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タグ:間宮家

横浜市磯子区杉田には杉田八幡宮と言う神社が在(あ)ります。
横浜市は他地域からの移住者が多く御存知(ごぞんじ)無い方も多いのですが…
実は此方(こちら)の八幡神社、宮司様から聞いた話によると鎮守府将軍も務め前九年後三年の役で活躍した源八幡太郎(はちまんたろう)義家(よしいえ)公が開いたそうで、本当にその通りなら、千年の歴史を有するとてつもなく由緒ある八幡社(昔の人は神社を一括りにはしなかった)なんです。
・・・江戸時代までの記録で小生は宮司様の話しと同様の記録を見た事が無いので正直ビックリしました。
江戸時代までの記録には有りませんが、宮司様曰く杉田八幡宮は鎌倉の鶴丘八幡宮と同時期に開かれた八幡様なんだそうです。
正確に言うと相模国鎌倉郡に鶴岡八幡宮を義家公の御父君の源頼義公が開き…
武蔵国久良岐郡に義家公が鶴岡八幡宮より御分霊を勧進された、それが杉田八幡宮だと社伝にはあります。
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※写真は現在の鶴岡八幡宮を若宮大路から見た風景。
しかしながら史実を解説しますと源義家公の時代に“鶴岡八幡宮”と言う八幡宮は鎌倉にも何処にも存在していなかったんですが・・・
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源義家公の御父君、源頼義公が鎌倉に開いた八幡社は材木座の元鶴岡八幡宮と最近まで呼ばれた場所の事です。
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今では鶴岡八幡宮により管理され“由比若宮”と名を改めています。
ですから源頼朝公が遷座した今の八幡宮は当初は若宮(新しい御宮)と呼ばれ鶴岡八幡“神宮寺”と言う正式名称で神仏習合の大規模な神宮寺でした。今も参道の名は若宮大路ですね。
当時は別名鶴岡若宮とも呼ばれています。
つまり“鶴岡八幡宮”の名は平安時代と言うより比較的最近の呼び方ナンですね。
因(ちな)みに杉田八幡宮の宮司様の言う時代に鶴岡八幡宮の名は存在しませんでしたが、似た名前の鶴岡八幡宮よりも遥かに古く平塚市に仁徳天皇=大鷦鷯尊(おおささぎのみこと)により開かれた八幡宮が存在していました。
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現在は三大七夕祭りの一箇所として有名な平塚八幡宮ですね。源義家公の存命中の社名を“鶴峰山”八幡宮と言いました。平塚八幡宮と名を改めたのは第二次世界大戦後のつい最近の話です。鶴峰山八幡宮の格式は高く一国一社の八幡宮として開かれた場所です。
この鶴峰山八幡宮と鶴岡八幡宮の名は似ているので、杉田八幡宮に鶴峰山八幡宮の名が鶴岡八幡宮と誤って伝承し杉田八幡宮が開かれたならば時代的な整合性はつきますね。
しかし、その場合、源義家公との縁は無く説明はつきません。
杉田八幡宮の現在の伝承によれば開かれた年は康平6年(西暦1063)との事なので、間違い無ければ鶴岡八幡宮の元に成った材木座の八幡社の完成と同年ですね。 何故、杉田八幡宮に元鶴岡八幡宮や材木座の八幡社では無く鶴岡八幡宮とされて伝わったかは謎ですね。
杉田八幡宮の宮司様の話しが正しければ鶴岡八幡宮の元に成った材木座の元鶴岡八幡宮が開かれて直ぐに御分霊が勧進された事に成ります。
ただ、その事が何の古文書に書かれているかは不明です。 少なくとも江戸時代の幕府公認の歴史書の新編武蔵風土記稿には❝勧進の年代詳しならず❞と書いてあり、江戸時代には既に杉田八幡宮の元に成った八幡社にも別当寺の間宮山妙観寺にも伝わっていなかった事が記録されているので、何故、現代「康平6年の勧進」とされているか、いつからその事が判明したのか出典の文書を調べる必要が有ると思います。
※別当寺については後述します。
義家公の同様の伝承は他の八幡社にも見られるので、義家公が御分霊を頂き杉田八幡宮の元に成った八幡社を開いた可能性は有ると思います。
仮に源頼朝公が再建した鶴岡八幡宮なら他の場所では“若宮八幡宮”の名を継承している場所がよく有ります。
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横浜市南区の若宮八幡宮です。
南区の若宮八幡宮は、昔は近くまで蒔田湾の入江で港が在ったので、治水と海上交通の神様の八幡大菩薩が勧進されて開かれた様です。
小生は現在、個人的に記録を確認できる古文書が有るか義家公と武蔵国の各八幡宮の関係を調査中です。
伝承通り、源頼義公と義家公が親子で久良岐郡と鎌倉郡に同時に八幡宮を開いても全く不自然ではありませんからね。 
宮司様の話しの“時代設定”を根拠にすれば時代的に杉田八幡宮が頂いた御分霊は今の鶴岡八幡宮と言うのは史実と整合性は無く異なり、元鶴岡八幡宮の御分霊を指す事に成りますが、余り規模の大きな神社ではなかったでしょう。
源頼義公が同時代に鎌倉の葛原岡から扇ヵ谷地区に遷座した巽神社は一般的な町の中の神社と同規模ですし、本拠地の河内国の氏神として祀っていた壺井八幡宮は由比若宮を少し大きくした程度で巽神社と同じ程です。
恐らく杉田八幡宮が御分霊を勧進した元鶴岡八幡宮は材木座海岸の近くですが、源頼義公の時代には材木座は入江が有ったので更に海が近かった事でしょう。
※源頼義公が創建した元鶴岡八幡に関する記事は「ココ」←クリック!
この杉田八幡宮も昭和初期まで眼前に海が広がっており、現在の杉田駅近く暗渠(あんきょ=蓋のされた川)に成った聖天川の河口に船着き場が在りました。
杉田八幡宮と周辺位置関係
この杉田の八幡様、頼朝公の時代には今より社領も広かった痕跡が付近の地名に残ります。
それを示す様に近所には上の衛星写真に示した交差点に残る「神戸(ごうど)」と言う地名が有りまして、神戸は神社に寄進された土地と言う意味です。
昔の住所の❝字(あざ)❞や❝小名(こな)❞と呼ばれる今の番地みたいな地名は、結構、公園や交差点や電信柱の名前の中に残っていたりします。
因みに伊勢原市に在る古代存続する比々多神社にも付近に神戸と言う地名が有ります。
※比々多神社の記事は「ココ」←クリック!
神戸は神社の土地な訳ですが、義家公の御子孫、源頼朝公も土地を寄進し、この八幡社を久良岐郡の惣社として再興されたと、現在の杉田八幡宮宮司様より頂いた参考資料にも記載があり、付近の旧地名と神社と頼朝公の時事績の伝承には整合性が有ります。
ただ、先程も例に挙げた❝新編武蔵風土記稿❞と言う江戸時代の学者間宮士信が編纂した資料を見る限りでは、「久良岐郡の総社」ではなく「杉田郷の総社」と成っているので、どこかの時代で杉田郷から久良岐郡に誤解された可能性も有ります。
しかしながら、本当に義家公の創建ならば、伝承通り鎌倉時代に義家公の御子孫の源頼朝公により久良岐郡の総社に定められた可能性は十分有るので、時代によって社格が著(いちじる)しく異ったのかも知れませんね。
まぁ、平安時代の価値観だと総社とかより鎮守と言う表現が一般的でしょうか?後は規模を大社とか小社とか表現しました。各は他にも位階を与えられる場合が有りました。

杉田八幡宮は、本殿の前に控え御社を守っている狛犬が有形文化財に指定されています。
可愛そうなんですが、右の狛犬は上顎が割れて無くなっちゃってます(泣)。
痛々しい…
ちょこっとユーモラスなデザインで可愛らしい狛犬さんですね。

伝承によれば、以前記事に書いた間宮林蔵や一族の杉田玄白の祖先に当たる間宮家の殿様が、この杉田八幡宮を支援していたそうです。
その殿様の名前を杉田八幡宮では江戸時代の「間宮信廣(のぶひろ)」と伝えています。
確かに、この杉田の領主は戦国時代~江戸時代を通じて北条家の家臣で水軍も抱えた間宮家の領地でした。
新編武蔵風土記稿を編纂した学者は、実は間宮本家笹下城主間宮康俊公の弟で、織田信長公への外交使者を務めたり日本百名城の一つ八王子城を縄張(なわば)り=設計した分家の氷取沢間宮家間宮綱信公の御子孫でした。
その学者の名前は江戸幕府の歴史編纂機関であり学問所だった昌平坂学問所の地誌取調所で頭取を務めた「間宮士信(ことのぶ)」です。
間宮士信は、杉田八幡宮を中興した殿様を敢(あ)えて「間宮信広」ではなく「間宮某(なにがし)」と名が解らないと記録
しています。
つまり、江戸時代まで間宮家が支援していた事実は殿様の名前は解らなくても記録として残っていた訳です。
新編武蔵風土記稿にも「八幡社」として、現在の杉田八幡宮の元に成った「妙観寺」と言う御寺の敷地に在った「八幡社」の記載が有ります。
ですから…
神社の幼稚園の敷地内に昔の杉田八幡宮別当寺の顕彰石碑が有りまして…
八幡宮の別当寺の名前は新編武蔵風土記稿にも確かに間宮山妙観寺跡と書いて有ります。
記録によれば日蓮宗中山法華寺の末寺と言う事です。   
御寺の山号が間宮山(かんぐうさん)なのは間宮家が中興だからですかね〜。
間宮家は小田原北条家臣で、相模国十四騎筆頭と称された武家でした。
間宮家については別記事を以前書いてますので、そちらを御覧下さい。
※間宮家関連の記事は「ココ」←クリック!
この妙観寺、お隣の妙法寺と本山が同じ中山法華寺です。
妙法寺は、杉田八幡宮を再興したと伝わる杉田間宮家の菩提寺です。
何故に間宮家や法華寺が末寺を妙法寺の隣に造営したかは謎ですが、背後の山は江戸時代❝妙観寺山❞と呼ばれたそうなので、妙観寺が存在した事は間違い無く、杉田八幡宮の前身の八幡社が存在した事の証明にも成ります。
間宮家の祖先の近江源氏佐々木家は真言宗でしたが、江戸時代の間宮家の御子孫は法華宗(浄土宗・時宗・日蓮宗…等々の宗派をまとめて江戸時代までの人の認識では法華衆だった)の宗旨に改宗していたので、杉田八幡宮の前身の八幡社の御社の別当寺の妙観寺が中山法華寺の末寺だったと言う事は非常に信憑性が高い伝承だと思います。
別当寺と言うのは江戸幕府の方針で、神社は大小様々あり荒廃してしまう場所もあったりする関係で檀家を抱える寺院の僧侶に管理を委ねていたので、その管理人の事を「別当(べっとう)」と呼び、管理する本社機能の有る寺院を「別当寺」と呼んだ訳です。
更に明治時代以前は国家神道は成立しておらず、神仏習合が千数百年来の価値観だったので僧侶が神事も行えたし日本の神様も信仰していましたし、仏事と神事は融合していたんですね。
なぜ、仏教僧に別当職を任せ管理させたかと言うと、実は切支丹(きりしたん:キリスト教)の禁止令と関係が有ります。
江戸時代初期に発生した九州の天草四朗時貞の扇動した切支丹一揆が大規模な内戦に発展してしまい江戸幕府はその鎮圧に苦戦した経験から、キリスト教徒を改宗させたり農民や町民の宗旨を把握する為に文章による管理機構を有していた寺院に、一般人の宗教の管理を「檀家制度」を用いて行わせた為に、寺院が別当職を担っていたんですね。
これは、間宮家の家臣の御子孫に聞いたのですが、昔は武士の家だけが明確な自前の墓地を持ち、寺ではなく自分の敷地に祖先を埋葬していたので「死んだら自分家の山に放り込んでおいたんだよ(笑)」と冗談めかして御話しされていました。
そして、日本国民のキリシタン化阻止と戸籍管理も兼ねて、どの寺院の檀家かを明確にする事が義務化されたそうです。
確かに、古くから間宮家に仕えた武士団の御子孫達は皆さん自前の墓地を御持ちでした。
小生の一族も自家の墓地を田舎に所有していますし、一族同士の墓も隣り合って存在します。
ところで杉田八幡宮の本殿は御寺みたいに瓦葺です。
接写するの忘れましたが、本殿の彫刻も立派でしたよ!

杉田八幡宮の記録が明確に記されているのは新編武蔵風土記稿な訳ですが…
現在の杉田八幡宮の認識では、間宮家分家の杉田間宮家7代目の間宮信広(のぶひろ)公と言う方が中興し9代目で無嗣断絶したと伝承しますが、実際は8代目で断絶の上に寛政重修諸家譜に当該人物の記録は有りません。
後世に縁起を書いた人の間違いなのか創作なのか不明で・・・
系図を簡単に纏めるとこんな感じです。
※系図の為に敬称略失礼。
兄:間宮信元____間宮康俊____本家笹下間宮。
弟:間宮信次_②間宮信忠_③間宮信繁_④間宮信之_⑤間宮信勝_⑥間宮信久
  (別名:常信)                           (別名:信盛)                     |__間宮俊信_⑦間宮敦信 _⑧間宮信勝_断絶
これは偽書と言う訳では無く、当時の殿様は普通に名前を何回も改名する文化が有ったので不自然では無い事で、加えて、この時代の間宮家一族は早世する人間が続発し、一族間で養子を出し合って家名を存続した事から混乱が有っても不思議では無いんです。
江戸時代に自分要因の過失事件を起こした場合は記録から抹消されますしね。
ただ、一つ気に成る事は有ります。
間宮士信は、実在したけれど諸般の事情で、例えば主家の北条家が今川家や古河公方等の旧主から鞍替えや独立した都合で当時の名前を誰と関連付けるのに不都合が有る祖先に関しては、「名は詳しならず」と濁すのですが
杉田八幡宮の中興者に関しては「間宮某」と敬意を表さない例外的な表現をしているんです。

因(ちな)みに江戸初期の笹下間宮本家の間宮直元公は佐渡奉行や但馬奉行も務め、大坂攻めでは坑道を掘って大坂城の櫓を破壊する作戦に従事した方です。大坂城総掘りを埋める作戦を進言したにも旧玉縄北条氏与力衆黄備え隊の間宮直元公と銀山衆と伝わり記録にも残ります。
※間宮直元公の事績に関しては「ココ」←クリック!
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因みに、間宮家で最初に歴史に名を残した人物は、伊勢氏北条家の家臣で「間宮信冬」公と言う人物です。
別の説ではこの人物を「間宮信盛」公とする説も有ります。
小生は「間宮信冬」とする説を基準にさせて頂いています。
信冬公は現在の京急川崎駅前の堀之内に城館を構えていた人物です。
「川崎の堀之内」の地名は間宮家の城跡だから、その「城跡の堀割りの名残り」に由来する地名です。
今の京浜急行神奈川駅の場所に在った「権現山城の合戦」で活躍した人物です。しかし合戦自体は北条家が敵方の上杉勢に敗北し、現在の杉田八幡宮や妙法寺や東漸寺の場所に移住してきた記録が残るのが間宮信盛公です。

その間宮家の子孫で、江戸時代に間宮家一族からも学者出世頭として一目置かれていたのが間宮士信なので、自分の一族の神社の社格を誤記する筈が無く、江戸時代には徳川幕府の管理下で間違いなく久良岐郡総社ではなく、杉田村の総社だった訳です。
ただ、源義家公や源頼朝公の時代には久良岐郡総社だった可能性は十分有ります。
何故かと言うと、江戸時代にはこの杉田八幡宮は「八幡宮」ではなく、ただの「八幡社」としてしか記載が無いのですが…
戦国時代には、この杉田八幡周辺の狭い範囲は鶴岡八幡宮の直轄領として記録が残っているからです。
これは、杉 田八幡宮が鶴岡八幡宮と伝承通り同時期に作られ管理されていた名残の可能性と言えなくもない訳です。
…確証は無いですけれどね。
戦国時代、杉田郷の八幡社周辺は房総半島の里見家の海賊に略奪された記録が有ります。杉田に隣接する中原町内の在った源頼朝公に大切にされた泉蔵院も海賊の被害に遭っています。
ですから杉田八幡宮が略奪さた後に規模が縮小されたまま、別当寺の妙観寺の一、摂社みたいな状態に成っていたのを間宮家の殿様が「八幡宮」と呼べる社殿に復興したのではないかとも推測が出来ます。

この状況を整理すると、近代に杉田八幡宮の歴史を編纂した人物が古文書を読まずに伝承を、平安時代の歴史と江戸時代の伝承を混同して伝えた結果、折衷された歴史が現在、杉田八幡宮の伝承として伝わったのでは無いでしょうか?
本殿の隣には不自然な空きスペースがあります。
小さな御社が見えますね?
あれは稲荷社で、地頭だった稲葉家の氏神様として存在している事を間宮士信もちゃんと書いているので江戸時代のままです。
もしかしたら、本来はこの空きスペースに何か、現在の本殿の大きさに等しい立派な建物が間宮家が支援した頃の江戸時代初期には在ったのかも知れませんね。
更に、現在の神楽殿か倉庫のような建物の裏の宅地まで、この削平地は続いているので昔は、その宅地も八幡社別当寺妙観寺の土地だった可能性は高いと思います。
でも、ここで又、現在の杉田八幡宮と江戸時代の杉田の八幡社の記録で異なる事が有ります。
江戸時代の記録では元来の社殿の位置関係上、本殿の位置は現在のこの空きスペースになければいけないんです。
江戸時代の杉田郷の八幡社(妙観寺)の記載ではこうあります。
       ↓
●小名(しょうみょう)宮原に所在
→現在の地名は杉田4丁目で位置関係は不明。
●例大祭は6月15日と9月25日
→6月15日の祭事は恐らく田植え神事か、素戔嗚尊に関する祭り。9月25日は収穫祭か中秋の名月。
※昔は氏子同士で農作業を協力して行ったので、神事は直接生活にも関係が有った。
村の総鎮守
→✖現在の伝承では久良岐郡の総鎮守
石段の所に鳥居が在る
→〇現在と同じ。
本殿は東向きに建っている
→〇現在と同じ。
稲荷社は本殿の右手に在る
→✖現在は本殿の左手に稲荷社が在る。
別当寺の妙観寺は本殿に向かって右手に在る
→△現在は本殿の東側石段の下に石碑が在る。石段を含めると右手。
※但し、稲荷社を見ると完全に✖
●御神体は❝法躰(ほうたい=仏僧の格好)軍扇(ぐんせん=)サイズは約八寸五分の像❞間宮某の寄贈。 
→彫像の外観と当時の間宮家の状況から推測して江戸時代の御神体の正体は法体の八幡大菩薩か?
 ※明治時代の廃仏毀釈と現在の宮司様が仏教嫌悪的御発言が有る方なので八幡大菩薩と思しき江戸時代の御神体が現在も存在するか不明。
江戸時代の記録に在る稲荷社の位置関係との整合性が無いですね。
では杉田八幡宮を見て見ましょう。
杉田八幡宮 
航空写真で見ると、杉田八幡宮の本殿は稲荷社の右手…
本来とは位置関係が異なり八幡社は外観から他の神社と違う構造をしていなければ成りません。
では上の杉田八幡宮の屋根の構造と、他の八幡宮を比べてみましょう。
京都の石清水八幡宮…平安時代以来の八幡宮総本社の様な存在。
石清水八幡宮
杉田八幡宮の伝承に登場する源義家公が元服、現代で言う所の成人式を挙げた場所として有名です。
この様に、石清水八幡宮の本殿の例に見られる屋根が二棟くっついた構造を「八幡造(はちまんつく)り」と呼びます。これが伝統的な八幡宮の建築様式です。
実は八幡宮は軍神であると同時に❝水神様❞です。つまり、水難を防ぐ神様です。
石清水八幡宮も戦国時代までは眼前に巨椋池と言う巨大な湖が広がっていました。
ですから、由比ガ浜と材木座海岸の広がる鎌倉の総鎮守も鶴岡八幡宮ですね。
鶴岡八幡宮
鶴岡八幡宮は一見すると本殿が回廊で囲まれており石清水八幡宮とソックリですが、本殿屋根は一棟しか無く八幡造りではありません。
頼朝公の時代には八幡作りだったかも知れませんがん、その後の関東では八幡造りの様式が伝わら無かったようです。
現在の鶴岡八幡宮の社殿は江戸時代後期に徳川家斉公によって再建されています。
石清水八幡宮の場合、戦国時代に織田信長公による建築の寄進、江戸時代の徳川家光公の本殿の再建なので古い由緒正しい八幡造りが継承されたのでしょう。でも鶴岡八幡宮の本殿の江戸時代の再建の頃には「八幡造り」と言う形式が江戸や関東の職人には伝わっていなかったのかも知れませんね。
戦国時代の北条氏綱公による再建事業の際には、快元僧都記を読むと奈良から宮大工を集めていますから、石清水八幡宮の形状と同様の八幡造りによる再建だった可能性が有ると思います。戦国時代に鶴岡八幡宮再建を行った職人だけでなく、氏綱公の御父君である伊勢盛時(北条早雲)公は京都に勤務していましたし、古文書には再建事業の詳細は出て来ませんが室町幕府や石清水八幡宮から再建に差し当たって建築文化的な面でも支援を直接受けていたかも知れませんね。
横浜には、鶴岡八幡宮以外に河内源氏が開いた伝承の有る八幡宮が有ります。
南区の若宮八幡宮と金沢区の富岡八幡宮です。
富岡八幡宮はスタートが神戸の西宮神社から蛭子(えびす) 様を勧進した神社で、初期は八幡宮では無かったので少々事情が違います。
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兵庫県の西宮神社から源頼朝公が蛭子(えびす)様を勧進して開いた波除の神社としてスタートし、安貞元年(1227年)に「八幡大菩薩」と自らの神名を名乗った神様から自分を祀る様に神託が有り八幡様が習合されて以来、八幡社と成りました。
八幡様は蛭子様同じ海上航海と治水と雨乞いの水神様であり、軍神でもある誉田別尊(ほんだわけのみこと=応神天皇)ですね。

下は最初から若宮八幡社として頼朝公によって建立された伝承の有る、南区の若宮八幡宮です。
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拝殿と幣殿は棟続きですが本殿は二棟分離しています。
この右手の建物は拝殿と弊殿、左奥に離れて本殿が在ります。
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以前は近郊の熊野神社の本殿がここに在ったそうですが、半世紀程前に再建の際に再建されたそうです。
江戸時代以降は関東では石清水八幡宮や河内源氏の殿様が伝えた文化が継承されず「八幡造り」と言う建築を東海地方出身の家柄の幕府寺社奉行や宮大工が理解しておらず関東の八幡宮神職の間でも知識が途絶えた可能性が有りますね。 
ついでにこの若宮八幡宮の眼下にも江戸時代初期まで「蒔田湾」の名で呼ばれた入江が広がっていました。
つまり石清水八幡宮や鶴丘八幡宮と同じく、水上交通の神様として交通の要所に勧進された事が解ります。
これらを見ると軍事や商業で重要な海や湖や河川の港湾の傍(かたわら)に八幡社が開かれた事も状況証拠として解ります。
蒔田湾は材木輸送の基地としても利用された港湾機能を有していた事が戦国時代の蒔田城主吉良頼康公や間宮家の参加した鶴岡八幡宮再建の事績からも、この一帯の土地が港湾として重要だった事が解ります。
そして、吉良頼康公が蒔田湾から本牧半島を経由して海から輸送した木材は、この杉田に在った杉田湊(みなと)に一旦集積された事が「快元僧都記」や「各寺院の間宮家関連の古文書」で記録されています。
杉田八幡宮も先に見て貰った位置関係の衛星図で、昔は海が眼前に広がっていた事や港が在ったを説明しましたが、やはり水神様としての性格が有ってこの杉田に勧進された事が窺(うかが)い知れます。
では、もう一度杉田八幡宮を見て見ましょう。
杉田八幡宮
やはり、本来の石清水八幡宮の様な八幡造りでも、若宮八幡宮の様な関東流?の八幡造りでもありません。
では、新編武蔵武蔵風土記公の八幡社(現杉田八幡宮)の配置を記した文章を見てみましょう。 

●石段に鳥居が在る。
●本殿は東向きに建ち右手には稲葉家の氏神の稲荷社が在る。
●本殿の右手に別当寺の妙観寺の本堂が在る。
先程説明した屋根の造り、江戸時代の建物の位置、現在の位置関係を改めて見るに、やはり現在の本殿は妙観寺の本堂だった可能性があり、現在の本殿と地続きの稲荷社左手の削平地宅地部分にに新編武蔵風土記稿の記載通り「旧八幡社」が在ったのでは?…と推測出来ると思います。
杉田八幡宮配置(新編武蔵風土記稿) 
現在の杉田八幡宮の本殿に向かって右に歴史記録と異なりスペースが無いので、石段の下の右側に妙観寺跡の石碑を立てたのかも知れません。 
この社殿の位置関係について2020年06月11日に本殿は明治に再建されたらしいと情報提供頂きました。
※情報提供者様に感謝!
つまり明治の再建で江戸期とは位置関係が変えられアベコベに成った様です。


さて、間宮家により保護されたり妙観寺が有って杉田八幡宮は現代に存続出来た訳ですが・・・
八幡信仰は漢学を導入した応神天皇=大鞆別(おおともわけ)命の皇子の仁徳天皇により始められた信仰で長らく仏教と一体でしたので、少し八幡宮信仰と言う文化について個人的な意見を書いておこうと思います。
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先ず、石清水八幡宮は平安時代に筥崎宮より八幡大菩薩の御神霊が神託によって遷座された聖地です。
現在の神社本庁の総長を御勤めに成っておられるのは石清水八幡宮の宮司様ですが、鶴岡八幡宮も御神霊は石清水八幡宮の御分霊を頼朝公が改めて勧進され鶴岡若宮八幡宮が成立したました。その石清水八幡宮は神職のみならず江戸時代まで修験者や僧侶達に等しく日本神話の八幡大菩薩の聖地として大切にされており、神様と仏教哲学とも結びついた神仏習合時代には多くの社殿僧坊が石清水八幡宮の在る男山に立ち並び、大変に多くの日本皇族や全国の有力武士から多くの寄進が集まり大変興隆しました。
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同じ様に神奈川県の延喜式内社である大山寺が神宮司だった石山権現大山阿夫利神社や修験者が守っていた式外社の八菅山七所権現八菅神社等は神仏習合の場ですが縄文の古代よりの祭祀場が出土したり日本武尊が行幸された聖地として古来より神職修験者僧侶や貴族武士庶民大切にされた場所です。
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現在も石清水八幡宮は当時の文化を尊重し重視されておられますし、鶴岡八幡宮も正式名称は源頼朝公の再興以来、明治政府成立までは“鶴岡八幡神宮寺”であり巨大な寺院機能が鎌倉国宝館や横浜国立大学附属中学校一帯の敷地に存在し、神様としても仏教施設としても武家の本地としても大切にされていました。
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筥崎宮には亀山天皇が書いた筥崎宮の八幡大菩薩の名で神様と成られた応神天皇へ祈願を書いた❝敵国降伏❞の起請文が社宝として伝わりますが、東郷平八郎元帥達は八幡大菩薩の御神威を得るべく、その起請文を復制した護符を御分霊として戦艦三笠に奉っていました。
同じ様に多くの神仏習合の八幡様が主祭神の八幡社では、江戸時代の記録を読めば御神体は御神鏡ではなく八幡大菩薩像等の神仏習合の神様として祀られていた事実が解ります。
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小田原市の曽我別所の八幡社では現在でも御神像が祀られています。
そもそも八幡信仰は大鞆別命=誉田別命=応神天皇(この時代に天皇号は未成立)に渡来思想と技術力と漢学を学んだ皇子の大鷦鷯尊=仁徳天皇と莵道稚郎子が父大王の命(みこと)=御霊(みたま)にヒンドゥー教由来の外国思想を取り込み八幡の神号を習合してスタートしているので弾圧される謂れは無い訳ですね。スタートから神仏習合だった皇族の祖先な訳ですから。
その仁徳天皇が開いたのが鶴峯山(平塚)八幡宮。
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そして弟皇子で兵法や文学等の漢学を導入したのが莵道稚郎子命で、延喜式内社四之宮前鳥神社の御祭神でもある訳です。
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根本的に応神天皇の御神霊は自らを「八幡大菩薩」と称した神託の記録が元に成り神号として定着している事を知らない神職もいますが、横浜でも八幡大菩薩と応神天皇が自称し神託を発した場所が富岡八幡宮な訳です。
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八幡信仰は、そもそも日本の自然崇拝や御霊信仰から始まった神様では無く外国の思想哲学や工業も象徴しつつ大鞆別命=応神天皇が事績から治水の御神威も持ち合わせた形で神格化され仁徳天皇や莵道稚郎子命によって八幡信仰がスタートしている事が解る訳ですが、明治以降の自然信仰や聖地崇拝や神仏混淆信仰を邪とする発想は江戸時代の水戸藩の借金増加戦犯である水戸光圀が始めた水戸学が原因で、明治政府を樹立した政治家が倒幕思想として学んだ事に由来している事を知らない人も多いのが現代の問題の原因です。 
彼は為政者としては民に重税を課した政治家としても有名ですが、思想家としても所領の八幡宮を打ち壊して回った人物でした。

そもそも明治の東郷元帥達海軍軍人は歴代天皇と同じく神仏や聖地自然を全て往古のまま大切にされて、明治の森有礼等キリスト教徒政治家による宗教改革に不服従で、戦艦三笠の守護神御神体は明治の宗教改革後も「箱崎神宮八幡大菩薩」だった事すら知らない人が嫌仏神職には多いのが現場です。

杉田八幡宮は配置から状況を整理すると、小生が杉田八幡宮は「社殿が御寺みたい」と感じた直感は正しくて妙観寺の本堂が現在の神社の本殿に転用されたんだと思います。 
因(ちな)みに、石清水八幡宮には仏様が祀られていたスペースが現在も残されています。
石清水八幡宮の仏間
正に、八幡大菩薩が元々神仏習合の象徴たる歴史を示しているのが、江戸時代と現代の杉田八幡宮の建物の位置関係の謎とも言えます。
明治時代まで日本人は神様も仏様も大切にしたんですね。
自然を敬い古代の祖先からの文化を継承する神社、哲学や学問を広め建築技術を発展させた御寺、その両方が協力し明治時代に成るまで歴史と伝統と祖先や古代の祖先に繋がる氏神様を守って来た
日本の文化の象徴的な存在が八幡信仰なのかも知れませんね。

杉田八幡宮は“間宮信廣”なる間宮家譜的には謎の某人が登場するので、間宮家の神道や御寺に対する一族の功績と血筋を箇条書きにして考察を〆ようと思います。

※小生の家は間宮及び宇多源氏の血は一滴も遺伝子に組み込まれておりませんし、もっと古い国造系宮司家の子孫ですが、個人的な意見として間宮家は神道的にも仏教的にも修験道的にも以下の理由で現代の神奈川県神社庁からも大切にされるべき家柄だと思っております。

1,間宮家は宇多源氏の氏神の沙沙貴神社宮司家の子孫ですし、沙沙貴神社の御祭神は文化の神様の敦実親王でありその御神孫にも当たります。佐々木高綱公や黒田如水公や乃木大将は遠い親戚ですが、その中でも宇多源氏氏神の宮司家直系子孫が船木・真野・間宮・杉田で初代鎌倉公方の直臣として関東に入り伊豆国馬宮を領して以後に間宮を名乗りました。
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※安土城下の沙沙貴神社随神門の写真。
江戸時代の学者の間宮士信公、杉田玄白、間宮林蔵公等も子孫に当たります。

2,間宮家は室町時代より代々一族が天皇勅願所だった江ノ島の岩屋を管理する江島神社別当の岩本坊別当職を世襲した家でした。
間宮家が別当職を務めて居た時代には古河公方足利成氏公が逆徒山内上杉家と扇谷上杉家の藤原家流血統の鎌倉府専横に対して圧倒的不利な状況下で江の島に籠城し、両上杉逆徒を撃破撤退させる事に成功した御神威を別当職として引き出しています。
戦国時代にも北条家の北条綱成公がが3000千の寡兵で川越城に籠城し上杉家連合の大軍8万相手に半年間の防衛に成功していますが北条綱成公の家老が間宮康俊公です。更に、主君の北条氏康公が救援に兵8000を率いて河越城に向かう2日前、江ノ島の岩本坊に滞在し江ノ島神社別当岩本坊に滞在し間宮家の祈祷によって八臂弁財天様と天皇勅願所の加護を得て河越城の北条綱成公と合わせ兵11000で上杉軍80000超の大軍を撃破しています。
当時の間宮家は恐らく修験道で江戸時代に成ってから幕命で真言宗に属していると思われますが、神職としも僧侶としても修験者としても、その能力は大変な物だと歴史事実から思います。
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※江ノ島の大鳥居。参道右手に在る旅館岩本楼は江島神社と勅願所岩屋の別当を務めた岩本坊が明治の基督教信者閥政治家の宗教改革による仏教弾圧寺に寺院を廃業して宿坊機能だけを活かし旅館業に転身した。社長の岩本家が本姓佐々木氏で一族には明治に分家し初代江ノ島郵便局長で関東俳画界の巨星と成った間宮霞軒翁がいる。現在の江島神社宮司家は間宮家とは無関係だが良く歴史を伝えておられる。

3,関東に於ける八幡宮と言えば武家の本地の鶴岡八幡宮が全国的に有名ですが、その八幡宮が鶴岡八幡宮合戦で里見家と正木家の海賊と狼藉者によって鎌倉市街地ごと放火略奪され灰燼に帰した際に、小机城代で北条家筆頭家老格で再建奉行の笠原信為公、海運を担当した蒔田御所吉良頼康公等と協力して寄親で材木奉行の北条綱成公の調達管理実務を間宮康俊公が行い杉田港に材木を集積し鎌倉まで輸送し、更には鶴岡八幡宮内の築地塀奉納に北条一門や家老衆と名を連ねている事実が快元僧都記や地理や家臣団の名から解っていますので、日本の八幡信仰に対して多大な貢献をしている事実から現代の神道に残した功績は少なくない思います。
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間宮康俊公は居城の笹下城下にも若宮八幡社を勧進し開き大切にされています。

4,間宮家は戦国時代に現在の海老名市、国分(現在の海老名市中心街)にも所領に持っていました。
この海老名市に在る延喜式内社の有鹿神社は古代一之宮で今五之宮ともされる上に天平年間には天智天皇より国家鎮護の勅願所として祭祀が行われましたが、新田義貞の鎌倉乱入戦時の社寺への略奪放火や室町時代の上杉禅宗の乱や永享の乱で荒廃し古代からの水引神事が中絶していました。有鹿神社は別当寺が真言宗成就院ですが、間宮家が海老名領主の時代に間宮家の主君の北条氏政公により水引神事が成就院の僧侶によって復興されました。間宮家と神事と真言宗の関係性を考慮すれば、この古代の神事復興に間宮家が関与した可能性は大いに有ります。神社と言う形式成立以前からの古代の神事祭祀を復興された事は神道的価値観からも修験道の価値観からも真言宗としても日本文化保護の見地からも大きな意義が有り、間宮家の関与が裏付けられれば寒川神社の追儺祭神事が古代の形式と言葉を用いて現在にも続いているのに匹敵するのと同じ程に素晴らしい事と言えるでしょう。
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5,間宮康俊公の姫の於継サンは古河公方足利家重臣豊前氏盛公に嫁ぎ、もう一人の姫の於久サンは東照大権現徳川家康公に側室として嫁ぎ姫を産み、康俊公の御子息の康次公の姫は延喜式内社で関東最古の大社の鷲宮神社宮司大内泰秀公に嫁ぎ、杉田間宮家の間宮信繁公の姫は久能山東照宮の初代大宮司榊原照久公に嫁ぎましたので宗教的に高い家格でした。
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さて・・・
新編武蔵風土記稿には、「八幡社の背後の山から下に見る梅林の風景が綺麗だ」と書いていますが、これが幻のブランド梅の「杉田梅」の梅林でした。
この杉田の梅林は杉田間宮家の間宮信繁公が植林された梅林で、江戸時代~昭和初期には一大観光地として栄え、明治天皇や皇族も見学に来られた程の規模でした。 
間宮信繁公は徳川幕府初代鷹匠頭で家康公の供を常に勤めた人物で関ヶ原でも活躍しました。
間宮信繁公の御墓は、近くの牛頭山妙法寺に在ります。
※妙法寺の記事は「ココ」←クリック!
杉田梅林は罰当たりな横浜市教育委員会が保護しなかったので、見事に宅地化され消滅してしまいました。
意外かも知れませんが、この旧杉田郷付近は重要な歴史史跡が多いんです。
弘法大師空海和尚様が開いた妙法寺も近所在ったり、この横浜~三浦一帯には日本武尊(やまとたけるのみこと)の伝承も有ります。
杉田駅前の東漸寺も鎌倉幕府の名越北条氏の北条宗長公が開いた古い御寺です。
この名越北条家の殿様の移住先が現在の名古屋市で、古くは名越野と書き、後に那古野、更に江戸時代に那古やと成った名古屋の地名のルーツの殿様の御寺だったりします。
杉田の隣接地、磯子区峯~港南区港南台~栄区上郷~金沢区釜利谷に跨る円海山は、古代人が住み蹈鞴(たたら)製鉄を行った遺跡が出土し、古代神の思金神を祭る神社や鎌倉武士が使った間道史跡の鎌倉古道が林道に成っていたり、京都知恩院大僧正を輩出した由緒ある阿弥陀寺や古河公方の御子息が開いた寶勝寺も有ります。
そして東急不動産と今の林市長が開発してしまおうとしていますが、円海山の瀬上沢一帯では自然のホタルも見れます。
磯子区や港南区を含めた久良岐郡が古くから開けていた史跡が点在し、豊かな自然も円海山には残っています。
この伝統を守って下さっていたのが、明治時代以前までの神社の宮司様や御寺の和尚様達な訳です。
ですから杉田八幡宮にも源義家公との逸話や、間宮家の殿様との逸話も伝承する訳です。
屛風ヶ浦には源頼朝公の開いた森浅間神社も在ります。

もし、杉田駅の御近所に住んでらっしゃる方がいれば、杉田商店街で買い物ついでに歴史偉人の開いた東漸寺〜杉田八幡宮〜妙法寺を歴史散歩なんて贅沢な時間の過ごし方が出来ますね〜。

今回は杉田八幡宮を紹介させて頂きましたが…
皆さんの住宅街の中にも意外な偉人との関わりや深い歴史を持つ神社や御寺が有るかも知れませんよ〜?
…と、言うお話でした!

では、皆さん、又次のブログ記事でお会いしましょう!
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今年ももう直ぐ円海山で蛍が見れる季節に成ります。
蛍は5月の終りに見え始めます。
6月中旬~下旬に最盛期を迎え7月中旬頃まで少し見る事が出来ます。
時間的には20時位からが見易いでしょう。
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2017年の6月の写真です。
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円海山 瀬上沢ホタル群生地
※住所クリックで地図にリンク!⤵️
円海山蛍の生息地 久良岐のよし
場所は円海山の瀬上池~旧上郷高校=現在の栄高校~神奈川の橋100選の一つ昇竜橋と白山神社旧跡への鼬川遊歩道に合流する瀬上沢の渓流沿いです。

観察マナーについては、色んな考えも有れば何も考えていない人、自分達のローカルルールをさも当たり前の様に押し付ける人もいて千差万別、これも文末で解説したいと思います。

蛍、小生の小さい頃うん十年も昔はもっと見れたのですが、横浜市教育委員会の怠慢と林文子市長による円海山の開発容認で今の自然環境が破壊される事に成り絶滅の危機に瀕しています。
瀬上沢蛍の観察可能な場所 久良岐のよし
個体数の激減の原因は過去に開発されてしまった庄戸地区とみどりが丘の宅地化による環境の悪化、それに加えて過去の横浜市による誤った公園整備によって天然のフナが居た瀬上沢が重機で荒らされてしまったり蛍だけでなく生態系も破壊してしまった訳ですが・・・
現在、僅かに生き残った蛍に止めを刺そうとしている組織がいます。

それが東急グループの土地買収による宅地と商業地化の開発計画です。
歴代市長が守って来た円海山の自然環境保全を事実上放棄して東急に対して土地放棄や買収等の対価を払う等の対案を示さず、それどころか円海山の林道整備すら放棄して丸で段階的に宅地化を容認する構えの様な言動しか現状していない林文子市長と円海山の史跡と自然環境の保護を怠っている横浜市教育委員会。
過去の記事の転載も交えて説明したいと思います。

先ず、円海山その物を知らない人が多いと思います・・・
円海山は横浜市栄区港南区金沢区磯子区にまたがり鎌倉に続く自然公園です。 
鎌倉横浜に古代文化の基礎を醸成した地域で尾根には砂鉄と玉鋼を輸送し武士が行き交った古道もあります。
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この円海山、実は横浜市で一番標高の高い山で、山頂からは天気が良いとこの様に頂上近くからは富士山も綺麗に見えます。
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正月の朝焼けの赤富士や・・・
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・・・夕焼けに染まる赤富士の写真撮影スポットとして非常に有名です。
横浜市で一番高い所なので、富士山とは反対側の海側の畑から見える横浜港の夜景も当然ながらとても綺麗です。
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この夜景スポットにはベンチが有り、冬でも良くカップルが夜景を見に来ています。
実はこの山、歩いて鎌倉まで行ける遊歩道があり、それらは「鎌倉早駆けの道」と言う史跡で東日本最大の鑪(たたら)製鉄遺跡の上郷深田遺跡から鎌倉に鉄を輸送した道でもあります。
更に‼︎
蛍(ほたる)の横浜市内での貴重な生息地なんです!
その場所は瀬上池と、その池に注ぐ自然の沢を集めた池から再び流れる貴重な水源地帯の瀬上沢です。
この小川が瀬上沢ですが、こんな不必要な護岸工事が横浜市の建設利権の為か環境整備局の不見識か行われてしまったせいで天然のフナは姿を消しました。
当時、環境整備局の前身組織の負の遺産ですね。挙句の果てに保持が怠られているのが現状です。
歴代市長から保護され多くの市民の憩いの場として解放されてますが、小生も子供の頃よく、ザリガニを採(と)りに来たり野山を駆け巡りに友達と遊びに来ていました。釣りはやりませんでしたが友人達はよくフナを釣りに瀬上池や瀬上沢にも来ていました。
子供が自由に川遊び出来る横浜南部の最後の水源地帯がこの円海山の沢で、特にこの瀬上沢と大岡川源流笹下川上流の磯子区氷取沢側の大谷戸(おおやと)側の沢が状態が良いんです。
写真は円海山を降りた大谷戸広場側、市に名前を消された戦国時代の要害址の人工地形が今も残る観音山です。
この円海山一帯は昔ながらの貴重な里山保存区域です。
綺麗な昔ながらの鎌倉近隣の原風景でしょ?本当、貴重な自然と里山なんです。
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金沢市民の森側、大谷戸広場付近は護岸工事されずに一部上流だけ源流が昔のままの沢の姿を保っています。

写真撮影した季節は冬で川で遊ぶ子供も流石にいませんが…
此処(ここ)瀬上沢には貴重な淡水の貝の化石群の地層が露出した場所があり、更に奈良時代の古代のタタラ製鉄の史跡も出土した場所でもあり…
灌漑水田史跡でもあり、重ねて言いますが平安〜室町時代の鎌倉早駆けの道と合わせて非常に貴重な史跡群でもあります。
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尾根は古代の砂鉄と玉鋼輸送で活躍した道があり・・・
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・・・そこを往来した武士達により鎌倉市街地を取り囲む源氏山~太平山の鎌倉城~大丸山~円海山~金沢区御伊勢山~権現山の荒尾城には要塞郡が築かれ写真の様に歩行しやすい街道でありながら防衛し易い様に侵入する軍勢の隊列を制限する為に岩を開削して築かれた“切通し”が多数現存しています。
昔の市長達の遺志を踏みにじる東急と林さん。
東急の土地買収で茅が生えて「神社に売るんか(笑)!」ってのが現状です。

以前の市長達により、瀬上池周辺は遊歩道や釣り用の桟橋が設けられていて新春にもなると釣りをする子供や、お弁当作ってピクニックに来た家族連れなんかで、ほのぼのとした空気が感じられる場所です。しかし多くの林道は林市長に成ってから保全されず、通行止めの箇所が異常増加中・・・

今の横浜市長の林文子さんは、どうも保護に熱心ではなく寧ろ開発準備してる側のようですが、昔からの地域のボランティアが自主的に子供の遊び場を守って下さってます。
だから幼稚園小学生くらいのお子さんがいる御家族には暖かく成れば、オススメの自然の中の水遊び場ですよ!


この池が瀬上池。
小生が子供の頃、友人達は釣りが自由に出来るここに来てはフナや鯉なんかを釣っていました。
…小生は、もっぱらザリガニ専門でしたが(笑)。

しかし、最近は今の林横浜市長の施政下で、倒木の処理などが放置され林道が通行止めにされてしまっている所が多くあります。

この下の写真の「尾根道から護念寺への道」も、さも通行出来るような案内板ですが、実際は鉄柵で封鎖され市民が通行出来なくされています。

別に道が崩落している訳ではありません。
横浜市が業者に開発させる前振り?

しかも、此(こ)の道の先は古典落語「強情灸」の舞台になり江戸時代から昭和初期まで、お灸治療の本場峰の灸として観光客と治療客で栄えた竹林の美しい円海山護念寺に通じているので、早く再開通させるべき所なんです。
※円海山護念寺の風景と歴史については「ココ」←クリック!
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ついでに言えば、昔は護念寺の本院だった阿弥陀寺は浄土宗の総本山である知恩院の住職を務められた了鑑大僧正を輩出した名刹だったりもします。最古参の旦那は苅部(かるべ)氏で、元は戦国時代に鎌倉公方代理を務めた蒔田吉良家の吉良頼康公の重臣の子孫に当たります。
蒔田吉良家は戦国時代初期には世田谷を本拠地にした足利家の中で一番格の高い足利家の一族でした。
北条家に従属しながらも吉良様や蒔田御所と敬意を特に払われた高貴な殿様の重臣だったのが苅部家です。
蒔田吉良家は戦国時代末期には横浜市南区の蒔田城を本拠地にして、鎌倉公方代理を務めたので蒔田御所と呼ばれていました。
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上の写真は世田谷豪徳寺の三重塔です。豪徳寺の所在地が蒔田吉良家の初期と終焉の頃の居城の世田谷城址です。
この苅部一族の菩提寺の在る円海山一帯を江戸時代に抑えていたのが氷取沢領主として徳川家康公直属の旗本と成った北条旧臣の間宮綱信公や間宮家本家の笹下間宮の間宮直元公です。
生野代官所位置関係 久良岐のよし
上の画像は朝来市教育委員会様に提供頂いた資料をGoogle earthに張り付けた生野代官所の縄張り図です。
間宮直元公は但馬銀山や金山を含めた但馬国内の江戸幕府直営の施設や領地を治める但馬奉行として生野代官所に居り、同時に現在の横浜市中部沿岸部を治める本牧奉行を務め、徳川家康公からも信任が厚かった人物です。
大久保長安が経営失敗して業績不振だった佐渡金山の業績を好転させるべく、徳川家康公の命令で但馬銀山経営のノウハウを持って佐渡に支援に行き、瞬く間に業績を好転させた事から大久保長安の失脚後は佐渡奉行も兼任した名経営者の御奉行様でした。
更に大坂城の真田丸や総構えの埋め立て作戦を立案し、直接徳川家康公に献策したのも間宮直元公でした。
その菩提寺が円海山山麓、笹下川を挟んで反対に位置する場所に在る妙蓮寺です。
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ここには昭和期まで御神廟に間宮直元公の彫像が祀られていましたが、残念ながら火災で焼失してしましました。
新編武蔵風土記稿 間宮直元公木造 久良岐のよし
新編武蔵風土記稿に掲載されているのが上の写生図。
下は間宮一族の間宮さんが焼失前に撮影した実物の画像です。
間宮直元公木造 妙蓮寺旧蔵も火災で焼失 久良岐のよし
円海山から釜利谷に抜け鎌倉に至る六浦道=金澤道、つまり現代の笹下釜利谷道路と円海山の間道を抑えたのが間宮綱信公です。
間宮綱信公の江戸時代の陣屋は円海山の氷取沢側、氷取沢神社旧境内地でした。
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現在の氷取沢神社は団地開発で移転させられ山の下に降りてきています。
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その近くに在る寶勝寺は元は古河公方足利成氏公が開いた御寺で、元は禅宗でしたが間宮綱信公が浄土真宗に改宗させて復興再開基したと伝わり、以後は氷取沢間宮家の菩提寺と成ったので今でも歴代の殿様の墓石が存在します。
間宮綱信公は北条家の外交官として織田信長公にも謁見した人物で、八王子城主で北条家No,2の北条氏照公の付家老(つけがろう=組織上の補佐役だが家臣では無く、主家の家臣のまま出向した家老)を務めた人物です。
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上の写真は八王子城址。現代では日本100名城の一つにも選定されていますが、この城の縄張り、つまり設計を担当したのが間宮綱信公と八王子の現地では伝わっています。
残念ながら八王子城は要害部の完成前に農民と姫様や僅かの守備軍しかいない状況で、豊臣秀吉の配下と成った上杉景勝公、真田昌幸公、前田利家と裏切者の大道寺政繁の大軍勢によって攻め落とされてしまいました。
元は吉良家の北条家臣化後の北条家臣として間宮家の同僚に当たる苅部家、そして北見(喜多見)家、そして北条氏照公与力の重臣として間宮綱信公の格下同僚だった金子家、間宮本家の仕えた玉縄北条家で間宮家の格下同僚だった岡本家等、現在も円海山周辺には多くの旧北条家臣団の苗字が残るのは、江戸時代に間宮家が幕府の奉行職を歴任し、大変栄えたので北条家解体後に元同僚の伝手(つて)で間宮家に与力として仕えた為でしょう。
この内、岡本家は氷取沢間宮家の重臣となり陣屋を守り、杉田間宮家の陣屋は鎌倉時代以来の一帯の名門武士だった荒井家が守り、本家の笹下間宮家の笹下陣屋本牧奉行所は間宮家から養子が入っている武内家が守っていました。
円海山からは、そんな戦国時代の偉人達の足跡も辿る事が出来ます。
そして現在では余り知る人も少なくなりましたが旧白山社旧跡も瀬上沢と山を挟んで反対側、市の教育委員会が自然保護を怠った庄戸地区に在り、その参道の前を流れる鼬川に掛かる橋は昇龍橋と言います。
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横浜市教育委員会では無く神奈川県土木部道路整備課によって神奈川の橋100選に選定されました。
この鼬川周辺も昔は蛍を見る事が出来ましたが、先述の通り自然環境の悪化で今では・・・
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畠山重忠公の開いた東光寺や御子息の畠山重保公の御廟所が有る釜利谷地区とは山の裏側の辺り、瀬上川の河畔には昔の水田への灌漑施設の隧道が残っています。
 
ここは円海山で貴重な淡水の貝の化石群地層が露出している場所です。
昔の人が、灌漑水田に水を引き入れる為に作った手掘りの隧道(すいどう=トンネル)のある壁面と地続きの山が全て化石群の地層です。
以前は子供も自由に出入りして遊べました。
周辺を東急建設が宅地開発しようとしはじめた頃に横浜市大が保護を試みましたが、最近は東急が自然環境保全地である事や市民の憩いの場である事を無視し、周辺から市民を締め出し開発準備を始めてしまっています。
昔からの文化醸成地や市民の憩いの場を蹂躙する東急建設と、それを容認する環境整備局そして陳情を見殺しにする現横浜市長の林文子市長の暴挙ですね。
林文子市長は事前の保護も開発阻止も自然環境保護の先手も打たず陳情に対して・・・
「地権者が開発したいんだから邪魔出来ねぇ~し知らね」
・・・と言う事を言っています。
彼等がもし、無碍にこの瀬上沢一帯を開発したら、この自然環境は2度とは戻りません。

庶民に阻止は出来るか微妙ですが、もし開発すれば近隣に留まらず、貴重な自然公園に連なる遊歩道や沢の自然環境を破壊した歴史を事実としてどの政党が支持した、どの市長の時代に、どの土建屋が瀬上沢と遊歩道の自然環境を破壊したか歴史偉人達の遺産を踏みにじったか我々で語り継いで行きますよと。
林市長、東急さん、きっと瀬上沢の重要性再認識してくれると…

皆んなで淡々と事実拡散するしか蛍の住める環境を含めた自然環境を守るには出来ません。
近隣の歴史を語り継いできた寺院や神社の鎮守の森でもありますから。
執政者と開発業者の責任者の名前と経営者の名前を負の歴史として記録して永久に地域で残します。
それが民主主義で出来る事。
陳情に色良いレスポンスないんだから、やったら責任は歴史に刻んで後世に判断して貰いましょう。
この他にも円海山だけでなく横浜市内には腐る程、間宮家関連、蒔田吉良家関連の神社仏閣が有り、円海山の開発が進めが情報も檀家氏子で共有し更に間宮会から世間にも拡散されて行く事に成るでしょう。
この手の自然保護活動と破壊に関心の高い新聞社も間宮家の研究に熱心な某所に出入りしていますし。
東京の蒔田吉良家臣団の御子孫とも連携出来ますしね~。

まぁ、今なら東急さんも林市長も横浜の自然環境を守った偉大な英雄に成れるかも知れないけど。

さて、皆さん、円海山と瀬上沢の自然環境と風景と歴史が非常に貴重で、尚且つ子供が安心して遊べる自然公園である事は御理解頂けましたでしょうか?

瀬上池手前に使われていない畑があります。
あそこを自転車用の駐輪場にし、山頂のスポーツ広場を休日に駐車場として解放し尾根道に歩道を繋げ、昔みたいに家族連れも行きやすい環境を整えて欲しいな〜とか改善案はあるんですがね〜。

円海山は横浜市民や鎌倉市民にとって大切な場所なんですね。

この綺麗な風景と自然と歴史…
我々が先人から受け継いだ様に、何とか次代の更に先の子孫達まで残してあげたいですね。
円海山は文化なんです。

さて蛍が見える場所は横浜市栄区の旧上郷高校、今の栄高校のすぐ下の谷に流れる瀬上沢です。 
瀬上池の位置
今月の写真を交えつつ、観察or鑑賞マナーについて書いてみます。
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先ず、小生の様にフラッシュを焚いた蛍その物の写真を撮影したい方は以下の点に留意するべきです。
●他の鑑賞者のいる時間帯にフラッシュを焚いて撮影しない・・・他の人が蛍の光を見えなく成ります。
※小生は毎回深夜の1時~4時頃、誰もいない中、必要が有れば川に入って撮影しています。
※蛍はフラッシュ焚いて撮影しても、連写しないで数十秒間を置けば光る事を止めません。
●暗がり対策で持参した懐中電灯で照らし続けるのは止めましょう。
※フラッシュより観察や位置確認の為でも懐中電灯で照らし続ける方が蛍が光るのを止めてしまします。
●深夜遅くて暗くて怖かろうが1人で行ってヒッソリと撮影&観察した方が良いでしょう。
※複数人で言って話し声や大勢の気配がすると逃げてしまいますし、何より深夜に御近所に民家も1軒有るので迷惑に成ります。
※先述の通り、小生は必要が有れば川に足つかったりしながら、蛍の見える位置に回り込んで撮影します。蛍を動かしたり捕まえて撮影しない為の行動です。
●深夜に大勢で鑑賞会なんて絶対にするなよ。近所迷惑だから。
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以下当たり前の事。
●円海山は火気厳禁です。タバコはポイ捨て以前に吸うな馬鹿野郎。当然花火も焚火もするな。
●大勢で押しかけるな。家族や少数の友人と行き静かに鑑賞しないと近所住人に迷惑。
●他の鑑賞者がいる状況でフラッシュ撮影するな。先述の通り。
※どうしてもやりたければ、小生の様に深夜に懐中電灯も持たずに一人で行って、時間間隔空けながら撮影しましょう。そうすれば迷惑にも成らないし蛍も光るのを止めません。
●18歳以下の学生は夜間外出を控えましょう、根本的に22時以降に蛍を鑑賞していたら警察に補導されますよ。当該地域周辺は警察官が巡回しています。
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この写真はフラッシュ焚いた数十秒後に再撮影した写真。
あと、蛍が尻の光を点滅すると思ってる人いますけど、蛍って点灯しっぱなしの子もいるんですよ~。
この子は点灯しっぱなしの子でした。

さて、こんなマナーみたいなものを言わなきゃいけない程に蛍が珍奇な存在に成ってしまったのが小生が小さい頃の田舎的な風景や蛍の多さからは想像もつきません。
昔は、多分他府県の人も同じ経験をしていると思いますが・・・
「蛍見に行こう~!」(多人数でわいわい)
「あら危ない懐中電灯もって行きなさい(おばちゃん)」(蛍照らしまくりの観察しまくり)
「蛍綺麗だね~!」(横で花火)
・・・小生の場合、育った年代的にも円海山や上郷の宅地化は進んでいませんでしたし、祖母の住む田舎が有ったり、幼馴染が引っ越した千葉県も自然が豊かだったりで、普通に宅地の傍の農道や自宅の近くの湧水の農業用の池の周りに昔は蛍がいたんです。円海山の瀬上沢も近所だから遊びに良く行きましたしね~。千葉の印旛沼辺りじゃ田圃に農薬撒いた翌日もスンゴイ蛍沢山見れたしね。

円海山に蛍をわざわざ保護しないといけない環境にしたのは横浜市ですが、その蛍の生息できる環境に止めを刺す開発を行いたいのが東急不動産で、それを容認する発言を回答したのが林文子市長です。
ただ多分、横浜市よりも現状では東急建設に理性が有って踏みとどまってくれて様子を見ているんだと思います。横浜市役所は内部の連携が目茶目茶で林市長が統治出来てるのかも謎。
あと十年余りで樹齢100年に成る桜並木の街路樹を伐採させたり、調査もせずに城址の空堀を掘削したり盛土して宅地化する案を容認する横浜市歌も歌えない奴が務める横浜市建設指導部と違い、本来は伊勢神宮から天照大神の御分霊を勧進し東横神社を開基し自然や文化の保護に意識が高かった❝昔の東急東横線の五島慶太社長❞始め過去の歴代社長は今の東急建設を見たらどう思いますかね?きっと苦虫を噛み潰したような表情で現在の瀬上沢開発に関わる東急グループ社員と林文子市長と黒岩知事には天罰落としたいと思っている事でしょう。なんせ東横神社は伊勢神宮から勧進した天照大神と合祀された渋沢栄一公が御祭神、自然守護の象徴たるお伊勢様と経済世民と愛国を両立した渋沢栄一サンを東急グループは守護神としている訳だが・・・
この事を恐らく東急建設の現経営陣は知らんだろうな。
これを機に、林市長と横浜市と東急建設に瀬上沢の横浜市による土地買上げと当該地域への広域自然保護区認定を改めて行って貰える様に、皆さんで陳情して頂けると幸いです。
●林文子市長への陳情窓口
林文子事務所 〒231‐0007 横浜市中区弁天通4-53-2 DOMONビル2F
TEL:045‐228‐9780
横浜市教育委員会庶務課
TEL:045-671-3240
●東急建設
http://www.tokyu-cnst.co.jp/company/
〒150-8340 東京都渋谷区渋谷1-16-14 渋谷地下鉄ビル
代表番号 TEL:03-5466-5020
土木本部 TEL:03-5466-5152
建築本部 TEL:03-5466-6186
営業本部 TEL:03-5466-6299
●林文子市長支援者の黒岩神奈川県知事の窓口
〒231₋0007 横浜市中区弁天通1₋15₋1
黒岩祐治事務所 TEL:045₋227₋5119
●林文子市長を推薦した自民党の横浜市選出の菅義偉官房長官
〒232₋0017 横浜市南区宿町2₋49
横浜市部事務所
TEL:045₋743₋5550 FAX:045₋743₋5296
✉:suga.yoshihide@gmai.com

・・・個人的に小生は思想的には保守寄りで自民党の日本文化を大切にする姿や経済政策の支持でも有りますが、こと東急建設と林市長の円海山一帯開発利権の為の文化史跡自然破壊に関しては看過出来ません。小生と意見を同じくする人は既に十万人超の署名が集まり、日に日に増えているそうです。
これもセーブザ瀬上の皆さんの活動の御陰です。
横浜市の自然と古来の文化醸成地を守った英雄に成って頂く道を選択して頂き担当者さんや林市長に歴史に良い意味で名を残して頂きたい。
そう、高秀秀信市長の先例に倣って。
東急さん?鎌倉市歴史文化交流館を御存知ですか?あそこは某出版社の経営者の方が取得した広大な土地を鎌倉市に寄贈して出来た施設なんですよ?
黒岩知事、あなたの統治下で神奈川県教育委員会が神奈川県立金沢文庫の保有する国宝の経典がカビさせたのは❝エアコンの整備予算❞を出さなかったからですよね?それと同じ失敗を繰り返すのですか?
アナタの支援者には創価学会が付いています、日蓮聖人は密教にも精通し日本各地の聖地霊場と自然と史跡を巡り修行をされた方です、鎌倉市七里ヶ浜で雨乞い神事を行われた場所も史跡に成っておりますし、横須賀市猿島の岩屋も有名です。正に横浜市における円海山の様な場所は日蓮聖人が現代におられたら大切にされる場所でしょうね。実際、磯子区妙法寺と金沢区上行寺は日蓮聖人の聖跡ですが、その上行寺の船中問答の船着き場や六浦湾や上行寺東遺跡を破壊したのも埋立地と開発利権の商奴の如き輩でしたね。
高秀市長の時は大塚歳勝土遺跡と茅ヶ崎城址を保護し素晴らしい都市計画をされ、小机城址も保護されましたよね?御蔭で小机城址は❝続日本100名城❞にも選定されましたが、いつに成れば県指定史跡にするのでしょう?
・・・ましてや円海山の自然をこれ以上破壊するとは、自然保護区として遊歩道を整備して来た歴代市長や知事の意思に反し、横浜市の宗教者達も黙ってはいないでしょうね。
林文子市長、アナタはダイエーの再建に失敗し、待機児童0達成直後だけ良い顔してその後の悪化に関しては大々的に報じない丸で宣伝の様な利用の仕方、素晴らしい政策も良し悪し両方同じ様にアピールしないと誠実とは言えませんよ?給食に代わる弁当予約システムも、学生一人当たり単価がとんでも無い金額に成っているのに、何でWikipediaにはアナタに不利な情報が掲載されるとたちどころに削除されるのでしょうね?そしてアナタの最大支援者はヤクザの山口組を賛美されておりますが、それでカジノを作りたいですか?
市長に成ってからは円海山開発容認発言、間宮林蔵と杉田玄白と間宮士信の祖先で徳川家外戚の間宮家の笹下城址の地形破壊を容認し、笹下城址外郭の松本城址樹齢100年に迫る桜並木を伐採容認し、そして瀬上沢と横浜市最後の蛍の群生地破壊反対票と十万人単位の反対署名無視・・・
まぁカジノは日本人が利用出来ない様にして下されば良いでしょう、しかし円海山と瀬上沢と小机城は一切手出ししないように。そして早く横浜市指定自然保護区域の拡大保護、史跡指定を行う事を切に願います。

まぁ、庶民に合法的に出来る事は語り伝えあなた方の事績の記録を残す事と檀家氏子で共有し、陳情とマスコミと連携して全ての事実をブチ撒けるだけ・・・。

日本屈指の史跡、上行寺東遺跡を破壊させた横浜市役所、同じ事をするなら許さない。

推進派の役人1人々々が個人単位で対 横浜市民数十万単位の御近所様と戦う覚悟でいろ。末代までな。
おまエラが建設利権を貪るよりも、高秀市長の様に歴史知識も文化自然にも見識有る政治家主導の開発地取捨選択と発覚した貴重な場所の保護を両立させた都市計画が大切なんだわ。
今の緑地は既に過去から❝保護すべき場所❞として残された場所なんだわ。
瀬上沢は横浜市の聖地円海山、室町時代まで栄区~神奈川区~磯子区~港南区に跨って使われた幻の地名❝峯❞の由来であり、神道のみならず修験道や真言宗や臨済宗や曹洞宗や浄土宗や浄土真宗や日蓮宗にとっても鎌倉文化にとっても大切な場所なんだわ。
他府県から❝就職❞の為に市役所に入り勤めて、何も考えず何も知らず何も調べず何も横浜市民として郷土愛も持たずに横浜市の古来の日本文化史跡と自然を破壊する一部役人と開発利権無文化土建屋を、保守派と日本の為に世界と戦い横浜復興に力を尽くされた原財閥や浅野財閥の皆さんと同じく生粋のハマっ子日本人は許さない。
横浜市役所に勤めながら横浜に愛着を持てず、横浜の最大最後の自然と文化破壊を何とも思わない奴は日本人を止めろ。いつまでも横浜を地元と思えないなら❝おまエラの地元❞に帰れ!
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平安末期以来の武士金子家と岡本家が守っていた要害化された“観音山”と言う山が横浜市にありました。
Google mapに簡単な解説投稿しました。
御興味ある方は御覧下さい⤵️
現代では近くの横浜横須賀道路建設の影響か地図から山の名前も行政によって消されてしまっています。
戦国時代の岡本家と金子家の主流は北条家臣として北条所領役帳にも登場します。
岡本家は綾瀬市辺りを治め、金子家は鎌倉時代には青梅市を治め戦国時代には北条家臣化し新横浜駅近くの篠原城の城代を務めました。
磯子区域の両家分家は1560年頃には笹下城主間宮与力となり、磯子区の岡本家は江戸時代には分家し徳川直参旗本に成った氷取沢間宮家の宿老となり江戸在住の氷取沢間宮の殿様に代わって氷取沢陣屋を守り続けました。
氷取沢陣屋の跡が氷取沢神社の旧境内地です。
岡本家は直系の他にも能見台辺りを治めた野本家から婿入りした家が有り、それぞれに屋号が今も残ります。
屋敷家、藤左衛門家、酒屋家、星山家、前家等です。
其々の由来を推測すると面白いですね。
屋敷家は陣屋を守っていたのでしょう。
藤左衛門家の左衛門は官職名由来で、左衛門は間宮家が付家老として仕えた上官、北条綱成公の左衛門督に由来する官職です。
間宮家は豊前守(ぶぜんのかみ)と左衛門尉(さえもんのじょう)を代々名乗っていました。
氷取沢市民の森は今では鳥の囀ずり美しい緑地に山城地形のふんだんに残る遊歩道です。
過去に間宮家や岡本家や金子家や氷取沢周辺磯子区の関連記事を幾つか書いています。
以下にリンクを貼るので御興味有る方は御覧下さい。











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G麺7と言う拉麺ファンには良く知られる名店が、戦国の名将間宮康俊公の居館跡の笹下城出丸松本城の御膝元、上大岡駅近くに在ります。
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G麺7

支那そばや、吉村家、すみれ(野毛店)等の老舗で拉麺の神様の本店や直営店に加え・・・

その御弟子さんやニューウェーブ世代が開いた名店の杉田家、王道、くじら軒。

・・・そして、くり山、るい斗と第三世代に名を連ねる横浜の新世代ラーメン名店がこの“G麺7”。
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新世代と言っても拉麺ファンには結構昔から有名で、かれこれ10年くらい前から出店している名店。
小生は間宮家子孫で笹下陣屋を代々守っていた(2019年に歴史をろくすっぽ知らない子孫が陣屋址を分譲売却してしまった)武内廣吉先生が書いた❝久良岐郡地名考❞と言う本を片手に笹下城址散策で馬飼谷(うまかいがやつ)と言う地名を探して付近をプラプラしていた時に、この御店が丁度出店したばかりの時に一度来ていた。
でもあれからもう10年来ていなかったが、久しぶりに間宮家と関係が深い修験門跡寺院鎌倉郡亀谷福禅寺名代権現堂持ちの鹿島神社と森浅間神社が近在するこの土地をフラっと訪れて見た。

始めて食べた時は塩ラーメンで、神奈川端麗系に近い味だった。
神奈川端麗系ってのは横浜発祥の名店“くじら軒”のサッパリしながら旨味も深い拉麺から広がって行ったジャンル。
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それをニューウェーブ世代で超有名な海老名の“中村屋”の社長で拉麺革命児の超イケメン中村栄利クンが更に発展させたジャンル。
その系統の印象だったG麺7は以前のままでも美味しかったが久しぶりに訪れたら更なる改良を加え発展していた。
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御店は相変わらず広くは無い。
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でも奇麗だし調理工程が見えるオープンキッチンで御洒落。
今回注文したのは・・・

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醤油拉麺
所謂、東京醤油拉麺とは全く異なるスープ。
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醤油の甘めのスープがすき焼の様な感じでもあり、くどくなく、淡麗系に近いより上品な味わい。
麺は中細くらいの麺・・・
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これが美味い!とにかくコシがありモチモチ感も有る。
とても美味しい拉麺。
・・・何か以前と全然違うスーパー進化をしている気がする。
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肉も美味しい。肉に関しては“凄い!”と言う程では無いけど、スープと麺が抜群に美味しい!
う~ん・・・
開店当初に食べた時とは差が凄まじくLV‐UPしてる気がする。
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煮卵も安定の美味しさでした。
横浜市民が誇る名店の一つと言っても過言ではないと思う。

余談ですが・・・
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森浅間神社
源頼朝公によって開かれた森浅間神社、旧鎌倉郡修験系門跡寺院の福禅寺名代だった権現堂が治める神社ですが、管理人さんを募集しているみたいです。
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神奈川県神社庁の掲載は少し間違っていて、社伝や間宮家関連の話では正確には源頼朝公の命で当時鎌倉市扇ヵ谷の亀谷(かめがやつ)に存在した福禅寺の住職によって富士山の神様である浅間権現(木花之佐久夜毘売)の御分霊を勧進して開かれた聖地霊場です。
境内に“不動の滝”が有りまして、福禅寺の歴代住職は就任する際は先ずここの不動滝に来て神事を執り行い、それから鎌倉の福禅寺に入ったそうです。そして門跡寺院と言うのは、天皇家の皇族が住職を務める寺院を指します。現代、本願寺系が門跡の名を広く使いますが、本願寺は戦国時代に高い御金を朝廷に支払って門跡寺院の格を獲得したんですね。
門跡寺院ってのはそれだけ凄いと言う事なんです。
まぁ~、詳しい事は以前、森浅間神社単体の記事を書いて有るので御覧下さい。
コレをクリックすると記事読めます⤵
森浅間神社…鎌倉幕府の陣所跡。磯子区屏風ヶ浦。
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鎌倉に在った福禅寺の最後の御住職は長円親王、そして長円親王の兄君が鎌倉幕府最後の征夷大将軍だった守邦親王で、鎌倉幕府滅亡直前に守邦親王は鎌倉幕府森陣屋の在った森浅間神社に逃げて来て難を逃れているので凄まじい“災難除け”の御利益も有る神社でも有る訳です。
何故ここが幕府が陣屋を置いたり、聖地としても重要だったかと言うと、鎌倉時代の福禅寺の御本尊が不動明王だったから自然の湧水の滝のあるこの地が聖地として重要だったからです。
戦うにも堅固な海に面した断崖の丘で飲み水が有るので籠城できますし、飲み水が有るから古代人の集落も形成されて聖地化した訳です。
因みに明治時代の仏教弾圧の際に権現堂家は国の命令で僧籍を返還し神職に専念する事と成り、修験道の道場の内、寺院機能の建物は全て破却させられるか仏教寺院と神社として分離独立させらました。
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その際に権現堂の御本尊だった不動明王像は港南区港南の福聚院に寄託され今に至っています。
小生の独自調査ですが、東京都青梅市二俣尾の海禅寺が状況証拠的には鎌倉の福禅寺の移転先後継寺院のようです。
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この海禅寺は扇谷上杉家の命によってか与力大名で奥多摩の勝沼城主三田家によって開かれてますが、時期が福禅寺の鎌倉での受難の時期と重なっています。
又、間宮家と関わりが有った1570年代に突如として海禅寺が天皇家勅願寺として勅願を賜わっている事、その寺院から住職を招いて間宮家は鶴見区に菩提寺の宝泉寺を復興している事、江戸時代に徳川幕府の官僚が寺号を誤って“海禅寺”と誤記する以前の寺名が“福禅寺”だった事、間宮家の寄親(上官)である北条綱成公の実家の福島姓の帰農した一族が江戸時代を通じて二俣尾村の庄屋を務めています。
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間宮と福島の二家は江戸時代を通じて江の島でも別当を勤めています。
これらの事から十分過ぎる関連性が伺えます。

さて、こんな由緒だたしい森浅間神社ですが前任の管理人御夫婦が御高齢の為か離職され、現在新たに夫婦で住み込み出来る管理人サンを募集中の様です。
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今年も梅が見頃の季節に成りましたので、神奈川県内で綺麗な梅の花の名所を小生の知る場所だけ、一覧として掲載します。
もし他にも県内に素晴らしい梅林を御存じの方は、紹介コメントを残して頂けると幸いです。
※小生が写真未撮影の梅林については公式ホームページの写真を転用し紹介します。
※公式ホームページが有る場所は名前にリンクも貼りますので参考にしてみて下さい。
※梅林の名称をクリックすると、リンク先の公式ホームページを閲覧出来ます。


幕山公園 湯河原梅林 】 
住所:〒259-0313足柄下郡湯河原町鍛冶屋951-1付近
見頃:2月初旬~3月初旬
湯河原梅林様公式 画像拝借1 久良岐のよし 湯河原梅林様公式 画像拝借2 久良岐のよし
※上の画像は公式から拝借 

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イベント
●夜間ライトアップ
※期間については問い合わせ先に電話確認するか、公式ホームページを御覧下さい
湯河原梅林は約4000本の梅を誇る。箱根~小田原~熱海の温泉地や名勝旧跡からも車で1時間以内と近く、周辺には温泉宿も多く有る風光明媚な観光地で泊りがけの梅林鑑賞を楽しめる。期間限定で夜間ライトアップも行っている。
連絡先
湯河原町観光課 TEL 0465-63-2111
アクセス
幕山公園
駐車場…500円~300円(会場との距離で料金が異なる)
JR湯河原駅~バス乗車(約20分に1便間隔)~15分で到着 湯河原梅林 アクセス 久良岐のよし


辻村植物園 】 
住所
:〒250-0042小田原市久野荻久保4381
見頃:2月初旬~3月初旬
辻村植物公園2 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし 
辻村植物公園 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
特に無い。
連絡先
小田原市広報広聴課 TEL 0465-33-1261
アクセス
辻村植物公園
駐車場500円
JR小田原駅西口~バス乗車いこいの森(わんぱくらんど)行き~約10分、辻村植物園で降車
辻村植物公園 アクセス 久良岐のよし 

小田原城 城址公園内梅園
住所:小田原城址公園
見頃:1月末~2月末
小田原城 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は公式から拝借 
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※2015年02月28日撮影。
この頃が見頃。
イベント
梅まつり
梅林の規模は50本前後と小さいが、御城を見学出来る上に場内でレンタル甲冑で写真撮影等も出来る。
また、辻村植物公園の梅林や曽我梅林や小田原フラワーガーデンと合わせて鑑賞に来れる距離。
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
連絡先
TEL 0465-23-1373
アクセス
JR小田原駅から徒歩10分
公共駐車場無し。周辺に私営駐車場有り。 小田原城アクセス 久良岐のよし

小田原フラワーガーデン
住所
:〒250-0055 神奈川県小田原市久野3798-5
見頃:1月末~2月末
小田原フラワーガーデン 公式様より拝借 久良岐のよし 
小田原フラワーガーデン 公式様より拝借2 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
渓流の梅林 梅まつり 
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
連絡先
TEL 0465-34-2814
アクセス
JR小田原駅乗り換え~伊豆箱根鉄道大雄山線飯田岡駅~徒歩10分
駐車場(140台)無料
小田原フラワーガーデンアクセス 久良岐のよし 

曽我梅林
住所
:〒250‐0205神奈川県小田原市曽我別所282付近一帯

見頃:1月末~2月末
曽我梅林 久良岐のよし撮影
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曽我別所梅まつり観光協会様公式 拝借1 久良岐のよし
※流鏑馬画像は公式から拝借
イベント
小田原梅まつり 
※曽我梅林は他の梅林とケタ違いの3万本以上の広大な梅林です。
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
連絡先
小田原別所観光協会 TEL 0465-42-1965
アクセス
電車…JR東海道本線国府津駅~御殿場線に乗り換え~下曽我駅~徒歩15分。
バス…小田原駅・国府津駅からバス有り。中里で降車~徒歩20分。
曽我別所梅まつりアクセス 久良岐のよし 

松岡山東慶寺 &
金峯山浄智寺 】 

住所
東慶寺〒247-0062鎌倉市山ノ内1367

浄智寺〒247-0062鎌倉市山ノ内1402
見頃:2月初旬~3月初旬
東慶寺の梅林
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駆け込み女と駆け出し男
※東慶寺は2015年公開の映画❝駆込み女と駆出し男 ❞の舞台です。 
浄智寺の初春
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イベント
特に無し。
東慶寺は約100本以上、浄智寺にも数十本の梅が咲く。
東慶寺と浄智寺は徒歩5分の距離。
浄智寺は鎌倉五山で鎌倉時代以来、歴代征夷大将軍が直接住職を任命する特別な寺の一つだった。 現在は鎌倉江ノ島七福神巡りの一つ。
東慶寺は鎌倉幕府執権北条時宗の妻、覚山尼様の開基。その後は後醍醐天皇の皇女用堂尼様、戦国時代には豊臣秀頼公の御息女の天秀尼様が住職を務めた。映画❝のぼうの城 ❞のヒロインで女傑として有名な成田甲斐姫も天秀尼様の養育係として仕え東慶寺に同行し住したと伝承する。
又、2015年に公開された映画❝駆込み女と駆出し男 ❞の舞台でもある。 

浄智寺は鎌倉五山の一つの各式を持つだけでなく、嘗(かつ)ては広大な敷地と無数の堂塔を有し、鎌倉公方の仮御所に定められる事も度々有り、足利持氏公や足利成氏公が滞在した場所でもある。 
連絡先
東慶寺 TEL 0467-33-5100
浄智寺 TEL 0467-22-3943
アクセス
東慶寺 JR北鎌倉駅~徒歩5分
浄智寺 JR北鎌倉駅~徒歩8分
東慶寺浄智寺アクセス 久良岐のよし 


錦屏山 瑞泉寺荏柄天神社
住所:
瑞泉寺 〒248-0002 鎌倉市二階堂710
荏柄天神社 〒248-0002 鎌倉市二階堂74
見頃:1月中旬3月初旬、黄梅は2月中旬~3月中旬 
瑞泉寺様公式mayumi-katsu様撮影 拝借1 久良岐のよし
※上の画像は瑞泉寺様公式から拝借
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荏柄天神社は日本三古天神社の一つに数えられる天満宮で、境内には数十本の梅が咲く。
イベント:
瑞泉寺
瑞泉寺様公式催事 拝借 久良岐のよし
※画像は瑞泉寺様公式から拝借
季節ごとに、その季節に見頃の花を植樹してある。梅は数百本を数える。
鎌倉時代~江戸時代まで権力者達が心の安らぎを瑞泉寺の花々に求めて訪れ歌会等を催した。
裏山にかつて在った一覧亭と言う建築からの眺望が良く、水戸徳川光圀(黄門様)も訪れた。
近くの荏柄天神社にも数十本の梅が植樹されているので、荏柄天神社と瑞泉寺をセットで見学するのが御薦め。
徒歩に行ける範囲の浄妙寺や鎌倉宮と合わせて見学しても、より鎌倉市街の旧鎌倉幕府拠点地域の原風景を楽しめる。浄明寺では抹茶も飲める。鎌倉宮は桜の名所。
連絡先
瑞泉寺 TEL 0467-22-1191
荏柄天神社 TEL 0467-25-1772
アクセス:
荏柄天神社 鎌倉駅東口~バス(大塔宮行き)乗車10分~天神前で降車
瑞泉寺 鎌倉駅東口~バス(大塔宮行き)乗車15分~終点大塔宮で降車
瑞泉寺荏柄天神社アクセス 久良岐のよし 

日比谷花壇大船フラワーセンター
住所:
〒247-0072 神奈川県鎌倉市岡本1018
見頃:2月初旬~3月初旬
大船フラワーセンター様公式 拝借1 久良岐のよし
※上の画像は大船フラワーセンター様公式から拝借
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※植物園なので梅だけではなく玉縄桜や初春の花が同時に見られます。
イベント:

玉縄桜を楽しもう
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
玉縄桜の❝玉縄❞とは古来より伝わるこの地域の地名で、戦国時代、今の清泉女学院中学校を本丸にした❝玉縄城❞と言う名城が在った。上杉謙信軍10万、武田信玄軍2万6千に攻められても落城しなかった堅城だった。
その歴代城主が小田原北条家親族の玉縄北条家で、玉縄桜はその殿様の居城の名を頂いた由緒正しい桜で、観梅の頃に咲く。近くの龍寶寺は関東最強の武将北条綱成公の菩提寺で歴代城主の御廟所も在る。境内には他に玉縄歴史資料館も有り、玉縄城の復元縄張り模型や出土品が展示されている。
連絡先:
神奈川県立フラワーセンター大船植物園 TEL 0467-46-2188
アクセス:
駐車場109台
電車&徒歩 
大船駅降車 大船駅西口(大船観音側)~徒歩16分
バス 
大船駅西口バスターミナル1番乗り場から❝渡内経由藤沢駅行き❞か❝公会堂経由城廻り中村行き❞に乗車~❝岡本(駅から3番目のバス停)❞で降車~徒歩3分。 
大船フラワーセンターアクセス 久良岐のよし制作 

田浦梅の里
住所:
横須賀市田浦大作町
見頃:2月初旬~3月初旬
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イベント:
梅林まつり 
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
田浦梅林は令和年間の今上(現在の)上皇陛下の御生誕記念に植樹されたのが始まりで現在では梅の本数は2700本を超え、梅の根元には水仙75,000株が植えられている。
田浦の山全体に梅が植林されており、山頂からは梅林越しに懐かしい神奈川の里山の風景を眺める事が出来る。
連絡先:田浦観光協会 TEL 046-961-4181
アクセス:
バスと徒歩…田浦郵便局バス停で降車~山頂まで徒歩20分
電車(JR)と徒歩…JR田浦駅で降車~山頂まで徒歩25分
電車(京急)と徒歩…京急田浦駅で降車~山頂まで徒歩40分
田浦梅林

岡村梅林
住所:
〒235-0021横浜市磯子区岡村6-8-19
見頃:2月初旬~3月初旬
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イベント
夜間ライトアップ
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
梅まつり
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
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岡村梅林は大きくは無いが、150本前後の梅が植林されている。
この岡村梅林は、元々周辺の横浜市立岡村公園(スポーツ公園)と合わせて、近隣の岡村天満宮の社地だった。岡村天満宮の開基は鎌倉御家人三浦家の一族の平子家と伝わり、その人物は平子有長公と推定出来る。有長公は鎌倉御家人で最初の源頼朝公暗殺未遂事件の実行犯を取り押さえた勇敢な武将でもあった。丘の裏手には戦国時代の名将北条氏繁公の開いた龍珠院も在る。
岡村天満宮の社領は第二次世界大戦後に米軍に接収された後、横浜市に返還されたが横浜市が岡村天満宮に返還しなかった為に一度、岡村梅林は消滅したが、岡村天満宮の氏子様の有志達が旧社地の一部を買戻し、現在の岡村梅林部分にも梅を植林し梅林を復興して下さった歴史が有る。
連絡先:岡村公園 TEL 045-751-4375
アクセス:
バス
京急弘明寺駅/市営地下鉄弘明寺駅/蒔田駅/JR磯子駅のいずれかの駅から乗車~天神前バス停か岡村交番前バス停で降車~徒歩5分
駐車場…岡村公園の有料駐車場~徒歩3分
岡村梅林アクセス

根岸森林公園
住所:
〒231-0853 横浜市中区根岸台1-2
見頃:2月初旬~3月初旬
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※上写真は明治時代の旧競馬場一等観覧席(米軍横須賀ベース管理の史跡)DSC_0129ドルフィン外観DSC_0131眺望
イベント:特に無い。
広い芝生の広場と園内に広がる桜林は横浜市民の憩いの場としても有名だが、公園の中央には400本からの梅林も整備されている。
もともとは競馬場だった。
幕末、横浜港が開港され本牧半島が外国人居留地に成った事で、駐在する欧米の外交官や軍人の要望で明治時代に建設された日本最初の競馬場の跡地。
隣接してJRAのポニー広場や競馬関連の博物館も有り、御弁当を持参すれば小さい子供連れの家族でゆっくり時間を過ごせる場所。自然湧水の池では子供がザリガニ捕り等も楽しめるる公園。
又、徒歩すぐの場所にはユーミンが十代の頃、まだ芸名が荒井由実だった時代に❝海を見ていた午後❞と言う曲で歌詞に歌ったレストランの❝ドルフィン❞が有る。
ドルフィンソーダを頼むと、この
「海を見ていた午後」の曲をかけて貰えます。

連絡先:横浜市環境創造局 TEL 045-671-3648
アクセス:
JR根岸駅~徒歩15分
駐車場有り。
根岸森林公園アクセス 久良岐のよし


国指定名勝 三渓園
住所:
231-0824横浜市中区本牧三之谷58‐1
見頃:2月初旬~3月初旬
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イベント:
季節ごとのイベント有り、梅の季節は原家以来の伝統で茶が振る舞われる。
桜の季節には観桜の夕べで桜の夜間ライトアップ有り。
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
明治時代の原財閥の富豪、原三渓が当時、廃仏毀釈で荒廃した全国の仏閣や徳川家所縁の城跡の建築文化財を広大な私邸に移築し保護した。日本で全国に先駆けて私立公園として私邸の建築文化財と日本庭園を広く庶民に公開した。
中には聖武天皇の勅願所だった京都府の灯明寺の旧本堂や三重塔や鎌倉の尼寺東慶寺の仏殿、紀州徳川家の和歌山の別荘や、京都の伏見城等、数え切れない程の建築遺産が移築保護されている。
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現在は原財閥から横浜市が管理を委ねられている。
原三渓の御蔭で破壊を免れた重要文化財や、季節ごとの花の綺麗な広大な日本庭園。
連絡先:045-621-0834
アクセス:
駐車場有り。
桜の季節は駐車場に入るのに1時間以上待つ場合が多々有ります。
電車&バス
JR根岸駅でバス乗車~本牧下車。
JR桜木町駅/横浜駅東口~バス乗車~本牧三渓園バス停降車~徒歩5分。
みなとみらい線元町中華街駅4番出口近く、山下町バス停乗車~本牧三渓園バス停降車~徒歩5分。
三渓園様公式拝借2 久良岐のよし
三渓園アクセス 久良岐のよし

大倉山公園梅林
住所
:〒222-0037 横浜市港北区大倉山2-36-8付近
見頃:2月初旬~3月初旬
大倉山観梅会様公式 拝借2 久良岐のよし
※写真は大倉山観梅会運営様公式から拝借
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イベント
大倉山観梅会
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
大倉山観梅会様公式 拝借1 久良岐のよし
※画像は2016年の広告
大倉山の梅林の隣には、戦国時代の北条家重臣笠原康勝公が開いた竜松院と言う御寺が在る。
その御寺を含む大倉山公園~太尾見晴らしの丘公園にかけて続く鶴見川河畔の丘陵は、笠原家の居城❝大曾根城❞だった。
その城址に小規模な梅林が有り丘一体は大倉山地区の住民の憩いの場だったのを、東急不動産が開発破壊しようとした際に、義挙した住民が一丸と成り東急の城址と自然破壊に反対し、約30年前当時の細郷横浜市長の下で横浜市が買い上げ自然を残した公園として整備し梅林として有名に成った。
初春には周辺地域からも観梅客で賑わう。
連絡先:港北区地域振興課(観梅会実行委員会事務局) TEL 045-540-2235

本沢梅園(ほんざわばいえん)
住所:
相模原市緑区河尻4457‐1
見頃:2月初旬~3月初旬

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イベント:
開園期間
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
※本沢梅園は官営なので管理人が常駐しておらず、開園期間以外は梅園の遊歩道には入れない。
※梅園自体は山腹の斜面に広がっているので、道路沿いからでも十分観梅が楽しめる。
本沢梅園祭り
※期間については問い合わせ先に電話するか、公式ホームページを御覧下さい。
約1000本の梅が植林されている。
昔は谷だったが、近隣の津久井湖建設の残土で谷間を埋めて、そこに梅を植林した。
周辺に歴史史跡も多く、山頂の金刀比羅宮は古来、雨乞いの神事が行われた水の枯れない池が在る。
梅林から尾根伝いの山裾(やますそ)の寶泉寺を囲む山は平安時代末期に長井家によって築城された小松城址でもある。
近くの津久井湖や戦国時代の名城、津久井城址の山のピクニック等と合わせて見学に行くと、1日中自然を満喫出来る良いレクリエーションに成る。
※津久井城址は根古屋地区のパークセンターに無料駐車場有り、鎧や城址復元図等の展示も有る。
連絡先:
相模原市コールセンター TEL 042-770-7777
城山まちづくりセンター TEL 042-783-8115
アクセス:
駐車場…無料130台
バスと徒歩…JR/京王線の橋本駅~バス❝若葉台住宅行き❞に乗車~若葉台住宅で降車~徒歩30分。
本沢梅園アクセス

 

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品濃白幡神社の解説で、鎌倉時代~明治時代まで横浜市南部の神社仏閣を守って来た権現堂と泉蔵院と言う修験道の道場と、そこを戦国時代から治めた北条家臣間宮家の子孫の松本家と関家に少し触れました。
その時の記事、クリックで読めます⤵
商業街の中に在る戸塚区品濃の白幡神社と白幡山公園
・・・実は凄い歴史偉人と関係有ります。


その権現堂と泉蔵院が何故、横浜市南部の神社仏閣を支配する事に成ったか解説したいと思います。

横浜市南部の神社の多くは鎌倉時代から修験道の2系統の家系によって管理されていたんです。
1つ目は亀谷福禅寺権現堂(かめがやつ ふくぜんじ ごんげんどう)
2つ目は大靈山山崎泉蔵坊(だいれいさん やまざ きせんぞうぼう)
この二つは何(いず)れも修験道の大道場で、とても由緒有る神社であり寺院としての道場機能も有していました。新編武蔵風土記稿を読むと解かりますが、旧鎌倉郡と久良岐郡域の内、江戸時代に本牧奉行間宮家本家と、分家で江戸幕府鷹匠頭の杦田(すぎた)間宮家が支配した地域では、権現堂と泉蔵坊が神社を分けて統治していた記録が有ります。そして、この両社は源頼朝公が支援した修験道道場でしたので、その支配は間宮家の統治によるものと言うよりは鎌倉時代からの統治機構の名残りだったのかも知れません。
更には、旧鎌倉郡江島神社を管理した岩本坊間宮家、旧高座郡に当たる海老名市の古代相模国一之宮今五之宮であり延喜式内社の有鹿神社が存在しますが、戦国時代に海老名の中心部は間宮家の所領でしたし間宮康俊と言う殿様の時代に一度途絶えた有鹿神社の水引神事が復興されています。そして、相模国二之宮の川勾神社宮司家や二宮尊徳を輩出した二宮家にも間宮家から養子が戦国時代に入っていたりします。
ついでに少し品濃白幡神社から話を逸れて、間宮家や旧北条家臣団が如何に神社や修験道に宗教的な影響力を持っていたかを知っていると色々と解る事も有るので説明して置きたいと思います。
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上の写真は旧杦田郷(すぎたごう)の現代の港南区と磯子区の境に跨る笹下城本丸跡地形。
この笹下城跡の本丸は三井不動産レジデンシャルによって右側の大空堀が掘削された後に盛土され一部破壊されましたが今も介護施設の裏山として存在しています。
安土桃山時代に豊臣秀吉の小田原北条家討伐戦で間宮家は、当時の笹下城主で間宮家当主の間宮康俊公が72歳の高齢で玉縄城主北条氏勝公与力の付家老として箱根山中(三島市側)の山中城に籠城します。
この時に間宮康俊公の寄親(上官)の北条氏勝公が敵前逃亡して玉縄衆兵3,000を率いて玉縄城に撤退してしまうのですが、間宮康俊公だけは山中城主松田康長を見捨てず山中城に籠城し続けました。
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写真はGoogle earthで見た山中城址の航空写真。
笹下城主間宮家臣団兵200、松田康長公の部隊兵100の合計300で籠城、豊臣秀吉本隊80,000の大軍勢を迎え撃ちます。
敵は本隊先方豊臣秀次隊・与力豊臣家小大名の中村一氏隊と家臣の渡辺勘兵衛隊・堀尾吉晴隊、山内一豊隊、一柳直末隊の合計26,000余。
右翼、池田輝政隊20,000。
左翼、徳川家康隊30,000。
援軍主将で間宮家の上官だった北条氏勝公が撤退していなくても戦力比は圧倒的不利でした。
北条氏勝公逃亡前 三千余 対 八万余の豊臣軍 
戦力比 1:26
つまり北条家は1人26殺しないと勝てない。だから北条氏勝公は家臣等に説得されてしまい小田原防衛網を放棄逃亡して自領に逃げてしまった訳ですね。
そして間宮家以外の玉縄衆が全部撤退してしまった後の山中城籠城勢 対 豊臣軍の戦力差は更に絶望的な物と成りました。
松田・間宮連合(山中城籠城勢) 300 対 26000 豊臣軍先方 豊臣秀次隊と与力小大名衆。
戦力比 1:86。
1人86殺、常識的には反抗するのも無理な次元での籠城戦、普通は誰も助けに来ない。

なんで品濃白幡神社の説明で戦国時代の間宮家の説明に成るんだろうな~?と歴史に興味が無い人はここまで読んで頓珍漢(とんちんかん)に話がズレてると思うでしょうが、実はここから品濃白幡神社のみならず神奈川県域の全神社にも繋がりが出てきます。
この超絶不利な状況で間宮家の籠城する山中城に僅(わず)かな援軍を出した勢力が一つだけいました。
・・・それが実は延喜式内社、大山阿夫利神社と別当寺の大山寺を守っていた神官僧兵達でした。
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写真は伊勢原市の大山国定公園遠景。大山の三角形の山体と頂上の石山権現と言われた奇岩が縄文時代からの信仰対象で、古来聖地として発展し、神道や修験道や真言宗の聖地として多くの僧兵を抱える一大勢力でした。
豊臣家による北条征伐の過程で発生した超絶不利な間宮家による山中城の防衛戦で間宮家を支援したのが決死隊として大山から参陣した神官僧侶を兼ねる修験者の僅かな部隊でした。
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写真は宗教、築城、鷹狩、有職故実に精通した間宮家が山中城防衛強化の為に三の丸の更に先に増築した岱崎出丸の先端、三日月掘りと言う構造体。
この岱崎出丸で先ず間宮家は修験者部隊と協力して豊臣軍26000の大軍を迎撃して鉄砲隊で散々に損害を与え、敵大名の一柳直末公を討取ってしまします。
更に間宮家・松田家・大山修験者僧兵達は一人残らず討死しますが、何と戦が終わった時には驚愕の籠城兵300で敵戦死者3000余、損害多数の戦果を残していました。
この事からも判りますが圧倒的に不利な合戦でも多くの神社仏閣を管理した大山阿夫利神社と大山寺の僧兵達から支援される程に宗教的な家格が高かったのが間宮家な訳です。
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写真は大山の参道に建つ宿坊の一つ、東学坊。大山名物の美味しい豆腐や猪の料理を食べられる旅館。
大山の修験者の多くは安土桃山時代に武器を捨てて僧兵を辞め、江戸時代に成ると先導師と呼ばれ聖地礼拝の観光客相手に宿坊と呼ばれる神社寺院機能を備えた旅館を経営し大山観光産業の一翼を担い現代に至ります。
江戸時代の神仏分離までは伊勢参り富士山参りに次いで大山詣でが江戸市民から人気の観光地でしたから今も関東の各都市には大山街道が残っています。
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間宮家所縁(ゆかり)の町ですと杉田商店街のメインストリートが近代に再整備された横浜~伊勢原線で大山街道の一つですね。
間宮家は、この山中城の戦いの活躍に加えて江戸時代に徳川家康公の旗本となり氷取沢間宮家初代と成った間宮康俊公の御実弟の間宮綱信公が北条家の外交官として織田信長公への外交使者を務めたり、徳川家康公にも外交使者を務めて名が知れていた事や、間宮家が武家にとっては貴重な材木と海運のノウハウに加えて宗教と宗教建築知識と鶴岡八幡宮再建事業での実績が有る事、そして極め付きが一般的な武将が保有しない武士の教養である鷹狩に必要不可欠な鷹育成の特殊技術を有していた事から分家の杦田間宮家の間宮信繁公が徳川家康公の参謀 兼 鷹匠頭として登用されました。
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写真は杦田間宮家菩提寺の妙法寺の山門。境内には今も杦田間宮家歴代殿様の巨大な御廟所が有る。
この杦田間宮家の間宮信繁公が、関ヶ原の戦いで徳川本隊3万の前進を進言して小早川秀秋公の東軍寝返りを実現させた名軍師でした。この小早川勢寝返りの工作を進めたのが間宮家と同族の宇多源氏黒田家の黒田長政公でした。
この間宮信繁公の姫が、初代久能山東照宮の大宮司の榊原照久公に嫁いでいる事からも宗教的な間宮家の家格の高さが解かりますね。
そして間宮本家の笹下間宮も名軍師を輩出します。

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写真は磯子区田中の妙蓮寺、間宮直元公と奥方の菩提寺。近年まで直元公の彫像を御神像とする御社が有ったが火災で焼失したが、奥方の墓所は現存する。
間宮直元公です。この人が徳川幕府による豊臣家攻め大坂城の戦いで真田幸村籠もる真田丸や大坂城総掘りの埋め立て作戦を直接徳川家康公に進言し、真田幸村の軍略を無力化させ豊臣家を滅亡させる留めを刺した名軍師でした。間宮直元公は間宮家の土木知識と水運技術を活かして二代目佐渡金山代官、初代但馬奉行、生野銀山代官、初代本牧奉行(神奈川奉行=横浜市長の前身)を務めた人物でもありました。
つまり間宮家は武家としても重要人物達と繋がりが有るだけでなく、中世の宗教者達とも希有(けう)な太いコネクションと信頼関係を築き、宗教建築や土木技術と教養も有した文武両道の学者気質武家の家柄だった訳ですが・・・
旧鎌倉郡に当たる品濃白幡神社や下永谷の神明社等を近年まで管理したのが関家で、この家も又、間宮家同様に‟旧北条家臣”の関一族でした。この関と言う家は北条家臣団でも最古参の部類で、北条(伊勢)家と同族の伊勢平氏です。間宮家は北条家臣中、相模十四騎筆頭と呼ばれた家でしたが、つまり関家も小田原北条家の重臣の一人でした。
品濃白幡神社を含めて横浜市域では権現堂家と関家が横浜市南部の神社の多くを近代まで支配下に置いて管理していました。
余談ですが江戸の宗教も旧北条家臣伊丹家が大きな影響を持っていて、浅草寺や深川の富岡八幡宮等はその伊丹家が関与した場所でした。伊丹家は戦国時代に北条家臣として金沢区釜利谷に所領を与えられていましたが、関西に残った同族の伊丹家の子孫からは仏師として有名な江戸時代の彫刻家の左甚五郎も排出しています。日光東照宮の社寺建築で大きな功績を残した名工ですね。この伊丹家は源頼朝公が開いた金沢八景駅前の瀬戸神社や、その御分霊を頂いて伊丹家が開いた手子神社を支援した家です。
その伊丹家や間宮家と同じ旧北条家臣で北条家と同族の伊勢平氏の関家で富岡八幡宮や品濃白幡神社や永谷神明神社に影響力を持っていて、間宮家が久良岐郡を江戸中期に離れてからは泉蔵院にも関わりが有りました。

因みに家紋を比較すると色々と面白い宮司家の秘密が解かったりしますよ・・・

北条家:三鱗紋と対蝶文
三つ鱗紋対い蝶紋

関家 :揚羽蝶
揚羽蝶紋

揚羽蝶の家紋から両者が伊勢平氏で同族である事も判る様に成っている訳です。
では間宮家と福禅寺権現堂家の家紋も比較しましょう・・・
間宮家:隅立四目結紋
隅立て四ツ目結び紋
権現堂:丸に隅立四目結紋
丸に隅立て四ツ目紋

現代人には「家紋なんて好きに使えば良いじゃん?」って意味も理解していない人も居ますが、家紋は勝手に変えちゃいけないし、祖先や親戚の本家や上司から親族や重臣として認められて与えられないと勝手に使っちゃいけない物なんです。
ちゃんと自分が何処の出身のどの家系か、いつの時代に分岐したり活躍したかを辿(たど)れる言うなればレポートの索引のページを表す記号みたいな役割が家紋には有るんですよ。
因みに〇で囲みの有る家紋は一般的に本家から独立する時に分家が与えられた家紋だったり、神社仏閣の寺紋や社紋なら支援した殿様に重視され大切にされた証として〇で囲んだ殿様の家の家紋の使用許可を頂く場合が多く有ります。
例えば・・・
三つ鱗紋
北条家の三鱗紋ですが、鎌倉時代の鎌倉幕府執権北条家や戦国時代の北条家や分家の玉縄北条家や神保家が支援した御寺や神社では下の家紋が使われます。
丸に三ツ鱗紋
丸に三鱗紋。
これを使う神社は鎌倉幕府執権の北条時頼公が支援した鎌倉の宇賀福神社(銭洗い弁才天)や、金沢北条実時公と戦国時代の北条家と江戸時代の間宮家が支援した南区の寶生寺、玉縄城主北条綱成公が支援した磯子区の龍珠院、金沢区の伝心寺等が有ります。
ね?家紋にも意味が有るんですよ、家系や神社仏閣の歴史を辿れる。

・・・少なくとも戦国時代から最近までずっとそうだった訳です。
では権現堂家と関家の解説をしたいと思います。
1つ目、福禅寺権現堂と森浅間神社
権現堂は、元は源氏の元の本拠地の鎌倉市亀ヶ谷に在った修験道の聖地を管理した権現堂住職の家系で港南区港南に機能移転して来ました。
福禅寺は元は神仏習合の修験道の門跡寺院で鎌倉時代に源氏将軍家が暗殺され、九条(藤原)将軍が政略で失脚させられ、その後に天皇家から将軍を迎える様に成った時代に将軍家同様に皇族を住職に迎えた由緒正しい修験道系の道場、神様と仏様の両方を祀り天下泰平の祈祷を行う天下有数の道場でした。
この福禅寺の“名代”である権現堂を受け継いだ家系は現在姓を松本と名乗りますが、間宮家の家系図では江戸時代に本牧奉行を務めた間宮家の本家の笹下間宮家から養子が入っています。
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磯子区森(屛風ヶ浦)の森浅間神社は元々、権現堂の聖地霊場として源頼朝公によって開かれた場所なので、現在も権現堂家が宮司職を引き継いでいます。福禅寺歴代住職は就任する際に必ず森浅間神社で就任儀式を行っていました。
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写真は東京都青梅市二俣尾の海禅寺(旧:福禅寺)。
室町時代中期に東京都青梅市二俣尾に扇谷上杉家と三田家によって福禅寺が再興されますが、これが扇谷上杉家が滅亡してから後の北条家統治下の間宮康俊公の時代に唐突に‟天皇家勅願所”に成った事からも間宮家の宗教的な影響力が理解出来ます。
この福禅寺から戦国時代に間宮康俊公によって和尚様を招いて再興されたのが、間宮康俊公の曾祖父の間宮信冬公によって開かれたと伝わる鶴見区下末吉の寶泉寺です。
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これらは全部、歴史を辿ると繋がりが有ります。
そして権現堂は福禅寺名代の格式を得ていた事が当時の手紙に記されており、鎌倉時代には福禅寺は皇族の長円親王が住職を務めていた門跡寺院に成っていた歴史から格の高さが解かります。
それ故に旧久良岐郡の全ての神社の内、泉蔵院の統治した神社以外全ての管理を行っていました。その存在意義が関係する神社仏閣の歴史や関わった歴史偉人からも良く理解出来ます。

2つ目、大靈山 泉蔵院 桐谷寺(現:磯子区中原の熊野神社)
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ここは明治政府の宗教改革の失敗の代表例である廃仏毀釈で修験道道場寺院機能を廃止されて規模が縮小されてしまって今では住宅街の中の小さな熊野神社ですが、元々は鎌倉市山崎に存在し源頼朝公が福禅寺権現堂同様に重視した修験道の道場の山崎泉蔵坊の聖地として開かれた熊野神社でした。
鎌倉時代末期の新田義貞による神社仏閣の焼き討ちや、室町時代にも上杉禅秀の乱や永享の乱で鎌倉では戦火が治まらず寺院の維持が困難に成り、今の磯子区中原の熊野神社に山崎泉蔵坊の機能を移転して本拠地として大道場化し寺号も大靈山泉蔵院桐谷寺と改め明治時代まで繁栄しました。
久良岐郡域と鎌倉郡域で権現堂が支配した神社以外、修験道系神社は全て、この泉蔵院が統治していた事を新編武蔵風土記稿の中で間宮家の子孫で東京大学前身の昌平坂学問所頭取を務めた間宮士信公が書き残しています。
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この熊野神社や富岡八幡宮に強い影響力を持っていたのが関家でした。
この関家の一族は旧北条家臣団として間宮家同様に武蔵国域~相模国域まで広く分布していましたが、現代では宮司家としての関家は家系が途絶えてしまいました。
しかし例えば都筑区には関一族の末裔の旧家が文化財として残っていたりします。
sekikezenkei1 横浜市教育委員会より拝借
※画像は横浜市より拝借。
北条家臣団の城持ち級の武士の1560年前後の所得を記した北条家の所領役帳を江戸時代に写した小田原北条所領役帳と言う文献にも、関家も間宮家も一族の武将が領地名と一緒に登場します。
間宮家は別の解説記事で以前、所得を書いているので今回は関さんの領地がどんな感じに分布していたか現在の地名と照らし合わせて見てみましょう。

関新次郎
泉水寺領(地所不明)※小田原市、足柄下郡、南足柄市、足柄上郡の何処か
四宮長沼共ニ(平塚市四宮周辺)
富岡之内(横浜市金沢区富岡) 本郷買得ニ替而被下

関兵部丞
羽鳥辻堂(藤沢市羽鳥~辻堂の一部)
鶴間(相模原市~大和市の林間と鶴間の地名の付く地域周辺)
飯嶋(平塚市飯島)
北大繩(平塚市岡崎辺り)
一宮(地所不明)※多摩市一宮or寒川町
宿立(川越市山田)
岡郷(横浜市磯子区滝頭~岡村町一帯)

関弥次郎
新土今里(平塚市真土)
台之村(鎌倉市台)

関さんの土地は、まぁ~こんな風に埼玉県~東京都~神奈川県域に散らばって存在していた訳です。
安土桃山時代の記録は残っていませんが、北条家の所領も関東全域に広がって行ったので関東全域にも関さんの土地が有ったかも知れません。
そして、その土地に根差し分家に成って行った人達が多く江戸時代に庄屋サンとなり神社や御寺を守り、明治に成ると神社の宮司や地主として昭和の最初の頃まで土地土地の歴史を守って来た訳ですね。
そして関さんの一族は北条家滅亡後に御先祖様の出身地である伊勢神宮の在る伊勢国に移住した一族もいるので、北条家臣団の中でも元々、間宮家と同じく宗教的な知識を深く保有する家系だったのかも知れません。
領地がある場所も神奈川県域では延喜式内社の所在地や比較的有名な神社の在る場所ばかりですしね。
前鳥神社とか富岡八幡宮とか岡村天満宮とか。

まぁ~、関家が磯子区の泉蔵院や杉田周辺にどの段階で関与したかは不明ですが、近代には横浜市域の海苔の養殖等を振興し活躍された関寅吉さんの様な人物も排出したり、殿様じゃなくたってからも宗教文化でも地域振興でも活躍した家系だった様です。
間宮家も江戸時代に間宮林蔵や杉田玄白や間宮士信等の学者を輩出して、宗教では江ノ島の岩本間宮家が真言密教系修験道として明治まで寺院機能を保持して江島神社を管理していました。
そんな関家や間宮家と、泉蔵院と権現堂が横浜市南部の多くの神社を守って来たんですよ~と言う解説でした。

間宮家につてはタグ検索‟間宮”で色々と記事が有りますので御興味有る方は、下をクリックして関係記事を読んで見て下さい。
これクリックで間宮家の関係記事リンク→●間宮家

今回の記事は御寺や神社の‟歴史”に興味が無い人には本当に興味が湧かないかな?
でも実は横浜市南部の神社や御寺には源頼朝公以来の統治機構や、戦国時代からの家系がそのまま残っていた場所も多く有るんですよ~てのが皆さんには伝わったかな?

次は北条家臣で官僚だった横浜市北部の殿様の中田加賀守の関係先の御寺の紹介をしたいと思います。
では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
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平安時代の人々は梅の花を見て春の訪れを感じたそうです… 
そんな訳で神奈川県内で綺麗な梅の花の名所を小生の知る場所だけ、一覧として掲載します。
もし他にも県内に素晴らしい梅林を御存じの方は、紹介コメントを残して頂けると幸いです。
※小生がブログ写真の未撮影の梅林については公式ホームページ写真を転用紹介します。
※公式ホームページが有る場所は名前にリンクも貼りますので参考にしてみて下さい。
※梅林の名称をクリックすると、リンク先の公式ホームページを閲覧出来ます。
※過去記事転載でイベント日程が以前のまま記載されている部分が有りますので、詳細は掲載された問い合わせ先にご確認ください!

湯河原梅林
住所〒259-0313足柄下郡湯河原町鍛冶屋951-1付近
見頃:3月初旬
湯河原梅林様公式 画像拝借1 久良岐のよし  
湯河原梅林様公式 画像拝借2 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
湯河原梅林は約4000本の梅を誇る。箱根~小田原~熱海の温泉地や名勝旧跡からも車で1時間以内と近く、周辺には温泉宿も多く有る風光明媚な観光地で泊りがけの梅林鑑賞を楽しめる夜間ライトアップも行っている。
梅の宴 例ねん02月初旬~03月中旬開催※詳細は御自分で問い合わせして下さい。 
夜間ライトUP 02月末~03月初旬の18:00~20:30の時間 ※詳細は御自分で問い合わせして下さい。 
連絡先
湯河原町観光課 TEL 0465-63-2111
アクセス
幕山公園
駐車場…500円~300円(会場との距離で料金が異なる)
JR湯河原駅~バス乗車(約20分に1便間隔)~15分で到着 湯河原梅林 アクセス 久良岐のよし



【辻村植物公園】
住所
〒250-0042小田原市久野荻久保4381
見頃:2月末~3月初旬
辻村植物公園2 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし 
辻村植物公園 小田原市公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
特に無い。
連絡先
小田原市広報広聴課 TEL 0465-33-1261
アクセス
辻村植物公園
駐車場500円
JR小田原駅西口~バス乗車いこいの森(わんぱくらんど)行き~約10分、辻村植物園で降車
辻村植物公園 アクセス 久良岐のよし 

小田原城 城址公園内梅園
住所小田原城址公園
見頃:2月中旬~3月初旬
2015-02-28-16-44-45
2015-02-28-16-54-45
2015-02-28-16-16-24
イベント
梅まつり
※公式ホームページで御確認下さい。
梅林の規模は50本前後と小さいが、御城を見学出来る上に場内でレンタル甲冑で写真撮影等も出来る。
また、辻村植物公園の梅林や曽我梅林や小田原フラワーガーデンと合わせて鑑賞に来れる距離。
連絡先
TEL 0465-23-1373
アクセス
JR小田原駅から徒歩10分
公共駐車場無し。周辺に私営駐車場有り。 小田原城アクセス 久良岐のよし


小田原フラワーガーデン
住所
〒250-0055 神奈川県小田原市久野3798-5
見頃:2月中旬~3月初旬
小田原フラワーガーデン 公式様より拝借 久良岐のよし 
小田原フラワーガーデン 公式様より拝借2 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
イベント
渓流の梅林 梅まつり
※公式ホームページで御確認下さい。
連絡先
TEL 0465-34-2814
アクセス
JR小田原駅乗り換え~伊豆箱根鉄道大雄山線飯田岡駅~徒歩10分
駐車場(140台)無料
小田原フラワーガーデンアクセス 久良岐のよし 


曽我梅林
住所
〒250‐0205神奈川県小田原市曽我別所282付近一帯

見頃:2月初旬~3月初旬
曽我別所梅まつり観光協会様公式 拝借1 久良岐のよし
※画像は公式から拝借
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イベント
小田原梅まつり
※公式ホームページで御確認下さい。
※曽我梅林は他の梅林とケタ違いの3万本以上の広大な梅林です。
連絡先
小田原別所観光協会 TEL 0465-42-1965
アクセス
電車…JR東海道本線国府津駅~御殿場線に乗り換え~下曽我駅~徒歩15分。
バス…小田原駅・国府津駅からバス有り。中里で降車~徒歩20分。
曽我別所梅まつりアクセス 久良岐のよし 


松岡山東慶寺 金峯山浄智寺
住所
東慶寺〒247‐0062鎌倉市山ノ内1367

浄智寺〒247-0062鎌倉市山ノ内1402
見頃:2月下旬~3月初旬

【東慶寺】

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駆け込み女と駆け出し男
※東慶寺は2015年公開の映画❝駆込み女と駆出し男 ❞の舞台です。 

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【浄智寺】
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浄智寺は鎌倉五山で京都の征夷大将軍が直接住職を任命する特別な寺だった。
現在は鎌倉江ノ島七福神巡りの一つ。 

東慶寺から徒歩5分。
※2015年06月14日に撮影
イベント
特に無し。
東慶寺は約100本以上、浄智寺にも数十本の梅が咲く。
東慶寺と浄智寺は徒歩5分の距離。ともに歴史が深く、東慶寺は鎌倉幕府執権北条時宗の妻、覚山尼様の開基。その後は後醍醐天皇の皇女用堂尼様、戦国時代には豊臣秀頼公の御息女の天秀尼様が住職を務めた。映画❝のぼうの城 ❞のヒロインで女傑として有名な成田甲斐姫も天秀尼様の養育係として仕え東慶寺に同行し住したと伝承する。
浄智寺は鎌倉五山の一つの各式を持つだけでなく、嘗(かつ)ては広大な敷地と無数の堂塔を有し、鎌倉公方の仮御所に定められる事も度々有り、足利持氏公や足利成氏公が滞在した場所でもある。
連絡先
東慶寺 TEL 0467-33-5100
浄智寺 TEL 0467-22-3943
アクセス
東慶寺 JR北鎌倉駅~徒歩5分
浄智寺 JR北鎌倉駅~徒歩8分
東慶寺浄智寺アクセス 久良岐のよし 


錦屏山瑞泉寺 異名:花の寺&荏柄天神社】
住所:
瑞泉寺 〒248-0002 鎌倉市二階堂710
荏柄天神社 〒248-0002 鎌倉市二階堂74
見頃:1月中旬3月初旬、黄梅は2月中旬~3月中旬 
瑞泉寺様公式mayumi-katsu様撮影 拝借1 久良岐のよし
※画像は瑞泉寺様公式から拝借
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荏柄天神社は日本三古天神社の一つに数えられる天満宮で、境内には数十本の梅が咲く。
イベント:
瑞泉寺
瑞泉寺様公式催事 拝借 久良岐のよし
※画像は瑞泉寺様公式から拝借
季節ごとに、その季節に見頃の花を植樹してある。梅は数百本を数える。
鎌倉時代~江戸時代まで権力者達が心の安らぎを瑞泉寺の花々に求めて訪れ歌会等を催した。
裏山にかつて在った一覧亭と言う建築からの眺望が良く、水戸徳川光圀(黄門様)も訪れた。
近くの荏柄天神社にも数十本の梅が植樹されているので、荏柄天神社と瑞泉寺をセットで見学するのが御薦め。
徒歩に行ける範囲の浄妙寺や鎌倉宮と合わせて見学しても、より鎌倉市街の旧鎌倉幕府拠点地域の原風景を楽しめる。浄明寺では抹茶も飲める。鎌倉宮は桜の名所。
連絡先
瑞泉寺 TEL 0467-22-1191
荏柄天神社 TEL 0467-25-1772
アクセス:
荏柄天神社 鎌倉駅東口~バス(大塔宮行き)乗車10分~天神前で降車
瑞泉寺 鎌倉駅東口~バス(大塔宮行き)乗車15分~終点大塔宮で降車
瑞泉寺荏柄天神社アクセス 久良岐のよし 


日比谷花壇 大船フラワーセンター
住所:
〒247-0072 神奈川県鎌倉市岡本1018
見頃:2月中旬~3月初旬
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イベント:

※画像は大船フラワーセンター様公式から拝借
玉縄桜を楽しもう
大船フラワーセンター様公式 拝借4 久良岐のよし
※画像は大船フラワーセンター様公式から拝借
玉縄桜の❝玉縄❞とは古来より伝わるこの地域の地名で、戦国時代、今の清泉女学院中学校を本丸にした❝玉縄城❞と言う名城が在った。上杉謙信軍10万、武田信玄軍2万6千に攻められても落城しなかった堅城だった。
その歴代城主が小田原北条家親族の玉縄北条家で、玉縄桜はその殿様の居城の名を頂いた由緒正しい桜で、観梅の頃に咲く。近くの龍寶寺は関東最強の武将北条綱成公の菩提寺で歴代城主の御廟所も在る。境内には他に玉縄歴史資料館も有り、玉縄城の復元縄張り模型や出土品が展示されている。

梅花は本数は大量ではないが、植物園だけあり他所より多くの種類を一度に観られる上に他の花や樹木も楽しめる。
連絡先:
日比谷花壇 大船フラワーセンター TEL 0467-46-2188
アクセス:
駐車場109台
電車&徒歩 
大船駅降車 大船駅西口(大船観音側)~徒歩16分
バス 
大船駅西口バスターミナル1番乗り場から❝渡内経由藤沢駅行き❞か❝公会堂経由城廻り中村行き❞に乗車~❝岡本(駅から3番目のバス停)❞で降車~徒歩3分。 
大船フラワーセンターアクセス 久良岐のよし制作 


田浦梅林の里
住所:
横須賀市田浦大作町
見頃:2月下旬~3月初旬

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※写真は2015年03月07日
イベント:
梅林まつり 2月中旬~3月初旬
田浦梅林は今上(現在の)天皇陛下の御生誕記念に植樹されたのが始まりで、現在では梅の本数は2700本を超え、梅の根元には水仙75,000株が植えられている。
田浦の山全体に梅が植林されており、山頂からは梅林越しに懐かしい神奈川の里山の風景を眺める事が出来る。
連絡先:田浦観光協会 TEL 046-961-4181
アクセス:
バスと徒歩…田浦郵便局バス停で降車~山頂まで徒歩20分
電車(JR)と徒歩…JR田浦駅で降車~山頂まで徒歩25分
電車(京急)と徒歩…京急田浦駅で降車~山頂まで徒歩40分
田浦梅林


岡村梅林
住所:
〒235-0021横浜市磯子区岡村6-8-19
見頃:2月下旬~3月中旬
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イベント
岡村梅林は大きくは無いが、150本前後の梅が植林されている。
夜間ライトアップ
※公式ホームページから御確認下さい。
梅まつり
※公式ホームページから御確認下さい。
2015-03-07-13-20-22
この岡村梅林は、元々周辺の横浜市立岡村公園(スポーツ公園)と合わせて、近隣の岡村天満宮の社地だった。岡村天満宮の開基は鎌倉御家人三浦家の一族の平子家と伝わり、その人物は平子有長公と推定出来る。有長公は鎌倉御家人で最初の源頼朝公暗殺未遂事件の実行犯を取り押さえた勇敢な武将でもあった。丘の裏手には戦国時代の名将北条氏繁公の開いた龍珠院も在る。
岡村天満宮の社領は第二次世界大戦後に米軍に接収された後、横浜市に返還されたが横浜市が岡村天満宮に返還しなかった為に一度、岡村梅林は消滅したが、岡村天満宮の氏子様の有志達が旧社地の一部を買戻し、現在の岡村梅林部分にも梅を植林し梅林を復興して下さった歴史が有る。
連絡先:岡村公園 TEL 045-751-4375
アクセス:
バス
京急弘明寺駅/市営地下鉄弘明寺駅/蒔田駅/JR磯子駅のいずれかの駅から乗車~天神前バス停か岡村交番前バス停で降車~徒歩5分
駐車場…岡村公園の有料駐車場~徒歩3分
岡村梅林アクセス


根岸森林公園
住所:
〒231-0853 横浜市中区根岸台1-2
見頃:2月下旬~3月初旬
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※上写真は明治時代の旧競馬場一等観覧席(米軍横須賀ベース管理の史跡)
※下写真は松任谷由実の歌“海の見えていた午後”の舞台の“ドルフィン”
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イベント:特に無い。
広い芝生の広場と園内に広がる桜林は横浜市民の憩いの場としても有名だが、公園の中央には400本からの梅林も整備されている。
もともとは競馬場だった。
幕末、横浜港が開港され本牧半島が外国人居留地に成った事で、駐在する欧米の外交官や軍人の要望で明治時代に建設された日本最初の競馬場の跡地。
隣接してJRAのポニー広場や競馬関連の博物館も有り、御弁当を持参すれば小さい子供連れの家族でゆっくり時間を過ごせる場所。自然湧水の池では子供がザリガニ捕り等も楽しめるる公園。
又、徒歩すぐの場所にはユーミンが十代の頃、まだ芸名が荒井由実だった時代に❝海を見ていた午後❞と言う曲で歌詞に歌ったレストランの❝ドルフィン❞が有る。
歌の通り、ドルフィンソーダを頼むと、この曲をかけて貰えます。
連絡先:横浜市環境創造局 TEL 045-671-3648
アクセス:
JR根岸駅~徒歩15分
駐車場有り。
根岸森林公園アクセス 久良岐のよし


三渓園
住所:
231-0824横浜市中区本牧三之谷58‐1
見頃:2月下旬~3月中旬
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イベント:
季節ごとのイベント有り。
もうすぐ観桜の夕べで桜の夜間ライトアップ有り。
※イベント一覧は公式ホームページで御確認下さい。
明治時代の原財閥の富豪、原三渓が当時、廃仏毀釈で荒廃した全国の仏閣や徳川家所縁の城跡の建築文化財を広大な私邸に移築し保護した。日本で全国に先駆けて私立公園として私邸の建築文化財と日本庭園を広く庶民に公開した。
中には聖武天皇の勅願所だった京都府の灯明寺の旧本堂や三重塔や鎌倉の尼寺東慶寺の仏殿、紀州徳川家の和歌山の別荘や、京都の伏見城等、数え切れない程の建築遺産が移築保護されている。
現在は原財閥から横浜市が管理を委ねられている。
原三渓の御蔭で破壊を免れた重要文化財や、季節ごとの花の綺麗な広大な日本庭園。
連絡先:045-621-0834
アクセス:
駐車場有り。
桜の季節は駐車場に入るのに1時間以上待つ場合が多々有ります。
電車&バス
JR根岸駅でバス乗車~本牧下車。
JR桜木町駅/横浜駅東口~バス乗車~本牧三渓園バス停降車~徒歩5分。
みなとみらい線元町中華街駅4番出口近く、山下町バス停乗車~本牧三渓園バス停降車~徒歩5分。
三渓園様公式拝借2 久良岐のよし
三渓園アクセス 久良岐のよし


大倉山公園梅林
住所
:〒222-0037 横浜市港北区大倉山2-36-8付近
見頃:2月下旬~3月初旬
大倉山観梅会様公式 拝借2 久良岐のよし
※写真は大倉山観梅会運営様公式から拝借
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イベント
大倉山観梅会
※開催日は公式ホームページで御確認下さい。
大倉山の梅林の隣には、戦国時代の北条家重臣笠原康勝公が開いた竜松院と言う御寺が在る。
その御寺を含む大倉山公園~太尾見晴らしの丘公園にかけて続く鶴見川河畔の丘陵は、笠原家の居城❝大曾根城❞だった。
その城址に小規模な梅林が有り丘一体は大倉山地区の住民の憩いの場だったのを、東急不動産が開発破壊しようとした際に、義挙した住民が一丸と成り東急の城址と自然破壊に反対し、約30年前当時の細郷横浜市長の下で横浜市が買い上げ自然を残した公園として整備し梅林として有名に成った。
初春には周辺地域からも観梅客で賑わう。
連絡先:港北区地域振興課(観梅会実行委員会事務局) TEL 045-540-2235


本沢梅園(ほんざわばいえん)
住所:
相模原市緑区河尻4457‐1
見頃:2月下旬~3月初旬 
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イベント:
本沢梅園祭り
※開園期間はホームページで御確認下さい。
※本沢梅園は官営なので管理人が常駐しておらず、開園期間以外は梅園の遊歩道には入れない。
※梅園自体は山腹の斜面に広がっているので、道路沿いからでも十分観梅が楽しめる。
約1000本の梅が植林されている。
昔は谷だったが、近隣の津久井湖建設の残土で谷間を埋めて、そこに梅を植林した。
周辺に歴史史跡も多く、山頂の金刀比羅宮は古来、雨乞いの神事が行われた水の枯れない池が在る。
梅林から尾根伝いの山裾(やますそ)の寶泉寺を囲む山は平安時代末期に長井家によって築城された小松城址でもある。
近くの津久井湖や戦国時代の名城、津久井城址の山のピクニック等と合わせて見学に行くと、1日中自然を満喫出来る良いレクリエーションに成る。
※津久井城址は根古屋地区のパークセンターに無料駐車場有り、鎧や城址復元図等の展示も有る。
連絡先:
相模原市コールセンター TEL 042-770-7777
城山まちづくりセンター TEL 042-783-8115
アクセス:
駐車場…無料130台
バスと徒歩…JR/京王線の橋本駅~バス❝若葉台住宅行き❞に乗車~若葉台住宅で降車~徒歩30分。
本沢梅園アクセス

 


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神奈川県で厄除けの御寺と言うと歴史を余り知らない人は立派な川崎大師に行く人が多くいますが、実は川崎大師の御利益は漁民の豊漁や徳川幕府11代征夷大将軍の徳川家斉公から深く崇敬され家斉公が子供28人も授かった子宝の御利益が江戸時代まで有名で厄除が御利益で有名だった訳じゃないんですね。
明治時代以前、本当に神奈川県の御寺の中で厄除けの御利益が有名で江戸の町民も知られた御寺が旧武蔵国久良岐郡に2箇所も在りましたが、旧武蔵国久良岐郡てのは今の横浜市南東部の地域です
そして、そのいずれの御寺も現在の横浜市南区の御寺である事を知っている人は今では横浜市民にも多くは無いでしょう。
一つは西向山乗蓮寺・・・
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西向山 乗蓮寺
・・・京神急行の駅名で有名な井土ヶ谷の地名由来に成った井戸の有る御寺で❝承久の乱❞の際に北条政子様が仏教草庵を建て疎開し戦勝祈願と厄除けを祈願した寺院です。
そして、ここに北条政子様が避難し鎌倉武士団の戦勝祈願をする理由だったと推測出来るのが直ぐ乗蓮寺の直ぐ近くの更に歴史の古い❝厄除け❞の御利益で有名な寺院が有ったからだと推測出来ます。
ここ等辺の事情は以前、乗蓮寺の解説を記事に書いて有るので御興味の有る方はそちらも御覧下さい。
クリックで記事にリンク⤵
西向山乗蓮寺…源頼朝公妻女北条政子様が開き、江戸時代の名奉行間宮忠次公が支援した、南区井土ヶ谷地名の由来の寺。

この南区の平地一帯は古代は海だった地域で井戸を掘っても余り質の良い水が出ませんでしたが乗蓮寺の在る地域の地下水脈の水質が良くて北条政子様は化粧を含めた生活用水に適している事をしって草庵を建てたんですね。つまり乗蓮寺は元々は生活の拠点として開かれている訳です。
北条政子様木像画像
※写真は乗蓮寺に在る北条政子様の彫像、生前に模写されたた生き写しの木造です。
小生は御寺のホームページからの転用を御住職に取材した際に御許可頂いておりますので、この画像を転用する場合は読者の方は御自分で乗蓮寺御住職様に御挨拶の上、御了承頂ける様に努力して下さい。
さて、では彼女は何の為にここに住んだのかと言うのは、彼女は鎌倉幕府と旧政権藤原氏側の朝廷が対立して承久の乱が起きた不安な時期を亡夫である源頼朝公との夫婦の思い出を回顧して心の支えとして過ごしたかったのと鎌倉幕府の未来を憂(うれ)いて❝厄除け❞❝戦勝祈願❞をする場所に通う必要が有ったからでしょう・・・
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その異名も厄除け大師として江戸時代までは大変に賑わった真言宗の大寺院だった瑞應山 蓮華院 弘明寺です。この弘明寺と乗蓮寺は徒歩でも通える距離に近在しています。
弘明寺と乗蓮寺の位置関係 久良岐のよし
今では弘明寺と言えば地名位の認識の人が多いですが、京浜急行弘明寺駅や現在の弘明寺商店街はそもそも明治政府の仏教弾圧の時期や戦後の宗教弾圧で弘明寺の境内地を政府が接収して造った場所なんですね。
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この弘明寺商店街はそもそも弘明寺の参道だった訳です。
今では弘明寺の大岡川沿いは桜の名所としても有名ですね~♪
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あ~将来かけれる女性と観音様に縁結びして頂いて彼女成って貰って一緒に散歩したいな。毎年カップルと家族連れだらけ一人は寂しい・・・
んな事ぁ~今必要な話しじゃなくて御寺の解説。
・・・まぁ、弘明寺は明治時代には政府の宗教改革の失敗のせいで一時、無住職に成ってしまい戦国武将❝間宮宗閑の与力衆❞が寄贈した扁額や諸々の寺宝も散佚してしまいました。
そこ等辺の話しは多くの学者が間宮家の武将の戒名を間違って認識してる事を指摘した解説記事で紹介しているので専門的な話に興味が有る人は御一読下さい⤵
クリックで記事にリンク→【間宮信元公と間宮康俊公の戒名の誤り】
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さて、本当に桜の綺麗な大岡川を横断する弘明寺商店街を京急の弘明寺駅側に通り抜けると現代の弘明寺の山門に行き当たります。
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瑞應山 蓮華院 弘明寺ここは伝承では養老五年(721)年にインドから来日した高僧の善無畏三蔵法師が聖域を示す結界石を置いた事で仏教の道場として発展して行く事に成ったのですが、これは恐らく井土ヶ谷の乗蓮寺がヒントに成ります。要するに清涼良質な湧水が有ったのでしょう。現在は山の中腹に在る弘明寺ですが、背後の墓地や南図書館の用地に成っている場所は谷地形です。橘樹郡衙も丘の上に存在しますが水の湧かない場所に人は住めないので、弘明寺が聖地化したのは水脈が露出した場所だったからでしょう。
そして善無畏三蔵法師が結界を張った場所で弘法大師空海和尚が国家安寧国民鎮護の厄除け護摩行を行ったと伝承していますが、これは恐らく朝廷からの依頼による関東地方の旱魃か冷害による不作の飢饉に対応した❝雨乞い❞か❝豊穣❞祈願だったと小生は推測しています。
実は弘明寺は御寺ですが神仏習合時代の習慣が今も残っていまして、弘明寺鎮護の神様は御稲荷様と熊野権現と八幡大菩薩と天満大自在天神(菅原道真公)や他にも諸々祀られていた歴史が有り、特に御稲荷様が鎮守の神様だったようです。
実は今も稲荷神社と熊野神社は嘗(かつ)ての弘明寺の境内地だった丘に現存しています。
弘明寺、中里温泉、熊野神社位置関係 久良岐のよし
位置関係を見て見ましょう。弘明寺の山の裏側に両方ともあります。
稲荷社と熊野社はいずれも元来は水源地に祀られる神様です。
熊野神社はそのまま、稲荷社は中里温泉の中に残っています。
この中里温泉はお婆ちゃんの女将さんが檀那さんが倒れた後も健気に守っているのですが、ネット世代の阿呆どもがネットで予約出来ないのと女将さんが御高齢で電話で耳が多いのをちゃんと確認もせずに「休業と言うデマ」の心無い書き込みをGoogle mapにしていたのを小生が削除させるまで掲載されてしまったり可哀相な状態に成っていました。
古い温泉料亭旅館で昔は弘明寺の参拝客で賑わい、料理も有名で300人クラスの宴会もしょっちゅう開かれていたそうです。小生は宿泊したいのですが3年前に直接お話を聞きに伺って「いつか泊まらせて頂きたいです~」と雑談した所、女将さんに「2人で来てね~」と❝早う彼女つくれ❞と背中を押されてそのまま3年が過ぎて未だに泊まる機会を得ていません(泣)。
熊野神社も中里旅館も写真撮影した筈なのですが、iPhoneがぶっ壊れてデータが吹っ飛んだ時期だったらしく写真が残ってませんでした。
さて、そんな訳で古来重要な土地であり大和朝廷直轄地の久良岐郡の役所である郡衙が在った丘の上に在る御寺なのですが、では何でここが郡衙だったかと言うのは❝飲み水❞以外にもう一つ❝水❞の理由が有ります。
弘明寺主変古代の海岸線 久良岐のよし
この地図は、江戸時代に開削された八幡橋八幡神社の地域を除いて❝白い部分は全て古代海の底❞だった地域です。つまり弘明寺は重要な古代の港湾を御膝下に抱える地形で軍港や水運の物流拠点に適した場所だったので郡衙が築かれた可能性が有る訳ですね。そして対岸の本牧半島は朝廷の牧場が有りました。幕末~近代に吹奏楽発祥地で国家君が代とテニス発祥地にも成っている妙香寺も本牧に在りますが、やはり前身寺院は弘法大師空海和尚が開いた御寺だったと伝わっています。
重要な港湾を抱え、農業に適した沢が有る場所なので郡衙に成ったのでしょう。
そして古代人の集落を支えた湧水地は古代の宗教では必ずと言って良い程、聖地化しますので、郡衙が廃れた後も、そこを善無畏三蔵法師や弘法大師空海が聖地として訪れ国家安寧国民鎮護の厄除け祈願を行った事がなんとな~く解りますね。
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空海和尚は国の命令で干ばつ対策の雨乞いを行っていた事が解かるのですが、尾張国の神社の一之宮である真清田神社の池でも雨乞い神事を行っています。
さて、そんな訳で古代から重用視された聖地だったので弘明寺には北条政子様は御夫君の源頼朝公が健在の頃に御一緒に戦勝祈願に参詣されたそうです。
その際に北条政子様が馬を洗ったと伝承する滝が近年まで弘明寺の近郷に在りました。横浜市の河川改修で消え去った史跡の港南区野庭~上永谷の間の鎌倉街道下道に沿って流れる馬洗い川の滝ですね。
この北条政子様が通った道は途中に天谷(てんや)の地名が残っていたので、そこは古代大和朝廷の兵站である店屋(てんや=基地)だった事が解かります。
鎌倉街道は鎌倉幕府が整備した道と認識する人が多いですが、その鎌倉街道下道の先には天皇家の勅願所だった師岡熊野神社が在り綱島街道や中原街道や厚木街道や八王子街道や橘樹郡衙の橘樹神社の丘一帯に接続する重要な道でした。その沿線に在るのが弘明寺な訳です。
その道を北条政子さんは通り承久の乱の際に亡夫頼朝公が打ち立てた鎌倉幕府と子に等しい御家人達の家族を守る為に、弘明寺に戦勝祈願厄除けに長期継続的に参拝する必要が有って弘明寺近くに乗蓮寺を建てた事が解かりますね。
さぁ、弘明寺の施設その物の説明に移ります。
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山門は仁王門です。
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立派な金剛力士像が参拝者を出迎えてくれます。
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この山門は江戸時代迄有りませんでした。てか弘明寺商店街の入口辺りが本来の御寺の入口でしたからね。そこに山門が在った訳ですから別物です。
新編武蔵風土記稿弘明寺扁額 久良岐のよし
そして、そこには間宮家の間宮宗閑同伴衆が奉納した❝弘明寺❞の扁額が有りましたが、現代ではこの扁額は失われ❝瑞應山❞の新しい扁額が有ります。
間宮家が奉納した物は臨済宗建長寺の高僧玉隠和尚が揮毫した物なので今でも現存していたら大変価値の有る文化財指定されてもおかしくない物でした。
因みに江戸幕府の役人のミスで間宮宗閑=間宮康俊公と言う認識を大半の歴史家は江戸時代の誤記の多い寛政重修諸家譜をテンプレ鵜呑みにしてますが、この弘明寺の扁額の存在が既にその認識が誤りである証拠に成り、年代的に間宮康俊公の父上の間宮信元公の法名が宗閑だった事が解かります。
間宮家臣団にとっての間宮康俊公菩提寺で江戸時代と通じて追善供養が行われた鶴見区下末吉の寶泉寺では❝宗覚❞が間宮康俊公の法名と伝わり、間宮家が申告した寛政譜でも宗覚が康俊公の法名として記されていますが、江戸時代後半の幕府の役人が江戸時代初期の幕府のミスを隠す為に改竄した寛政重修諸家譜では役人のミスで宗閑を康俊公の法名として徳川家が建てた伊豆の宗閑寺の名前をミスでは無く粉飾する為そのまま掲載して宗閑にしてしまっています。
山門と扁額の解説はここまでにして参道を進みましょう。
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山門左手には本堂とは別に御札や御守りの販売所が有ります。
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階段を上らなくても足腰の弱い御老人が観音様を御参り出来る様に、階段の下にも観世音菩薩様が祀られています。
そして石仏様・・・
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人々の往来を見守る馬頭観音様。小生がいつも祈りを捧げる神仏の一つ。
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よく道路沿いに祀られていて今では信仰心の無く成った日本人から見向きもされない事も多い仏様ですね。小生は大切にしています。
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階段を登り進めましょう!
左手に身代わり地蔵菩薩の看板が見えますね~。
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このお地蔵様は比較的新しい作りですが、身代わりに成って頂きたい事が有る人は是非、御参りされては如何でしょうか?
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御花がささげられて大切にされてますね~。
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弘明寺の顕彰碑かな?
山野井と見えます。この山野井さん、戦国時代にの御先祖は絶対に間宮家臣だった人で、上大岡の地主の一人で今では御子孫は不動産屋さんに成っています。
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階段を登りきると本来は護摩堂だったはずの御本堂が見えます。
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御庭には元々境内地を取り囲む様に善無畏三蔵法師によって配置されていた結界石が移設保存されています。
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その左手に鐘楼。
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大晦日に来た事無いので判りませんが、多分、除夜の鐘突きが行われるのでしょうね~。
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そこから見た御本堂。
この写真を撮った時は凄く朝早く参拝したので左手の寺務所は開いてませんがちゃんと御朱印や御守りを受領する事が出来ます。
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厄除け護摩炊きの時間などは弘明寺サンの公式ホームページをご覧頂ければ良いと思います。
護摩札も3000円~で授与して頂ける上に2つ迄祈願を祈祷して頂けますよ~。
ここ数年は毎年正月、檀家サンに混じって厄除けして貰ってます。それと厄除け開運は土地神様の神社でも御祈祷頂いてます。
尊敬する殿様が崇敬した御寺と、尊敬する殿様が開いた神社で開運厄除け受けたから昨年も生命に関わる怪我もせず無事に過せました。
御陰で昨年末も股間を大火傷した際もチ〇チ〇は無傷ですみました(笑)。
「愛人作って雇わせた」とかデマを一部のフザけた人の心も平気で無視して笑いの種にする人に拡散されて既成事実化しかけた誤解も無事に他の同僚達に解く事が出来て、寧(むし)ろ噂を流した年配男性や中年オッサンの方が酷いし君は絶対にそんな事はしないと既婚女性の同僚達からも擁護して貰えましたし。本当、弘明寺の仏様と土地神様の御陰。
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御本堂右手には説明の看板が有ります。
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この木造花瓶を修理したのが間宮信俊公で、修験道信者として真言宗寺院に関わる際は佐々木一族の通し名❝信❞の字の本来の名で署名していたと思われる❝間宮康俊❞公と同一人物でしょう。その証拠に間宮信俊公の戒名も❝宗覚❞で伝わっていますし、別人とするものも兄弟と伝わっているので本来の信俊の名と北条家臣としての康俊の名が別々に子孫に伝わり江戸時代に宗教的教養を失った子孫の間に混乱を生んだんでしょう。
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坂東第十四番霊場。御本堂はとても立派です。
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扁額も色んな種類が掲げられています。
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内陣遠景。
御本堂の左手にも別の御堂が在ります。
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この階段を登ると・・・
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大聖歓喜天の御堂が在ります。これが弘法大師空海和尚所縁の場所ですね。
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さて、御本堂の横の寺務所の対面にもう一つ建物が在ります。
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コチラには弘法大師様の木造が祀られています。
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厄除大師の扁額が有るので良く解ると思います。大正時代も有名だったみたいですね。
こちらには頼朝公が深く信仰の対象とした八臂弁財天様や・・・
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他にも閻魔大王とか・・・
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・・・奪衣婆とか色んな神仏の彫像が祀られています。
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あと御庭では御地蔵さんも参拝客を出迎えて下さいます。
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御地蔵さんて可愛いですよね~♪
さて、弘明寺、とっても歴史が有って庶民に馴染んで、その凄さに反して親しみ深い御寺でしょう?
そうそう、この御寺から駅に行く途中に美味しいタコ焼き屋サンが在ります。
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梅鉢流まみい

この御店、大阪の御店の系列店でして京都で生活していた事の有る小生が食べても安いのにとっても美味しいと思います♪
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たこ焼きだけじゃなくて今川焼も有ります。
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今川焼1個とタコ焼き6個のsetで確か380円だったかな?凄く美味しいので弘明寺参詣の際はおススメですよ~♪

さてさて、昔の人達が聖地として崇拝したのに庶民に距離の近い弘明寺、どうでしたか?
皆さんも毎年の厄除け開運や夫婦円満や色々、御祓いと心願成就の祈祷と、新年や4月の花見や周辺商店街の散歩のついでに厄除けの護摩炊きを受けて見て文化や散歩を同時に楽しんで見ては如何でしょうか?

弘明寺はとても歴史の古い御寺ですから当然関わった人も凄い人が多い訳ですが、きっと皆さんの御近所の何気ない御寺や神社や城跡の山や公園にも凄い歴史偉人と繋がりの有る場所も有る筈です。
皆さん、文化史跡や自然や城址の公園を散歩して気分転換してみませんか~?
きっと、そこで看板を読んで凄い人との繋がりを知れば、皆さんも自分の住む町に更に愛着が湧くはずですよ~♪

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪







 
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江島神社=江ノ島弁才天
(式外社・日本三大弁財天・天皇勅願所の洞窟と鎌倉武士の聖地)
児玉神社
(初代台湾総督児玉大将を祀る台湾の人々が開いた神社)
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  御祭神・御本尊等:八臂弁財天(はっぴべんざいてん)・多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)・市杵島比賣命(いちきしまひめのみこと)・田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)・児玉源太郎大将
  御利益:戦勝・敵人懲服・立身出世・財運向上・芸能向上・縁結び 
  関係者:
  開基:欽明天皇
  中興:修験者      役 小角
     弘法大師      空海  和尚
     修験者 神融禅師   泰澄
     慈覚大師    円仁    和尚
     比叡山五代院  安然 阿闍梨
     征夷大将軍   源    頼朝 公
     征夷大将軍   源 實朝 公
     皇家護持僧  道智  大僧正
     証誠大師   一遍      上人
     立正大師     日蓮      和尚
     鎌倉府公方    足利 成氏 公
     相模守      北条 氏康 公
     北条家臣 岩本間宮 定次 公 以下江島別当岩本坊間宮家歴代(現:岩本楼)
  旧郡名:鎌倉郡(戦国時代:中郡)
  所在地:江島神社・・・藤沢市江の島全部が本来の江島神社聖域
  所在地:稚児ヵ淵・・・歌舞伎白浪五人男の弁天小僧の舞台、洞窟は天皇家の祈願所聖地
  所在地:児玉神社・・・児玉源太郎大将を慕う台湾の人々が建てた神社
  所在地:岩本楼・・・元は江の島の聖地の洞窟と江島神社を管理した真言宗修験道岩本坊が前身
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
欽明天皇が西暦552年に江ノ島東側の岩屋(いわや=洞窟)に勅願所を開いたのが始まり。 
そこに源頼朝公が弁財天を勧進し戦勝祈願をするや連戦連勝で鎌倉幕府が成立したので、歴代執権や御家人達から信仰され鎌倉幕府から保護された。 参道に在(あ)る旅館岩本楼は創業400年近い老舗旅館(宿坊)で元々は明治時代まで江ノ島神社の別当職を務めた別当寺だった。その別当職を務めたのが 社長の家の御先祖、宇多源氏佐々木家諸流の間宮一族、岩本家だった。
頼朝公が戦勝祈願に岩屋に参篭された後に社殿と銅製鳥居が寄進され神社として整備された。江の島の岩屋で御神体とされたのは八臂弁財天で江島神社と岩本楼にそれぞれ御祀りされていた仏像が現存する。戦国時代には日本有数の大合戦で戦勝の御利益を発揮されてる。鎌倉公方足利成氏公と北関東の鎌倉公方軍が江ノ島に籠城し、反逆した関東管領山内上杉家と扇谷上杉家の連合軍の大軍勢と戦い、見事に足利成氏公に不利な戦を勝利させている。その後も❝日本三大奇襲戦❞の一つに挙げられる「河越合戦」では、ここで戦勝祈願をした北条氏康公はたった8千の手勢で敵勢8万余りの上杉家連合軍の大軍相手に勝利を治めている。
江戸時代には徳川幕府から保護を受けただけでなく富士山詣で、大山詣り、杉田梅林等と並び江戸市民の人気の観光地として栄え歌舞伎の演目の白浪五人男の❝辨天娘女男白浪❞のモデルにも成った。
明治時代には、この江の島に児玉源太郎陸軍大将が逗留され軍事作戦を練られて、ロシア帝国のアジア植民地化の野望を撃退し日本を守る戦功を挙げられた事も有名。後に児玉大将が台湾総督を務められた際の善政から、児玉大将を祀る児玉神社を台湾人の皆さんが江ノ島神社の境内に開基された逸話も残る。
現在は女性の縁結びの神様としても有名で江の島の展望台と併せて観光に来るデートスポットとしても栄えている。 他所の弁天様はカップルに嫉妬する伝承が多い中、この江ノ島ではカップルを見守る優しい神様としても崇拝されているが、東京の石神井公園の弁天様がカップルに嫉妬するのは、石神井公園が昔、石神井城と言う御城で戦争に巻き込まれ落城した歴史が有るから? 
弁天様について解説すれば本来、弁天様はインド神話のヒンドゥー教由来の神様でサラスヴァディーと呼ばれ、シヴァ神(伊舎那天/他化自在天/大黒天に習合された神様)の後妻であり多くの男神様から求婚されたモテモテの神様だったので女性にとっては心強い縁結びが期待出来るのは当然だろう。
明治時代には江ノ島に福沢諭吉先生、伊藤博文公、児玉源太郎大将や早川雪舟(日本人初のハリウッド俳優)も宿泊しており江ノ島の御利益を代弁する様な偉業を成し遂げている。
他にも俳画会を形成した文化人、間宮霞軒先生等を江ノ島から輩出している。
※北条氏康公と間宮家が活躍した河越夜戦解説の記事リンク
→杉田玄白と間宮林蔵の祖先、笹下城主間宮家の事績。

江の島に行ったら現代の名物のシラスとサザエと蛸せんべいも味わってみては如何でしょうか?昔からの名物の女夫饅頭(めおとまんじゅう)と江ノ島丼も美味。 
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川勾神社(延喜式内社・相模国二之宮)・・・古代天皇~明治元勲にも大切にされた古社
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  御祭神・御本尊等:大名貴命(おおなむじのみこと)・大物忌命(おおものいみのみこと)・級津彦命(しなつひこのみこと)・級津媛命(しなつひめのみこと)・衣通姫命(そとほりひめのみこと)  
  御利益:安産・地鎮・技術振興・自然災害除け・農業豊穣
  関係者:
  開基:垂仁天皇=活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと)
     磯長国国宰 阿屋葉造(あやはのみやつこ)・・・垂仁天皇の勅命で社殿造営。
  中興:日本武尊
     依通姫
     磯長国造   大鷲臣命(おおわしのおみ/おおとりのおみのみこと)=和珥(丸邇)氏=丸子氏
     相模国造   穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)=鈴木氏
     鎮守府将軍  源  義家 公
     征夷大将軍  源  頼朝 公
     征夷大将軍  宗尊   親王
     相模守    北条 氏政 公
     征夷大将軍  徳川 家康 公 以下歴代徳川家当主
     初代総理大臣 伊藤 博文 公
  旧郡名:淘綾郡
  所在地:中郡二宮町の内陸部の丘
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
佐賀牟(さがむ=武蔵国と相模国東部)国が分割されて、磯長(伊豆と相模西部)国も伊豆と相模西部に分割され、相模国東西が合併する際に、新設される国の国府=一之宮の座を佐賀牟国側の寒川神社と磯長国側の川勾神社が争ったと思われる神話が残る。これが神奈川県で行われる国府祭(こうのまち)と言う無形文化財の伝統神事に成っていて、一之宮寒川神社~五之宮平塚八幡宮までが神揃山に集まり論戦をする内容に成っている。
日本武尊を初め多くの古代からの支援者の名が伝わり、依通姫が安産祈願を川勾神社で行った伝承から、現在では広く安産の御利益で知られる神社と成っている。源頼朝公も妻君北条政子の出産の際に安産祈願を行い成就した事から社殿を造営寄進している。
上杉謙信と武田信玄の小田原侵攻時に放火され焼失、武田信玄との三増峠合戦が起きた1569年の翌年、北条氏政公によって社殿が再建された。徳川家康公も名護屋駐留前に祈祷を受けて、朝鮮出兵せずに済んでいる。明治時代には伊藤博文公等の参詣を賜わり直額に揮毫を頂いている。
宮司家は代々二宮家で、二宮一族は旧北条家臣団であり江戸時代の子孫に二宮尊徳もいる。同じく旧北条家臣で黄備え隊玉縄衆副将の間宮康俊を輩出した間宮家は合戦以外に外交・築城・修験道に通じた一族だが室町時代に間宮家から二宮家には養子が入っている事が間宮家関連の文献から辿れる。
歴史事実から厄除け、安産祈願の神社として特に強い御利益が期待出来る。
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