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タグ:間宮家

今年ももう直ぐ円海山で蛍が見れる季節に成ります。
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2017年の6月の写真です。
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円海山 瀬上沢ホタル群生地
※住所クリックで地図にリンク!⤵️
円海山蛍の生息地 久良岐のよし
場所は円海山の瀬上池~旧上郷高校=現在の栄高校~神奈川の橋100選の一つ昇竜橋と白山神社旧跡への鼬川遊歩道に合流する瀬上沢の渓流沿いです。
観察マナーについては、色んな考えも有れば何も考えていない人、自分達のローカルルールをさも当たり前の様に押し付ける人もいて千差万別、これも文末で解説したいと思います。
蛍、小生の小さいころ、ん十年も昔はもっとわさわさ見れたのですが、横浜市教育委員会の怠慢と林文子市長による円海山の開発容認で横浜市最大規模の自然公園ごと絶滅の危機に瀕しています。
瀬上沢蛍の観察可能な場所 久良岐のよし
個体数の激減の原因は過去に開発されてしまった庄戸地区とみどりが丘の宅地化による環境の悪化、それに加えて過去の横浜市による誤った公園整備によって天然のフナが居た瀬上沢が重機で荒らされてしまったり蛍だけでなく生態系も破壊してしまった訳ですが・・・
現在、僅かに生き残った蛍に止めを刺そうとしている組織がいます。
それが東急グループの土地買収による宅地化構想と、歴代市長が守って来た円海山の自然環境保全を事実上放棄して東急に対して土地放棄や買収等の対価を払う等の対案を示さず、それどころか円海山の林道整備すら放棄して丸で段階的に宅地化を容認する構えの様な言動しか現状していない林文子市長と円海山の史跡と自然環境の保護を怠っている横浜市教育委員会です。
過去の記事の転載も交えて説明したいと思います。

先ず、円海山その物を知らない人が多いと思います・・・
円海山は横浜市栄区港南区金沢区磯子区にまたがり鎌倉に続く自然公園です。 
鎌倉横浜に古代文化の基礎を醸成した地域で尾根には砂鉄と玉鋼を輸送し武士が行き交った古道もあります。
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この円海山、実は横浜市で一番標高の高い山で、山頂からは天気が良いとこの様に頂上近くからは富士山も綺麗に見えます。
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正月の朝焼けの赤富士や・・・
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・・・夕焼けに染まる赤富士の写真撮影スポットとして非常に有名です。
横浜市で一番高い所なので、富士山とは反対側の海側の畑から見える横浜港の夜景も当然ながらとても綺麗です。
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この夜景スポットにはベンチが有り、冬でも良くカップルが夜景を見に来ています。
実はこの山、歩いて鎌倉まで行ける遊歩道があり、それらは「鎌倉早駆けの道」と言う史跡でもあります。
更に‼︎
蛍(ほたる)の横浜市内での貴重な生息地なんです!
その場所は瀬上池と、その池に注ぐ自然の沢を集めた池から再び流れる貴重な水源地帯の瀬上沢です。
この小川が瀬上沢ですが、こんな不必要な護岸工事が横浜市の建設利権の為か環境整備局の不見識か行われてしまったせいで天然のフナは姿を消しました。
当時、環境整備局の前身組織の負の遺産ですね。挙句の果てに保持が怠られているのが現状です。
歴代市長から保護され多くの市民の憩いの場として解放されてますが、小生も子供の頃よく、ザリガニを採(と)りに来たり野山を駆け巡りに友達と遊びに来ていました。釣りはやりませんでしたが友人達はよくフナを釣りに瀬上池や瀬上沢にも来ていました。
子供が自由に川遊び出来る横浜南部の最後の水源地帯がこの円海山の沢で、特にこの瀬上沢と大岡川源流笹下川上流の磯子区氷取沢側の大谷戸(おおやと)側の沢が状態が良いんです。
写真は円海山を降りた大谷戸広場側、市に名前を消された戦国時代の要害址の人工地形が今も残る観音山です。
この円海山一帯は昔ながらの貴重な里山保存区域です。
綺麗な昔ながらの鎌倉近隣の原風景でしょ?本当、貴重な自然と里山なんです。
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金沢市民の森側、大谷戸広場付近は護岸工事されずに一部上流だけ源流が昔のままの沢の姿を保っています。

写真撮影した季節は冬で川で遊ぶ子供も流石にいませんが…
此処(ここ)瀬上沢には貴重な淡水の貝の化石群の地層が露出した場所があり、更に奈良時代の古代のタタラ製鉄の史跡も出土した場所でもあり…
灌漑水田史跡でもあり、重ねて言いますが平安〜室町時代の鎌倉早駆けの道と合わせて非常に貴重な史跡群でもあります。
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尾根は古代の砂鉄と玉鋼輸送で活躍した道があり・・・
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・・・そこを往来した武士達により鎌倉市街地を取り囲む源氏山~太平山の鎌倉城~大丸山~円海山~金沢区御伊勢山~権現山の荒尾城には要塞郡が築かれ写真の様に歩行しやすい街道でありながら防衛し易い様に侵入する軍勢の隊列を制限する為に岩を開削して築かれた“切通し”が多数現存しています。
昔の市長達の遺志を踏みにじる東急と林さん。
東急の土地買収で茅が生えて「神社に売るんか(笑)!」ってのが現状です。

以前の市長達により、瀬上池周辺は遊歩道や釣り用の桟橋が設けられていて新春にもなると釣りをする子供や、お弁当作ってピクニックに来た家族連れなんかで、ほのぼのとした空気が感じられる場所です。しかし多くの林道は林市長に成ってから保全されず、通行止めの箇所が異常増加中・・・

今の横浜市長の林文子さんは、どうも保護に熱心ではなく寧ろ開発準備してる側のようですが、昔からの地域のボランティアが自主的に子供の遊び場を守って下さってます。
だから幼稚園小学生くらいのお子さんがいる御家族には暖かく成れば、オススメの自然の中の水遊び場ですよ!


この池が瀬上池。
小生が子供の頃、友人達は釣りが自由に出来るここに来てはフナや鯉なんかを釣っていました。
…小生は、もっぱらザリガニ専門でしたが(笑)。

しかし、最近は今の林横浜市長の施政下で、倒木の処理などが放置され林道が通行止めにされてしまっている所が多くあります。

この下の写真の「尾根道から護念寺への道」も、さも通行出来るような案内板ですが、実際は鉄柵で封鎖され市民が通行出来なくされています。

別に道が崩落している訳ではありません。
横浜市が業者に開発させる前振り?

しかも、此(こ)の道の先は古典落語「強情灸」の舞台になり江戸時代から昭和初期まで、お灸治療の本場峰の灸として観光客と治療客で栄えた竹林の美しい円海山護念寺に通じているので、早く再開通させるべき所なんです。
※円海山護念寺の風景と歴史については「ココ」←クリック!
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ついでに言えば、昔は護念寺の本院だった阿弥陀寺は浄土宗の総本山である知恩院の住職を務められた了鑑大僧正を輩出した名刹だったりもします。最古参の旦那は苅部(かるべ)氏で、元は戦国時代に鎌倉公方代理を務めた蒔田吉良家の吉良頼康公の重臣の子孫に当たります。
蒔田吉良家は戦国時代初期には世田谷を本拠地にした足利家の中で一番格の高い足利家の一族でした。
北条家に従属しながらも吉良様や蒔田御所と敬意を特に払われた高貴な殿様の重臣だったのが苅部家です。
蒔田吉良家は戦国時代末期には横浜市南区の蒔田城を本拠地にして、鎌倉公方代理を務めたので蒔田御所と呼ばれていました。
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上の写真は世田谷豪徳寺の三重塔です。豪徳寺の所在地が蒔田吉良家の初期と終焉の頃の居城の世田谷城址です。
この苅部一族の菩提寺の在る円海山一帯を江戸時代に抑えていたのが氷取沢領主として徳川家康公直属の旗本と成った北条旧臣の間宮綱信公や間宮家本家の笹下間宮の間宮直元公です。
生野代官所位置関係 久良岐のよし
上の画像は朝来市教育委員会様に提供頂いた資料をGoogle earthに張り付けた生野代官所の縄張り図です。
間宮直元公は但馬銀山や金山を含めた但馬国内の江戸幕府直営の施設や領地を治める但馬奉行として生野代官所に居り、同時に現在の横浜市中部沿岸部を治める本牧奉行を務め、徳川家康公からも信任が厚かった人物です。
大久保長安が経営失敗して業績不振だった佐渡金山の業績を好転させるべく、徳川家康公の命令で但馬銀山経営のノウハウを持って佐渡に支援に行き、瞬く間に業績を好転させた事から大久保長安の失脚後は佐渡奉行も兼任した名経営者の御奉行様でした。
更に大坂城の真田丸や総構えの埋め立て作戦を立案し、直接徳川家康公に献策したのも間宮直元公でした。
その菩提寺が円海山山麓、笹下川を挟んで反対に位置する場所に在る妙蓮寺です。
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ここには昭和期まで御神廟に間宮直元公の彫像が祀られていましたが、残念ながら火災で焼失してしましました。
新編武蔵風土記稿 間宮直元公木造 久良岐のよし
新編武蔵風土記稿に掲載されているのが上の写生図。
下は間宮一族の間宮さんが焼失前に撮影した実物の画像です。
間宮直元公木造 妙蓮寺旧蔵も火災で焼失 久良岐のよし
円海山から釜利谷に抜け鎌倉に至る六浦道=金澤道、つまり現代の笹下釜利谷道路と円海山の間道を抑えたのが間宮綱信公です。
間宮綱信公の江戸時代の陣屋は円海山の氷取沢側、氷取沢神社旧境内地でした。
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現在の氷取沢神社は団地開発で移転させられ山の下に降りてきています。
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その近くに在る寶勝寺は元は古河公方足利成氏公が開いた御寺で、元は禅宗でしたが間宮綱信公が浄土真宗に改宗させて復興再開基したと伝わり、以後は氷取沢間宮家の菩提寺と成ったので今でも歴代の殿様の墓石が存在します。
間宮綱信公は北条家の外交官として織田信長公にも謁見した人物で、八王子城主で北条家No,2の北条氏照公の付家老(つけがろう=組織上の補佐役だが家臣では無く、主家の家臣のまま出向した家老)を務めた人物です。
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上の写真は八王子城址。現代では日本100名城の一つにも選定されていますが、この城の縄張り、つまり設計を担当したのが間宮綱信公と八王子の現地では伝わっています。
残念ながら八王子城は要害部の完成前に農民と姫様や僅かの守備軍しかいない状況で、豊臣秀吉の配下と成った上杉景勝公、真田昌幸公、前田利家と裏切者の大道寺政繁の大軍勢によって攻め落とされてしまいました。
元は吉良家の北条家臣化後の北条家臣として間宮家の同僚に当たる苅部家、そして北見(喜多見)家、そして北条氏照公与力の重臣として間宮綱信公の格下同僚だった金子家、間宮本家の仕えた玉縄北条家で間宮家の格下同僚だった岡本家等、現在も円海山周辺には多くの旧北条家臣団の苗字が残るのは、江戸時代に間宮家が幕府の奉行職を歴任し、大変栄えたので北条家解体後に元同僚の伝手(つて)で間宮家に与力として仕えた為でしょう。
この内、岡本家は氷取沢間宮家の重臣となり陣屋を守り、杉田間宮家の陣屋は鎌倉時代以来の一帯の名門武士だった荒井家が守り、本家の笹下間宮家の笹下陣屋本牧奉行所は間宮家から養子が入っている武内家が守っていました。
円海山からは、そんな戦国時代の偉人達の足跡も辿る事が出来ます。
そして現在では余り知る人も少なくなりましたが旧白山社旧跡も瀬上沢と山を挟んで反対側、市の教育委員会が自然保護を怠った庄戸地区に在り、その参道の前を流れる鼬川に掛かる橋は昇龍橋と言います。
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横浜市教育委員会では無く神奈川県土木部道路整備課によって神奈川の橋100選に選定されました。
この鼬川周辺も昔は蛍を見る事が出来ましたが、先述の通り自然環境の悪化で今では・・・
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畠山重忠公の開いた東光寺や御子息の畠山重保公の御廟所が有る釜利谷地区とは山の裏側の辺り、瀬上川の河畔には昔の水田への灌漑施設の隧道が残っています。
 
ここは円海山で貴重な淡水の貝の化石群地層が露出している場所です。
昔の人が、灌漑水田に水を引き入れる為に作った手掘りの隧道(すいどう=トンネル)のある壁面と地続きの山が全て化石群の地層です。
以前は子供も自由に出入りして遊べました。
周辺を東急建設が宅地開発しようとしはじめた頃に横浜市大が保護を試みましたが、最近は東急が自然環境保全地である事や市民の憩いの場である事を無視し、周辺から市民を締め出し開発準備を始めてしまっています。
昔からの文化醸成地や市民の憩いの場を蹂躙する東急建設と、それを容認する環境整備局そして陳情を見殺しにする現横浜市長の林文子市長の暴挙ですね。
林文子市長は事前の保護も開発阻止も自然環境保護の先手も打たず陳情に対して・・・
「地権者が開発したいんだから邪魔出来ねぇ~し知らね」
・・・と言う事を言っています。
彼等がもし、無碍にこの瀬上沢一帯を開発したら、この自然環境は2度とは戻りません。

庶民に阻止は出来るか微妙ですが、もし開発すれば近隣に留まらず、貴重な自然公園に連なる遊歩道や沢の自然環境を破壊した歴史を事実としてどの政党が支持した、どの市長の時代に、どの土建屋が瀬上沢と遊歩道の自然環境を破壊したか歴史偉人達の遺産を踏みにじったか我々で語り継いで行きますよと。
林市長、東急さん、きっと瀬上沢の重要性再認識してくれると…

皆んなで淡々と事実拡散するしか蛍の住める環境を含めた自然環境を守るには出来ません。
近隣の歴史を語り継いできた寺院や神社の鎮守の森でもありますから。
執政者と開発業者の責任者の名前と経営者の名前を負の歴史として記録して永久に地域で残します。
それが民主主義で出来る事。
陳情に色良いレスポンスないんだから、やったら責任は歴史に刻んで後世に判断して貰いましょう。
この他にも円海山だけでなく横浜市内には腐る程、間宮家関連、蒔田吉良家関連の神社仏閣が有り、円海山の開発が進めが情報も檀家氏子で共有し更に間宮会から世間にも拡散されて行く事に成るでしょう。
この手の自然保護活動と破壊に関心の高い新聞社も間宮家の研究に熱心な某所に出入りしていますし。
東京の蒔田吉良家臣団の御子孫とも連携出来ますしね~。

まぁ、今なら東急さんも林市長も横浜の自然環境を守った偉大な英雄に成れるかも知れないけど。

さて、皆さん、円海山と瀬上沢の自然環境と風景と歴史が非常に貴重で、尚且つ子供が安心して遊べる自然公園である事は御理解頂けましたでしょうか?

瀬上池手前に使われていない畑があります。
あそこを自転車用の駐輪場にし、山頂のスポーツ広場を休日に駐車場として解放し尾根道に歩道を繋げ、昔みたいに家族連れも行きやすい環境を整えて欲しいな〜とか改善案はあるんですがね〜。

円海山は横浜市民や鎌倉市民にとって大切な場所なんですね。

この綺麗な風景と自然と歴史…
我々が先人から受け継いだ様に、何とか次代の更に先の子孫達まで残してあげたいですね。
円海山は文化なんです。

さて蛍が見える場所は横浜市栄区の旧上郷高校、今の栄高校のすぐ下の谷に流れる瀬上沢です。 
瀬上池の位置
今月の写真を交えつつ、観察or鑑賞マナーについて書いてみます。
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先ず、小生の様にフラッシュを焚いた蛍その物の写真を撮影したい方は以下の点に留意するべきです。
●他の鑑賞者のいる時間帯にフラッシュを焚いて撮影しない・・・他の人が蛍の光を見えなく成ります。
※小生は毎回深夜の1時~4時頃、誰もいない中、必要が有れば川に入って撮影しています。
※蛍はフラッシュ焚いて撮影しても、連写しないで数十秒間を置けば光る事を止めません。
●暗がり対策で持参した懐中電灯で照らし続けるのは止めましょう。
※フラッシュより観察や位置確認の為でも懐中電灯で照らし続ける方が蛍が光るのを止めてしまします。
●深夜遅くて暗くて怖かろうが1人で行ってヒッソリと撮影&観察した方が良いでしょう。
※複数人で言って話し声や大勢の気配がすると逃げてしまいますし、何より深夜に御近所に民家も1軒有るので迷惑に成ります。
※先述の通り、小生は必要が有れば川に足つかったりしながら、蛍の見える位置に回り込んで撮影します。蛍を動かしたり捕まえて撮影しない為の行動です。
●深夜に大勢で鑑賞会なんて絶対にするなよ。近所迷惑だから。
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以下当たり前の事。
●円海山は火気厳禁です。タバコはポイ捨て以前に吸うな馬鹿野郎。当然花火も焚火もするな。
●大勢で押しかけるな。家族や少数の友人と行き静かに鑑賞しないと近所住人に迷惑。
●他の鑑賞者がいる状況でフラッシュ撮影するな。先述の通り。
※どうしてもやりたければ、小生の様に深夜に懐中電灯も持たずに一人で行って、時間間隔空けながら撮影しましょう。そうすれば迷惑にも成らないし蛍も光るのを止めません。
●18歳以下の学生は夜間外出を控えましょう、根本的に22時以降に蛍を鑑賞していたら警察に補導されますよ。当該地域周辺は警察官が巡回しています。
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この写真はフラッシュ焚いた数十秒後に再撮影した写真。
あと、蛍が尻の光を点滅すると思ってる人いますけど、蛍って点灯しっぱなしの子もいるんですよ~。
この子は点灯しっぱなしの子でした。

さて、こんなマナーみたいなものを言わなきゃいけない程に蛍が珍奇な存在に成ってしまったのが小生が小さい頃の田舎的な風景や蛍の多さからは想像もつきません。
昔は、多分他府県の人も同じ経験をしていると思いますが・・・
「蛍見に行こう~!」(多人数でわいわい)
「あら危ない懐中電灯もって行きなさい(おばちゃん)」(蛍照らしまくりの観察しまくり)
「蛍綺麗だね~!」(横で花火)
・・・小生の場合、育った年代的にも円海山や上郷の宅地化は進んでいませんでしたし、祖母の住む田舎が有ったり、幼馴染が引っ越した千葉県も自然が豊かだったりで、普通に宅地の傍の農道や自宅の近くの湧水の農業用の池の周りに昔は蛍がいたんです。円海山の瀬上沢も近所だから遊びに良く行きましたしね~。千葉の印旛沼辺りじゃ田圃に農薬撒いた翌日もスンゴイ蛍沢山見れたしね。

円海山に蛍をわざわざ保護しないといけない環境にしたのは横浜市ですが、その蛍の生息できる環境に止めを刺す開発を行いたいのが東急不動産で、それを容認する発言を回答したのが林文子市長です。
ただ多分、横浜市よりも現状では東急建設に理性が有って踏みとどまってくれて様子を見ているんだと思います。横浜市役所は内部の連携が目茶目茶で林市長が統治出来てるのかも謎。
あと十年余りで樹齢100年に成る桜並木の街路樹を伐採させたり、調査もせずに城址の空堀を掘削したり盛土して宅地化する案を容認する横浜市歌も歌えない奴が務める横浜市建設指導部と違い、本来は伊勢神宮から天照大神の御分霊を勧進し東横神社を開基し自然や文化の保護に意識が高かった❝昔の東急東横線の五島慶太社長❞始め過去の歴代社長は今の東急建設を見たらどう思いますかね?きっと苦虫を噛み潰したような表情で現在の瀬上沢開発に関わる東急グループ社員と林文子市長と黒岩知事には天罰落としたいと思っている事でしょう。なんせ東横神社は伊勢神宮から勧進した天照大神と合祀された渋沢栄一公が御祭神、自然守護の象徴たるお伊勢様と経済世民と愛国を両立した渋沢栄一サンを東急グループは守護神としている訳だが・・・
この事を恐らく東急建設の現経営陣は知らんだろうな。
これを機に、林市長と横浜市と東急建設に瀬上沢の横浜市による土地買上げと当該地域への広域自然保護区認定を改めて行って貰える様に、皆さんで陳情して頂けると幸いです。
●林文子市長への陳情窓口
林文子事務所 〒231‐0007 横浜市中区弁天通4-53-2 DOMONビル2F
TEL:045‐228‐9780
横浜市教育委員会庶務課
TEL:045-671-3240
●東急建設
http://www.tokyu-cnst.co.jp/company/
〒150-8340 東京都渋谷区渋谷1-16-14 渋谷地下鉄ビル
代表番号 TEL:03-5466-5020
土木本部 TEL:03-5466-5152
建築本部 TEL:03-5466-6186
営業本部 TEL:03-5466-6299
●林文子市長支援者の黒岩神奈川県知事の窓口
〒231₋0007 横浜市中区弁天通1₋15₋1
黒岩祐治事務所 TEL:045₋227₋5119
●林文子市長を推薦した自民党の横浜市選出の菅義偉官房長官
〒232₋0017 横浜市南区宿町2₋49
横浜市部事務所
TEL:045₋743₋5550 FAX:045₋743₋5296
✉:suga.yoshihide@gmai.com

・・・個人的に小生は思想的には保守寄りで自民党の日本文化を大切にする姿や経済政策の支持でも有りますが、こと東急建設と林市長の円海山一帯開発利権の為の文化史跡自然破壊に関しては看過出来ません。小生と意見を同じくする人は既に十万人超の署名が集まり、日に日に増えているそうです。
これもセーブザ瀬上の皆さんの活動の御陰です。
横浜市の自然と古来の文化醸成地を守った英雄に成って頂く道を選択して頂き担当者さんや林市長に歴史に良い意味で名を残して頂きたい。
そう、高秀秀信市長の先例に倣って。
東急さん?鎌倉市歴史文化交流館を御存知ですか?あそこは某出版社の経営者の方が取得した広大な土地を鎌倉市に寄贈して出来た施設なんですよ?
黒岩知事、あなたの統治下で神奈川県教育委員会が神奈川県立金沢文庫の保有する国宝の経典がカビさせたのは❝エアコンの整備予算❞を出さなかったからですよね?それと同じ失敗を繰り返すのですか?
アナタの支援者には創価学会が付いています、日蓮聖人は密教にも精通し日本各地の聖地霊場と自然と史跡を巡り修行をされた方です、鎌倉市七里ヶ浜で雨乞い神事を行われた場所も史跡に成っておりますし、横須賀市猿島の岩屋も有名です。正に横浜市における円海山の様な場所は日蓮聖人が現代におられたら大切にされる場所でしょうね。実際、磯子区妙法寺と金沢区上行寺は日蓮聖人の聖跡ですが、その上行寺の船中問答の船着き場や六浦湾や上行寺東遺跡を破壊したのも埋立地と開発利権の商奴の如き輩でしたね。
高秀市長の時は大塚歳勝土遺跡と茅ヶ崎城址を保護し素晴らしい都市計画をされ、小机城址も保護されましたよね?御蔭で小机城址は❝続日本100名城❞にも選定されましたが、いつに成れば県指定史跡にするのでしょう?
・・・ましてや円海山の自然をこれ以上破壊するとは、自然保護区として遊歩道を整備して来た歴代市長や知事の意思に反し、横浜市の宗教者達も黙ってはいないでしょうね。
林文子市長、アナタはダイエーの再建に失敗し、待機児童0達成直後だけ良い顔してその後の悪化に関しては大々的に報じない丸で宣伝の様な利用の仕方、素晴らしい政策も良し悪し両方同じ様にアピールしないと誠実とは言えませんよ?給食に代わる弁当予約システムも、学生一人当たり単価がとんでも無い金額に成っているのに、何でWikipediaにはアナタに不利な情報が掲載されるとたちどころに削除されるのでしょうね?そしてアナタの最大支援者はヤクザの山口組を賛美されておりますが、それでカジノを作りたいですか?
市長に成ってからは円海山開発容認発言、間宮林蔵と杉田玄白と間宮士信の祖先で徳川家外戚の間宮家の笹下城址の地形破壊を容認し、笹下城址外郭の松本城址樹齢100年に迫る桜並木を伐採容認し、そして瀬上沢と横浜市最後の蛍の群生地破壊反対票と十万人単位の反対署名無視・・・
まぁカジノは日本人が利用出来ない様にして下されば良いでしょう、しかし円海山と瀬上沢と小机城は一切手出ししないように。そして早く横浜市指定自然保護区域の拡大保護、史跡指定を行う事を切に願います。

まぁ、庶民に合法的に出来る事は語り伝えあなた方の事績の記録を残す事と檀家氏子で共有し、陳情とマスコミと連携して全ての事実をブチ撒けるだけ・・・。

日本屈指の史跡、上行寺東遺跡を破壊させた横浜市役所、同じ事をするなら許さない。

推進派の役人1人々々が個人単位で対 横浜市民数十万単位の御近所様と戦う覚悟でいろ。末代までな。
おまエラが建設利権を貪るよりも、高秀市長の様に歴史知識も文化自然にも見識有る政治家主導の開発地取捨選択と発覚した貴重な場所の保護を両立させた都市計画が大切なんだわ。
今の緑地は既に過去から❝保護すべき場所❞として残された場所なんだわ。
瀬上沢は横浜市の聖地円海山、室町時代まで栄区~神奈川区~磯子区~港南区に跨って使われた幻の地名❝峯❞の由来であり、神道のみならず修験道や真言宗や臨済宗や曹洞宗や浄土宗や浄土真宗や日蓮宗にとっても鎌倉文化にとっても大切な場所なんだわ。
他府県から❝就職❞の為に市役所に入り勤めて、何も考えず何も知らず何も調べず何も横浜市民として郷土愛も持たずに横浜市の古来の日本文化史跡と自然を破壊する一部役人と開発利権無文化土建屋を、保守派と日本の為に世界と戦い横浜復興に力を尽くされた原財閥や浅野財閥の皆さんと同じく生粋のハマっ子日本人は許さない。
横浜市役所に勤めながら横浜に愛着を持てず、横浜の最大最後の自然と文化破壊を何とも思わない奴は日本人を止めろ。いつまでも横浜を地元と思えないなら❝おまエラの地元❞に帰れ!
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平安末期以来の武士金子家と岡本家が守っていた要害化された“観音山”と言う山が横浜市にありました。
Google mapに簡単な解説投稿しました。
御興味ある方は御覧下さい⤵️
現代では近くの横浜横須賀道路建設の影響か地図から山の名前も行政によって消されてしまっています。
戦国時代の岡本家と金子家の主流は北条家臣として北条所領役帳にも登場します。
岡本家は綾瀬市辺りを治め、金子家は鎌倉時代には青梅市を治め戦国時代には北条家臣化し新横浜駅近くの篠原城の城代を務めました。
磯子区域の両家分家は1560年頃には笹下城主間宮与力となり、磯子区の岡本家は江戸時代には分家し徳川直参旗本に成った氷取沢間宮家の宿老となり江戸在住の氷取沢間宮の殿様に代わって氷取沢陣屋を守り続けました。
氷取沢陣屋の跡が氷取沢神社の旧境内地です。
岡本家は直系の他にも能見台辺りを治めた野本家から婿入りした家が有り、それぞれに屋号が今も残ります。
屋敷家、藤左衛門家、酒屋家、星山家、前家等です。
其々の由来を推測すると面白いですね。
屋敷家は陣屋を守っていたのでしょう。
藤左衛門家の左衛門は官職名由来で、左衛門は間宮家が付家老として仕えた上官、北条綱成公の左衛門督に由来する官職です。
間宮家は豊前守(ぶぜんのかみ)と左衛門尉(さえもんのじょう)を代々名乗っていました。
氷取沢市民の森は今では鳥の囀ずり美しい緑地に山城地形のふんだんに残る遊歩道です。
過去に間宮家や岡本家や金子家や氷取沢周辺磯子区の関連記事を幾つか書いています。
以下にリンクを貼るので御興味有る方は御覧下さい。











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G麺7と言う拉麺ファンには良く知られる名店が、戦国の名将間宮康俊公の居館跡の笹下城出丸松本城の御膝元、上大岡駅近くに在ります。
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G麺7

支那そばや、吉村家、すみれ(野毛店)等の老舗で拉麺の神様の本店や直営店に加え・・・

その御弟子さんやニューウェーブ世代が開いた名店の杉田家、王道、くじら軒。

・・・そして、くり山、るい斗と第三世代に名を連ねる横浜の新世代ラーメン名店がこの“G麺7”。
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新世代と言っても拉麺ファンには結構昔から有名で、かれこれ10年くらい前から出店している名店。
小生は間宮家子孫で笹下陣屋を代々守っていた(2019年に歴史をろくすっぽ知らない子孫が陣屋址を分譲売却してしまった)武内廣吉先生が書いた❝久良岐郡地名考❞と言う本を片手に笹下城址散策で馬飼谷(うまかいがやつ)と言う地名を探して付近をプラプラしていた時に、この御店が丁度出店したばかりの時に一度来ていた。
でもあれからもう10年来ていなかったが、久しぶりに間宮家と関係が深い修験門跡寺院鎌倉郡亀谷福禅寺名代権現堂持ちの鹿島神社と森浅間神社が近在するこの土地をフラっと訪れて見た。

始めて食べた時は塩ラーメンで、神奈川端麗系に近い味だった。
神奈川端麗系ってのは横浜発祥の名店“くじら軒”のサッパリしながら旨味も深い拉麺から広がって行ったジャンル。
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それをニューウェーブ世代で超有名な海老名の“中村屋”の社長で拉麺革命児の超イケメン中村栄利クンが更に発展させたジャンル。
その系統の印象だったG麺7は以前のままでも美味しかったが久しぶりに訪れたら更なる改良を加え発展していた。
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御店は相変わらず広くは無い。
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でも奇麗だし調理工程が見えるオープンキッチンで御洒落。
今回注文したのは・・・

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醤油拉麺
所謂、東京醤油拉麺とは全く異なるスープ。
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醤油の甘めのスープがすき焼の様な感じでもあり、くどくなく、淡麗系に近いより上品な味わい。
麺は中細くらいの麺・・・
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これが美味い!とにかくコシがありモチモチ感も有る。
とても美味しい拉麺。
・・・何か以前と全然違うスーパー進化をしている気がする。
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肉も美味しい。肉に関しては“凄い!”と言う程では無いけど、スープと麺が抜群に美味しい!
う~ん・・・
開店当初に食べた時とは差が凄まじくLV‐UPしてる気がする。
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煮卵も安定の美味しさでした。
横浜市民が誇る名店の一つと言っても過言ではないと思う。

余談ですが・・・
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森浅間神社
源頼朝公によって開かれた森浅間神社、旧鎌倉郡修験系門跡寺院の福禅寺名代だった権現堂が治める神社ですが、管理人さんを募集しているみたいです。
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神奈川県神社庁の掲載は少し間違っていて、社伝や間宮家関連の話では正確には源頼朝公の命で当時鎌倉市扇ヵ谷の亀谷(かめがやつ)に存在した福禅寺の住職によって富士山の神様である浅間権現(木花之佐久夜毘売)の御分霊を勧進して開かれた聖地霊場です。
境内に“不動の滝”が有りまして、福禅寺の歴代住職は就任する際は先ずここの不動滝に来て神事を執り行い、それから鎌倉の福禅寺に入ったそうです。そして門跡寺院と言うのは、天皇家の皇族が住職を務める寺院を指します。現代、本願寺系が門跡の名を広く使いますが、本願寺は戦国時代に高い御金を朝廷に支払って門跡寺院の格を獲得したんですね。
門跡寺院ってのはそれだけ凄いと言う事なんです。
まぁ~、詳しい事は以前、森浅間神社単体の記事を書いて有るので御覧下さい。
コレをクリックすると記事読めます⤵
森浅間神社…鎌倉幕府の陣所跡。磯子区屏風ヶ浦。
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鎌倉に在った福禅寺の最後の御住職は長円親王、そして長円親王の兄君が鎌倉幕府最後の征夷大将軍だった守邦親王で、鎌倉幕府滅亡直前に守邦親王は鎌倉幕府森陣屋の在った森浅間神社に逃げて来て難を逃れているので凄まじい“災難除け”の御利益も有る神社でも有る訳です。
何故ここが幕府が陣屋を置いたり、聖地としても重要だったかと言うと、鎌倉時代の福禅寺の御本尊が不動明王だったから自然の湧水の滝のあるこの地が聖地として重要だったからです。
戦うにも堅固な海に面した断崖の丘で飲み水が有るので籠城できますし、飲み水が有るから古代人の集落も形成されて聖地化した訳です。
因みに明治時代の仏教弾圧の際に権現堂家は国の命令で僧籍を返還し神職に専念する事と成り、修験道の道場の内、寺院機能の建物は全て破却させられるか仏教寺院と神社として分離独立させらました。
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その際に権現堂の御本尊だった不動明王像は港南区港南の福聚院に寄託され今に至っています。
小生の独自調査ですが、東京都青梅市二俣尾の海禅寺が状況証拠的には鎌倉の福禅寺の移転先後継寺院のようです。
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この海禅寺は扇谷上杉家の命によってか与力大名で奥多摩の勝沼城主三田家によって開かれてますが、時期が福禅寺の鎌倉での受難の時期と重なっています。
又、間宮家と関わりが有った1570年代に突如として海禅寺が天皇家勅願寺として勅願を賜わっている事、その寺院から住職を招いて間宮家は鶴見区に菩提寺の宝泉寺を復興している事、江戸時代に徳川幕府の官僚が寺号を誤って“海禅寺”と誤記する以前の寺名が“福禅寺”だった事、間宮家の寄親(上官)である北条綱成公の実家の福島姓の帰農した一族が江戸時代を通じて二俣尾村の庄屋を務めています。
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間宮と福島の二家は江戸時代を通じて江の島でも別当を勤めています。
これらの事から十分過ぎる関連性が伺えます。

さて、こんな由緒だたしい森浅間神社ですが前任の管理人御夫婦が御高齢の為か離職され、現在新たに夫婦で住み込み出来る管理人サンを募集中の様です。
mixiチェック

今年も梅が見頃の季節に成りましたので、神奈川県内で綺麗な梅の花の名所を小生の知る場所だけ、一覧として掲載します。
もし他にも県内に素晴らしい梅林を御存じの方は、紹介コメントを残して頂けると幸いです。
※小生が写真未撮影の梅林については公式ホームページの写真を転用し紹介します。
※公式ホームページが有る場所は名前にリンクも貼りますので参考にしてみて下さい。
※梅林の名称をクリックすると、リンク先の公式ホームページを閲覧出来ます。


幕山公園 湯河原梅林 】 
住所:〒259-0313足柄下郡湯河原町鍛冶屋951-1付近
見頃:2月初旬~3月初旬
湯河原梅林様公式 画像拝借1 久良岐のよし 湯河原梅林様公式 画像拝借2 久良岐のよし
※上の画像は公式から拝借 

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イベント
●夜間ライトアップ
※期間については問い合わせ先に電話確認するか、公式ホームページを御覧下さい
湯河原梅林は約4000本の梅を誇る。箱根~小田原~熱海の温泉地や名勝旧跡からも車で1時間以内と近く、周辺には温泉宿も多く有る風光明媚な観光地で泊りがけの梅林鑑賞を楽しめる。期間限定で夜間ライトアップも行っている。
連絡先
湯河原町観光課 TEL 0465-63-2111
アクセス
幕山公園
駐車場…500円~300円(会場との距離で料金が異なる)
JR湯河原駅~バス乗車(約20分に1便間隔)~15分で到着 湯河原梅林 アクセス 久良岐のよし


辻村植物園 】 
住所
:〒250-0042小田原市久野荻久保4381
見頃:2月初旬~3月初旬
辻村植物公園2 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし 
辻村植物公園 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
特に無い。
連絡先
小田原市広報広聴課 TEL 0465-33-1261
アクセス
辻村植物公園
駐車場500円
JR小田原駅西口~バス乗車いこいの森(わんぱくらんど)行き~約10分、辻村植物園で降車
辻村植物公園 アクセス 久良岐のよし 

小田原城 城址公園内梅園
住所:小田原城址公園
見頃:1月末~2月末
小田原城 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は公式から拝借 
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※2015年02月28日撮影。
この頃が見頃。
イベント
梅まつり
梅林の規模は50本前後と小さいが、御城を見学出来る上に場内でレンタル甲冑で写真撮影等も出来る。
また、辻村植物公園の梅林や曽我梅林や小田原フラワーガーデンと合わせて鑑賞に来れる距離。
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
連絡先
TEL 0465-23-1373
アクセス
JR小田原駅から徒歩10分
公共駐車場無し。周辺に私営駐車場有り。 小田原城アクセス 久良岐のよし

小田原フラワーガーデン
住所
:〒250-0055 神奈川県小田原市久野3798-5
見頃:1月末~2月末
小田原フラワーガーデン 公式様より拝借 久良岐のよし 
小田原フラワーガーデン 公式様より拝借2 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
渓流の梅林 梅まつり 
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
連絡先
TEL 0465-34-2814
アクセス
JR小田原駅乗り換え~伊豆箱根鉄道大雄山線飯田岡駅~徒歩10分
駐車場(140台)無料
小田原フラワーガーデンアクセス 久良岐のよし 

曽我梅林
住所
:〒250‐0205神奈川県小田原市曽我別所282付近一帯

見頃:1月末~2月末
曽我梅林 久良岐のよし撮影
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曽我別所梅まつり観光協会様公式 拝借1 久良岐のよし
※流鏑馬画像は公式から拝借
イベント
小田原梅まつり 
※曽我梅林は他の梅林とケタ違いの3万本以上の広大な梅林です。
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
連絡先
小田原別所観光協会 TEL 0465-42-1965
アクセス
電車…JR東海道本線国府津駅~御殿場線に乗り換え~下曽我駅~徒歩15分。
バス…小田原駅・国府津駅からバス有り。中里で降車~徒歩20分。
曽我別所梅まつりアクセス 久良岐のよし 

松岡山東慶寺 &
金峯山浄智寺 】 

住所
東慶寺〒247-0062鎌倉市山ノ内1367

浄智寺〒247-0062鎌倉市山ノ内1402
見頃:2月初旬~3月初旬
東慶寺の梅林
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駆け込み女と駆け出し男
※東慶寺は2015年公開の映画❝駆込み女と駆出し男 ❞の舞台です。 
浄智寺の初春
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イベント
特に無し。
東慶寺は約100本以上、浄智寺にも数十本の梅が咲く。
東慶寺と浄智寺は徒歩5分の距離。
浄智寺は鎌倉五山で鎌倉時代以来、歴代征夷大将軍が直接住職を任命する特別な寺の一つだった。 現在は鎌倉江ノ島七福神巡りの一つ。
東慶寺は鎌倉幕府執権北条時宗の妻、覚山尼様の開基。その後は後醍醐天皇の皇女用堂尼様、戦国時代には豊臣秀頼公の御息女の天秀尼様が住職を務めた。映画❝のぼうの城 ❞のヒロインで女傑として有名な成田甲斐姫も天秀尼様の養育係として仕え東慶寺に同行し住したと伝承する。
又、2015年に公開された映画❝駆込み女と駆出し男 ❞の舞台でもある。 

浄智寺は鎌倉五山の一つの各式を持つだけでなく、嘗(かつ)ては広大な敷地と無数の堂塔を有し、鎌倉公方の仮御所に定められる事も度々有り、足利持氏公や足利成氏公が滞在した場所でもある。 
連絡先
東慶寺 TEL 0467-33-5100
浄智寺 TEL 0467-22-3943
アクセス
東慶寺 JR北鎌倉駅~徒歩5分
浄智寺 JR北鎌倉駅~徒歩8分
東慶寺浄智寺アクセス 久良岐のよし 


錦屏山 瑞泉寺荏柄天神社
住所:
瑞泉寺 〒248-0002 鎌倉市二階堂710
荏柄天神社 〒248-0002 鎌倉市二階堂74
見頃:1月中旬3月初旬、黄梅は2月中旬~3月中旬 
瑞泉寺様公式mayumi-katsu様撮影 拝借1 久良岐のよし
※上の画像は瑞泉寺様公式から拝借
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荏柄天神社は日本三古天神社の一つに数えられる天満宮で、境内には数十本の梅が咲く。
イベント:
瑞泉寺
瑞泉寺様公式催事 拝借 久良岐のよし
※画像は瑞泉寺様公式から拝借
季節ごとに、その季節に見頃の花を植樹してある。梅は数百本を数える。
鎌倉時代~江戸時代まで権力者達が心の安らぎを瑞泉寺の花々に求めて訪れ歌会等を催した。
裏山にかつて在った一覧亭と言う建築からの眺望が良く、水戸徳川光圀(黄門様)も訪れた。
近くの荏柄天神社にも数十本の梅が植樹されているので、荏柄天神社と瑞泉寺をセットで見学するのが御薦め。
徒歩に行ける範囲の浄妙寺や鎌倉宮と合わせて見学しても、より鎌倉市街の旧鎌倉幕府拠点地域の原風景を楽しめる。浄明寺では抹茶も飲める。鎌倉宮は桜の名所。
連絡先
瑞泉寺 TEL 0467-22-1191
荏柄天神社 TEL 0467-25-1772
アクセス:
荏柄天神社 鎌倉駅東口~バス(大塔宮行き)乗車10分~天神前で降車
瑞泉寺 鎌倉駅東口~バス(大塔宮行き)乗車15分~終点大塔宮で降車
瑞泉寺荏柄天神社アクセス 久良岐のよし 

日比谷花壇大船フラワーセンター
住所:
〒247-0072 神奈川県鎌倉市岡本1018
見頃:2月初旬~3月初旬
大船フラワーセンター様公式 拝借1 久良岐のよし
※上の画像は大船フラワーセンター様公式から拝借
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※植物園なので梅だけではなく玉縄桜や初春の花が同時に見られます。
イベント:

玉縄桜を楽しもう
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
玉縄桜の❝玉縄❞とは古来より伝わるこの地域の地名で、戦国時代、今の清泉女学院中学校を本丸にした❝玉縄城❞と言う名城が在った。上杉謙信軍10万、武田信玄軍2万6千に攻められても落城しなかった堅城だった。
その歴代城主が小田原北条家親族の玉縄北条家で、玉縄桜はその殿様の居城の名を頂いた由緒正しい桜で、観梅の頃に咲く。近くの龍寶寺は関東最強の武将北条綱成公の菩提寺で歴代城主の御廟所も在る。境内には他に玉縄歴史資料館も有り、玉縄城の復元縄張り模型や出土品が展示されている。
連絡先:
神奈川県立フラワーセンター大船植物園 TEL 0467-46-2188
アクセス:
駐車場109台
電車&徒歩 
大船駅降車 大船駅西口(大船観音側)~徒歩16分
バス 
大船駅西口バスターミナル1番乗り場から❝渡内経由藤沢駅行き❞か❝公会堂経由城廻り中村行き❞に乗車~❝岡本(駅から3番目のバス停)❞で降車~徒歩3分。 
大船フラワーセンターアクセス 久良岐のよし制作 

田浦梅の里
住所:
横須賀市田浦大作町
見頃:2月初旬~3月初旬
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イベント:
梅林まつり 
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
田浦梅林は令和年間の今上(現在の)上皇陛下の御生誕記念に植樹されたのが始まりで現在では梅の本数は2700本を超え、梅の根元には水仙75,000株が植えられている。
田浦の山全体に梅が植林されており、山頂からは梅林越しに懐かしい神奈川の里山の風景を眺める事が出来る。
連絡先:田浦観光協会 TEL 046-961-4181
アクセス:
バスと徒歩…田浦郵便局バス停で降車~山頂まで徒歩20分
電車(JR)と徒歩…JR田浦駅で降車~山頂まで徒歩25分
電車(京急)と徒歩…京急田浦駅で降車~山頂まで徒歩40分
田浦梅林

岡村梅林
住所:
〒235-0021横浜市磯子区岡村6-8-19
見頃:2月初旬~3月初旬
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イベント
夜間ライトアップ
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
梅まつり
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
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岡村梅林は大きくは無いが、150本前後の梅が植林されている。
この岡村梅林は、元々周辺の横浜市立岡村公園(スポーツ公園)と合わせて、近隣の岡村天満宮の社地だった。岡村天満宮の開基は鎌倉御家人三浦家の一族の平子家と伝わり、その人物は平子有長公と推定出来る。有長公は鎌倉御家人で最初の源頼朝公暗殺未遂事件の実行犯を取り押さえた勇敢な武将でもあった。丘の裏手には戦国時代の名将北条氏繁公の開いた龍珠院も在る。
岡村天満宮の社領は第二次世界大戦後に米軍に接収された後、横浜市に返還されたが横浜市が岡村天満宮に返還しなかった為に一度、岡村梅林は消滅したが、岡村天満宮の氏子様の有志達が旧社地の一部を買戻し、現在の岡村梅林部分にも梅を植林し梅林を復興して下さった歴史が有る。
連絡先:岡村公園 TEL 045-751-4375
アクセス:
バス
京急弘明寺駅/市営地下鉄弘明寺駅/蒔田駅/JR磯子駅のいずれかの駅から乗車~天神前バス停か岡村交番前バス停で降車~徒歩5分
駐車場…岡村公園の有料駐車場~徒歩3分
岡村梅林アクセス

根岸森林公園
住所:
〒231-0853 横浜市中区根岸台1-2
見頃:2月初旬~3月初旬
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※上写真は明治時代の旧競馬場一等観覧席(米軍横須賀ベース管理の史跡)DSC_0129ドルフィン外観DSC_0131眺望
イベント:特に無い。
広い芝生の広場と園内に広がる桜林は横浜市民の憩いの場としても有名だが、公園の中央には400本からの梅林も整備されている。
もともとは競馬場だった。
幕末、横浜港が開港され本牧半島が外国人居留地に成った事で、駐在する欧米の外交官や軍人の要望で明治時代に建設された日本最初の競馬場の跡地。
隣接してJRAのポニー広場や競馬関連の博物館も有り、御弁当を持参すれば小さい子供連れの家族でゆっくり時間を過ごせる場所。自然湧水の池では子供がザリガニ捕り等も楽しめるる公園。
又、徒歩すぐの場所にはユーミンが十代の頃、まだ芸名が荒井由実だった時代に❝海を見ていた午後❞と言う曲で歌詞に歌ったレストランの❝ドルフィン❞が有る。
ドルフィンソーダを頼むと、この
「海を見ていた午後」の曲をかけて貰えます。

連絡先:横浜市環境創造局 TEL 045-671-3648
アクセス:
JR根岸駅~徒歩15分
駐車場有り。
根岸森林公園アクセス 久良岐のよし


国指定名勝 三渓園
住所:
231-0824横浜市中区本牧三之谷58‐1
見頃:2月初旬~3月初旬
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イベント:
季節ごとのイベント有り、梅の季節は原家以来の伝統で茶が振る舞われる。
桜の季節には観桜の夕べで桜の夜間ライトアップ有り。
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
明治時代の原財閥の富豪、原三渓が当時、廃仏毀釈で荒廃した全国の仏閣や徳川家所縁の城跡の建築文化財を広大な私邸に移築し保護した。日本で全国に先駆けて私立公園として私邸の建築文化財と日本庭園を広く庶民に公開した。
中には聖武天皇の勅願所だった京都府の灯明寺の旧本堂や三重塔や鎌倉の尼寺東慶寺の仏殿、紀州徳川家の和歌山の別荘や、京都の伏見城等、数え切れない程の建築遺産が移築保護されている。
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現在は原財閥から横浜市が管理を委ねられている。
原三渓の御蔭で破壊を免れた重要文化財や、季節ごとの花の綺麗な広大な日本庭園。
連絡先:045-621-0834
アクセス:
駐車場有り。
桜の季節は駐車場に入るのに1時間以上待つ場合が多々有ります。
電車&バス
JR根岸駅でバス乗車~本牧下車。
JR桜木町駅/横浜駅東口~バス乗車~本牧三渓園バス停降車~徒歩5分。
みなとみらい線元町中華街駅4番出口近く、山下町バス停乗車~本牧三渓園バス停降車~徒歩5分。
三渓園様公式拝借2 久良岐のよし
三渓園アクセス 久良岐のよし

大倉山公園梅林
住所
:〒222-0037 横浜市港北区大倉山2-36-8付近
見頃:2月初旬~3月初旬
大倉山観梅会様公式 拝借2 久良岐のよし
※写真は大倉山観梅会運営様公式から拝借
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イベント
大倉山観梅会
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
大倉山観梅会様公式 拝借1 久良岐のよし
※画像は2016年の広告
大倉山の梅林の隣には、戦国時代の北条家重臣笠原康勝公が開いた竜松院と言う御寺が在る。
その御寺を含む大倉山公園~太尾見晴らしの丘公園にかけて続く鶴見川河畔の丘陵は、笠原家の居城❝大曾根城❞だった。
その城址に小規模な梅林が有り丘一体は大倉山地区の住民の憩いの場だったのを、東急不動産が開発破壊しようとした際に、義挙した住民が一丸と成り東急の城址と自然破壊に反対し、約30年前当時の細郷横浜市長の下で横浜市が買い上げ自然を残した公園として整備し梅林として有名に成った。
初春には周辺地域からも観梅客で賑わう。
連絡先:港北区地域振興課(観梅会実行委員会事務局) TEL 045-540-2235

本沢梅園(ほんざわばいえん)
住所:
相模原市緑区河尻4457‐1
見頃:2月初旬~3月初旬

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イベント:
開園期間
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
※本沢梅園は官営なので管理人が常駐しておらず、開園期間以外は梅園の遊歩道には入れない。
※梅園自体は山腹の斜面に広がっているので、道路沿いからでも十分観梅が楽しめる。
本沢梅園祭り
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
約1000本の梅が植林されている。
昔は谷だったが、近隣の津久井湖建設の残土で谷間を埋めて、そこに梅を植林した。
周辺に歴史史跡も多く、山頂の金刀比羅宮は古来、雨乞いの神事が行われた水の枯れない池が在る。
梅林から尾根伝いの山裾(やますそ)の寶泉寺を囲む山は平安時代末期に長井家によって築城された小松城址でもある。
近くの津久井湖や戦国時代の名城、津久井城址の山のピクニック等と合わせて見学に行くと、1日中自然を満喫出来る良いレクリエーションに成る。
※津久井城址は根古屋地区のパークセンターに無料駐車場有り、鎧や城址復元図等の展示も有る。
連絡先:
相模原市コールセンター TEL 042-770-7777
城山まちづくりセンター TEL 042-783-8115
アクセス:
駐車場…無料130台
バスと徒歩…JR/京王線の橋本駅~バス❝若葉台住宅行き❞に乗車~若葉台住宅で降車~徒歩30分。
本沢梅園アクセス

 

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品濃白幡神社の解説で、鎌倉時代~明治時代まで横浜市南部の神社仏閣を守って来た権現堂と泉蔵院と言う修験道の道場と、そこを戦国時代から治めた北条家臣間宮家の子孫の松本家と関家に少し触れました。
その時の記事、クリックで読めます⤵
商業街の中に在る戸塚区品濃の白幡神社と白幡山公園
・・・実は凄い歴史偉人と関係有ります。


その権現堂と泉蔵院が何故、横浜市南部の神社仏閣を支配する事に成ったか解説したいと思います。

横浜市南部の神社の多くは鎌倉時代から修験道の2系統の家系によって管理されていたんです。
1つ目は亀谷福禅寺権現堂(かめがやつ ふくぜんじ ごんげんどう)
2つ目は大靈山山崎泉蔵坊(だいれいさん やまざ きせんぞうぼう)
この二つは何(いず)れも修験道の大道場で、とても由緒有る神社であり寺院としての道場機能も有していました。新編武蔵風土記稿を読むと解かりますが、旧鎌倉郡と久良岐郡域の内、江戸時代に本牧奉行間宮家本家と、分家で江戸幕府鷹匠頭の杦田(すぎた)間宮家が支配した地域では、権現堂と泉蔵坊が神社を分けて統治していた記録が有ります。そして、この両社は源頼朝公が支援した修験道道場でしたので、その支配は間宮家の統治によるものと言うよりは鎌倉時代からの統治機構の名残りだったのかも知れません。
更には、旧鎌倉郡江島神社を管理した岩本坊間宮家、旧高座郡に当たる海老名市の古代相模国一之宮今五之宮であり延喜式内社の有鹿神社が存在しますが、戦国時代に海老名の中心部は間宮家の所領でしたし間宮康俊と言う殿様の時代に一度途絶えた有鹿神社の水引神事が復興されています。そして、相模国二之宮の川勾神社宮司家や二宮尊徳を輩出した二宮家にも間宮家から養子が戦国時代に入っていたりします。
ついでに少し品濃白幡神社から話を逸れて、間宮家や旧北条家臣団が如何に神社や修験道に宗教的な影響力を持っていたかを知っていると色々と解る事も有るので説明して置きたいと思います。
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上の写真は旧杦田郷(すぎたごう)の現代の港南区と磯子区の境に跨る笹下城本丸跡地形。
この笹下城跡の本丸は三井不動産レジデンシャルによって右側の大空堀が掘削された後に盛土され一部破壊されましたが今も介護施設の裏山として存在しています。
安土桃山時代に豊臣秀吉の小田原北条家討伐戦で間宮家は、当時の笹下城主で間宮家当主の間宮康俊公が72歳の高齢で玉縄城主北条氏勝公与力の付家老として箱根山中(三島市側)の山中城に籠城します。
この時に間宮康俊公の寄親(上官)の北条氏勝公が敵前逃亡して玉縄衆兵3,000を率いて玉縄城に撤退してしまうのですが、間宮康俊公だけは山中城主松田康長を見捨てず山中城に籠城し続けました。
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写真はGoogle earthで見た山中城址の航空写真。
笹下城主間宮家臣団兵200、松田康長公の部隊兵100の合計300で籠城、豊臣秀吉本隊80,000の大軍勢を迎え撃ちます。
敵は本隊先方豊臣秀次隊・与力豊臣家小大名の中村一氏隊と家臣の渡辺勘兵衛隊・堀尾吉晴隊、山内一豊隊、一柳直末隊の合計26,000余。
右翼、池田輝政隊20,000。
左翼、徳川家康隊30,000。
援軍主将で間宮家の上官だった北条氏勝公が撤退していなくても戦力比は圧倒的不利でした。
北条氏勝公逃亡前 三千余 対 八万余の豊臣軍 
戦力比 1:26
つまり北条家は1人26殺しないと勝てない。だから北条氏勝公は家臣等に説得されてしまい小田原防衛網を放棄逃亡して自領に逃げてしまった訳ですね。
そして間宮家以外の玉縄衆が全部撤退してしまった後の山中城籠城勢 対 豊臣軍の戦力差は更に絶望的な物と成りました。
松田・間宮連合(山中城籠城勢) 300 対 26000 豊臣軍先方 豊臣秀次隊と与力小大名衆。
戦力比 1:86。
1人86殺、常識的には反抗するのも無理な次元での籠城戦、普通は誰も助けに来ない。

なんで品濃白幡神社の説明で戦国時代の間宮家の説明に成るんだろうな~?と歴史に興味が無い人はここまで読んで頓珍漢(とんちんかん)に話がズレてると思うでしょうが、実はここから品濃白幡神社のみならず神奈川県域の全神社にも繋がりが出てきます。
この超絶不利な状況で間宮家の籠城する山中城に僅(わず)かな援軍を出した勢力が一つだけいました。
・・・それが実は延喜式内社、大山阿夫利神社と別当寺の大山寺を守っていた神官僧兵達でした。
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写真は伊勢原市の大山国定公園遠景。大山の三角形の山体と頂上の石山権現と言われた奇岩が縄文時代からの信仰対象で、古来聖地として発展し、神道や修験道や真言宗の聖地として多くの僧兵を抱える一大勢力でした。
豊臣家による北条征伐の過程で発生した超絶不利な間宮家による山中城の防衛戦で間宮家を支援したのが決死隊として大山から参陣した神官僧侶を兼ねる修験者の僅かな部隊でした。
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写真は宗教、築城、鷹狩、有職故実に精通した間宮家が山中城防衛強化の為に三の丸の更に先に増築した岱崎出丸の先端、三日月掘りと言う構造体。
この岱崎出丸で先ず間宮家は修験者部隊と協力して豊臣軍26000の大軍を迎撃して鉄砲隊で散々に損害を与え、敵大名の一柳直末公を討取ってしまします。
更に間宮家・松田家・大山修験者僧兵達は一人残らず討死しますが、何と戦が終わった時には驚愕の籠城兵300で敵戦死者3000余、損害多数の戦果を残していました。
この事からも判りますが圧倒的に不利な合戦でも多くの神社仏閣を管理した大山阿夫利神社と大山寺の僧兵達から支援される程に宗教的な家格が高かったのが間宮家な訳です。
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写真は大山の参道に建つ宿坊の一つ、東学坊。大山名物の美味しい豆腐や猪の料理を食べられる旅館。
大山の修験者の多くは安土桃山時代に武器を捨てて僧兵を辞め、江戸時代に成ると先導師と呼ばれ聖地礼拝の観光客相手に宿坊と呼ばれる神社寺院機能を備えた旅館を経営し大山観光産業の一翼を担い現代に至ります。
江戸時代の神仏分離までは伊勢参り富士山参りに次いで大山詣でが江戸市民から人気の観光地でしたから今も関東の各都市には大山街道が残っています。
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間宮家所縁(ゆかり)の町ですと杉田商店街のメインストリートが近代に再整備された横浜~伊勢原線で大山街道の一つですね。
間宮家は、この山中城の戦いの活躍に加えて江戸時代に徳川家康公の旗本となり氷取沢間宮家初代と成った間宮康俊公の御実弟の間宮綱信公が北条家の外交官として織田信長公への外交使者を務めたり、徳川家康公にも外交使者を務めて名が知れていた事や、間宮家が武家にとっては貴重な材木と海運のノウハウに加えて宗教と宗教建築知識と鶴岡八幡宮再建事業での実績が有る事、そして極め付きが一般的な武将が保有しない武士の教養である鷹狩に必要不可欠な鷹育成の特殊技術を有していた事から分家の杦田間宮家の間宮信繁公が徳川家康公の参謀 兼 鷹匠頭として登用されました。
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写真は杦田間宮家菩提寺の妙法寺の山門。境内には今も杦田間宮家歴代殿様の巨大な御廟所が有る。
この杦田間宮家の間宮信繁公が、関ヶ原の戦いで徳川本隊3万の前進を進言して小早川秀秋公の東軍寝返りを実現させた名軍師でした。この小早川勢寝返りの工作を進めたのが間宮家と同族の宇多源氏黒田家の黒田長政公でした。
この間宮信繁公の姫が、初代久能山東照宮の大宮司の榊原照久公に嫁いでいる事からも宗教的な間宮家の家格の高さが解かりますね。
そして間宮本家の笹下間宮も名軍師を輩出します。

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写真は磯子区田中の妙蓮寺、間宮直元公と奥方の菩提寺。近年まで直元公の彫像を御神像とする御社が有ったが火災で焼失したが、奥方の墓所は現存する。
間宮直元公です。この人が徳川幕府による豊臣家攻め大坂城の戦いで真田幸村籠もる真田丸や大坂城総掘りの埋め立て作戦を直接徳川家康公に進言し、真田幸村の軍略を無力化させ豊臣家を滅亡させる留めを刺した名軍師でした。間宮直元公は間宮家の土木知識と水運技術を活かして二代目佐渡金山代官、初代但馬奉行、生野銀山代官、初代本牧奉行(神奈川奉行=横浜市長の前身)を務めた人物でもありました。
つまり間宮家は武家としても重要人物達と繋がりが有るだけでなく、中世の宗教者達とも希有(けう)な太いコネクションと信頼関係を築き、宗教建築や土木技術と教養も有した文武両道の学者気質武家の家柄だった訳ですが・・・
旧鎌倉郡に当たる品濃白幡神社や下永谷の神明社等を近年まで管理したのが関家で、この家も又、間宮家同様に‟旧北条家臣”の関一族でした。この関と言う家は北条家臣団でも最古参の部類で、北条(伊勢)家と同族の伊勢平氏です。間宮家は北条家臣中、相模十四騎筆頭と呼ばれた家でしたが、つまり関家も小田原北条家の重臣の一人でした。
品濃白幡神社を含めて横浜市域では権現堂家と関家が横浜市南部の神社の多くを近代まで支配下に置いて管理していました。
余談ですが江戸の宗教も旧北条家臣伊丹家が大きな影響を持っていて、浅草寺や深川の富岡八幡宮等はその伊丹家が関与した場所でした。伊丹家は戦国時代に北条家臣として金沢区釜利谷に所領を与えられていましたが、関西に残った同族の伊丹家の子孫からは仏師として有名な江戸時代の彫刻家の左甚五郎も排出しています。日光東照宮の社寺建築で大きな功績を残した名工ですね。この伊丹家は源頼朝公が開いた金沢八景駅前の瀬戸神社や、その御分霊を頂いて伊丹家が開いた手子神社を支援した家です。
その伊丹家や間宮家と同じ旧北条家臣で北条家と同族の伊勢平氏の関家で富岡八幡宮や品濃白幡神社や永谷神明神社に影響力を持っていて、間宮家が久良岐郡を江戸中期に離れてからは泉蔵院にも関わりが有りました。

因みに家紋を比較すると色々と面白い宮司家の秘密が解かったりしますよ・・・

北条家:三鱗紋と対蝶文
三つ鱗紋対い蝶紋

関家 :揚羽蝶
揚羽蝶紋

揚羽蝶の家紋から両者が伊勢平氏で同族である事も判る様に成っている訳です。
では間宮家と福禅寺権現堂家の家紋も比較しましょう・・・
間宮家:隅立四目結紋
隅立て四ツ目結び紋
権現堂:丸に隅立四目結紋
丸に隅立て四ツ目紋

現代人には「家紋なんて好きに使えば良いじゃん?」って意味も理解していない人も居ますが、家紋は勝手に変えちゃいけないし、祖先や親戚の本家や上司から親族や重臣として認められて与えられないと勝手に使っちゃいけない物なんです。
ちゃんと自分が何処の出身のどの家系か、いつの時代に分岐したり活躍したかを辿(たど)れる言うなればレポートの索引のページを表す記号みたいな役割が家紋には有るんですよ。
因みに〇で囲みの有る家紋は一般的に本家から独立する時に分家が与えられた家紋だったり、神社仏閣の寺紋や社紋なら支援した殿様に重視され大切にされた証として〇で囲んだ殿様の家の家紋の使用許可を頂く場合が多く有ります。
例えば・・・
三つ鱗紋
北条家の三鱗紋ですが、鎌倉時代の鎌倉幕府執権北条家や戦国時代の北条家や分家の玉縄北条家や神保家が支援した御寺や神社では下の家紋が使われます。
丸に三ツ鱗紋
丸に三鱗紋。
これを使う神社は鎌倉幕府執権の北条時頼公が支援した鎌倉の宇賀福神社(銭洗い弁才天)や、金沢北条実時公と戦国時代の北条家と江戸時代の間宮家が支援した南区の寶生寺、玉縄城主北条綱成公が支援した磯子区の龍珠院、金沢区の伝心寺等が有ります。
ね?家紋にも意味が有るんですよ、家系や神社仏閣の歴史を辿れる。

・・・少なくとも戦国時代から最近までずっとそうだった訳です。
では権現堂家と関家の解説をしたいと思います。
1つ目、福禅寺権現堂と森浅間神社
権現堂は、元は源氏の元の本拠地の鎌倉市亀ヶ谷に在った修験道の聖地を管理した権現堂住職の家系で港南区港南に機能移転して来ました。
福禅寺は元は神仏習合の修験道の門跡寺院で鎌倉時代に源氏将軍家が暗殺され、九条(藤原)将軍が政略で失脚させられ、その後に天皇家から将軍を迎える様に成った時代に将軍家同様に皇族を住職に迎えた由緒正しい修験道系の道場、神様と仏様の両方を祀り天下泰平の祈祷を行う天下有数の道場でした。
この福禅寺の“名代”である権現堂を受け継いだ家系は現在姓を松本と名乗りますが、間宮家の家系図では江戸時代に本牧奉行を務めた間宮家の本家の笹下間宮家から養子が入っています。
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磯子区森(屛風ヶ浦)の森浅間神社は元々、権現堂の聖地霊場として源頼朝公によって開かれた場所なので、現在も権現堂家が宮司職を引き継いでいます。福禅寺歴代住職は就任する際に必ず森浅間神社で就任儀式を行っていました。
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写真は東京都青梅市二俣尾の海禅寺(旧:福禅寺)。
室町時代中期に東京都青梅市二俣尾に扇谷上杉家と三田家によって福禅寺が再興されますが、これが扇谷上杉家が滅亡してから後の北条家統治下の間宮康俊公の時代に唐突に‟天皇家勅願所”に成った事からも間宮家の宗教的な影響力が理解出来ます。
この福禅寺から戦国時代に間宮康俊公によって和尚様を招いて再興されたのが、間宮康俊公の曾祖父の間宮信冬公によって開かれたと伝わる鶴見区下末吉の寶泉寺です。
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これらは全部、歴史を辿ると繋がりが有ります。
そして権現堂は福禅寺名代の格式を得ていた事が当時の手紙に記されており、鎌倉時代には福禅寺は皇族の長円親王が住職を務めていた門跡寺院に成っていた歴史から格の高さが解かります。
それ故に旧久良岐郡の全ての神社の内、泉蔵院の統治した神社以外全ての管理を行っていました。その存在意義が関係する神社仏閣の歴史や関わった歴史偉人からも良く理解出来ます。

2つ目、大靈山 泉蔵院 桐谷寺(現:磯子区中原の熊野神社)
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ここは明治政府の宗教改革の失敗の代表例である廃仏毀釈で修験道道場寺院機能を廃止されて規模が縮小されてしまって今では住宅街の中の小さな熊野神社ですが、元々は鎌倉市山崎に存在し源頼朝公が福禅寺権現堂同様に重視した修験道の道場の山崎泉蔵坊の聖地として開かれた熊野神社でした。
鎌倉時代末期の新田義貞による神社仏閣の焼き討ちや、室町時代にも上杉禅秀の乱や永享の乱で鎌倉では戦火が治まらず寺院の維持が困難に成り、今の磯子区中原の熊野神社に山崎泉蔵坊の機能を移転して本拠地として大道場化し寺号も大靈山泉蔵院桐谷寺と改め明治時代まで繁栄しました。
久良岐郡域と鎌倉郡域で権現堂が支配した神社以外、修験道系神社は全て、この泉蔵院が統治していた事を新編武蔵風土記稿の中で間宮家の子孫で東京大学前身の昌平坂学問所頭取を務めた間宮士信公が書き残しています。
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この熊野神社や富岡八幡宮に強い影響力を持っていたのが関家でした。
この関家の一族は旧北条家臣団として間宮家同様に武蔵国域~相模国域まで広く分布していましたが、現代では宮司家としての関家は家系が途絶えてしまいました。
しかし例えば都筑区には関一族の末裔の旧家が文化財として残っていたりします。
sekikezenkei1 横浜市教育委員会より拝借
※画像は横浜市より拝借。
北条家臣団の城持ち級の武士の1560年前後の所得を記した北条家の所領役帳を江戸時代に写した小田原北条所領役帳と言う文献にも、関家も間宮家も一族の武将が領地名と一緒に登場します。
間宮家は別の解説記事で以前、所得を書いているので今回は関さんの領地がどんな感じに分布していたか現在の地名と照らし合わせて見てみましょう。

関新次郎
泉水寺領(地所不明)※小田原市、足柄下郡、南足柄市、足柄上郡の何処か
四宮長沼共ニ(平塚市四宮周辺)
富岡之内(横浜市金沢区富岡) 本郷買得ニ替而被下

関兵部丞
羽鳥辻堂(藤沢市羽鳥~辻堂の一部)
鶴間(相模原市~大和市の林間と鶴間の地名の付く地域周辺)
飯嶋(平塚市飯島)
北大繩(平塚市岡崎辺り)
一宮(地所不明)※多摩市一宮or寒川町
宿立(川越市山田)
岡郷(横浜市磯子区滝頭~岡村町一帯)

関弥次郎
新土今里(平塚市真土)
台之村(鎌倉市台)

関さんの土地は、まぁ~こんな風に埼玉県~東京都~神奈川県域に散らばって存在していた訳です。
安土桃山時代の記録は残っていませんが、北条家の所領も関東全域に広がって行ったので関東全域にも関さんの土地が有ったかも知れません。
そして、その土地に根差し分家に成って行った人達が多く江戸時代に庄屋サンとなり神社や御寺を守り、明治に成ると神社の宮司や地主として昭和の最初の頃まで土地土地の歴史を守って来た訳ですね。
そして関さんの一族は北条家滅亡後に御先祖様の出身地である伊勢神宮の在る伊勢国に移住した一族もいるので、北条家臣団の中でも元々、間宮家と同じく宗教的な知識を深く保有する家系だったのかも知れません。
領地がある場所も神奈川県域では延喜式内社の所在地や比較的有名な神社の在る場所ばかりですしね。
前鳥神社とか富岡八幡宮とか岡村天満宮とか。

まぁ~、関家が磯子区の泉蔵院や杉田周辺にどの段階で関与したかは不明ですが、近代には横浜市域の海苔の養殖等を振興し活躍された関寅吉さんの様な人物も排出したり、殿様じゃなくたってからも宗教文化でも地域振興でも活躍した家系だった様です。
間宮家も江戸時代に間宮林蔵や杉田玄白や間宮士信等の学者を輩出して、宗教では江ノ島の岩本間宮家が真言密教系修験道として明治まで寺院機能を保持して江島神社を管理していました。
そんな関家や間宮家と、泉蔵院と権現堂が横浜市南部の多くの神社を守って来たんですよ~と言う解説でした。

間宮家につてはタグ検索‟間宮”で色々と記事が有りますので御興味有る方は、下をクリックして関係記事を読んで見て下さい。
これクリックで間宮家の関係記事リンク→●間宮家

今回の記事は御寺や神社の‟歴史”に興味が無い人には本当に興味が湧かないかな?
でも実は横浜市南部の神社や御寺には源頼朝公以来の統治機構や、戦国時代からの家系がそのまま残っていた場所も多く有るんですよ~てのが皆さんには伝わったかな?

次は北条家臣で官僚だった横浜市北部の殿様の中田加賀守の関係先の御寺の紹介をしたいと思います。
では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
mixiチェック

平安時代の人々は梅の花を見て春の訪れを感じたそうです… 
そんな訳で神奈川県内で綺麗な梅の花の名所を小生の知る場所だけ、一覧として掲載します。
もし他にも県内に素晴らしい梅林を御存じの方は、紹介コメントを残して頂けると幸いです。
※小生がブログ写真の未撮影の梅林については公式ホームページ写真を転用紹介します。
※公式ホームページが有る場所は名前にリンクも貼りますので参考にしてみて下さい。
※梅林の名称をクリックすると、リンク先の公式ホームページを閲覧出来ます。
※過去記事転載でイベント日程が以前のまま記載されている部分が有りますので、詳細は掲載された問い合わせ先にご確認ください!

湯河原梅林
住所〒259-0313足柄下郡湯河原町鍛冶屋951-1付近
見頃:3月初旬
湯河原梅林様公式 画像拝借1 久良岐のよし  
湯河原梅林様公式 画像拝借2 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
湯河原梅林は約4000本の梅を誇る。箱根~小田原~熱海の温泉地や名勝旧跡からも車で1時間以内と近く、周辺には温泉宿も多く有る風光明媚な観光地で泊りがけの梅林鑑賞を楽しめる夜間ライトアップも行っている。
梅の宴 例ねん02月初旬~03月中旬開催※詳細は御自分で問い合わせして下さい。 
夜間ライトUP 02月末~03月初旬の18:00~20:30の時間 ※詳細は御自分で問い合わせして下さい。 
連絡先
湯河原町観光課 TEL 0465-63-2111
アクセス
幕山公園
駐車場…500円~300円(会場との距離で料金が異なる)
JR湯河原駅~バス乗車(約20分に1便間隔)~15分で到着 湯河原梅林 アクセス 久良岐のよし



【辻村植物公園】
住所
〒250-0042小田原市久野荻久保4381
見頃:2月末~3月初旬
辻村植物公園2 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし 
辻村植物公園 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
特に無い。
連絡先
小田原市広報広聴課 TEL 0465-33-1261
アクセス
辻村植物公園
駐車場500円
JR小田原駅西口~バス乗車いこいの森(わんぱくらんど)行き~約10分、辻村植物園で降車
辻村植物公園 アクセス 久良岐のよし 

小田原城 城址公園内梅園
住所小田原城址公園
見頃:2月中旬~3月初旬
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2015-02-28-16-54-45
2015-02-28-16-16-24
イベント
梅まつり
※公式ホームページで御確認下さい。
梅林の規模は50本前後と小さいが、御城を見学出来る上に場内でレンタル甲冑で写真撮影等も出来る。
また、辻村植物公園の梅林や曽我梅林や小田原フラワーガーデンと合わせて鑑賞に来れる距離。
連絡先
TEL 0465-23-1373
アクセス
JR小田原駅から徒歩10分
公共駐車場無し。周辺に私営駐車場有り。 小田原城アクセス 久良岐のよし


小田原フラワーガーデン
住所
〒250-0055 神奈川県小田原市久野3798-5
見頃:2月中旬~3月初旬
小田原フラワーガーデン 公式様より拝借 久良岐のよし 
小田原フラワーガーデン 公式様より拝借2 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
渓流の梅林 梅まつり
※公式ホームページで御確認下さい。
連絡先
TEL 0465-34-2814
アクセス
JR小田原駅乗り換え~伊豆箱根鉄道大雄山線飯田岡駅~徒歩10分
駐車場(140台)無料
小田原フラワーガーデンアクセス 久良岐のよし 


曽我梅林
住所
〒250‐0205神奈川県小田原市曽我別所282付近一帯

見頃:2月初旬~3月初旬
曽我別所梅まつり観光協会様公式 拝借1 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
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2015-02-28-17-38-43 
2015-02-28-17-33-47
イベント
小田原梅まつり
※公式ホームページで御確認下さい。
※曽我梅林は他の梅林とケタ違いの3万本以上の広大な梅林です。
連絡先
小田原別所観光協会 TEL 0465-42-1965
アクセス
電車…JR東海道本線国府津駅~御殿場線に乗り換え~下曽我駅~徒歩15分。
バス…小田原駅・国府津駅からバス有り。中里で降車~徒歩20分。
曽我別所梅まつりアクセス 久良岐のよし 


松岡山東慶寺 金峯山浄智寺
住所
東慶寺〒247‐0062鎌倉市山ノ内1367

浄智寺〒247-0062鎌倉市山ノ内1402
見頃:2月下旬~3月初旬

【東慶寺】

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駆け込み女と駆け出し男
※東慶寺は2015年公開の映画❝駆込み女と駆出し男 ❞の舞台です。 

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【浄智寺】
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浄智寺は鎌倉五山で京都の征夷大将軍が直接住職を任命する特別な寺だった。
現在は鎌倉江ノ島七福神巡りの一つ。 

東慶寺から徒歩5分。
※2015年06月14日に撮影
イベント
特に無し。
東慶寺は約100本以上、浄智寺にも数十本の梅が咲く。
東慶寺と浄智寺は徒歩5分の距離。ともに歴史が深く、東慶寺は鎌倉幕府執権北条時宗の妻、覚山尼様の開基。その後は後醍醐天皇の皇女用堂尼様、戦国時代には豊臣秀頼公の御息女の天秀尼様が住職を務めた。映画❝のぼうの城 ❞のヒロインで女傑として有名な成田甲斐姫も天秀尼様の養育係として仕え東慶寺に同行し住したと伝承する。
浄智寺は鎌倉五山の一つの各式を持つだけでなく、嘗(かつ)ては広大な敷地と無数の堂塔を有し、鎌倉公方の仮御所に定められる事も度々有り、足利持氏公や足利成氏公が滞在した場所でもある。
連絡先
東慶寺 TEL 0467-33-5100
浄智寺 TEL 0467-22-3943
アクセス
東慶寺 JR北鎌倉駅~徒歩5分
浄智寺 JR北鎌倉駅~徒歩8分
東慶寺浄智寺アクセス 久良岐のよし 


錦屏山瑞泉寺 異名:花の寺&荏柄天神社】
住所:
瑞泉寺 〒248-0002 鎌倉市二階堂710
荏柄天神社 〒248-0002 鎌倉市二階堂74
見頃:1月中旬3月初旬、黄梅は2月中旬~3月中旬 
瑞泉寺様公式mayumi-katsu様撮影 拝借1 久良岐のよし
※画像は瑞泉寺様公式から拝借
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荏柄天神社は日本三古天神社の一つに数えられる天満宮で、境内には数十本の梅が咲く。
イベント:
瑞泉寺
瑞泉寺様公式催事 拝借 久良岐のよし
※画像は瑞泉寺様公式から拝借
季節ごとに、その季節に見頃の花を植樹してある。梅は数百本を数える。
鎌倉時代~江戸時代まで権力者達が心の安らぎを瑞泉寺の花々に求めて訪れ歌会等を催した。
裏山にかつて在った一覧亭と言う建築からの眺望が良く、水戸徳川光圀(黄門様)も訪れた。
近くの荏柄天神社にも数十本の梅が植樹されているので、荏柄天神社と瑞泉寺をセットで見学するのが御薦め。
徒歩に行ける範囲の浄妙寺や鎌倉宮と合わせて見学しても、より鎌倉市街の旧鎌倉幕府拠点地域の原風景を楽しめる。浄明寺では抹茶も飲める。鎌倉宮は桜の名所。
連絡先
瑞泉寺 TEL 0467-22-1191
荏柄天神社 TEL 0467-25-1772
アクセス:
荏柄天神社 鎌倉駅東口~バス(大塔宮行き)乗車10分~天神前で降車
瑞泉寺 鎌倉駅東口~バス(大塔宮行き)乗車15分~終点大塔宮で降車
瑞泉寺荏柄天神社アクセス 久良岐のよし 


日比谷花壇 大船フラワーセンター
住所:
〒247-0072 神奈川県鎌倉市岡本1018
見頃:2月中旬~3月初旬
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イベント:

※画像は大船フラワーセンター様公式から拝借
玉縄桜を楽しもう
大船フラワーセンター様公式 拝借4 久良岐のよし
※画像は大船フラワーセンター様公式から拝借
玉縄桜の❝玉縄❞とは古来より伝わるこの地域の地名で、戦国時代、今の清泉女学院中学校を本丸にした❝玉縄城❞と言う名城が在った。上杉謙信軍10万、武田信玄軍2万6千に攻められても落城しなかった堅城だった。
その歴代城主が小田原北条家親族の玉縄北条家で、玉縄桜はその殿様の居城の名を頂いた由緒正しい桜で、観梅の頃に咲く。近くの龍寶寺は関東最強の武将北条綱成公の菩提寺で歴代城主の御廟所も在る。境内には他に玉縄歴史資料館も有り、玉縄城の復元縄張り模型や出土品が展示されている。

梅花は本数は大量ではないが、植物園だけあり他所より多くの種類を一度に観られる上に他の花や樹木も楽しめる。
連絡先:
日比谷花壇 大船フラワーセンター TEL 0467-46-2188
アクセス:
駐車場109台
電車&徒歩 
大船駅降車 大船駅西口(大船観音側)~徒歩16分
バス 
大船駅西口バスターミナル1番乗り場から❝渡内経由藤沢駅行き❞か❝公会堂経由城廻り中村行き❞に乗車~❝岡本(駅から3番目のバス停)❞で降車~徒歩3分。 
大船フラワーセンターアクセス 久良岐のよし制作 


田浦梅林の里
住所:
横須賀市田浦大作町
見頃:2月下旬~3月初旬

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※写真は2015年03月07日
イベント:
梅林まつり 2月中旬~3月初旬
田浦梅林は今上(現在の)天皇陛下の御生誕記念に植樹されたのが始まりで、現在では梅の本数は2700本を超え、梅の根元には水仙75,000株が植えられている。
田浦の山全体に梅が植林されており、山頂からは梅林越しに懐かしい神奈川の里山の風景を眺める事が出来る。
連絡先:田浦観光協会 TEL 046-961-4181
アクセス:
バスと徒歩…田浦郵便局バス停で降車~山頂まで徒歩20分
電車(JR)と徒歩…JR田浦駅で降車~山頂まで徒歩25分
電車(京急)と徒歩…京急田浦駅で降車~山頂まで徒歩40分
田浦梅林


岡村梅林
住所:
〒235-0021横浜市磯子区岡村6-8-19
見頃:2月下旬~3月中旬
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イベント
岡村梅林は大きくは無いが、150本前後の梅が植林されている。
夜間ライトアップ
※公式ホームページから御確認下さい。
梅まつり
※公式ホームページから御確認下さい。
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この岡村梅林は、元々周辺の横浜市立岡村公園(スポーツ公園)と合わせて、近隣の岡村天満宮の社地だった。岡村天満宮の開基は鎌倉御家人三浦家の一族の平子家と伝わり、その人物は平子有長公と推定出来る。有長公は鎌倉御家人で最初の源頼朝公暗殺未遂事件の実行犯を取り押さえた勇敢な武将でもあった。丘の裏手には戦国時代の名将北条氏繁公の開いた龍珠院も在る。
岡村天満宮の社領は第二次世界大戦後に米軍に接収された後、横浜市に返還されたが横浜市が岡村天満宮に返還しなかった為に一度、岡村梅林は消滅したが、岡村天満宮の氏子様の有志達が旧社地の一部を買戻し、現在の岡村梅林部分にも梅を植林し梅林を復興して下さった歴史が有る。
連絡先:岡村公園 TEL 045-751-4375
アクセス:
バス
京急弘明寺駅/市営地下鉄弘明寺駅/蒔田駅/JR磯子駅のいずれかの駅から乗車~天神前バス停か岡村交番前バス停で降車~徒歩5分
駐車場…岡村公園の有料駐車場~徒歩3分
岡村梅林アクセス


根岸森林公園
住所:
〒231-0853 横浜市中区根岸台1-2
見頃:2月下旬~3月初旬
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※上写真は明治時代の旧競馬場一等観覧席(米軍横須賀ベース管理の史跡)
※下写真は松任谷由実の歌“海の見えていた午後”の舞台の“ドルフィン”
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イベント:特に無い。
広い芝生の広場と園内に広がる桜林は横浜市民の憩いの場としても有名だが、公園の中央には400本からの梅林も整備されている。
もともとは競馬場だった。
幕末、横浜港が開港され本牧半島が外国人居留地に成った事で、駐在する欧米の外交官や軍人の要望で明治時代に建設された日本最初の競馬場の跡地。
隣接してJRAのポニー広場や競馬関連の博物館も有り、御弁当を持参すれば小さい子供連れの家族でゆっくり時間を過ごせる場所。自然湧水の池では子供がザリガニ捕り等も楽しめるる公園。
又、徒歩すぐの場所にはユーミンが十代の頃、まだ芸名が荒井由実だった時代に❝海を見ていた午後❞と言う曲で歌詞に歌ったレストランの❝ドルフィン❞が有る。
歌の通り、ドルフィンソーダを頼むと、この曲をかけて貰えます。
連絡先:横浜市環境創造局 TEL 045-671-3648
アクセス:
JR根岸駅~徒歩15分
駐車場有り。
根岸森林公園アクセス 久良岐のよし


三渓園
住所:
231-0824横浜市中区本牧三之谷58‐1
見頃:2月下旬~3月中旬
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イベント:
季節ごとのイベント有り。
もうすぐ観桜の夕べで桜の夜間ライトアップ有り。
※イベント一覧は公式ホームページで御確認下さい。
明治時代の原財閥の富豪、原三渓が当時、廃仏毀釈で荒廃した全国の仏閣や徳川家所縁の城跡の建築文化財を広大な私邸に移築し保護した。日本で全国に先駆けて私立公園として私邸の建築文化財と日本庭園を広く庶民に公開した。
中には聖武天皇の勅願所だった京都府の灯明寺の旧本堂や三重塔や鎌倉の尼寺東慶寺の仏殿、紀州徳川家の和歌山の別荘や、京都の伏見城等、数え切れない程の建築遺産が移築保護されている。
現在は原財閥から横浜市が管理を委ねられている。
原三渓の御蔭で破壊を免れた重要文化財や、季節ごとの花の綺麗な広大な日本庭園。
連絡先:045-621-0834
アクセス:
駐車場有り。
桜の季節は駐車場に入るのに1時間以上待つ場合が多々有ります。
電車&バス
JR根岸駅でバス乗車~本牧下車。
JR桜木町駅/横浜駅東口~バス乗車~本牧三渓園バス停降車~徒歩5分。
みなとみらい線元町中華街駅4番出口近く、山下町バス停乗車~本牧三渓園バス停降車~徒歩5分。
三渓園様公式拝借2 久良岐のよし
三渓園アクセス 久良岐のよし


大倉山公園梅林
住所
:〒222-0037 横浜市港北区大倉山2-36-8付近
見頃:2月下旬~3月初旬
大倉山観梅会様公式 拝借2 久良岐のよし
※写真は大倉山観梅会運営様公式から拝借
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イベント
大倉山観梅会
※開催日は公式ホームページで御確認下さい。
大倉山の梅林の隣には、戦国時代の北条家重臣笠原康勝公が開いた竜松院と言う御寺が在る。
その御寺を含む大倉山公園~太尾見晴らしの丘公園にかけて続く鶴見川河畔の丘陵は、笠原家の居城❝大曾根城❞だった。
その城址に小規模な梅林が有り丘一体は大倉山地区の住民の憩いの場だったのを、東急不動産が開発破壊しようとした際に、義挙した住民が一丸と成り東急の城址と自然破壊に反対し、約30年前当時の細郷横浜市長の下で横浜市が買い上げ自然を残した公園として整備し梅林として有名に成った。
初春には周辺地域からも観梅客で賑わう。
連絡先:港北区地域振興課(観梅会実行委員会事務局) TEL 045-540-2235


本沢梅園(ほんざわばいえん)
住所:
相模原市緑区河尻4457‐1
見頃:2月下旬~3月初旬 
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イベント:
本沢梅園祭り
※開園期間はホームページで御確認下さい。
※本沢梅園は官営なので管理人が常駐しておらず、開園期間以外は梅園の遊歩道には入れない。
※梅園自体は山腹の斜面に広がっているので、道路沿いからでも十分観梅が楽しめる。
約1000本の梅が植林されている。
昔は谷だったが、近隣の津久井湖建設の残土で谷間を埋めて、そこに梅を植林した。
周辺に歴史史跡も多く、山頂の金刀比羅宮は古来、雨乞いの神事が行われた水の枯れない池が在る。
梅林から尾根伝いの山裾(やますそ)の寶泉寺を囲む山は平安時代末期に長井家によって築城された小松城址でもある。
近くの津久井湖や戦国時代の名城、津久井城址の山のピクニック等と合わせて見学に行くと、1日中自然を満喫出来る良いレクリエーションに成る。
※津久井城址は根古屋地区のパークセンターに無料駐車場有り、鎧や城址復元図等の展示も有る。
連絡先:
相模原市コールセンター TEL 042-770-7777
城山まちづくりセンター TEL 042-783-8115
アクセス:
駐車場…無料130台
バスと徒歩…JR/京王線の橋本駅~バス❝若葉台住宅行き❞に乗車~若葉台住宅で降車~徒歩30分。
本沢梅園アクセス

 


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神奈川県で厄除けの御寺と言うと歴史を余り知らない人は立派な川崎大師に行く人が多くいますが、実は川崎大師の御利益は漁民の豊漁や徳川幕府11代征夷大将軍の徳川家斉公から深く崇敬され家斉公が子供28人も授かった子宝の御利益が江戸時代まで有名で厄除が御利益で有名だった訳じゃないんですね。
明治時代以前、本当に神奈川県の御寺の中で厄除けの御利益が有名で江戸の町民も知られた御寺が旧武蔵国久良岐郡に2箇所も在りましたが、旧武蔵国久良岐郡てのは今の横浜市南東部の地域です
そして、そのいずれの御寺も現在の横浜市南区の御寺である事を知っている人は今では横浜市民にも多くは無いでしょう。
一つは西向山乗蓮寺・・・
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西向山 乗蓮寺
・・・京神急行の駅名で有名な井土ヶ谷の地名由来に成った井戸の有る御寺で❝承久の乱❞の際に北条政子様が仏教草庵を建て疎開し戦勝祈願と厄除けを祈願した寺院です。
そして、ここに北条政子様が避難し鎌倉武士団の戦勝祈願をする理由だったと推測出来るのが直ぐ乗蓮寺の直ぐ近くの更に歴史の古い❝厄除け❞の御利益で有名な寺院が有ったからだと推測出来ます。
ここ等辺の事情は以前、乗蓮寺の解説を記事に書いて有るので御興味の有る方はそちらも御覧下さい。
クリックで記事にリンク⤵
西向山乗蓮寺…源頼朝公妻女北条政子様が開き、江戸時代の名奉行間宮忠次公が支援した、南区井土ヶ谷地名の由来の寺。

この南区の平地一帯は古代は海だった地域で井戸を掘っても余り質の良い水が出ませんでしたが乗蓮寺の在る地域の地下水脈の水質が良くて北条政子様は化粧を含めた生活用水に適している事をしって草庵を建てたんですね。つまり乗蓮寺は元々は生活の拠点として開かれている訳です。
北条政子様木像画像
※写真は乗蓮寺に在る北条政子様の彫像、生前に模写されたた生き写しの木造です。
小生は御寺のホームページからの転用を御住職に取材した際に御許可頂いておりますので、この画像を転用する場合は読者の方は御自分で乗蓮寺御住職様に御挨拶の上、御了承頂ける様に努力して下さい。
さて、では彼女は何の為にここに住んだのかと言うのは、彼女は鎌倉幕府と旧政権藤原氏側の朝廷が対立して承久の乱が起きた不安な時期を亡夫である源頼朝公との夫婦の思い出を回顧して心の支えとして過ごしたかったのと鎌倉幕府の未来を憂(うれ)いて❝厄除け❞❝戦勝祈願❞をする場所に通う必要が有ったからでしょう・・・
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その異名も厄除け大師として江戸時代までは大変に賑わった真言宗の大寺院だった瑞應山 蓮華院 弘明寺です。この弘明寺と乗蓮寺は徒歩でも通える距離に近在しています。
弘明寺と乗蓮寺の位置関係 久良岐のよし
今では弘明寺と言えば地名位の認識の人が多いですが、京浜急行弘明寺駅や現在の弘明寺商店街はそもそも明治政府の仏教弾圧の時期や戦後の宗教弾圧で弘明寺の境内地を政府が接収して造った場所なんですね。
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この弘明寺商店街はそもそも弘明寺の参道だった訳です。
今では弘明寺の大岡川沿いは桜の名所としても有名ですね~♪
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あ~将来かけれる女性と観音様に縁結びして頂いて彼女成って貰って一緒に散歩したいな。毎年カップルと家族連れだらけ一人は寂しい・・・
んな事ぁ~今必要な話しじゃなくて御寺の解説。
・・・まぁ、弘明寺は明治時代には政府の宗教改革の失敗のせいで一時、無住職に成ってしまい戦国武将❝間宮宗閑の与力衆❞が寄贈した扁額や諸々の寺宝も散佚してしまいました。
そこ等辺の話しは多くの学者が間宮家の武将の戒名を間違って認識してる事を指摘した解説記事で紹介しているので専門的な話に興味が有る人は御一読下さい⤵
クリックで記事にリンク→【間宮信元公と間宮康俊公の戒名の誤り】
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さて、本当に桜の綺麗な大岡川を横断する弘明寺商店街を京急の弘明寺駅側に通り抜けると現代の弘明寺の山門に行き当たります。
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瑞應山 蓮華院 弘明寺ここは伝承では養老五年(721)年にインドから来日した高僧の善無畏三蔵法師が聖域を示す結界石を置いた事で仏教の道場として発展して行く事に成ったのですが、これは恐らく井土ヶ谷の乗蓮寺がヒントに成ります。要するに清涼良質な湧水が有ったのでしょう。現在は山の中腹に在る弘明寺ですが、背後の墓地や南図書館の用地に成っている場所は谷地形です。橘樹郡衙も丘の上に存在しますが水の湧かない場所に人は住めないので、弘明寺が聖地化したのは水脈が露出した場所だったからでしょう。
そして善無畏三蔵法師が結界を張った場所で弘法大師空海和尚が国家安寧国民鎮護の厄除け護摩行を行ったと伝承していますが、これは恐らく朝廷からの依頼による関東地方の旱魃か冷害による不作の飢饉に対応した❝雨乞い❞か❝豊穣❞祈願だったと小生は推測しています。
実は弘明寺は御寺ですが神仏習合時代の習慣が今も残っていまして、弘明寺鎮護の神様は御稲荷様と熊野権現と八幡大菩薩と天満大自在天神(菅原道真公)や他にも諸々祀られていた歴史が有り、特に御稲荷様が鎮守の神様だったようです。
実は今も稲荷神社と熊野神社は嘗(かつ)ての弘明寺の境内地だった丘に現存しています。
弘明寺、中里温泉、熊野神社位置関係 久良岐のよし
位置関係を見て見ましょう。弘明寺の山の裏側に両方ともあります。
稲荷社と熊野社はいずれも元来は水源地に祀られる神様です。
熊野神社はそのまま、稲荷社は中里温泉の中に残っています。
この中里温泉はお婆ちゃんの女将さんが檀那さんが倒れた後も健気に守っているのですが、ネット世代の阿呆どもがネットで予約出来ないのと女将さんが御高齢で電話で耳が多いのをちゃんと確認もせずに「休業と言うデマ」の心無い書き込みをGoogle mapにしていたのを小生が削除させるまで掲載されてしまったり可哀相な状態に成っていました。
古い温泉料亭旅館で昔は弘明寺の参拝客で賑わい、料理も有名で300人クラスの宴会もしょっちゅう開かれていたそうです。小生は宿泊したいのですが3年前に直接お話を聞きに伺って「いつか泊まらせて頂きたいです~」と雑談した所、女将さんに「2人で来てね~」と❝早う彼女つくれ❞と背中を押されてそのまま3年が過ぎて未だに泊まる機会を得ていません(泣)。
熊野神社も中里旅館も写真撮影した筈なのですが、iPhoneがぶっ壊れてデータが吹っ飛んだ時期だったらしく写真が残ってませんでした。
さて、そんな訳で古来重要な土地であり大和朝廷直轄地の久良岐郡の役所である郡衙が在った丘の上に在る御寺なのですが、では何でここが郡衙だったかと言うのは❝飲み水❞以外にもう一つ❝水❞の理由が有ります。
弘明寺主変古代の海岸線 久良岐のよし
この地図は、江戸時代に開削された八幡橋八幡神社の地域を除いて❝白い部分は全て古代海の底❞だった地域です。つまり弘明寺は重要な古代の港湾を御膝下に抱える地形で軍港や水運の物流拠点に適した場所だったので郡衙が築かれた可能性が有る訳ですね。そして対岸の本牧半島は朝廷の牧場が有りました。幕末~近代に吹奏楽発祥地で国家君が代とテニス発祥地にも成っている妙香寺も本牧に在りますが、やはり前身寺院は弘法大師空海和尚が開いた御寺だったと伝わっています。
重要な港湾を抱え、農業に適した沢が有る場所なので郡衙に成ったのでしょう。
そして古代人の集落を支えた湧水地は古代の宗教では必ずと言って良い程、聖地化しますので、郡衙が廃れた後も、そこを善無畏三蔵法師や弘法大師空海が聖地として訪れ国家安寧国民鎮護の厄除け祈願を行った事がなんとな~く解りますね。
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空海和尚は国の命令で干ばつ対策の雨乞いを行っていた事が解かるのですが、尾張国の神社の一之宮である真清田神社の池でも雨乞い神事を行っています。
さて、そんな訳で古代から重用視された聖地だったので弘明寺には北条政子様は御夫君の源頼朝公が健在の頃に御一緒に戦勝祈願に参詣されたそうです。
その際に北条政子様が馬を洗ったと伝承する滝が近年まで弘明寺の近郷に在りました。横浜市の河川改修で消え去った史跡の港南区野庭~上永谷の間の鎌倉街道下道に沿って流れる馬洗い川の滝ですね。
この北条政子様が通った道は途中に天谷(てんや)の地名が残っていたので、そこは古代大和朝廷の兵站である店屋(てんや=基地)だった事が解かります。
鎌倉街道は鎌倉幕府が整備した道と認識する人が多いですが、その鎌倉街道下道の先には天皇家の勅願所だった師岡熊野神社が在り綱島街道や中原街道や厚木街道や八王子街道や橘樹郡衙の橘樹神社の丘一帯に接続する重要な道でした。その沿線に在るのが弘明寺な訳です。
その道を北条政子さんは通り承久の乱の際に亡夫頼朝公が打ち立てた鎌倉幕府と子に等しい御家人達の家族を守る為に、弘明寺に戦勝祈願厄除けに長期継続的に参拝する必要が有って弘明寺近くに乗蓮寺を建てた事が解かりますね。
さぁ、弘明寺の施設その物の説明に移ります。
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山門は仁王門です。
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立派な金剛力士像が参拝者を出迎えてくれます。
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この山門は江戸時代迄有りませんでした。てか弘明寺商店街の入口辺りが本来の御寺の入口でしたからね。そこに山門が在った訳ですから別物です。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
そして、そこには間宮家の間宮宗閑同伴衆が奉納した❝弘明寺❞の扁額が有りましたが、現代ではこの扁額は失われ❝瑞應山❞の新しい扁額が有ります。
間宮家が奉納した物は臨済宗建長寺の高僧玉隠和尚が揮毫した物なので今でも現存していたら大変価値の有る文化財指定されてもおかしくない物でした。
因みに江戸幕府の役人のミスで間宮宗閑=間宮康俊公と言う認識を大半の歴史家は江戸時代の誤記の多い寛政重修諸家譜をテンプレ鵜呑みにしてますが、この弘明寺の扁額の存在が既にその認識が誤りである証拠に成り、年代的に間宮康俊公の父上の間宮信元公の法名が宗閑だった事が解かります。
間宮家臣団にとっての間宮康俊公菩提寺で江戸時代と通じて追善供養が行われた鶴見区下末吉の寶泉寺では❝宗覚❞が間宮康俊公の法名と伝わり、間宮家が申告した寛政譜でも宗覚が康俊公の法名として記されていますが、江戸時代後半の幕府の役人が江戸時代初期の幕府のミスを隠す為に改竄した寛政重修諸家譜では役人のミスで宗閑を康俊公の法名として徳川家が建てた伊豆の宗閑寺の名前をミスでは無く粉飾する為そのまま掲載して宗閑にしてしまっています。
山門と扁額の解説はここまでにして参道を進みましょう。
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山門左手には本堂とは別に御札や御守りの販売所が有ります。
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階段を上らなくても足腰の弱い御老人が観音様を御参り出来る様に、階段の下にも観世音菩薩様が祀られています。
そして石仏様・・・
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人々の往来を見守る馬頭観音様。小生がいつも祈りを捧げる神仏の一つ。
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よく道路沿いに祀られていて今では信仰心の無く成った日本人から見向きもされない事も多い仏様ですね。小生は大切にしています。
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階段を登り進めましょう!
左手に身代わり地蔵菩薩の看板が見えますね~。
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このお地蔵様は比較的新しい作りですが、身代わりに成って頂きたい事が有る人は是非、御参りされては如何でしょうか?
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御花がささげられて大切にされてますね~。
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弘明寺の顕彰碑かな?
山野井と見えます。この山野井さん、戦国時代にの御先祖は絶対に間宮家臣だった人で、上大岡の地主の一人で今では御子孫は不動産屋さんに成っています。
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階段を登りきると本来は護摩堂だったはずの御本堂が見えます。
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御庭には元々境内地を取り囲む様に善無畏三蔵法師によって配置されていた結界石が移設保存されています。
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その左手に鐘楼。
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大晦日に来た事無いので判りませんが、多分、除夜の鐘突きが行われるのでしょうね~。
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そこから見た御本堂。
この写真を撮った時は凄く朝早く参拝したので左手の寺務所は開いてませんがちゃんと御朱印や御守りを受領する事が出来ます。
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厄除け護摩炊きの時間などは弘明寺サンの公式ホームページをご覧頂ければ良いと思います。
護摩札も3000円~で授与して頂ける上に2つ迄祈願を祈祷して頂けますよ~。
ここ数年は毎年正月、檀家サンに混じって厄除けして貰ってます。それと厄除け開運は土地神様の神社でも御祈祷頂いてます。
尊敬する殿様が崇敬した御寺と、尊敬する殿様が開いた神社で開運厄除け受けたから昨年も生命に関わる怪我もせず無事に過せました。
御陰で昨年末も股間を大火傷した際もチ〇チ〇は無傷ですみました(笑)。
「愛人作って雇わせた」とかデマを一部のフザけた人の心も平気で無視して笑いの種にする人に拡散されて既成事実化しかけた誤解も無事に他の同僚達に解く事が出来て、寧(むし)ろ噂を流した年配男性や中年オッサンの方が酷いし君は絶対にそんな事はしないと既婚女性の同僚達からも擁護して貰えましたし。本当、弘明寺の仏様と土地神様の御陰。
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御本堂右手には説明の看板が有ります。
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この木造花瓶を修理したのが間宮信俊公で、修験道信者として真言宗寺院に関わる際は佐々木一族の通し名❝信❞の字の本来の名で署名していたと思われる❝間宮康俊❞公と同一人物でしょう。その証拠に間宮信俊公の戒名も❝宗覚❞で伝わっていますし、別人とするものも兄弟と伝わっているので本来の信俊の名と北条家臣としての康俊の名が別々に子孫に伝わり江戸時代に宗教的教養を失った子孫の間に混乱を生んだんでしょう。
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坂東第十四番霊場。御本堂はとても立派です。
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扁額も色んな種類が掲げられています。
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内陣遠景。
御本堂の左手にも別の御堂が在ります。
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この階段を登ると・・・
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大聖歓喜天の御堂が在ります。これが弘法大師空海和尚所縁の場所ですね。
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さて、御本堂の横の寺務所の対面にもう一つ建物が在ります。
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コチラには弘法大師様の木造が祀られています。
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厄除大師の扁額が有るので良く解ると思います。大正時代も有名だったみたいですね。
こちらには頼朝公が深く信仰の対象とした八臂弁財天様や・・・
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他にも閻魔大王とか・・・
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・・・奪衣婆とか色んな神仏の彫像が祀られています。
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あと御庭では御地蔵さんも参拝客を出迎えて下さいます。
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御地蔵さんて可愛いですよね~♪
さて、弘明寺、とっても歴史が有って庶民に馴染んで、その凄さに反して親しみ深い御寺でしょう?
そうそう、この御寺から駅に行く途中に美味しいタコ焼き屋サンが在ります。
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梅鉢流まみい

この御店、大阪の御店の系列店でして京都で生活していた事の有る小生が食べても安いのにとっても美味しいと思います♪
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たこ焼きだけじゃなくて今川焼も有ります。
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今川焼1個とタコ焼き6個のsetで確か380円だったかな?凄く美味しいので弘明寺参詣の際はおススメですよ~♪

さてさて、昔の人達が聖地として崇拝したのに庶民に距離の近い弘明寺、どうでしたか?
皆さんも毎年の厄除け開運や夫婦円満や色々、御祓いと心願成就の祈祷と、新年や4月の花見や周辺商店街の散歩のついでに厄除けの護摩炊きを受けて見て文化や散歩を同時に楽しんで見ては如何でしょうか?

弘明寺はとても歴史の古い御寺ですから当然関わった人も凄い人が多い訳ですが、きっと皆さんの御近所の何気ない御寺や神社や城跡の山や公園にも凄い歴史偉人と繋がりの有る場所も有る筈です。
皆さん、文化史跡や自然や城址の公園を散歩して気分転換してみませんか~?
きっと、そこで看板を読んで凄い人との繋がりを知れば、皆さんも自分の住む町に更に愛着が湧くはずですよ~♪

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪







 
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江島神社=江ノ島弁才天
(式外社・日本三大弁財天・天皇勅願所の洞窟と鎌倉武士の聖地)
児玉神社
(初代台湾総督児玉大将を祀る台湾の人々が開いた神社)
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  御祭神・御本尊等:八臂弁財天(はっぴべんざいてん)・多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)・市杵島比賣命(いちきしまひめのみこと)・田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)・児玉源太郎大将
  御利益:戦勝・敵人懲服・立身出世・財運向上・芸能向上・縁結び 
  関係者:
  開基:欽明天皇
  中興:修験者      役 小角
     弘法大師      空海  和尚
     修験者 神融禅師   泰澄
     慈覚大師    円仁    和尚
     比叡山五代院  安然 阿闍梨
     征夷大将軍   源    頼朝 公
     征夷大将軍   源 實朝 公
     皇家護持僧  道智  大僧正
     証誠大師   一遍      上人
     立正大師     日蓮      和尚
     鎌倉府公方    足利 成氏 公
     相模守      北条 氏康 公
     北条家臣 岩本間宮 定次 公 以下江島別当岩本坊間宮家歴代(現:岩本楼)
  旧郡名:鎌倉郡(戦国時代:中郡)
  所在地:江島神社・・・藤沢市江の島全部が本来の江島神社聖域
  所在地:稚児ヵ淵・・・歌舞伎白浪五人男の弁天小僧の舞台、洞窟は天皇家の祈願所聖地
  所在地:児玉神社・・・児玉源太郎大将を慕う台湾の人々が建てた神社
  所在地:岩本楼・・・元は江の島の聖地の洞窟と江島神社を管理した真言宗修験道岩本坊が前身
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
欽明天皇が西暦552年に江ノ島東側の岩屋(いわや=洞窟)に勅願所を開いたのが始まり。 
そこに源頼朝公が弁財天を勧進し戦勝祈願をするや連戦連勝で鎌倉幕府が成立したので、歴代執権や御家人達から信仰され鎌倉幕府から保護された。 参道に在(あ)る旅館岩本楼は創業400年近い老舗旅館(宿坊)で元々は明治時代まで江ノ島神社の別当職を務めた別当寺だった。その別当職を務めたのが 社長の家の御先祖、宇多源氏佐々木家諸流の間宮一族、岩本家だった。
頼朝公が戦勝祈願に岩屋に参篭された後に社殿と銅製鳥居が寄進され神社として整備された。江の島の岩屋で御神体とされたのは八臂弁財天で江島神社と岩本楼にそれぞれ御祀りされていた仏像が現存する。戦国時代には日本有数の大合戦で戦勝の御利益を発揮されてる。鎌倉公方足利成氏公と北関東の鎌倉公方軍が江ノ島に籠城し、反逆した関東管領山内上杉家と扇谷上杉家の連合軍の大軍勢と戦い、見事に足利成氏公に不利な戦を勝利させている。その後も❝日本三大奇襲戦❞の一つに挙げられる「河越合戦」では、ここで戦勝祈願をした北条氏康公はたった8千の手勢で敵勢8万余りの上杉家連合軍の大軍相手に勝利を治めている。
江戸時代には徳川幕府から保護を受けただけでなく富士山詣で、大山詣り、杉田梅林等と並び江戸市民の人気の観光地として栄え歌舞伎の演目の白浪五人男の❝辨天娘女男白浪❞のモデルにも成った。
明治時代には、この江の島に児玉源太郎陸軍大将が逗留され軍事作戦を練られて、ロシア帝国のアジア植民地化の野望を撃退し日本を守る戦功を挙げられた事も有名。後に児玉大将が台湾総督を務められた際の善政から、児玉大将を祀る児玉神社を台湾人の皆さんが江ノ島神社の境内に開基された逸話も残る。
現在は女性の縁結びの神様としても有名で江の島の展望台と併せて観光に来るデートスポットとしても栄えている。 他所の弁天様はカップルに嫉妬する伝承が多い中、この江ノ島ではカップルを見守る優しい神様としても崇拝されているが、東京の石神井公園の弁天様がカップルに嫉妬するのは、石神井公園が昔、石神井城と言う御城で戦争に巻き込まれ落城した歴史が有るから? 
弁天様について解説すれば本来、弁天様はインド神話のヒンドゥー教由来の神様でサラスヴァディーと呼ばれ、シヴァ神(伊舎那天/他化自在天/大黒天に習合された神様)の後妻であり多くの男神様から求婚されたモテモテの神様だったので女性にとっては心強い縁結びが期待出来るのは当然だろう。
明治時代には江ノ島に福沢諭吉先生、伊藤博文公、児玉源太郎大将や早川雪舟(日本人初のハリウッド俳優)も宿泊しており江ノ島の御利益を代弁する様な偉業を成し遂げている。
他にも俳画会を形成した文化人、間宮霞軒先生等を江ノ島から輩出している。
※北条氏康公と間宮家が活躍した河越夜戦解説の記事リンク
→杉田玄白と間宮林蔵の祖先、笹下城主間宮家の事績。

江の島に行ったら現代の名物のシラスとサザエと蛸せんべいも味わってみては如何でしょうか?昔からの名物の女夫饅頭(めおとまんじゅう)と江ノ島丼も美味。 
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川勾神社(延喜式内社・相模国二之宮)・・・古代天皇~明治元勲にも大切にされた古社
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  御祭神・御本尊等:大名貴命(おおなむじのみこと)・大物忌命(おおものいみのみこと)・級津彦命(しなつひこのみこと)・級津媛命(しなつひめのみこと)・衣通姫命(そとほりひめのみこと)  
  御利益:安産・地鎮・技術振興・自然災害除け・農業豊穣
  関係者:
  開基:垂仁天皇=活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)
     磯長国国宰 阿屋葉造(あやはのみやつこ)・・・垂仁天皇の勅命で社殿造営。
  中興:日本武尊
     依通姫
     磯長国造   大鷲臣命(おおわしのおみ/おおとりのおみのみこと)=和珥(丸邇)氏=丸子氏
     相模国造   穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)=鈴木氏
     鎮守府将軍  源  義家 公
     征夷大将軍  源  頼朝 公
     征夷大将軍  宗尊   親王
     相模守    北条 氏政 公
     征夷大将軍  徳川 家康 公 以下歴代徳川家当主
     初代総理大臣 伊藤 博文 公
  旧郡名:淘綾郡
  所在地:中郡二宮町の内陸部の丘
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
佐賀牟(さがむ=武蔵国と相模国東部)国が分割されて、磯長(伊豆と相模西部)国も伊豆と相模西部に分割され、相模国東西が合併する際に、新設される国の国府=一之宮の座を佐賀牟国側の寒川神社と磯長国側の川勾神社が争ったと思われる神話が残る。これが神奈川県で行われる国府祭(こうのまち)と言う無形文化財の伝統神事に成っていて、一之宮寒川神社~五之宮平塚八幡宮までが神揃山に集まり論戦をする内容に成っている。
日本武尊を初め多くの古代からの支援者の名が伝わり、依通姫が安産祈願を川勾神社で行った伝承から、現在では広く安産の御利益で知られる神社と成っている。源頼朝公も妻君北条政子の出産の際に安産祈願を行い成就した事から社殿を造営寄進している。
上杉謙信と武田信玄の小田原侵攻時に放火され焼失、武田信玄との三増峠合戦が起きた1569年の翌年、北条氏政公によって社殿が再建された。徳川家康公も名護屋駐留前に祈祷を受けて、朝鮮出兵せずに済んでいる。明治時代には伊藤博文公等の参詣を賜わり直額に揮毫を頂いている。
宮司家は代々二宮家で、二宮一族は旧北条家臣団であり江戸時代の子孫に二宮尊徳もいる。同じく旧北条家臣で黄備え隊玉縄衆副将の間宮康俊を輩出した間宮家は合戦以外に外交・築城・修験道に通じた一族だが室町時代に間宮家から二宮家には養子が入っている事が間宮家関連の文献から辿れる。
歴史事実から厄除け、安産祈願の神社として特に強い御利益が期待出来る。
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戸塚区品濃町は今では現代に成って地名を改竄された東戸塚の地名の方が有名ですが、実はそこに在る白幡神社を通じて室町時代初期~安土桃山時代~そして幕末の新選組に繋がるかも知れない歴史を辿る事が出来る由緒ある場所なんです。
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品濃白幡神社でも、今は品濃町と書かれる地名ですら江戸時代の人からみたら新しい当字だったんですよ!
江戸時代には永谷郷品濃村と書かれていましたが、これは元々は秋葉郷信濃村だったと新編相模風土記稿に解説が記載されています。
・・・横浜市民は移住者ばかりなので、昔の地名を知る人も少なくなってしまいましたので今回は品濃町の白幡神社と品濃の紹介を通じて少し東戸塚に関わった歴史偉人の紹介もしたいと思います。
その為(ため)に先ずは戸塚区を離れて神奈川区の歴史を少しだけ話す所から始めたいと思います・・・
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室町時代~戦国時代まで京急神奈川駅一帯に在(あ)った権現山城と言う海に突き出した半島に築かれた御城が在りました。この御城の築城者は何と室町幕府初代征夷大将軍と成った足利尊氏公でした。
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権現山城址(本覚寺~幸ヶ谷公園一帯)
この尊氏公が築いた御城は戦国時代にも再利用され、伊勢盛時 入道 宗瑞(そうずい)=北条早雲公の家臣で相模国十四騎筆頭に上げられた名将の間宮信冬公が籠城し扇谷上杉家の大軍相手に大活躍した舞台でも有ります。
実は品濃町の白幡神社、この足利尊氏公の実弟と、間宮信冬公の御子孫と関係が有ります。
更には足利尊氏公の宿老だった斯波高経(しば たかつね)公が発給した文書に品濃町の事が書かれていたりします。
現在、私達が郷里の歴史を簡単に知れるのは新編相模風土記稿と言う地誌を間宮士信(まみや ことのぶ)と言う人が東京大学の前身と成った昌平坂学問所の頭取と成って編纂して下さったからなのですが、この間宮士信サンは品濃や白幡神社の歴史紹介文も掲載して下さっています。
新編相模風土記稿 鎌倉郡巻之三十三 品濃村
このページに江戸時代よりも更にずっとずっと前からの事の記録や伝承を見聞きして編集してあります。
実はこの本を書いた間宮士信公が戦国時代に権現山城の戦いで活躍した間宮信冬公の御子孫に当たる人物で、そして間宮家は恐らく品濃の白幡神社を開いた新見彦左衛門サンとも戦国時代には同僚だったはずです。

さて、又、戸塚区品濃から少し離れて鎌倉市浄明寺地区の浄妙寺の御話をします。
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稲荷山 浄妙広利禅寺(略称:浄妙寺)
この鎌倉の浄妙寺は臨済宗鎌倉五山の第五位、つまり東日本の臨済宗寺院で第五位の格式を持っていた寺院なのですが、元々は足利義兼公が開いた御寺でした。
足利義兼と言う人物は足利尊氏公の御先祖様です。この浄妙寺は足利家がまだ鎌倉幕府の幕臣だった時代に足利家の別宅としての機能も持っていた大寺院でしたが、足利尊氏公が征夷大将軍に成り北朝の室町幕府が樹立すると、南朝の後醍醐天皇と対立し南北朝時代に突入します。その際に起きた軍事衝突の一つが観応憂乱(かんのうのゆうらん)と呼ばれた大規模で且(か)つ1349年~1352年にも及び長引いた戦乱でした。
この観応憂乱では足利尊氏公が北朝、尊氏公の実弟の足利直義(ただよし)公が南朝に付いた事で武士の親分である足利家兄弟間の大戦争に発展してしまいました。
初期の室町幕府では関東を治めていたのが足利直義公で、観応憂乱が起きると品濃の名が出る文書を残した斯波高経公は足利尊氏公と足利直義公の間で政治的にアッチに付いたりコッチに付いたりしていました。
結果的に観応憂乱は足利尊氏公の勝利に終わり、足利直義公は暗殺されます。そして足利家の菩提寺であり別荘でもあった浄妙寺の境内の裏山に菩提を弔う為に御廟所が築かれ現存しています。
実はその足利直義公が鎌倉の建長寺に御寺の領地=寺領(じりょう)として品濃を寄付した事が解かる文書の内容が新編相模風土記稿に紹介されています。
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巨福山 建長興国禅寺(略称:建長寺)
それによれば足利直義公が建武元年(1334年)に今も建長寺に存在する正続院と言う塔頭(たっちゅう=会社で言えば子会社みたいな感じ)の寺院に品濃村を寄付しています。
※建長寺に御参りした時に正続院も御参りに立ち寄ったのですが写真撮影してませんでした(笑)。
村を御寺に寄付するってのは現代人にはパッとしない感覚かも知れませんが、要は御寺の年貢=収穫される御米を税金として徴税する権利を建長寺の正続院にあげて御寺の収入源を確保してあげた訳ですね。この様な御寺の土地を❝寺領(じりょう)❞と呼びます。
それを受けて、足利直義公の腹臣だった斯波高経公は品濃村に乱暴狼藉(らんぼうろうぜき=略奪)をしてはいけないと言う禁制の掟書(おきてがき)を発行して村を守った事が記録に残っています。
この事から斯波高経公は内政でも活躍していた事が解かりますが、軍事面でも新田義貞公を倒した程の名将でした。
さて、現代の品濃町に風景を戻して、今度は安土桃山時代、天正十八年(1590年)つまり織田信長公が亡くなった天正十年(1582年)から8年後の話しに移ります・・・
当時の品濃は山坂がキツイ村で近くには東海道が通る要所でもありました。
現在では品濃は❝東戸塚オーロラシティ❞として開発されてしまい、AEONモール等の巨大商業施設の建設によって当時の風景は余り残っていません。
しかし、品濃白幡神社の鎮守の森、神社裏の白幡山公園に行くと当時の地形の様子が少しだけ残されています・・・
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白幡山公園
この公園は大きくはありませんが、昔の侭(まま)の地形が残っていて少し高台なので階段を上る必要が有ります。
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公園としては余り大きく有りません。
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でも昔から村を見渡せるビュースポットだったらしく、村民が建立した記念碑が今も残されています。
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夜景見るのに合わせて少し遅い時間に行ったので、碑文を読む事は出来ませんでした。
「夜景を見るのに合わせて」と書いた通り高台なので夜景を見る事も出来ます。
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今は手入れされていない林ですが、昔は神社の森として、村を見渡す場所としてちゃんと村民によって樹が伐採されて手入れされていたと思います。
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今でも手入れすれば、もっと綺麗な夜景を見られそうですね!
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階段横の花壇には綺麗なパンジーが咲いていました。
実はこの品濃を江戸時代に治めた新見さんが徳川家から領地として保証された1590年は、徳川家康公が関東に引っ越して来た年でした。この頃、家康公は現在の港南区の野庭や鎌倉市植木や藤沢市村岡、平塚市中原なんかに良く鷹狩に来られていた時期でしたが、この頃に新見家の御先祖様の新見彦左衛門さんは品濃町を知行されたそうです。その時の石高は250石と伝わります。
本牧奉行として今の横浜市長みたいな仕事を江戸時代にしていた間宮直元公は基本収入1000石で凡(およ)そ6000万円位の年収だったので、250石だとザっと1500万円位が新見サン家の年収だったみたいです。今の感覚で言うと村長さんみたいな役割ですので、その1500万円で村の開発や治水なんかも行わなくてはいけないので決して生活は楽では無かったと思いますよ。
さて、そんなに武士も生活は楽では無く村人に寄り添って村長さんみたいに働く訳ですから、その部下には町内会長みたいな庄屋さん達がいて一緒に村を運営し贅沢な食事も出来なかったと思います。
白幡山公園から坂を下り現在の白幡神社に向かう途中、昔の村人が拝んでいた石仏様が今も通行人を見守って下さっていました。
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御厨子を開いて御参りさせて頂きましたが既に日没で何の仏さまが祀られているか確認出来ませんでしたが、今も町の人に大切にされている様で御供え物がちゃんと有りました。
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更に神社に向かって歩くと昔は宮司様が住んでいたかも知れない氏子会館が在ります。
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昔は宮司様が住んでらっしゃったのかな?
実は横浜市南部の神社の多くは鎌倉時代から修験道の2系統の家系によって管理されていたんです。
1つ目は亀谷福禅寺権現堂(かめがやつ ふくぜんじ ごんげんどう)
2つ目は大靈山山崎泉蔵坊(だいれいさん やまざ きせんぞうぼう)
この二つは何(いず)れも修験道の大道場で、とても由緒有る神社であり寺院としての道場機能も有していました。新編武蔵風土記稿を読むと解かりますが、旧鎌倉郡と久良岐郡域の内、江戸時代に本牧奉行間宮家本家と、分家で江戸幕府鷹匠頭の杦田(すぎた)間宮家が支配した地域では、権現堂と泉蔵坊が神社を分けて統治していた記録が有ります。そして、この両社は源頼朝公が支援した修験道道場でしたので、その支配は間宮家の統治によるものと言うよりは鎌倉時代からの統治機構の名残りだったのかも知れません。
その泉蔵坊や富岡八幡宮や品濃白幡神社や永谷神明神社に影響力を持っていたのが間宮家と同じ旧北条家臣で北条家と同族の伊勢平氏の関家でした。
因みに家紋を比較すると色々と面白い宮司家の秘密が解かったりしますよ・・・

北条家:三鱗紋と対蝶文
三つ鱗紋対い蝶紋

関家 :揚羽蝶
揚羽蝶紋

揚羽蝶の家紋から両者が伊勢平氏で同族である事も判る様に成っている訳です。
では間宮家と福禅寺権現堂家の家紋も比較しましょう・・・
間宮家:隅立四目結紋
隅立て四ツ目結び紋
権現堂:丸に隅立四目結紋
丸に隅立て四ツ目紋

現代人には「家紋なんて好きに使えばよいじゃん?」って意味も理解していない教養も文化も無い人もいますけど、ちゃんと自分が何処の出身のどの家系か、いつの時代に分岐したり活躍したかを辿(たど)れる言うなればレポートの索引のページを表す記号みたいな役割が家紋には有るんですよ。
因みに〇で囲みの有る家紋は一般的に本家から独立する時に分家が与えられた家紋だったり、神社仏閣の寺紋や社紋なら支援した殿様に重視され大切にされた証として〇で囲んだ殿様の家の家紋の使用許可を頂く場合が多く有ります。
例えば・・・
三つ鱗紋
北条家の三鱗紋ですが、鎌倉時代の鎌倉幕府執権北条家や戦国時代の北条家や分家の玉縄北条家や神保家が支援した御寺や神社では下の家紋が使われます。
丸に三ツ鱗紋
丸に三鱗紋。
これを使う神社は鎌倉幕府執権の北条時頼公が支援した鎌倉の宇賀福神社(銭洗い弁才天)や、金沢北条実時公と戦国時代の北条家と江戸時代の間宮家が支援した南区の寶生寺、玉縄城主北条綱成公が支援した磯子区の龍珠院、金沢区の伝心寺等が有ります。
ね?家紋にも意味が有るんですよ、家系や神社仏閣の歴史を辿れる。
権現堂家と関家が横浜市南部の神社仏閣を守った歴史の解説は少し長くなりそうなので別記事にして解説します。
コレが追加解説記事リンク⤵
戦国時代~明治時代迄、横浜市の神社仏閣を守った旧北条家臣団。
権現堂松本(間宮)家と関家。

ちょと長くなりそうなので、商売繁盛の御利益が有る品濃白幡神社に話を戻します。
さて夜の神社もライトアップされていると幻想的で美しい物でして・・・
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・・・品濃の白幡神社もとても良い雰囲気です。
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掲示板に御正月に向けて巫女さんバイト募集の告知が有りました。
近隣の学生さん~主婦の方まで、28歳以下の方、御手伝いしてあげて下さい(笑)。
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今は開発されて住人も増えたので除夜祭は大変賑わうんでしょうね~!
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境内には由緒が説明されていますが、この説明で江戸時代迄と今では御祭神が変わった事が解かります。
先ず御祭神は源義経とされていますが、これは近代以降に祀られた神様です。
新編相模風土記稿にも書いて有りますが品濃白幡神社の御祭神は神社が開かれた時からずっと源頼朝公ですし、白幡明神とか白幡神社の神様は何処も源頼朝公です。
その証拠が源頼朝公の治めた鎌倉幕府の武士達の精神的な支柱とも言うべき鶴岡八幡宮の境内社である白幡神社です。
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鶴岡八幡宮 白幡神社
一般的に白幡神社と言うのは源頼朝公を神格化した神社で、鶴岡八幡宮から頂いた御分霊を祀る御社です。鎌倉の鶴岡八幡宮に在る白幡神社は紅葉の名所としても有名だったりします。
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ついでに言えば現在、品濃白幡神社では源義経公の名が御祭神として説明書きされていますが、源義経公は別に作戦立案、つまり軍事の天才ではありません。彼の実行した有名な鵯越の逆落としと言う奇襲作戦を立案したのは都筑区茅ヶ崎城主で摂津国多田荘出身の多田源氏の多田行綱(ゆきつな)公、その具体的な作戦を遂行プランを計画したのは三浦半島佐原城主だった三浦一族の佐原義連公で、この二人の名軍師の功績による物です。
源義経公は少数の部隊を率いて局地戦を実行する命令遂行能力の高い武将でした。
そもそも義経公には自分の軍団がいませんでした。ですから実際に兵の指揮をしたのは現在の神奈川県湯河原町一帯を治めた土肥實平(どい さねひら)公や秩父平氏の畠山重忠(はたけやま しげただ)公等の統率力に長けた名将達でした。つまり名将達に補佐されながら、困難な局地戦を遂行した能力に長けたレンジャー部隊の小隊長みたいなイメージをして頂ければ解り易いかと思います。
全軍を指揮する統率力では無く、難易度の高い局地戦の作戦を実行する能力に長けた武将。
ただ、性格的に承認欲求の強い人だった様で自分の率いた部隊の功績だから部隊の功績を自分の手柄として社長であり兄である頼朝公に報告したりしてます。
この義経公の行動は極めて政治的で、源頼朝公を総大将として仰ぐ鎌倉幕府の南関東の御家人達や、頼朝公を支持する次兄の源範頼公の後ろ盾である北関東の鎌倉武士団には看過出来る事ではありませんでした。何故かと言うと義経公を源氏の旗頭に据えて東日本の武士団をコントロールしたい奥州藤原氏の思惑と義経公の行動は極めてリンクしているからですね。後白河法皇に義経公こそ源氏の大将に相応しいと惹起させ源氏内の政治争いを誘発しかねない危険な認識が義経公には欠如していたか意図的に行ったとしか思えない訳です。
だから軍監(ぐんかん=査察官)の梶原景時公は源頼朝公に「弟さんの源義経さんが御自分の手柄として御報告された内容が全てではなく、頼朝公の部下の各武将達が立てた功績です」と事実を釘刺して報告されていたりします。

因(ちな)みに余り歴史に興味が無い人は御存知無いと思いますが、源義経公の奇襲部隊の作戦成功を生み出したのは、本隊の大軍を見事に統率して敵本隊を釘付けにし戦況全体をコントロールし完全制圧した陽動作戦や兵站の確保を務めあげた名大将の源範頼(のりより)公の功績による所が大きいのが歴史事実です。更に言えば鵯越の逆落としはやったは良いが奇襲をかけた先で少数過ぎて孤立し窮地に陥っており、範頼公の本隊の正面突破が少しでも遅れていたら義経公の率いた部隊は全滅する危機に瀕していたのが事実です。
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源範頼公に関しては先日、金沢区太寧寺の紹介記事でも書いので御興味が有る方は読んで見て下さい。
太寧寺の紹介記事リンク☞「ココ」クリック!

源義経公のイメージは平和になった時代に読み物として書かれた戯作(げさく)の中で演出されたイメージが大きく現代人に影響を与えていて、実像を現代社会に例えるならば差し詰め典型的な創業者一族の中の坊ちゃん上司、決断力に優れているけれど独力で得た地位では無いので例えば個人的な営業能力が高くても兄が居ないと地盤と職位が無いと言うのが実情でした。
しかも源義経公の後ろ盾には長兄の源頼朝公に非協力的な勢力の陸奥国の藤原氏がおり微妙な立場で、ややもすると兄弟間で争いに発展する危険性は当初から有った訳ですね。
だからこそ、兄の頼朝公や鎌倉武士団からは源義経が勝手に鎌倉幕府の許可なく独断行動で後白河法皇の家臣として検非違使(検察官・警視庁長官)の官職に任官した事を問題視され、後に敵対行動とみなされた訳ですし、彼は実際に後白河法皇に利用され鎌倉幕府御家人達を敵に回した訳です。
あと愛人を何十人も作っていた事も史実で知られているので、まぁ~女性視点から魅力的で非常にモテた様です。奥州への逃避行の際に愛人を沢山連れていた事が歴史事実として知られています。
だから歴史小説やドラマと違って静御前に一途だった訳ではありませんが、品濃白幡神社の御祭神なので男性からみたらモテ力向上とか縁結びの御利益を与えて下さる御祭神とも言えるかも知れません。
源頼朝公
まぁ、一般的に元々の品濃白幡神社の御祭神として先に祀られていた兄君の源頼朝公の方が愛人が沢山いるイメージ有りますが、それも歴史事実を調べなかったり面白く脚色する小説家のせいです・・・
歴史的には正妻の北条政子様以外は実は余り多くの女性と恋愛をした訳では無くて、北条政子様以前の本妻の伊東家の八重姫が1人、その後に側室の姫の1人が亀の前、もう一人、恋愛は合計4回しかしてないんですよ。当時の感覚としては異常に少ない恋愛経験だと思います。頼朝公については寧ろ奥さんを大切にした人ってのが実像で、強烈なイメージがついたのは奥さんの北条政子様のせいですね。
頼朝公が北条政子様の妊娠中ちゃんと当時の常識に則(のっと)って愛人とHしたら、当時の常識が通じない熱烈に旦那様の頼朝公が大好きだった奥さんの政子さんが独占欲強すぎて怒り狂い、政子サンが配下の武士団に頼朝公の愛人宅を攻めさせて打(ぶ)っ壊して燃やしてしまった事が吾妻鏡(あづまかがみ)と言う鎌倉幕府公認の歴史書に描かれているせいで‟頼朝公=不倫”のイメージが現代の感覚で誤認されてしまったからなんですね。
・・・現代人の感覚でも頼朝公は一般的現代人の生涯恋愛経験数よりも少ない位じゃないかな?
源頼朝公の場合は責任感も強く口説いた女性は大切にしましたし、当時としては珍しく奥さんと夫婦で神奈川県の神社や御寺を一緒に旅行して廻ってますし、とっても良い旦那様だったのが実像です。
仕事も出来ますしね。管理職としても部下を常に立てる素晴らしい人でした。経営に私情を挟まず、組織と部下の事を考える人だったので部下同士が対立した時も双方の言い分を公平に聞いてらっしゃったりします。猛将から浄土宗の僧侶に成った熊谷直実公の逸話や、頼朝公の最初の奥さんの八重姫の父親の伊東祐親公に対する助命処分等は相手の立場を良くお考えに成られてとても公平さが伝わるエピソードだったりします。
伊東祐親公は娘の八重姫と恋仲に成った頼朝公を蔑んで対立した事や、八重姫と頼朝公の間に生まれた子供を殺害させた己の判断ミスを源頼朝公と戦い負けた後に恥じて、頼朝公によって助命されますが結局は自分で自害してしまいました。
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旗立山(鐙摺城出丸)&伊東祐親公供養塔
その八重姫とは別のもう一人の祐親公の姫の嫁いだ三浦義澄公によって伊東祐親公の所領だった伊豆半島伊東市が見渡せる場所、今の葉山マリーナの裏の旗立山(鐙摺城の出丸)に供養塔が築かれ現存しています。
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小生の個人的な意見では有りますが、どう言った経緯で神社が開かれて以来数百年間主祭神だった源頼朝公よりも、近代に御祭神に加えられた源義経公が主祭神として祀られクローズアップされたか経緯は不明ですが、まぁ、名前は社頭掲示に掲載されていなくても元からの御祭神の源頼朝公は出世頭であり誠実さと実務力と法治意識富み経営手腕に優れた歴史偉人でしたし、今の御祭神としてクローズアップされている源義経公も女性にモテて決断力に優れ困難な作戦の遂行能力の高かった歴史偉人ですから、当然ながら御二人の御兄弟を御祭神として奉戴(ほうたい)する品濃白幡神社なので、それはそれは商売繁盛、縁結びの御利益が強い事が神格化された御二人の実績からも解かりますね!

神社の施設解説に話しを戻します。
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本殿の有る台地に登る参道階段の左手には小さな御社が有ります。
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戦没者慰霊碑も有ります。
鳥居の右手手前には氏子サン達の奉賛金の掲示。
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そして階段の両脇には立派な石灯籠が有ります。
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白幡神社なので頼朝公の家紋の笹竜胆が社紋に成っています。
階段を上ると本殿と東戸塚オーロラシティーの高僧ビル群が同居する不思議な夜景を見る事が出来ます。
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先に御祭神だった実務力や政治力が高く誠実な頼朝公と義経公が当初は力を合わせて成功した歴史を再現する様に、現代の品濃白幡神社に源義経公が御祭神に加えられてから周辺の東戸塚は頼朝公の政治手腕と義経の縁結びの御利益で人と経済が結び付き、猛烈な勢いで発展を続け今では高層ビルの商業施設と住宅施設が建ち並びます。

社殿の右手には何の神様かは夜で判読できませんでしたが境内社が有り、恐らく明治以前まで村内に分散して大切にされていた神様が一箇所に祀られています。
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そして本殿の左手にも小さな神社が二つ有りました。
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又、昼に改めて参拝したいと思います。
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さて、この神社を建てた新見彦左衛門は最初の名を勘三郎と名乗り天正二年から東照宮(徳川家康公)に仕えたとされていますが、これは恐らく間違いでしょう。
彦左衛門と言うのは今の横浜を治めた間宮家由来官職です。そして更に間宮家の戦国時代の上司で関東最強の武将だった北条綱成公の官途が❝左衛門大夫(さえもんだいふ)❞です。更に幕末の水戸藩出身者にも新見錦(にいみにしき)と言う新選組の初期の幹部だった人物がいますが、実は水戸藩の家老の中山家や間宮林蔵を始めとして旧北条家臣団が多く水戸藩には家臣や庄屋として取り込まれています。
更に幕末に日米修好通商条約を纏めた新見正興と言う人物は本性三浦で官途は豊前守です。この豊前守も又、本牧奉行を務めた間宮家所縁の官職です。新見一族の官職はどれもこれも神奈川県東部の旧北条家臣団の官職です。
更に言えば新見家は備中国出身の家柄と伝わる事から、戦国大名北条家の本姓の伊勢氏と同じ出身地の家柄と言う事も判ります。
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※写真は小田原城の模擬天主閣。戦国時代北条家の本拠地だった城。
つまり、話を整理すると良く解らない新見彦左衛門さんの家のルーツが旧北条家臣と言う事が何となく見えて来ます。
勘三郎サンと彦左衛門さんは同一人物とされている様ですが、多分、世代が違う親子か旧北条家臣と考えた方が現実的でしょう。
仮に徳川直参説を考えるなら彦左衛門と名乗る迄は恐らく元は北条家臣で(元亀三年)1572年に北条家に身を寄せていた今川氏真公が北条家と武田家の同名成立で駿河復帰の大義名分が無くたった際に、今川氏真公の奥方で北条氏康公の姫の早川殿(蔵春院)の世話役として今川氏真公と共に徳川家に仕える事に成った可能性が有るかも知れません。そして今川氏真公が武士を辞めた時期に徳川家臣化し関東に再入国すると、本牧奉行、生野銀山奉行、佐渡金山奉行を務めていた間宮直元公と近隣の誼(よしみ)で交流が生まれたか或いは家康公の命令で若い直元公の与力武将として間宮家の本拠地笹下城址本牧代官所から近い品濃を知行されたのかも知れません。そうすれば、それまで名前が勘三郎だったのに間宮家の官職の左衛門や豊前守を上司である間宮家から新見一族が譲られたであろう事も容易に推測が成り立つ訳です。
ペリー神奈川上陸
もう一つ、元北条家臣と言う説を成り立たせるのがペリーを接待した新見正興の出自です。
彼は三浦一族と伝わります。その家から大阪奉行の新見家へ養子に入ったとされます。
一般的に武士の家系は養子縁組する際に一族や同族間で養子をとりますし、近親者から養子をとれない場合は祖先に一族から姫が嫁いだ外戚血縁が有る家系から養子縁組します。
つまり三浦一族と新見家は同族と考えるのが自然でしょう。戦国時代には正木家や横須賀家や平子家や宮川家等の三浦一族は北条家に家臣化していました。
更に戸塚区品濃の隣接地、港南区永谷や戸塚区品濃の旧鎌倉郡永谷郷一帯は戦国時代の宅間上杉家の領地で、宅間上杉家は安土桃山時代、北条家の滅亡直前には三浦半島を統治する三崎城主の北条氏規(うじのり)公の付家老として宅間上杉規富(のりとみ)公が三崎衆に組み込まれています。
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※写真は鮪で有名な三崎漁港の北条湾から見た三崎城址の丘。北条湾の名は戦国時代に北条家の水軍基地だった事に由来する。
つまり、新見家のルーツが備中国に室町時代初期に移住した三浦家の子孫ならば、当然ながら三浦氏族新見家も伊勢姓時代からの北条家に武士として仕え関東に入り安土桃山時代には祖先の故地三浦半島の三崎衆に組み込まれ三崎城主北条氏規の付家老の宅間上杉家の与力として配置された可能性が出てきます。
すると江戸時代に入ってから宅間上杉家の旧領の永谷郷の中の一部だった品濃村に所領を得ている状況も情況と推測の整合性が出て来る訳ですね。そして宅間上杉規富公の姫は間宮家の間宮綱信(つなのぶ)公に嫁いでおり新見家と顔見知りだった可能性も高く成ります。
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※写真は八王子城の石垣
間宮綱信公は北条家の外交官として織田信長公への使者を勤めたり築城家として日本100名城の一つにも成っている八王子城を設計したと伝わる軍師で、八王子城主の北条氏照公の付家老でした。
そして、この間宮綱信公の直系御子孫が新編相模風土記稿や日本の地史を編纂した間宮士信サンです。
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因みに、新見正興公等のペリー提督との会談に差し当たり、接待の一切を取り仕切ったのが今の元町中華街駅近くに住んでいた庄屋の石川家でしたが・・・
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この石川家も又、旧北条家臣団の平子家の分家一族です。
平子家も新見家とルーツを同じくして三浦一族で一番有名な武将は鎌倉時代の曽我兄弟による源頼朝公暗殺計画の曽我兄弟の敵討ち事件で、曽我兄弟と抜刀して対峙し切り合いの末に逮捕して頼朝公の命を救った平子有長公です。
この平子有長公の建てた神社が岡村天満宮です。
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岡村天満宮については以前、解説記事を書いているので、それを参考にして下さい。
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新見家に限らず、幕末に活躍した武士や文化人、面白い事に大半が旧北条家臣団の末裔だったり北条旧臣と同族ばっかりなんですよ…

伊能忠敬
伊能氏は旧千葉家臣で房総半島矢作城主の末裔。千葉家は北条家臣、桓武天皇の末裔。

高橋至時(天文学者)、高橋景保(天文学者)
北条一族、本姓高橋家の北条綱高公の子孫が北条家滅亡時に東京都三鷹市に移住して庶民と成り牟礼を開墾し旧姓高橋に復した古代九州豪族の一族。

間宮林蔵(地理学者)
間宮家は北条家五色備えの内、黄備隊玉縄衆の家老で築城・水運・外交・鷹匠に秀でる宇多源氏一族。

伊東甲子太郎(新選組)
伊東家は旧北条家臣で伊豆半島伊東出身の藤原一族。

近藤勇(新選組、剣術家:近藤家&豪農:宮川家)、近藤重蔵(探検家、徳川幕臣)
養子に入った近藤家は滝山(八王子)衆北条氏照公付家老の末裔。近藤家の祖先は遠州出身。
本姓の宮川家も三浦半島出身の北条家旧臣。宮川左近将監は1560年頃に葉山を領有している。その後に八王子衆に組み込まれ旧多摩郡に移動した事が推測出来る。武蔵阿蘇神社宮司家も代々が宮川家。

勝海舟(西洋兵学者)
勝家は房総半島真里谷城主武田家の分家。真里谷武田家は後に北条家臣化し横浜市金沢区釜利谷に移住している。勝とは別に本家の真里谷武田子孫は愛甲郡に住み間宮姓に改称し後断絶。真里谷武田家の子孫の一部は武田信玄の後裔を仮冒し間宮家所領の港南区松本城址に今も住する。桓武天皇の末裔。

松田伝十郎(探検家、徳川幕臣)
松田家は北条家宿老で平安時代の相模国の武士、波多野家の一族。現在の南足柄市辺りが領地だったが一族は北条家滅亡後に分散する。

平山行蔵(剣術家)、平山五郎(新選組)
平山家は平安時代末期の武蔵七党の一つで現在の東京都八王子市の平山城址を本拠地とした一族。戦国時代には北条家臣化して東京都桧原村や埼玉県坂戸市、毛呂山町を領有した平山長寿や平山善九郎の他に、三浦半島逗子市九木辺りを領有した平山源太郎がいる。武蔵七党、日奉家の末裔。

中山忠能(水戸藩家老)
中山家は北条家旧臣で八王子城主北条氏照公の付家老から徳川家臣化し、水戸藩付家老と成った一族。北条家解体後、江戸時代初期に中山家を頼って多くの北条家旧臣が常陸国に移住している。宣化天皇の子孫の古代豪族で武蔵七党の子孫。

芹沢鴨(剣術家/思想家)
芹沢家は常陸国の小大名の大堟(だいじょう)家の末裔で平安時代の桓武平氏の平国香の子孫。
小田原北条氏に味方して豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せずに大名として滅亡した家。

歌川広重(画家、本姓:安藤)
画壇の長である歌川は本姓:宇田川に通じ宇田川一族は東京都世田谷区界隈に居た土豪で戦国時代に北条家の従属同盟大名家から北条家臣化した蒔田吉良家の遺臣末裔。現在も世田谷区には宇田川姓の旧家が多い。又、安藤姓は旧北条家臣で名奉行だった安藤良整公が一族にいる。宇多天皇の末裔で宇多源氏。

二宮尊徳(農政家、思想家)
二宮家は旧北条家臣で北条家没落後に帰農した一族。小机衆に属した一族の他に、延喜式内社相模国二之宮川勾神社の歴代宮司家は二宮家が務める。二宮家には戦国時代に間宮家から養子が入っている。

まぁ、この幕末の人物達の姓と旧北条家臣団の繋がりは偶然かも知れませんが、彼等が立身出世する際に北条家ネットワークみたいな物が数百年間受け継がれてコネクションを活用していたとすれば、彼等の縁故も説明が行く訳です。
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これを踏まえると、新選組の新見錦、幕末のペリー来航で活躍した新見正興、この人達と品濃白幡神社を開いた新見彦左衛門サン、御先祖同士が血縁者だったかも知れないとか考えるとワクワクして面白いでしょう?
しかも歴史事実でも室町幕府の関東監督を務めた足利直義公や、新田義貞公よりも強かった斯波高経公が品濃町には関わっていた事も神社の歴史を調べると辿れたりする訳です。

さて、きっと皆さんの御近所にも凄い歴史偉人が関与した場所や神社仏閣が有ります。ですから少し御散歩して見て、町の中の城跡の公園や神社や御寺の看板を読んで見ませんか?
凄い歴史偉人との繋がりが解かると、きっと地元に対する愛着が更に強く成るかも知れませんから・・・

では、又次の歴史探訪記事で御会いしましょう♪

※来週、小生は某資格取得の為に多忙を極めてもしかしたら手抜きの料理記事に成るかも知れませんが御容赦を(笑)!
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