡の破壊例として、それはそれは無残に破壊された城址の例があります。

横浜市保土ヶ谷区今井に今井城と言うお城が有りました…
細郷道一と言う1978〜1990年まで横浜市長を務めた方が在任中に保護を試みた城址です。
しかし郷土愛の無い最近の市長が保護を怠って業者に破壊され、史跡はほぼ消失してしまいました。
現職横浜市長林文子氏は今井城址残存部の保護を完全に怠っています。

鎌倉〜室町の城址保護と地域民鎮護の為に、先人が建てて守って来た稲荷神社の鳥居でさえ、こんな無残な有様(ありさま)です。
実は、今井城址だけで無く今正に現職横浜市長に潰されようとしてる史跡や緑地公園があります。
横浜市港南区〜栄区〜金沢区〜鎌倉市にまたがる瀬上池周辺緑地〜上郷市民の森〜金沢市民の森が現職の林文子横浜市長に宅地開発容認されているんです。
横浜市は中田市長の時代から緑地公園整備の税金を徴収開始しているのに矛盾していますね?
あれ?
何か緑地公園整備の税金徴収と現職横浜市長のやる緑地公園破壊政策は矛盾だらけですね…

さて今井城址と細郷市長に話を戻します。
細郷元市長は横浜市営地下鉄の建設、みなと未来21地区の商業利用、文化史跡と緑地を保護した港北ニュータウン建設を成功させた名執政者でした。
ですから、緑地公園や文化財と史跡の保護にも写真の石碑の通り熱心に取り組まれました。
以前の細郷さんをはじめ歴代市長が、この様に石碑を建ててまで保護した場所を、林文子横浜市長は無視して風化させているんですね…

しかしここ今井城址、実は非常に歴史的に価値のある文化財が出土している場所なんです。
梵字の書かれた石碑ですが、この種の物は鎌倉時代に武士により盛んに造られ、鎌倉市ならば重要性が理解され大切に保管されます
しかし林文子横浜市長はこの史跡の重要性が理解できないんでしょうか?
さすが金沢文庫収蔵の重要文化財をカビさせただけありますね。

で…
今井城址を守ってきた稲荷神社の参道もこの有り様。
最早荒れ放題。

この現職市長が保護せず放置した参道を通り倒れた鳥居の先に有る、もう一つの階段の上の鳥居をくぐると先程の文化史跡や細郷元市長が題字を書いた石碑が有ります。

稲荷神社付近は堀切かな〜?と、思う様な地形は有りますが…
…わかりません!
もうね、破壊されすぎて原形無さ過ぎだろ(怒)!
何やってんの今井城址付近住民。

ただ、一つだけ城の施設跡と思しき地形が…
この土建屋の資材置き場と奥の畑の間には堀切の堀底道と思しき道路があります。
…まぁ伝承も無いしわかりませんっ(怒)!

こんなに荒れ果てた今井城址ですが、恐らく初代城主は源平合戦頃の歴史的には恐ろしく有名な名将が勤めていた様です。
それは源平合戦を書いた物語がわからない部分を創作で粉飾していた事を立証してしまう、とても重要性が有る場所なんです。

城主と伝わる今井四郎兼平公とは、旭将軍と言われた木曽義仲こと源義仲公の参謀であり義兄弟の様な存在でもある人物で、源平合戦の物語でも名将として描かれています。
ただ、作中では木曽義仲公が源義経公の討伐軍に討たれた際、後を追い自害したとされています…
が!
平安時代の武士は自害は一般的にしません。
そして木曽義仲公の側室(そくしつ=本妻以外の妻)の巴御前も鎌倉幕府に降伏し、後に和田義盛公と再婚したりしています。
平安武家文化は責任を最高責任者がとる文化だったので、将棋の様(よう)に有能な人材は戦が終わればちゃんと評価し登用するか、死ぬ迄お互いの正義の為に戦ったんですね。

巴御前の再婚した鎌倉幕府初代侍所別当(さむらいどころべっとう=防衛大臣)の和田義盛公の築いた城は全て交通の要衝に在(あ)りました。
例を挙げると…
●怒田城…かつての軍港で海上交通の要衝。横須賀市吉井〜船倉一帯。
●野庭城…鎌倉幕府の拠点として築いた城で古鎌倉街道と古東海道を抑えている。横浜市港南区野庭一帯。
そして…
今井城址も交通の要衝に在ります。
つまり鎌倉時代の築城が開始された街道の真横にある城そのものなんでくね。
佐々木高綱公の関東での居城跡の横浜市港北区鳥山八幡も正に同じ様に旧街道を城下に押さえています。
※佐々木高綱公の鳥山八幡の記事は「ココ」←クリック!

これは想像でしか無いのですが、恐らくは木曾軍敗退後、そもそも源氏同士の合戦ですから今井兼平公や巴御前は旗頭の木曾義仲公の死亡により朝敵ではなくなり、源頼朝公に降伏したのではないかと思います。
そして重要な事なのですが、平安武家には主従の概念は無くあくまで"盟友"か、親族集団の概念しかありませんので、盟主の為に切腹はしないのが当時の武士の価値観です。
この価値観は関東武士の代表格である鎌倉景政公を祀る御霊神社の方が教えて下さいましたし、頼朝公没後の三浦家や他の武士団の動向を見ても整合性が有るんですね。

そんなこんなで、今井城址は源平合戦の物語で創作され語られていない部分を補填する史跡かも知れない訳です。

こんなに重要な史跡や横浜市栄区の瀬上池が破壊されつつ有るのは、今の林文子横浜市長を当選させた有権者にも責任があるんです。

ですから、今回はたまたま緑地公園や史跡の破壊を問題にしましたが…
成人したのに選挙に行かない人は「人として色んな方面で無責任な人間」と言う事ですよ!
…と、言うお話でした。

あ、以前、記事にした消え行く史跡の一つ横浜市港南区〜磯子区にまたがる笹下城址ですが…
※笹下城の記事は「ココ」と「ココ」←クリック!
宅地造成する部分の開発者が野村不動産様と判(わか)りました。
顕彰活動に貢献して頂けるか、歴代間宮家の関わった寺社仏閣の宮司様、御住職様と注視しています。

では、皆さん、又次のブログで!
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深見城と言うお城が大和市深見にありました。
大和市の教育委員会グッジョブ!
…と言いたくなる程、自然のままに保存され、かつ、ちゃんと調査もされています。
ちゃんと現地には調査結果判明した縄張図(なわばりず=城施設の設計図面)もあります。

衛星写真だと右側の川沿い、浄水場横の森が深見城址です。
別名一ノ関城址。

しかし、小生が思うに、この区域以外に写真左手に広がる森の中にも城の郭と思える地形がちらほらありました。 

こことかね…
深見城址の「一ノ関城址」と言う別名からすると、「ニノ関」「三ノ関」も付近に有ったのかもしれませんね?

何せ上の写真の深見城址の一部…
昭和に横の境川の河川工事が行われるまで現地の方々に利用されていた「天竺坂」と呼ばれた空堀の堀底道で、鎌倉古道と十字路を形成した街道沿いの城でしたから、関所が何個か有って可笑しくはありません。

で、下がその天竺坂空堀
昭和初期まで人の往来が有ったんですね…
なんかトトロが出そうな多摩丘陵の風景そのもの。
右の盛り上がりは城の曲輪(くるわ=防御施設)の一部ですよ〜。
ちゃんと方形に削られてるのが言われたら分かるでしょう?

でも、城址公園化はされていないので、空堀や曲輪は土に還った木の葉に埋もれ浅くなり、余り城址を見慣れてない人には自然地形に見えても可笑しくはありません。
しかし、よく見ると土塁跡の盛り上がりは平面的には直線と折れ曲がりで構成されているのが分かるはず。
判り難(づら)いかな(笑)?

でもね、破壊しない代わりに手を加えず掘り返さないのも、立派な史跡の保護なんです。

勿論…
八王子市の滝山城や、横浜市港北区の小机城と都筑区の茅ヶ崎城の様に綺麗に当時の姿を発掘復元し、土の流出止めの芝生を植えて公園化する事が理想なんですが…
コレはコレで大和市教育委員会は史跡破壊がお家芸の神奈川県の中にあって、類い稀な、かなり良い仕事をなさってるんです。
完全調査→保存。
調査すらされないで破壊された史跡ばかりですからね、神奈川県。
大和市は外国人移民が多い代わりに郷土史も大切になさってるみたいですね。

さて、この城址、室町時代初期築城と伝わっているそうですが室町時代後期の戦国時代初期にも改良の手が入っているようです。
縄張的に。

室町初期時代築城と言うのは間違いでは無いと思いますよ!
何故なら…
付近に八雲神社が有りましたから。
城との位置関係はこんな感じ…
航空写真の深見城址の森の一番左手の下

この部分
恐らく、深見城址の一番外側か出城がこの辺りだったと思うのですが…
何で八雲神社が有ると室町時代初期築城かと言いますと…
古来武士は氏神様を自分の領地に勧進(かんじん=神社をまつる)する習慣が有りました。
この八雲神社や出雲系の神様を祀る習慣が有った関東の武士は有名な一族です。
坂東八平氏ですね。
八坂神社、浅間神社なんかも祀っていたようですし。
彼等が関東で活躍したのは平安時代末期〜戦国時代初期までです。
だから八雲神社の存在的にも城の縄張り的にも室町時代初期に築城と言うのは整合性があります。
平安時代〜鎌倉時代の城の大半は崖の急峻な大きな丘や山上に造られた山城ばかりでしたから。
この深見城址は平城です。
もしくは川の対岸から見ても平山城と辛うじて言えなくも無い程度。
城主は山田何某と伝わりますが、坂東八平氏のいずれかの子孫なのかな?
室町時代初期に関東にいた武士は平安時代に神奈川県旧鎌倉郡から関東に散らばった一族が多数で他所から来たのはごく一部です。
異なる家系で有力な武士は藤原秀郷子孫の一族と、在原業平子孫と大江氏の一族くらいかな。
城跡と近所の八雲神社との関連を考えると坂東平氏系鎌倉武士後裔のはず。

まぁ、こんな説明をするまでもなく、鎌倉時代、この大和市や付近の相模原市や愛甲郡や厚木市には沢山有名な武士が居ましたから。
隣の相模原市には大江広元公の子孫で戦国大名毛利元就の祖先の毛利季光公や三浦氏族津久井氏と大江氏族津久井氏。
厚木市には那須与一公と双璧を為した弓の名手で畠山重忠を討ち取ったスナイパーの愛甲季隆(あいこうすえたか)公がおり…
横浜市港北区烏山には名将佐々木高綱公の居館があり(記事リンク→「ココ」)…
川崎駅前には佐々木定綱公の居館がありましたからね。

皆さんのお家の御近所にも、必ず殿様が住んでいた筈(はず)です。
地元に殿様が居たって何か誇らしいですよね!

皆さん、何で御近所にこの神社やあの御寺が有るんだろう?
…とか、少し調べてみて下さい。
きっと、いつの時代かの殿様が勧進した神社や御寺が有ると思いますよ!

では!又次回!
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