歴史オタクの郷土史とグルメ旅♪♪久良岐のよし

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タグ:間宮家

久しぶりの休日雑記。
繁忙期が過ぎて漸く余裕が出て来た小生なのだが、本日09月19日は風邪でダウン。
午前中は病院に行き、その後さっきまでダウンしてずっと寝ていた。寝疲れ起きたものの今も喉の炎症と咳が酷く痰に血と膿が混ざってしまっている。しかも体も痛い。頭もぼーっとする。
夜に成ると熱も上がり咽頭部が酷く痛むので、読者の皆さんも風邪には気を付けて下さい。
小生は今日、結局仕事を休む羽目に成りました・・・。

さて16日土曜日は京都から友人であり歴史仲間でもあるFSA君が横浜に再び出張に来たので、彼が余り行った事が無いであろう東京の下町に車運転して一緒に行って見た。
6月に別の京都の女友達が子を出産していたのだが御祝いをしていなかった事も有り、丁度良い機会なのでFSA君に付き合って貰って出産祝いの品も購入すると言う目的も有った。
当初、FSA君に行きたい場所をリサーチした際は神奈川県中央部を希望されたのだが、結論から言うと「ガン無視」して自分から「深川に行こう!」と提案をし直した小生・・・
FSA君、付き合ってくれてありがとう。
・・・さて、午前11時頃、横浜市内のとある駅でFSA君をピックアップすると首都高速横羽線で首都高環状線へ向かい、そこから小松川方面へ抜けて最初に腹ごしらえをした。
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何事も腹が減っては活動する気力が起きないからね。
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向かった先は深川釜匠、江戸時代に江戸っ子の腹を満たした深川界隈の名物料理“深川めし”を提供している店だ。
この店の存在を知ったのは昨年の事、小生が顕彰活動をしている横浜の殿様の間宮一族であり江戸幕府の御庭番(公安みたいな?)と地理学者と測量士を兼務した間宮林蔵宋倫公菩提寺の本立院へ参拝した際に、「どうせなら深川らしい物を食べて帰りたい」と地元民にリサーチしてこの店を知り食事をしたのが最初だった。
この店は周囲の店程、店としての内装が完成していない(笑)分、民家を改良して営業しているので料理の価格やボリュームが客にとって御得に成っている。
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今回通されたんは2Fの元は仏間(笑)と思しき部屋だった。
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これはこれで外国人観光客にはウケるだろう。
この日、小生は“深川めし”と“こんにゃく味噌田楽”とデザートに味噌汁と御しんこが付いたセットメニューを注文した。
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このボリュームで1500円は安いでしょう?友人のFSA君は深川セットと言う、深川丼と深川めしの両方を楽しめるセットを選んだ。
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この写真は前回、自分が深川セットを注文した時の写真。これが又、美味しいのだ!
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深川めし=浅蜊(あさり)の釜飯も深川丼=浅利汁の丼飯も、もの凄い大量に浅蜊が入っていて旨味が凄い!
そしてお漬物はセット以外にも柴漬けやラッキョウなんかが食べ放題なんだな。
この店、深川方面、清澄公園や深川江戸資料館に行く予定の有る人には御薦めです。まぁ、他の店でも良いので是非、江戸市民のファーストフード深川丼と深川めしは食べて見て下さい!
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食事を終えると直ぐ隣の深川江戸資料館にFSA君を案内した。
ここは変わった博物館で、江戸時代の庶民の生活を再現したセットが内部に組まれ町を再現しているのだが、そのセットの中に上がり込んで縁側に座ったり写真を撮影して良い博物館なのだ。
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日替わりで色んな演目や文化人の講演も無料で見学出来る。前回は落語を無料で見学出来た。
今回は江戸の物売り大道芸だった。
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江戸三大大相撲が興行されていた相撲の聖地、富岡八幡宮が区内に在るだけ有って昭和の名横綱大鵬さんの展示も有ったりする。
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実物大パネル。
う~ん・・・小生の方が筋肉だけは有りそうな気がするんだよな~。
身長も小生の方が高い。まぁ、格闘技はセンスと技術の鍛錬なので戦闘力は大鵬関が100なら小生は20位だろう(笑)。一般人は5前後かな(笑)?
小生が5人いて初めて現役時代の大鵬関と対等、6人いてリンチ出来る程度だろう(笑)。
んな事ぁ~どうでも良い。
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大鵬関の数々の優勝杯に加え、引退の際の断髪式で裁断された髷(まげ)も展示されている。
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小生が人の遺髪を見たのは世界三大記念艦の戦艦三笠に祀られている東郷平八郎元帥の遺髪と大鵬関の物だけだな。
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深川江戸資料館は余り大きい施設ではないのだけれども江戸時代の生活を追体験出来る貴重な場所で、まぁ見せ方も上手い博物館の一つだと思う。
良く有る公立の博物館は建物デカイだけで古くてショボい展示の仕方な上に、複製品の写真すら撮影させないケチ臭く子供達の歴史に対する興味を殺す意味不明な状態に成っている。
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しかし!ここは違うんだな。めっちゃリアルな展示物。
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店の軒先の再現度の高さ。
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照明で朝昼晩を再現していたり。
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こんな鐘楼も有ったり・・・
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民家に入って台所も見学出来るし。
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本物の骨董家具には本物の神社や御寺の神様が祀られていたり。
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友人も興味を持って見学してくれた様だ。
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この様な軒先と裏庭が民家の裏手にちゃんと有って、お月見の風習が再現されていたり、座ってゆっくり過ごす事も出来る。
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天ぷらの屋台や立ち食い蕎麦の屋台も再現されている。
まぁ、余り大きい博物館では無いので滞在時間は長くて1時間~1時間半が目安に成るだろう。
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江戸時代の飴売りや金魚売りの売り子の実演を見学し、解説展示物の方も見学してから深川江戸資料館を後にした。
ここから近くに間宮林蔵公の御廟所が在り、大正時代の東京府に史跡指定されているので友人を伴って其方(そちら)に移動した。
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茨城県にも墓所は有るのだが、本来の被葬地はここなので茨城の出生地は御分骨を埋葬されているか、墓標なのだろう。
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江戸における菩提寺は本立院と言う日蓮宗の御寺で、間宮家は元来は佐々木一族で有り神社の宮司家出身の一族で真言宗と修験道とも関係が深かったので、状況証拠を見る限り初期は源頼朝公と同じく真言朱を宗旨にしていた様だ。その後、室町幕府鎌倉府の鎌倉公方に仕えると禅宗臨済派(今の臨済宗)と真言宗の両方を大切にしていた。なので、鎌倉公方に仕えていた時代の一族武将には臨済宗の入道号である“道〇”と道の字が付く武将がいる。
そして時代が戦国時代に成ると、鎌倉公方は滅亡し子孫の古河公方足利家は小田原北条家の影響下に置かれたので、間宮家も北条家に仕えた。すると北条家は禅宗の臨済派ではなくて禅宗の曹洞派を大切にした家だったので、間宮家も教養を身に付ける際に曹洞宗寺院で学ぶ事と成り多くの廃寺と成っていた真言宗寺院を曹洞宗寺院として復興開基している。
そして更に小田原の北条家が滅び、間宮家は徳川家康公の直臣となり於久(おひさ)様が家康公の側室と成った縁で事実上の外戚と成ると、当時は安土桃山時代だったので旧主北条家の北条氏規(うじのり)公が豊臣政権下で日蓮宗の影響を受けると間宮家の多くも日蓮宗寺院とも関わる様に成った。しかし、この間ずっと真言宗・修験道・臨済宗・曹洞宗の全ての宗派の寺院を大切に保護している事が新編武蔵風土記稿の神社仏閣の解説や寛政重修諸家譜に掲載された入道号から読み取れる。
菩提への参詣を終えるとFSA君が「本立院の御朱印が欲しい」と言い出したので、御廟所から少し離れた御寺へ移動した。
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元々は隅田川沿いに在ったのだが江戸幕府の都市再開発で現在地に移転された。周辺には多くの日蓮宗寺院や浄土宗寺院、昔は法華宗とカテゴライズされた宗派の御寺さんが同じく移転されて来ている。
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今年は丁度、日蓮上人の出生800周年らしい。
境内にはユーモラスな石像も有る。CIMG5271
そして一応、間宮林蔵公の菩提寺としての石碑も立っている。
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う~ん・・・
揮毫したのが鳩山一郎さん。なんで国を大切にした鳩山一郎さんの身内から鳩山由紀夫みたいな無能な売国奴が誕生したのか理解不能。とか昔は思っていたけれど、只単に鳩山由紀夫は非正妻だった母が反日国籍の半島の出身で妻も本籍は反日半島の人だって後から知って納得した。
だから彼は売国的な行動を好んでするらしい。
もっと対等に仲良くする交流の仕方を模索出来る筈なのに、日米関係を悪化させ、日中関係も悪化させ、日韓関係だけ異常に韓国優位にした行動原理は出生に有るってのは今では多くの人が知っている。
まぁ、不法移民と不法就労者を見逃し続けたら彼みたいな人物が増えるだろう。
しかし、韓国人や北朝鮮人にも日本が大好きで日本の政治と法律と社会の方がマトモと思ってくれいる人も多くいるので、国籍だけで排斥するのは良くない。トランプさんみたいにあくまで不法移民と不法就労者を法律に乗っ取って国外に退去して頂けば、本当に日本人と仲良くしたい在日就労者の人が残って両国間の敵対感情も薄れると思うんだな。
そんな事も、間宮林蔵さんの生涯を辿(たど)る事で終焉の地、深川で学ぶ事も出来たりする。
本立院と御廟所で間宮林蔵公と日蓮上人様にいつも御加護御守護頂いている事の御礼の御参りを済ませると、FSA君と次は昨年開館したばかりの美術館に移動した・・・
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その名も“墨田北斎美術館”だ。
名前の通り、墨田区を代表する文化人で“画工”の葛飾北斎さんの美術品現物とそのリトグラフが多く展示されている美術館で、外国人の観光客も多く来る。
建物も斬新で美しい。
こう言った奇抜な現代建築を批判する人も多いが、これが25年、50年と経(た)つと味の有る建物に見えるから小生は嫌いでは無い。
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例えば最近、ヒ蟻の巣が発見されて大騒ぎに成った横浜市中区の横浜シンボルタワー。この建物も当時は批判されただろうが、今では昭和の高度経済成長期の遺産的なウルトラマンに登場しそうな奇抜なデザインが面白さを醸し出している。
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こちらは他地域の人が余り知らない施設だが、墨田北斎美術館は外国人に対しても日本の窓口的な役割を担っているので小生としては日本現代建築のデザイン美と建築技術を見て貰うにも良い施設だと思っている。
しかもアホの横浜市と違って遺跡破壊して造ってる箱物でもないしね(笑)。
因(ちな)みに下は横浜シンボルタワーを以前紹介した記事。
※コレ→
さて墨田北斎美術館に話を戻すと、この美術館は公園の一角に建っていて、そこからはスカイツリーも見る事が出来る。
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で、スカイツリーの見える方と反対側に美術館が在って、さながらアルファベットのNの字の様な建物の切れ間から中に入る事が出来る。
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これは日本に来た外国人の旅客にも強い印象を与えるのでは無いかと思う。
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中は白を基調にした落ち着いた造りだが、やはりデザイン性に富んでいる。
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建物自体がとても綺麗だね。
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この美術館は志高い高文化な多くの民間企業と個人の支援で成り立っているそうだ。
素晴らしい!
そして、ここの素晴らしい所は深川江戸資料館と同じく、常設展示の美術品の多くは写真撮影して良いと言う事だ。
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どうやら撮影フリーの営業をしている場所は“見せ方の上手い美術館や博物館”に多い様だ。
最近、鎌倉市にオープンした鎌倉歴史文化交流館も展示物全てが撮影OKな上に見せ方が上手い!
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 ※鎌倉歴史文化交流館

紹介記事→
さて、すみだ北斎美術館に話を戻す。
葛飾北斎と言えば、小生達神奈川県民にとっても大切な文化人だったりする。
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彼の代表作の“富嶽三十六景 神奈川沖浪浦”は世界的に有名で世界中の美術家に大きな影響を与えた事が知られており、中でもセザンヌ、ゴッホ、ビクトワール、ドガなんかが有名でゴッホに至っては北斎画の模写も現存していたりするんだな。
小生は幼少期4歳から美術の専門教室に通っていたので油絵は嫌いだけれど、この話は知っていたりする。
因みに、この景色は今のJR神奈川駅~横浜駅辺りが海だった時代、その沖合から見た富士山の風景なので今の大黒ふ頭付近か本牧半島の先端を回る辺りからの風景だろう。
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他にも多くの作品が展示されており自由に写真撮影出来る。
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これは賀奈川(神奈川)沖本杢(本牧)之圖(図)と書いて有る。初期の風景がで、神奈川沖浪浦と同じ辺りからの写生の筈だが浪も迫力が無い。
こう言った事も知る事が出来るので面白い。
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この絵は確か、駿河の海の上から見た富士山だったと思う。間宮家が蒲原代官として奉行を務めた蒲原宿沖合辺りからの眺望だろうか?
葛飾北斎が、こうした迫力の有る絵を描けたのは実は西洋伝来の“望遠鏡”を駆使してUP画像の様な構図を頭に描く事が出来たからと言われている。
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だから、こう言った円弧を意識した構図が発展期~晩年に多く成ったのだろうか?
すみだ北斎美術館には彼の生活の様子を再現したセットも有る・・・
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・・・これが生々しくリアルで気色悪い。しかも体温を感じず魂が入って無いので何だか死体を見ている様な気分に成るんだな(笑)。でも当時の彼の生活の様子を知る事が出来る貴重な展示物だ。
ここには美術品以外にも面白い展示が有った。
葛飾北斎の出生や血縁一族に関する解説なのだが、実は彼は忠臣蔵で有名な吉良上野介の家老、小林家の末裔らしい。
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そして更に面白いのが彼には不詳の孫がいて大層苦労したなんて事も解説されている(笑)。
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どら者(笑)。
今で言ったらニートだな。う~ん、いつの時代もニート問題は有るんだな(笑)。
しかもニートはニートでも、家の金を使い込むタチの悪いタイプだった様だ。
どら息子ってlazy sonって翻訳サイトで出るんだが、prodigalってのは“浪費家”って意味らしい。
つまり北斎爺ちゃんの金を使いまくっていたカスって事か。一族の恥なので系図上の名前も残して貰えなかったんだろう。
まぁ、そんな少し面白い葛飾北斎の歴史も見学し、最後に京都市の友人への出産祝いに江戸切子のグラスを買う為すみだ北斎美術館を後にして、FSA君に“すみだ江戸切子館”へ付き合って貰い移動した。
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残念ながら店内は撮影不許可と言う事なので、外観の写真だけ。
ここは面白い試みもしていて、一般人向けに江戸切子製作体験も出来るそうだ。
しかし、今回は贈答品なのでプロの商品を購入した。
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梱包前に記念撮影。
親子3人分、これで将来、生まれた子が成人式の時とか御酒飲んでくれたら嬉しいな~。
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とっても綺麗だったので、次回は自宅用に購入したいと思う。
買い物も終わり帰り道、首都高で位置を間違えて外環道を走る羽目に成った(笑)。
そして遠回りしてFSA君をJR関内駅近くまで送り届け、解散。
帰宅すると早速、梱包して貰った桐箱を更に段ボール箱に入れて緩衝剤を入れ、段ボールに千代紙を張り付けて注意書きをして郵便局員にも我物在中である事を目立つ様にした。
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後からネットで知ったのだが小生の知る限り神話時代の日本や室町時代以後の武士社会では盃や茶器を贈る事は非常に好まれていたのだが、誰が決めたのか庶民の間でガラスが普及するのは明治~大正時代に成ってからの話なのだが、現代ではいつの間にか「贈答品ガラスNG」としている出典不明のガセネタが流布されている様だ。しかも御笑いなのが、その日本文化にそぐわないルールを紹介しているサイトでは「ワイングラスを贈るのは最高の祝いの意味がある」等と恥ずかしげも無く矛盾した情報を掲載しているので御里が知れる(笑)。
恐らく、こんな下らない新ルールを作りたがる馬鹿は非日本人だろう。

結果的に本日、友人夫妻から御礼のメールと可愛い子供の写真が送られて来た。
〇〇ちゃん!御母さんと御父さんの良い所を受け継いで、賢く理知的で根性も有り日本文化にも精通した大人に成ってね♪

・・・今日のブログ記事はここまで。では、又、次の記事で!













毎日新聞記事 日中国交正常化45執念記念鑑真東渡
毎日新聞記事:[鑑真東渡]・・・日中国交正常化45周年記念オペラ
日中国交正常化45周年を記念した中国のオペラ「鑑真東渡(とうと)」日本公演(中日友好協会・江蘇省人民政府主催、ポラリス・毎日新聞社協力)が5日、東京都渋谷区のBunkamuraオーチャードホールで初日を迎えた。約1800人の観客は、苦難の末、日本に渡り戒律を伝えた鑑真和上の生涯を描いた叙情詩を楽しんだ。
    ↑  
小生はこの記事を読んで中国共産党に対して非常に憤りを覚えた。
鑑真和尚は日本の仏教文化のもたらした建築技術向上や精神教育や学問の発展に寄与して下さった偉人である。
小生の個人的な感覚から、その鑑真和尚を中華人民共和国の中国共産党が日中友好の題材にする事は非常に‟違和感と憤り”しか感じない。

鑑真和尚様は尊敬しているが、日中友好の演目に相応しくない。
現代の中国共産党は宗教と文化破壊集団でしかない。
中国共産党は信教の自由を保証しないどころか宗教に政治的に介入し恣意的に宗教指導者を選出しているんだがな?
また、イスラム教の新疆ウィグル自治区での新疆人への弾圧・・・
ウィグル自治区 Googlemap 久良岐のよし
及び仏教国チベットへの軍事侵略と併合と弾圧そして傀儡僧侶の擁立等々を行っている。
チベット自治区 Googlemap 久良岐のよし
どれをとっても、仏教的な事を含めて宗教的な要素を日中友好の演目にする資格は中国共産党にも中国人にも無い。

南宋が蒙古族により滅亡させられた際に、生粋の華人文化国再建を志した本来の仏僧や儒学者や忠義の士達は源頼朝公が開闢した日本武士の政権鎌倉幕府を頼り多く今の鎌倉市に亡命して来た。
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頼朝公が鎌倉の市街地整備の中心に据えたのが現在の鶴岡八幡宮だ。
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そして、その鎌倉に亡命してきた南宋の文化人であり元に屈服しなかった忠義の人々の中でも有名なのが蘭渓道隆和尚様や兀庵普寧和尚様達だ。
鎌倉幕府の第五代執権北条時頼公や跡を継いだ時頼公の子で第八代執権の北条時宗公に請われ世界最強の坂東武者が構成する鎌倉武士団に蒙古族が中国に建てた征服王朝の元朝の情報や兵法や中国語を教授し禅による精神力を叩き込んだ。
特に蘭渓道隆和尚様は鎌倉に住み、日本で最初に法治主義思想を政治的に実現した第三代執権の北条泰時公の菩提寺でもある粟船山常楽寺(鎌倉市大船)に住んだ。
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※粟船山常楽寺の山門、往古の様式を守り茅葺屋根のまま現存する。
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後に北条時頼公の庇護下に在った時に巨福山建長興国禅寺(北鎌倉の建長寺)を開いて武士に仏教、禅の精神、兵法、天文学、中国語等の学問と中国の惨状や蒙古の戦法を日本人に叩き込み、日本防衛と後の明帝国初代皇帝朱元璋による元朝打倒に繋がる偉大な一助を為し遂げられた訳だ。
この建長寺は鎌倉防衛最後の拠点と成る巨福呂坂(こぶくろざか)の切通しの手前に存在し、位置的にも鎌倉市街地にとって重要な場所だった。
更に蘭渓道隆和尚様は日本文化を大切にもされたので現在も神仏分離令の影響を乗り越え建長寺境内には稲荷社や近代に成って新たに建長寺守護神と成った半蔵坊権現等も存在し修験道や神道の文化も大切に受け継がれている。
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この建長寺は戦国時代にも偉大な武将を多数輩出しており中でも太田道灌公、間宮士信・間宮林蔵・杉田玄白の祖先に当たる間宮信冬公に学問を叩き込んだ寺院として依然として機能していた訳だ。
一方、兀庵普寧和尚様も北条時宗公の師として帰依を受け瑞鹿山円覚興聖禅寺(北鎌倉の円覚寺)を開いて日本独自の文化と成った鎌倉文化の醸成と学問の発展に寄与され訳だ。
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尚、円覚寺は後に北条時宗公の菩提寺とも成り御廟が開基廟として築かれている。
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仮に鎌倉幕府執権の北条家が宝治合戦で三浦家の諸将に負けていたら今日の日本が存在したかは解らない。なんせ、臨済宗を保護して蘭渓道隆和尚様や兀庵普寧和尚様から中国兵法や仏教等の学問を導入したのは北条時頼公と北条時宗公な訳だし、何よりも蘭渓道隆和尚達のもたらした蒙古軍の様子や中国語の学習も、戦時に敵の言語を理解し作戦を阻止し戦う為に斥候(せっこう)で非常に役に立った事だろう。

明帝国の滅亡時にも日本に亡命して来た偉大な仏僧がいる。隠元隆琦和尚様だ。いんげん豆の名の由来の歴史偉人だな。
京都府宇治市の黄檗山萬福寺を開き、祖国の文化を日本でbackupした人物だ。黄檗宗は上杉謙信が真言宗と並んで帰依した宗派だったりするが今日の京都料理の発展に影響を与えたのが、隠元隆琦和尚様のもたらした明の発展した精進料理文化だった訳だ。
そして、明の忠臣であり日本人と華人混血児の名将軍、朱成功(初名:鄭森、後に鄭成功に改名、朱姓の名乗りを皇帝より許された忠義の名将軍)将軍は臺灣島をポルトガル植民地支配から奪還し根拠地を確保すると日本に度重なる援軍要請を出している。
仮に織田信長公や豊臣秀吉や徳川家康公が御存命、若しくは徳川忠長公が第三代江戸幕府将軍に就任していたら日本は明を助け、明と日本、南北から後の初代清帝国皇帝のヌルハチを挟撃し撃破した事だろうよ。
ヌルハチの元々の王都は現在の瀋陽市、昔の奉天市で当時は盛都と呼ばれていた。
瀋陽の位置 久良岐のよし
明を裏切った朝鮮人と征服者の清を、明が江南地方(江蘇省、浙江省、福建省、臺灣)から攻め上がり、織田軍団乃至徳川幕府が裏切り常習犯の犯徒朝鮮を攻め下り、嘗(かつ)て日本人大量虐殺と拉致をやった女真族の末裔のヌルハチを明に協力して撃破した筈だ。
そして明の復興を助け、白人によるアジアの植民地化を阻止した事だろう。
余談だが、徳川家光公と権力争いに敗れ切腹させられた徳川忠長公は鄭成功将軍支援に非常に熱心だった事が有名な人物なのだが、今は御廟所は群馬県高崎市に在るのだが、本来ならば静岡市の浄土宗の玉桂山華陽院に成った筈だ。
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華陽院は徳川家康公の祖母の菩提寺であり、又、徳川家康公が今川家人質時代に読み書きを習った御寺でもあり、徳川忠長公が生前に大変に大切にされた御寺だったので忠長公の御存命中は日本中の大名から寄進が相次いで一時期は寺領2万石と驚異の勢力を誇った名刹だ。しかし忠長公の切腹時に当時の御住職が幕府と家光公に対して忠長公の影響力で得た寺領を返還したので、現在は広大な境内を有している訳では無い。
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徳川家康公を可愛がり教育を施した祖母の源応尼様の御廟所や、近代の徳川家当主の徳川家正先生の御手植えの松等も存在する。
更には家康公の愛妾となり姫を生んだ"於久の方(おひさのかた)"こと"間宮於久"様の菩提寺でもある。
そして、間宮於久様の御父君は豊臣軍を痛撃した北条家の忠臣の間宮康俊公であり、間宮康俊公の曾祖父が建長寺で学問を学んだ間宮信冬公に当たる。
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※上の写真は間宮康俊公が城将の松田康長公と300の寡兵で籠城し豊臣秀次の大軍2万6千を痛撃し活躍した山中城址。
更に康俊公の姫である於久の方と同時期に駿府城で徳川家康公の寵愛を受けていたのが間宮信冬公と同時期に建長寺で学問を学んだ関東最強の名軍師だった太田道灌公の曾孫に当たる"於梶の方(おかじのかた)"こと後の英勝院様な訳だ。その法名の英勝院から隠居地の鎌倉市扇ヵ谷にある菩提寺は英勝寺と名付けられた。
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英勝寺の境内は本来は太田道灌公の鎌倉における邸址と伝わる。
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境内の竹林の辺りが、室町時代初期の太田家の御姫様達の居住区域だったそうだ。
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徳川家との縁から寺紋に太田桔梗紋と徳川葵の両方の使用を認められており、背後の源氏山には太田道灌公の供養塔も在る。
そして於梶の方、於久の方と徳川家康公の暮らした駿府城を後に治めたのが徳川忠長公であり、駿府城の経済を担う蒲原奉行を務めたのが間宮康俊公の曾孫の間宮忠次公だった。
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駿府城下の華陽院と徳川忠長公には各時代の徳川家攻防の記憶と建長寺以来の太田家と間宮家の国防意識の高さが受け継がれていた訳だ。
だからこそ、徳川忠長公の鄭成功将軍支援に繋がるのだろう。これは奇しくも明治天皇の明治政府による孫文先生支援にも繋がる訳だ。
中国南京市紫禁山中山陵 久良岐のよし
※上の写真は中国江蘇省南京市の中山陵、孫文先生の陵墓。同じ紫禁山の山中には明帝国の初代皇帝の朱元璋の陵墓である明孝陵と、三国志の英雄で呉の皇帝の孫権の陵墓の築山梅林も存在する。
今、中国に残る宗教指導者は南宋を裏切り、明を裏切り、華人の明帝国を滅ぼした満州族の清を取込み愛新覚羅溥儀を抑留し国家運営の大義名分とした逆徒「共産党」の建てた「中華人民共和国」に媚びへつらって今に至る連中な訳だ。
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※上の写真は台北市の中山記念堂。孫文先生や歴代中華民国総統に関する展示物が有る。
更に言おう。
鑑真和尚始め、歴代の華人の文化を取り戻したのは中華民国だ!
日本に留学し、小生の住まう横浜市の中の中華街等で漢族や日本人の支援を受け、満州族による征服王朝の清を政治的に打倒し華人の下に万里の長城内側の明帝国時代の国土を取り戻し 近代民主主義国家の中華民国の成立に寄与されたのは国民党初代総統の孫文先生だ!

つまり鑑真和尚や蘭渓道隆和尚や兀庵普寧和尚様や隠元隆琦和尚様の法脈を受け継いでいるのは中華民国臺灣の友人達しかいない!
南京の中山陵には先述の通り三国時代の呉皇帝孫権の陵墓址も存在するが、多くの三国時代の英雄達の陵墓や御廟は中華人民共和国に成ってから破壊され埋葬品は略奪された。
例えば江蘇省蘇州市、ここは古くは春秋戦国時代の呉の首都だった場所だが、三国時代にも建業の町が今の南京市に造営される以前の呉の首都として機能していたので多くの名将達の居宅や陵墓や御廟が“中華民国時代まで存在した”のだが文化大革命等の現代中国人による破壊で消滅した。
そもそも蘇州市中心部自体が呉王国の首都、姑蘇(グースー)城址であり、中国共産党の統治まで各時代に増築されたり改修された城壁等も現存した。
その失われた場所は・・・
・陸遜の陵墓
蘇州大学園区校区周辺、葑門址の近く。その門は春秋戦国時代の名将の伍子胥の死亡後にその目が吊り下げられた門でもある。
・周瑜の陵墓
蘇州市呉中区。
・孫権邸址
蘇州市議会の会議中心ホテル一帯。
・・・超有名どころだけでもゴロゴロ、他にも沢山の名将達に関する霊廟と宗教施設が中国共産党によって破壊され略奪された。

そして、今回の毎日新聞の記事で紹介されている「鑑真東渡」の上演は蘇州市の共産党の連中の支援で行われる訳だ・・・矛盾だらけ。

中国共産党は仏教にも全ての宗教にも関与するのを止めて信教の自由を保証すべきだ。
チベットとウィグル族への弾圧も止めるべきだ。
自国の文化財と自然環境を保護し、共産党の唯物主義、拝金主義、軍国主義、民族主義による侵略を止め改めるべきだ。

現代の中国共産党は日中友好の演目に鑑真和尚様を取り上げる資格は皆無だ。



2017年4度目の鎌倉長谷寺への紫陽花(あじさい)鑑賞へチャレンジ。既に3回失敗・・・

06月10日・・・
早すぎて見頃では無いとの事前情報+虫の知らせで突然、六浦上行寺~上行寺東遺跡~野島の伊藤博文公金澤邸~野島キャンプ場に訪問地変更。

06月17日・・・
長谷寺紫陽花見物ついでに鎌倉へ久しぶりに電車で行って江ノ電の旅を楽しもうと画策、しかし江ノ電鎌倉駅入場規制40分待ち、長谷寺も1時間以上の待ち時間が予想され時間的に断念。
小町通のステーキハウスのマザーズオブ鎌倉で食事と鶴岡文庫で戦国時代の北条家関連の文書コピーさせて頂き、小町通り散歩し社頭で和紙と千代紙だけして帰宅。
意地でも江ノ電に乗る事を誓う。

06月21日・・・
台風並みの天候不良、ふて寝してからジム行って終了。

06月23日・・・
作戦を変更して江の島方面から攻略して行き、人が少なくなるであろう夕刻前に長谷寺到着予定で計画を立てる。

06月24日・・・早朝まで仕事し、そのまま寝ずに作戦決行!家を8時半過ぎ頃徒歩で出発。
・・・AM:09:00頃、大船駅に到着。

大船駅に着いて先ず、横須賀線のホームへ行き鎌倉市内の混雑を予測。
予想通りとは言え絶望する。
早朝の山手線品川駅並に鎌倉方面行の横須賀線のプラットホームは人だかり。列車が到着しても既に満員で乗れない人だらけ。
予想通りの展開だったので作戦通り江の島方面から攻略を進める作戦に移行。
実は大船駅ではコンナお手頃な乗車券を販売している事を知る人は少ない・・・
    ↓
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鎌倉・江ノ島パス
江ノ電、湘南モノレール、JR横須賀線(大船駅~鎌倉駅区間)、JR東海道線(大船駅~藤沢駅区間)
なんと!この区間が全線1日乗り放題、しかも700円ポッキリ!
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3度の2017年鎌倉の紫陽花見学の失敗(笑)を経て知ったこの無双チケットの存在、この1日凄く役に立つ事と成る。
実は江ノ電にも乗り放題のチケットは600円で有るのだが、あくまで江ノ電だけ。
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だから鎌倉観光をするならば、江ノ島に行かなくても鎌倉・江ノ島パスを購入した方がお得な訳だ。

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この時期の鎌倉は上の特別手配特急が運航し、恐ろしい程の人が集結する。だから小生は前回の失敗も踏まえて江ノ島から廻る事にした訳だ。
因みに、今、鎌倉周辺の駅では何か良く知らんスタンプラリーもやっているらしい。
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緑の窓口の前で無料配布されているビラがスタンプラリーになっていた。
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ポーチが貰えるらしい。折角(せっかく)なのでやってみた。
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横須賀駅・衣笠商店街・川崎駅・大船駅・逗子駅・磯子駅・平塚駅・国府津駅・横浜駅・・・
う~ん、どこも良く通る場所だが小生の場合は車でしか移動したくない派なので、スタンプ集まらなそうだな(笑)。
でも、この駅は通勤で使う人も国府津以外は多そうだから、通勤ついで+平塚の七夕祭り+小田原と箱根温泉旅行なんか計画したら全部集まりそうだな。横須賀や衣笠も横須賀観光や三崎観光何かで行けば子供にも良い夏休みにも成りそうだ。
・・・まぁ、そう思って観光してくれる人を増やす為のコラボ観光促進企画なんだろうな。
やってる人いなかったけど(笑)。ポーチ貰えるの強調すれば良いのに。
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緑の窓口で鎌倉・江ノ島パスを購入し湘南モノレールに移動する。
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ついでに江ノ島の弁天様の御利益も有りそうなので大船駅でロト7も買ってみた(笑)。
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湘南モノレールに乗るのは、かれこれ20年ぶり位?子供の頃、皆で海水浴に行った時以来の事だ。
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いつもは車から見上げる湘南モノレールの駅、歩いて回ると新鮮で楽しい。
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この路線は世界でも珍しい懸垂式と呼ばれる釣り下げ型の鉄道なのだ。
子供の頃の車両はもっとダサかった気がするなぁ~。大人になってから久々に乗車する湘南モノレールは少しカッコ良い車両だった。ヱヴァンゲリヲンとかに登場しそうな感じ(笑)。
まぁ、エヴァやシン・ゴジラのモノレールのロケ地は立川車両基地なので、こっちじゃないんだけどね。

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う~ん、浮いてるねぇ~。
走ってる所を写真に撮りたくて次の駅で降りて見た。
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カッコ良いねぇ~。下に車が走ってるね~。
これ、甥っ子と姪っ子にも見せてあげたいなぁ~。
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赤い車両より黒い車両の方が個人的には御気に入り。カッコ良い!
江ノ島までは直ぐに着いてしまうのだが、乗車中は楽しかった。
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横須賀線と違い比較的空いているので、他の乗客はほぼ着席出来ていたし、前方も親子連れ1組いるだけだったので反対側の車窓から走行中の風景を見る事が出来た。
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何かアレだね、スピードの遅いジェットコースターに乗ってる感じ。
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まぁ、それくらい揺れるって事だよ。鎌倉市は谷戸が入り組んでいるので陸を削って線路を引く訳にもいかなかったんだろう。平地は既に住居と神社仏閣でいっぱい、だから江ノ電みたいに住宅街の路地に線路を引かないといけないが、現代で鉄道路線新設する際はそうもいかない。
そもそも至る所に文化財が埋蔵されているから、橋脚を立てて懸垂式にした方が便利が良かったのだろうか?懸垂式に拘る理由は良く解らんが、橋脚の上に高架線にするより経費も掛からないんだろう。
何にせよ世界でも比較的珍しい路線に成っているので、外国人向けに江ノ島→鎌倉観光のコースを宣伝したら人気に成りそうな鉄道だと思う。
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暫くして江の島駅に到着。久しぶりに来てみるとモノレールの駅の周辺は少し寂しい感じだったかな?
でも江ノ電の駅の周辺商店街は賑わっていた。
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店も多いしカラフル。
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所で、江ノ電の駅で可愛い物を見つけた。
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駅前の車止めが可愛い雀(すずめ)に成っていて、誰かの手編みのブランケットを着ている(笑)。
可愛いなぁ~♡
こういう優しさとユーモアが有る人って好きだな。駅の職員さんだったら凄いな。
可愛かったのでGoogle mapに写真投稿しようとしたのだが、バグか何かで何回も口コミに写真添付したのにUPされず、挙句の果てに関係ない写真が関連付けられたので諦めた。
でも今回、この可愛い雀達をブログで紹介できたから良かった。
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江ノ電も色んな車両が有るんだね~今は。緑の車両だけじゃないのか・・・
江の島駅の目の前を通り過ぎて直ぐに、面白い店が有るのに気が付いた。
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革製品の製作販売所、レザークラフトすずき。
店の入口は判り難(にく)い。

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この“江の島がっぱ”と書かれた看板の有る建物の2Fに店が在(あ)る。
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ここではペットボトルホルダーと言うのをアルファベットの文字を刻印してその場で作ってくれる。
観光する時に手にペットボトル持って歩くのは正直邪魔臭いし写真撮影を妨げる、かと言って鞄(かばん)の中に入れても結露で折角訪問した先のパンフレットや御朱印帳が濡れるのも嫌だ。
これならジーンズのベルト通しにぶら下げて、ペットボトルを吊り下げて置ける訳だ。
だから小生は、このペットボトルホルダーを見て直ぐに「欲しい!」と思った。
階段を上がって見た。
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ふむ。地味な店構え。
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中に入ると鞄や様々な革製工芸品が飾って有った。
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御店主にペットボトルホルダーを作って欲しいと頼むと、好きに字を選べるので言って下さいとの事・・・
更に文字以外にも、色んな模様がチョイス出来る。
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最初は梟(ふくろう)は不苦労に通じるのでソレにしようか、それとも崇敬する坂東平氏の殿様達や織田信長公が愛用した蝶々の模様にもしようかと思ったが、小生の家の家紋に似ているデザインが有ったので、それをチョイスしてみた。
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これこの通り、色んな模様が有るので良い記念品にも成るはず。山登りや城巡りで実用性も高いしね。

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御店主が加工に入ってものの5分経つか経たないかで完成。
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うん、違い鷹の羽・・・少し歪んでるけど(笑)。
使い込んで行くと赤黒く変色して渋い色に光る様に成るそうだ。良い思い出の品が出来た。
きっとこれから先、御城巡りや山登り、神社仏閣散歩で活躍してくれるだろう。
とても気に入ったので❝レザークラフトすずき❞もGoogle mapで口コミを書こうとしたら、口コミ書いても表示されない。小生の口コミだけではなくて他の人のも表示されていない。
これって何かの規制が掛かってるのかな?良く解らない。CIMG4263
暫く江ノ島に向かって歩くと、何やら石碑が見えて来たので説明の看板を読んでみる事にした。
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どうやら杉山検校(けんぎょう)と言う鍼灸医師だった高名な人物が、現代の針治療の際に用いる管を使った治療法を編み出したらしい。それによって財を成したので江ノ島への参道だった当時の商店街の一角、この石碑仍170mくらい前の場所でこの石柱を寄進したらしい。
杉山検校は江の島弁財天様の熱心な信徒だった様で、ちゃんと財を成してから神様に恩返しをした訳だな。江戸時代初期の人物だそうだ。
検校と言うのは平家物語の琵琶法師でも有名だが、盲目障害者ながら一定の素晴らしい功績を挙げる人材と成った人物に対して特別に朝廷より敬意を払われて与えられた官職だった。だから杉山検校は多分、江戸時代の盲目の人ながら医療の大家として成功を収め、人の役にも立ち、財を成し、そして公益にも奉仕した人なんだろう。現代のフリーメイソンの人達やロータリークラブの人達みたいだな。
まぁ、針を刺すとか言うと昭和生まれの人にはコッチしか思い浮かばないだろう・・・
藤枝梅安 緒方拳 
緒方拳サンの藤枝梅安(笑)。
こっちは人の役には立っても人殺しちゃう方だし実在しない人物だから、同じ人を刺す仕事でも杉山検校さんの方が遥かに凄い訳だな(笑)。
石碑の先には❝旅館貸宿❞と書かれた❝石政旅館❞と言う素敵な旅館が在り玄関が開いていたので中を覗いてみた。
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どうも中古家具を販売しているのだが・・・
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どれもこれも、最近まで旅館として使っていた節のある備品ぽい物ばかり。
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実に立派な建物だ!なんで廃業してしまっているのか理解できない!
この1FだってBARに改装すれば江ノ島観光の帰りに若い客が大勢来るだろう。
それに宿泊できるのであれば、1Fで御酒を飲んで、そのまま宿泊してゆっくり数泊江ノ島観光したいサーファーやカップルの需要は絶対に有るはずだ!
勿体ない!
金沢八景の料亭金沢園も今年から喜多屋旅館としてリニューアルし復活した程、古民家や文化財建築のCafeや旅館は外国人や若者に人気が有るのに!
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夜間出入り口だったと思われる入口も風情ある。
御店主に「旅館としてはどれくらい歴史が有ったんですか?」と話を聞こうとしたら「何でそんな事聞くんだ!」と少し怒って逃げて行ってしまった。
英語や中国語一つ覚えてGoogleやYahoo!やトリップアドバイザーにホームページ作って掲載するだけでも江ノ島駅前、海岸徒歩5分の好立地、そして祖先から受け継いだ文化財に等しい建築物で異業種でも復活の機会は幾らでも有っただろうに・・・
何をやっているんだろう御店主、素人の質問から逃げている時点で祖先から引き継いだ店を守る気も気力も無いって事なのかな。勿体ない!
自分に維持する力も外国語一つ思える気力無いなら賃貸として貸し出せば良いのに!
絶対に入りたいテナントはいるはずなのに!朽ちていくのを待つとか自ら殻に引きこもって落ち込むのは違うんじゃないか?
まぁ、そうは言っても、御店主がやる気が無いなら仕方が無いんだろう。
しかし江ノ島にはまだまだパワーの有る頑張ってる老舗旅館も多数有る・・・
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もの凄い良心的な値段の紀伊国屋旅館さん。
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良い店構えだ!
小生は今年の夏は三浦半島に、秋は多分、京都か愛知県犬山温泉か奥多摩の旅館に宿泊するけれども、
冬は車で30分圏内の横浜市内と横須賀市内の老舗旅館を開拓する心算(笑)。
金沢区の喜多屋とか南区の中里旅館とか横須賀市の衣笠温泉旅館に泊まりたいからね。
夏の城ヶ島や三崎や松輪や秋谷界隈の旅館や民宿も、観音崎や走水のホテルや旅館もまだまだ数年かけて開拓していきたいし。
来年は紀伊国屋旅館さんか、江ノ島の岩本楼さんにも宿泊してみたいなと思う。
旅館以外にも頑張っている老舗が有る。
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玉屋のようかんサンだな。
この店については江ノ島からの帰路の記事で紹介したいと思う。
石政旅館、泊まってみたかったな・・・
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江ノ島の古い商店街を抜けて、地下隧道の歩道を通り抜けるとこの眺望に辿(たど)り着く。
名勝史跡江ノ島の石碑と江ノ島の風景。
これを見ると夏だ~!と思えるがまだ梅雨(笑)。
でも良い景色。小生はいつも車移動だが、電車でデートに来るカップルは、この石碑の風景を見るだけでもテンションが上がるんじゃなかろうか?
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この付近には江ノ島の裏側に渡る渡し船がいて、小生は行き帰りのどちらかで乗船する事をお勧めする。
10分程度の乗船時間。でも江ノ島を海から見るのはさぞ気持ちが良い事だろう。
小生は歩くのは嫌いじゃないので歩いた。
しかし女性連れは船を片道選択した方が無難だろう。出来れば帰りは船が良い。
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・・・と言うのも江ノ島は険しい自然地形で階段が多いので、オシャレな格好をした女性に長時間歩かせるには少々酷なのだ。この橋の手前から稚児ヶ淵の岩屋まで観光しながら歩いて行くと60分前後はかかる。だから行きか帰りどちらかをクルージングにしてあげるだけで疲れも半減するし潮風も気持ちい良い思い出作りに成ろうかと思う。
無論、歩くのが苦にならないカジュアルな格好で来てくれる女性なら、そんな心配も無く一緒に買い物も楽しむ余裕も有るだろう。
江ノ島がどれくらい険しいかと言うと、参道はちゃんと整備されているが、戦国時代、ここは最後の鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)公が反逆者の上杉家連合軍に追い詰められた際に忠義の家臣達と江ノ島に籠城して、見事に上杉軍を撃退した程に堅固な防御を構築できる地形をしている言うなれば天然の城な訳だ。
まぁ、歴史的には西暦500年代、古墳時代に欽明天皇によって江ノ島の岩屋に天皇家の勅願所が開かれたので宗教的な聖地でもある。なので宇迦之御魂(うかのみたま)の神や弁財天様が祀られ多くの修験者や仏僧が多く修行した霊場でもあった。
そんな場所も江戸時代~現代にかけては庶民に人気の宿泊場所であり観光地と成った。
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そして、このゲンナリする人混みである(笑)。
人混みは好きでは無いが、多くの人の崇敬を神社仏閣が集めて日本文化がリスペクトされている事、日本食を多くの外国人旅客が美味しそうに食べていてくれる姿を見るのは嬉しい。
だから、この日の江ノ島の賑わいも嬉しかった。
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参道に入るとさっそく登場、昔からの旧鎌倉郡名物の女夫饅頭(めおとまんじゅう)。
現代では夫婦(ふうふ)と言う字に夫婦(めおと)と当て字の読み方をするが、本来のメオトは女夫(めおと)と書いたのだ。
今では鎌倉市の名物は鳩サブレーや豆やの豆菓子等、新しい物が有名だが司馬遼太郎さんも紹介しているが鎌倉の名物は昔から女夫饅頭だった。もっとも司馬遼太郎さんは女夫饅頭は鎌倉市坂ノ下に在る「力持ち屋」の名物と勘違いされていたようだが。
小生のこの日の目的の一つは、この女夫饅頭の食べ比べでもあったが、事前に当たりをつけていた老舗が鎌倉市内の長谷と下馬に有るので江ノ島では食事を楽しむ事にした。
そして、この日の主目的は観光では無く、老舗ホテルの岩本楼さんへの取材だった。
岩本楼は江の島神社の参道の途中に在る。
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この立派な門柱が岩本楼。
その前には有名な江ノ島名物の❝タコ煎餅❞の店が在る。
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他地域の人はイメージが湧かないと思うが、江ノ島のタコ煎餅はタコを丸々プレス機にかけて圧し潰して煎餅にした食べ物だ。
アホ程人気の行列店で、この日も客が多数並んでいたので断念した。
なので岩本楼へ先に訪問。
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岩本楼は実は小生が顕彰する横浜の殿様の間宮家と同族で祖先を同じくする。
旅館としての歴史は明治からの老舗だが、岩本楼の前身、岩本院の歴史は凄まじい100年200年ではきかない歴史を有する。
・・・と言うのも岩本楼は元々は密教や修験者の宗派である古義真言宗の御寺で江ノ島の岩屋や弁財天様を管理する別当寺だったのだ。
だから、源頼朝公が弁財天様を岩屋に祀って以来の歴史と成る訳だ。つまり800年前後の歴史を有する。
そして戦国時代、その江ノ島神社の前身と成った江ノ島の聖地の洞窟と弁天様を管理した別当寺の岩本坊として歴史書には登場し、足利成氏公の奇跡の大逆転勝利を導いた戦勝の神様を管理した場所であり、そして北条氏康公と北条綱成公義兄弟の河越夜戦での奇跡の大逆転勝利の際にも、北条氏康公が岩本坊に滞在して弁財天様に戦勝祈願をした記録が残っている。
河越合戦布陣図
加えて、当時の神主や別当が現在の岩本楼の社長の御先祖様で間宮一族、明治以前まで旅館岩本楼の前身の岩本院が天皇の江ノ島の聖地の岩窟を管理する勅願所だった為に❝間宮の苗字(みょうじ)❞より由緒ある本姓の佐々木を名乗っていた。
明治に成り廃仏毀釈による仏教弾圧で江島神社が設立され修験道寺院としての機能有った別当時の岩本院は停止された。その際に江島神社の宮司は間宮姓のまま残り、岩本院は宿坊の機能を活用して旅館業として再出発し社長は、明治以降は岩本の姓に改めた歴史が有る。この事は藤沢文書館で文献を読む事が出来る。
小生の訪問に対して岩本楼サンは丁寧な対応をして下さった。
生憎と写真撮影は出来なかったが、普段は一般非公開の資料館がホテル内に在って、そこには旧建物の天井の一部や様々な遺物が展示されている。そしてフロアには洞窟に祀っていた八臂弁財天様も鎮座していた。
今ではオシャレなリゾートホテルと言うか旅館に転身されたが、色々と貴重な遺物を見学させて頂き、パンフレット等も頂く事が出来た。
知識的な事については、当事者とは言え現代では歴史的な事に関しては、やはり小生の方が知っている事も多く、情報を交換する形に成ったが、本当に親切で、そして生粋の相模国人気質の江戸っ子に似た気風(きっぷ)の良さと江戸弁に似た横浜弁と言うか相武の訛りの聞いた親しみやすい、映画の寅さんの様な語り口調で小生の事も「お兄ちゃん」との人称代名詞で呼んで下さり親しげに近所の若者に接する様な話し方で交流して下さったので緊張せずに済んだ。
今年か来年、旅館としての岩本楼に宿泊したら、又、詳しい紹介記事を書きたいなと思う。
そして源頼朝公、足利成氏公、北条氏康公と同じく江ノ島の弁財天様の御利益も授かりたいなとも思う・・・

次回その②へ続く。




平安時代末期~戦国時代まで続いた相模国の小大名、三浦家の聖地と江戸時代に庶民の信仰を集めた神社仏閣や弁財天を祀る洞穴が、ねつ造された嘘の歴史を流布するカルト信仰によって乗っ取られる危機に瀕しています!

以下の事を行って、史跡乗っ取りを阻止して頂きたく、歴史好きの皆さんに拡散致します!

Google mapで以下の●の地名の場所を検索して見て下さい。
( )内が正式名称
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
以上の場所が明治時代設立のカルトを踏襲した新興カルトに乗っ取られ、Google map上で●表記の施設名称に書き換えれたり、小生や仲間達で正しい歴史を警告するとレビューから削除されます。

実は最後の三浦家の頭領の三浦義意公と房総半島の真里谷武田家出身の側室をモデルにして明治時代に書かれた架空歴史小説「桜の御所」に登場する架空ヒロイン小桜姫をカルトを用いて実在したかの様に広めカルト組織がそれぞれの史跡や別の神仏の崇拝場所を乗っ取ろうとしています。
実在せず、時代設定もハチャメチャな話をさも実話の様に信者や歴史に無知な女性に「縁結びの神」と悪質な情報で勧誘しては自分達の宗教施設の様に事実上乗っ取りにかかっています。
独身女性の結婚願望に付けこみ信者を増やそうとしている訳です。
ソイツ等は❝神奈川県神社庁や菩提寺、菩提寺宗派の曹洞宗とは全く無関係❞の新興宗教系統のカルトです。にもかからず、さも自分達の宗教施設の様に佐原三浦家関係の宗教施設へ、縁結び願望の有る女性達を連れまわしては歴史事実と異なる解説をして信じ込ませています。
このせいで、佐原三浦家最後の武将、三浦道寸公と三浦義意公の菩提寺の三浦氏三崎町小網代に在る海蔵寺は一般参詣不許可の対応をせざるを得ない状況に追い込まれています。

そこで以下のお願いです。
①下記3ヶ所をGoogle mapで検索して、小生達の歴史解説レビューに「」を押して頂けませんか?
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
②出来れば「情報の修正を提案」から小生が( )に示した正しい名前に戻すように名前を提案して下さい。
●弁財天洞
●小桜姫の祠
 (弁財天洞)
●小桜姫神社
 (諸磯神明社 摂社 若宮社)
③可能ならばレビューに三浦家の歴史書に小桜姫の名前は登場しない事、三浦義意公の妻は真里谷武田家の姫である事、桜の御所の時代設定で架空人物の小桜姫の実家とされる金沢北条家は戦国時代の三浦義意公の佐原三浦家滅亡より200年も前に滅亡した事実、この三点をレビューに書いて頂ければ幸いです。

目的としては、縁結び目的の独身女性達がカルトに入信するのを防ぎ且つ正しい神社の名前と仏教施設としての名前をGoogle mapで取り戻し、史実を周知して頂いた上で女性の皆さんには縁結び祈願に安心して自分で来て頂ける様にする為の対抗策です。
ひいては三浦半島の観光が小説桜の御所の舞台として、そして源頼朝公や三浦家所縁の観光地として正しい形で活性化するのが最終的な目的でもあります。

無論、皆さんのお手を煩わせたく無いので出来る範囲の協力、又は拡散で結構です。

すみませんが、拡散協力願います。

三浦家について詳しい歴史は以下に纏め解説してあります。
http://yoshi-kanagawa.blog.jp/archives/64025466.html
上記URLの解説を参考にして頂ければ幸いです。

仮にカルトを利用してでも観光振興の為にやっているのならば、カルトを巻き込むのは三浦ブランドを落とすマイナス効果しか生まず、周辺自治体にも迷惑をかける行為に成ります。
三浦半島には元々源氏と平家の三浦家所縁の豊富な史跡群に加え、近代の要塞や、アメリカ文化の観光地、そして問題の三崎周辺は風光明媚な夏の観光地や冬のミカン狩りや鮪や松輪鯖や三浦大根のブランドが元々有名な場所です。もっと真っ当な宣伝をして城ヶ島や三崎をアピールして欲しいと願うばかりです。
三浦家滅亡の新井城址は日本最長の4年間に及ぶ籠城戦が展開された名城として歴史好きには有名な場所です。カルトが小桜姫の祠と名を変えて宗教活動に利用している場所も江戸時代に遭難した漁民を助けた強い御利益の在る弁財天様として庶民から崇敬された場所です。
諸磯神明社も天照大神を祀る大切な神社ですし、三浦義意公の奥方が北条勢に捉えられたと伝承する諸磯神明社摂社の若宮社も、鶴岡八幡宮の誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇=八幡大菩薩)の御分霊以外に何者でもありません。神道の信者にとってとても大切な神様達の御社です。
そこをカルトで汚さないで下さい。

三浦には沢山の景勝地と近代公園や自然公園、そして史跡とヤマトタケル神話や三浦家歴史の舞台の神社やと寺も有ります・・・
三浦海岸(海水浴場)
三浦市下浦町~三崎町周辺(西瓜と三浦大根の名産地、冬季はミカン狩り、初春は苺狩り)
江奈漁港(高級ブランド鯖の松輪鯖の漁港)
剣崎灯台周辺(神奈川の景勝50選)
盗人狩り(神奈川の景勝50選)
城ヶ島大橋と城ヶ島の景勝(神奈川の景勝50選)
城ヶ島のホテルや旅館(海に面したホテル、旅館、ペンション多数)
城ヶ島公園(景勝地、自然公園)
城ヶ島灯台(景勝地)
城ヶ島長津呂崎(景勝地)
城ヶ島北原白秋記念館(北原白秋三崎在住時代の解説展示館)
三崎漁港(鮪の水揚げ漁港、昔からの名産地)
三崎銀座商店街(鮪料理専門店が並ぶ商店街)
三浦映画社(三浦半島に映画ロケとドラマを誘致するNPO、過去ロケの作品の紹介場所)
三崎城址(北条氏規公居城)
本瑞寺(源頼朝公別荘跡、後に入舩地区に三浦義意公が開基し江戸時代に現在地に移転た寺院)
油壷湾(神奈川の景勝50選:昭和の映画スターのヨット遊び場)
油壷マリンパーク(皇太子殿下と雅子妃殿下始め皇族の方々のデート場所)
新井城址(佐原三浦家終焉の城)
荒井浜(流鏑馬神事が行われる)
海蔵寺(三浦道寸公開基の寺院、三浦道寸と三浦義意公の菩提寺)
小網代の森(原生林の遊歩道)
荒崎海岸(神奈川の景勝50選)
諸磯隆起海岸(フィリピン海プレートと太平洋プレートの衝突による隆起地形観察公園)
葉山マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場、商業施設)
大楠山(神奈川の景勝50選)
森戸神社(源頼朝公勧進の三島大社御分霊)
名島(源頼朝公別荘跡の水没した島)
森戸の夕照(神奈川の景勝50選:森戸神社から名島を見た夕景)
鐙摺城址(三浦義澄公拠点)
鐙摺城址出丸旗立山(伊東祐親公御廟所)
秋谷の立石(神奈川の景勝50選)
秋谷海岸(景勝地)
長者ヶ崎(神奈川の景勝50選)
佐島マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場、リゾートホテルとレストラン)
天神島臨海自然教育園(自然観察公園、佐島マリーナ横)
関口牧場(酪農家、アイスクリーム製造直売)
ソレイユの丘(BBQ等の複合レジャー施設)
披露山公園(神奈川の景勝50選)
住吉城址(平安時代末期三浦義澄公が籠城し、戦国時代に北条早雲公が籠城した城址)
逗子海岸(昔は明治の侯爵達の遊び場、昭和期は太陽族、今はチャラ男にチャラ女の聖地)
逗子マリーナ(昭和の映画スターのヨット遊び場)
逗子市郷土資料館(徳川家別荘)
衣笠城址(平安~鎌倉時代の三浦本家の居城)
大善寺(衣笠城址に在る、鎌倉時代の三浦本家の学問所だった寺院)
満昌寺(源頼朝公が鎌倉幕府設立の立役者の三浦義明公供養に開基した寺院)
清雲寺(佐原三浦家の鎌倉時代~室町時代初期の菩提寺)
怒田城址(和田義盛公の平安時代の居城)
佐原城址(源義経の鵯越の逆落としの作戦を立案した佐原義連公の居城)
田浦梅林(今上天皇生誕記念に植林された4000本超の梅林の公園)
塚山公園(神奈川の景勝50選)
塚山公園按針塚(徳川家康公外交顧問のウィリアムスアダムス=三浦按針公と奥方御廟所)
どぶ板商店街(アメリカ第7艦隊の将兵が遊ぶアメリカ文化の商店街)
戦艦三笠(世界三大旗艦の一つ、東郷平八郎元帥の乗艦)
三笠公園(戦艦三笠が展示された公園、猿島へ渡る船の桟橋)
猿島要塞(明治時代の要塞、日蓮聖人の史跡、縄文時代の遺跡)
信楽寺(坂本龍馬室お龍さん菩提寺、土肥実平公持仏を祀る寺)
走水海岸(日本武尊と弟橘姫の神話の舞台)
走水神社(日本武尊の冠を社殿地下石室に埋蔵した神話の神社)
御所ヶ崎砲台史跡(日本武尊と弟橘姫の仮御所が在った、明治期に神社を壊し砲台設置)
観音崎(神奈川の景勝50選、昭和の映画スター達のリゾート地)
観音崎要塞(明治時代の要塞史跡)
観音崎灯台周辺(今上天皇と皇后様も訪問)
多々良浜(景勝地:貝殻で出来た真っ白な砂浜)
・・・等々、挙げればキリが無く・・・
どこも昭和のリゾート地として映画スター達に人気だった場所や現在の天皇陛下や明治の東郷元帥や三浦家と源頼朝公の大切にされた御寺や御城や別荘の跡、ばかりです。
もしも三浦市非公認のままの観光振興の心算なら、歴史歪曲は三浦ブランドを貶め神仏と歴史偉人を愚弄する行為です。
仮に嘘の歴史を教えられて小桜姫は実在しなかった小説の架空の人物である事を知らず、モデルが真里谷武田家の姫だと知らずに信仰してしまったなら、これからは真里谷武田家の姫様として、小説桜の御所のロケ地として三浦義意公と奥方の真里谷武田家の姫に縁結びを御願いしてみて下さい。

小生の活動に賛同して下さる御寺と又、一つ五御縁を結べた。
鎌倉時代から続く横浜市金沢区六浦の名古刹、上行寺さんだ。
10日土曜日、午前中から動く筈だったが深夜に帰宅後、朝まで色々とやる事が有り結局寝たのは午前5時、起きたら10時位だった。
当初の計画では午前中から鎌倉に紫陽花を見に行き、2年ぶりに江ノ島に散歩に行こうと思っていた。
しかし不思議な事に車に乗り込むとなんだか「そわそわ」して思考が鎌倉に向かない・・・
まぁ、事前に鎌倉の長谷寺サンに問い合わせて現在の紫陽花の開花状況が5分咲きに届くかどうかと言う事を聞かされていたと言う事も少しは有るが、メインは鎌倉に車を停めて江ノ電で観光して回る事だったので、紫陽花は二の次だった。それに家から鎌倉はとても近いので又来週も見れるしね。
・・・で、途中から金沢区の建築文化財の料亭❝金沢園❞を旅館業に業種替えリニューアルした❝喜多屋❞と言う旅館に先日取材の下調べと挨拶に行った事も有り「今日、ランチ食べに行って見ようかな?」と思いついて栄区から鎌倉に続く朝比奈峠には行かず真っすぐ通り過ぎ金沢区八景方面に行く事にした。
これが昨日10日の運命の分岐点だった。
朝比奈峠の辺りから金沢八景に行こうとすると金沢区の六浦を通る。
この六浦と言う場所は江戸時代までは海が入り込んだ入江で商業港として機能していた場所だ。
鎌倉が武士の本拠地として機能した平安時代末期~鎌倉時代~室町時代初期まで大いに栄えた。
そして金沢八景の名で知られる景勝地として有名で、源頼朝公に始まり鎌倉公方足利家歴代、北条早雲こと伊勢盛時公、果ては徳川家康公まで金沢に滞在した歴史が有る。
歌川広重 金沢八景:称名晩鐘
その風景の美しさから金沢の八か所の景勝地を歌川広重等が浮世絵にしている。
現在、昭和のアホの横浜市教育委員会が風致保護せず更に市と土建屋が埋め立ててしまい金沢八景の景勝は全て失われた。
そんな事を思い出しながら車を走らせ、京都出町柳に住んでいた頃にたまに拉麺を食べに行ってた北白川魁力家の六浦店の前である事が強烈に頭をよぎった。
「そうだ、上行寺が近くに在るな。」
「デジカメ買ってからまだ写真撮影に行ってないし、御住職に荒井さんの事を確認したいな…」
「よし!上行寺に行こう」
・・・と、これは何と言うか完全に思い付きだね。と言うか、こう言う事は天啓の様な物で、思い付きに従った方が良いと小生は経験で思っている。
で、上行寺を御参りした。
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ここは茅葺屋根の山門が今も現存する貴重な御寺で、明治政府のせいで縮小してしまった旧境内地のスシロー辺りまで鎌倉~室町時代の矢倉(やぐら=坂東武者文化の横穴式の墳墓)群が大量に周辺一帯に現存している。
因みに、由緒正しい平安末期~鎌倉期前後から存在する御寺は鎌倉文化圏の旧鎌倉群~久良岐郡~三浦郡では茅葺屋根の山門が多い。まぁ、瓦葺に吹き替えても屋根の形状で時代は解る。
更に高級なのが真言宗の別格本山だった金沢区の稱名寺で、檜皮葺の塔頭の山門が在ったりした筈だ。
因みに以前、栄区鍛冶ヶ谷の旧小岩井家住宅を紹介した記事でも書いたが、❝藁葺(わらぶき)屋根❞では無くて茅葺(かやぶき)屋根の場合、一棟の御屋敷の母屋(おもや)の屋根を葺き替えるだけで4千万円程度するそうだ。

  ↑
これがその記事。
だから江戸時代に瓦葺に吹き替えた場所は、手が掛かっていないんだな、寧ろ。
因みに今月の三十日(みそか)は全国の神社で❝夏越しの大祓❞の神事で茅の輪くぐりが行われる。
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今では茅は貴重な植物に成ってしまったので、昔でも高価だったのだが更に貴重な植物に成ってしまった訳だ。この植物は素戔嗚(すさのおう)尊が厄除けの道具として古代人に教えた事に始まる魔除けの植物でもある訳だ。
さて、突然訪問した上行寺、実は数回御参りに上がっているし間宮家と無関係では無いのに御住職様とユックリ御話する機会が今まで無かった。
なので、これも良い機会だと思い訪問を決めた瞬間から身が軽かった。
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山門をくぐると最初のこの供養塔が在る。❝船繋ぎの松❞が有った場所だが、真言宗時代の富木胤継公と後に御寺を復興した荒井平次郎光吉公の供養塔が在り、横に何世代目かの船繋ぎの松が在る。
何で❝船繋ぎ❞か、ちゃんと記事を熟読して下さっている人は解ったと思うが、昔は六浦は港だったと先に触れたが、この御寺は目の前が鎌倉時代の港で千葉家の武将達が鎌倉と房総半島の海を往来する際に船を停泊させた港でもあった訳だ。
金沢区の昔の海岸線 久良岐のよし
上の画像で白い部分が昔の海岸線。半島と沢山の島が入り組む湾は多くの文化人や大名から愛され、もし現存すれば京都の天橋立よりも美しい観光地として多くの外国人旅行客で栄えた事だろう。
そんな訳で上行寺は直ぐ目の前まで海だった。
折角なので、少し御寺のその時代の歴史に触れてみよう・・・
御寺は元は金勝寺と称した真言律宗の古刹で開基の当時は源平合戦の真っ最中の頃、その頃からの大旦那は房総半島千葉家臣だった富木(とき)家だったそうだ。
この富木、取材しない学者は富木(とみき)と読みかねない。
富木と書いて恐らくは土岐家の一族だろう。更に祖先は土気城の辺りを根拠地にしていたのだろうか?
千葉家の被官に成る以前はもしかしたら上総家の被官だったのかも知れない。
後に上総国で里見家の重臣と成った土岐家の祖先に当たる人物かも知れないが、この時点での姓は富木と書いて富木(とき)だった。その家の播磨守(はりまのかみ)富木胤継(たねつぐ)公が房総半島から船で鎌倉に向かう際に日蓮聖人様と同船されたそうだ。
そして仏法について御二方は熱く語り合い、船着き場兼御寺だった金勝寺へ到着後も話は盛り上がって夜に成り、富木公は自分が支援した金勝寺の当時の御住職の普識法印様に相談して御寺ごと日蓮宗に改宗し、寺名も現在の上行寺に改名、法華経布教の道場と成って真言宗風の御寺の立地条件の日蓮宗寺院としての歴史が始まり現在に至る。
明治以前の本山格は日蓮宗大本山の中山法華寺で、この中山法華寺の境内地が富木家の邸址だそうだ。
これは知らなかった。
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間宮家所縁の妙蓮寺や・・・
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・・・杉田の妙法寺も中山法華寺が本山に成っている。
明治時代に成るまで、日蓮宗も浄土宗も時宗も同じ法華宗と呼ばれ御寺の門閥として系統が解れていると認識されていた。禅宗も同様で臨済派・曹洞派・黄檗派等と呼ばれ記録に残っている。
因みに織田信長公と徳川家康公が特に信心していたのが、この法華宗で中でも浄土宗と日蓮宗の御寺を御二人とも良く支援してらっしゃった。
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上の写真は織田信長公の遺骸が葬られた朝廷公認の織田信長公と信忠公と家臣団の御本廟、京都市の蓮臺山阿弥陀寺。浄土宗。
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上は下鴨神社、下はその別当寺だった浄土宗大本山の知恩寺。阿弥陀寺と同じく京都市。
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知恩寺は後醍醐天皇の勅願所で、徳川家康公家臣で忠臣名高い鳥居元忠公の菩提寺でもある。
織田信長公と徳川家康公の御二人は法華宗だけでなく、天台宗や禅宗や真言宗の寺院も多く復興されている。
因みに知恩寺が菩提寺に成っている鳥居元忠公は間宮家で屈指の武勇を誇った間宮康信公を黒駒合戦で討取った名将でもある。
間宮、真田、鳥居の戦勝実績はジャンケンみたいな関係で特徴が有る。 真田家>間宮>鳥居>真田こんな勝敗の関係に成っている。
その間宮康信公は北条綱成公の家老ながら間宮家が単独で伊豆・駿河方面で武田勢を散々にボコボコに追撃したり三増峠で山県昌景公や馬場信房公の武田奇襲部隊を押し返して北条氏照公の窮地を救った当時の間宮家の若様だな。 この頃から真田丸と大坂城攻防の間宮と真田による北条武田の因縁の代理戦争は繋がっているんだな。
間宮家も織田信長公や徳川家康公と同じく多くの神社仏閣を守っていた。
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上は杉田間宮の間宮信繁公の姫が嫁いだ初代久能山東照宮大宮司の榊原照久公の菩提寺、照久寺。 こちらも浄土宗。
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そして横浜市磯子区の上中里神社は間宮家が廃寺に成っていた御寺を法華宗日蓮派寺院として復興した間宮寺の跡。
無論、鶴岡八幡宮を始め若宮神社を勧進したり神道は言うに及ばず、真言宗の本山格だった横浜市南区の寶生寺やその末寺だった笹下城下の東樹院等の真言宗や、横浜市磯子区の修験道の大本山格だった泉蔵院や福禅寺権現堂の森浅間社。更に北条家臣だった歴史から曹洞宗寺院は多くなり他にも例を挙げればキリがない。 そんな間宮家は水軍を管理した家系でもあったのだが、恐らくその水軍で主力を成したのが妙法寺や上行寺を開いて六浦港や杉田港に勢力を誇っていた荒井家だ。
詳しい事は伝わっていないが大まかには荒尾城主だった事、源頼朝公が三島大社の御分霊を勧進し瀬戸神社を開き大姫の誕生の際に琵琶湖の竹生島から勧進した弁天様を祀る琵琶嶋神社を開いた際に、枇杷嶋へ架かる橋を荒井家が単独で寄進した程、鎌倉時代には財力も有り家格もそれなりに有った訳だ。
豪商と江戸時代の記録に伝わるそうだが実際はれっきしとした❝武家❞だった筈だ。それも水軍を率いた。なので荒尾城と現代では場所の解らない城の城主だったのだが、この城跡と思しき場所も同日、小生は見つける事が出来たのだが・・・
御住職と色々と荒井さんの事の情報を共有し、話し込む内に小生の話を楽しいと評して下さった。
とても嬉しかった。
そして間宮家の顕彰文に間宮重臣荒井家の事を書かせて頂く御許可を頂き、そして活動を褒めて頂けてとても光栄と言うか恐縮と言うか・・・
素直に嬉しかった。
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帰りに境内の霊木の榧の大樹の実から精製した油や新茶や御寺の縁起の冊子等、沢山のお土産を頂いた。
霊木の榧は開山日荷上人の御手植えで、榧の油は檀家さんだけで共有している物だそうだ。
何だか色々と御世話に成ったのに却って多くのプレゼントを頂いて大変恐縮した。
でも、檀家さんだけで共有している霊木由来の油を頂き、檀家同様に扱って頂く様な大変有難い気持ちの込められたプレゼントで嬉しい。何だか勿体なくて使えない(笑)! 小生は本当に自分は短気だし馬鹿だし小者なのに、多くの神社の宮司様や色んな宗派の和尚様達に可愛がって頂ける運にだけは恵まれている。これは本当に何と言うか知識と文化と先人の大切さを教えて頂ける多くの師を学校を卒業しても尚、得ているのと同じ事。
「生まれて来て良かったと」
・・・そう思える事の一つでも有る。でもこれは自分自身でどうこうと言う運命では無くて、殿様達に会に神社や御寺に行くと自然に道が開けて来た、例えるなら「御導き」みたいな感じなのかも知れない。
小生本人は行き当たりバッタリ的な行動。今回の上行寺の再訪問もそうだ。
運転中モヤモヤして鎌倉へ向かう分岐点の朝比奈峠の入口で目的地の鎌倉と違う方向の六浦にハンドル切ったら「そうだ!上行寺に行こう!」と成った訳だから。
思えば歴史偉人の顕彰活動を始めたのも今生きているのも、北条綱成公のおかげ。綱成公の御廟所へ御墓参りをしたのが歴史が本当に好きに成り神社仏閣巡りを始める切っ掛けだった。そして横浜に北条綱成公の家老で大活躍し壮絶な最期を遂げた間宮康俊公が居た事を知り、その康俊公と間宮家の関連した神社仏閣を巡り宮司様や和尚様達に話を聞いて回る内にアレよアレよと今では師と思う宮司様や和尚様達に宗派をとわず沢山巡り会う事が出来、次第に可愛がって頂ける様に成った。宗派を問わず。
気が付いたら某大学で教鞭をとる名誉教授の宮司様や現役教授の法華宗系の某宗派の和尚様や新任神職研修の指導教官だった大きな神社の宮司様や某禅宗の人事部長さんや青年部長さんやら、某高野山でお勤めに成っていた偉い和尚様とか。
今回の上行寺の和尚様も本当に始終笑顔で色々と教えて下さり、そして笑顔や時に目を見開きながら小生の話を真面目に聞いて下さって、それだけでも感謝が今、文章をタイピングしながらも湧き上がってくる。
御住職様、ありがとうございます。きっと荒井の殿様の歴史、世に再び知って貰える様に書きます!
玉縄北条家や間宮家の顕彰文にも、そして、いつか三浦家の顕彰文も書く際にも。
荒井家の御子孫とも面識有るしやらないといかん。
さて、小生の主観的な事はここまで、上行寺の写真を紹介したい。
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古い御寺、それも真言宗の大寺院だったので戦後に縮小された現代の境内地でさえ、鎌倉の大寺院がそうである様に沢山の矢倉が残っている。
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鎌倉武士達の墓所の跡だな。
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御寺を日蓮宗に改宗させた富木胤継公の富木(とき)家は千葉家臣だった時代の歴史しか現代に伝わらないが、先述の通り多分、後に里見家の家臣と成った土岐家の祖先なのだと思う。
この矢倉群の主が誰か、今度、改めて御住職に教えを請いに行こうと思う。
資料が散佚して解らなければ、許可を頂いて墓石の文字を撮影させて貰い読んでみようと思う。
そして先に紹介した船繋の松の旧跡。
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この直ぐ前まで海だった訳だな。
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太平洋戦争で戦死した将校の供養碑。立派だ。
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山門からずっと綺麗な石畳が続いており、御本堂へ向かう手前の分岐点に鐘楼が在る。
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鐘楼の屋根の上には千葉家の家紋。富木家が千葉家の家臣だった事が良く解る。
上行寺と言う御寺は鎌倉にも在って、実際、鎌倉の大町の辺りには千葉家と関連の在る場所も少なくないし、戦国時代に成っても昔は下総国臼井城主だった千葉一族の臼居家の御本家が住んでいて今も光明寺の塔頭となった元は弘法大師所縁の真言宗寺院だった蓮乗院が在ったりするが、そこは臼居家の菩提寺で千葉常胤公の所縁の御寺だったと伝承する。
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御本堂の右手に庫裡、庫裡の屋根の作りからして少し前までは茅葺屋根だったんだろう。
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対して御本堂は破風が付いており、江戸期~現代の造りに成っているので比較的新しい様だ。
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本化殿・・・浅学の小生には意味が解らない仏教用語だったのだが、調べたら法華経の事を意味するらしい。言い換えると法華堂と言う所だろうか?
そういえば源頼朝公は熱心な真言宗と修験道の信徒だったが、法華堂を大倉御所の近くに建てていたりもしたので法華の教えも好きだった様だ。
政子様は真言宗が御好きだった様だが、阿弥陀仏を信奉していた形跡が浄妙寺の歴史からも紐解けるが思想的には不明。御息子の三代将軍実朝公は臨済宗で釈迦如来を本尊とした様だ。この実朝公と北条一族によって鎌倉の至る所の御寺は臨済宗に改宗されて行った。そして禅宗を取り入れた武家文化が確立され、元寇を撃退する知識の泉と精神力の根源と成り反抗戦の原動力と成り奇跡の勝利を生み出した訳だ。だから神仏を崇拝する全ての宗派が日本の歴史を構成していて、そして全てが有ったから今が有る。だから、宗派の優劣も無いし、その代わりに確かに得意不得意な分野は有るかも知れないが、その個性が個々の得意分野を更に昇華させて日本文化を成熟させて行ったんだな。
だから不要な物なんて何も無い。
上行寺は現代は日蓮宗だ。日蓮聖人は「南無妙法蓮華経と言ってさえいれば良い」と言った様な事を書くアホ学者や小説家も多いが、当時の法然上人や親鸞聖人もそうだが実際は密教や現代では宗派でカテゴライズされてしまい学ばなくなった多宗派の様々な知識も身に付けていて、だから親鸞聖人は鎌倉の仏僧の試験官として招聘されたり、日蓮上人が書いた密教的なものが根来に保管されていたりする。
更に法然上人が「念仏だけ唱えれば極楽に行ける」と言った様な事が言われているが、法然上人に帰依した熊谷直実公や土肥實平公等の名将の動向を見るに「やった事を反省し本当に悔いた上で更生し念仏を唱える事が大事」と言う意味だろうと小生は解釈している。
まぁ、法華関連の偉人を悪く言うこれらの言葉尻を捉えた様な話は、対立した宗派のプロパガンダだったんだろう。
では、鎌倉の禅宗はどうだっただろう?禅を「禅だけ練って質素な暮らしして精神修養だけしてりゃ~良い」とトンでも無い事を思う奴がいたら阿呆だ。
蘭渓道隆和尚も兀庵普寧和尚も退耕行勇和尚も座禅だけ組んでいた訳でなく、博識で武士達に現実社会で役に立つ思想学問や兵法や文化を叩き込んだ。そして元軍を打ち破るノウハウを鎌倉武士団は獲得した訳だ。禅宗は普段の生活も修行とし真面目に生きる事を教える宗派だ。それは臨済宗だけでなく曹洞宗も同じで、だからこそ曹洞宗を支援した戦国大名の北条家の政治も善政として有名だった。
天台宗も多くの学僧を抱え知識の泉として機能したし、真言宗は仏教の原型を出来るだけ保全して伝える言うなれば仏教界の考古学みたいな素晴らしさと日本の神様や文化も特に守って来た歴史を大切にする側面を備えている。
昔の仏教も神道も多宗派に非常に寛容だった事を、現代の宮司様や和尚様には知らない方もいるのかも知れないが、歴代天皇家は正に神様も仏様も色んな仏教門閥も其々の良さを見て大切にしていらっしゃった事は様々な歴史博物館や宗教施設の遺物を見て回ると理解出来る。
そんな訳で、昔の和尚さんや宮司さん達は大らかだった訳だが、上行寺も法華宗日蓮派に改宗した後も金沢山稱名寺とずっと交流が絶えなかった様だ。
だから、御寺を富木家の後に復興支援した荒井家出身の日荷上人が稱名寺とも交流が有ったのだろう。
しかも稱名寺には戦国時代に間宮信高公に姫が嫁いだ真里谷武田家の殿様が逃げて来て北条家次いで武田家に亡命した歴史が有る。何だか間宮家の歴史は荒井家ととても因縁めいている様だ。
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上行寺の前の道、六浦道と呼び、現代の笹下釜利谷道路の延長線上の終着点。
しかしここは昔は海だった訳だ。ここに千葉家の殿様達が船で往来していた当時と同じ様子の風景を見て見たかったが今では想像もつかない。
因みに富木家の子孫と小生が推測する土岐家、仕えた里見家と争った真里谷武田家の一門衆(しんぞく)には勝家がいる。恐らく幕末の安房守勝海舟先生の祖先だろう。もしそうなら間宮康俊公の御子息で間宮造酒之丞家の始祖と成った間宮信高公の奥方の真里谷家の姫君と勝海舟さんは遠い遠い親戚と言う事に成る。つまり間宮家と勝海舟先生も親戚って事だな。
所で土岐家は美濃の土岐家の戦国時代の分流と伝わるが、ハッキリした歴史は学者にも諸説有り解っていない。
だから小生は言う、富木は恐らく鎌倉時代に関東に残った土岐家の支流で美濃の土岐とはかなり早くに、それも鎌倉時代には分かれていた家だろう。
そして土岐では無くて富木の字を用いていたので歴史学者は気が付かないんじゃないかと。
まだ学者も知らない事が多い。北条綱成公の祖先の福島家が存在しないと実地見聞しない学者共はのたまうが、実際に福島家の子孫は多摩に存在する。子孫は庄屋に成って江戸時代も存続した。
❝文字に残っている事が全てでは無い!❞しかし学者は自己保身をしながら自説を論文に書かなければいけない不自由な職業の様なので、左翼弁護士の如く状況証拠で白黒判定する事を他の学者が許さない訳だ。つまり、歴史学なのにエジプト考古学や城郭考古学とは考え方が全く異なり嘘でも文書に成っていたら証拠として論文に書けるし文字に成ってる証拠しか拾えないと「変な空気に支配されている」チキンが多い訳だ。だから死んでも文字オタク歴史学者になんか小生は成りたくない。だから考古学者の先生達や無名でも博物館の学芸員を小生は尊敬する。
まぁ、小さい時から土器や石器拾って遊んでたしね。
と、言うか日本の歴史学者が左翼染みて居るのは、東大や京大を始め国立大学の教職員が左翼に学生闘争に参加し染まっていた連中が多く幅を利かせてそういう雰囲気を作ったんだと思う。
歴史は状況証拠の方が大切だと思うんだけどね、文字は後世の人間も騙そうとして意図的に制作されたり改竄複製されたりプロパガンダも沢山有る訳だから、客観的な状況証拠から実際に史跡を発掘する方が大切だろうと個人的には思っている。実際、凄まじい数の文献を見ている学者でも小生の様な学者で無い人間が知ってる武士達の名前の発音を知らずに読み仮名を想像で誤植して人名辞典に掲載している事も有るしね。実際に御子孫に会いに行くのが一番早いのにね。
少々、ここまで宗教的な解釈の話が多すぎたかも知れない。
上行寺を後にしてからの話に移ろう。
寺の背後の山中に伝承の荒尾城の遺構と思われる帯曲輪らしき多くの削平地や竪堀らしき地形も発見した。
それは又も偶然で横浜市教育委員会が破壊容認した上行寺東遺跡に行く時に道を間違えての事だった。
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ここが上行寺東遺跡の登り口。
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分岐する階段の上が遺跡のコピー、実際の遺跡はライオンズヒルのマンション建設で主要部分が破壊され消滅した。遺跡の前に小生が荒御城跡かな?と思った地形に至る道を紹介する。
右手の階段の上に遺跡のコピーが在るが小生は、ここで道を間違えて直進した。
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眺望が良く、上行寺の裏から昔海だった平地が見渡せる。
なんとなぁ~く海だった時代の風景が想像出来る。
少し行くと又もや階段が有る。
そこを登ると何かの神様が祀られている小さな御社が在った。
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思うに浄願寺や上行寺の関連なら御寺の守護神だった神様だろう。でも御社の名前も不明なので何の神様がいらっしゃるのか判断がつなかった。でもちゃんと御参りして来た。
頼朝公や千葉家の関係なので弁財天様だろうか?
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御参りが終わって階段を下り、誤った道(笑)を更に進むと完全に上行寺の裏手に回る。
ここら辺から道の様子が怪しく成ってくる。
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余り人の往来が有る形跡が無くなり始める。雑草が生え始める。
更に進むと・・・
ドンドン獣道に成って行く。

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てか、都会育ちの人はコレ見て❝道❞とは認識しないだろう(笑)。小生が円海山の近くで育って山の中を駆けずり回って遊んでたから道に見えるだけ。実際は多分、遊歩道だったんだと思うが現在の林市長に成ってから円海山も遊歩道の整備が滞って通行止めの場所が増えたりしているので、ここも放置されてしまったんだろうか?
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昔の市長が整備した跡だろう。樹脂製のフェイクの木柵が有る。多分円海山と同じで中田市長かその前の高秀市長の頃の物だろう。
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暫く行くと昔の岩盤が露出したり、昔のままの道に行き着く。
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その辺りから、山腹のここかしこに小さな平場が散在する様に成るし、尾根道の両端が人工的に裾切りされた切岸に成っている事に気が付き始める。
これ等の平場は、どこからどう見ても❝帯曲輪❞だろう。こんなん、遊歩道でも無いし、こんな崖地に畑を作る訳も無い。
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稱名寺を囲む金沢城に似ているんだな。
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ここは上行寺の西側裏手辺り、写真では判り難いが明らかに竪堀だ。
尾根も細くクビレて敵の侵入を限定しやすい。
山頂に行くまでも竪堀らしき場所が数ヵ所有った。
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そして途中で気が付いたのだが、開削された遊歩道に成っている平場の片側、岩盤を削り残した側は全て当時の六浦湊(みなと)側で、港側への防衛を意識した土塁と言うか岩盤の防壁の様に見てとれた。
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写真では判り難いが土塁の名残りの様な地形も続いていた。
これ、文献には出て来ず上行寺の伝承に残る荒尾城何じゃないかと思う。
実は直ぐ近くの上行寺東遺跡は源頼朝公と文覚上人が開いた浄願寺の遺跡だった。
頼朝公は森浅間神社の様に陣屋を置いた要塞の傍に神様や御寺を勧進する❝習慣❞が有った様だ。
それは港北区の三会寺もそうだし、南区の若宮神社も傍に後の蒔田城が有る。
多分、ここは六浦湊を守る場所としてスタートした要塞が起源の城で、六浦湊に鎌倉時代まで勢力を持って栄えていた荒井氏の拠点だったんじゃないだろうか?ここに烽火台を置けば東京湾沿岸部とも連絡が取りやすいし。
荒尾城址か? 久良岐のよし発見の城砦と思しき地形。
改めてGoogle earthで見てみると、有るわ有るわ森に埋もれた城址に良く見られる空堀跡が森を横切り直線の凹みに成っている地形。今度、駒澤大学の某教授や御世話に成っている城郭縄張り図制作者の方に報告して置こうと思う。
さて、流石に城跡らしき地形は嬉しかったが「これ、絶対に浄願寺の遺跡には続いてない(笑)」と途中で気が付いていた。
なので丁字の分岐点まで登り、そこから引き返して改めて遺跡の入口に戻って来た。
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浄願寺廃寺は遺構も良好に最近まで現存した。
源頼朝公と文覚上人により造営された格式高い御寺で、誰でも国語の授業で習う❝徒然草❞の著者の兼好法師こと吉田兼好がここを気に入って滞在していた。吉田兼好は仁和寺の僧侶で浄願寺と同じ真言宗の和尚さんでもあった訳だ。何で吉田兼好が横浜市に滞在していたの?と思う人が少なくないと思うが、鎌倉時代当時金沢八景と呼ばれた、この地域一帯を治めていたのが金沢北条顕時(あきとき)公で、その邸宅が現在の稱名寺の場所だった。
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稱名寺は最初は金沢北条家の私邸で持仏を安置し拝む御堂としてスタートした訳だ。
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それが金沢北条家が熱心な学者でもあり、隣の谷に文庫を創設して日本のみならず世界中の文献を収集しまくったので、武家初の私設図書館と成り、現代では東の正倉院と呼ばれる程、鎌倉~室町~戦国~安土桃山~江戸の各時代を通じて仏僧と武士の一大学問所と成った。
その金沢北条家の北条顕時公の執事を務めたのが兼好法師の実兄の吉田兼雄公だったそうだ。
まぁ、そんな訳で六浦と金沢八景と金沢文庫と野島は平安~近代まで文化醸成地で景勝地だったのだが、その景勝は横浜市によって埋め立てられ先述の通り消滅した。
一方、浄願寺自体も新田義貞の兵乱で戦火に巻き込まれ略奪され多くの御寺と神社が消えたのと同じく、一度廃寺に成った。しかし戦国時代、菅原道真公の御子孫で太田道灌公に与力していた菅野家と太田道灌公によって金沢区洲崎に龍華寺として復興され寺脈は受け継がれた。
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その龍華寺には太田道灌公、北条早雲公、徳川家康公も滞在宿泊し支援した歴史が有る。
そんな歴史の浄願寺跡の上行寺東遺跡だが、ライオンズヒル建設準備中に横浜市が開発許可を出した事が明るみに成り、大きな問題と成った。
鎌倉市や横浜市の郷土史家や学者や文化人と市民が激怒し、大問題に発展させ新聞にも取り上げられたが開発利権が当時の市長に有ったのか無かったかは不明だが、破壊を強行され消滅した。
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遺跡と看板に書いてあるが事実は違う。
チキン横浜市教育委員会が己の悪行に自覚が有ったのか意味の無い張りぼてで消えた遺跡の一部を複製し神仏の天罰と市民の批判から己等の罪を粉飾するかの様に造ったのが上行寺東遺跡な訳だ。
だから上行寺東遺跡の主要部は意味の無い張りぼて。
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造形保存とか言ってるが、開発許可を踏みとどめられなかった教育委員会の体面保つ方便。
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この遺跡の入口には神社も有る。
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鳥居は神明造り。
でも何の御祭神化は解らない。海を守る場所、そして皇祖神系の神様を祀る神社に用いられる事の多い神明鳥居なので八幡社だろうか?恐らく御祭神は八幡大菩薩こと応神天皇、本来の御名前を大伴別命(おおともわけのみこと)と言い、別名の誉田別尊(ほんだわけのみこと)も有名な神様だろう。
源頼朝公の幕府設立に協力した千葉家や荒井家の祖先と思しき三浦家は皆、鶴岡八幡宮の八幡大菩薩を勧進して神社を造営したので恐らく、港を守るこの丘にも八幡様が迎えられたんじゃないだろうか?
看板が何も無いので神様も由来も解らない。
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残念。この御神紋も何の神様に用いる物なのか良く知らない。
八幡社なら波切紋の筈なんだけれどな・・・。
その左隣には小生をいつも守って下さる御稲荷様がいらっしゃった。
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ちゃんといつも守って頂いてる御礼と、次の訪問先で又無事に御会いする事が出来る様に御願いを申し上げた。
その御稲荷様の反対に上行寺東遺跡が在る。
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これ全部張りぼて。
こんな大規模なコピーする位なら市有地を土建屋に代替して開発諦めさせれば良かった物を・・・
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本当に勿体ない、完璧な鎌倉時代の御寺の文化だ。残っていればどれだけ貴重な史跡に成ったか。
鎌倉市の無量壽院址に匹敵する規模と保存状態だった筈だ、横浜市が容認するまでは。
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この矢倉は本物。
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映さなかったけど隣の矢倉は色々置かれてごみごみしてた。
一頻(ひとしき)り写真撮影をしてから、上行寺を再訪して荒尾城址と思しき地形の事を御住職に報告した。
六浦訪問の目的を全て終え、少し汗ばみ夕涼みしたく成ったので野島に移動した。
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野島の伊藤博文公の金沢邸の縁側で海を見ながらの夕涼みと、来月、甥っ子と姪っ子を連れてキャンプに来るので、ついでに案内所に手続きの事等を確認する目的も有った。

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ここは無料で見学出来るし縁側に座って夕涼みしてユックリ時間を過ごせる。
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まぁ、解説も充実してるし。
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建物の由来や、各時期の出来事とリンクした内容の解説は読んでいて面白い。
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ここで松越しの海と八景島を見ながら600円で抹茶と和菓子を頂いてボ~っとしに小生はたまに来る。
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金沢八景の解説や、伊藤博文公の生活やここで大日本帝国憲法の草案を起草した解説が有る。
ここに来ると伊藤博文公が朝鮮の王族と非常に友好な関係を築いていて、朝鮮王族が度々、伊藤博文公の金沢別邸に遊びに来て宿泊していた事実も知る事が出来たりする。
韓国人が知っても絶対に認めたくないだろう歴史事実だな。
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伊藤公の御蔭でゆっくり出来た。
建物を出て、キャンプ場の下見に移動。
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夏島が見える。あそこにも昔は旅館が在って、そこでも憲法の草案を考えていたそうだ。
風景綺麗だったんだろうね、本当に。
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その夏島の前に有るのが日産自動車追浜工場、昔の本社工場。そして戦前戦中を通じて横須賀鎮守府の海軍飛行場だった場所。
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だから戦時中に作られた零戦の格納庫が野島に現存していたりする。
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まぁ、今では存在を余り知る人はいない。
ここまでの徒歩5分程度の間に沢山の紫陽花を見る事が出来た。
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来週位には鎌倉の紫陽花も満開に成るだろう。
零戦の格納庫の前一帯がキャンプ場に成っており、予約すると誰でも利用する事が出来る。
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その奥には野島青少年研修センターと言う場所が有り、20人以上の団体から宿泊する事も出来る。
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大学生のサークルやボーイスカウトが良く利用するそうだ。
素泊まりなので食事は付かず、自炊。
施設内に炊事場も有るが、キャンプ場を予約しておけばBBQ施設を使う事も出来る。
詳しい事は職員に聞くかネットを見ると良いと思う。
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キャンプ場について職員さんに色々と質問をして無事確認終了。
後は当日の天気が良い事を祈るのみ。
てな訳で野島の野島稲荷神社に移動した。
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以前も個別の紹介記事で書いたが、ここは紀州徳川家の崇敬を集めた御稲荷様だった。
何故なら現在のキャンプ場の辺りには紀州徳川家の別荘が在ったのだが、それを知る人は今の横浜市民には少ない。
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大きくも小さくも無い神社だが、森に囲まれ雰囲気は良い。
御狐様が出て来そう(笑)。
小生が子供の頃はこの社殿の裏側の崖に掘られた階段を上って頂上まで行く事が出来たのだが、今は危険個所扱いされ進入禁止にされてしまっている。
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神様に御祈りを終えて野島を後にした。
帰りしな家系亜種の六角家の直弟子が営む金八家で家系拉麺を食べた。
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ここの店主が修行した六角家は、元々は家系拉麺の創始者の吉村家の吉村実社長の直弟子で信頼され本牧家を任せられていたのだが、有る時に従業員全員を引き抜き退職、吉村社長の恩を仇で返す様に六角家を開いた神藤と言う人間の店だが昔は吉村社長の弟子達の家系の中でも有名な店だった。
まぁ因果応報と言うか、現代では吉村社長の直営店や別の吉村社長の直弟子の店等に取り囲まれ閑古鳥が鳴いている。
しかし六角家は新横浜ラーメン博物館のオープン当初に入店したり、昔は人気だった。だが吉村家等が更に味に研鑽を積み発展した中で六角家は勢力を縮小して現在に至る。
吉村社長と全く関係ない工場でスープを作る❝偽家系❞のチェーン店が最近は多くなっているが、金八家の店主は言い換えれば❝本物の吉村社長の孫弟子❞で本当の家系❝亜種❞の拉麺を食べられる店な訳だ。
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内装はとてもオシャレ。
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これなら女性にも入り易いだろう。
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店のキャラクターも可愛いな。
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味玉増しで注文、本流の吉村家や杉田家と比べるとアッサリ目、醤油タレの強さは控えめで確かに女性向けなのかも知れない。
家系総本山吉村家とは少し違うが、これはこれでちゃんと血統を受け継いでいる分家の流派の味として家系のセオリーを守っていて美味しい。
店員の皆さんも明るく、雰囲気も良かった!
まぁ、師匠は不義を働いたかも知れんが、更に厚顔無恥な工場生産スープの偽家系に対抗する勢力として家系を守って欲しい!
改めて言う、とても美味しかったですよ!

この後スポーツジムに行き
運動して風呂入ってサッパリしてから帰宅した。
良い休日を過ごせたし、又、素晴らしい和尚様と御縁が結べた事が嬉しかった。
次の休日はどんな人に出会えるんだろう?

今年も円海山で蛍が見れる季節に成りました。
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今月の写真です。
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観察マナーについても色んな考えも有れば何も考えていない人、自分達のローカルルールをさも当たり前の様に押し付ける人もいて千差万別、これも文末で解説したいと思います。
蛍、小生の小さいころ、ん十年も昔はもっとわさわさ見れたのですが、横浜市教育委員会の怠慢と林文子市長による円海山の開発容認で横浜市最大規模の自然公園ごと絶滅の危機に瀕しています。
瀬上沢蛍の観察可能な場所 久良岐のよし
個体数の激減の原因は過去に開発されてしまった庄戸地区とみどりが丘の宅地化による環境の悪化、それに加えて過去の横浜市による誤った公園整備によって天然のフナが居た瀬上沢が重機で荒らされてしまったり蛍だけでなく生態系も破壊してしまった訳ですが・・・
現在、僅かに生き残った蛍に止めを刺そうとしている組織がいます。
それが東急グループの土地買収による宅地化構想と、歴代市長が守って来た円海山の自然環境保全を事実上放棄して東急に対して土地放棄や買収等の対価を払う等の対案を示さず、それどころか円海山の林道整備すら放棄して丸で段階的に宅地化を容認する構えの様な言動しか現状していない林文子市長と円海山の史跡と自然環境の保護を怠っている横浜市教育委員会です。
過去の記事の転載も交えて説明したいと思います。

先ず、円海山その物を知らない人が多いと思います・・・
円海山は横浜市栄区港南区金沢区磯子区にまたがり鎌倉に続く自然公園です。 
鎌倉横浜に古代文化の基礎を醸成した地域でもあります。
この円海山、実は横浜市で一番標高の高い山で、天気が良いとこの様に頂上近くからは富士山も綺麗に見えます。

実はこの山、歩いて鎌倉まで行ける遊歩道があり、それらは「鎌倉早駆けの道」と言う史跡でもあります。
更に‼︎
蛍(ほたる)の横浜市内での貴重な生息地なんです!
その場所は瀬上池と、その池に注ぐ自然の沢を集めた池から再び流れる貴重な水源地帯の瀬上沢です。
この小川が瀬上沢ですが、こんな不必要な護岸工事が横浜市の建設利権の為か環境整備局の不見識か行われてしまったせいで天然のフナは姿を消しました。
当時、環境整備局の前身組織の負の遺産ですね。挙句の果てに保持が怠られているのが現状です。
歴代市長から保護され多くの市民の憩いの場として解放されてますが、小生も子供の頃よく、ザリガニを採(と)りに来たり野山を駆け巡りに友達と遊びに来ていました。釣りはやりませんでしたが友人達はよくフナを釣りに瀬上池や瀬上沢にも来ていました。
子供が自由に川遊び出来る横浜南部の最後の水源地帯がこの円海山の沢で、特にこの瀬上沢と大岡川源流笹下川上流の金沢区の大谷戸(おおやと)側の沢が状態が良いんです。
写真は円海山大谷戸広場側です。
昔ながらの貴重な里山保存区域です。綺麗な昔ながらの鎌倉近隣の原風景でしょ?
本当、貴重な自然と里山なんです。

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金沢市民の森側、大谷戸広場付近は護岸工事されずに一部上流だけ源流が昔のままの沢の姿を保っています。

写真撮影した季節は冬で川で遊ぶ子供も流石にいませんが…
此処(ここ)瀬上沢には貴重な淡水の貝の化石群の地層が露出した場所があり、更に奈良時代の古代のタタラ製鉄の史跡も出土した場所でもあり…
 
灌漑水田史跡でもあり、重ねて言いますが平安〜室町時代の鎌倉早駆けの道と合わせて非常に貴重な史跡群でもあります。
 
昔の市長達の遺志を踏みにじる東急と林さん。
東急の土地買収で茅が生えて「神社に売るんか(笑)!」ってのが現状です。
以前の市長達により、瀬上池周辺は遊歩道や釣り用の桟橋が設けられていて新春にもなると釣りをする子供や、お弁当作ってピクニックに来た家族連れなんかで、ほのぼのとした空気が感じられる場所です。しかし多くの林道は林市長に成ってから保全されず、通行止めの箇所が異常増加中・・・
今の横浜市長の林文子さんは、どうも保護に熱心ではなく寧ろ開発準備してる側のようですが、昔からの地域のボランティアが自主的に子供の遊び場を守って下さってます。
だから幼稚園小学生くらいのお子さんがいる御家族には暖かく成れば、オススメの自然の中の水遊び場ですよ!
この池が瀬上池。
小生が子供の頃、友人達は釣りが自由に出来るここに来てはフナや鯉なんかを釣っていました。
…小生は、もっぱらザリガニ専門でしたが(笑)。

しかし、最近は今の林横浜市長の施政下で、倒木の処理などが放置され林道が通行止めにされてしまっている所が多くあります。
この下の写真の「尾根道から護念寺への道」も、さも通行出来るような案内板ですが、実際は鉄柵で封鎖され市民が通行出来なくされています。
別に道が崩落している訳ではありません。
横浜市が業者に開発させる前振り?

しかも、此(こ)の道の先は古典落語「強情灸」の舞台になり江戸時代から昭和初期まで、お灸治療の本場峰の灸として観光客と治療客で栄えた竹林の美しい円海山護念寺に通じているので、早く再開通させるべき所なんです。
※円海山護念寺の風景と歴史については「ココ」←クリック!
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ついでに言えば、昔は護念寺の本院だった阿弥陀寺は浄土宗の総本山である知恩院の住職を務められた了鑑大僧正を輩出した名刹だったりもします。最古参の旦那は苅部(かるべ)氏で、元は戦国時代に鎌倉公方代理を務めた蒔田吉良家の吉良頼康公の重臣の子孫に当たります。
蒔田吉良家は戦国時代初期には世田谷を本拠地にした足利家の中で一番格の高い足利家の一族でした。
北条家に従属しながらも吉良様や蒔田御所と敬意を特に払われた高貴な殿様の重臣だったのが苅部家です。
蒔田吉良家は戦国時代末期には横浜市南区の蒔田城を本拠地にして、鎌倉公方代理を務めたので蒔田御所と呼ばれていました。
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上の写真は世田谷豪徳寺の三重塔です。豪徳寺の所在地が蒔田吉良家の初期と終焉の頃の居城の世田谷城址です。
この苅部一族の菩提寺の在る円海山一帯を江戸時代に抑えていたのが氷取沢領主として徳川家康公直属の旗本と成った北条旧臣の間宮綱信公や間宮家本家の笹下間宮の間宮直元公です。
生野代官所位置関係 久良岐のよし
上の画像は朝来市教育委員会様に提供頂いた資料をGoogle earthに張り付けた生野代官所の縄張り図です。
間宮直元公は但馬銀山や金山を含めた但馬国内の江戸幕府直営の施設や領地を治める但馬奉行として生野代官所に居り、同時に現在の横浜市中部沿岸部を治める本牧奉行を務め、徳川家康公からも信任が厚かった人物です。
大久保長安が経営失敗して業績不振だった佐渡金山の業績を好転させるべく、徳川家康公の命令で但馬銀山経営のノウハウを持って佐渡に支援に行き、瞬く間に業績を好転させた事から大久保長安の失脚後は佐渡奉行も兼任した名経営者の御奉行様でした。
更に大坂城の真田丸や総構えの埋め立て作戦を立案し、直接徳川家康公に献策したのも間宮直元公でした。
その菩提寺が円海山山麓、笹下川を挟んで反対に位置する場所に在る妙蓮寺です。
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ここには昭和期まで御神廟に間宮直元公の彫像が祀られていましたが、残念ながら火災で焼失してしましました。
新編武蔵風土記稿 間宮直元公木造 久良岐のよし
新編武蔵風土記稿に掲載されているのが上の写生図。
下は間宮一族の間宮さんが焼失前に撮影した実物の画像です。
間宮直元公木造 妙蓮寺旧蔵も火災で焼失 久良岐のよし
円海山から釜利谷に抜け鎌倉に至る六浦道=金澤道、つまり現代の笹下釜利谷道路と円海山の間道を抑えたのが間宮綱信公です。
間宮綱信公は北条家の外交官として織田信長公にも謁見した人物で、八王子城主で北条家No,2の北条氏照公の付家老(つけがろう=組織上の補佐役だが家臣では無く、主家の家臣のまま出向した家老)を務めた人物です。
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上の写真は八王子城址。現代では日本100名城の一つにも選定されていますが、この城の縄張り、つまり設計を担当したのが間宮綱信公と八王子の現地では伝わっています。
残念ながら八王子城は要害部の完成前に農民と姫様や僅かの守備軍しかいない状況で、豊臣秀吉の配下と成った上杉景勝公、真田昌幸公、前田利家と裏切者の大道寺政繁の大軍勢によって攻め落とされてしまいました。
元は吉良家の北条家臣化後の北条家臣として間宮家の同僚に当たる苅部家、そして北見(喜多見)家、そして北条氏照公与力の重臣として間宮綱信公の格下同僚だった金子家、間宮本家の仕えた玉縄北条家で間宮家の格下同僚だった岡本家等、現在も円海山周辺には多くの旧北条家臣団の苗字が残るのは、江戸時代に間宮家が幕府の奉行職を歴任し、大変栄えたので北条家解体後に元同僚の伝手(つて)で間宮家に与力として仕えた為でしょう。

円海山からは、そんな戦国時代の偉人達の足跡も辿る事が出来ます。
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そして現在では余り知る人も少なくなりましたが古代の神々の参謀を務めた思金神を祀る思金神社も瀬上沢の先に在ります。
この思金神社に合祀された廃社の旧白山社も瀬上沢と山を挟んで反対側、市の教育委員会が自然保護を怠った庄戸地区に在り、その参道の前を流れる鼬川に掛かる橋は昇龍橋と言います。
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横浜市教育委員会では無く神奈川県土木部道路整備課によって神奈川の橋100選に選定されました。
この鼬川周辺も昔は蛍を見る事が出来ましたが、先述の通り自然環境の悪化で今では・・・
思金神社の丁度反対側の辺り、瀬上川の河畔には昔の水田への灌漑施設の隧道が残っています。
 
ここは円海山で貴重な淡水の貝の化石群地層が露出している場所です。
昔の人が、灌漑水田に水を引き入れる為に作った手掘りの隧道(すいどう=トンネル)のある壁面と地続きの山が全て化石群の地層です。
以前は子供も自由に出入りして遊べました。
周辺を東急が宅地開発しようとしはじめた頃に横浜市大が保護を試みましたが、最近は東急が自然環境保全地である事や市民の憩いの場である事を無視し、周辺から市民を締め出し開発準備を始めてしまっています。
昔からの文化醸成地や市民の憩いの場を蹂躙する東急建設と、それを容認する環境整備局そして陳情を見殺しにする現横浜市長の林文子市長の暴挙ですね。
林文子市長は事前の保護も開発阻止も自然環境保護の先手も打たず陳情に対して・・・
「地権者が開発したいんだから邪魔出来ねぇ~し知らね」
・・・と言う事を言っています。
彼等がもし、無碍にこの瀬上沢一帯を開発したら、この自然環境は2度とは戻りません。

庶民に阻止は出来るか微妙ですが、もし開発すれば近隣に留まらず、貴重な自然公園に連なる遊歩道や沢の自然環境を破壊した歴史を事実としてどの政党が支持した、どの市長の時代に、どの土建屋が瀬上沢と遊歩道の自然環境を破壊したか歴史偉人達の遺産を踏みにじったか我々で語り継いで行きますよと。
林市長、東急さん、きっと瀬上沢の重要性再認識してくれると…

皆んなで淡々と事実拡散するしか蛍の住める環境を含めた自然環境を守るには出来ません。
近隣の歴史を語り継いできた寺院や神社の鎮守の森でもありますから。
執政者と開発業者の責任者の名前と経営者の名前を負の歴史として記録して永久に地域で残します。
それが民主主義で出来る事。
陳情に色良いレスポンスないんだから、やったら責任は歴史に刻んで後世に判断して貰いましょう。
この他にも円海山だけでなく横浜市内には腐る程、間宮家関連、蒔田吉良家関連の神社仏閣が有り、円海山の開発が進めが情報も檀家氏子で共有し更に間宮会から世間にも拡散されて行く事に成るでしょう。
この手の自然保護活動と破壊に関心の高い新聞社も間宮家の研究に熱心な某所に出入りしていますし。
東京の蒔田吉良家臣団の御子孫とも連携出来ますしね~。

まぁ、今なら東急さんも林市長も横浜の自然環境を守った偉大な英雄に成れるかも知れないけど。

さて、皆さん、円海山と瀬上沢の自然環境と風景と歴史が非常に貴重で、尚且つ子供が安心して遊べる自然公園である事は御理解頂けましたでしょうか?

瀬上池手前に使われていない畑があります。
あそこを自転車用の駐輪場にし、山頂のスポーツ広場を休日に駐車場として解放し尾根道に歩道を繋げ、昔みたいに家族連れも行きやすい環境を整えて欲しいな〜とか改善案はあるんですがね〜。

円海山は横浜市民や鎌倉市民にとって大切な場所なんですね。

この綺麗な風景と自然と歴史…
我々が先人から受け継いだ様に、何とか次代の更に先の子孫達まで残してあげたいですね。
円海山は文化なんです。

さて蛍が見える場所は横浜市栄区の旧上郷高校、今の栄高校のすぐ下の谷に流れる瀬上沢です。 
瀬上池の位置
今月の写真を交えつつ、観察or鑑賞マナーについて書いてみます。
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先ず、小生の様にフラッシュを焚いた蛍その物の写真を撮影したい方は以下の点に留意するべきです。
●他の鑑賞者のいる時間帯にフラッシュを焚いて撮影しない・・・他の人が蛍の光を見えなく成ります。
※小生は毎回深夜の1時~4時頃、誰もいない中、必要が有れば川に入って撮影しています。
※蛍はフラッシュ焚いて撮影しても、連写しないで数十秒間を置けば光る事を止めません。
●暗がり対策で持参した懐中電灯で照らし続けるのは止めましょう。
※フラッシュより観察や位置確認の為でも懐中電灯で照らし続ける方が蛍が光るのを止めてしまします。
●深夜遅くて暗くて怖かろうが1人で行ってヒッソリと撮影&観察した方が良いでしょう。
※複数人で言って話し声や大勢の気配がすると逃げてしまいますし、何より深夜に御近所に民家も1軒有るので迷惑に成ります。
※先述の通り、小生は必要が有れば川に足つかったりしながら、蛍の見える位置に回り込んで撮影します。蛍を動かしたり捕まえて撮影しない為の行動です。
●深夜に大勢で鑑賞会なんて絶対にするなよ。近所迷惑だから。
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以下当たり前の事。
●円海山は火気厳禁です。タバコはポイ捨て以前に吸うな馬鹿野郎。当然花火も焚火もするな。
●大勢で押しかけるな。家族や少数の友人と行き静かに鑑賞しないと近所住人に迷惑。
●他の鑑賞者がいる状況でフラッシュ撮影するな。先述の通り。
※どうしてもやりたければ、小生の様に深夜に懐中電灯も持たずに一人で行って、時間間隔空けながら撮影しましょう。そうすれば迷惑にも成らないし蛍も光るのを止めません。
●18歳以下の学生は夜間外出を控えましょう、根本的に22時以降に蛍を鑑賞していたら警察に補導されますよ。当該地域周辺は警察官が巡回しています。
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この写真はフラッシュ焚いた数十秒後に再撮影した写真。
あと、蛍が尻の光を点滅すると思ってる人いますけど、蛍って点灯しっぱなしの子もいるんですよ~。
この子は点灯しっぱなしの子でした。

さて、こんなマナーみたいなものを言わなきゃいけない程に蛍が珍奇な存在に成ってしまったのが小生が小さい頃の田舎的な風景や蛍の多さからは想像もつきません。
昔は、多分他府県の人も同じ経験をしていると思いますが・・・
「蛍見に行こう~!」(多人数でわいわい)
「あら危ない懐中電灯もって行きなさい(おばちゃん)」(蛍照らしまくりの観察しまくり)
「蛍綺麗だね~!」(横で花火)
・・・小生の場合、育った年代的にも円海山や上郷の宅地化は進んでいませんでしたし、祖母の住む田舎が有ったり、幼馴染が引っ越した千葉県も自然が豊かだったりで、普通に宅地の傍の農道や自宅の近くの湧水の農業用の池の周りに昔は蛍がいたんです。円海山の瀬上沢も近所だから遊びに良く行きましたしね~。千葉の印旛沼辺りじゃ田圃に農薬撒いた翌日もスンゴイ蛍沢山見れたしね。
きっと学生時代にファミコンで遊んでキン肉マンとかドラゴンボール見てた世代までの人なら同じ経験をして育っている人は多いと思います。

円海山に蛍をわざわざ保護しないといけない環境にしたのは横浜市ですが、その蛍の生息できる環境に止めを刺す開発を行いたいのが東急不動産で、それを容認する発言を回答したのが林文子市長です。
ただ多分、横浜市よりも現状では東急建設に理性が有って踏みとどまってくれて様子を見ているんだと思います。横浜市役所は内部の連携が目茶目茶で林市長が統治出来てるのかも謎。
あと14年で樹齢100年に成る桜並木の街路樹を伐採させたり、調査もせずに城址の空堀を掘削したり盛土して宅地化する案を容認する横浜市歌も歌えない奴が務める横浜市建設指導部と違い、本来は伊勢神宮から天照大神の御分霊を勧進し東横神社を開基し自然や文化の保護に意識が高かった❝昔の東急東横線の五島慶太社長❞始め過去の歴代社長は今の東急建設を見たらどう思いますかね?きっと苦虫を噛み潰したような表情で天罰落としたいと思っている事でしょう。なんせ東横神社は伊勢神宮から勧進した天照大神と合祀された渋沢栄一公が御祭神、自然守護の象徴たるお伊勢様と経済世民と愛国を両立した渋沢栄一サンを東急グループは守護神としている訳だが・・・
この事を恐らく東急建設の現経営陣は知らんだろうな。
これを機に、林市長と横浜市と東急建設に瀬上沢の横浜市による土地買上げと当該地域への広域自然保護区認定を改めて行って貰える様に、皆さんで陳情して頂けると幸いです。
●林文子市長への陳情窓口
林文子事務所 〒231‐0007 横浜市中区弁天通4-53-2 DOMONビル2F
TEL:045‐228‐9780
横浜市教育委員会庶務課
TEL:045-671-3240
●東急建設
http://www.tokyu-cnst.co.jp/company/
〒150-8340 東京都渋谷区渋谷1-16-14 渋谷地下鉄ビル
代表番号 TEL:03-5466-5020
土木本部 TEL:03-5466-5152
建築本部 TEL:03-5466-6186
営業本部 TEL:03-5466-6299
・・・個人的には東急不動産と林市長には横浜市の自然と古来の文化醸成地を守った英雄に成って頂く道を選択して頂き担当者さんや林市長に歴史に良い意味で名を残して頂きたい。
まぁ、庶民に合法的に出来る事は語り伝え記録を残す事と陳情と、次の選挙での投票だけ・・・。


三浦半島の横須賀市長坂には乳牛を飼育してアイスクリーム等の乳製品を直売している関口牧場と言う場所が有ります。
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小さい乳業会社なのですが口コミでアイスクリームが美味しい事が広まって、最近では休日とも成るといつも行列が出来ています。
入口が少し判り難い上に駐車場が少ないのも厄介なのですが、それでも大人気の店なんです。
関口牧場・無量寺・佐島マリーナ・海辺の位置 久良岐のよし
場所は上の地図を参考にして頂けると良いのですが、車で佐島マリーナから10分、衣笠ICから20分程度の距離に位置します。比較的交通は不便な場所ですが、これから夏に向けて佐島や長者ヶ崎や三崎に行く用事が有る人にはおススメのスポットです。
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    ↑
道の入口はこんな感じ。
店は少人数で切り盛りしててコンナ感じ。
    ↓
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お姉さんが1~2人で頑張ってるので、ちゃんと整列して煽らず(笑)出来るだけ運営に協力して上げて下さい。
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この日、小生はココア味とバニラ味のダブルを注文しました。
これ、上下にトッピングされてますがツイストにもして貰えて、子供に選ばせれば喜ぶかも知れませんね!
飯田牧場同様、自然の甘みを重視しており、人工的に脂分の添加をしておらず不自然なクリーミーさは当然有りません。甘いのにサッパリしていて量は多いのですが美味しく平らげる事が出来ます♪
小生は最近、可愛がっている甥っ子(4歳)が総合格闘技の道場でレスリングを習い始めて中々、オジサン(小生)と遊んであげる暇が無くなってしまい(笑)まだ連れて来てあげれておりません。
牧場なのですが、前回紹介した藤沢の飯田牧場と同じで広大な放牧地が有る訳では無さそうです。

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でも牛舎が隣接していて、外から様子を見学できます。
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小さい子を連れてくれば、こうやって❝牛臭い(笑)❞場所で牛乳が生産されてる事を理解させる良い機会に成るかも知れません。
牛さんに感謝する心を教育する場としては良いと思います。
エサやり禁止なので厳守して下さいね~!
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もしかしたら牛舎の背後は放牧スペースかも知れませんが、店員のお姉さんが忙しそうだったので確認していません。
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牛の他にもヤギや鶏もいました。
三浦半島の南側の油壷マリンパークや三崎や城ヶ島、西側の葉山や長者ヶ崎や秋谷の海岸に行く機会が有れば、是非立ち寄って見て下さい!
【関口牧場】
業種:乳業、アイスクリーム製造と直売。
あと、車で10分と直ぐの佐島マリーナの入口に在る❝海辺❞と言う和食海鮮レストランも御薦めです!
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魚も美味しいのですがロケーションが綺麗なので、以下に各周辺観光地の過去記事と合わせてリンク紹介して置きます。
【海辺】
業種:和食海鮮レストラン(海に張り出したロケーションの眺望と新鮮な魚料理が特徴)
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さて、小生のブログは少しは郷土史要素も入れて置きたい・・・

話を関口牧場に戻すと、ここを知った理由は戦国時代の横浜を治めた間宮家の一族の分家で間宮造酒丞(みきのじょう)家の菩提寺であり、鎌倉時代の名将の和田義盛公が開いた御寺だからだ。
信高公の御父君は間宮康俊公、有名な関東最強の武将の北条綱成公の付家老で自身も鶴岡八幡宮再建や山中城で活躍した間宮康俊公の家系図上の御子息だ。信高公は武田家に転仕して武田信玄の水軍大将務めた。武田家滅亡後には徳川水軍の大将格で活躍した人物で所領が関口牧場の所在地の横須賀市長坂、昔の三浦郡長坂村だった訳だ。
だから、その信高公の菩提寺と関口牧場は徒歩数分の御近所さん。
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浄土宗の金剛山無量寺と言う御寺が間宮信高公の菩提寺。
元々は鎌倉幕府で初代の侍所別当(防衛大臣)を務めた和田義盛公が開いた御寺だった。
だから和田義盛公の守り仏が御寺に祀られている。
山号と三浦家初期の宗旨から察するに多分、最初は真言宗の御寺だったはず。
浄土宗に成ったのは間宮信高公が徳川幕臣であり、織田信長公と徳川家康公が熱心な浄土宗信徒だったので徳川家臣に成った時点で自分の所領の無量寺を改宗させた上で土地を寄進して復興させたんじゃないかと思う。
間宮信高公は御妻君が房総半島の小大名だった真里谷武田家の姫君だ。実は戦国時代初期、三浦半島がまだ三浦家と北条家の係争地だった際に三浦家の大将だった三浦義意公の御妻君も真里谷武田家の姫様だった。真里谷武田家は内紛を起こして真里谷武田信隆公が房総半島から逃げて北条家に一時的に亡命している。
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その場所が上の写真の横浜市金沢区に在る稱名寺一帯な訳だ。
なので、その御縁で金沢区の隣接地域の杉田や笹下の現在の港南区~磯子区の殿様だった間宮康俊公の御子息と真里谷武田家の姫君が婚姻を結んだんだろう。
最初に御住職様に御会いしたのは、和田義盛公の顕彰活動で訪問した際だった。
その時は未だ無量寺が間宮信高公の菩提寺とは知らなかった偶然の訪問だった。
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まぁ、御住職と少し御話して和田義盛公の事を聞いたり、特別に御本堂に上げて頂いて色々と見学させて頂いた際に、何を思ったのか突然御住職が「実は間宮家~云々」と小生の顔をマジマジと見ながら話し始めた際は正直、大変に「ドキっ!」としたのを覚えている。
御住職様も何で小生が一言も「間宮」とも発していないのに、その話を始めたか解らないが、今と成っては信高公の御導きだったんだと思う。
この偶然が有ってから、間宮信高公の事を寛政重修諸家譜等から読み調べ始め、そして死地が愛知県海部郡蟹江町に在った蟹江城址と知って現地の教育委員会様に様々な情報提供を頂き、昨年、間宮家の顕彰文に信高公の事を掲載すべく蟹江城址へ写真撮影に行って来た。
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今も運河沿いに酒蔵や米問屋が残り城下町の風情の残る良い処だった。
実は蟹江城は天正年間、つまり間宮信高公が討死にした合戦直後に大地震で崩壊し消滅したのだが本丸の井戸だけが現存しているのだ。
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この井戸の写真撮影に蟹江町を訪問して来た。ついでに甘強酒造と言う昔ながらの武士が高級酒として飲んでいた味醂を製造している酒蔵も訪問して味醂を購入して来た。
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これらの御縁は全て関口牧場と同じ長坂に在る無量寺の御住職と和田義盛公と間宮信高公が導いて下さった地縁だった。御蔭で良い旅行が出来た訳だ。
因(ちな)みに、ウチの母にも土産で甘強酒造の本味醂と津島市の鶴見酒造が作る味醂、神鶴を購入して渡したのだが、両方とも普段使ってる味醂とは全く別物の美味さに驚いて母は自分の友人達にも紹介していた。小生はリキュールとして炭酸割り等にして飲んだが焼酎で作られていて風味良く美味しかった。
織田信長公や徳川家康公も飲んだであろう旧海部郡の味醂を現代に飲めて幸せだった。
まぁ、そんな訳で関口牧場の在る三浦半島の横須賀市長坂地区は昔から水軍を率いた武士の根拠地だった訳だ。そして昔は牛では無くて馬を生産していた牧場も有ったかも知れない。
佐島と長坂の間には❝蘆名(あしな)❞と言う地域が有る。ここは和田義盛公の御子息が治めた土地で蘆名城と言う城が有った。その蘆名家の子孫は東北に移住して奥州探題等を務めた大名と成り名将の蘆名盛氏公を輩出した。蘆名盛氏公と言えば伊達政宗公のライバルだった人物だな。

皆さん、関口牧場や佐島を訪れる機会が有ったなら、是非!和田義盛公や間宮信高と言う名将が昔、長坂に居た事を思い出して見て下さい!

前回の辛垣城址編↓これの続き…

辛垣(からかい)城址の頂上で海禅寺の御住職に「10時位の到着に成ります」と連絡をして、城山を降りて御寺に向かった。
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海禅寺は現代では参道がJR青梅線に分断されている。
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こう言った事は良く有る事で、鎌倉でも臨済宗鎌倉五山第二位の格式を持つ円覚寺や、坂東平氏の祖先を祀る御霊神社の総本社である鎌倉坂の下の御霊神社も同じ様に江ノ電が参道を横断している。
まぁ御寺や神社の境内地は昔は広大だったので、明治~昭和初期にかけて鉄道開発をする際に線路を敷設しやすかったので政府に土地を接収されてしまう事が多かった様だ。
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だから昔の山門は場所を移して、現在は中央線の踏切に成ってしまった参道の左手に移設して現存している。
「不許葷酒入山門(酒を帯びて境内に入っちゃダメ)」
ふむ、禅宗寺院の昔の厳格さを忍ばせる石碑だ。
まぁ、今は禅宗寺院でも御酒を飲む和尚さんばっかだけどね。
小生は現代人の庶民だが「(酒を)飲む」「(博打を)打つ」「(女を)買う」を一切しないので、ある意味では仏様に好かれるのかも知れない。神様にもいつも礼拝しているし、神様にも好かれると思う。
じゃないと小生の様に仕事徹夜空けで遠征ドライブし山登りまくって、性格も喧嘩っ早いのに無事でいられたり過去8回ひき逃げや交通事故に遭って掠り傷だけで済んだりしないだろう。
でも幼少期にハチャメチャ過ぎて手を2回骨折してるし、医療技術の発達してなかった時代なら障害者に成ってたね。
まぁ~神様や仏様や尊敬する偉人と、幼少期に可愛がってくださった恩人や御先祖、友人達と御医者様に感謝しないといけない。
そもそも、今生きているのも北条綱成公の御蔭だし。
そんな訳で北条綱成公の顕彰活動を始め、家老の間宮家の顕彰活動も始め、その間宮家と関係が深い海禅寺サンに横浜から御参り&御住職様に取材に来た訳だ。
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海禅寺は三田氏の菩提寺とだけ伝わるが、それは曹洞宗の寺院として再興されて以降の歴史しか現代に伝わっていないからだろう。曹洞宗は荒廃したり戦火で消えた御寺を北条家の支援で多く曹洞宗寺院として復興(再開基)しているのだが、何せ一度消えた御寺を復興してる場所だらけで、それ以前の歴史が伝わらない場所は多い。
海禅寺も実際は天正三年(1575年)に天皇家の勅願所に定められている格式の“状況”から言って、昔、荒廃してしまった格式の高い前身寺院が必ず存在していたはずだ。
実はこのヒントが神奈川県横浜市と新編武蔵風土記稿に残されていて、その話も御住職に確認したかった。
例えば、この謎を解く例を挙げると…
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上の写真は神奈川県藤沢市大庭に存在する曹洞宗の宗賢院。
この御寺は詳しい歴史は戦国時代の復興以後の事しか解らない。しかしながら源頼朝公の御父君、源義朝(よしとも)公の重臣だった大庭景義公と弟の大庭景親公の居城だった大庭城址に近在し、更には大庭景親公が陣中で使用していた釜が寺宝として現存する。つまり平安時代末期には前身寺院が存在していたはずだ。
加えて延喜式内社の神社である大庭神社舊(きゅう=旧)跡の熊野神社が近くに存在する事から鎌倉時代は大庭神社別当寺(べっとうじ=神社を守る為の御寺)だった可能性が非常に高い。
この熊野神社が大庭神社の旧址だと言う事は江戸時代の人々にも認識されており、それは相模国五之宮であり古代の一之宮だった有鹿神社と、今の一之宮の寒川神社に証拠が残っている。
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江戸時代の相模国延喜式内社を網羅した掛軸、これは寒川神社の当時の宮司が書いた物だが大庭社熊埜天神と書かれている。熊野神社に成っているのは大庭神社旧跡、菅原道真公を江戸時代に習合しているのが現在の大庭神社本宮、つまり両方の名を合わせた大庭社熊埜天神と記載されている訳だ。
格の高い神社の傍には別当寺が必ず存在しているものなのだが、熊野社に成っている大庭神社旧跡の別当は室町以後~現代でこそ本宮の方と同じ別当寺だが位置的に不自然きわまりない。昔は宗賢院の前身寺院が旧跡の別当だったはずだ。
極め付きは宗賢院の寺紋(じもん=御寺の家紋みたいな物)が太田桔梗、そして山号が蟠龍山である事だ。
昭和初期までの神奈川県民と県役人達の認識でも、伝承や状況証拠でも大庭城は室町時代のある時代、永享の乱の頃まで扇谷上杉家の本拠地だった様だ。
戦国時代の扇谷上杉家は武蔵国に勢力を誇ったが、元々は武蔵国南部は宅間上杉家の支配地だった。
そして扇谷上杉家の家老だったのが太田家だ。
太田家の一番有名な太田道灌公の菩提寺は神奈川県伊勢原市の“蟠龍山”洞昌院公所寺なのだが、山号が同じで、やはり太田家から使用を許された太田家の家紋の太田桔梗を寺紋にしている。
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だから公所寺の本堂にも宗賢院と同じ太田桔梗紋が彫刻されている。
これ等の事は宗賢院が大庭城主扇谷上杉家の家宰(かさい=社長代理みたいなもの)だった太田家と関わりが深かった事を知る十分な状況証拠に成っている。
そもそも曹洞宗が明治政府の神仏分離令まで日本神話や聖地を大切にしていた歴史その物がある訳で宗賢院も曹洞宗な訳だから大庭神社の事も関係が有って当たり前なのだが、残念ながら昔は和尚様達は世襲制では無く宗派の有力寺院から派遣されて来ていたので歴史が全て正確に伝わる訳も無いし、そもそも曹洞宗が復興した場所は全部廃寺に成っていた場所ばかり。
だから以前の事は解らず、曹洞宗に成ってからの記録しか御寺自体には伝わっていない事が多い。
そして海禅寺も開基されて100年足らずで唐突に❝天皇家の勅願寺❞や❝10万石の格式❞に成れる訳が無いので必ず格式高い全身寺院か神道や修験道の聖地が有った筈(はず)なのだ。
まぁ、そんな訳で「グチャグチャ文献だけ読んでても良く解んねぇ~し仕方ねぇ~な(笑)」と言うのが小生のスタンスなので、自分で実際に毎回取材に行く訳だ。
すると神社も御寺も歴史史跡も、文献には載っていない事が多く口伝や証拠が伝わっていたりするんだなコレが。

話を海禅寺に戻す。
海禅寺はそもそも福禅寺と言う名前だった。
江戸幕府の役人がド阿呆で、幕府の寺に対する領地保証書を発行する際に❝海禅寺❞と書き間違えてしまったので、土地の権利を守る為に仕方なく当時の御住職は海禅寺の名に寺名を改めるしか無かった。
役人が別寺院宛ての文書を誤って発給したか、教養が無くて寺名を書いた資料の草書体を読めず間違えて福を海にしたかは今では良く解らない。
実は幕府を開いた直後に三河、遠州から来た徳川家官僚には、この手のミスが多い。
…と言うか、恐らくいつの時代も官僚の中に適当な奴がいる。小生の様に趣味でやってるブログでは無くて仕事なのに校閲もせず適当に仕事をして、色んな文書の元号や武将の名前や法名を書き間違えている事が多い。
しかし被害者が幕府に抗議すれば、それがたちどころに官僚は己のミスを隠して被害者側を❝謀反人❞扱いして武士なら所領、寺なら寺領、神社なら社領を没収されてしまう訳だ。
海禅寺と関わり深かった横浜の間宮家の間宮康俊公も恐らく幕府によって戒名を誤って認識されて、間宮家側が❝忖度(そんたく)❞して家系図を補修しなくてはいけなくなっていたりする。
まぁ、しかし海禅寺自体は格式高いだけでなく、昔から風流な寺として有名だったようだ。
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室町時代から花の寺として有名だった海禅寺、新編武蔵風土記稿の多摩郡三田領二股尾村に掲載されているが、風土記は「歴史の目次」みたいな物なので詳しくは掲載されていない。
こう言った郷土史調査は「他都市からの移住者で“横浜=近代”の先入観しか無い精神的カッぺが職員ばかりの横浜市教育委員会と横浜市歴代市長の中で左派思想の人物は文化財保護法の設置を最後まで拒んでいた建設利権に癒着した無文化で使えない連中」なのだが、他の自治体は郷土の人が職員に成るので青梅市の様に盛んに調査、保護が行われている。
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訪問時は4月下旬で既に桜は散っていたが、辛垣山城址登山前に踏切で小学生の交通整理をしてらっしゃった駐在所の御巡りさんと雑談した所、境内は桜が多く現代でも「花の寺」として有名だそうだ。
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山門も素晴らしい。もしかしたら構造的に仁王門にする心算だったのか?
本当に立派な楼門だ。
丁度、幼稚園の先生と園児達が鬼ごっこをしていて遊んでいた。
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可愛らしい光景に思わず顔がデレてしまった(笑)。
こんな良い環境で育った子供達は、きっと素直で優しい大人に成るんだろうなぁ~。
間違っても小生の様に「史跡不保護無文化市長」とか「無能な横浜市教育委員会」とか事実とは言え悪態を吐く自分の価値を貶める心の狭い発言をする人間には育たないだろう(笑)。
皆すくすく、優しい子に育ってねぇ~♪
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山門の脇には鐘楼が有った。こちらも立派だった。
屋根の構造を見るに昔は茅葺屋根だったんだろうと思う。
茅葺屋根は高級で保持には費用が嵩(かさ)むので、現代では御覧の様に銅葺きや瓦葺きに吹き替えている場所も多い。
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この説明文では三田家の中興と有るが、この規模の寺院は必ず元々は主家であった扇谷上杉家の支援の下で三田家が復興を果たしているはずだ。
そして戦国時代には北条家が必ず復興している筈だ。元:三田家臣何某だけで再興できる規模でも無ければ格の高い住職を招ける訳も無い。
歴史の解説の前に施設の紹介を進めよう。
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境内からの景色は良い。楼門と花々越しに青梅の山脈(やまなみ)が見えた。
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本堂も大きい。
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玉縄北条家の菩提寺龍寶寺や初期の北条家において神奈川領をまとめた間宮家の菩提寺の寶泉寺や宗三寺と同規模を誇っている。
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つまり軍団長レベルの部将でないと建てれない規模の御堂だ。
この規模の堂宇を一、三田家臣が復興出来る訳が無い。絶対に北条家の支援が入っている。
そして、先述の通り、戦国時代に天皇家の勅願所に成る時点で前身寺院が途轍もなく格式が高かった筈だ。これは後で前身寺院の推測を紹介する。
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境内には凄く立派な枝垂れ桜も有った。きっと桜の季節には見事な景色に成るだろう。
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境内の谷戸そこかしこ、本当に花が多かった。
素敵な御寺だ。

御住職に面会すると本堂に通され、色々と御寺の歴史にういて御教授頂いたり小生の推論を述べたり、地図を見て周辺を歩き、御近所の旧家についてや地形的な事等々、気に成った事を質問させて頂いたりした。
その御住職様とのやりとりを踏まえて小生の推論と合せて三田家と海禅寺の歴史を紹介しようと思う。

海禅寺はそもそも「福禅寺」と言う名前の寺院だった。
まぁ…既に御寺の旧名自体が前フリでネタバレなんだが。
それは後に説明するとして、御寺の主な檀家は三田家だった。
三田家の治める当時の青梅を含めた多摩地方は扇谷上杉家の与力衆の武将達の土地だった。
しかし天文十五年(1546年)の河越夜戦で三田家の旧主の扇谷上杉家が北条家によって滅亡させられると、その後は暫く八王子の高月城主大石家同様に北条家に臣従していた。
永禄四年(1561年)に杉謙信(当時の名は長尾景虎)の連合軍勢10万が北条攻めを敢行した際に、元々扇谷上杉家臣でもあった事も有り北条家を離脱して上杉謙信に寝返った様だ。なので上杉家与力衆の名を記した“関東幕注文”にも記載されている。
そして上杉謙信が小田原攻めに失敗して北条家の逆襲が始まる。
多くの多摩地方の武将は善政を布(し)く北条家に臣従していたし、一度、上杉謙信の大軍に恐れを成して北条家を裏切った成田家や千葉家の武将達も再び北条家に与力していた。
しかし、三田家の当時の当主の三田綱秀公は義理堅い人物だった様で、一度自分で謙信に付いてからはずっと謙信の援軍到来を信じて北条勢に頑強に抵抗した。
永禄六年(1563年)、とうとう北条家当主の北条氏康公の子で滝山城主の北条氏照公の軍勢が北条家から見て裏切り者の三田綱秀公の居城、勝沼城を攻めた。
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※写真は勝沼城址から見た青梅市の風景。2016年撮影。
すると勝沼城は小規模で鉄砲攻撃を受けた際の防衛にも耐えれないと判断し、辛垣山城へ兵を引いて籠城したそうだ。
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辛垣城は中世的な山城に北条家の築城術が加わっているので、三田家北条家臣時代に北条家による改修が入っていると考えられる。
後で和尚様に小生の推論を述べた時に「その通り」と太鼓判を頂いたのだが、今の登山道の入口辺りで激戦が展開されたそうだ。
しかし敗戦を悟ったのか三田綱秀公は子供の事を家臣団に託して、青梅の伝承では「北条家と一戦する為に埼玉県の岩槻城の太田家を頼って落ち延びて、そこで切腹した」そうだ。
だが、この話は少しおかしい。
1563年当時、太田家は上杉派の太田資正(すけまさ)公は北条派の嫡男の太田氏資公が対立しており頼れる状況ではない。
三田綱秀公は1563年に岩槻城で切腹したとされている。つまり、方針も決まっていない太田家が切腹させた事に成ってしまう。ましてや綱秀公が太田家を頼る筈が無い訳だ。仮に頼ったとしたら死亡年は実際は1564年だった筈だ。そして、家臣団と三田綱秀公の御子息達は開城後も全員生きている。
状況を整理する。
三田綱秀公は上杉謙信の大軍を見て上杉に付いた。しかし上杉謙信は小田原に攻め上がるまで多摩地方を含め東京や神奈川で略奪放火を行い多くの神社仏閣を焼き払い、婦女子を捕まえては上杉の軍兵が犯しまわり奴隷として売買した。常陸国の小田城下で上杉謙信は奴隷公設市場を開いたりしている鬼畜、不義の人だ。北条家でこういった事は無い。
北条家の統治と比べ、そんな上杉軍の無軌道な状況を快(こころよ)く思わない三田家臣団も多かっただろう。
そして己の判断ミスで三田家家臣団や農民達が今度は北条家から逆襲される羽目に遭った。
三田綱秀公は誠実な人柄だった様なので、旧主扇谷上杉の更に主家の上杉家を継いだ上杉謙信に味方した後はずっと上杉家に付いていた。しかし統治能力も無く関東で乱暴狼藉を繰り返した上杉勢にも疑問も感じただろう。結果的に上杉家は関東を支配する事に完全に失敗し瞬く間に北条家の逆襲が始まった訳だ。
三田綱秀公は家臣や兵士として徴用した農民が北条家から殲滅される事を回避しようとしたのだろう。
だから家臣に子を預け、北条家と交渉し、家臣団と兵として徴用した農民達の生命の安全保証の条件として“引き換えに自らの城の退去そして切腹”が北条家と確約されたのではないだろうか。
そして太田家を頼ったのではなく、1563年当時は北条家にも上杉家にも両属していた中途半端な太田家預かりと成り、1564年に第二次国府台合戦で再び太田資正公が北条家に背いて結果的に御子息で親北条派の太田氏資公に追放された時点で正式に切腹をしたのではないだろうかと思う。
同年、三田綱秀公の御子息も全員亡くなっている。恐らく、三田家旧臣領民の生命安堵の条件だった北条家と不戦の約定を太田資正公が破って国府台合戦に参戦したからだろう。
でなければ三田家臣団が悉(ことごと)く生き残り、更には徳川幕府にも仕えた状況は成立しない。
辛垣城開城後、三田家臣団は三田綱秀公の誠実な領主としての対応と引き換えに北条家に属していた筈だ。
そして、御巡りさんや御住職に聞いて回った所、やはり北条家に三田領が属した名残を二俣尾で発見した。
二俣尾には「福島家住宅」と言う江戸時代を通じて名主を務めた家がある。
東京都の有形文化財指定を受けている住宅だ。
福島家住宅 公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は公式ホームページより拝借。
この福島と言うのは、武蔵国出身で黄備え隊玉縄衆の軍団長を務めた北条綱成公の旧姓だ。
北条綱成公の弟君は福島弁千代として有名な後の北条綱房公だ。
この北条綱房公の足跡が1549年以後確認できる資料が無いそうだが、北条家では統治が行き届き戦火に巻き込まれなくなった地方の事が文献に登場しない事は良く有る。
例えば神奈川県の伊勢原市周辺もそうで岡崎城や北条一族の神保輝廣公の事、藤沢市の大庭城の事も良く判らなくなる。登場しないだけで、無かった訳では無いのだが学者は記録に残らない事を事実としても書けないので推論も書かない。しかし小生は学者で無くて、たまに学者に論戦で勝つ事も有る只の歴史マニアなので自由に書かせてもらえる。飯のタネじゃないからね、逆に学者さんが言いたくても言えない事も言っちゃう訳だ。
恐らく、北条綱房公は三田領の二俣尾、辛垣城周辺の統治に入っている。
そして北条家滅亡後は福島姓に復帰している。
玉縄北条家は奸臣堀内家により事実上の権力乗っ取りが行われ、江戸い時代には保科家から養子が入り北条綱成公の親族は駆逐されている。その際に福島家は奸臣堀内家の陰謀を逃れて旧知の人の多い二俣尾に逃れて来たのではないだろうか。
実は立川市柴崎町周辺は元々は福島と言う地名だった。つまり、福島姓のルーツのはずだ。
そして福島家は遠州堀内今川家の家来で後に扇谷上杉家を頼っていた一族のはずだ。
実は、那古野城、今の名古屋城は織田家以前は遠州今川家の城だった。織田に城を盗られて今川領に逃げて行ったのだが、その時に福島家も逃げたのだろう。更に堀内今川家は本家の今川義元と対立する。
その際に負けるのだが、福島家は恐らく旧主“遠州”堀内今川家と関係の有る扇谷上杉や北条を頼ったはずだ。だから、今も扇谷上杉家の最後の居城だった川越市には今も福島姓が多い。
実は戦国時代の覇者と成った豊臣秀吉の甥の福島正則公は青年期まで駿河や伊豆の国境の深沢城の城代を務め伊豆と駿河東部の守備を担っていた北条(福島)綱成公を頼って一時的に駿河国に行っていた事が菩提寺の愛知県の菊泉院に伝わっている。
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これも菊泉院の御住職様を訪問し、直接御教授頂いた歴史秘話だ。
秀吉は織田信長公に軍団長に抜擢され信長公の子を養子にとる「家格」が有ったはずだ。
そのヒントが福島正則公の話だろう。
恐らく、木下秀吉の実父は尾張国愛知郡中村の名主と伝わるが旧那古野城主の堀内今川家の旧臣だったんじゃないだろうか。そして福島正則公も。そして北条綱成公の実家の福島家も。
福島を櫛間と書くとか一部の学者は当字の表記に拘るが、実際、武将の名前も音だけ同じで違う文字を当てる事は文書中に良く有るので、そこは幅を持たせておけばいい。
とにかく、秀吉が織田家に仕える以前に今川家重臣松下家に仕える事が出来たり、後に信長公の実子を養子に迎える事が出来たり軍団長に成れるのは実力が有っても絶対に家格がそれなりに無ければ無理。
状況を見れば那古野城主今川家の旧臣、那古野の今川家の没落後に秀吉の実家は帰農、そして秀吉本人は今川家のつてを頼って松下家に仕え、福島正則公は同族で駿河東部の経略を担当していた北条綱成公を頼って駿河に赴き、❝福島伊豆守❞に保護されていた歴史等すべての話は小生の推測通りなら自然に繋がる。
因みに、福島伊豆守は恐らく「伊豆方面に居た北条綱成公の実弟、福島伊賀守勝広」こと北条綱房公の事だろう。

もっとも…この青梅市の福島家の家系図では祖先は鎌倉時代まで遡(さかのぼ)れる生粋の武士で家系は源氏系に成っている。
しかし一般的に学者達の間では三田家と同じ坂東平氏の子孫、若しくは古代に神奈川県中央北部~北東部~東京都多摩地方に戦力を持っていた小野家(小野妹子の子孫)である武蔵七党じゃないかとする説が一般的だ。
青梅市教育委員会様の郷土博物館様にも御教授頂いたのだが、正直、江戸幕府に成ってからも家名を残した三田家ですら祖先の事は時代時代で色々と説が有るし、家紋も時代ごとに使い分けているので良く解らないそうだ。
まぁ、ここら辺りは小生の様な考え方も有るんじゃない?と言う可能性を残す事しか出来ないし学者さんも同じレベルで話してる程度の人が多い。
黒田基樹先生なんかは色々と資料を探し漁っている様だが、やはり完全な証拠は残ってないようだ。

歴史は紙で残っている事だけが全てではない。しかし、学者は仕事なのでそうも行かない。出典を明記しないと他の学者から❝イジメ❞に遭うからだ。
小生はガクシャセンセイでは無いので学者の利権を犯す立場にない。
だから自由に発言を出来るし、本当は学者さんが心の中で思ってる事を聞き出して代わりに言ってあげる事も出来るし、自分で文書に残らない各地の伝承を見たり教えてもらって廻りパズルの様に繋げ合わせて一つにして状況証拠で、こうやってブログに書く事も自由に出来る。
だからこそ利権と関係の無い小生は、金銭と関係なく思いだけで行動しているので色々な御住職様や宮司様達に気に入って頂けて学者も見た事ない文献や宝物を見せて頂いたり話を教えて頂いたける。
これはありがたい事だ。
さて、そんな訳で、恐らく尾張の福島はも北条綱成公の御一族と無関係では無いと思うのだが…
何でこの話をしたかと言えば、武将の話の様に御寺にも他の御寺や神社との❝血縁❞みたいな物が有って、それは必ずしも文章に残っているものだけでなく伝承も拾わないといけないと言う実例を挙げる為だ。
海禅寺は昔は福禅寺と言う名だったが…
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恐らく前身寺院が横浜市森浅間神社と同じだ。
森浅間神社の前身は鎌倉の扇谷に在った修験道の大道場だった❝福禅寺❞権現堂だ。
そして鎌倉時代の歴代の住職は歴代天皇の皇子つまり❝親王殿下❞が務めた訳だ。
恐らく、鎌倉で新田義貞の乱暴狼藉が有って福禅寺が焼けた際に寺の機能は青梅市に移転したのだろう。そして聖地道場としての機能は福禅寺の飛び地境内として存在した権現堂家の管理する浅間権現や天照大神宮で存続した。久良岐郡つまり今の横浜の磯子区森浅間神社や港南区港南に在る天照大神宮の遷座前の場所だ。これらを管理する権現堂松本家は間宮家から下賜された家紋を現在も使用している。
一方、恐らく青梅の福禅寺も前身は修験道福禅寺で永享の乱の頃に廃寺状態に成り後に三田家によって曹洞宗寺院として再興されたはずだ。
そして横浜の間宮家菩提寺と成った鶴見区下末吉の寶泉寺を開く際に、間宮家によって青梅の福禅寺の住職が招かれた記録が残る。だから遠く離れた横浜市の寶泉寺は青梅市の海禅寺の末寺だったりする。
戦国時代、再び三田家と北条家の合戦で再び燃え落ち、恐らく北条家の発願と支援を受けた旧三田家臣団により境内に立派な伽藍堂宇が復興され1575年には天皇勅願所に成る程に勢いを取り戻した。
しかし北条家が豊臣秀吉の小田原攻めで滅亡すると、徳川家のアホ役人が寺の領地の保証書の名前を書き間違えたせいで現在の寺名を使わなければいけなくなってしまったが、10万石格の格式だけは受け継がれた。
森浅間神社地形
この様に状況を纏めると前身寺院は推測だが格式から言って鎌倉の源頼朝公が開いた、その名も「福禅寺」と言う歴代住職を天皇の皇子である親王が勤めた関東の修験道の大本山とも言うべき大道場だ。
しかし、新田義貞の兵火に遭い鎌倉福禅寺は消滅している。
更に室町時代には完全に森浅間神社に機能移転して管理する権現堂松本家だけが横浜市に残った。
恐らく、福禅寺は焼けた際に兵火を逃れて青梅市で扇谷上杉家によって永享の乱以後に復興されたのかもしれない。
そして青梅の海禅寺の隣には…
同じく鎌倉の修験道の大本山だった山崎泉蔵院と同じ寺名の現在は真言宗の泉蔵院も在る。
…この 両方の寺は格の高さに反比例して中興開基より昔の事が戦火と火災や諸般の事情で伝わっていない。
山崎地区
…その鎌倉時代には鎌倉市山崎に有った泉蔵院も、室町時代には久良岐郡森村、今の横浜市磯子区中原に保有していた熊野社の道場に機能移転した。
泉蔵院(熊野神社)の地形 久良岐のよし
そして大霊山泉蔵院桐谷寺と名を一部改めたが、明治時代の神仏分離令廃仏毀釈の仏教弾圧で修験道の大道場だったのを寺院機能を廃止して泉蔵院の名を捨てさせられ、ただの熊野神社に成ってしまった。
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しかし当時の宮司の気転で、神殿の一つとして❝泉蔵社❞として残され、源頼朝公に繋がる歴史が残された。
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まぁ、そんなこんなで青梅の海禅寺や泉蔵院は由緒有る御寺のはずだが、格が高い事は江戸時代の記録でも間違いない。
ただ、その格の高さは小生の説を用いないと説明が出来ない。
参考までに以前、森浅間神社と泉蔵院の解説をした記事リンクを貼っておく。

 また、何か解れば追加報告を書きたい。

取り合えず、御住職と面会を果たし色々話を聞けて御礼を申し上げて海禅寺を後にし、次の目的地の阿蘇神社を目指す今年した。

では、次回はこの休日雑記の続きを書きます~! 

横浜桜は2017年4月1日現在、三分~六分咲きです。

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血縁は無いけど実祖母よりお世話に成った横浜の義祖母の御墓参りに行ってきました。
小生の血縁の無い義祖母は入院していた病院の近くの久良岐公園の桜が満開の4月1日に亡くなった。
義祖母の実家は横浜のシルク貿易商で、義祖母が幼い頃は比較的裕福で屋敷に住んでいたそうだ。
しかし家業の生糸貿易が化学繊維にとって代わられると義祖母の家は貧乏に成った。
義祖母は結婚もしたが相手が問題の有る人で、両親に実家に連れ戻されてからずっと独り身だった。
だから小生を可愛がってくれた。
その義祖母が入院して1ヵ月後位に病院の近くの久良岐公園の桜が美しく満開に咲き誇った。
久良岐公園の桜林と磯子区森の桜並木の美しさを知ったのもこの義祖母の入院の時だ・・・2015-04-01-12-01-34
※久良岐公園の桜林(2015年撮影)

・・・あれから月日は流れ、命日に御参りするのは血縁の無い我家を代表して墓参した小生だけ。
あの時に義祖母の通夜直前に病院に群がった義祖母の遠縁の親戚連中は、本日義祖母の命日17:00少し過ぎに小生が墓参した時点で誰も来た形跡は無かった。
土曜日なのにも関わらず。何故判るかって?
だって花も枯れたままだったからな。
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バァちゃん、小さい時に可愛がってくれてありがとうね!
いつも心の中で信奉する神社仏閣の神様仏様と尊敬する歴史偉人と祖先神と親族と恩人への御祈りの時にバァちゃんの事も思い出してるけれど、桜の季節に成ると、亡くなった日の事や可愛がってくれた事、川崎大師に行く時にいつも持って来てくれたコアラのマーチとヨーグル、緑区に梨狩りに毎年の様に一緒に行った事を思い出すよ!
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義祖母の墓地には美空ひばりサンや南極探検の白瀬中尉の御墓もある。
この墓地と桜の大木の並木の“有った”丘は奇しくも小生の尊敬する間宮康俊公や間宮康信公、康俊公の嫡孫で江戸時代初期の名奉行の間宮直元公の居城笹下城の出城松本城跡の指揮所跡で石碑も有り、昭和8年(1933年)に植林された大量の桜の並木が綺麗な場所"だった"。
しかし、桜の大木に成長し観光名所に成っていた並木道も、無文化な極左派(当時)の支持で当選した林文子市長の施政下で伐採された。
3年前に伐採されていなければ僅か、あと14年で日本屈指の樹齢100年の桜並木に成っていたのに。
更に松本城址"陣ヵ台"の石碑も撤去され姿を消した。新編武蔵風土記稿にも掲載されている事項にも関わらずだ。
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 今日、義祖母の命日は今年の横浜市港南区桜道の桜祭りだった。
しかし、以前の賑わいが有る訳もない。
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同じ場所とは思えない寂しさ・・・
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屋台の店主、商店主の人達とも話をした。
批判しか湧いて来ない。
バァちゃんの命日の墓参りに来る時や桜祭りの時に楽しみだった、お好み焼き屋“名勝”も桜の伐採で書き入れ時の客足が遠のき閉店してしまった・・・
祭りの賑わいと、横浜市民の誇りだった歴史と、風景を返して欲しい。
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林文子市長!貴女の政治で伐採され消えた桜の風景を返して下さい!
寂れても来てくれる屋台の皆、ありがとうね。
ごめんね、駄目な市長選んじゃって。
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林文子市長!昔の桜祭りの賑わいと桜の大木の並木が満開に成るのを楽しみにしていた横浜市南部地域の市民に返して下さい!
本当に市長として郷土愛が有るならば、あと少しで樹齢100年の桜並木に成るはずだった桜道の並木を伐採した事と陣ヵ台の石碑を撤去した事と笹下城の最後の残存部の本丸周辺の地形破戒開発をさせた責任とって下さい!責任とれないでしょ?責任とれないならば・・・
神社仏閣保護と徳川幕府の成立に多大な貢献をした横浜の間宮家の偉業、そして室町幕府の成立と関東の神社仏閣の保護に間宮家同様に活躍した蒔田吉良家の偉業、宅間上杉家の偉業、そして横浜に深く関り武士文化の基礎を築いた源頼朝公、北条政子様、源範頼公の事も、自分の印象操作をマスコミや支援者使って熱心にしている様に顕彰して下さい。
そして直ちに開発利権で横浜市南部の市民の誇る最後のホタルの大生息地域の瀬上沢と瀬上池周辺を東急不動産に開発させるのを止めて下さい!
・・・貴女の統治する横浜市が今在るのは先人達の業績と我々市民と明治大正の原財閥や浅野財閥や商人達が関東大震災復興に財産を投じて下さった御陰です。その方々は横浜市域のみならず日本としての日本文化と風景も守って下さった方々です。
貴女は今、米軍から譲り受けた子供達のスポーツ広場を奪い、待機児童0化に失敗し、南本牧埋め立て工事で海洋自然環境を破壊している上に工事が遅れ海運業者と通関業者に迷惑をかけ、自然公園宅地造成や街路樹の伐採で陸の緑も消し、史跡を未調査のまま破壊まで行っています。
そして日本でも良好な保存状態に入る小机城址を史跡としての市の文化財認定もしない。
貴女が市長を務めた一人の代で、どれだけの物と文化と風景を横浜市から消し去る心算ですか?
せめて、まだ在る物を守りながら開発利権とは無縁の自然と史跡と文化保護に御金を使う政治家に成って見ては如何でしょうか?
文化保護史跡保護も、綾瀬市や小田原市の様に上手く業者を活用すれば新たなジャンルで健全な権益に成ります。
地形を掘削せずに城址縄張りを利用した児童公園化なら史跡と児童公園の両立も、掘削をしない擁壁を用いた盛土の宅地化なら埋蔵保護も可能でしょう。
そして、市民の思い出と先人の残した風景と歴史と文化を奪わないで下さい。

もし、今までの自然と文化と史跡破壊が林市長では無く市職員の所業ならば、ソイツを吊し上げて正義を示して下さい。仮にそれが実現するなら、その土木開発担当役人の糾弾と市長支持に我々も回ります。


横浜市南区井土ヶ谷には、その井土ヶ谷の地名の由来に成った御寺が住宅街の中に鎮座しています。
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昔は周辺の山林、更にその周りも境内地だったそうです。
実はここ、横浜市民でも現代では余り知る人も少なくなったのですが鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公の正妻、北条政子様が開いた御寺で一時暮らした場所でもあります。
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境内には化粧の井戸と言うのが有りまして、承久の乱の際に当時は引越村と言われたこの土地に逃げて来られたと伝承しています。
この地に逃れて来たものの、水質の悪い水ばかりだった引越村の中で、唯一、この乗蓮寺で掘った井戸だけが水質が良く化粧水に適していたので居所と定めたそうです。
つまり、この井戸が井土ヶ谷の町名の由来に成った訳です。
さて、北条政子さんは承久の乱が起きたから乗蓮寺に逃げて来たと伝わっていますが、この承久の乱と言うのは源頼朝公没後に、貴族達が失った既得権益を鎌倉幕府から奪還しようとして兵を起こした事件で、結果的には北条政子様が旧頼朝公の与力武将達に上方攻略の号令を激を飛ばして武士勢が逆襲し鎮圧に成功した日本国内の内戦の事を指します。
実は、この乗蓮寺の辺り直ぐ裏の山の反対側が弘明寺の駅名でも有名な、厄除け観音の瑞應山蓮華院弘明寺です。
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※弘明寺の山門の写真。
実は源頼朝公、北条政子様と生前に夫婦して弘明寺を熱心に戦勝祈願等の御参りに来ていたので、小生は乗蓮寺が成立したのは北条政子さんが「逃げて来た時に御寺を建てて住んだ」と言うのはちょっと違うと思うのです。
弘明寺は古代奈良時代の郡衙(ぐんが=市庁舎みたいな場所)だったと思われる場所の有力な候補地であり、御寺自体の歴史も既に1300年以上有る名古刹で、弘法大師空海和尚様とも関係の深い御寺なのですが…
この御寺には武士に軍神と財神として拝められた弁才天様も御まつりされているので、先述の通り頼朝公達御夫婦は戦勝祈願や厄除けに訪れていました。
承久の乱が起きた際、この弘明寺の直ぐ裏の乗蓮寺を北条政子様が開いたのは、小生は避難して来たのではなくて、承久の乱が起きていた間、毎日弘明寺に戦勝祈願に通う為だったのでは無いかと感じています。
そして、その場所を選んだのは、嘗(かつ)て亡夫と共に苦労を乗り越えた頃の思い出も有り、より御利益に強い思い入れが有ったのではないかと思う訳です。
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この写真の大木は“北条政子さんが御手植えした榧(かや)の樹”です。
本当に政子さんと御縁が深い御寺ですね~。
この乗蓮寺さん、井土ヶ谷幼稚園も経営してらっしゃるので、この御寺の幼稚園で育った子は、この木みたいにそして鎌倉武士の様に強い子に育ちそうですね♪
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境内にはお稲荷さんもいらっしゃいます。
神様も一緒に御祭するのは歴代天皇と同じく神仏習合の価値観を大切にする真言宗の御寺らしい所ですね。
このお稲荷さんは最近、こちらに御迎えし遷座したそうです。御寺の元々は御檀家さんの家が守って来たお稲荷様だったそうなんですが、子孫の代に守って貰えるか判らないと御住職様に相談に来られたので、御寺に御迎えして代わりに御住職様達で守る事にされたそうです。
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御地蔵様もいらっしゃいました。
御地蔵さまって何だか親しみを感じる仏様ですよね。道端でいつも庶民の安全を守ってくれる、丸い頭の少しユーモラスな優しい仏様。
さて、この御寺は最近、御寺の建替えの際に解体された「尼将軍堂」と江戸時代には呼ばれていた御堂が有りました。現代では「御影堂」と呼ばれていたそうです。
ここは御寺を開いた北条政子様を祀っていた御堂で、その中には“北条政子様が御自分の姿を彫刻した等身大の彫像”が安置され祀られていました。まぁ、言い換えると開山堂って所でしょうかね?
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御住職様に御好意で昔の写真を見せて頂き、更に今は非公開の北条政子様彫像も拝ませて頂きました。
その尼将軍堂が上の写真の手前の茅葺屋根の小さな御堂です。
解体された時に再建を目指して木材を捨てず保存していたそうなのですが、木の腐食が激しく再建を断念したそうです。
北条政子様木像画像
今は一般非公開なので、皆さんは拝む事は出来ませんが、上の写真が乗蓮寺さんのホームページに掲載されている北条政子様彫像です。
御住職様の御好意で、転載の許可を頂きました。
小生、拝ませて頂いて北条政子さんの印象が少し変わりまして・・・
なんだか寂しさを隠して冷静に気持ちを落ち着かせている様な御顔をされていたんです。
この彫像、北条政子さんが鏡を見ながら自分で自分を掘ったと伝承していますが、御住職様は「生前に自分をモデルにして仏師に彫刻させて作らせたから写実的でリアルな造りなんだろう」と推測されていました。
恐らくそうだろうと小生も感じます。だからこそ何だか悲しそうで少し遠くを見ておられる様な気持ちが伝わる様な気がするリアルなんだと思います。
この時期、既に政子さんは自分の二人の子供を、自分の父と兄に暗殺されています。
恐らく夫の源頼朝公も自分の妹婿の稲毛重成に毒を盛られた上、相模川の開通式の最中に暗殺されています。実は頼朝公は開通式の前日から体調不良を訴えていて、当日は意識障害も有ったそうなのでヒ素中毒の説が昔から有ります。そして、不可解な事に、橋の上で落馬して死んだとされていますが、その際に護衛の武士達が「頼朝公を守れなかった罪」で全員処刑されているんです。これは状況的に北条家が退路の無い橋の上で頼朝公を暗殺したと考えた方が自然でしょう。
さて、そんな事も有ったので、せめて夫が武士達と領民達を貴族の搾取から守る為に建てた武家政権を守る為に戦勝祈願に来て、この乗蓮寺に一時住んでいた時期の政子さんをモデルに掘られた彫像だから、この様な少し悲しい、でも凛々しい御顔立ちに成ったんだと小生は思いました。
今では、この彫像が安置された御堂は無いので御本堂の中で、日本の平和を見守って下さっています。
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昔、尼将軍堂の前に在った石碑はちゃんと墓地の中に移設され保存されています。これも御住職様が案内して下さったので写真に収める事が出来ました。一人では探せなかったと思います。
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今では御本堂はコンクリート製。これなら地震にも火事にも強く、周辺が火災に遭ってもちょっとくらいでは類焼する心配も少なく安心ですね。
多くの歴史を伝える為に、御寺の檀家さん達が御金を出して御寺を守って下さってるからこそ、小生の様な人間が尊敬する偉人の御廟所を拝ませて頂けたり、古文書を見せて頂ける訳です。本当に尊い努力をされていると思います。
腐れ学者は、神社の氏子さん達や御寺の檀家さん達が尊敬する偉人を呼び捨てにして、更には御寺や神社の皆さんが守って来たから読める古文書をさも自分の手柄の様に得意満面に解説していますが、奴等の態度には小生は宗教的にも日本人として先人をリスペクトする歴史好事家(オタク)としても、某古代豪族末孫の宮司家一族の子孫としても違和感しか感じません。
ですから、本当に和尚様や宮司様に御話を聞く事を大切に感じ、親切にして頂く度に御礼としての感謝に加えて尊敬する先人の偉業を伝え守って下さっている事への感謝もいつも感じます。

ところで江戸時代、この御寺を支援したのは間宮忠次公でした。
この方は本牧奉行として、今で言う横浜市の中区南区磯子区港南区の重要な地域を治めた知事さんでした。
そして、徳川家の旧本拠地、駿府城の経済を支えた今の静岡市清水区、少し昔の“ちびまる子ちゃん”が育った清水市を治めた蒲原(かんばら)代官の奉行職も務めた偉い人物でした。
この間宮忠次公の御父上の間宮直元公が初代の本牧奉行、更に但馬奉行と佐渡奉行も兼任して金山銀山経営で前任者から不調だった業績を改善させた名奉行で、大坂城攻めの際に銀山衆を連れて参戦し、徳川家康公に「大坂城総掘りと真田丸の埋め立てによる無力化」を進言した名軍師でした。
そんな御父上の血を引いた忠次公も名奉行で、駿河国蒲原の御代官として有名だったので、その屋敷地だった江戸の居所が「駿河台」の地名に成りました。
実は駿河台の地名は、横浜市港南区笹下を本拠地にした間宮忠次公由来なんですね。
そんな偉人達が関わった乗蓮寺、今では住宅街の御寺ですが・・・
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・・・この乗蓮寺の井土ヶ谷幼稚園で育つ子供達、日本の為にとは言わないけれど、周りの人を幸せに出来る、弱い人を守る為に正しい事を出来る言える、そして源頼朝公の様に苦境に在っても諦めずピンチを乗り越えて正しい事を行える鎌倉武士達の様に強い子供に成ってね!
そして間宮家の歴代武将の様に、仲間から信頼され実務力の高い誠実な大人に成って、家族を幸せにしてあげてね!

御寺や神社の価値は、建物の立派さではありません。どれだけ偉人との関りが有り、その伝統を受け継いで人々の心の支えに成り人間形成の役に立てるか、そしてどれだけ歴史的に重要な場所だったか、昔の人達になんで大切にされたか、その理由と結果が大切なんです。
御寺も神社も火事に遭いますし、御城の跡も風化します。でも、地元の人々に忘れられなければ、逆に心の支えや生きていく矜持を学ぶ事も出来る場所として今でも機能してくれるんです。
そして、それが先人達の願いなのだとも思います。
それは他人から言わされたり押し付けられるのではなく、自分で自然に感じるものだとも思います。

さぁ、皆さんの町にも絶対に凄い歴史偉人が関わった神社や御寺や御城の跡の山や畑が有るはずです。
是非、御近所の小さな神社や御寺や一見何も無い史跡を御散歩してみませんか?

では、又、次の記事で御会いしましょう♪

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