歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:間宮信繁

皆さんは京急杉田駅で電車を降りた事が有りますか?

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伊勢佐木町や横浜橋商店街程の規模は有りませんが、近くにはIHIや東芝、ヤマト運輸や日本飛行機、そして横浜南部市場が在り、多くの仕事帰りのビジネスマンと労働者が立ち寄る飲屋が存在する商店街で規模以上に通行人と飲食目的の客で賑わっています。
又、杉田商店街の属す横浜市磯子区はベッドタウンとしても発展したので精肉店、御茶屋さん、弁当屋さん等、庶民の台所を支える昔ながらの店舗も元気に市民生活の支えと成り商店街を構成しています。
実はこの杉田商店街、現在でこそ一般的な商店街ですが元々は東漸寺と言う大寺院の境内で古来開かれていた六斎市(月に6回開かれる市場)が起源に成っている事を地元の政治家や横浜市教育委員会の職員にも知る人は多く有りません。
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東漸寺は立派な釈迦堂が在りますが、これが❝昔の東漸寺時代の本堂❞でして、現在の東漸寺の本堂は・・・
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霊桐山 東漸實際禪寺 塔頭(たっちゅう) 真楽庵
東漸寺釈迦堂の右隣の不自然な位置に存在しています。
こはれ明治時代の廃仏毀釈で仏教が弾圧されたせいで、❝霊桐山 東漸實際禪寺❞と言う大寺院を運営していた周辺の塔頭寺院(大寺院の支院)の一つ、真楽庵(しんらくあん)に運営が委託され他の塔頭寺院は明治政府により潰され土地開発の為に接収されてしまったので、本来の東漸寺本堂たる釈迦堂ではなくて塔頭だった真楽庵が東漸寺を名乗らざるを得ない状況に陥り現在に至る訳です。
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現在も厄除け地蔵様が駐車場に鎮座していますが、本来は現在の3倍超の境内地を有していた頃に、この御地蔵様の前で市場が開かれたそうです。
そして人が定着し、やがて戦国時代に成ると間宮林蔵や杉田玄白の祖先である間宮信盛公が川崎駅前の堀之内から杉田に本拠地を移し、間宮家が東漸寺や杉田一帯の神社仏閣を支援し武士達と商人職人が定着し町の基礎が確立されていった訳です。
東漸寺は以前に解説記事を書いているのでもし興味が有れば下のリンクから記事を御覧下さい・・・
杉田の元大寺院の東漸寺(とうぜんじ)と、鎌倉時代に御寺を開いた名越北条家と戦国時代に御寺を支援した間宮家。←クリックで読めます。
それと横浜市教育委員会の東漸寺に対する解説は誤りが有るので一個人ですが小生が歴史オタクとして訂正して置きます。
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東漸寺は鎌倉時代開基の御寺では有りません。
前身寺院は鎌倉時代以前に天台宗として開かれており、境内には石塔も現存しています。
その天台宗寺院を名越北条宗長公が鎌倉時代正安三年(西暦1301年)に禅宗臨済派の寺院として釈迦堂を建立し改宗させて現在に至るので、1301年の出来事は❝中興❞と言うべきなんですね。
さて、東漸寺は以前に解説も書いているので今回は詳しい解説は触れず、商店街の老舗と新しく可愛い御店の紹介、そして江戸時代に殿様が住んでいた場所である解説に移りたいと思います。
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杉田商店街を新杉田駅京急杉田駅側から入ってくると上の写真の場所に出ます。
さて商店街のアーケードに❝杉田❞と書いて有るので少し地名の解説をしたいと思います。
杉田の地名はそもそもは杦田(すぎた)と書きましたが、歴史学者でもこの杦(すぎ)の字を知らず古文書で❝松❞と誤読し❝松田❞と間違って書いてると馬鹿にする人が居たりしますが、実は馬鹿にしている御本人が❝杦田❞の正式な字を御存知無いだけなんですね。
これは、その学者さんが悪い訳では無くて明治~昭和初期に活版印刷で複製刊行された史書の編纂に携わった国の御役人のミスでしょう。
字の意味は同じなので、現代の字体では杉田で統一しているだけと認識した上で本来は杦田と書くと知っていれば良いだけです。
実はこの商店街のメインストリート、昔は川だったんですよ!
迅速測図 杉田周辺 久良岐のよし
これは迅速測図と言う明治初期に作られた測量地図の杉田周辺の様子です。
地図の右端に杉田が登場し❝杦田村❞と標記されています。そして、そこには東漸寺が記載されているので現在の杉田商店街の目標物にも成りますね。
もう少し拡大した画像を見て見ましょう。
迅速測図 東漸寺周辺 久良岐具のよし
東漸寺の右側には道とは違う海へと続くL字にクランクした川が流れているのが判るでしょうか?
見ずらいので川の部分を書き加えて見ましょう。
迅速測図 東漸寺周辺 久良岐具のよし
ではこの測量図は精密ではないので、日本城郭大系に掲載された聖天川の位置を現代の衛星写真に当て嵌めて見ましょう。
聖天川と杉田間宮陣屋位置 久良岐のよし
この通り、現在の杉田商店街入口が江戸時代の船着き場で、現在の新杉田駅は海の底だった事が解ります。
そして商店街のメインストリートは❝鳥メロ❞の辺りまで真直ぐに海から船が入って来て、そこから先が水堀として間宮信繁公の邸宅=杉田陣屋まで船で出入り出来る構造に成っていた事が解ります。
間宮信繁公は徳川幕府初代将軍徳川家康公の直臣であり参謀を務めた旗本で、更に初代の徳川幕府鷹匠頭を務め隠密行動も得意とした人物でした。実は関ヶ原合戦で徳川軍が勝利したのは間宮信繁公と、その同族の近江源氏黒田長政公の御二人の諜報活動と策略による活躍が大きく起因していました。
以前、間宮家の事績を簡単にまとめた記事に間宮信繁公の事も解説しているので御興味の有る方は以下の記事リンクをクリックして御覧下さい・・・
間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績←クリックで記事へリンク!
・・・そんな凄い間宮信繁公の邸宅跡は横浜市教育委員会が保護を行わなかったので、信繁公や間宮一族が造営した日本屈指の大梅林❝杉田梅林❞とともに消滅してしまいました。
間宮信繁公と御子孫の杉田間宮家の陣屋址には今は個人宅が並ぶ住宅地と成っていますが、道に名残を見る事が出来るので行き方を少し説明します。
先ず、新杉田側から杉田商店街に入ってくると左手に日高屋の横に❝居酒屋串まる❞の看板の小道が在ります。
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そこを入って下さい。
そこから暫く進むと野本園と言う御茶屋さんが在ります。
Googlemap 杉田間宮陣屋址 久良岐のよし
その野本園を左折すると、その道が海へと続く聖天川を引き込んだ杉田間宮陣屋=間宮信繁邸址の外堀の役目を担っていた聖天堀を暗渠化した川の跡です。
余談ですが、この野本園の御一族は恐らく鎌倉時代以来の名士で、金沢区富岡や杉田一帯に勢力を持っていた武士の御子孫に当たるはずです。御本人達が現在その事を御存知かは知りませんが、金沢区並木~富岡~杉田界隈は昔は野本家の領地でした。そして上司は状況的に記事冒頭で紹介した東漸寺を再興した名越北条宗長公の名越北条家だったでしょう。

話を杉田間宮陣屋に戻します。
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陣屋の跡は全くないですが、聖天堀の跡は住宅道路として残っていて、上の写真で手前の右から左に抜ける道と丁字に交差する白い軽自動車が走っている隘路(あいろ=狭い道)が聖天川から引き込まれた聖天堀の跡です。
武家屋敷の水堀の跡だから、暗渠化しても狭い道路のままなんですね。
さて、ここに住んでいた間宮信繁公に関する事は新編武蔵風土記稿や後北条所領役帳等の文献に記録が残っています。
【後北条所領役帳】
御馬廻り衆(北条氏康公近衛部隊)
一 間宮藤太郎
  五拾五(55)貫文 東漸寺分
  拾五(15)貫九百四拾六(946)文 同所壬寅増分
  以上七拾(70)貫九百四拾六(946)文

こはれ杉田間宮家の1559年迄の所得を示した記録で、当時の間宮家が仕えた北条家では100文銭=米1.4斗としていましたので、杉田間宮家の所得を計算して見ましょう。
1貫文=1000文 100文=米1.4斗 1斗=米15kg(現代) 米1kg=400円前後 
70貫946文=70946文
70946文=米993.244斗=米14898.66kg=5,959,464円
さて、杉田間宮家の1559年時点での収入は現在の年収に換算すると600万円弱と公務員と同じ位の現実的な夢の無い金額に成ってしまいます。しかしこれは1559年時点の話で当主は間宮信繁公でも無ければ当時の間宮本家は港南区笹下の笹下城主間宮康俊公698貫122文でしたので、時代的に1559年時点では杉田間宮家の当主は間宮信繁公の御父君の信忠公の世代に当たり、あくまで杉田間宮家は分家して2代目なので当然ながら所得も低かった訳です。

これが間宮信繁公が当主だった安土桃山時代に成ると様子が変わって来ます。
【新編武蔵風土記稿 久良岐郡 杉田村の項】
舊(旧)跡陣屋蹟
~冒頭省略~
北条氏に仕えて小田原水尾城を預かりて忠功あり(この時点で城代を任せられている)、文禄元年壬辰東照宮(徳川家康公)に召出され、舊領の内杉田中里村五百石の録を賜り、御使番御鷹方兼務む、慶長十五年正月十五日、武蔵国久良岐郡杉田村の内五百石、三河国碧海郡上條村七百石、近江国伊香郡の内五百石、合計千七百石、充行詑全可領知者也との御朱印を賜はる
~以下省略~
つまり間宮信繁公の代に成ると、徳川家康公の参謀や鷹匠頭として活躍した功績によって1700石に加増されている事が解るのですが、では1700石がどれ程の収入か計算して見ましょう・・・

1石=米150kg 米1kg=400円前後 間宮信繁公の総所得=1700石=米255,000kg
255000kg×400円=102,000,000円

・・・つまりですね、鷹匠頭と成った間宮信繁公の基本所得は現在の日本円に換算すると1億2百万円に跳ね上がってる訳です。そして鷹匠の奉行である鷹匠頭を務めたので当然ながら役職手当も有りましたが、鷹匠頭の役職手当は不明です。
例えば専門職の奉行で腰物奉行と言うのが有り、それは幕府の刀剣類を管理する部門の奉行職でした。
この管理職手当が米400俵でした。
1俵=60㎏ 60kg×400円=24,000円 400×24,000円=9,600,000円
鷹匠頭と同じ専門職の腰物奉行を参考にすれば960万円位の役職手当てだったかもしれません。
すると間宮信繁公の年収は・・・1億1千2百万円!とんでもない収入ですね。
無論、ここから約50人の兵隊を編成できるだけの武具を買い揃えないといけないので全部が全部生活に使って良い御金では有りませんが、基本的に奉行職に関しては与力が幕府から派遣され自分の所得から人件費を支出する必要は有りませんでした。
戦国時代に間宮本家から分家してから間宮信繁公は徳川家康公に信頼されて大変な出世をしているのが解ります。
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実は間宮信繁公の御姫様は久能山東照宮の初代大宮司と成り従二位の位を授かった榊原照久公に嫁いでいます。この事からも幕府内で旗本ながら杉田間宮家が高い地位を得ていた事が解りますね。
因みに本家の笹下城主間宮家の安土桃山時代の当主、間宮直元公は更に出世していて本牧奉行(横浜市長)、但馬奉行(朝来市長兼生野銀山社長)、佐渡奉行(佐渡市長兼金山社長)を兼務し、その所得は実に8億6400万円にも上りました。
杦田梅林 久良岐のよし
さて、そんな間宮信繁公が力を入れたのが梅の植林で、これが実は昭和初期まで横浜の特産品で関東で最高品質の梅として江戸で流通した❝杉田梅❞と成りました。昭和初期まで梅林は存続し、江戸時代を通じて江戸からのクルージングで旅行に来る多くの観光客で賑わい、船で杉田商店街入口に有った聖天川の船着き場で観光客は下船してから杉田梅林を観光しました。明治時代には明治天皇と皇族が杉田梅林まで観梅に行幸された程でした。
その梅林は横浜市教育委員会と神奈川県教育委員会が保護を怠り消えましたが、実は今現在(2018年2月22日現在)見頃を迎えている小田原市曽我梅林に大規模移植され存在しています。
曽我梅林 久良岐のよし撮影
曽我梅林
曽我梅林からは富士山も綺麗に見る事が出来ます。ここのブランド化に成功した曽我十郎梅は実は杉田梅を親木として品種改良された梅ですが、今でも杉田梅の広大な梅林も残されています。

一方杉田でも杉田商店街の中に今でも当時の杉田梅の文化を守る菓子一と言う和菓子屋さんが営業しています。
今回、「ブログ復帰の第一弾の記事を何にしようかなぁ~?」と考え思い付いたのが間宮家顕彰の原点でもある杉田間宮家の殿様の紹介で、そして一緒に殿様の商店街の菓子一サンの事も書きたいなぁ~と思い付き改めて御店に写真を撮影に行って来ました・・・
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菓子一
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この御店の御店主は老舗らしく杉田の文化にも御詳しく、そして商品にも昔からの文化を大切に取り込み残す努力をされていらっしゃいます。
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もし杉田梅に興味の有る読者の方がいらっしゃったら、折角の梅の季節なので曽我梅林や杉田商店街の菓子一サン、そして杉田梅を復興されようとされている杉田の牛頭山妙法寺の松本住職様を訪ねて見て下さい。妙法寺には間宮信繁公の御廟所と、御寺の山には松本住職様が復興の試みている杉田梅が植林されています。

この他にも今回は店の写真を撮影できなかった色んな個人店が杉田商店街には有ります。
おにぎり屋サンとか沢山の居酒屋も有る。
そして少し裏道を歩けば臨済宗鎌倉五山関東十刹第七位の格式を持つ東漸寺さんや・・・
源頼朝公が開いた熊野神社こと泉蔵院さん。
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熊野神社=修験道 大霊山 泉蔵院 桐谷寺
横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。
※以前書いた記事⤴
杉田間宮家陣屋址の堀の名残りの道路、杉田間宮家の杉田梅が有り巨大な御廟所もある牛頭山妙法寺も近い。
牛頭山 妙法寺
2015-01-21-13-16-37
妙法寺…日本武尊神話の有る後北条重臣間宮家の菩提寺…横浜市磯子区杉田。
※以前書いた記事⤴
杉田には色んな歴史偉人と関わる場所が有って、買物を終えて町のメインストリートを少し離れると家と店の只の往復からとても有意義な散策に変化して時間をユックリと楽しむ事が出来ます。

皆さん、是非、杉田商店街周辺、散策してみませんか?きっと有意義な時間が過ごせますよ!
では、又、次のブログ記事で御会いしましょう!











・・・次は間宮家の上司の玉縄北条家の御殿様の事を書こうかな。











皆さんは杉田駅と新杉田駅の真ん中辺りに大きな御寺が在るのを知っていますか?

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その御寺の名前は東漸寺(とうぜんじ)と言います。
実は江戸時代まで“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を有した横浜市内では貴重な、とても寺格の高い御寺でした。“禅宗臨済派”と言うのは現在の臨済宗の事ですが、昔は禅宗は臨済宗も曹洞宗も分離しておらず派閥が違うだけと言う認識で幕府からも扱われていたんですよ~。
同じ様に浄土宗も日蓮宗も時宗も“法華宗”の派閥として認識されていました。昔は派閥同士も喧嘩するのではなく別の修行をしていても協力し合って共存していたんですね。
さて、東漸寺の正式名称は…
靈桐山(れいどうさん)東漸寺と言います。鎌倉幕府を開いた源頼朝公の甥っ子の名越北条朝時公の曾孫(ひまご)に当たる北条宗長公が開いた途轍(とてつ)も無く由緒正しい御寺なんですが
…え?こんな写真の立派な門の有る大寺院なんかアソコ等辺りに在(あ)るの?ってのが普通の横浜市民の一般的な反応だと思います。
何で、こんな立派な門なのに目立たないかは、後の解説を読んでいただければ理解出来ると思いますが、先にヒントを言うと明治政府の宗教政策の失敗のせいと、GHQのせいです。

東漸寺の解説をする前に少し鎌倉市浄明寺地区の話をすると、この御寺の凄さが良く解ると思いますので先に名越北条家と鎌倉の話を簡単に解説します。
先程も書きましたが名越北条家は源頼朝公の甥っ子の家系です。なので当然、鎌倉幕府初代執権の北条時政の血を継いでいます。
その北条時政が住んでいたのが鎌倉市浄明寺地区の衣張山一帯に在った“名越邸”と呼ばれる邸宅でした。邸宅とは言っても立地的には半(なか)ば城砦の様な機能を周囲の地形が果たしており、その傍らには“釈迦堂の切通し”と呼ばれる鎌倉を代表する景勝地が存在しています。
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現在、鎌倉市はアホの左派市長の執政下で劣化を補修も保全もせずに落石を発生させてしまった挙句、これ幸いと落石を言い訳に交通封鎖してしまい一般市民の通行を遮蔽し阻害しています。その結果、人の往来が無くなってしまい逆に植物が茂り放題茂りだして釈迦堂切通しの劣化を加速させる事態を巻き起こしてしまっています。
この釈迦堂切通しの洞門の上部には門を固定する材木を通したであろう穴が岩盤に穿(うが)って有るので、ここが名越邸の城門の役割を果たしていたのでしょう。
名越邸と釈迦堂切通しと衣張山の位置関係 久良岐のよし
この釈迦堂の切通しを含めた山が衣張山で、その山腹に名越邸が存在していました。
北条家は源頼朝公の相模川での死没後(恐らく北条時政と稲毛重成による暗殺)に執権と成り鎌倉幕府を乗っ取ってしまいます。北条時政は源頼家公への謀反が事前にバレて追放されますが、その子の北条義時公が結局は二代目の執権と成り源氏にとって事態は悪化しただけでした。
この北条義時公には特に有力な跡継ぎ候補がいて…
北条朝時公

北条頼時公
…の二人が別格の扱いを受けていました。
この内、名越北条家の祖先は北条朝時公です。母親が比企(ひき)家の姫で絶世の美女でしたが、比企家と源頼朝公の関係は密接だったので当初は北条朝時公が後継者候補かと思われていました。
対して北条頼時公は特に源氏と血縁的な深さは北条朝時公程深くは有りませんでした。しかし源頼朝公の名前の“頼”の字を頂いている事からも、頼朝公の生前に可愛がられていた事が窺(うかが)い知れますね。
しかし、事態は祖父や父による恐らく頼朝公の暗殺によって急変し、源頼朝公御本人と御子息達と比企家は北条家によって根絶やしに暗殺されていきます。そして比企家を駆逐すると、比企家との血縁の有る北条朝時公の存在は北条一族内でも“面倒臭い存在”に成ってしまい、後継者指名から外されてしまいました。そして何故か北条“頼”時公は名前から源頼朝公由来の“頼”の字が抹消されると、同世代で北条に次ぐ有力者である三浦家の三浦泰村公から一字を貰う様に北条“泰”時と名乗る様に成り第三代鎌倉幕府執権と成りました。
しかし朝時公を蔑(ないがし)ろにする訳にも行かないので、北条朝時公は御爺ちゃんの北条時政の財産を継承する事で決着し、その際に北条時政の邸宅の名越邸も相続する事と成りました。
これが“名越”北条家と呼ばれる様に成った由縁です。
さて、そんな訳で名越北条家は本流から外れた事で反本家姿勢を強くし頼朝公の子息の将軍や藤原家から来た将軍と密接に成る事で存在感を増して行くのですが、これが益々北条一族にとって煙たい存在と成って、執権が北条時頼公の時に名越北条家で本家に反抗的な人間は粛清され勢力を失う事に成りました。
元々今の横浜市金沢区の北部一帯は名越北条家の土地だった様で、富岡辺りも所領だった事が判っています。
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御寺の説明にも少しその事が書いて有りますね。
安土桃山時代~江戸時代~明治時代~昭和初期に、この周辺は杦田(すぎた)梅林と呼ばれ京都の関白家や本願寺家の当主が観光に来た程だったのですが、杦田梅林へ観光に来る江戸市民からは靈桐山東漸寺は御本尊が御釈迦様の立派な御寺として大変に有名で親しまれたそうです。
東漸寺場所 久良岐のよし
現在では明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈、第二次世界大戦後のGHQの方針で境内地は縮小していますが、本来はもっと広かった事が国道16号線に接続する参道の位置から推測出来ます。普通、参道は御寺の正面に作りますから今みたいに端っこに寄ってる筈が無いんですね。
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だから周辺は不可解に狭い路地だらけに成ってしまっています。
恐らく室町幕府鎌倉府の崩壊の切っ掛けに成った永享の乱や、戦国時代の房総半島の里見家の海賊の焼き討ち、第二次世界大戦の横浜大空襲の戦災等で御堂や建物の無くなってしまっていた部分の御寺の境内地がGHQの政策で接収され縮小された後で、横浜市が御寺に返却せずに民間に払下げ民家が乱立していまの細い路地だらけに成ったんでしょう。
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まぁ、小生はコンナ路地も好きなので、これはこれで散歩していて楽しいのですが。
さて、この路地を含め境内地だったとして、この東漸寺は境内地の中にも更には周辺の妙法寺や八幡社含め広大な杦田梅林が広がっていた事がアホの横浜市が日本規模で有名だった杉田の杦田梅林を破壊容認してしまい消滅した現代でも当時の規模が解る史料が有ります。
新編武蔵風土記稿 久良岐郡之七 杉田村…この杉田村の解説の中に下の挿絵が有ります。
杦田梅林 久良岐のよし
これを見ると解りますが、東漸寺や妙法寺が凄く広い境内で、海岸線も昭和のアホの横浜市が埋立地利権で海岸線を変えてしまう以前の様子が解ります。そして杉田と言うより屛風ヶ浦近く中原の辺り~青砥坂の辺りまで広大な梅林だった事が見て取れます。
ここに明治天皇御一家も遊覧に来られたそうですが、この杦田梅林を植樹したのが間宮林蔵の祖先の間宮康俊公の間宮一族で、主に杉田周辺は分家の杉田間宮信繁公が梅林を拡張しました。
この梅が現代でも幻の杉田梅として流通していますが、本家本元の杦田梅林は横浜市のせいで消滅してしまいました。
そんな江戸時代に東漸寺を支援したのが、この杦田梅林を造営した間宮家でした。
ですから間宮家が書いた文書が江戸時代末期にも残っており、新編武蔵風土記稿の中で古文書が紹介されており中興開基間宮左衛門尉敦信と記載されています。
この杉田間宮の戦国時代~江戸時代の当主は梅林を造営した間宮信繁公ですが、実は関ヶ原の戦いで東軍が大勝利する徳川軍本隊3万の前進行軍を成功させる切っ掛けになる偵察と献策をした名軍師であり、そして江戸幕府将軍家の初代の鷹匠頭でした。
ですから間宮家の御縁で御寺の収入源と成る寺領が家康公によって安堵された事で徳川家の葵の御紋の寺紋としての使用を許された様ですね。
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実は新編武蔵風土記稿の中には小生の“東漸寺の境内は昔はすさまじく広かった説”を立証する証拠が文章で乗っていましたので紹介します。
東漸寺場所 久良岐のよし
※本堂の位置と今も残る池の位置を見てから以下の解説を読んで下さい。そうすると現代では失われた江戸時代の御堂や江戸時代以前に失われた御堂の跡の位置関係が詳細に理解できます。
※現存する池は二倍の大きさがあり、昔真ん中で橋が架かってた部分から半分が埋め立てられてしまっている事が判ります。

惣門(そうもん:外門)を入(はいる)こと凡(おおよそ)十八(~)九間(けん:1間=1.81m、十九間=約34m)にして、中門を立(たてる)、靈桐山の額を掲ぐ、落款(らっかん:サイン)に見圓覺俊衡碩(けんえんかくしゅんこうじゃく=和尚様の名前)書とあり、又五(~)六間にして池あり、小橋を架す、又ニ(~)三十間にして本堂に至るー以下中略ー
塔頭(広大な境内に有る子会社みたいな別運営の御寺)
眞樂庵 本堂に向(かい)て右にあり(現在の東漸寺運営)ー以下中略ー
多福院 (本)堂に向(かい)て左にありー以下中略ー
保福院蹟 堂の西方にあり(※現在の杉田駅辺り)ー以下中略ー
成願院蹟 堂の西南にあり(※現在の杉田商店街杉田駅寄りの辺り)ー以下中略ー
直傳庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
長慶庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
正永院 境外(寺の敷地外)巽(たつみ=北東)の方にあり(※現在の新杉田の交番辺り)ー以下省略ー

文字だけではイメージ出来ない人がいると思うので、総門~中門~池と小橋~本堂の距離を、旧参道の道上に距離から逆算してGoogle earthの衛星写真上に再現した地図で位置関係を御覧下さい。
東漸寺 失われた惣門と中門と池の小橋の位置関係 久良岐のよし
こうしてみると、新編武蔵風土記稿の記載を立証する様に池の小橋、中門、惣門が昔所在したと思われる場所には横道の名残が住宅街の小道として残っている事が解りますね!
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つまり、これらの商店街裏の住宅街の路地は、昔の塔頭寺院と門や橋を繋ぐ境内の横道の歩道だった事が理解できます。境内の歩道跡に沿って家を建てちゃったもんだから、こんな狭っくるしい路地に成った訳ですね(笑)。
さて、ここまで旧境内の規模と、関わった御殿様達が凄い人ばかりだったのは御理解頂けたと思います。
この御寺の権威も凄かったので“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を歴代の室町幕府鎌倉公方や徳川将軍家から保証されていた訳ですね~。 

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今でも御釈迦様が祀られている御本堂はとても立派で迫力が有ります!是非、杉田商店街で御買物する機会が有りましたら、東漸寺御参りして見て下さいね!
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所で杉田商店街ですが…
実は商店街の中に老舗の和菓子屋さんが在りまして、梅の和菓子を売っています。
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甘味処 菓子一と言う御店です。
そうです、今では横浜市役所と昔のアホの市長の建設利権のせいで消滅してしまった杉田梅林の梅を昔は特産にしていた元は観光の町なので、今でも杉田梅は無くなりましたが梅の和菓子を製造販売してらっしゃるんです。是非!菓子一さんの梅の和菓子も食べて見て下さい!
ところで杉田の杉は古文書を読むと昔は杦田(すぎた)と書いていた事が解るのですが、その昔は日本全国で最高級ブランドとしてもてはやされた旧久良岐郡(横浜市)の特産品だった杦田梅、実は今でも別の場所で梅林を見て梅干を食べる事も出来ます。
それは・・・
小田原市に今も存在する南関東最大の梅林の曽我梅林です。
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富士山も梅林越しに見られる曽我梅林は、実は今では特産の蘇我十郎梅を生み出す為(ため)に昭和初期に杉田梅林から大量の杦田梅の苗木買い付け植林し、その杦田梅を品種改良して生み出されたのが蘇我十郎梅なんです。
だから今でも杦田梅の梅林が曽我梅林の中にはちゃんと保存されているんです。

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曽我梅林も素敵なので、是非、来年の3月頃に皆さん見学に行ってあげて下さい!

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梅のジェラート、一粒500円の梅干“雲上”、そして神奈川名物足柄茶、美味しい物も沢山有りますよ~!

では最後に、今日紹介した御寺とか御店とかアドレスを掲載して今日のブログを〆ます。

【靈桐山東漸寺】


【菓子一】
【曽我梅林】
では皆さん、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪










東京都江東区に越中島と言う土地が在ります。
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上の写真がヒントかな?独力の成果ではないので一応ヒント代わりに御礼を…
江東図書館の司書様、個人名を出すのは控えますがありがとうございました!又、間宮家顕彰文に書き加える資料が見つかったのは、貴方の御蔭です。

さて、この越中島の土地は横浜市民には少々関係の有る土地である事を知る人は、今ではほとんどいません。
この越中島は、榊原照清と言う江戸時代初期の殿様の御屋敷が有った場所なのですが…
隅田川河口の守りを担う位置に江戸幕府より屋敷地を与えられて居住したのが❝榊原照清公で、その官途が越中の守だった事が現在の越中島の地名の由来”に成りました。
まぁ~郷土史だけ読んでも、照清公の御名前は出て来ないので郷土史家でも余り知らないでしょう。
ソースも意地悪で示さない小生(笑)。
越中島周辺
その屋敷地の所在地、元々の❝越中島❞と呼ばれた島は現在のヤマタネ株式会社の倉庫の所在地辺りです。
では何故、この越中島が横浜と所縁が深いかと言うと、それもやはり榊原照清公の御縁です。
実は、この照清公、母君が横浜の磯子区杉田出身の元北条家臣で徳川家康公の直臣にして鷹匠頭を務めた間宮家の分家杉田間宮家当主の間宮信繁公の御息女でした。
つまり、榊原照清公は横浜の間宮家の血を引いていた訳です。そして間宮信繁公の御姫様、つまり照清公の母上様が晩年住んでいた場所も、この越中島の御屋敷だったと成る訳ですね。
そして、何故、この場所が江戸幕府によって榊原越中守に当てがわれたかも、母上の家系、間宮家の家系を知っていると説明がつくわけです。
先に少し触れましたが、この越中島は江戸時代当時の江戸の大外堀りの役割を成した隅田川の河口に位置しています。
江戸時代の地図と現在の衛星写真を見比べてみましょう。
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現在では埋め立てが進み大分様子が異なりますが、下の江戸時代の地形図面の左下の四角い島が元々の越中島です。
正に江戸の海防を担う当時の❝台場❞の一つだった事が解りますね?
実は榊原照清公の母上の御実家の間宮家は❝築城技術❞❝鷹の飼育❞❝外交儀礼❞❝水軍❞に精通した武家でした。水軍に精通した家系であった事から、この位置に間宮家のノウハウを得れる照清公が住まされたと容易に推測が出来るんですね。
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現在、昔の越中島に当たる場所にはヤマタネと言う企業が在ります。そこに掛かる橋の名前が❝練兵衛(れんべえ)橋❞なのですが、幕末、ここ越中島が砲兵の練兵場として使用されていた事が橋の名前として残った訳です。
つまり、幕末には砲兵の訓練をする場所であり江戸を守る台場としても機能していた訳ですね。
そんな要衝に居住した間宮の血を引く榊原照清公ですが…
間宮一族からは合戦や鶴岡八幡宮の再建、築城で活躍した内政と武勇に秀でた玉縄北条家の付家老を務めた間宮康俊公…
武田信玄や徳川家康公の水軍大将を務めた間宮信高公、この信高公は間宮康俊公の系図上の御子息です…
北条氏照公の家老を務め、北条家の外交官として織田信長公への使者を務めたり日本100名城の一つ八王子城の縄張り(設計)をした間宮綱信公、間宮康俊公の弟…
そして、榊原照清公の祖父に当たり北条家臣を経て徳川家康公の直臣として鷹匠頭を包めた間宮信繁公、間宮康俊公のハトコ等がいらっしゃいます。杉田間宮家も又、初代間宮信次公が水軍を率いて活躍された武将です。
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ヤマタネと交差する橋は巽橋、更に近所には隅田川に掛かる永代橋があります。

照清公の榊原家そのものの血筋も凄く、御父君の叔父が徳川四天王と呼ばれた榊原康政公でした。
榊原康政公の兄上の榊原清政公が照清公の祖父に当たります。
この榊原清政公は、徳川家康公の御長男の徳川信康公に御仕えしていたのですが、その徳川信康公が織田信長公の敵である武田家に内通した容疑で切腹させられた際に、連座して責任を取らされて榊原家の惣領は後に徳川四天王と呼ばれた榊原康政公に移った訳です。
間宮の血を引く榊原照清公、その御父君で間宮信繁公の姫君を娶った人物は榊原照久公です。
以上の説明で、この越中島が横浜市とも殿様の御縁で繋がっている事は御理解頂けたでしょうか?
この江戸時代重要な場所だった越中島には現在、津波対策の水門と公園が整備されています。
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大島側水門です。
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越中島と永代通りを隔てる水掘りは現在では大島川と呼ばれているんですね。
後で説明しますが、これらの水掘りが江戸時代~昭和初期まで運河として活用されたので、この付近には昔からの商家が多く存在します。
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現在の越中島公園
満潮時には遊歩道まで海水に浸かるようですね、これは確かに水門を作らないと心配な地形です。
でも河口側は風景が綺麗な場所でしょう?
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屋形船も多く見られます。
そして、旧江戸の中心側を見ると…
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現在では高層ビルと美しい吊り橋の風景を見る事が出来ます。
川がこれだけ何本も集まる河口だったので軍事にも物流にも重要な場所だった訳です。
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現在では水運は余り利用されなく成り、隅田川にも多くの橋がかけられました。
さて、この越中島周辺は水運の拠点だったので、多くの商家の蔵屋敷が立ち並ぶ場所でした。
その名残を見る事が出来る場所が、越中島公園から徒歩5分の場所にあります。
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徳壽神社と言う名前の御稲荷様です。
実はこの神社の縁起(えんぎ=由来)その物がネタバレなので、先に史跡としての痕跡を紹介しますと…
この徳壽神社、実はですね、鰹節のメーカーとして現代でも有名な❝にんべん❞の発祥地に建てられた神社なんです。
ですから周辺には屋号や企業名のある自宅兼事務所みたいな建物だらけで蔵町の跡が残っているんでしょうね。
そして、この徳壽神社の縁起ですが…
江戸時代、稲荷大明神の御神像がこの付近で隅田川から引き上げられた際に、❝にんべん❞の境内に神社を建て祀ったのが、この徳壽神社の始まりでした。
つまり元々は、にんべん社や周辺の商家の守り神としてスタートしている訳です。
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思いがけない場所に、沢山の歴史が詰まってるでしょう?
これだから歴史訪問と神社仏閣の参拝や城址や史跡訪問は発見だらけで楽しいんですよ♪

きっと皆さんの御近所の神社にも、思いがけない歴史が詰まっていたり、歴史上の人物との繋がりが有るかも知れませんよ~?
ですから、御近所の御城跡や神社仏閣、里山を散歩して見ませんか?
…と言う、一、歴史オタクからの御誘いを以て今日の〆とさせて頂きます。

では、又、次のブログ記事で御会いしましょう♪

曽我梅林と小田原周辺の梅林は今が見頃ですよ!

今年は梅花の開花が早いと、残雪の八王子城址で先週土曜日に確認したので…
神奈川県の梅花はもう見頃だろうと思い、曽我梅林のホームぺージを見た所、やはり今年は今週が見頃だった。
水曜日は小生の休日。
午前中に歯医者で定期健診を終えると、そのまま車で曽我にGO!
湘南は小田原の観梅の名所、曽我梅林に行って来た…
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東名高速を抜けて小田原厚木道路を走っている最中に俄雨(俄雨)が降って来たので、一時はどうなる事かと心配したが現地についたら雲も晴れ始め、雪化粧した美人な富士山が曽我梅林の向こうに姿を現してくださった。
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今年も去年と同じ位置から写真を撮影したが、この枝垂れ梅が凄く綺麗なんだな。
さて、この曽我梅林は梅農家が実の採集の為に植えている❝梅畑❞なだけあって範囲は凄まじく広大で、恐らく日本最大級の梅の木の本数、4万本超を誇ります。

現地案内看板ピンクの範囲が全て梅林なのですがGoogleEarthの衛星画像に看板の画像を貼り付けて範囲を見て頂くと解りますが、…
曽我梅林
凄い範囲でしょう?
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周辺には名所古跡いくつか有り、全部回れば1日費やせますね。
小生、たまたま小田原の石垣山一夜城址に行く予定だったので曽我梅林での梅花鑑賞だけでした。
以前も戦国時代の北条家の梅林文化を紹介した記事でも曽我梅林を紹介した事が有りますが、今日は曽我梅林自体の写真と歴史を紹介したいと思います。
※以前の曽我梅林と北条家の梅林文化を紹介した記事は「ココ」←クリック!
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先に説明しましたが、この曽我梅林は曽我が梅の実の生産地で有る為に、農家さんが集まってるので4万本超の梅の木を有します。
そして、梅まつり開催地域では、主に「杉田梅」「曽我十郎梅」「南高梅」と観賞用の「枝垂れ梅」と「小梅」が見られます。
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曽我別所梅まつりの開催期間中は上の植生エリアを説明した看板も掲示されます。
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綺麗でしょう?これが小田原名物の曽我十郎梅です。
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観賞用の枝垂れ梅が植えられた一角も在ります。
しかし梅の実の収穫用の木の方が圧倒的に多く有ります。
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開会中は農道にカップルやシニアの観光客と多くスレ違います。
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川岸にも梅畑が広がりますが、残念ながらこちら側は既に花が散っていました。
屋台や梅の製品の直売所も梅祭り開催中は多く出ます。
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小生は今回は直ぐに食べたかったので❝雲上❞と言う一粒300円位の少し高級な梅干しと、御土産用の❝曽我十郎梅の梅干し❞を買いました。
会場には、ジェラートの専門店も有ります。
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駐車場に在る上の写真の建物がジェラート屋さんです。
小生は梅の入ったジェラートを食べました。
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清涼感が有り、とても美味しかったです。
あと箱根名物足柄茶と、さっき買った梅干し雲上。
小田原の梅干しは武士文化の梅干しですので蜂蜜漬けでは無くて、昔ながらの酸っぱい梅干しです。
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でも雲上凄く美味しかったですよぉ~♪
露店直売所の目標は、梅林の中の下の写真の八幡様です。
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この八幡様の周りに食堂等も出店します。
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八幡様で御神体を拝んで参りました。
この神社の在る区画の北西、下曽我小学校の裏て側の区画には、曽我十郎梅の元に成った❝杉田梅❞と呼ばれる品種の梅林が有ります。
この杉田梅は昭和初期まで❝最高級ブランド❞として江戸の市民や皇族に愛された梅で、発祥地は横浜市磯子区杉田でした。
戦国時代の北条家臣、笹下城主間宮康俊公や間宮家分家の杉田間宮信繁公が横浜市南部に植林を始め、特に間宮信繁公の植林した杉田梅林は梅の実だけでなく梅林自体も江戸時代に江戸市民や明治時代にも皇族がだびたび観梅に来る程に観光地として有名でした。
しかし残念ながら神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会は不見識極まりなく、この杉田梅林の宅地開発を承認し全く保護せず地上から消し去ってしまいました。
左翼閥や開発利権と癒着した人間が過去(?)多かったんでしょうかね?
現在も扇谷上杉家の糟屋館城址を県道開通させ破壊する準備してますし、笹下城は三井不動産レジデンシャル等に破壊されている真っ最中ですし、現在も教育委員会にそんな人が多そうですが。
しかし・・
ここに来ると横浜に在った杉田梅林の往時の姿を想像させてくれる杉田梅の梅林が見られる訳です。
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これが杉田梅です。
接写するの忘れましたが、曽我十郎梅より若干花が小ぶりでした。
つまり、曽我十郎梅は杉田梅の中で花の大きい株を交配させて生み出された品種と言う事ですね。
所で、何故、ここ曽我別所に広大な梅林が有り、御当地横浜で滅亡した杉田梅が大量に生産されているかですが…
実は!
先に有名に成った間宮家の杉田梅林から、この曽我別所の地域に移植されたそうです。
※杉田梅林の記事は「間宮家の事績まとめ」「間宮信繁公の菩提寺妙法寺」←ここクリック!
そして、曽我別所の農家の皆さんが更に花の大きい株を品種改良して曽我十郎梅に育て上げた訳ですね。
…神奈川県と横浜市の教育委員会が滅亡させた杉田梅林の梅林文化を、小田原で守って下さった曽我別所の皆さん、ありがとうございます。
感謝。
北条氏綱公、北条氏康公、北条綱成公、北条氏繁公、間宮信冬公、間宮信康公、間宮信元公、間宮康俊公、間宮康信公、間宮綱信公、間宮直元公、間宮信繁公…
小生は貴方がたの残された文化を感じ生きられて幸せです。
ありがとうございます。

さて、次回は書くのを忘れていた伊勢原市高部屋神社裏の丸山城址公園の紹介をしたいと思います。
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では!又、次の記事で!

今日は水曜日
休みは微塵も無駄にしたくない。
4万本の梅林を見に小田原市曽我梅林と、夜間ライトUPする湯河原梅林幕山公園に観梅に行く途中…
天然理心流土曜日に引き続き又々、海老名SAに立ち寄り朝食と昼食まとめて摂る。
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テーブル席から関東の聖地大山が綺麗に見える。
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この三角形が古代の男根崇拝や山岳信仰の象徴であったと同時に、相模湾を航行したり漁をする人々から古来、海上から位置を確認するランドマークとしても重要な山だった。
大山山頂からは縄文時代以来の祭祀場の遺跡が出土している。
平安時代末期には源頼朝公が❝関東総守護❞の異名で呼び、坂東武者達の心の拠り所に成った阿夫利神社と大山寺の在る山自体が御神体の聖地。
今日は海老名SA名物の"海老々々焼き"牛串"牛舌串"…
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なんだかんだ1750円かかった。
普通にそこそこのランチ食べれたな。まぁ…屋台なりに美味しいけど。

曽我梅林に到着。
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昨年初めての来場の際、この規模と富士山を背にした絶景に感動し毎年来るぞと決めた場所。
来る途中まで降ってた俄雨(にわかあめ)も止み、富士山が美人な雪化粧の御姿を現してくださった…
綺麗だなぁ~。手間の可愛らしい梅も、去年と同じ場所で出迎えてくれた。
40,000本の梅は、横浜の殿様の間宮家の分家杉田間宮家の間宮信繁公が横浜市磯子区杉田に植林した今は亡き杉田梅林から曽我に移植され、増やされた。そして、品種改良を経て曽我十郎梅が出来た。
間宮信繁公、北条家の殿様方、皆様の残された文化を感じ生きらて幸せです。
ありがとうございます。

北条家最後の対戦相手の羽柴秀吉が築いた石垣山一夜城に写真撮影の為に移動。
通り道、小田原城下町の蒲鉾(かまぼこ)の名店の山一で❝焼き蒲鉾❞を買った。
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隣には❝ういろう❞の本家本元、その名も室町時代以来、外郎(ういろう)家の血脈を受け継ぐ❝本家本元の御菓子のういろう❞の御店が在る。名古屋のは新幹線開業時に流行った偽物。
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外郎は天皇家や足利義満公、小田原北条家との関わりあいから明治政府に最初の商標登録されている上に、江戸時代にも既に歌舞伎の演目にされている。
もっとも…
京都からも江戸からも遠い朝廷儀礼や武家文化ともかけ離れた現代の某地方の人間には、この外郎家の建物の意味も理解出来ないだろう。だから彼等は平気で嘘を真しやかに流布する。
石垣山一夜城に行く途中に此処に寄ったのは小田原城の総構え外堀の役目を果たしていた、ある川で❝黒曜石❞を採集出来るのを知っていて前々から気に成っていたから、拾えないだろうか?と思いソコに行く為に下道で移動したからだった。
その川とは早川の事。
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川岸には結局降りなかったが、小田原城下へ続く❝日本で最初の用水❞を引いた北条家の内政力が他の大名を圧倒していた事を証明する文化財❝小田原用水❞の遺構を見られた。
左が早川、右の水路が小田原用水遺構。
早川の水を小田原用水に引き込み、小田原城下まで繋ぎ飲み水用の❝上水道❞として利用された。
この用水を模倣して作られたのが江戸城下の玉川上水道だった。
徳川幕府が北条家の統治機構を模倣したのは有名な話しだが、小田原と同じく海に近く飲み水用の井戸の確保に困る江戸で、小田原城下の都市計画も模倣した訳だ。
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早川越しに、秀吉が一夜城を築いた石垣山が見える。

実は石垣山一夜城址、有名パティシエの鎧塚シェフの居城に成っている…
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5年位前に来た時は、まだ無かった。
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ここには綺麗な河津桜が咲いていた。
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その林越しに相模湾を望む。
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鎧塚シェフ、良い場所に御店作られましたね!…奥さんと此処を終の棲家にする御心算だったのかな?
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石垣山一夜城は、実は5つの大陸プレートがぶつかる頂点の真上に在る。つまり箱根山脈の入り口。
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この地域は古来の地名を❝風祭❞と言う。
風祭出身の有名な一族がいる…苗字を❝風魔❞と呼ばれた一族だ。
つまり、この地域が風魔忍者の故地であり、ここが箱根山系と伊豆へ抜ける重要な街道群の起点だった事から風磨忍者の出発点は山間に関所を築いて通行料を取る山間の豪族だった事も容易に想像がつく。
感覚的には海を支配し通行税を採取した瀬戸内海の村上水軍みたいな物だろうか?
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石垣山一夜城は、江戸時代の富士山噴火の際の大震災や大正時代の関東大震災で石垣の大半が崩落したが、それでもまだ主要部分の曲輪(くるわ)群の形状は状態良く保存されている。
特に❝栄螺(さざえ)井戸❞の名で呼ばれた飲み水確保の為の井戸曲輪。
飲み水の不足した旧織田政権の秀吉連合軍は小田原城の北条家に対して、自軍の水不足を悟らせない様に米を水の様に馬にかけて馬体を洗う素振(そぶ)りをして水が大量に有る虚偽のアピールをした何てエピソードも有る。
遠くにいる人間から見ると、水を流す様に桶(おけ)からブチマケルと遠目に水と錯覚してしまうそうだ。
このアピールは戦国時代に籠城側が良く攻囲側に行ったと話に聞くが、攻囲側が行った話は少ない。
北条家も結束してあと数ヵ月持ちこたえれば、秀吉連合軍は糧秣不足に成り勝てた見込みが有ったとか無かったとか…❝IF❞は考えても仕方がない。
石垣山一夜城は又、いずれ別記事で紹介する心算(つもり)。

まぁまぁ、有意義な1日だった。

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