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タグ:間宮家

戸塚区品濃町は今では現代に成って地名を改竄された東戸塚の地名の方が有名ですが、実はそこに在る白幡神社を通じて室町時代初期~安土桃山時代~そして幕末の新選組に繋がるかも知れない歴史を辿る事が出来る由緒ある場所なんです。
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品濃白幡神社でも、今は品濃町と書かれる地名ですら江戸時代の人からみたら新しい当字だったんですよ!
江戸時代には永谷郷品濃村と書かれていましたが、これは元々は秋葉郷信濃村だったと新編相模風土記稿に解説が記載されています。
・・・横浜市民は移住者ばかりなので、昔の地名を知る人も少なくなってしまいましたので今回は品濃町の白幡神社と品濃の紹介を通じて少し東戸塚に関わった歴史偉人の紹介もしたいと思います。
その為(ため)に先ずは戸塚区を離れて神奈川区の歴史を少しだけ話す所から始めたいと思います・・・
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室町時代~戦国時代まで京急神奈川駅一帯に在(あ)った権現山城と言う海に突き出した半島に築かれた御城が在りました。この御城の築城者は何と室町幕府初代征夷大将軍と成った足利尊氏公でした。
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権現山城址(本覚寺~幸ヶ谷公園一帯)
この尊氏公が築いた御城は戦国時代にも再利用され、伊勢盛時 入道 宗瑞(そうずい)=北条早雲公の家臣で相模国十四騎筆頭に上げられた名将の間宮信冬公が籠城し扇谷上杉家の大軍相手に大活躍した舞台でも有ります。
実は品濃町の白幡神社、この足利尊氏公の実弟と、間宮信冬公の御子孫と関係が有ります。
更には足利尊氏公の宿老だった斯波高経(しば たかつね)公が発給した文書に品濃町の事が書かれていたりします。
現在、私達が郷里の歴史を簡単に知れるのは新編相模風土記稿と言う地誌を間宮士信(まみや ことのぶ)と言う人が東京大学の前身と成った昌平坂学問所の頭取と成って編纂して下さったからなのですが、この間宮士信サンは品濃や白幡神社の歴史紹介文も掲載して下さっています。
新編相模風土記稿 鎌倉郡巻之三十三 品濃村
このページに江戸時代よりも更にずっとずっと前からの事の記録や伝承を見聞きして編集してあります。
実はこの本を書いた間宮士信公が戦国時代に権現山城の戦いで活躍した間宮信冬公の御子孫に当たる人物で、そして間宮家は恐らく品濃の白幡神社を開いた新見彦左衛門サンとも戦国時代には同僚だったはずです。

さて、又、戸塚区品濃から少し離れて鎌倉市浄明寺地区の浄妙寺の御話をします。
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稲荷山 浄妙広利禅寺(略称:浄妙寺)
この鎌倉の浄妙寺は臨済宗鎌倉五山の第五位、つまり東日本の臨済宗寺院で第五位の格式を持っていた寺院なのですが、元々は足利義兼公が開いた御寺でした。
足利義兼と言う人物は足利尊氏公の御先祖様です。この浄妙寺は足利家がまだ鎌倉幕府の幕臣だった時代に足利家の別宅としての機能も持っていた大寺院でしたが、足利尊氏公が征夷大将軍に成り北朝の室町幕府が樹立すると、南朝の後醍醐天皇と対立し南北朝時代に突入します。その際に起きた軍事衝突の一つが観応憂乱(かんのうのゆうらん)と呼ばれた大規模で且(か)つ1349年~1352年にも及び長引いた戦乱でした。
この観応憂乱では足利尊氏公が北朝、尊氏公の実弟の足利直義(ただよし)公が南朝に付いた事で武士の親分である足利家兄弟間の大戦争に発展してしまいました。
初期の室町幕府では関東を治めていたのが足利直義公で、観応憂乱が起きると品濃の名が出る文書を残した斯波高経公は足利尊氏公と足利直義公の間で政治的にアッチに付いたりコッチに付いたりしていました。
結果的に観応憂乱は足利尊氏公の勝利に終わり、足利直義公は暗殺されます。そして足利家の菩提寺であり別荘でもあった浄妙寺の境内の裏山に菩提を弔う為に御廟所が築かれ現存しています。
実はその足利直義公が鎌倉の建長寺に御寺の領地=寺領(じりょう)として品濃を寄付した事が解かる文書の内容が新編相模風土記稿に紹介されています。
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巨福山 建長興国禅寺(略称:建長寺)
それによれば足利直義公が建武元年(1334年)に今も建長寺に存在する正続院と言う塔頭(たっちゅう=会社で言えば子会社みたいな感じ)の寺院に品濃村を寄付しています。
※建長寺に御参りした時に正続院も御参りに立ち寄ったのですが写真撮影してませんでした(笑)。
村を御寺に寄付するってのは現代人にはパッとしない感覚かも知れませんが、要は御寺の年貢=収穫される御米を税金として徴税する権利を建長寺の正続院にあげて御寺の収入源を確保してあげた訳ですね。この様な御寺の土地を❝寺領(じりょう)❞と呼びます。
それを受けて、足利直義公の腹臣だった斯波高経公は品濃村に乱暴狼藉(らんぼうろうぜき=略奪)をしてはいけないと言う禁制の掟書(おきてがき)を発行して村を守った事が記録に残っています。
この事から斯波高経公は内政でも活躍していた事が解かりますが、軍事面でも新田義貞公を倒した程の名将でした。
さて、現代の品濃町に風景を戻して、今度は安土桃山時代、天正十八年(1590年)つまり織田信長公が亡くなった天正十年(1582年)から8年後の話しに移ります・・・
当時の品濃は山坂がキツイ村で近くには東海道が通る要所でもありました。
現在では品濃は❝東戸塚オーロラシティ❞として開発されてしまい、AEONモール等の巨大商業施設の建設によって当時の風景は余り残っていません。
しかし、品濃白幡神社の鎮守の森、神社裏の白幡山公園に行くと当時の地形の様子が少しだけ残されています・・・
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白幡山公園
この公園は大きくはありませんが、昔の侭(まま)の地形が残っていて少し高台なので階段を上る必要が有ります。
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公園としては余り大きく有りません。
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でも昔から村を見渡せるビュースポットだったらしく、村民が建立した記念碑が今も残されています。
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夜景見るのに合わせて少し遅い時間に行ったので、碑文を読む事は出来ませんでした。
「夜景を見るのに合わせて」と書いた通り高台なので夜景を見る事も出来ます。
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今は手入れされていない林ですが、昔は神社の森として、村を見渡す場所としてちゃんと村民によって樹が伐採されて手入れされていたと思います。
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今でも手入れすれば、もっと綺麗な夜景を見られそうですね!
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階段横の花壇には綺麗なパンジーが咲いていました。
実はこの品濃を江戸時代に治めた新見さんが徳川家から領地として保証された1590年は、徳川家康公が関東に引っ越して来た年でした。この頃、家康公は現在の港南区の野庭や鎌倉市植木や藤沢市村岡、平塚市中原なんかに良く鷹狩に来られていた時期でしたが、この頃に新見家の御先祖様の新見彦左衛門さんは品濃町を知行されたそうです。その時の石高は250石と伝わります。
本牧奉行として今の横浜市長みたいな仕事を江戸時代にしていた間宮直元公は基本収入1000石で凡(およ)そ6000万円位の年収だったので、250石だとザっと1500万円位が新見サン家の年収だったみたいです。今の感覚で言うと村長さんみたいな役割ですので、その1500万円で村の開発や治水なんかも行わなくてはいけないので決して生活は楽では無かったと思いますよ。
さて、そんなに武士も生活は楽では無く村人に寄り添って村長さんみたいに働く訳ですから、その部下には町内会長みたいな庄屋さん達がいて一緒に村を運営し贅沢な食事も出来なかったと思います。
白幡山公園から坂を下り現在の白幡神社に向かう途中、昔の村人が拝んでいた石仏様が今も通行人を見守って下さっていました。
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御厨子を開いて御参りさせて頂きましたが既に日没で何の仏さまが祀られているか確認出来ませんでしたが、今も町の人に大切にされている様で御供え物がちゃんと有りました。
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更に神社に向かって歩くと昔は宮司様が住んでいたかも知れない氏子会館が在ります。
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昔は宮司様が住んでらっしゃったのかな?
実は横浜市南部の神社の多くは鎌倉時代から修験道の2系統の家系によって管理されていたんです。
1つ目は亀谷福禅寺権現堂(かめがやつ ふくぜんじ ごんげんどう)
2つ目は大靈山山崎泉蔵坊(だいれいさん やまざ きせんぞうぼう)
この二つは何(いず)れも修験道の大道場で、とても由緒有る神社であり寺院としての道場機能も有していました。新編武蔵風土記稿を読むと解かりますが、旧鎌倉郡と久良岐郡域の内、江戸時代に本牧奉行間宮家本家と、分家で江戸幕府鷹匠頭の杦田(すぎた)間宮家が支配した地域では、権現堂と泉蔵坊が神社を分けて統治していた記録が有ります。そして、この両社は源頼朝公が支援した修験道道場でしたので、その支配は間宮家の統治によるものと言うよりは鎌倉時代からの統治機構の名残りだったのかも知れません。
その泉蔵坊や富岡八幡宮や品濃白幡神社や永谷神明神社に影響力を持っていたのが間宮家と同じ旧北条家臣で北条家と同族の伊勢平氏の関家でした。
因みに家紋を比較すると色々と面白い宮司家の秘密が解かったりしますよ・・・

北条家:三鱗紋と対蝶文
三つ鱗紋対い蝶紋

関家 :揚羽蝶
揚羽蝶紋

揚羽蝶の家紋から両者が伊勢平氏で同族である事も判る様に成っている訳です。
では間宮家と福禅寺権現堂家の家紋も比較しましょう・・・
間宮家:隅立四目結紋
隅立て四ツ目結び紋
権現堂:丸に隅立四目結紋
丸に隅立て四ツ目紋

現代人には「家紋なんて好きに使えばよいじゃん?」って意味も理解していない教養も文化も無い人もいますけど、ちゃんと自分が何処の出身のどの家系か、いつの時代に分岐したり活躍したかを辿(たど)れる言うなればレポートの索引のページを表す記号みたいな役割が家紋には有るんですよ。
因みに〇で囲みの有る家紋は一般的に本家から独立する時に分家が与えられた家紋だったり、神社仏閣の寺紋や社紋なら支援した殿様に重視され大切にされた証として〇で囲んだ殿様の家の家紋の使用許可を頂く場合が多く有ります。
例えば・・・
三つ鱗紋
北条家の三鱗紋ですが、鎌倉時代の鎌倉幕府執権北条家や戦国時代の北条家や分家の玉縄北条家や神保家が支援した御寺や神社では下の家紋が使われます。
丸に三ツ鱗紋
丸に三鱗紋。
これを使う神社は鎌倉幕府執権の北条時頼公が支援した鎌倉の宇賀福神社(銭洗い弁才天)や、金沢北条実時公と戦国時代の北条家と江戸時代の間宮家が支援した南区の寶生寺、玉縄城主北条綱成公が支援した磯子区の龍珠院、金沢区の伝心寺等が有ります。
ね?家紋にも意味が有るんですよ、家系や神社仏閣の歴史を辿れる。
権現堂家と関家が横浜市南部の神社仏閣を守った歴史の解説は少し長くなりそうなので別記事にして解説します。
コレが追加解説記事リンク⤵
戦国時代~明治時代迄、横浜市の神社仏閣を守った旧北条家臣団。
権現堂松本(間宮)家と関家。

ちょと長くなりそうなので、商売繁盛の御利益が有る品濃白幡神社に話を戻します。
さて夜の神社もライトアップされていると幻想的で美しい物でして・・・
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・・・品濃の白幡神社もとても良い雰囲気です。
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掲示板に御正月に向けて巫女さんバイト募集の告知が有りました。
近隣の学生さん~主婦の方まで、28歳以下の方、御手伝いしてあげて下さい(笑)。
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今は開発されて住人も増えたので除夜祭は大変賑わうんでしょうね~!
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境内には由緒が説明されていますが、この説明で江戸時代迄と今では御祭神が変わった事が解かります。
先ず御祭神は源義経とされていますが、これは近代以降に祀られた神様です。
新編相模風土記稿にも書いて有りますが品濃白幡神社の御祭神は神社が開かれた時からずっと源頼朝公ですし、白幡明神とか白幡神社の神様は何処も源頼朝公です。
その証拠が源頼朝公の治めた鎌倉幕府の武士達の精神的な支柱とも言うべき鶴岡八幡宮の境内社である白幡神社です。
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鶴岡八幡宮 白幡神社
一般的に白幡神社と言うのは源頼朝公を神格化した神社で、鶴岡八幡宮から頂いた御分霊を祀る御社です。鎌倉の鶴岡八幡宮に在る白幡神社は紅葉の名所としても有名だったりします。
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ついでに言えば現在、品濃白幡神社では源義経公の名が御祭神として説明書きされていますが、源義経公は別に作戦立案、つまり軍事の天才ではありません。彼の実行した有名な鵯越の逆落としと言う奇襲作戦を立案したのは都筑区茅ヶ崎城主で摂津国多田荘出身の多田源氏の多田行綱(ゆきつな)公、その具体的な作戦を遂行プランを計画したのは三浦半島佐原城主だった三浦一族の佐原義連公で、この二人の名軍師の功績による物です。
源義経公は少数の部隊を率いて局地戦を実行する命令遂行能力の高い武将でした。
そもそも義経公には自分の軍団がいませんでした。ですから実際に兵の指揮をしたのは現在の神奈川県湯河原町一帯を治めた土肥實平(どい さねひら)公や秩父平氏の畠山重忠(はたけやま しげただ)公等の統率力に長けた名将達でした。つまり名将達に補佐されながら、困難な局地戦を遂行した能力に長けたレンジャー部隊の小隊長みたいなイメージをして頂ければ解り易いかと思います。
全軍を指揮する統率力では無く、難易度の高い局地戦の作戦を実行する能力に長けた武将。
ただ、性格的に承認欲求の強い人だった様で自分の率いた部隊の功績だから部隊の功績を自分の手柄として社長であり兄である頼朝公に報告したりしてます。
この義経公の行動は極めて政治的で、源頼朝公を総大将として仰ぐ鎌倉幕府の南関東の御家人達や、頼朝公を支持する次兄の源範頼公の後ろ盾である北関東の鎌倉武士団には看過出来る事ではありませんでした。何故かと言うと義経公を源氏の旗頭に据えて東日本の武士団をコントロールしたい奥州藤原氏の思惑と義経公の行動は極めてリンクしているからですね。後白河法皇に義経公こそ源氏の大将に相応しいと惹起させ源氏内の政治争いを誘発しかねない危険な認識が義経公には欠如していたか意図的に行ったとしか思えない訳です。
だから軍監(ぐんかん=査察官)の梶原景時公は源頼朝公に「弟さんの源義経さんが御自分の手柄として御報告された内容が全てではなく、頼朝公の部下の各武将達が立てた功績です」と事実を釘刺して報告されていたりします。

因(ちな)みに余り歴史に興味が無い人は御存知無いと思いますが、源義経公の奇襲部隊の作戦成功を生み出したのは、本隊の大軍を見事に統率して敵本隊を釘付けにし戦況全体をコントロールし完全制圧した陽動作戦や兵站の確保を務めあげた名大将の源範頼(のりより)公の功績による所が大きいのが歴史事実です。更に言えば鵯越の逆落としはやったは良いが奇襲をかけた先で少数過ぎて孤立し窮地に陥っており、範頼公の本隊の正面突破が少しでも遅れていたら義経公の率いた部隊は全滅する危機に瀕していたのが事実です。
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源範頼公に関しては先日、金沢区太寧寺の紹介記事でも書いので御興味が有る方は読んで見て下さい。
太寧寺の紹介記事リンク☞「ココ」クリック!

源義経公のイメージは平和になった時代に読み物として書かれた戯作(げさく)の中で演出されたイメージが大きく現代人に影響を与えていて、実像を現代社会に例えるならば差し詰め典型的な創業者一族の中の坊ちゃん上司、決断力に優れているけれど独力で得た地位では無いので例えば個人的な営業能力が高くても兄が居ないと地盤と職位が無いと言うのが実情でした。
しかも源義経公の後ろ盾には長兄の源頼朝公に非協力的な勢力の陸奥国の藤原氏がおり微妙な立場で、ややもすると兄弟間で争いに発展する危険性は当初から有った訳ですね。
だからこそ、兄の頼朝公や鎌倉武士団からは源義経が勝手に鎌倉幕府の許可なく独断行動で後白河法皇の家臣として検非違使(検察官・警視庁長官)の官職に任官した事を問題視され、後に敵対行動とみなされた訳ですし、彼は実際に後白河法皇に利用され鎌倉幕府御家人達を敵に回した訳です。
あと愛人を何十人も作っていた事も史実で知られているので、まぁ~女性視点から魅力的で非常にモテた様です。奥州への逃避行の際に愛人を沢山連れていた事が歴史事実として知られています。
だから歴史小説やドラマと違って静御前に一途だった訳ではありませんが、品濃白幡神社の御祭神なので男性からみたらモテ力向上とか縁結びの御利益を与えて下さる御祭神とも言えるかも知れません。
源頼朝公
まぁ、一般的に元々の品濃白幡神社の御祭神として先に祀られていた兄君の源頼朝公の方が愛人が沢山いるイメージ有りますが、それも歴史事実を調べなかったり面白く脚色する小説家のせいです・・・
歴史的には正妻の北条政子様以外は実は余り多くの女性と恋愛をした訳では無くて、北条政子様以前の本妻の伊東家の八重姫が1人、その後に側室の姫の1人が亀の前、もう一人、恋愛は合計4回しかしてないんですよ。当時の感覚としては異常に少ない恋愛経験だと思います。頼朝公については寧ろ奥さんを大切にした人ってのが実像で、強烈なイメージがついたのは奥さんの北条政子様のせいですね。
頼朝公が北条政子様の妊娠中ちゃんと当時の常識に則(のっと)って愛人とHしたら、当時の常識が通じない熱烈に旦那様の頼朝公が大好きだった奥さんの政子さんが独占欲強すぎて怒り狂い、政子サンが配下の武士団に頼朝公の愛人宅を攻めさせて打(ぶ)っ壊して燃やしてしまった事が吾妻鏡(あづまかがみ)と言う鎌倉幕府公認の歴史書に描かれているせいで‟頼朝公=不倫”のイメージが現代の感覚で誤認されてしまったからなんですね。
・・・現代人の感覚でも頼朝公は一般的現代人の生涯恋愛経験数よりも少ない位じゃないかな?
源頼朝公の場合は責任感も強く口説いた女性は大切にしましたし、当時としては珍しく奥さんと夫婦で神奈川県の神社や御寺を一緒に旅行して廻ってますし、とっても良い旦那様だったのが実像です。
仕事も出来ますしね。管理職としても部下を常に立てる素晴らしい人でした。経営に私情を挟まず、組織と部下の事を考える人だったので部下同士が対立した時も双方の言い分を公平に聞いてらっしゃったりします。猛将から浄土宗の僧侶に成った熊谷直実公の逸話や、頼朝公の最初の奥さんの八重姫の父親の伊東祐親公に対する助命処分等は相手の立場を良くお考えに成られてとても公平さが伝わるエピソードだったりします。
伊東祐親公は娘の八重姫と恋仲に成った頼朝公を蔑んで対立した事や、八重姫と頼朝公の間に生まれた子供を殺害させた己の判断ミスを源頼朝公と戦い負けた後に恥じて、頼朝公によって助命されますが結局は自分で自害してしまいました。
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旗立山(鐙摺城出丸)&伊東祐親公供養塔
その八重姫とは別のもう一人の祐親公の姫の嫁いだ三浦義澄公によって伊東祐親公の所領だった伊豆半島伊東市が見渡せる場所、今の葉山マリーナの裏の旗立山(鐙摺城の出丸)に供養塔が築かれ現存しています。
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小生の個人的な意見では有りますが、どう言った経緯で神社が開かれて以来数百年間主祭神だった源頼朝公よりも、近代に御祭神に加えられた源義経公が主祭神として祀られクローズアップされたか経緯は不明ですが、まぁ、名前は社頭掲示に掲載されていなくても元からの御祭神の源頼朝公は出世頭であり誠実さと実務力と法治意識富み経営手腕に優れた歴史偉人でしたし、今の御祭神としてクローズアップされている源義経公も女性にモテて決断力に優れ困難な作戦の遂行能力の高かった歴史偉人ですから、当然ながら御二人の御兄弟を御祭神として奉戴(ほうたい)する品濃白幡神社なので、それはそれは商売繁盛、縁結びの御利益が強い事が神格化された御二人の実績からも解かりますね!

神社の施設解説に話しを戻します。
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本殿の有る台地に登る参道階段の左手には小さな御社が有ります。
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戦没者慰霊碑も有ります。
鳥居の右手手前には氏子サン達の奉賛金の掲示。
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そして階段の両脇には立派な石灯籠が有ります。
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白幡神社なので頼朝公の家紋の笹竜胆が社紋に成っています。
階段を上ると本殿と東戸塚オーロラシティーの高僧ビル群が同居する不思議な夜景を見る事が出来ます。
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先に御祭神だった実務力や政治力が高く誠実な頼朝公と義経公が当初は力を合わせて成功した歴史を再現する様に、現代の品濃白幡神社に源義経公が御祭神に加えられてから周辺の東戸塚は頼朝公の政治手腕と義経の縁結びの御利益で人と経済が結び付き、猛烈な勢いで発展を続け今では高層ビルの商業施設と住宅施設が建ち並びます。

社殿の右手には何の神様かは夜で判読できませんでしたが境内社が有り、恐らく明治以前まで村内に分散して大切にされていた神様が一箇所に祀られています。
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そして本殿の左手にも小さな神社が二つ有りました。
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又、昼に改めて参拝したいと思います。
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さて、この神社を建てた新見彦左衛門は最初の名を勘三郎と名乗り天正二年から東照宮(徳川家康公)に仕えたとされていますが、これは恐らく間違いでしょう。
彦左衛門と言うのは今の横浜を治めた間宮家由来官職です。そして更に間宮家の戦国時代の上司で関東最強の武将だった北条綱成公の官途が❝左衛門大夫(さえもんだいふ)❞です。更に幕末の水戸藩出身者にも新見錦(にいみにしき)と言う新選組の初期の幹部だった人物がいますが、実は水戸藩の家老の中山家や間宮林蔵を始めとして旧北条家臣団が多く水戸藩には家臣や庄屋として取り込まれています。
更に幕末に日米修好通商条約を纏めた新見正興と言う人物は本性三浦で官途は豊前守です。この豊前守も又、本牧奉行を務めた間宮家所縁の官職です。新見一族の官職はどれもこれも神奈川県東部の旧北条家臣団の官職です。
更に言えば新見家は備中国出身の家柄と伝わる事から、戦国大名北条家の本姓の伊勢氏と同じ出身地の家柄と言う事も判ります。
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※写真は小田原城の模擬天主閣。戦国時代北条家の本拠地だった城。
つまり、話を整理すると良く解らない新見彦左衛門さんの家のルーツが旧北条家臣と言う事が何となく見えて来ます。
勘三郎サンと彦左衛門さんは同一人物とされている様ですが、多分、世代が違う親子か旧北条家臣と考えた方が現実的でしょう。
仮に徳川直参説を考えるなら彦左衛門と名乗る迄は恐らく元は北条家臣で(元亀三年)1572年に北条家に身を寄せていた今川氏真公が北条家と武田家の同名成立で駿河復帰の大義名分が無くたった際に、今川氏真公の奥方で北条氏康公の姫の早川殿(蔵春院)の世話役として今川氏真公と共に徳川家に仕える事に成った可能性が有るかも知れません。そして今川氏真公が武士を辞めた時期に徳川家臣化し関東に再入国すると、本牧奉行、生野銀山奉行、佐渡金山奉行を務めていた間宮直元公と近隣の誼(よしみ)で交流が生まれたか或いは家康公の命令で若い直元公の与力武将として間宮家の本拠地笹下城址本牧代官所から近い品濃を知行されたのかも知れません。そうすれば、それまで名前が勘三郎だったのに間宮家の官職の左衛門や豊前守を上司である間宮家から新見一族が譲られたであろう事も容易に推測が成り立つ訳です。
ペリー神奈川上陸
もう一つ、元北条家臣と言う説を成り立たせるのがペリーを接待した新見正興の出自です。
彼は三浦一族と伝わります。その家から大阪奉行の新見家へ養子に入ったとされます。
一般的に武士の家系は養子縁組する際に一族や同族間で養子をとりますし、近親者から養子をとれない場合は祖先に一族から姫が嫁いだ外戚血縁が有る家系から養子縁組します。
つまり三浦一族と新見家は同族と考えるのが自然でしょう。戦国時代には正木家や横須賀家や平子家や宮川家等の三浦一族は北条家に家臣化していました。
更に戸塚区品濃の隣接地、港南区永谷や戸塚区品濃の旧鎌倉郡永谷郷一帯は戦国時代の宅間上杉家の領地で、宅間上杉家は安土桃山時代、北条家の滅亡直前には三浦半島を統治する三崎城主の北条氏規(うじのり)公の付家老として宅間上杉規富(のりとみ)公が三崎衆に組み込まれています。
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※写真は鮪で有名な三崎漁港の北条湾から見た三崎城址の丘。北条湾の名は戦国時代に北条家の水軍基地だった事に由来する。
つまり、新見家のルーツが備中国に室町時代初期に移住した三浦家の子孫ならば、当然ながら三浦氏族新見家も伊勢姓時代からの北条家に武士として仕え関東に入り安土桃山時代には祖先の故地三浦半島の三崎衆に組み込まれ三崎城主北条氏規の付家老の宅間上杉家の与力として配置された可能性が出てきます。
すると江戸時代に入ってから宅間上杉家の旧領の永谷郷の中の一部だった品濃村に所領を得ている状況も情況と推測の整合性が出て来る訳ですね。そして宅間上杉規富公の姫は間宮家の間宮綱信(つなのぶ)公に嫁いでおり新見家と顔見知りだった可能性も高く成ります。
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※写真は八王子城の石垣
間宮綱信公は北条家の外交官として織田信長公への使者を勤めたり築城家として日本100名城の一つにも成っている八王子城を設計したと伝わる軍師で、八王子城主の北条氏照公の付家老でした。
そして、この間宮綱信公の直系御子孫が新編相模風土記稿や日本の地史を編纂した間宮士信サンです。
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因みに、新見正興公等のペリー提督との会談に差し当たり、接待の一切を取り仕切ったのが今の元町中華街駅近くに住んでいた庄屋の石川家でしたが・・・
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この石川家も又、旧北条家臣団の平子家の分家一族です。
平子家も新見家とルーツを同じくして三浦一族で一番有名な武将は鎌倉時代の曽我兄弟による源頼朝公暗殺計画の曽我兄弟の敵討ち事件で、曽我兄弟と抜刀して対峙し切り合いの末に逮捕して頼朝公の命を救った平子有長公です。
この平子有長公の建てた神社が岡村天満宮です。
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岡村天満宮については以前、解説記事を書いているので、それを参考にして下さい。
記事リンク→☞「ここ」クリック!
新見家に限らず、幕末に活躍した武士や文化人、面白い事に大半が旧北条家臣団の末裔だったり北条旧臣と同族ばっかりなんですよ…

伊能忠敬
伊能氏は旧千葉家臣で房総半島矢作城主の末裔。千葉家は北条家臣、桓武天皇の末裔。

高橋至時(天文学者)、高橋景保(天文学者)
北条一族、本姓高橋家の北条綱高公の子孫が北条家滅亡時に東京都三鷹市に移住して庶民と成り牟礼を開墾し旧姓高橋に復した古代九州豪族の一族。

間宮林蔵(地理学者)
間宮家は北条家五色備えの内、黄備隊玉縄衆の家老で築城・水運・外交・鷹匠に秀でる宇多源氏一族。

伊東甲子太郎(新選組)
伊東家は旧北条家臣で伊豆半島伊東出身の藤原一族。

近藤勇(新選組、剣術家:近藤家&豪農:宮川家)、近藤重蔵(探検家、徳川幕臣)
養子に入った近藤家は滝山(八王子)衆北条氏照公付家老の末裔。近藤家の祖先は遠州出身。
本姓の宮川家も三浦半島出身の北条家旧臣。宮川左近将監は1560年頃に葉山を領有している。その後に八王子衆に組み込まれ旧多摩郡に移動した事が推測出来る。武蔵阿蘇神社宮司家も代々が宮川家。

勝海舟(西洋兵学者)
勝家は房総半島真里谷城主武田家の分家。真里谷武田家は後に北条家臣化し横浜市金沢区釜利谷に移住している。勝とは別に本家の真里谷武田子孫は愛甲郡に住み間宮姓に改称し後断絶。真里谷武田家の子孫の一部は武田信玄の後裔を仮冒し間宮家所領の港南区松本城址に今も住する。桓武天皇の末裔。

松田伝十郎(探検家、徳川幕臣)
松田家は北条家宿老で平安時代の相模国の武士、波多野家の一族。現在の南足柄市辺りが領地だったが一族は北条家滅亡後に分散する。

平山行蔵(剣術家)、平山五郎(新選組)
平山家は平安時代末期の武蔵七党の一つで現在の東京都八王子市の平山城址を本拠地とした一族。戦国時代には北条家臣化して東京都桧原村や埼玉県坂戸市、毛呂山町を領有した平山長寿や平山善九郎の他に、三浦半島逗子市九木辺りを領有した平山源太郎がいる。武蔵七党、日奉家の末裔。

中山忠能(水戸藩家老)
中山家は北条家旧臣で八王子城主北条氏照公の付家老から徳川家臣化し、水戸藩付家老と成った一族。北条家解体後、江戸時代初期に中山家を頼って多くの北条家旧臣が常陸国に移住している。宣化天皇の子孫の古代豪族で武蔵七党の子孫。

芹沢鴨(剣術家/思想家)
芹沢家は常陸国の小大名の大堟(だいじょう)家の末裔で平安時代の桓武平氏の平国香の子孫。
小田原北条氏に味方して豊臣秀吉の小田原征伐に参陣せずに大名として滅亡した家。

歌川広重(画家、本姓:安藤)
画壇の長である歌川は本姓:宇田川に通じ宇田川一族は東京都世田谷区界隈に居た土豪で戦国時代に北条家の従属同盟大名家から北条家臣化した蒔田吉良家の遺臣末裔。現在も世田谷区には宇田川姓の旧家が多い。又、安藤姓は旧北条家臣で名奉行だった安藤良整公が一族にいる。宇多天皇の末裔で宇多源氏。

二宮尊徳(農政家、思想家)
二宮家は旧北条家臣で北条家没落後に帰農した一族。小机衆に属した一族の他に、延喜式内社相模国二之宮川勾神社の歴代宮司家は二宮家が務める。二宮家には戦国時代に間宮家から養子が入っている。

まぁ、この幕末の人物達の姓と旧北条家臣団の繋がりは偶然かも知れませんが、彼等が立身出世する際に北条家ネットワークみたいな物が数百年間受け継がれてコネクションを活用していたとすれば、彼等の縁故も説明が行く訳です。
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これを踏まえると、新選組の新見錦、幕末のペリー来航で活躍した新見正興、この人達と品濃白幡神社を開いた新見彦左衛門サン、御先祖同士が血縁者だったかも知れないとか考えるとワクワクして面白いでしょう?
しかも歴史事実でも室町幕府の関東監督を務めた足利直義公や、新田義貞公よりも強かった斯波高経公が品濃町には関わっていた事も神社の歴史を調べると辿れたりする訳です。

さて、きっと皆さんの御近所にも凄い歴史偉人が関与した場所や神社仏閣が有ります。ですから少し御散歩して見て、町の中の城跡の公園や神社や御寺の看板を読んで見ませんか?
凄い歴史偉人との繋がりが解かると、きっと地元に対する愛着が更に強く成るかも知れませんから・・・

では、又次の歴史探訪記事で御会いしましょう♪

※来週、小生は某資格取得の為に多忙を極めてもしかしたら手抜きの料理記事に成るかも知れませんが御容赦を(笑)!
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杉田商店街のメインストリートが昭和初期まで重要な街道だった事を皆さんは御存知でしょうか?
そんな重要な街道を繋ぐ杉田商店街のメインストリートの脇道、少し住宅街に入った場所に杉田商店街が開かれる以前の古道が今も残っているのを横浜市民のどれだけの人が御存知でしょうか?
少し脇道に入ると今も頼朝公が歩いた聖地巡礼の古道です。
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杉田商店街、実は歴史的に重要な場所に立地しているんです。
源頼朝公が深く信仰した重要な修験道系の神社、現在の伊勢原市大山国定公園の大山阿夫利神社と大山寺の聖地の大山山頂を繋ぐ古道て、頼朝公が平安時代末期に杉田に開かせた由緒有る神社の参道の旧街道の交差点が今でも100均ローソンから徒歩3分の杉田の中原地区に今も存在しています。
その神社は明治に成る迄(まで)修験道系の聖地として大切にされ大靈山泉蔵院桐谷寺と呼ばれていました。明治時代の神仏分離令で只の熊野神社と名前を変えてしまいましたが、実は江戸時代に成る迄は❝泉蔵院❞の院号や❝山崎泉蔵坊❞の御坊としての名で多くの古文書に記録されています。
そして遠く杉田商店街から離れた同じ修験道系の聖地であり神道でも仏教でも大切にされて来た縄文時代からの神聖な場所、伊勢原市大山国定公園の全域が聖地の大山阿夫利神社と大山寺と言う神社仏閣が存在しますが・・・
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実は神奈川県内の修験道の聖地として大切な大山阿夫利神社と大山寺の在る大山と杉田商店街は一本の道で繋がっているんです。
歴史を知らない人が他所から来て市役所の役人に成る事の多い横浜市は、杉田商店街の発展には無頓着だし❝杉田梅❞と言う日本で最高のブランド梅の梅林が広がった杉田梅林の伐採許可を出して旧来の文化と歴史の名残は今では余り感じられませんが、実は杉田商店街を歩くとそんな歴史を少しだけ今でも垣間(かいま)見る事が出来るんです。
・・・実はね、杉田商店街のメインストリートは以前、杉田間宮陣屋の解説記事でも説明しましたが聖天掘(せいてんぼり)と言う川に蓋(ふた)をした暗渠(あんきょ)の上に敷かれた道なんです。この大工事の末に整備され今では横浜市がおざなりにしている道が源頼朝公が大切にされた横浜の修験道の聖地の泉蔵院~伊勢原市の大山阿夫利神社を繋ぐ近代の新道で名を❝横浜・伊勢原線❞と言う地方主要道路だったんです。
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大山阿夫利社(延喜式内社)大山阿夫利神社に関しては以前紹介記事を書いているので御興味有る方は御覧下さい。
これクリックで記事読めます⤵
大山阿夫利神社と灯籠祭りの夜景と参道温泉街…伊勢原市。
この横浜伊勢原線と呼ばれ、磯子区部分を杉田街道と呼ばれた道の起点が杉田商店街の国道16号線側からの入口です。
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ここが起点と成り、伊勢原市の大山阿夫利神社へと続く最後の宿場町の高部屋神社前、伊勢原市上北ノ根まで続いていますが、この事を横浜市役所の人間でも知る人は少ないでしょう。
横浜伊勢原線終点 伊勢原市上北ノ根 久良岐のよし
大山詣りをする人は古代から多く、大山山頂からは縄文時代からの神事の遺跡が出土し、神社の中でも延喜式内社と呼ばれる最古級の格を確認出来る大山阿夫利神社と別当寺だった大山寺が在り、奈良時代にも行基大僧正が上粕谷神社等の修験道系の❝大山道❞の中継地点と成る場所に宗教施設を設置し、一帯には国府レベルの史跡と祭祀遺跡と古墳がゴロゴロ出土しています。
そして最盛期は室町時代~明治時代の600年間位の期間で、正に地方主要道路❝横浜・伊勢原線❞は重要な宗教的な聖地を結ぶ観光や商業の道路として開かれた事が解かります。
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杉田商店街から久良岐(くらき)郡の名残を地名に残す❝栗木❞方面に歩いて行くと、明治時代の大工事の名残に出会う事が出来ます。
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よく観光地にある雷神堂と言う御煎餅屋さんを通り抜け、インドカレーの御店や飲屋さんや郵便局より更に先に行きます・・・
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すると上の写真の通り浜中学校の下の道が大きな切通地形に成っているんです。
実はここは明治時代に造られた❝隧道(すいどう=トンネル)❞が存在した名残で❝杉田街道❞と昔は呼ばれ知らない人がいなかった道の一部なんです。
ここは明治時代初期までは道は無く崖地で、当時の重要な道はこの道より北側の山の上を超える❝桐ヶ谷(きりがやつ)道❞と浜中学校側の山を登る道しか有りませでした。近代に成ると物流や人の移動に❝馬車❞が運用される様に成ります。そして明治天皇の全国行幸(みゆき)が開始される準備として多くの明治の新道が建設されました。国道16号線根岸~磯子~金沢地区の埋め立てが完了し泥亀のバイパスが整備され完成するのは昭和40年代初頭の話しですからね。
❝トンネル❞だったのですが関東大震災の際に崩落してしまったので、山を改めて削り取り❝切通し❞に生まれ変わりました。この歴史からも判りますが、現在も崩落危険個所指定を受けている崖地が杉田~笹下~屛風ヶ浦~磯子には多く有り、それは地盤が砂岩と泥岩の脆い地層で出来ているからなんです。
逆に言うと戦国時代には御城を造るには加工し易い地形で丘の平坦部分は地盤も強固で地震に強いし標高も高いので津波の心配も無い訳ですね。
そんな丘だらけの地形の不便さを解消するべく作られた杉田街道のトンネルは明治天皇の為に造られた物ではないでしょうが、当時の久良岐郡の役所は現在では区が解かれてしまった港南区笹下の❝関❞と言う場所に郡役所が存在し、皇族の方々は杉田梅林を見学する為に笹下の石川楼と言う料亭に宿泊され杉田梅林迄来られたので、トンネルは皇族の為に造られたのかも知れません。
戦国時代~江戸時代中期迄杉田郷を治めた間宮林蔵の祖先の間宮家とその一族が杉田梅林を植林したのですが、分家の杉田間宮家の菩提寺である杉田の牛頭山妙法寺には明治に皇族の方々が梅林へ度々観梅にいらっしゃっていた記念碑が今も有ります。
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さて、そんな杉田街道の起点も昔は川で、江戸時代までは源頼朝公が歩いた住宅街の中の❝古道❞と成っている❝桐ヶ谷道❞が残っていますが、少し判り難い位置に在ります。
では古地図を見て見ましょう・・・
明治時代初期のlumiereM周辺地図 迅速測図 久良岐のよし
印を付けた場所が旧街道の入口の交差点です。
これは迅速測図と言う明治新政府が全国の地形測量をさせた地図ですが、この地図が制作された頃はまで江戸時代の地形のままの場所が多く、修験道の神仏混交の道場だけが❝神社化された名前❞で表記されています。
御覧の通り、杉田商店街はまだ❝聖天掘=聖天川❞で一本南にズレた道がメインストリートだった事が判ります。丁度、セブンイレブン杉田3丁目店の前の道ですね。そして黄色い★印が聖天堀を暗渠にして繋げた杉田街道と修験道の聖地だった泉蔵院=熊野神社の古来の参道と繋がる桐ヶ谷道の交差点でした。
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今も昔の道路の名前が解かる道路標識が立っています。でもここの行き方解り難いですよね?
もう一度古地図を見て見ましょう。
明治時代初期のlumiereM周辺地図 迅速測図 久良岐のよし
印の在る杉田街道と泉蔵院時代の参道と桐ヶ谷道の交差点に成る所に今現在は小さな商店の長屋が存在していて、御店の有る場所が平安時代~戦国時代~明治時代~現代を繋ぐ時代の交差点でもあるんですね。
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水色のマーク「指定した地点」と表示されている場所が2ヶ所有りますが、左上は映画の「恋は雨上りのように」のロケ地で、右下が迅速測図の印の交差点に当たる場所です。
この交差点は、新杉田側から杉田商店街に入り~浜中学校~栗木方面に向い歩き、100均ローソン横の脇道の次の住宅街に入る道路との丁字路です。
その余り大きくはない住宅街の道路を真っ直ぐ進みます。
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すると上の写真の中途半端な「石碑かな?」と思う何も書いていない変な石が角に在る交差点に行き当たります。杉田商店街側から入って来ると石碑?の左手に曲がる少し上り坂に入っていく交差点ですね。
その上り坂が昔の杉田街道の前身と成った桐ヶ谷道の続きで、ここから山を越えて笹下釜利谷道路=金澤道(かねさわみち)=六浦道(むつらみち)へと続いて鎌倉に行く主要街道と、笹下釜利谷道路を田中方面~笹下~関の下~吉原~舞岡~戸塚と抜ける旧鎌倉街道に連結するとても大切な道の❝追分(おいわけ)❞がこの変な石の場所だったんですね。
この道は杉田街道が整備されて重要性が無くなるまでは笹下釜利谷街道へ行く為に徒歩で通行する人が多かった事でしょう。ここを桐ヶ谷道を西に進まず、更に商店街側から直進して北に行くと源頼朝公が開いた聖地の熊野神社、旧名:大靈山泉蔵院桐谷寺が存在します。
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熊野神社(旧名:大靈山泉蔵院桐谷寺)元々は鎌倉市大船駅前の丘の山崎地区に存在した修験道大道場の御坊様が源頼朝公の命令で久良岐郡杉田郷中原村に、この杉田中原地区の熊野神社を開きました。後に新田義貞の鎌倉焼討ち等の戦火で山崎の泉蔵坊が荒廃したので本社機能を現在の中原の熊野神社に移転し、靈山泉蔵院桐谷寺と名を改めました。その後も各時代の統治者に大切にされ、江戸時代に代々徳川幕府の鷹匠頭を務め杉田を治めた杉田間宮家の殿様や本家で久良岐郡北部や佐渡金山や生野銀山を治めた笹下間宮家の殿様から大切にされていたいので古文書にも度々登場します。
間宮敦信公泉蔵院宛て書状。久良岐のよし
熊野先達泉勝檀那注文(米良文書)神3下ー六七一八
これは古文書を小生が書き起こした画像ですが、まぁ、こんなものが沢山残っています。
この文書からも判りますが、間宮家が大切にしただけでなく、熊野神社の大親分である那智大社やなんかの熊野三山と呼ばれた修験道の聖地の神社ととっても関係の深い格式の有る神社だったんですね。
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そして泉蔵院の熊野社は少し高い場所に在るので江戸時代に杉田梅林を見物する観光地としても有名だったそうで、現在でも社殿の東側の崖地からは杉田の街並みが一望出来ます。
泉蔵院についても以前、紹介記事を書いているので御興味の有る方は御覧下さい。
これクリックで記事読めます⤵
横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。

写真で正面に見える丘が妙法寺の境内地の裏山で、恐らく戦国時代には杉田間宮家が籠城する要害だったはずです。
まぁ、古文書にも登場し源頼朝公や間宮家が大切に守った修験道の聖地の一つ❝泉蔵院の旧参道❞と❝桐ヶ谷道❞そして日本レベルで大切な❝大山阿夫利神社❞を繋ぐその明治の❝杉田街道❞との❝聖なる交差点(笑)❞に立地するのが杉田商店街な訳です。
さて、小生、このブログ書く為に改めて浜中学校下の切通の写真撮りに行ったり、丁度腕が神経痛みたいに成ってたので久しぶりに町の銭湯にユックリつかりたくて熊野神社への参拝と浜中学校下の切通し写真撮影に合わせて杉田商店街の裏にある杉田湯に入りに来た訳です。
車なら円海山の麓の自宅から10分ちょい位なのでそう遠くないですしね~。
そして、この日は弟方の姪っ子がウチに来る日だったので御土産に杉田商店街の雷神堂で御煎餅を買って帰りました。
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雷神堂 杉田店
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小生の妹や弟妻君の義妹はどうも食べさせるものに煩(うるさ)くて、スナック菓子とか食べさせると良い顔しない。だけど御煎餅とかなら嫌な顔しないので、杉田の御土産にはいつも菓子一の❝うめさやか❞か雷神堂の御煎餅を買っている。
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菓子一
菓子一に行けば杉田間宮家の間宮信繁公が残して下さった梅林文化を今でも垣間見る事が出来るからね。
浜中学下の切通しの写真撮影をしたこの日、実は杉田商店街でずっと行きたくて訪問時間がいつも合わずに入りに行けなかった念願の杉田湯にやっと入れました!
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その場所は杉田商店街~泉蔵院熊野神社に行く旧参道を途中を少し曲がった場所に在る。
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杉田湯昭和30年代創業の昔ながらの銭湯、杉田湯さん。ずっとずっと、東漸寺さんや妙法寺さんや泉蔵院の御参りや雷神堂や菓子一に買物に来る度に地図で見て「行きたいな~」と思いながら、営業時間が午後15:30~21:00となかなか時間が合わずに入りに来る事が出来なかったんだな。
今回、杉田湯に初入浴!
入口はこんな感じ。
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う~ん良いね良いね~♪
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居酒屋の下駄箱みたいな下駄箱。昔は良く見たよね。
小生の実家の近くにも昔は銭湯が有ったのだけれど、今では全滅してしまった。スーパー銭湯も好きだけれど、昭和の風呂屋の情緒はやはり銭湯に行かないと味わえないよね。
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そして玄関入っていきなり女湯男湯に分かれる・・・
左を覗いてみたいとは思わないよ、うん、決して思わない。
覗くくらいならちゃんと彼女つくって存分に一緒に混浴して貰うから。見るだけで触れないで捕まるとか阿呆な痴漢の行動原理が理解不能。
・・・そして❝男湯❞の扉を開いて中に入って先ず最初にした事はトイレにいって💩うんちした(笑)。
この日はずっと港南台のホームセンターと杉田を小用で往復していてトイレ行ってなかった(笑)。
風呂場の写真も撮りたいけれど、流石に無理なので皆さんには御覧頂く事は出来ません(笑)。
一応、御風呂の情報としては昔ながらの銭湯なので❝石鹸❞とかアメニティーは一切合切持参するか、番台のオバちゃんから購入する必要が有ります。小生はハンドタオルとバスタオル持参してましたが石鹸とシャンプーが無いとは思わず準備不足でした。入浴料金は480円で木曜日定休だったかな?
浴場は昔ながらの木造の高い屋根に壁には富士山の絵、そしてスーパー銭湯と異なり地元の御客サンばかりなので騒がしくなくとてもノンビリとくつろげました。
番台のオバちゃんと話して杉田湯の歴史とか色々教えて貰って「又来るね~!」と小生が言うと、少し笑顔で「又宜しくね!」と言ってくれました。
妙法寺にもしょっちゅう殿様の御墓に御参りに来てるし泉蔵院にも御参りに来るし、雷神堂とか菓子一にも買物来るから必ず入りに行こうと思う。
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湯上りの至福の時、苺オレ。瓶のはもう無いんだね~。小生はフルーツ牛乳より苺オレ派。
そして帰宅して・・・
忘れてたんだけど、この日の夜に語学教室行かないと行けなくて、風呂でくつろぎ過ぎて横浜の学校についた時には30分遅刻してしまった。
杉田湯の番台のオバちゃん、又、御風呂入りに行ったら話し相手に成ってね~♪

さて、皆さん、まさか商店街が歴史の交差点だったなんて思わなかったでしょう?
きっと皆さんの家の近くにも思いがけず歴史偉人と繋がりのあるタイムマシーンみたいな神社や御寺や御城の跡の公園があるはずです。
・・・だから少しお出掛けして散歩してみませんか?

では!又、次の解説記事で御会いしましょう♪














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横浜市旭区には横浜市内の住宅街の中に在りながら、とても立派な規模を維持している鶴峯山 即相院 三佛寺と言う御寺が存在します。丁度、保土ヶ谷バイパスの本村インターチェンジの在る所ですね。

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鶴峯山 即相院 三佛寺
山門にもとっても立派な大樹有り参拝者を出迎えてくれます。
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浄土宗の寺院ながら、三つ葉葵の徳川家家紋を寺紋に用いない御寺でして、それは徳川家よりも室町時代に家格の高かった❝名家❞の殿様によって開かれた御寺からなのかも知れません。
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浄土宗は一般的に阿弥陀如来信仰を大切にする宗派ですが、ここは観音様の霊場としても❝殿様❞が関与する前から有名でした。
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住宅街の御寺とは思えない、とても立派な石段の参道が御堂の在る削平地まで続きます。
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そして御寺の入口に聳(そび)える大樹は横浜市の名木指定を受けた銀杏の木なんですね。
階段を登りきると内門が存在した場所に代りの石柱が有ります。
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その横には御地蔵様達が参拝者を出迎える様に並んでいらっしゃいます。
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もう、この時点で御寺が好きな人はお気付きかと思いますが、観音信仰音霊場であり入口に御地蔵様達が並ぶ寺院の特徴は、多くの場合は改宗前の前身寺院が❝真言宗❞だった場所が多く有ります。
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実は三佛寺の由緒に関しては小生、この御寺を開いた❝殿様❞の事以外には予備知識無いままの初訪問でしたが、これ直ぐに解ったんで後で御寺の庫裡で御住職の奥様と雑談した際に質問した所、やはり前身は真言宗だった御寺の歴史が有るとの事でした。
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門をくぐると御寺の佇(たたず)まいはとても落ち着いていて、禅宗寺院の庭園ではないものの何だか心が静かに成る様な空気感でした。
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浄土宗なので法然上人の御幼少の頃の座像が有ったりしますね。
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その横には御寺の昔の立派な化粧瓦が展示されていますが・・・
これを見れば歴史好きは「お?何だこの家紋!」と思いながらも家格が高い殿様の家紋で有る事が一目瞭然、その正体も何となく解ります。
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解りますか?
竹に雀紋
上杉謙信が養子縁組して乗っ取った山内上杉家の家紋に似ていますよね?
上杉家の家紋、竹に雀の変形です。実は事実確認をしない、実際に御子孫に取材もしない、誰かが書いた物を適当にテンプレートするだけの無責任なタイプの歴史ガクシャ先生は知り様も無い事実なのですが、この家紋は❝宅間上杉家❞と言う足利尊氏公の母方従兄弟の家系の殿様の家に代々伝わった家紋です。❝歴史ガクシャ先生❞達は調べもせずに宅間上杉家の家紋を山内上杉家と同じ普通の竹に雀の家紋を用いて紹介する人も多くいますが、それは❝事実無根❞の❝適当な仕事の結果❞の❝デマ❞ですので信じないで下さいね。
まぁ、取材しててもカルトに騙されてカルトの教本を歴史資料に採用して本書いちゃう様なNHK歴史解説員を吹聴する某ガクシャさんもいたり(笑)、結局は古文書も偽書があるので昔の人や悪い人との知恵比べもする歴史以外の❝知能❞が無い人の本にも気を付けないといけないんですが。
さて、実は宅間上杉家と言うのは室町時代の足利政権に於(お)いては、関東を統治する政治機関の室町幕府❝鎌倉府❞の将軍である歴代鎌倉公方の家に仕えた武家で、先述の通り足利尊氏公の従兄弟の家系でした。
宅間上杉家の鎌倉府勤務時代の居所は本拠地の他に鎌倉市浄妙寺地区の宅間谷(たくまがやつ)でした。
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功臣山 報国寺
なので宅間谷には宅間上杉重兼公と、足利尊氏公の祖父の足利家時公が一緒に開いた御寺が今も存在しています。
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現在ではミシェランガイドで3星を獲得した御寺の竹林と抹茶を頂ける御寺としての方が歴史に興味の無い人に有名でしょうか?
報国寺に関しては紹介記事を以前に書いていますので、興味の有る方は御覧下さい。
これクリックで記事にリンクします。⤵
報国寺…ミシェランガイド三ツ星の安らぎの竹林寺。…鎌倉市。
宅間上杉家の初代は報国寺を開いた宅間上杉重兼公で、その後は足利尊氏公の御子息で鎌倉公方と成った足利基氏公の御子孫に歴代お仕えした家柄でした。とても鎌倉公方に対する忠義の厚い家で、それは安土桃山時代まで続くのですが、室町時代の最期の鎌倉公方と成った足利持氏公の時代に籤引(くじびき)で室町幕府征夷大将軍となった残虐将軍として有名な足利義教の恣意的な自己顕示の為に鎌倉公方家は政治混乱を誘発され、室町幕府vs鎌倉公方家の長い長い凄惨な戦いへと発展して行きました。
その発端と成ったのが❝永享の乱❞です。
永享の乱の際の宅間上杉家の当主だった上杉憲直公は足利持氏公に忠義を尽くして敵対する勢力と戦います。その際に籠城したのが横浜市緑区三保町に在った榎下城でした。
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実はこの榎下城の主要部分は原型が有る程度解かる状態のまま寺院化して現在も❝舊城寺(きゅうじょうじ)❞として存在しています。近世城郭で言うならば本丸と二ノ丸に相当する部分が存在し、御寺の山門の前には外郭と二ノ丸を分断する様に囲む空堀も5年前の訪問時にはまだ存在していました。
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神奈川県教育委員会は❝建築利権への配慮❞の為かは判りかねますが御城の範囲を主要部分しか紹介していません。しかし小生達城郭ファンから見ると明らかに周辺の公園や住宅街も城郭の外郭として機能し有事の際には数千~万単位での籠城が可能だった城だろうと推測出来ます。
榎下城址の舊城寺に関しても以前に紹介記事を書いているので御興味有る方は御覧下さい。
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旧城寺=榎下城址…横浜市緑区三保は上杉家の拠点
さて、この永享の乱のゴタゴタで足利持氏公は敗北し、宅間上杉憲直公は横浜市金沢区に存在する❝東の正倉院❞の異名を持つ文化財の宝庫として有名な金沢文庫を昔は管理していたとても桜と庭の綺麗な御寺の❝金澤山 彌勒院 稱名寺❞、今の金沢文庫称名寺に蟄居(ちっきょ:謹慎)して室町幕府に恭順の意を示します。
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金澤山 彌勒院 稱名寺(称名寺)
結局幕府の残虐将軍足利義教は最初から鎌倉公方一派を減衰させるのが目的だったので許されず宅間上杉憲直公と御子息の憲家公は称名寺で切腹しました。しかし後に足利義教が死亡すると足利持氏公の御子息の足利成氏(しげうじ)公が密かに育てられていた信州から復帰し鎌倉公方に就任し、宅間上杉家は再登用され規模は縮小したままでも存続して行く事に成りました。
称名寺に関しても以前に紹介記事を書いているので興味の有る人は読んで見て下さい。
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称名寺と金沢文庫 …日本最初の図書館。京浜急行金沢文庫駅近く
永享の乱の在った時代には宅間上杉家は鎌倉~武蔵国南部にかけて勢力を誇った領地を失い大幅に勢力は減退しました。
その頃には現在の横浜市港南区の永谷一帯を本拠地にして、今の永野緑地~芹が谷~永野小学校辺りの丘に永谷城を築いて在城していた様です。永谷城址には宅間上杉家の祖先の官職名である伊予を冠した❝伊予殿根❞の地名が近年まで残っていました。
永谷には城址は横浜市が保護も発掘もせずに消えてしまいましたが、宅間上杉家の足跡を辿れる場所が現在も存在しています。
下永谷の曹洞宗の般若寺は元々宅間上杉家が開いた御寺ですし、神明社の別当寺がその般若寺でした。
そして同じ曹洞宗の貞昌院も宅間上杉家が開いた御寺で、この御寺は永谷天満宮を守る為の別当寺として開かれた御寺でした。
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永谷天満宮
この永谷天満宮は由緒が凄まじく、御祭神の菅原道真公の御子息の菅原敦茂公が一時、御住いだった邸宅跡と伝承が有ります。まぁ、菅原敦茂公が御住いだったかは正直文献が無くて不明なのですが実際の菅原敦茂公の兄君の菅原景行公は藤原氏による菅原氏弾圧から関東に逃げて来ており、大生郷天満宮を開いたりしている事や関東の鎌倉郡には菅原景行公と同じ❝景❞の名を持つ坂東平氏の武将が多く平安時代末期に居た事からも平氏に関与し鎌倉郡に移住した菅原氏の人物が永谷に住した伝承は信憑性が有るんですね。
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永谷天満宮は初夏に紫陽花が鎮守の山に沢山咲く場所として近年知られていますがが、この永谷天満宮の御神体が菅原道真公が自ら手彫りした自分の彫像の3つの内の一つと伝わっています。この由緒に関しては宅間上杉家が所有していたと伝わりますが、宅間上杉家の御先祖の勸修寺家や上杉家は菅原家と同じく宇多天皇や醍醐天皇に仕えた一族でした。
そこ等辺の永谷天満宮と菅原家の歴史に関しても以前に解説記事を書いたので御興味有れば御覧下さい。
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永谷天満宮(横浜市)は日本三躰の天神様。
宅間上杉家は戦国時代に旧鎌倉郡域の永谷郷と武蔵国久良岐郡花木つまり現在の横浜市南区花之木辺りを一族が所領にしている事から横浜市南部の大岡川沿い西岸部にわずかに領地を持つ程度の勢力に縮小してしまった様です。戦国時代の混乱迄はもしかしたら磯子城の平子家や太田道灌公が制圧した西区~神奈川区辺りまで勢力を維持していたかも知れませんが、それも古河公方と成った足利成氏公に忠義を尽くした宅間上杉家なので領地を太田道灌公や蒔田吉良家の殿様達に横領されてしまったのかも知れませんね。
なんせ太田道灌公の御主君の家である扇谷上杉家は足利成氏公と対立した勢力ですから。一時は父上の足利持氏公の跡を継いで鎌倉公方に成った足利成氏公も、太田家とその主君の扇谷上杉家や長尾家とその主君の山内上杉家に鎌倉公方の座を落とされ、支持する関東の古豪大名の多い北関東に逃げて古河城主となって古河公方を名乗らざるを得ない事態に陥(おちい)りましたから。
さて、そんな足利成氏公も武将としては優秀で太田家や長尾家の大軍を江ノ島に籠城して撃退した歴史が有ります。その際に足利成氏公に与力して活躍したのが戦国時代に宅間上杉家と親戚に成る間宮林蔵の祖先の間宮(佐々木)家や、関東大名の千葉家や那須家や小山家の鎌倉時代以来の古豪でした。
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今では観光客で賑わう❝神社❞の島として有名な観光地江ノ島も、明治以前は真言宗系の修験道の聖地であり平安時代以前からの天皇家勅願所の聖地である岩屋を管理する❝岩本坊❞後の岩本院と呼ばれた御坊が有り、神道仏教宗派問わず多くの高貴な僧侶神官が修行に来る場所でした。
この江ノ島は海に突き出した島なのに豊富な飲用水を確保出来る場所で、城塞化するとトンでも無く強力な防衛施設に成る場所だったんですね。
そしてその江ノ島を明治時代迄守ったのが岩本坊、現在は明治時代に修験道道場から江ノ島の老舗旅館に業種替えした❝岩本楼❞の岩本家でした。
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岩本楼
この岩本家は本来の苗字は❝間宮❞で氏姓は宇多源氏佐々木氏でした。つまり間宮家で、本家との区別で岩本を名乗っており、戦国時代の北条所領役帳でも岩本家は鵠沼を領地として認められており武士化していた事が解かりますが、間宮家の本家である笹下城主間宮家も又、鶴岡八幡宮再建事業や真言宗の古刹である弘明寺や宝生寺と言う重要な神社仏閣の復興支援で活躍している事が古文書で判ったりします。
実はこの間宮家の子孫であり宅間上杉家と同じく戦国時代に古河公方を支持して❝今管領❞と呼ばれた北条家臣化していた笹下城主間宮信元公の御子息の一人、間宮綱信公の奥方が宅間上杉家の姫君でした。
宅間上杉富朝(とみとも)公の姫で、宅間上杉富朝公は北条vs里見家・太田家連合の国府台合戦で討死してしまいます。
そこ等辺の間宮家との関わりも以前に間宮家の顕彰記事の中で書いているので御興味有る方は御覧下さい。
コレをクリック!
間宮林蔵と杉田玄白の祖先、笹下城主間宮家の事績
戦国時代末期に成ると宅間上杉家は上杉規富公の代に三崎城主北条氏規(うじのり)公の付家老と成り三崎衆に編入され、現在の三浦半島三崎漁港に存在した三崎城に勤務していた様です。
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三崎漁港に在る北条橋の前の港は❝北条湾❞と呼ばれ、その右手の旧三崎中学校の丘全てが三崎城址です。城好きなら解りますが虎口や一部土塁等が現存しており、三浦市教育委員会様に尋ねると城の推定縄張り図の掲載された書籍等も紹介して下さったりします。
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三崎城址そして北条家が豊臣秀吉に改易されると、宅間上杉規富公は400石の小禄ながら徳川家康公に登用されて二俣川村を領有し、江戸時代も旗本として存続したのですが現在嫡流の御子孫は近年に成って途絶えてしまったそうです。その菩提寺が宅間上杉規富公が旭区本村に開いた三佛寺な訳ですね。
では、現在の三佛寺に話を戻しましょう。
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山門の階段を登り切り振り返ると環状二号線が通る旧二俣川村を見渡す事が出来ます。

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境内左手には馬頭観音様を始めとした色々な石佛様が祀られています。
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境内右手には宅間上杉家の家紋の入った手水鉢。
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正面に御本堂。
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立派な扁額です。
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本堂右手には無量寿と書かれた庫裡の玄関とは別の信徒さん用の入口かな?
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更に右手に庫裡。
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境内には石碑や石仏、看板も幾つか有りました。
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境内を入った左手の真ん中に階段が在ります・・・
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ここを登ると宅間上杉家の歴代殿様の御廟所が在ります。
小生、存じ上げなかったのですが宅間上杉家は太田家と縁戚にあった様で、一番立派な供養塔と対の供養塔には太田家の家紋が入っていました。実は宅間上杉富朝公が国府台合戦で討死していますが、その合戦の発端と成ったのが旧江戸城主の家系に当たる江戸城代の一人の太田康資(やすすけ)公の謀反でした。これに気が付かなかった太田康資公と親交深かった遠山家や富永家は責任を感じた為か無理を承知で国府台城を正面から攻めて宅間上杉富朝公同様に討死しています。
この状況から推察すると、上杉富朝公か御子息の規富公の奥方様は太田康資公の妹君か姫君で、遠山家と富永家同様に婚姻関係から責任を感じて無理に国府台城を攻めて討死したであろう事も推測出来たりします。
小生、特別に御寺が存続の危機に瀕しており重要性を説く時以外には殿様達の眠る御廟の写真を掲載しないので、もし確かめて見たい人はちゃんと歴代宅間上杉家の殿様と御一族に敬意を払って御線香を持参して御参りして下さいね。
小生も少し値段の高い(笑)御線香を上げさえて頂き、5年かけてやっと宅間上杉家歴代の殿様と御家族の御廟で御参りで来た事を伝え、そして毎年の永谷天満宮への御参りで大願成就に導いて下さる御加護御守護下さる事を御礼申し上げて来ました。
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境内には他に立派な井戸。
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立派な庭石。
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色んな人から色んな寄進が有り宅間上杉家の殿様の御遺徳によって今も御寺が反映している様です。
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どうぞこれからも多くの人に三佛寺様が大切にされて存続し、地域の人の心の拠り所に成ります様に御祈り申し上げます。

さて、今回は御住職御不在で御朱印を拝領出来なかったので、次回、改めて参拝した際にこの記事に御朱印の画像を追加掲載したいと思います。

皆さん、旭区の三佛寺に関わった宅間上杉家の殿様が主君に忠義を尽くしたとても誠実な性格の方々だった事や高い家柄だった事御理解頂けたでしょうか?
足利尊氏公の従兄弟から始まった高い家格なのに御寺が庶民との距離が近いのは、きっと宅間上杉家の殿様に、そういう御人柄の優しい人が多かったからかも知れませんね?

きっと皆さんの御近所にも凄い歴史偉人が関わった神社仏閣や御城の跡の山や古代の人々から継承した文化や聖地の残る自然が有ると思います。
ですから・・・皆さん、ちょっと御近所の山に行って見たり、神様仏様拝みに行って境内の看板を読んで見ませんか?それだけでも昔の人と今の皆さんを繋ぐ大切な場所が沢山残っている事を再認識して、地域の誇りに成り郷土愛が深まるかも知れません。

では!又、と義の解説記事で御会いしましょう♪

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2018年06月01日金曜日、小生は休み。
午前中は某外国語学校、そして日本のアウトレット先駈けとして一時代を築いた❝横浜ベイサイドマリーナアウトレット❞が本年09月をもって一時営業終了し、09月02日~2年間かけて3F建ての新施設建造リニューアル工事するとの事。小生行きつけの店から閉店セールの通知が来ていたので行って見る事にした。
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❝恋雨❞のロケ地でもある杉田から横浜シーサイドラインに乗車してベイサイドマリーナにて買物した後に、恋雨の聖地巡りをする計画で行動。
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久しく乗車していなかったが、このシーサイドライン沿線もドラマやアニメのロケ地に良く成っている。
釣りバカ日誌や、最近じゃ不倫ドラマ❝昼顔❞なんかも度々このシーサイドライン沿線でロケしている。
ベイサイドマリーナのアウトレットは❝鳥浜駅❞で下車。
ダイエットも結果を出してアスリート体型に成れたので一段落、祝杯代わりにソフトクリームとアイスコーヒーを堪能した(笑)。
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ところで、ベイサイドマリーナのアウトレットの閉店セール、本当に安かった!
凄い物は50%OFF!更にそこから4点買えば20%値引きの更に三井アウトレットパークのクレジットカードで支払いして5%割引で、何と小生は服をチノパン1着とシャツ3着の合計4着購入、定価で2万円強の価格の品が1万円チョイで購入する事が出来た。

さて、買い物が終わると❝恋雨聖地巡り❞の一箇所でもあり交通の要所として聖地巡り基点として適した杉田に戻った。
恋は雨上がりのように 公式ホームページタイトル画像 久良岐のよし
この日は❝恋は雨上がりのように❞のロケ地で歴史ブログ書くために散々横浜市内の住宅街も走り回って自分の見知っている場所を写真に撮影したかった事も有り、ロケ地の一つである屛風ヶ浦~杉田商店街の間の住宅街等は車を停めれないので公共交通機関と徒歩を駆使して移動する事にしていたからね。
まぁ、主人公の❝あきら❞サンも電車とバスで風見沢高校まで通学してる設定だしね~。

杉田からはロケ地の港南台円海山へ行くのにJR新杉田駅から港南台駅にも出られるし、杉田駅近くのロケ地を見た後でバスで舞台の氷取沢高校方面やロケ地の能見台~氷取沢地区にも行ける。
無論、今回は廻らなかったがロケ地である京急能見台駅やJR桜木町駅前のジョナサンにもアクセスしやすい。

今回小生が訪問したロケ地は以下の通りで、その最寄り駅は下のGoogleearth画像に表示した場所だ。
恋は雨上がりのように ロケ地最寄り駅 久良岐のよし
だいたいの場所を知っていて訪問し詳細特定したロケ地は以下の通り。
●学校を駆け出してドリフトする直角クランク交差点
・・・最寄り駅=1,JR新杉田駅or京急杉田駅、2,能見台駅
1,杉田駅or新杉田駅~横浜市営バス杉田小学校前(バス停)~下ヶ谷(バス停)~徒歩8分
2,能見台駅~京急バス能見台駅(バス停)~能見台1丁目(バス停)~徒歩2分

●雨の日に傘を差さずに下校する時に通るコンクリートブロック擁壁
・・・最寄り駅=同上

●京急線のアンダーパス
・・・最寄り駅=JR新杉田駅~徒歩8分、京急杉田駅~徒歩4分

●町を見下ろす風景の長い下り坂
・・・最寄り駅=JR港南台駅
1,JR港南台駅~市営バス港南台駅(バス停)~港南環境センター前(バス停)~徒歩8分
2,JR港南台駅~徒歩20分


では映画の予告動画の画像と、実際に小生が現地で撮影して来た写真で比較しつつ周辺情報も交えて紹介したいと思う。

●学校を駆け出してドリフトする直角クランク交差点・・氷取沢高校近くの能見台グラウンド前
恋は雨上がりのように 氷取沢 久良岐のよし
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住所クリック⤵でGoogleMapにリンクします!
〒236-0057 神奈川県横浜市金沢区能見台1丁目
ここ等辺りは円海山の麓(ふもと)に住む小生にとっては庭みたいな場所なので団地の映像を見て直ぐに解った。近くには日本100名城の一つ八王子城を縄張(なわばり=設計)した間宮綱信公の居館である氷取沢陣屋と横浜市が保護せずマンション建設で破壊された陣屋址に在った氷取沢間宮家の土地神様の氷取沢神社や間宮綱信公の菩提寺の宝勝寺も存在する。参拝すれば知恵者であり北条家外交官として織田信長公に厚遇された間宮綱信公の外交的なセンスと知力の御利益に預かれるかもしれない(笑)。
それと、横浜家系ラーメンの創始者である総本山吉村家の吉村社長の愛弟子の中で杉田家の津村サンと1、2を争う実力者として有名な鶴巻サンの店の王道之印も近くに存在する。
※紹介した観光名所のGoogle mapリンク
→王道之印(横浜家系ラーメン創始者吉村社長の有名な弟子、鶴巻氏の店)
→氷取沢神社(八王子城縄張り、北条家外交官として織田信長公との外交で活躍した間宮綱信公の土地神様)
→宝勝寺(間宮綱信公の菩提寺で、室町幕府鎌倉府の最後の鎌倉公方である足利成氏公所縁の寺)

●雨の日に傘を差さずに下校する時に通るコンクリートブロック擁壁・・・能見台グラウンド横のメガロン能見台擁壁
恋は雨上がりのように 予告 タイトル
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GoogleMapにリンク⤵
〒236-0057 神奈川県横浜市金沢区能見台2丁目
最初、氷取沢高校の横のバス停前かと思ったが、現地に行って見て改めて地形を観察するとバス停付近の擁壁道路には実際は歩道が有り又、ブロック擁壁の下には画像と違って路肩が無かったので直ぐにバス停の傍がロケ地ではない事が判った。
・・・これも城跡を多く見て地形観察する眼力が向上した賜物か(笑)。
それで「あ~団地の周りだコレ」と解った・・・
更に映像をスマホで見て観察すると、コンクリート擁壁の排水管から❝コンクリートの石灰質が溶解して出来た白い染み❞の存在に気が付いた。それでピンと来たのだが、先に紹介した❝ドリフトT字路(笑)❞の能見台グラウンド隣のメガロン能見台と言う集合住宅の台地の擁壁コンクリートに雨水で出来た石灰質の染みが有るのでドンピシャで当該地形を特定出来た。

●京急線のアンダーパス(熊野神社泉蔵院参道)・・・京急杉田駅北側、杉田小学校西側のアンダーパス
恋は雨上がりのように 杉田ロケ地 久良岐のよし
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GoogleMapにリンク⤵
〒235-0036 神奈川県横浜市磯子区中原4丁目2
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ここは地元、磯子区杉田のゆるキャラのウメニ―に特定して貰った(笑)。
地形的に屛風ヶ浦~杉田の間だとは推察していたのだがハッキリ解らなかったのでウメニーに憑依している人(笑)に聞いた所、ウメニ―は小生のスクショ見て瞬殺で特定してくれた。
源頼朝公が鎌倉市山崎に昔は存在した修験道の聖地、山崎泉蔵院の高僧に命じて開かせた泉蔵院熊野神社の参道の石碑が目印。
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杉田駅側から屛風ヶ浦駅側に向かって歩くと熊野神社参道の石碑が在る徒歩3分位の位置。
杉田は徳川家康公の参謀で江戸幕府初代鷹匠頭を務めた間宮信繁公の旧領で、関ヶ原の戦いで徳川軍を勝利させた名軍師。特殊部隊である鷹匠鉄砲部隊50人で毛利家の本陣南宮山を偵察し徳川本隊3万を前進させ小早川勢寝返りを誘引させる事に成功させた人物。そして戦国時代~昭和初期まで高級梅として有名だった幻の杉田梅の杉田梅林を植林させた人物でもある。杉田梅林は明治に成っても皇族が度々訪れる観光名所として有名だったが皇族の聖跡の杉田梅林も横浜市役所が戦後保護を怠り開発許可を出し消滅させた。杉田梅は現在では小田原市曽我梅林に植林された物が現存する。杉田商店街に在る❝菓子一❞と言う和菓子屋で、杉田梅林文化を受け継いだ梅の和菓子を現在も販売していたりするので御土産に御薦め!泉蔵院は源頼朝公や北条家最強の黄備え隊大将北条綱成公の副将だった間宮家の信仰を集めた神社なので必勝祈願の御利益も期待できる。近くには日本武尊伝説の聖地が弘法大師によって仏教化され戦国時代に間宮信繁公等杉田間宮家の菩提寺に成った牛頭山妙法寺も在る。又、臨済宗関東十刹の一つで大きな釈迦堂が現存する東漸寺も存在する。何(いず)れを御参りしても知恵と勝利の御利益が期待出来る。
※紹介した観光名所のGoogle mapリンク
泉蔵院熊野神社(源頼朝公が開き間宮家が支援した勝負と治水の神様のパワースポット)
菓子一(昭和初期までの横浜名物杉田梅の文化を継いだ和菓子店)
東漸寺(鎌倉幕府名越北条家が再興し、戦国時代に間宮家が支援した臨済宗の名古刹)
妙法寺(日本武尊神話の舞台の一つで、徳川家康公の参謀の間宮信繁公の菩提寺)
杉田家(新杉田駅近くの横浜家系ラーメン発祥地で吉村家旧店舗前に在る吉村社長の秘蔵っ子、津村サンの店)
ついでにウメニ―は杉田小学校の生徒が生み出したキャラクターなので、出来れば皆で子供を育て可愛がる様に❝恋あめファン❞にもTwitterフォローして頂けると旧久良岐郡民の小生としても嬉しい。
ウメニ―のTwitter→https://twitter.com/umeny_sugita

●町を見下ろす風景の長い下り坂・・・円海山山頂下の坂道
恋は雨上がりのように 円海山 久良岐のよし
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GoogleMapにリンク⤵
〒234‐0054 神奈川県横浜市港南区港南台8丁目
実は横浜市で標高最高地の円海山でロケされている。ここに至る目標としてはGoogleMapで❝円海山❞とさえキーワード入力すれば誰でも来られる場所。バスに乗らなくても歩いて来る事も出来る。
横浜市では貴重な鎌倉市まで繋がる大森林が現存し自然公園として歴代横浜市長に守られて来たので、円海山山麓の瀬上沢は現在でも蛍の大生息地として有名。又、一年を通じて晴天の日には夕焼けに染まる富士山やダイヤモンド富士、そして横浜市最高所からの夜景の名所として横浜市民に愛されている。
しかし近年、東急グループが土地を買収し自然破壊と蛍生息地が壊滅する宅地開発を計画し林文子市長も歴代市長の自然と円海山の保護政策を否定する東急グループ擁護発言を行い、林文子市長と東急グループにより現在の映画ロケ地や横浜市最後の蛍群生地と自然は破壊の危機に神している。
円海山山頂へ続く長い坂のロケ地位置GoogleMapリンク
円海山の蛍の大生息地瀬上沢と富士山と夜景の絶景スポット写真紹介記事リンク

因(ちな)みにTwitterで小生が暴露した❝恋あめ❞の舞台❝風見沢❞の架空地名由来、反響が大きかったので少し紹介したいと思う・・・
風見沢は実は小生のハンドルネームの❝久良岐のよし❞の元ネタである横浜市南部の旧行政区分:久良岐郡に存在した地名に由来している。
風見沢、この仮の地名は実名しないが、由来に成った場所は舞台と整合しハッキリしている・・・
風・・・屛❝風❞浦(びょうぶがうら)
見・・・能❝見❞台(のうけんだい)
沢・・・氷取❝沢❞(ひとりざわ)
・・・この上記の町名や江戸時代までの旧地名から駅名やバス停の地名として残る場所をくっつけてつくられている。そして、これらの舞台は横浜らしい坂の多い旧久良岐郡地域の丘の上に面した場所なのでロケ地にも坂道が多く登場する訳だ。
現在、❝屛風ヶ浦❞と言う明治まで別荘地として繁栄した風光明媚な断崖絶壁の海岸が横浜市中区~横須賀市域まで10km近く長く続く地形に由来した住所は、他地域からの移住者役人だらけのアホの横浜市役所と旧郵政省によって消滅させられ存在しない。埋立地にして景勝地を消滅させてしまった事を隠蔽する為か屛風ヶ浦の地名ごと消し去られたが、それに歯向かう様に郷土横浜の景勝地だった文化を引き継ぐハマっ子達と京浜急行電鉄は駅名や店舗の支店名として今でも屛風浦駅近辺に旧景勝地の誇りを引き継いでいたりする。
恋は雨上がりのように ロケ地周辺地形 久良岐のよし
御覧の通り、舞台の中心である能見台~杉田~本牧半島にかけて現在でも旧海岸線は断崖絶壁の海蝕岸壁丘陵が続く。もっとも、海蝕岸壁とは言われるが当該地は応長の大津波の伝承や三浦半島の西側が隆起し東側が沈下するプレートの境界線である事からも、この崖は巨大な断層と考えた方が自然だろう。
能見台は江戸時代迄は東青野台と富岡と呼ばれた地域を宅地開発した際に新設された地所名で、丘の上に閑静な住宅地が広がる。元々は兼好法師こと徒然草の筆者で真言宗の僧侶だった吉田兼好が愛して住した金沢八景の景勝の由来に成った地域を一望できる能見堂と言う禅宗曹洞派の仏教草庵の寺院名が由来と成っている。
氷取沢は地名由来に諸説有る。一説には鎌倉幕府の将軍や執権北条家、その後の室町幕府鎌倉府の鎌倉公方に献上する氷室(ひむろ=氷の貯蔵庫)や氷その物を採取する沢が有ったからとも言われているが、小生の様な歴史オタクや郷土史家の多くの意見としては氷取沢地名の由来は、そもそも❝氷❞取沢は❝火❞取沢と書き製鉄の盛んだった場所で戦国時代にも鍛冶師が住した地域なので蹈鞴(たたら)製鉄の溶鉱炉の灯りが夜も明々(あかあか)としている火の燃える様子に由来すると言う説も可能性として指摘する所でもある。
そんな地域で奈良時代には先進的な地域で鎌倉時代には武家最高の教養を備えた金澤北条家と名越北条家の根拠地だったのだが、鎌倉幕府を攻撃した新田義貞の乱暴狼藉で周辺地域は多くの神社仏閣や村々は略奪の被害に遭い焼き討ちされ室町時代に一時期荒廃した歴史も有る。
戦国時代には江戸時代の杉田玄白や間宮林蔵や間宮士信等凄まじい学者達の祖先であり、北条家五色備え黄備え隊の軍師副将として活躍した間宮康俊公や徳川家康公の参謀として活躍した間宮信繁公や間宮直元公、東京都の浅草寺の僧正を輩出した伊丹家の根拠地だった場所でもある。
主人公の❝あきら❞サンが通い、恐らく原作者の❝眉月じゅん❞先生が愛した屛風ヶ浦~杉田~富岡~能見台~円海山は、戦後の横浜市役所が景勝地の自然を破壊するまでの昭和初期までは鎌倉以来の武士団の文化教養として源頼朝公や金沢北条実時公や北条早雲公や太田道灌公や徳川家康公にも大切にされ観光地として有名だった場所なんだな。
そこで作者の眉月先生も人生の一時期を主人公あきらサンみたいに過したんですね~。

さて、余り歴史に興味が無いかも知れない❝恋あめ❞ファンもいるかも知れませんが、舞台の町、そして架空の人物だけど主人公あきらサンや店長が働く能見台の町、ロケ地となった横浜市金沢区~磯子区~港南区~中区一帯の事、少しは興味持って貰えたでしょうか?
少しだけ紹介しましたが、このロケ地周辺には歴史偉人が大切にした御利益の有るパワースポットの神社仏閣御や蛍が大量に見れる横浜市最後の自然の聖地や、戦国時代以来の横浜の梅文化に根付いた美味しい和菓子屋さんや横浜家系の発祥地杉田駅周辺には家系総本山吉村家の吉村社長直弟子のラーメン屋サンも有ります。
皆さんが恋アメ聖地巡りの際の食事や観光や土産の参考に成れば幸いと思い、記事にしました。

では、皆さんにとって、この映画とロケ地巡りが良い人生の糧に成ります様に願います♪

・・・次に書く記事ではガッチガチの歴史解説か鎌倉の秘密のパワースポットの紹介をすると思います。
mixiチェック

今回、多目元忠公の記事をリニューアルするに当たり余りにも膨大な情報量に成ったので、今回はユックリと記事を三部に分けて解説をしたいと思います。
①北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説①】多目元忠公の存在と青木城址と権現山城址・・・神奈川区の京急神奈川駅近く。
今回の記事⤴

今後追記予定の記事2部⤵
②多目元忠公が活躍した河越夜戦と山内/扇谷上杉家解説。
③多目元忠公は大活躍したのに子孫と思われる一族の禄高が低く抑えられている原因の推理。

そして、未訪問の三ッ沢に在る多目家菩提寺の豊顕寺さんの紹介記事もいずれ書きたいなと思います。

さて、では今回は多目元忠公の基本的な情報と当時の北条家の状況の解説、居城青木城と青木城前身の権現山城の構造と周辺の歴史を解説します・・・

戦国時代に神奈川県~東京都~埼玉県~千葉県北部を統治した大名の北条家が100年後に日本を統治した徳川家よりも優れた政治で内政と軍政を行っていました・・・
三つ鱗紋北条家三鱗紋
小田原北条家というのは戦国時代に既に初期の江戸幕府を凌駕する善政の統治機構を持ち、各方面で有事に別々に運用できる軍団制度を織田信長公の登場よりも早くから導入した内政と軍政に優れた大名家でした。
2016-02-17-16-02-55
現在も部分的に現存する❝小田原用水❞は日本初の上水道(飲用水道)として歴史学者には知られている存在です。又、城郭建築に長けた家臣団を多く持ち、更には修験道や神道の宮司も兼ねる有職故実に通じた由緒正しい教養高い家柄の重臣も多くいる民政と教養と城郭建築に特に長けた家柄でした。
この事は余り現代では歴史好き以外には知る人も少ないのですが、その北条家には五色備(ごしきそな)えと呼ばれた色別編成の主力部隊がいました。
この五色備えとは軍旗の色を、青色・黄色・白色・赤色・黒色の各色に分けて部隊編成された軍団で、この五色は仏教五色と呼ばれ当時神仏混合だった宗教観では仏教的な思想では唐時代の中国の高僧の不空三蔵法師が訳した経典で以下の意味が有り、その軍団には役目が有りました。
黄・・・皇帝
中心を指す、物事の本質を見抜き統率する知恵・・・北条綱成公、家中最高の統率力の名将
青・・・青龍
東方を指す、此の世の出来事を公平に見る知恵・・・富永直勝公、家中初期功臣家系の名将
白・・・白虎
西方を指す、此の世の全てを見極める為の知恵・・・笠原信為公、家中最高の文化人の名将
黒・・・玄武
北方を指す、此の世の物を完成させる為の知恵・・・多目元忠公、家中最高の知恵者の名将
赤・・・朱雀
南方を指す、此の世が平等である事を知る知恵・・・北条綱高公、文武の両面で優れた名将

この色分けと其々の方位を守る聖獣は横浜市民と神戸市民は良く知っていると思います。
横浜中華街仏教五色四方聖獣の門と黄色の善隣門位置 久良岐のよし
横浜中華街には東西南北の四方を守護する青龍・白虎・朱雀・玄武の門が在り、中心には善隣門が据えられており、この善隣門の屋根瓦は正に日本の神道にも影響を与えた中国道教と仏教で皇帝を表す黄色の瓦が用いられています。
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そして海側の大手口と成る朝陽門は鯱鉾(しゃちほこ)の部分の飾瓦が青龍のデザインで屋根瓦全体も仏教五色の青に成っています。
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安土桃山時代~江戸時代初期に織田信長公や豊臣秀吉や徳川家康公や徳川家光公によって寄進され神社建築遺産や居城だった安土城や伏見城等、海外との貿易が活発で華やかな色合いが好まれた当時の建築文化や仏像の極彩色装飾では、正にこういった道教と仏教の影響を受けた華やかな仏教五色を彩色された場所が多く有りました。
明治に廃仏毀釈で多くの華やかな社殿が消え官製神社に質素な色の鳥居や社殿が増えたのは実は明治の宗教改革をやった政治家がプロテスタントキリスト教徒で仏教を弾圧した影響なんですね。
日光東照宮の陽明門が正に現存する極彩色に装飾された建築文化財の代表例でしょう。
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織田信長公が社殿再建した京都府八幡市の男山、石清水八幡宮や・・・
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秀吉が社殿寄進した織田家所縁の愛知県津島市の津島大社とか…
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静岡市駿河区の久能山東照宮とか…
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神奈川県鎌倉市扇ヶ谷に在る徳川家康公に勝利の女神として大切に愛された側室の太田お梶の方の御廟所とかですね。
当時は神社仏閣で白黒と赤の基調の差は有れど、華やかな極彩色に彩られた場所が多く有った訳です。
色には宗教哲学や易学的な意味で方位守護を目的とした鎮護の意味が込められていたんですね。
北条家初期の北条五色備え軍団奇(く)しくも各軍団と大将は不空三蔵法師の仏教解釈の通りの色に符号した役割と能力を有しており、その為に軍団長として任命されている事も解ります。
北条氏綱公
そして
北条家二代当主でこの軍団編成をした北条氏綱公時代は、実際に色別に方角的な意味でも、それぞれの軍団は重要な合戦で各方角に出張する事が多く有りました。つまり、この五色備えは方角別に防衛や侵攻を担っていた事が解ります。
例えば青備え隊は初期は江戸城を後に葛西城を本拠地にしており、現在の東京都葛飾区辺りに居り北条氏綱公時代の領地の最東端に位置する地域の防衛を担(にな)っていました。
黄備え隊は武家の本拠地である鎌倉郡玉縄城に在り、主だった合戦では各方面に援軍として出張し主力として戦っていました。
白備え隊は甲斐武田家や後に徳川家に対する備えとして伊豆と相模の国境を守備する事が多い部隊でしたし、徳川家と北条家が激突した黒駒合戦でも黄備え隊と合わせて2万の大軍で相模国の西側の駿河国から甲斐国へ侵攻しました。
赤備え隊は初期の北条綱高公の時代には南方の要として江戸城で里見海賊の来襲に備え且つ、伊豆方面を守備する事が多く有りました。北条綱高公が江戸城で没した頃に小大名から北条傘下の軍団に組み込まれた世田谷城主蒔田吉良氏朝公の与力武将は江戸衆に成っていた様で豊臣秀吉の北条征伐の際には、やはり伊豆国下田の下田城防衛を担当し、城将清水康英公と共闘しています。又、蒔田吉良家には喜多見江戸家や河野家や杉田家や並木家等の水軍も保有しており江戸城周辺と品川港一帯東京湾中央部の防衛の要として機能していました。
そして多目元忠公の黒備え隊は北条家の知恵袋として良く本隊に組み込まれていましたが、北条早雲公や北条氏綱公の時代の初期の北条家北限が青木城周辺でした。北条家は当主自ら本隊を率いて敵軍と激突する事が多く、黒備え隊は遊軍でありながら隊長の多目元忠公が戦全体をコントロールする軍師としての役割を本陣で担う事が多かった軍団でした。秀吉の小田原攻めの際も多目家は小田原城に籠城していますし、小田原に籠城しなかった者は蒔田御所こと室町時代まで鎌倉公方代理だった蒔田吉良家の吉良頼康公の保護の為に近くの南区蒔田の蒔田城にもかけつけています。この時、吉良頼康公は水軍で城下の蒔田湾や磯子から出陣して単独で鎌倉防衛しようと無謀な構えを豊臣軍に対して準備していたので、もし多目一族が吉良頼康公を止めていなけらば、その後の江戸幕府高家の蒔田家→吉良家は存在しなかったでしょう。
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南区蒔田城跡の城下には太田道灌公の親友で戦上手として記録の残る吉良成高公が開いた勝國寺が現存しており、吉良成高公の先代の吉良政忠公から吉良頼康公までの御廟所と家臣団である佐々木家、森家、並木家等の御子孫達檀家サンの御墓が今でも殿様の御廟所を囲む様に存在しています。
以前書いた記事⤵
三殿台遺跡の三人の殿様と、蒔田城の在った場所の現在…勝國寺。横浜市南区港南区磯子区の笹下川~大岡川流域蒔田湾の流通の拠点。
世田谷八幡宮所縁の殿様、吉良頼康公…東急世田谷線宮の坂駅と横浜市営地下鉄蒔田駅の殿様。
招き猫発祥の寺、世田谷区の豪徳寺…彦根藩井伊家の菩提寺で、蒔田吉良家所縁の大寺院。

今回紹介するのは北条家で最も有名な北条早雲公の時代の話でも無く、民政化として最も有名でありながら軍才に長けて北条家最強時代を築き上げた北条氏康公の時代の五色備えの黒備え大将だった武将の話です。
北条氏康
※KOEIさんのゲームより画像拝借。
・・・北条氏康公が小田原北条家第三代当主と成った頃、五色備え軍団の大将の内の3人の殿様と2人の名副将が現在の横浜市と成った昔の鎌倉郡・久良岐郡・橘樹郡・都築郡に居住していらっしゃいました。
 
1人目は旧鎌倉郡の内横浜市栄区長尾台に在った長尾城を外郭とし鎌倉市植木~玉縄~藤沢市村岡~小雀に跨る巨大城郭だった玉縄城主の北条綱成公。
北条綱成
※KOEIさんのゲーム画像拝借。
玉縄城主、黄備え隊の大将として活躍し各ゲームでも関東最強の武勇の評価をされる武将です。
そしてこの綱成公には名副将が二人いました。
実弟の福島勝広と北条本家家臣で付家老の間宮康俊公です。
弟の福島勝広公は河越夜戦で活躍した美少年として有名ですが、江戸時代の福島家の一族の中には現在の観光地デートスポットとして有名な江ノ島の江島神社の中津宮別当を務めた家もおり、明治以降は旅館を営みましたが廃業しました。
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豊臣秀吉子飼いの名将、福島正則公が少年時代に名古屋の甚目寺で殺人事件を起こして同族福島氏出身の北条綱成公を頼り駿河伊豆に落ち延びた際、当時深沢城代だった兄北条綱成公に代り直接福島正則公の面倒を見たのが小生はこの福島勝広公だと推測しています。
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愛知県あま市の福島正則公生誕地に在る菩提寺の菊泉院もやはり北条家の武将達が関わった御寺に多い曹洞宗で、御住職に面会に行った際に福島正則公の家臣団に伝わった北条家臣福島家との関わりを色々と教えて頂きました。
そして黄備え隊の副将で付家老が横浜市港南区~磯子区に跨る大城塞の笹下城主、間宮康俊公でした。
この間宮家は祖先が近江国の大名である宇多源氏佐々木家で、佐々木家氏神の延喜式内社沙沙貴神社宮司家を務め修験道にも通じた神道と仏教に精通し更には城砦建築と宗教建築の土木と海運と水軍と鷹の飼育、更に武勇に優れた武将を多く輩出した家柄で、学問気質でありながら豪胆な人物の多い家柄でした。子孫には学者の間宮士信や地理学者で探検家の間宮林蔵公や医学者の杉田玄白公がいます。
鶴岡八幡宮再建でも水運を利用して材木奉行を務めた北条綱成公の任務を代行している事が改元僧都記や蒔田吉良家臣団の伝承からも判っています。
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実際、間宮家江戸時代の当主で真田丸や大坂城総掘り埋め立て作戦を立案した徳川家康公の軍師の間宮直元は間宮康俊公の嫡孫(ちゃくそん=孫で跡継ぎ)に当たりますが彼は横浜市域の多くの神社仏閣を復興したばかりでなく、同族間宮一族の岩本間宮家(佐々木家=明治以降岩本に改姓)は江ノ島の奥津宮(本来の江島神社)と欽明天皇以来の勅願所の江ノ島の洞窟を管理する岩本坊で別当を務め、その家は明治に成るまで存続しましたが、明治政府の政策で仏教と神道的な場所が分離されると寺院機能を停止して宿坊として旅館業を営み始め有名旅館❝岩本楼❞として現代も江島に存続しています。初代江ノ島郵便局長で俳人としても有名だった間宮霞軒さんも御一族でした。
更に間宮家より家紋を下賜された久良岐郡松本村の松本家は笹下間宮家の陣屋を守っていた武内家に伝わる家系図でも間宮家から養子が入っている事が確認できるのですが、この家は源頼朝公が開いた修験道の大道場で門跡寺院だった鎌倉亀谷山福禅寺配下の重要な武蔵国域の大道場権現堂別当職を明治まで受け継ぎ、明治の廃仏毀釈後に権現堂は廃寺に成ったものの森浅間神社として権現堂の修験道場機能は神社化し存続しました。
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以前書いた記事⤵
森浅間神社…鎌倉幕府の陣所跡。磯子区屏風ヶ浦。
この歴史からか森浅間神社の所在地の横浜市磯子区森には神奈川県神社庁が置かれており、間宮家が室町時代から関東で担っていた宗教的な役割の重要さを窺い知る事が出来ます。
又、磯子区には福禅寺と同じく元々は鎌倉市山崎に所在し源頼朝公から崇敬を集め修験道の大道場だった山崎泉蔵院の重要道場だった中原村(磯子区中原)の熊野神社は後に泉蔵院が鎌倉から機能移転したことで大霊山泉蔵院桐谷寺と改名し室町時代から間宮家が領主となり保護し福禅寺権現堂と同じく明治の廃仏毀釈で泉蔵院が廃寺になり熊野神社に名を改めるまで存続していました。
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以前書いた記事⤵
横浜市磯子区中原の熊野神社は源頼朝公が崇敬した泉蔵院と言う修験道の大道場の跡。
福禅寺の寺院機能は東京都青梅市二俣尾に扇谷上杉家によって機能移転され三田氏が奉行と成り寺院が造営されたと小生は推測しており、同地には間宮一族と伝わる杉田家の初代が三田領に居た事も間宮家の子孫の間宮士信さんが新編武蔵風土記稿に書いています。
そんな青梅市二俣尾の福禅寺は江戸時代のアホの幕府役人が寺領保証の御朱印書きで寺名を誤記したせいで海禅寺と名前が変わってしまいました。
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以前書いた記事⤵
【第2部:海禅寺編】休日雑記 2017年04月19日の訪問先…【青梅市】辛垣城址~海禅寺~へそまんじゅう総本舗~【羽村市】阿蘇神社~チューリップ祭~【あきる野市】中村酒造
そう言えば、この二俣尾の江戸時代の名主さんも福島姓だったので、もしかしたら北条綱成公の御先祖様と二俣尾や近い立川市周辺の室町時代以前に福島郷と呼ばれた柴崎~昭島辺りは関係が有ったかも知れないと小生は推測していますが調べても文献が無く僅かな状況しか無いのですが、この海禅寺の前身の福禅寺からわざわざ間宮家は菩提寺と成る鶴見区下末吉の寶泉寺初代の住職を迎えているので福島家と間宮家の関わりからも亀谷山福禅寺と青梅の海禅寺は無関係では無い可能性が有ります。
さて、黄備え隊の事は又、色々記事が有るので御興味有る方はそちらを読んで見て下さい。

2人目は笠原信為公です。
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※毎年4月初頭に開催される小机城址祭りでは港北区長サンが笠原信為公の役を演じています。
高文化の北条家中で宿老の北条幻庵公と並び屈指の教養を持つ人物で詩歌に通じるばかりではく、寄親で初期の小机城主と思われる北条幻庵公に代り小机城代を務め白備え隊大将として統率力と実務能力も高い人物でした。その実務能力の高さから、蒔田城主で鎌倉公方代理の蒔田吉良頼康公や北条綱成公付家老間宮康俊公等を纏め上げて鶴岡八幡宮再建総奉行を務め見事に成功させた名将でした。
又、笠原家は間宮家と共に北条家中を代表して対外的な外交を担う事の多い家系だったので、高い外交力を有した家柄でもありました。
恐らく初期の北条家に置いて最高の内政力の高さの両方を有した武将は、この笠原信為公だったのでしょう。そして謀略と外交に長けたのが北条幻庵公だった様です。そして御二人とも北条家中最高の文化人だった訳です。まぁ、宗教的な教養では間宮家と関家が北条家中では最高クラスだった様です。

さて、長い前振りでしたが多目元忠公の事を紹介します(笑)・・・

今回のブログ記事では戦国大名小田原城主伊勢氏流北条家の家臣中で最高の軍師、そしてゲームでも関東最高の軍師として能力評価される事の多い人物と、その居城の横浜市神奈川区青木城と権現山城の事を解説しますが、先に多目元忠公の時代の北条家周辺状況と、その状況の発端とを知る必要が有ります。

黒備え大将、青木城主、多目元忠公。

※KOEIさんのゲーム画像拝借
多米元忠公の居城だった青木城は今の京浜急行神奈川駅と横の権現山と本覚寺を繋ぐ昔の半島と背後の台町の丘に在(あ)った比較的大きな御城でした。
鎌倉時代末期~室町時代初期には後の征夷大将軍と成り室町幕府を開いた足利尊氏公が権現山を城塞化し籠城した記録が残ります。
新編武蔵風土記稿には以下の記載が在ります・・・
橘樹郡巻十三 七軒町の項
ー冒頭省略ー
本覺寺
西側にあり海道より少し引いりて石段ありそこを上(あが)りて山の上なり曹洞宗小机村雲松院の末青木山延命院と號す
ー以下中略ー
裏門は東の方にありて門外は陸田とうちひらけし地も今城跡と云(言う)所あり永正七年上田蔵人入道か當(当)所權(権)現山に砦をかまえあたり近き本覺寺の地蔵堂をとりこみて要害とせしなといへること古戦の記にも見ゆるはさもあるへく覺(おぼ) ゆ猶(なお)古跡の條合せ見るへし

権現山砦跡
宗興寺の山につ々(続)きたる所なり永正七年長尾爲景蜂起の時上杉高救(たかもと)入道建芳か被官上田蔵人入道北條早雲と議して當所へ砦をかまえしことあり小田原記等の書を閲(けみす)るに此(この)時蔵人入道は神奈川へ打(うっ)て出熊野権現山を城郭にとりたて、謀反の色をたてけれは管領家謀議し主の建芳を打手(うって)の大将として加勢には成田下総守渋江孫三郎藤田虎壽丸大石源左衛門矢野安藝入道成田中務丞を始(はじめ)として武州南一揆を催し雲霞の如く取(とり)巻けり時に永正七年七月一日なり
ー以下中略ー
寄手は大勢なれはこと々もせす喚(わめ)きさけんて切(きり)て入(いる=切りて入る=突撃する)神奈川の住人間宮の某と名のり黒鎧に四ツ目結びの笠しるし(印)濱風に吹かさし木戸を開(ひらい)て出寄手(よせて=攻撃側)も是(これ)を討とれとて射向いの袖を差かして一面に切むすふ城中のつわもの共間宮をうたすなと聲々(声々)に叫(さけび)て追(おい)つまくりつ戦いけるが遂に討(うち)まけて引(ひき)て入寄手彌(に)勝にのりつ々いて城へ入らんとする所に襄平木戸ををろして大石をなけ出す寄手先陣
ー以下省略ー
まぁ、こんな感じでかなり詳細に北条五代記や新編武蔵風土記稿には合戦の様子が紹介されています。
・・・新編武蔵風土記稿の編集長が何たって東大の前身の昌平坂学問所で頭取だった間宮士信さんで間宮家の子孫だからね。
簡単に説明すると青木城は元は権現山城って御城で、その権現山城で永正七年(1510年)旧暦七月一日に勃発(ぼっぱつ)したのが北条家vs扇谷(おうぎがやつ)上杉家の権現山合戦でした。
※扇谷上杉を知らない人「ココ」←クリックして扇谷上杉の説明文を探して!
この権現山合戦で北条早雲公側の城将として活躍したのが川崎駅前の堀ノ内に在った河崎館の城主間宮信冬公でした。

 
北条家が敗戦したものの、信冬公は単騎突撃で名声を獲得しました。
その間宮信冬公の子孫が後の笹下城主間宮康俊公です。
※笹下城を知りたい人は「ココ」←クリック!
さて、そんな権現山城の戦いは北条側の敗戦に終わります。
ココ↓辺り木々に覆われた場所が全部権現山城址で後の青木城址の外郭出城。
この戦いは現在の本覚寺側、台町の方から敵が丘伝いに侵入して来て籠城側は防戦に失敗したと言われています。その反省から城主が多目元忠公に成った時代には本覚寺側の丘に防衛機能の主要部を移動して村名から青木城と改名した様です。
権現山城址~青木城址遠景(Google map)
Google mapで衛星写真を表示すると現在は明治の国道1号線開削と鉄道建設で分断された昔の青木城~権現山城の地形が海に突き出した半島地形で要害性の高い断崖だった名残が見て取れます。
現在の横浜駅や金港町辺りは江戸時代までは海だったんですよ。幕末に勝海舟さんが神奈川台場と言う要塞を築くために権現山城址の山を削り、更に明治時代に成ってから周辺の海は神奈川台場もろとも埋め立てられました。

この青木城主の多目元忠公は北条氏康公の軍師(ぐんし=参謀)で、史実では河越合戦において北条氏康公の手勢8000の内、兵2000もの大部隊の指揮を任されていました。
また元忠公は全軍に作戦命令を出せる立場にあり、河越合戦でも殿様の北条氏康公と全軍に対し彼が独断で攻撃中止命令を出せる程に信頼されていた名軍師でした。
北条氏康公は内政に優れていただけでなく武将として優れた武勇と統率力を有し直接危険な合戦で部隊指揮を担う事も有り河越夜戦では主力の内、本隊御馬廻り衆を率いて敵の扇谷上杉家や山内上杉家の大軍に突貫し壊滅させた程でした。この時に北条氏康公と敵軍を挟撃して大混乱に陥れたのが僅(わず)か3000の兵で河越城籠城を本隊8000到着まで半年間持ち堪(こた)え成功させた黄備え隊北条綱成公でした。
しかし北条家で最強の二入は敵軍と交戦状態に在り、乱戦の中で全軍の指揮をとれなかったので本陣で戦況をコントロールしたのが多目元忠公だった訳ですね。
つまり三国志で言えば劉備の徐庶や諸葛亮の役割を、孫権における周瑜や呂蒙や陸遜や徐盛や丁奉の役割を、曹叡における司馬懿や満寵の役割を担ったのが北条家では多目元忠公だった訳です。
KOEIのゲーム信長の野望天道PKにも以下の超高スペックで登場しています。
統率73 武勇40 知略97 政治46 義理90
…凄いんだよ結構。

SEGAの戦国大戦でも低コストなのに高評価↓コレね。
 
ちなみに…
しかし彼の子供達と思われる人物の所領は総合計しても玉縄衆黄備え隊の付家老だった間宮家に遥かに劣り、軍団長としては不可解な冷遇をされている可能性が有り、それがもしかしたら北条為昌公が起こしたかも知れない北条氏康公廃嫡運動=謀反未遂事件に関与したからかも知れません。
これは解説③の回で小田原所領役帳で多目姓の武将の所得と立場を見ながら解説します・・・

ここからは青木城周辺の地勢と歴史を解説し、それから青木城の❝縄張(なわば)り=構造❞の推測を解説したいと思います。

・・・戦国時代の名将多目元忠公と居城の青木城も江戸時代に成ると廃城に成りますが古くから海運と陸運の交通の要衝だったので青木城の在った場所には東海道「神奈川宿(かながわじゅく)」が置かれ、旅客で賑わいました。
実は古代には恐らく一帯は港として流通拠点と成って開けており、直ぐ近くの六角橋と言う綱島街道の旧道と東横線の駅に沿って伸びる商店街の辺りには日本武尊(やまとたけるのみこと)が西暦100年代に滞在した伝承が御当地の久応山寶秀寺と三浦半島の走水神社の神話に残っています。
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※以前六角橋商店街や神話の土地を散歩した時の休日雑記⤵
休日雑記 2017年03月18日の訪問先…【神奈川区】昭和の風情漂う六角橋商店街と安くて美味いオデン屋"かずさや"さんと塩嘗め地蔵と寳秀寺参拝で美味しい神話探訪。

冒頭の方で室町時代にも足利尊氏公が青木城の前身と成った権現山を城砦化して籠城し、更に室町期も戦国時代に突入すると北条家臣間宮信冬公が籠城した事も少し触れましたが、この付近が重要な地域だった事が解るのが青木城址の在る神奈川区の隣接区である鶴見区の長谷山寶泉寺と間宮家の歴史です。
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寶泉寺と間宮家の関わりを解説した記事→【間宮信元公と間宮康俊公の戒名の誤り】
戦国時代の北条家にも江戸時代の徳川幕府にも重視された神奈川宿には幕末にも超メジャーな歴史人物が関わっています。
昔の神奈川宿の東海道旧道沿いに現代も存続する「田中家」と言う料亭で働いていた人物です。

その人は坂本龍馬の奥さんで未亡人の「お龍さん」です、意外でしょ?
京都生まれのお龍さんの終焉の地は神奈川県なんですよ。お墓は横須賀市大津に在ります。
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以前書いたお龍サンの菩提寺、横須賀市大津の信楽寺(しんぎょうじ)の記事。
これクリックで読めます⤵
坂本龍馬サンの奥さん、お龍サンの御廟所:信楽寺(横須賀市大津町)と、京都・神奈川で見る「お龍サン」の生涯。
こんな歴史偉人達が関わった神奈川宿、その神奈川宿の下に成ったのが青木城の一部が江戸時代には今の本覚寺です。本覚寺は幕末にアメリカ領事館として利用されアメリカ公使のハリスサンやドール領事が住んでいました。歴史で誰でも習う人ばかりでしょ(笑)?
この本覚寺の山門がハリスさん達が住んでた頃にアメリカの一般住宅風に白いペンキで塗ったくられてしまうなんて珍事も発生してるんですよ(笑)。まぁ、仏教寺院は平安時代の昔は五色彩色され華やかだったので白く塗られる位は何て事無いのだけれど・・・
黒備え隊、多目元忠公の本拠地だからどうせなら黒いペンキの方がマシだったのかな(笑)?
実はここが生麦事件の重要な現場の一つにも成っています。
薩摩藩の大名行列と英国民間人の間で生麦事件が発生した際に、薩摩藩士に斬りつけられた英国人が逃げ込んだのが、この本覚寺でした。
生麦事件が起きた事により薩英戦争が勃発し、それまで攘夷派(じょういは=外国人拒絶派)だった薩摩藩はヨーロッパの実力を思い知り政策を180°転換し近代化の道を歩むことに成りました。
この幕末の攘夷運動の生麦事件や鎌倉事件も間宮家と関連有るのでが以前解説記事を書いて有ります。
これ⤵
幕末の生麦事件と鎌倉事件、そして江戸時代の梅花山成就院と安土桃山時代~江戸時代の本牧奉行・但馬奉行の間宮家…横浜市港南区、鶴見区、鎌倉市雪ノ下。
さて、こんな重要な土地だったので古代には直ぐに近所の六角橋に日本武尊が滞在し~室町初期の足利尊氏公の権現山城籠城~戦国時代の間宮信冬公と上田蔵人vs扇谷上杉家山内上杉家連合の権現山合戦~江戸時代の東海道神奈川宿設置~幕末の勝海舟による神奈川台場建設~日本初の新橋~横浜(桜木町)間の鉄道建設と神奈川駅設置~現代の瑞穂埠頭米軍基地と横浜中央市場の開設と全ての時代を通じて重要な交通と海運の要所だった訳です。
ですから戦国時代にも権現山城の落城後に地続きの丘を主要部に城を改修して❝青木城❞が改めて築城された訳です。
権現山城址~青木城址遠景(Google map)
画像はGoogle mapに衛星写真を投影した物です。写真の中央には現在の国道1号線=東海道とJR・京浜急行の線路が通っており、線路と国道を挟んで左右に伸びる細長い緑地の右手が本覚寺と台町の丘で青木城址の主要部分、道を挟んで左手の幸ヶ谷(こうがや)公園の丘が昔の熊野権現社の跡であり権現山城跡の主要部分です。
北条家臣の間宮信冬公と上田蔵人が上杉家2万の大軍をここで迎撃した際は権現山城の丘周辺は海で僅(わず)かな砂浜が在る程度の険阻な海に突き出した要害性の高い半島でした。その麓の砂浜が平安時代~江戸時代末期までの旧東海道で、当時は海だった横浜駅周辺は通れないので料亭田中家の前の坂道を登って生野が当時の道順でした。つまり権現山城時代から街道を抑える重要な拠点であり、水神信仰の熊野信仰の場所でも有った事から海に突き出した半島にも関わらず飲み水に成る湧水の泉か滝が存在した事が推測出来ます。
海道を抑える場所な上に、三方を海に囲まれた険阻な場所ながら飲み水が確保出来たからこそ、足利尊氏公、そして後に北条早雲公の命を受けた間宮信冬公が城を築城して籠城する事が出来たのでしょう。
権現山城址遠景(Google map)
権現山城の地形は今でも険阻な丘ですが、幕末の神奈川台場建設で海の埋め立ての為にだいぶ削られたので昔の高さも城の遺構も残っていません。
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でも幸ヶ谷公園に行くと、権現山合戦の現場である説明の看板が有ります。
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幸ヶ谷公園に登ると昔は地続きだった本覚寺や背後のマンションを含めた青木城の主要部分が良く見えて平地からの高さを確認する事が出来ます。
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青木城部分の本覚寺は幕末にアメリカ領事館に成っていましたが、実は権現山部分も外国の大使館に成っていました。
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浄土真宗高田派の堪行寺サンです。フランス公使館として機能していました。
この辺り一帯が戦国時代の青木城址だった名残りは少ないので現代では城跡で、しかも北条家の重要拠点だった事なんて現代の横浜市外から移民して来た横浜市民には余り知る人も少ないでしょう。
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でも明治時代に丘を掘り切って削り込んだ鉄道の広い線路の上に架かる橋は❝青木橋❞と言う名前なんですよ!
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橋の両端の交差点の名前にも成っていて交差点の信号に付いている看板を見ると、ここが青木城だった事を知る事が出来ます。
迅速測図 神奈川宿周辺 久良岐のよし
権現山を削って作られた神奈川台場は明治時代の迅速測図でも形を見る事が出来ます。
画像の右下の海に飛び出した島が人工島の神奈川台場と言う大砲を何基も据えた近代海上要塞でした。この台場の大砲は、外国人居留地と成っていた現在の山手~元町~横浜中華街~日本大通りの関内地区に向かって設置されていて、外国人居留地に駐留する英国軍やフランス軍が争乱を誘発しようとした瞬間に横浜港に停泊する外国軍船や貨物船や居留地を「砲撃で打ち払い駆逐するぞコラっ(; ・`д・´)‼」と言う虚勢と言うか無意味では無い威嚇の役割が有りました。
今では神奈川台場建設の見て取れない幸ヶ谷公園側にも恐らく城の遺構と小生が推測する場所が辛うじて一箇所だけ存在します。
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幸ヶ谷公園と創価学会東神奈川平和会館の間を貫く微妙な深さの道路ね・・・
これ、もしかしたら権現山城の先端部分と当時の主要部分を曲輪として分断する為の堀切を兼ねた堀底道の名残で山の切削で堀が浅く成ったものの生活道路として利用されてるんじゃないのかな?
・・・と城好きの小生には見えました。
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今は削られて真っ平らだけどね。新編武蔵風土記稿の絵を見ると丸いラクダの背中みたいな形の山だったんですよ。
さて、地形の名残の余り無い権現山城時代の主要部分と違い、JRと京急線の線路を挟んで反対側の本覚寺側には恐らく城の曲輪跡と思われる地形が沢山残っています。
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先ず、この本覚寺の登り自体も青木城の大手口の名残だと思います。
御覧の通り登って来て、山門と本堂の在る一段高い削平地を横切る形でS字クランクしています。
これは❝食違い虎口❞の跡だと小生は推測します。
青木城主要部分明治期 迅速測図 久良岐のよし
明治時代の迅速測図でも同じ地形なので、これは近代土木技術の無かった室町~江戸時代に作られた地形だったと言うのが小生の推測の根拠ですね。
そして本覚寺の庫裡と本堂はL字に配置されていますが、左手の墓地や周辺の段地や断崖地形も迅速測図で確認出来ます。
これをGoogle mapの立体衛星画像で見て見ましょう。
青木城主要部(Google map)
小生と同じく城好きな人、これどう思います?
墓地の中で本堂側に突き出した小さな半島状の突起構造は本堂背後に上がる道を塞いでいた城門の枡形虎口の片側遺構だと小生は睨(にら)んでいます。つまり切り残された❝土塁❞ですね完全に。
本覚寺の墓地の段地は完全に帯曲輪と武者走りの遺構ですよね?そして恐らく当時の本丸は背後の住宅街なの略略(ほぼほぼ)間違い無いでしょう?地形的に。
当時の本丸へのアプローチは本覚寺本堂裏手の半島の上の更に半島の様な地形の墓地の段地でしょう。そこの墓地への登り口が武者走りで、本覚寺は三之丸の様な場所、権現山城は青木城時代は出丸として機能し本覚寺本堂裏の墓地から段々に本丸の集合住宅地の台地最後部へ続く❝連郭式(れんかくしき)城砦❞つまり細長く段々に兵を配置する曲輪が設けられ、曲輪を順番に突破しないと本丸に辿(たど)り着けない城の構造だったと推測出来ませんか?
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この本覚寺墓地裏手の白い集合住宅の在る削平地の台地が本丸でしょう。恐らく左手の坂道は裏手の門へと続いた別の道だと思います。
青木城址遠景(Google map)
この坂道の有る本覚寺入口側では無くて青木城址の台地を反対側の衛星写真で北側から見ると良く解りますが、この坂道の先には大きくくびれた人口の竪堀(たてぼり=山裾をえぐり取り丘の侵入経路を細くしたり、山の斜面で敵の横移動を防ぐ構造)の大空堀と思われる地形が有りますよね?
本覚寺高島山公園周辺地形 久良岐のよし
丁度、高島山公園の辺りです。ここが丘側の城門が在った要所であり、高島山公園横の台地がV字に抉れた地形は人口の大空堀だと小生は推測します。
これ程大規模なのは自然地形でしょ?と北条流の築城術を知らない他府県、こと中部地方の人は思うかも知れませんが違いますよ。これは恐らく人工地形です。
戦国時代の北条家が末期に水軍の拠点にしたのは久良岐郡杉田湊(みなと:横浜市の埋め立てで消滅)、三浦半島の三崎城の北条湾、伊豆半島の下田城の下田港が特に有名でした。
その三崎城にも同様の大空堀が存在し、自然地形に見えますがV字の人工地形と三浦氏教育委員会も認識しています。
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縄張り図の右上のV字の谷が大空堀で人工地形です。
北条流の築城では台地に築城する際は台地側面を深く抉(えぐ)って大手と反対の防御の弱い地形の侵入経路を細くして虎口を作る事が多かった様です。
さて、御城としての名残を辿れるのはここまででしょうか?
では次に本覚寺さんを見て見ましょう。
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山門の横には高度経済成長期に歴史と文化の史跡の名残を少しでも残そうと尽力された細郷市長が揮毫(きごう=言葉とか名前を記念に書く事)された石碑が有ります。
横浜開港の主導者だった肥後守、岩瀬忠震(ただなり)公の記念碑ですね。
幕末にペリー提督達が日本に開港を迫った際に、遠い下田じゃ嫌だと言い出し交通の要所で江戸からも近い神奈川宿を無理に開港させようと圧力をかけて来た時に、江戸防衛上非常に問題に成るので対案として埋立地の吉田新田の中の水堀と海で外部と隔離出来て外国人の安全も保障できる上に港としても適している横浜村の開港を対案として提唱したのが岩瀬忠震公でした。
明治時代の有吉忠一市長や昭和期の細郷道一市長や後の高秀秀信市長は、今の史跡と自然破壊容認が得意技でヤクザを勢い付かせるカジノ建設に躍起の林文子市長とは違い、歴史と文化の見識が深く多くの史跡を保護或いは記念碑の建設と歴史を後世に伝える努力と街作りを両立された方々でしたので、細郷市長はこの様に日本近代化の舞台と成った本覚寺にも関わってらっしゃったんですね。
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この山門がアメリカ合衆国の役人に真っ白に塗ったくられた物だそうです(笑)。
柱に名残が少し残っていますね。
本覚寺は曹洞宗の神大寺の末寺としてスタートした小机城下の雲松院の末寺でした。
雲松院は神大寺の廃寺後に神大寺の機能が移転され、周辺の本寺と成ったので古い御寺と誤解される事も多いですが実際の所は白備え大将で小机衆の副将だった笠原信為公が父上の菩提寺として開いた神大寺の末寺です。
さて、そんな経緯が有って雲松院の末寺として開かれた本覚寺ですが、現代では山も削られ背後も住宅街に成り城だった戦国時代どころか江戸時代の昔とも随分と風景も違うでしょうが、御本堂は立派です。
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記録に無い情報もちゃんと取材しないと気が済まず現地に行く主義の小生、数年前にちゃんと御寺に御参りに数年前の取材の際に行って奥様と話しましたが、多目家との関わりは無いそうです。
まぁ、菩提寺は三ッ沢の豊顕寺と解っているので、やはり戦国時代には寺院機能は無かった様ですね。
でも曹洞宗の御寺なので、北条家の支援した宗派の御縁である事は偶然とは言え運命なのでしょう。
御寺の寺紋も鶴見の曹洞宗大本山総持寺さん由来の桐紋です。
多目家の家紋、小生はまだ存じ上げません。いつの日か、ちゃんと多目家の御子孫に御会いして家紋の事もお伺いし皆さんにも紹介したいと思います。


次回は青木城の解説から離れて城主の多目元忠公の活躍した合戦と、その合戦の事件背景を解説します・・・

北条家の五色備えは独立したカテゴリーにも成ってますので、御興味有る方はカテゴリー検索してみて下さいね!青備え隊の富永直勝公以外は既に紹介記事が幾つか有ります。
カテゴリー「戦国時代:北条家五色備え」
ここ⤴に記事有るので皆さんの興味を引く人物の事が書いて有るかも知れません。

その②に続く→北条五色備え黒備え大将の多目元忠公【解説②】・・・多目元忠公が活躍した河越夜戦と敵対勢力の解説。





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間宮家臣荒井家、中世には荒井家単独で鎌倉幕府征夷大将軍と室町幕府鎌倉公方の崇敬を集めた瀬戸神社の琵琶島弁才天の二重橋の架橋を許され、それを建築奉納出来る家格と財力を誇った鎌倉~室町時代の荒井家の幻の城址❝荒尾城❞は金沢文庫駅~六浦上行寺裏の浄願寺跡~権現山~御伊勢山全域が城址と思われます!
横浜市が開発利権の為に存在を認めたがらない“荒尾城跡”と推測出来る地形が金沢区六浦に存在するのを小生は藪漕ぎして突き止めました。 
入口は横浜市金沢区六浦の六浦山上行寺を目印にすると良いです。
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六浦山 上行寺この御寺の前まで昭和初期まで海が広がっており鎌倉の外港の六浦湊(みなと)として機能し、平安時代末期~鎌倉時代初期までは坂東武者として武勇名高い千葉家の船着き場で大檀那は当時は千葉家臣だった富木(とき)家でした。
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なので本堂の前には船を繋いだ松の跡が日蓮上人の史跡として記念碑が建てられ語り継がれています。
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平安時代から存続し鎌倉時代~室町時代初期にかけて非常に栄えた寺院ですので、鎌倉文化らしい矢倉が境内や周辺の山中や隣接地の廃寺跡の“スシロー”駐車場等に多く存在しています。
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ここの境内には“旧六浦文化研究所”が在り、横浜市域に置ける中世文化保護の拠点として近年まで機能していました。現在、その役割は神奈川県立金沢文庫に引き継がれています。
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この上行寺の背後には“城マニア”が歩くとどっからどう見ても“山城”な人工地形で溢れ返っているのですが、横浜市は城として話題にすら上げません。その城址と尾根続きの尾根の前には、やはり横浜市が開発利権の為に消滅させた“浄願寺跡”が存在した。
上行寺東遺跡
(※遺跡と言うのは嘘で、横浜市が破壊容認した六浦山浄願寺跡の巨大プラスチック製レプリカ)CIMG6416
この浄願寺は源頼朝公と頼朝公の親友だった真言宗の高僧文覚上人が一緒に開いたとても格の高い寺院で、鎌倉時代末期には京都は仁和寺の僧侶で徒然草の筆者として有名な兼好法師こと吉田兼好も滞在した場所でした。
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当時は浄願寺跡のマンションの丘の眼前に広がる平地は六浦の港、兼好法師が日々眺めた風景は、さぞ綺麗な風景だった事でしょう。
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これらの事実が浄願寺の後継寺院で金沢区町屋に存在する龍華寺に伝承しているのにも関わらず浄願寺跡の上行寺東遺跡は約30年前に横浜市と某建設会社と某大手不動産会社によってライオンズヒル金沢八景が建設され消滅させられました。
この遺跡は東大歴史編纂所の故:山中裕教授等の多数の著名な歴史学者が保護を訴えたのにもかかわらず横浜市は消滅させました。
そして時代は下って34年後、小生はその背後に荒尾城址と思われる地形を発見した訳ですが、恐らく以前からも多くの城マニアや日蓮宗信徒の方や千葉家臣団や三浦水軍に興味の有る人は御存知の方もいた筈です。
上行寺には日蓮宗に改宗する切っ掛けと成った日蓮上人(以下日蓮和尚御存命当時の尊称の上人を用います)の有名な船問答の伝承が有ります。日蓮上人と同じ船に乗船した千葉家臣の富木胤継公が当時は真言宗だった上行寺を管理していたのですが、その見識と法話に感銘を受けて同寺への滞在を請い、そのまま改宗したそうです。
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本牧山 妙香寺・・・国家君が代、吹奏楽、テニスの発祥地
※太字御寺の名前をクリックすると以前書いた紹介記事にリンクします。
国家❝君が代❞の発祥地である横浜市中区本牧の妙香寺も前身寺院は弘法大師空海和尚が開いた東海寺と言う真言宗寺院でしたが、やはり日蓮上人の滞在が有り、当時の地頭の佐藤家が檀那だったので感銘を受けた佐藤家によって日蓮宗に改宗した歴史が有ります。恐らく、この妙香寺の本牧の丘のふもとに当時あった蒔田湾の港から船で金沢六浦まで移動したのでしょう。これが船中問答の発端に成った筈です。後に富木胤継公は出家し、日蓮宗の大本山、中山法華経寺の初代住職と成っています。
そして戦国武将で関東最強の北条綱成公の付家老で北条家相模十四騎筆頭だった間宮康俊公率いる間宮家の武将に荒井家がおり、その荒井家の祖先が六浦湊の上行寺を支援し杉田湊に妙法寺を開いた日荷(にちか)上人の俗名が❝荒井平二郎光吉❞でした。
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牛頭山 妙法寺
※太字御寺の名前をクリックすると以前書いた紹介記事にリンクします。
荒井家は恐らくは三浦一族の新井氏と同族で鎌倉時代、宝治合戦が起きるまでは三浦市三崎町油壷の新井城にいた一族の末でしょう。荒井と新井は両方とも水軍に長けた一族でした。
三浦本家が滅んだ際に佐原三浦家と供に北条家に臣従したのかも知れませんね。北条家宗家の領国には駿河国が有りましたが、実は和田合戦や宝治合戦で三浦一族と戦った北条家は三浦一族を自分の国で細々と家臣化させて生き長らえさせてた節があり、朝比奈や三浦や由比と言った三浦一族の姓を持つ武将が戦国時代まで存続しています・・・
磯子区杉田の妙法寺近くの杉田八幡宮の別当を代々継承したのが三浦家で、油壷の新井家は三浦一族と伝承します。そして妙法寺の開基は日荷上人であり大檀那は現在も荒井家です。そして江戸時代に荒井家を家臣としていた杉田間宮家の御廟所も未だに杉田妙法寺に存在しています。
荒井と新井は恐らく同族な訳ですが、更に荒井平次郎光吉公は平次郎の名を持つので歴史常識を照らし合わせれば平氏の人間であり、三浦家は平氏の一族です。
この日荷上人は出家前に鎌倉幕府の北条家の武将だったと伝わりますが、鎌倉幕府は1333年に滅亡しています。出家の時に師僧と成られたのは中山法華経寺の第三世住職だった日祐上人だったそうです。
この日祐上人ですが、後醍醐天皇により❝建武の新政❞が行われた建武四年(1337年)に日祐上人が六浦の荒井邸に滞在した事が“如来滅後五五百歳始勧心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)”と言う日蓮上人の遺産の写本から証明されているそうです。
・・・つまり、鎌倉幕府消滅の4年後に六浦に住んでいる旧北条家臣で荒尾城主だった荒井光吉公は、恐らくは北条宗家の北条高時公の旧家臣では無く、場所柄を考慮すると六波羅探題として関西を統治する役目を担った金沢(かねさわ)北条家の北条貞将公の旧家臣だったのでしょう。日荷上人は武士を辞してからは水軍を活かして廻船商人に転身していた様です。
この金澤北条家で一番有名な・・・と言うか、鎌倉時代最大の文化人として有名な北条実時公が邸宅の隣に日本初の私設図書館を開き、これが後の金澤文庫の地名由来と成り、邸宅が後に子孫によって稱名寺として寺院化されています。
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金澤山 彌勒院 稱名寺つまり、鎌倉幕府滅亡後に荒井光吉公は商人と成り、恐らく上行寺と同様に旧主金沢北条家の菩提寺として稱名寺を守りながら、その御縁で仁王門の仁王像を譲り受ける“賭け”に勝ち、身延山まで輸送し奉納したのでしょう。この仁王像、背中に担いで運んだと伝承が有りますが、まぁ~それは物理的に無理でしょうから人力で運んだ事の比喩が伝わっているんでしょう。
そんな自然信仰マニアの源頼朝公や仏教の偉人の文覚上人や日蓮上人や富木胤継入道日常上人や荒井光吉入道日荷が関わり宗教的にも大切な六浦の土地が宗教的な聖地な訳ですが、その地形は鎌倉の玄関口と成る金沢六浦湊を守るに適した地形に在ります。・・・ハッキリ言って城。
荒井光吉公が武士だった時代は鎌倉の玄関口としての六浦港を守る城だったんでしょう、そして領主は荒井光吉公、荒井光吉公の守備した城は荒尾城、と成れば御伊勢山~権現山~笠森稲荷~浄願寺跡の山が荒尾城だったと考えるのが自然です。
金沢区能見台~赤井稲荷~能見堂~釜利谷東の丘に存在した青ヶ台城(本来なら青野台城と呼ぶべき)の方が金沢北条家最後の居城として有名だったので、文献にも登場しない荒尾城は歴史家から着目されなかったのかも知れません。
青ヶ台城遺構の残るのが能見堂跡で、これは景勝地として江戸時代初期まで有名だった場所です。
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青ヶ台城址(能見堂跡~能見台森~釜利谷緑地)
※太字の城址名をクリックすると以前書いた紹介記事にリンクします。

話を上行寺裏の権現山に戻します・・・
城マニアの小生が見ると浄願寺跡~権現山~稲荷山地形はどっからどう見ても衣笠城や青ヶ台城と似ている鎌倉時代の山城なんですよ。
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戦後の横浜市は開発利権に忖度して隠蔽しようとしたのかは解りませんが議論される事はありませんでした。てか、横浜市は城址の発掘調査に城郭専門家入れない事ばかりなんですよ(笑)。
それでも20年前に城郭専門家ではない先生達は自然と文化財の密集する重要区域として保護を訴える形で“金沢八景御伊勢山・権現山周辺文化財調査報告書”を纏め上げて下さったので、小生達は横浜市立中央図書館に行けば調査報告書を読む事が出来ます。
これ等の先生方の偉業、小生が後世に伝えずして何の歴史オタクだろうか・・・
小生は只の行く先々の綺麗な風景と史跡と郷土料理を愛する食いしん坊な歴史オタクだ。
・・・と言うのが今回の記事の投稿の発端に成りました。小生の実名など世に知られず、金にも成らず、現世に生きる小生の手柄に成らなくて良いですよ(笑)♪ 
上行寺~権現山周辺地形 久良岐のよし
地形図で見ても竪堀や堀切が見える程!
城郭研究で権威ある人物による調査支援を求む!
てな具合で、先ずは昨日撮影して来た写真を並べてみたいと思います。
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この階段が上行寺東遺跡の跡地(浄願寺跡)への入口ですが、恐らく浄願寺も大手口の要塞として機能していたの思います。
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その直ぐ先にはクランクした切通し状の地形が有りますが、この地形は上行寺の御住職様に確認した所、昔から存在する道を拡張したもので以前からクランクしていたそうです。
・・・食い違い虎口ですね。
先に進むと階段が在り、そこに小さな御社が在ります。
その御社の反対側には浄願寺跡に向かって供養塔が在ります。
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恐らく、この平場は近年の削平ですが、この台地も昔は曲輪の一つだったと思います。
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下に降りるとさっきの食違いの場所。
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そこから西に向かって伸びる上行寺の墓地は帯曲輪状に成っており上行寺の境内まで続くので、どうやら上行寺も虎口だった様です。つまり寺であり虎口の防塁として期待された配置だった様です。
もしかしたら浄願寺も源頼朝公が聖地霊場としての意味と、六浦湊を守る権現山の要塞の大手口を守る機能も合わせて開いた御寺だったのかも知れませんね。
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先に進むと林道は藪化していますが、今の時期なら蚊も蛇もいないので藪漕ぎしながら安心して歩けます。
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人工的に切り残された岩盤が台地状に成っており、横をすり抜ける順路でしか先に進めないのでこの岩場も曲輪の名残りだと思います。
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山裾は全て海蝕岸壁と言う訳ではなくと、下には上行寺始め谷戸構えの寺院が存在し、おのずと鎌倉時代の裾切り山城に見られる城壁と化しています。
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ここは左右の崖地が前後より尾根より竪堀状に抉(えぐ)れていました。
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そしてココは明らかに尾根を断ち切り敵の侵入を防ぐ堀切地形で引き橋が架かっていたと推測出来ます。同様の構造は衣笠城にも有ります。三浦半島の観音崎多々良浜は三浦一族多々良家の所領で観音崎灯台や近代要塞へと続く尾根道も同じような裾切りされた細い尾根に加工されています。
金沢北条氏の初期の邸宅跡の稱名寺を囲む谷戸の稲荷山は金沢城と推定されており、やはり同じ地形に人工的に加工されています。
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ここは権現山方面に伸びる尾根ですが、やはりこの箱状地形を巻く様に道が付けられており、ここも曲輪だった事が推測出来ます。
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・・・落ちたら死ぬyo~♪
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竪堀状地形の尾根の抉れだったかな?
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まぁ、明らかに連郭式山城ですかね。
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権現山の頂上。ここから上行寺~御伊勢山~笠森稲荷側に分岐します。
ここは以前からの削平地で現代の削平では無いので、城址の重要な曲輪で恐らく本丸か二の丸の様な役割を担っていた場所だろうと思います。鎌倉幕府が終焉を迎えて荒井家が守備を放棄した後、小栗判官と照手姫伝説の頃には盗賊の拠点と成っていた熊野権現の御堂が有った事が解る記述が万里集九の書いた梅花無尽蔵に掲載されています。
神奈川県立金沢文庫の学芸員さんの論文によるとそんな景勝地の権現山に万里集九禅師も鎌倉観光のついでか遊覧に来て以下の漢文で詩を残しているそうだ・・・
題名:入武蔵
同日有山曰権現堂(山有りて権現堂と曰(い)う) 
即相武両道之界(すなわち相(相模国)武(武蔵国)の境界である)
古云群盗所聚也
今則不然也
蓋昔有堂歟
駅樹風声入武州
山名権現憩無楼
旅衣未脱昏鴉尽
聊借民爐嘗濁蒭
・・・これは万里集九禅師が金沢区一帯に伝わる小栗判官と照手姫の伝説の一説の舞台として当時は権現堂と言う盗賊の巣窟に成っていた御堂が有ったのですが、万里集九禅師が生きていた戦国時代初期には既に無くて云々と同地を訪問した際に一般人と話している様子を詩にしている訳です。
そこに「権現堂」の名と「相武両道之界」と説名が有り、六浦は正に相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡の国境だったので、この一文が権現山の地名由来の説明とも成る訳です。
権現山~笠森稲荷~東照宮跡に向かう方の尾根。
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先にズンズン進みます。
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ここ!
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帯曲輪状の地形と竪堀だと思う。
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そしてココは東照宮跡方面と、もう一つ北側の横浜市大が在る尾根との谷間。大空堀状に成っている。
恐らく緩やかな傾斜だった場所を掘り下げ拡張して空堀にしていると思う。
ここから権現山に戻り反対側の御伊勢山方面へ・・・
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ここも尾根の先の方から来る敵を迎撃する構造に山が切り残されていた。
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道幅も狭く残雪で少し危険かな。
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そこを抜けると普通に山道に戻る。
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御伊勢山から見える多分、長生寺方面を見た風景。
まぁ、写真に撮り損ねた平場なんかも沢山有って山城好きな人が見たら完全に城なんだよね。
そして、江戸時代の六浦藩米倉家が金沢八景駅と笠森稲荷の辺りに陣屋を置いたのも、有事の際に要害性の高いと言うか城としての機能を手入れすれば使えそうな荒尾城址が権現山だったからだろう。
まぁ~小生一人の意見では何とも説得力が低いので、城ファンに援軍を請う訳だ。

歴代無教養系市長と横浜市教育委員会の城址破壊と自然公園破壊容認の悪事に抗い後世に自然と歴史の遺産を残す為、日本文化を愛する純潔日本人と親日外国人と富裕層と能力と見識の有る人々が蜂起して、力を貸して欲しい!

・・・本日、素人歴史オタクの小生のお散歩(調査)♪では同地の地形山々は全てが人工的に裾切りされた切岸、大きな竪堀が穿たれ、尾根には堀切、夥(おびただ)しい帯曲輪群、そして自然地形を裾切りし拡張大空堀が現存した。
そして新たに中世山城の荒尾城址として城郭ファンに知れ渡る事を期待する。
古代人や歴史偉人が守った横浜市域の古代からの自然崇拝の聖地と貴重な蛍の大生息地の水源と城址文化と歴史・・・
後世に残す為に城郭オタクと専門家、自然風景愛好家、蛍保護活動家の支援を求む!
目下横浜市長によって消滅の危機に瀕している円海山瀬上沢の蛍大生息地と、城址としての歴史を認めない今回の荒尾城、続日本100名城に選定された上で横浜市史跡認定が未だ行われない小机城、これらの場所が史跡認定されたり自然保護区域認定され、東急等の不動産会社の日本文化と宗教と歴史と自然環境軽視の開発利権から守り通せる様に我々横浜市民が守れと騒いでる場所へ援軍と成るリアクションを起こして欲しい!

_以下少しドロドロした市と開発業者への文句_

五十猛命、日本武尊、弟橘姫様、大伴久応黒主公、笠原直使主公、善無畏三蔵法師様、弘法大師空海和尚様、平高望王、平良文公、菅原景行公、菅原淳茂公、源義家公、久良木三郎通継公、源頼朝公、遠藤盛遠入道文覚上人様、和田義盛公、佐々木高綱公、多田行綱公、平子有長公、今井兼平公、佐々木泰綱公、金沢北条実時公、名越北条宗長公、見真大師親鸞和尚様、立正大師日蓮和尚様、富木胤継入道常修院日常上人様、覚山尼様、金沢北条貞顕公、金沢北条貞将公、守邦親王様、権僧都長円親王様、用堂女王様、荒井平次朗吉光入道日荷上人様、宅間上杉重兼公、宅間上杉憲清公、宅間上杉憲直公、万里集九禅師様、太田道灌公、蒔田吉良成高公、間宮信冬公、北条氏綱公、間宮信盛公、多目元忠公、間宮信元公、間宮常信公、笠原信為公、蒔田吉良頼康公、宅間上杉房成公、笠原政尭公、中田加賀守公、臼居久胤公、臼居杢右衛門公、中田鶴野姫様、宅間上杉富朝公、北条綱成公、間宮康俊公、間宮綱信公、北条氏繁公、間宮康信公、宅間上杉規富公、板部岡江雪斎公、石巻康保公、間宮信繁公、間宮於久様、間宮於継様、天秀尼様、間宮直元公、本願寺良如上人様、間宮忠次公、間宮士信公、任蓮社然誉了鑑和尚様、歌川広重先生、山岡鉄舟公、お龍さん、ジョン・ウィリアム・フェントン先生、ウィリアム・コープランド翁、伊藤博文公、大山巌公、渋沢栄一公、渡辺忠右衛門翁、浅野総一郎翁、原三渓翁、フランツ・エッケルト先生、有吉忠一公、渡辺はま子女史、島津忠秀公、柳家小さん師匠、中澤忠雄先生、桂歌丸師匠(笑)・・・
古代から中世の人々が守り伝え江戸時代の人々が保護し明治の元勲と聖商達が文化自然保護と開発を両立して大事にし近現代の文化人が語り継いで来た文化と史跡と貴重な自然と古代の聖地が、これ以上横浜から無文化市長と教育委員会と悪徳建築不動産関連企業に消されません様に・・・
多くの歴史と自然と日本宗教を愛する義士が蜂起し悪事を暴き出し拡散し、未調査、未自然保護区指定、未史跡指定の場所が市指定文化財や自然保護区域指定を受けられます様に・・・

そして、呪詛と言う訳では無いが…
歴史と日本文化と日本古来の宗教と聖地と自然を軽視し神奈川の事を調べもせずに無碍に開発を勧める企業担当者と経営者、それを容認する一部の教育委員会職員の中と一部の歴代市長と政治家に神様仏様とマリア様とキリストの神仏の罰が直撃し改心を促して下さいます様に。
・・・ん?呪詛だこれ(笑)。

まぁ~天罰神罰と言うのはオカルトな話だけでは無くて自分の心の中から湧き上がって来て抑えられなく成る物だ。それが失敗や動揺や判断ミスや病気を起こすもんだから逃げる事は出来ないわな。
困った時だけ厄払いしたとて何の役に立つものか(笑)。
仏教的に言えば利己的な邪(よこしま)な心が邪な物と不浄な物を呼び込むわけだ。
神道的に言えば普段から茅の輪も掲げず潜らずのままでも、忌むべき事が起きた後じゃ既に災難起きてるわな(笑)。普段から氏神様と土地神様と皇祖神に御挨拶して日々の生活を感謝してこそ、御先祖様や土地神様や諸々の神様が守ってくれるってもんだわな。

仮に遺跡や宗教聖地や自然を破壊した後で「ごめんなさい」と言っても取り返しがつかないが、日本古来の宗教でも「普段の行いから変えないと何にも変わらん」し「天罰食らった後で神様に御免なさいは既に不幸のどん底」なのだよ。
変えないとダメだし、データや心でモヤモヤ駄目だと感じたら停めてかいぜんする勇気も必要なのさ。
これね・・・宗教じゃないけどトヨタ生産管理方式でも同じ事言ってるよ。
目先の欲望や体面の維持は長期的には大損こくんです!

江戸時代まで法華衆にカテゴライズされた浄土宗や浄土真宗や時宗は「南無阿弥陀仏」、日蓮宗系宗派の「南無妙法蓮華経」と唱えるのだって、悪事を悔いて反省して以後に念仏を唱えて善行を積むと言う考え方だわな。善行積まずに許される訳ゃ無ぇ~わな。
徳と言えば江戸時代には禅宗の臨済派と曹洞派とカテゴライズされた哲学だって禅問答を重視するか座禅その物を重視するかの差は有れど、普段の生活の「積徳積善」を大事にせぇ~よって考え方だわな。

そんなん神様仏様怒るような事しといて何の反省も無く改心も行動も無ければ神様も怒るわな!
浄願寺をぶっ壊した東急リバブルと同系列の東急不動産が横浜市最大の蛍生息地で水源の円海山の瀬上沢の自然環境を破壊して宅地開発しようとし、それを林文子市長が容認する発言をして栄区民と港南区民と磯子区民が怒り狂ってるわな!
仏教で前科に寛容で反省を促す宗派だって「やった後で御免なさいってのは反省して改心して日々の生活で善行を積んでナンボの物」だからな。
・・・オマエ等、上行寺東遺跡破壊から何も進歩してねぇ~じゃね~か!
現実に言い換えれば酒飲んで飲酒運転して警察に捕まってから「ゴメンなさい反省してます」は意味が無いわな。
東横神社の御祭神、渋沢栄一公は神道無念流の剣術の達人で元武士だったから、伊藤博文公や東郷平八郎元帥と同じく土地開発にも古来の自然信仰や文化や史跡に配慮してたんだぜ?
それを知らない今の東急グループの不動産と開発関連企業の経営陣な・・・
アンタ等、自分の会社の神様からも天罰食らうよ?
御地蔵様の姿した閻魔様や、道祖神様や土地の古代豪族の氏神様が至る所で日本文化と貴重な自然環境破壊をジッと見ているよ~。多分ね。
菅原道真公を左遷した藤原時平の一族郎党が天満大自在天神様と宇多天皇の御霊を怒らせてどんな目に遭った事か…
・・・祟りってな、身分上下関係無く、やった本人の家族にまで降りかかるんだぜ?心の中に自分のやった事で不安が沸き起こり健康と精神のバランス狂って仕事で重大なミスしたり事故起こしたり退職後に死ぬの恐怖してボケと病気の進行が早く成ったりな。
ほれ、三井不動産レジデンシャルの傾きマンション見て見な?

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梅花山南無佛院成就坊と言う横浜市港南区に存在する御寺を御存知でしょうか?
きっと地図を見ても、ネット検索してもヒットする事はないはずです。
この御寺、現在は院号と寺号が簡略化され梅花山成就院とされているからです。
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実はここ、戦国時代には北条家臣として武勇と築城と鷹の飼育で名を馳せた間宮家の居城だった笹下城の本丸だった地形の真下に存在する御寺なんです。
そして現在では成就院とされていますが、本来の梅花山南無佛院成就“坊”の方が浄土真宗の宗主であり戦国時代には軍閥化していた一向宗門徒の総帥に当たる本願寺家当主から直々に名乗りを与えられた由緒正しい名前なんです。
さて、御寺なのに“成就坊”って何?・・・って思う人が歴史に興味の無い人には多いですよね?
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写真は笹下城の本丸跡。成就院の直ぐ裏手の地形ですが、本丸の右側切岸と大空堀地形は三井不動産レジデンシャルによって宅地造成され2017年に完全消滅しています。
さて、本来は江戸時代までは成就院は成就坊と呼ばれた浄土真宗高田派の御坊だった御寺です。
御坊とは浄土真宗の寺院や道場を指した総称の事です。
現代でも僧侶を“お坊様”と呼ぶのは、この御坊や、昔は浄土真宗以外でも大寺院の回りには支院の塔頭寺院が“○○院”や“○○坊”と呼ばれた場所が多く在ったので、今でも僧侶の俗称として“御坊さん”を用いますよね?
そんな浄土真宗の御坊の一つだった成就院は間宮林蔵や杉田玄白の祖先の一門、江戸時代の間宮家の惣領の笹下間宮家と関係が深い寺院なんです。
では何で、成就院は御城の一部に取り込まれる険阻な防御力の高い地形に存在していたのでしょうか?
実は浄土真宗は戦国時代には軍閥化して守護職の大名や地方領主を攻撃し国を乗っ取り完全に坊官(ぼうかん)と呼ばれる僧籍の軍人が治める形であちこちで飛び地を持つ大名化していました。
その為に室町幕府は浄土真宗を禁教にしていた時代も有り、特に越前国・加賀国・越後国の北国街道方面と三河国・伊勢国の東海道方面での一向宗の軍事クーデターは苛烈を極めて長享二年(1488年)には守護大名の富樫政親公を敗死させ国を乗っ取る程の勢力と成りました。
・・・まぁ、こんな事やってれば当然、室町幕府に弾圧されるわな。
同じ様に三河では徳川家康公が一揆勢に苦戦し、重臣の中にも多くの一向宗門徒がいたので家臣の離反も相次ぎ参謀の本多正信公まで一揆に加担して敵対する様な事態を招いてしまいました。
この本多正信公、恐らく後に港南区笹下城址の成就院に関わりが有った筈なのですが、その話はまた後で。
さて、そんな風に軍閥化した仏教勢力の一つが浄土真宗な訳ですが、実は浄土真宗に属し江戸時代以前に成立している寺院には特に城砦化の傾向が多く見られます。
そもそも城址や要塞址に建てられているんです。
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写真は三河安城市の安祥山了雲院大乗寺と言う浄土真宗の御寺です。
・・・もう見た目からして御城ですよね(笑)?実はこの御寺、徳川家最初の本拠地だった安祥城の城址を乗っ取る形で寺院化しているんです。
まぁ大乗寺は平和に成った江戸時代の寛政四年(1792年)に開かれた御寺ですので、一向一揆とは全く関係していない御寺なのですが、浄土真宗が好んで城砦址に御寺を建てたがる具体的な例として写真を保有しているので挙げて置きます。
三河国の浄土真宗の寺院は一向一揆を盛んに煽動して軍閥化していたので、小領主達が坊官に城を差し出し要塞化した寺院として布教と交戦の場として特殊な発達の仕方をしていく事に成りました。
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・・・もうね、大乗寺に関しては完全に本丸乗っ取ってるんですね。
因(ちな)みにここは間宮家とも関係が有ります。
安祥城は同時期の関東の城郭と比較すると規模は矮小ながら周囲を水田と沼地に囲まれた堅城でした。
眼前が耕作地であり街道にも面しているので当然ながら豪族達の勢力争いの舞台と成る訳で、織田家vs松平家&今川家&北条家が壮絶な戦闘を繰り返し行った城としても有名です。
ここは小田原城主の北条家がまだ今川家臣で苗字も“伊勢”を名乗っていた頃に、北条家の伊勢盛時(北条早雲)公が今川家の総大将として永正三年(1506年)~永正五年(1508年)にかけて伊豆と小田原の伊勢家与力衆の軍勢を率いて攻めています。
実は笹下城址に建つ成就院の大旦那(おおだんな=スポンサー)だったと伝わる間宮家も北条家がまだ姓を伊勢と名乗っていて今川家臣だった時代に伊勢家の与力として参戦している事を伺わせる感状(かんじょう=表彰状)が新編武蔵風土記稿の久良岐郡雑色村の項に以下の記載が有ります・・・

舊(旧)家者百姓利兵衛
氏を内田と云(言う)、居住の地を土人(どじん=地元民)古門(ふるかど)と呼べり
~以下中略~
先祖内田對馬守(つしまのかみ)某(なにがし=名称不明)は永正五年(1508年)三月二日卒(そつ=死)す、法名淨元居士
~以下中略(※下の添付画像が感状の文面)~
内田対馬守家感状 久良岐のよし

・・・まぁ内容を砕いて現代口語に翻訳するとコンナ感じです。
  ↓
「今回はスゲぇ~活躍してくれたみたいだね。
 御大殿(今川氏親)様がメッチャ褒めてくれて俺のメンツも内外に対して立ったよ。
 (なので内田さん)親子に(御褒美として)官職をあげちゃうZぇえ~♪
 まっ、そんな感じだよ~ん。
 寅(丙寅年=永正三年=1506年)三月二十八日 ♡(←間宮信親公の花押の代り)
                             内田對馬守殿へ
         同源左衛門殿へ」
この内田対馬守家は現在も笹下城城砦群の城域の一角に住んでらっしゃいますが江戸時代までの居所とは場所が若干違うそうです。本来の古門内田対馬守家は入口が切通し状に成っていたそうで、別の間宮家旧臣の市村家の御子孫から聞いた話では笹下城と北見掃部屋敷と出城松本城と旧鎌倉街道の間道を守る位置に在り、市村家と内田家で洋光台方面からの敵の進撃を阻止し内田家と市村家の配置は虎口状に成っており侵入した敵を挟撃する位置に屋敷地が置かれているそうです。
源左衛門家も“ゲンザムさん”の屋号で近年まで存続していたそうですが、借金で逃散し競売にかけられ断絶したそうです。
実はこの古門内田家に対して発給された感状に登場する“御大途(おおおとの)”と言う表現が当時の北条家では使われていないので、この文章は偽書だと推定する学者さんがいますが、その方々は肝腎な事を忘れてらっしゃって、この時期に伊豆と相模国に勢力を持っていた元は古河公方の家臣だった間宮家は当時は今川家臣です。
そして北条家もまだ伊勢を名乗り、1506年当時は今川家臣でした。
・・・ですからこの感状の示す御大途は、当時の間宮家の寄親だった伊勢盛時(北条早雲)公を指す言葉では無く更に上の今川氏親公を指す言葉と考えた方が自然でしょう。
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そして永正七年(1510年)に現在の京急神奈川駅に在った権現山城で起きた“権現山の戦い”迄の間宮家の棟梁は間宮彦四郎信冬公か間宮彦次郎信盛公と世代的にも文書からの生存確認でも推測出来ます。
では内田對馬家に対して永正三年(1506年)に“間宮信親”の名、この現代の間宮家系図では名前が掲載されておらず誰の旧名か伝わらない名乗りを使った殿様は信冬公と信盛公のどちらか?と謎が湧いてきますが・・・
これは小生の推測では恐らく、間宮信冬公の旧名でしょう。
実は笹下城の築城された笹下村は室町時代まで“杦(杉)田郷”の一部でした。そして間宮家が川崎駅前の堀之内の城砦から今の京急杉田駅前で昔は寺家町と呼ばれた地域に本拠を移したのは永正七年(1510年)の権現山合戦で扇谷上杉家に敗北して杦田郷に逃げて来て以降の話です。
そして杦田郷を本拠にした初代は間宮信盛公で、権現山合戦以後に間宮信冬公の名前は歴史に登場しなくなるので大活躍の記録が残るものの討死した様です。
つまり、間宮信冬公が信盛公以前の間宮家の当主だった可能性が高い訳です。
そして間宮信盛公の別名も伝わっていて、間宮信頼=間宮信盛公とされています。
更に間宮信盛公と直接的に血縁上の親子では無いものの系図上で父とされるのが間宮信冬公なのですが、間宮信冬公と北条家以前の小田原城主だった大森藤頼公は義兄弟だった事も判っています。
つまり、間宮信冬公は元々は古河公方足利家の家臣で格上の同僚の大森藤頼公と仲が良かったので義理の息子か後に末期養子(まつごようし=死後に跡を継いだ人物)と成る程に目をかけていた近親の信盛公が元服する際に大森藤頼公から一字を貰い初名を間宮信“頼”と名乗らせていたと考えると自然でしょう。
そうなれば伊勢盛時(北条早雲)公の存命中の間宮家当主の間宮信親公は当然、今川氏親公の存命中の人物でも有りますし、今川家と協力関係に有った扇谷上杉家とその与力の小大名の大森家とも関係が深いのも自然な話に成る訳ですね。
つまり、間宮信親公は当時の間宮家棟梁だった間宮信冬公の初名でしょう。
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大乗寺の場所に在った安祥城を北条早雲公が今川家臣として攻めた初年度(永正三年:1506年)に、今川家臣として伊勢家に与力して従軍した間宮信親公の部下だった古門内田家の内田對馬守サンは息子の源左衛門さんと大活躍して褒められて朝廷の官職を貰った訳ですね。
まぁ、この安祥城争奪戦は永正五年(1508年)まで続き、結果的に今川家が諦めて敗北している合戦で領地も増えていなので、今川家の殿様も官位しかあげられるモノが無かったんでしょう。
さて、こうやって見て見ると、“御大途(おおおとの)”様が北条早雲公ではなく今川氏親公で間宮信親が間宮信冬公と推定出来ると小生が個人的に思っている事も何となぁ~く皆さんに伝わったでしょうか?
こんな感じで三河安城市安祥城址の大乗寺はじめ、横浜市笹下城址の成就院だけでなく多くの浄土真宗の御寺は城砦の跡に存在しています。
こんな文献に登場する事を辿れる場所が現在も笹下城の跡を訪れに港南区笹下に行くと残っています。
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内田対馬守家の御廟所と、その入口に建つ庚申塔馬頭観音様です。
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御墓は私有地なので勝手に入る事は出来ませんが、馬頭観音様の足元には江戸時代の内田家の御子孫達の御名前が彫られていますね。
そんな内田さんの家は間宮家臣で成就院は一向宗と言われた浄土真宗の御寺な訳ですが、軍閥化した仏教宗派は浄土真宗だけでは無いんですよ。
それに浄土真宗の中にも当然ながら高田派や西本願寺派の様に学僧として又は僧侶として修行と学問と布教に励むタイプの御坊さん達も多かった訳で、軍閥化したのは特定派閥の問題でした。
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※写真は西本願寺内に在る重要文化財の飛雲閣。飛雲閣は一般非公開で不定期に公開される。
だから豊臣秀吉も西本願寺を支援して自分の居城だった聚楽第の飛雲閣を寄贈したりしてる訳です。
浄土真宗の中でも例えば今回の解説で取り上げる成就院の属す高田派や、後の本願寺十一世宗主の本願寺准如上人に始まる西本願寺派等は穏健派として知られ細川政権~織田政権時の室町幕府や後の豊臣政権とも友好関係を維持し布教活動で宗教としての信頼と勢力を拡大する事に成功しています。
そして当然ながら東本願寺も(主に本多正信公の影響で)徳川家の支援を受けて江戸時代には平和でとても立派な修行を重んじる宗派に成って行った訳です。
まぁ、各時代の人の価値観を現代人の価値観で見ても何にも共感できない部分が有って当たり前なんですよ。
日馬富士の暴行を「格上だからやってよい」と肯定するモンゴル国民が多いのを、法治主義国家の日本国民が理解不能なのと同じです。

まぁ、浄土真宗だけが軍隊を持って暴れまわってた訳では有りません。
天台宗の総本山だった比叡山延暦寺も平安時代末期には軍閥化した上に度々、僧兵が京都市街で横暴を働いて困っていた様子が平安時代末期の白川天皇のこんな言葉として伝わっています・・・
賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの
・・・この山法師と言うのが比叡山延暦寺の僧兵で、彼らは延暦寺の守護神だった日枝権現の御神体を神輿に載せて担ぎだしては不敬にも天皇家に対して無理難題を強訴(ごうそ=武力で脅迫し採決させる事)していました。
比叡山は鎌倉時代には近江国守護の佐々木家と合戦をしたり・・・
鎌倉時代末期には天台座主として延暦寺に君臨した大塔宮(だいとうのみや)護良(もりなが)親王は軍事修練を好んだ人物で、自ら軍勢を率いて鎌倉幕府倒幕の戦争を起こしたり南朝の将軍として鎌倉に赴任すると北朝の光厳天皇派の足利尊氏公とも合戦をしています。
室町時代には天台座主だった足利義教がクジ引きで将軍に成ると、彼は無用な殺戮を繰り返し残虐さを露呈したり・・・
戦国時代にも延暦寺は佐々木家の子孫の大名の六角家と合戦を行ったり・・・
六角家が織田家によって近江から駆逐されると今度は織田家の対立勢力である朝倉家の軍勢を比叡山に招き入れ織田家に対して戦争を嗾(けしか)けたりしています。
・・・まぁ、結論から言うと天皇家の忠臣だった織田信長公によって御存知の通り誅され全山焼き討ちされ、その後に明智光秀公の女婿の明智秀滿が正体と言う説も有る天海大僧正と徳川家によって大復興されるまで、天台宗は完全に軍閥化していました。
因みに現代でも延暦寺はヤクザの山口組と関係が深かったりします。

他にも領土的な野心は無くても真言宗も紀州(和歌山県)の根来寺を本拠地にした根来衆と呼ばれた僧兵と傭兵集団は鉄砲で武装した強力な軍隊として存在していました。
この根来衆も後に徳川家臣の成瀬正成公の配下に組み込まれ活躍した“軍人”でした。成瀬家は後に犬山城主と成り尾張藩主徳川家の付家老を務めた徳川家の譜代大名ですね。

そんな訳で、戦国時代当時の仏教の宗派の中には武装して軍隊を持っている宗派もおり、中でも浄土真宗は城や要塞に寺院機能を置いて政庁や防衛拠点としていた訳です。
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さて、笹下城址の成就院に話を戻すと、隣には笹下城の大空堀の跡が近年まで有りました。
笹下城空堀の様子 久良岐のよし撮影
ここは港南歴史協議会が編纂した“こうなん道ばたの風土記”に挿絵があり、昔は畑地で良く空堀の形状が残っていたので、IHIが土地を買い駐車場にしても地形を見る事が出来ました。
この写真の風景も近年宅地化で盛土され消滅しました。
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写真の空堀跡の横のアスファルトの歩道は昔はもっと狭かったそうで、これが武者走りだったそうです。そしてこの空堀が畑地だった頃にはまだ梅の木も有ったのですが、実はこの梅の木が成就院の山号の由来と関係が有ります。
山号の由来は“杉田梅”です。
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写真は小田原市の曽我梅林に移植され今も残る“杉田梅”です。
室町時代~江戸時代初期の成就院(当時の名は“成就坊”)の大壇那だったとされる間宮家は主家が北条家の時代に北条家臣団に広まっていた梅の植林を実施していたので、成就院のみならず旧杦田郷の間宮領は全て広大な梅林が有り「杉田梅林」として有名でした。
間宮家と同時代の殿様で北条家臣化した蒔田吉良家の拠点にもやはり梅林が造営され今も梅林に関する地名や梅林そのモノが残っています。
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写真は世田谷の豪徳寺です。今の季節は紅葉の名所としても有名で、江戸時代は大名の井伊家の菩提寺だったので現在放映中の歴史大河ドラマ“おんな城主直虎”の影響で歴史に興味の有る観光客で賑わっています。
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招き猫発祥の御寺としても多くの参拝客で賑わいます。
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まぁ、本来の豪徳寺が発祥の招き猫は”厄除け”と“立身出世”の御利益で財運ではないんですがね(笑)。
豪徳寺は世田谷城だった訳ですが、そこを治めた蒔田吉良家は横浜市南区に存在した蒔田城を戦国時代まで本拠に後に、世田谷区の世田谷城(豪徳寺境内を含む一帯)を本拠にした小大名で足利家一族として高い家格を有した家でした。
そんな蒔田吉良家の居城跡の豪徳寺の周辺一帯の住所が今も“梅丘”で、蒔田城の近くの岡村天満宮には岡村梅林も残っています。
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成就院の梅林が杉田梅林と呼ばれたのは、先述の通り戦国時代には笹下村は杉田郷の一部だったからです。笹下村が笹下郷として分離するのは江戸時代に成って分家の杉田間宮家、氷取沢間宮家が成立してからの話で、それまでの北条家臣時代の古文書には杦田郷と笹下の地名の両方が登場します。
笹下と同じく間宮家旧領に当たる現在の港南台地域南西部にも近年まで梅林がいくつも存在していました。調べると港南台地区では小原サンと言う旧家が治めた一帯に特に梅林が多かったそうです。
これが小生の栄区に成ると、途端に梅林は無くなりますので間宮家が梅の生産に力を入れていた影響は近現代まで残っていた様ですね。
江戸時代には“杉田梅林”は日本規模で有名に成り笹下城址の梅花山成就坊や杉田の牛頭山妙法寺の杉田梅林は江戸からの観光客で大変に賑わい、第十三世本願寺家当主であり宗主の“本願寺良如上人は当時は日本屈指の景勝地だった金沢八景を遊覧した後に、杉田梅林に観梅に来られ成就坊に滞在された”歴史が有ります。
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特に杉田間宮家の菩提寺である杉田駅近くの牛頭山妙法寺はズバリ、杉田梅の名所として特に人気の有った観光地でした。しかしコチラも横浜市教育委員会が梅林を保護しなかったせいで戦後の宗教政策で御寺の土地を接収されて後に梅林は伐採され杉田の杉田梅林も消えてしましました。
現在の妙法寺の御住職様が境内地の山上に杉田梅林を僅かでも復興しようと努力されています。
この妙法寺は日蓮宗の御寺です。
杦田郷笹下村の梅林を見に来て成就院に滞在された良如上人は成就院の梅林の見事さに感動したそうで、以後、寺の山号を「梅花山」とし寺号を梅花山南無佛院成就坊と名乗らせました。
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※写真は曽我梅林、昔は笹下や杉田や港南台にもこんな広大な杉田梅林がそこかしこに広がっていて、明治には皇族も度々観梅に来た程でした。
しかし、その梅林を含む成就院の境内地は戦後の宗教政策で接収され、横浜市教育委員会が昭和中期に保護を怠りIHIに宅地開発されてしまった為に、悉く伐採され消滅してしまった訳です。

そんな間宮家が保護した成就院ですが、良如上人の逸話と浄土真宗が城跡を好んで御寺を建てる事を紹介したので成就院の宗旨の歴史についても調べてみましょう。
昔の宗旨と寺域についてですが、現在でこそ、明治政府の宗教政策と戦後の宗教政策で境内地を多く接収されてしまった為に境内の広さは普通の規模の寺院です。
しかし御寺の歴史は中世に浄土真宗に改宗するまで法相宗だった歴史が有る事から平安末期には存在した可能性が有あります。
法相宗だった当時の寺号は曲田山帶行寺と判明しています。
この曲田山の山号は地名由来です。新編武蔵風土記稿の久良岐郡雑色村の解説に以下の記載が有ります・・・
雑色村
高札場二ヶ所
 一は村の中程、
 一は北にあり、
小名(こな=住所の丁番地に相当) 曲田 村の東を云
・・・つまりですね、笹下郷の中の雑色村の中の東側だったそうです。そして、その更に東の先に立野(たての=館野)と呼ばれる地名が有ったのですが、これが現在のファミレスのバーミヤン等が在る辺りの様です。この曲田と立野の境目が笹下川だった様ですね。

成就院が“梅花山南無佛院成就坊”と呼ばれたのより更に昔の曲田山帶行寺と呼ばれた時代の宗旨だった法相宗は歴史の古い宗派です。奈良時代~平安時代初期が全盛期だった宗派で、その後は中国留学から帰って来た伝教大師最澄様が伝えた天台宗や、弘法大師空海様が伝えた真言宗が流行しました。
空海 公式ホームぺージより拝借 久良岐のよし
空海和尚と言えば来年公開される日中合作の映画の主人公に成っていたりします。
公式ホームページ→http://ku-kai-movie.jp/
まぁ、浄土真宗は空海和尚=弘法大師様の系統ではなく最澄和尚=伝教大師様の系統から分派した宗派です。成就院は鎌倉時代に親鸞上人の来訪時に法相宗から浄土真宗に改宗しています。
江戸時代の風土記稿の記録を見ると、最大時は本堂の他に、鐘楼、広大な境内地に塔頭寺院を境内に3寺持つ大寺院だった様です。
具体的に・・・
本堂 ・・・間口七間=12.7m、奥行き六間半=11.8、護摩壇が存在した。
     ※源頼朝公が一百座の護摩修行を行った日に壇上に守護仏の観音像を一体奉納。
鐘楼 ・・・享保五年鋳造の梵鐘
薬師堂・・・行基作の薬師如来を祀る。元は香林寺と称して境内の外の東側に在った塔頭。
     ※地震で倒壊し江戸時代も未再建。
     ※数度の賊難に遭っている
    (鎌倉時代に新田義貞が鎌倉幕府打倒で鎌倉に来襲した際に周辺に略奪放火を行ている)
    (戦国時代に房総半島の里見家の海賊が杦田郷で略奪放火繰り返す)
     ※承應年間に境内地に写し薬師堂と成った。
山門 ・・・四つ足の門、旧間宮家の笹下陣屋の邸門を、間宮家の下総転封時に移築した。
林貞寺・・・塔頭寺院。元和元年開基。
      境内の巽(たつみ=南東)の方向に在ったが江戸末期には建物は消滅。
乘船寺・・・塔頭寺院。艮(うしとら=北東)の方に在った。江戸末期には消滅。
      開基の乘船と言う人物は天文二年(1533年)八月二日に亡くなった人。
     ※実は乘船が実は墓所の解らない間宮信元公と同一人物の可能性有り。 

この様に全盛期には比較的大きな規模を有していた事が解る御寺なのですが、先代の檀家総代様に取材をした際に「無住職だった時代が有る」と教えて頂く事が出来ました。
実際、歴史的に間宮家主君の北条家は当初、室町幕府織田政権と同盟関係に有り浄土真宗と敵対関係に在ったので浄土真宗は禁教だった為に滞り無住職だった時期も有ったんですね。
織田政権以前も浄土真宗は越前国で朝倉氏と大規模な軍事衝突を起こしたり加賀国で富樫氏を滅ぼす等、軍閥化しており幕府から危険視されていましたから。
又、元は西本願寺派とされているのは良如上人の滞在で西本願寺だったと誤伝されたと考えた方が自然でしょう。
そもそも西本願寺派の成立は文禄元年(1592年)の本願寺光佐:顕如上人の入滅後に、教如上人が反織田~豊臣政権の姿勢を固持し穏健派坊官を悉(ことご)く排除した事に由来し本願寺光昭:准如上人が豊臣政権の支持で現在の西本願寺を建立して以降の歴史なので、それ以前の成立は有り得ない事を考えると当初から高田派として法脈は続いてんでしょうね・・・
高田派は織田政権や北条家に協力的な派閥で弾圧の対象にはされていませんから。
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その西本願寺派の初代と数えられる准如上人が、大阪佃村から移住した江戸の佃島の漁師達の協力で海を埋め立てて開いたのが現在の築地本願寺だったりします。まぁ、今の建物は近代建築ですが。
築地の名前の由来だったりもしますね。
・・・なので穏健派の高田派だったので、北条家に憚り大々的な間宮家の支援が無かった時代が有っても浄土真宗から改宗させられる事も無かったのでしょう。
しかし戦国時代を通じて破却も改宗もさせられずに存続した寺院なので当初から高田派に属し笹下城内の本丸や館地からも近い事から間宮家の持仏堂の様な役割で細々と存続していた訳です。
それが解るのが塔頭寺院として戦国時代に存在していた乘船寺の記載で、乘船寺を開いた乘船(間宮信元公か?)が天文二年(1533年)八月二日に亡くなったと書かれている事から北条家臣間宮家の時代に塔頭寺院を開く様な支援が有り成就坊が機能していた事が解る訳です。
信元公の御子息の間宮康俊公が天文五年(1536年)から間宮家を代表して鶴岡八幡宮の再建に参加しています。ですから間宮家が支援した成就院で塔頭乘船寺を開き1533年に亡くなったのは間宮信元公かも知れないと個人的に推測しています。
尚、間宮家旧主の足利成氏公が逆徒の上杉家により鎌倉から逐(お)われ移住した古河周辺は浄土真宗寺院が多い事から鎌倉(古河)公方の家臣時代の間宮家も浄土真宗を支援していたと考えると自然でしょうね。
後に支援者の間宮家が徳川家臣と成ると、徳川家重臣で熱心な浄土真宗門徒の本多正信公が玉縄城主成った事により、堂々と宗教活動を間宮家も支援出来る様に成ったと推測出来ます。
以後は江戸時代までは西本願寺派で、江戸時代初期には御門跡の本願寺良如上人や九条関白も成就院に滞在したとされ新編武蔵風土記稿にも“元は西本願寺派その後は高田派と成った”とされる解説が有る。
これについては先述の通り高田派だが同じ穏健派の西本願寺派からも重視された御坊だったと考えると、コレも自然。

ここからは成就院に関係した人物と関係者一族で歴史記録に残る人を見て見ましょう・・・
主たる支援者は室町時代からは間宮家と家臣団だった事は解っています。
間宮家は室町時代の初期には鎌倉公方の家臣、戦国時代に北条家臣だった。
北条氏康公の奏者を務めた間宮宗甫公。
玉縄城主北条綱成公の付家老間宮康俊公。
滝山城主後に八王子城主の北条氏照公の付家老として活躍した氷取沢間宮綱信公。
徳川家康公の参謀で江戸幕府初代の鷹匠頭と成った杉田間宮信繁公。
間宮家の一族は伊豆や神奈川県の二宮~大磯、海老名市国分寺、江ノ島界隈、横浜市磯子区~港南区~神奈川区~鶴見区、川崎市川崎区等に間宮一族の領土が有りました。
そして重要な江ノ島神社の別当も間宮一族が勤めていた。
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江島神社と聖地の岩屋の別当寺だった岩本坊は代々間宮家が宮司を勤め祭祀を勤める際は本姓佐々木を使い、明治に成ると間宮と岩本姓に分かれた。
岩本坊は廃仏棄釈で寺院機能を棄て宿望機能を活かし現代も名旅館岩本楼として存続している。
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室町時代に養子を送り込み縁戚と成っている相模国の二之宮の格を持つ川勾神社宮司家一族二宮家もいる。
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江戸時代には久能山東照宮宮司の榊原照久公の奥方に成ったのは杉田間宮信繁公の姫様だった。
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その東照宮宮司家初代の榊原照久公の菩提寺は浄土宗の宝台院別院。
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同じ浄土宗で駿府城近くの華陽院は徳川家康公の祖母の於満様の菩提寺であり、徳川家康公の愛妾となり姫を生んだ間宮康俊公の姫の於久様の菩提寺でもある。
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関東最古の大社の埼玉県久喜市の鷲宮神社宮司の大内泰秀公には間宮康俊公の御子息の間宮康次公の姫が嫁いでいます。
大内泰秀公は徳川家光公が利根川で溺れた際に救助して宮司ながら大名格を与えられた人物です。
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家臣の内田対馬守家の御子孫も旧蒔田吉良家重臣の森家に養子を出せる程の家格が有りました。

北条家が豊臣秀吉によって改易されると、北条家の後釜として関東を与えられた徳川家康公に直臣として取り立てられ一門からは家康公側室の於久の方や佐渡奉行-但馬奉行-本牧奉行を兼務した間宮直元公、江戸幕府初代鷹匠頭の杉田間宮信繁公等の名将を多数輩出しています。
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江戸時代に本家の笹下間宮家が奉行職を辞して、下総国に転封される際に笹下間宮陣屋の邸門を成就院に移築し、それが現在の山門である事は“新編武蔵風土記稿”に記載が有るのみで無く、戦後に成就院檀家と間宮分家と間宮家臣の子孫が資料提供や編纂に関わった“こうなん道ばたの風土記”にも記載が有ります。
しかるに第二次世界大戦の空爆による戦火で“山門は焼失した”とされますが、仏教用語で“山門不幸”等は御寺その物や御寺の家人に不幸が有った事を指す仏教用語です・・・
・・・戦災で焼けたのは本堂で、それは近年再建されています。
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しかし山門は戦後も存在していたのが“こうなん道ばたの風土記”に掲載されている事なんですけどね。
礎石を見ると修繕は間違いなくされています。
個人的な意見ですが、現代の山門は復興された門ではないかと感じる木材の腐食具合いと礎石の新しさなので、“こうなん道ばたの風土記”の記載は情報がアップデートされていないのだと思います。

さて、そんな浄土真宗高田派の成就院を支援した間宮家の宗旨についてですが・・・
実は浄土真宗以外の神道・仏教・修験道にも深く関わています。
・浄土真宗
先述の通り、徳川家臣化後は大々的に浄土真宗の寺院も派閥問わず支援して堂塔を復興して廻っている事も解る。
間宮家、本願寺良如上人、九条関白家と関わりの有った成就院の他に磯子区氷取沢の分家の菩提寺として江戸時代初期には宝勝寺が再興されているが、宝勝寺は伊藤博文公も度々参拝している。
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同じ笹下城砦群の中に位置する東福寺も間宮家との縁起を称する寺院で、間宮家分家で改姓した一族の菩提寺でも有り、旧間宮家臣も一部檀家に居る。内田家も御廟所は私有地だが東福寺檀家と新編武蔵風土記稿に書かれている。
・神道と修験道と真言宗
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間宮家は室町時代~江戸時代の終りまで天皇勅願所の江ノ島の岩屋を管理する奥津宮の別当職を間宮家の一族が代々継承した家系で、修験道や真言宗や神道とも関係が深い。

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祖先は近江源氏の氏神である敦実親王。その敦実親王の邸宅址で敦実親王を御祭神とする延喜式内社の沙沙貴神社宮司を出自とする武家でもある。沙沙貴神社は近江源氏一族の氏神であり佐々木家、六角家、京極家、間宮家、黒田家、乃木家等の氏神でもある。
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更に室町時代には相模国一~五之宮の内、二之宮川匂神社宮司家一族の北条家臣二宮家にも戦国時代に養子を出している。
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真言宗でも室町時代に横浜最古の寺院である瑞應山蓮華院弘明寺は間宮家が深く関わっていた寺で“宗閑”の名の初出展となる寺院だ。
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安土桃山時代には横浜最大の檀林で横浜の地名初出展の古文書や間宮直元公の古文書を所有する南区堀之内の寳生寺。
御本尊は間宮直元公が極彩色の檀那に成っている。
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江戸時代に蒲原代官を務めた間宮忠次公が南区井土ヶ谷の乗蓮寺を支援している。
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本来の名前を大靈山泉蔵院桐谷寺と言った磯子区中原の熊野神社。
ここは元々は鎌倉の山崎地区に在った修験道の大道場で源頼朝公の命令で当地に熊野権現が勧進され以来、泉蔵院の大道場として栄えた。鎌倉の本社である山崎泉蔵院が戦火で焼けると本社機能がここに移され、以後、大靈山泉蔵院桐谷寺と名乗った。ここも間宮家がずっと支援していた修験道の大道場で神谷信久公の古文書の記録も残っている。
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磯子区屛風ヶ浦の森浅間神社ここも又、戦国時代に間宮家が支援した修験道場の跡だが、鎌倉亀ヶ谷権現堂福禅寺の道場として源頼朝公によって開かれ霊場の滝に不動明王が祀られ、後に頼朝公の命令で富士山の化身である此花咲耶姫命の御分霊を勧進し浅間権現が開かれた。福禅寺はどうも鎌倉幕府最期の将軍守邦親王が森浅間神社に逃げて来ている事や弟君の長円親王が福禅寺の住職を務めている事や権僧都と比較的高い身分である事から“門跡寺院”だった事が推測出来る場所。
・曹洞宗
間宮家の旧主北条家の宗旨は曹洞宗で、家臣団は学問や精神修練の為に曹洞宗で禅問答等を行っていた様だ。
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間宮家も間宮信冬公が鶴見の寳泉寺を開き、曾孫の間宮康俊公が参禅したり堂宇を復興している記録が有る。そして旧家臣団によって毎年間宮康俊公の追善供養が行われた間宮康俊公の菩提寺でもある。
この宝泉寺を開く際に開山として招かれたのが青梅市の“福禅寺”の住職。
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福禅寺は今では瑞龍山海禅寺と称するが、これは江戸時代のアホで仕事の出来ない役人が朱印発給の際に寺号を誤記したせいで以後、この寺名を名乗らなければいけなかったから。
以前の寺号や戦国時代に突如天皇家の勅願所に成っている事から、室町時代にこの地で復興される以前の前身が鎌倉の権現堂福禅寺だった事が推測出来て、永享の乱の際に扇谷上杉家によって三田家を通じて当地に福禅寺の字名を復興した事が推測出来る。
つまり横浜の森浅間神社とは別れこそすれ同根から生じた由緒ある寺院と言う事だ。それを裏付けるのが宝泉寺開基の際に福禅寺の住職がわざわざ招かれていると言う事だと推測出来る。
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又、川崎駅前の堀之内は間宮家旧領で駅前の宗三寺を開いている。ここは鶴見区下末吉の宝泉寺の末寺として最初は開かれ、宝泉寺が火災に遭った後は氷取沢間宮家がこの宗三寺で間宮信盛公の追善供養を行っている。尚、宗三寺の寺名は間宮信盛公の戒名に由来し信盛公の菩提寺でもある。
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子孫の高津間宮家も千葉県八千代市高津に高津山観音寺を菩提寺として支援している。
高津間宮家は氷取沢間宮家の子孫に当たり、江戸幕府の昌平坂学問所頭取を務めた間宮士信を輩出した家だ。
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そして真田幸村隊と戦い討死した間宮正秀公は間宮士信公の祖先に当たり観音寺境内社の高秀霊神社に御祭神として祀られ墓所も兼ねている。
・日蓮宗
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安土桃山時代には旧主北条家が大阪の狭山市で小大名に返り咲くと、豊臣政権の影響からか日蓮宗寺院も支援して分家杉田間宮家が杉田の牛頭山妙法寺を菩提寺にしている。
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江戸時代初代当主間宮直元公の菩提寺として妙蓮寺も支援し境内に神道形式で直元公の彫像を祀っていた。
間宮直元公木造 妙蓮寺旧蔵も火災で焼失 久良岐のよし
他の旧北条家臣団の菩提寺で日蓮宗も多い。
幕末に活躍した間宮林蔵倫宋公の菩提寺の東京都江東区の本立院も日蓮宗。
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本立院の飛地境内には間宮林蔵公の被葬地の御廟所が有り東京府時代に史跡文化財していを受けている。
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間宮一族から帰農し江戸時代には豪農と成って東京の大森界隈を開拓し農民を旧北条家臣団の仲間五人と協力して守ろうとした間宮是信サンは悪人領主木原家に殺された後、一族にひっそりと大森の法光山善慶寺に埋葬された。
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明治に成り封建政治の終了とともにタブーが解禁されるや、義話伝承の通りに直訴状や遺骨が発掘され東京都指定文化財に成っている。
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この様に成就院を大切にした間宮家は他の宗旨の寺院や神社でも日本精神文化保護の事跡を残している。

なんにせよ、成就院は檀家にも間宮家臣の子孫が今もおり、更には幕末に当寺から還俗した僧侶が間宮家に養子入りしている事からも、間宮家が笹下を去って後も間宮本家と関りを深く持っていた事が御理解頂けたかと思います。
この成就院から還俗したのが間宮一さんで、鎌倉事件の犯人とされますが小生の予想では当時の神奈川奉行が依田盛克さんで、この依田家は武田家旧臣ながら氷取沢間宮家から江戸時代初期に養子が入っている家なので、江戸幕府と日本を守る為に間宮本家と所縁が深い成就院の身内が犯人として名乗り出て、英国政府との外交の為に人柱に成ったのかも知れないと小生は考えています。
まぁ、こんな風に成就院には間宮家に関する歴史資料が散逸してしまっている部分を埋めるかも知れないヒントが多く有る訳です。

面白い御寺ですよね?
きっと皆さんの御宅の周辺にも実は凄い歴史偉人と繋がりのある神社仏閣や城址が在ると思います。
是非、お散歩して見て下さい。

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう♪
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皆さんは杉田駅と新杉田駅の真ん中辺りに大きな御寺が在るのを知っていますか?

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その御寺の名前は東漸寺(とうぜんじ)と言います。
実は江戸時代まで“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を有した横浜市内では貴重な、とても寺格の高い御寺でした。“禅宗臨済派”と言うのは現在の臨済宗の事ですが、昔は禅宗は臨済宗も曹洞宗も分離しておらず派閥が違うだけと言う認識で幕府からも扱われていたんですよ~。
同じ様に浄土宗も日蓮宗も時宗も“法華宗”の派閥として認識されていました。昔は派閥同士も喧嘩するのではなく別の修行をしていても協力し合って共存していたんですね。
さて、東漸寺の正式名称は…
靈桐山(れいどうさん)東漸寺と言います。鎌倉幕府を開いた源頼朝公の甥っ子の名越北条朝時公の曾孫(ひまご)に当たる北条宗長公が開いた途轍(とてつ)も無く由緒正しい御寺なんですが
…え?こんな写真の立派な門の有る大寺院なんかアソコ等辺りに在(あ)るの?ってのが普通の横浜市民の一般的な反応だと思います。
何で、こんな立派な門なのに目立たないかは、後の解説を読んでいただければ理解出来ると思いますが、先にヒントを言うと明治政府の宗教政策の失敗のせいと、GHQのせいです。

東漸寺の解説をする前に少し鎌倉市浄明寺地区の話をすると、この御寺の凄さが良く解ると思いますので先に名越北条家と鎌倉の話を簡単に解説します。
先程も書きましたが名越北条家は源頼朝公の甥っ子の家系です。なので当然、鎌倉幕府初代執権の北条時政の血を継いでいます。
その北条時政が住んでいたのが鎌倉市浄明寺地区の衣張山一帯に在った“名越邸”と呼ばれる邸宅でした。邸宅とは言っても立地的には半(なか)ば城砦の様な機能を周囲の地形が果たしており、その傍らには“釈迦堂の切通し”と呼ばれる鎌倉を代表する景勝地が存在しています。
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現在、鎌倉市はアホ市長の執政下で劣化を補修も保全もせずに落石を発生させてしまった挙句、これ幸いと落石を言い訳に交通封鎖してしまい一般市民の通行を遮蔽し阻害しています。その結果、人の往来が無くなってしまい逆に植物が茂り放題茂りだして釈迦堂切通しの劣化を加速させる事態を巻き起こしてしまっています。
この釈迦堂切通しの洞門の上部には門を固定する材木を通したであろう穴が岩盤に穿(うが)って有るので、ここが名越邸の城門の役割を果たしていたのでしょう。
名越邸と釈迦堂切通しと衣張山の位置関係 久良岐のよし
この釈迦堂の切通しを含めた山が衣張山で、その山腹に名越邸が存在していました。
北条家は源頼朝公の相模川での死没後(恐らく北条時政と稲毛重成による暗殺)に執権と成り鎌倉幕府を乗っ取ってしまいます。北条時政は源頼家公への謀反が事前にバレて追放されますが、その子の北条義時公が結局は二代目の執権と成り源氏にとって事態は悪化しただけでした。
この北条義時公には特に有力な跡継ぎ候補がいて…
北条朝時公

北条頼時公
…の二人が別格の扱いを受けていました。
この内、名越北条家の祖先は北条朝時公です。母親が比企(ひき)家の姫で絶世の美女でしたが、比企家と源頼朝公の関係は密接だったので当初は北条朝時公が後継者候補かと思われていました。
対して北条頼時公は特に源氏と血縁的な深さは北条朝時公程深くは有りませんでした。しかし源頼朝公の名前の“頼”の字を頂いている事からも、頼朝公の生前に可愛がられていた事が窺(うかが)い知れますね。
しかし、事態は祖父や父による恐らく頼朝公の暗殺によって急変し、源頼朝公御本人と御子息達と比企家は北条家によって根絶やしに暗殺されていきます。そして比企家を駆逐すると、比企家との血縁の有る北条朝時公の存在は北条一族内でも“面倒臭い存在”に成ってしまい、後継者指名から外されてしまいました。そして何故か北条“頼”時公は名前から源頼朝公由来の“頼”の字が抹消されると、同世代で北条に次ぐ有力者である三浦家の三浦泰村公から一字を貰う様に北条“泰”時と名乗る様に成り第三代鎌倉幕府執権と成りました。
しかし朝時公を蔑(ないがし)ろにする訳にも行かないので、北条朝時公は御爺ちゃんの北条時政の財産を継承する事で決着し、その際に北条時政の邸宅の名越邸も相続する事と成りました。
これが“名越”北条家と呼ばれる様に成った由縁です。
さて、そんな訳で名越北条家は本流から外れた事で反本家姿勢を強くし頼朝公の子息の将軍や藤原家から来た将軍と密接に成る事で存在感を増して行くのですが、これが益々北条一族にとって煙たい存在と成って、執権が北条時頼公の時に名越北条家で本家に反抗的な人間は粛清され勢力を失う事に成りました。
元々今の横浜市金沢区の北部一帯は名越北条家の土地だった様で、富岡辺りも所領だった事が判っています。
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御寺の説明にも少しその事が書いて有りますね。
安土桃山時代~江戸時代~明治時代~昭和初期に、この周辺は杦田(すぎた)梅林と呼ばれ京都の関白家や本願寺家の当主が観光に来た程だったのですが、杦田梅林へ観光に来る江戸市民からは靈桐山東漸寺は御本尊が御釈迦様の立派な御寺として大変に有名で親しまれたそうです。
東漸寺場所 久良岐のよし
現在では明治時代の神仏分離令と廃仏毀釈、第二次世界大戦後のGHQの方針で境内地は縮小していますが、本来はもっと広かった事が国道16号線に接続する参道の位置から推測出来ます。普通、参道は御寺の正面に作りますから今みたいに端っこに寄ってる筈が無いんですね。
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だから周辺は不可解に狭い路地だらけに成ってしまっています。
恐らく室町幕府鎌倉府の崩壊の切っ掛けに成った永享の乱や、戦国時代の房総半島の里見家の海賊の焼き討ち、第二次世界大戦の横浜大空襲の戦災等で御堂や建物の無くなってしまっていた部分の御寺の境内地がGHQの政策で接収され縮小された後で、横浜市が御寺に返却せずに民間に払下げ民家が乱立していまの細い路地だらけに成ったんでしょう。
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まぁ、小生はコンナ路地も好きなので、これはこれで散歩していて楽しいのですが。
さて、この路地を含め境内地だったとして、この東漸寺は境内地の中にも更には周辺の妙法寺や八幡社含め広大な杦田梅林が広がっていた事がアホの横浜市が日本規模で有名だった杉田の杦田梅林を破壊容認してしまい消滅した現代でも当時の規模が解る史料が有ります。
新編武蔵風土記稿 久良岐郡之七 杉田村…この杉田村の解説の中に下の挿絵が有ります。
杦田梅林 久良岐のよし
これを見ると解りますが、東漸寺や妙法寺が凄く広い境内で、海岸線も昭和のアホの横浜市が埋立地利権で海岸線を変えてしまう以前の様子が解ります。そして杉田と言うより屛風ヶ浦近く中原の辺り~青砥坂の辺りまで広大な梅林だった事が見て取れます。
ここに明治天皇御一家も遊覧に来られたそうですが、この杦田梅林を植樹したのが間宮林蔵の祖先の間宮康俊公の間宮一族で、主に杉田周辺は分家の杉田間宮信繁公が梅林を拡張しました。
この梅が現代でも幻の杉田梅として流通していますが、本家本元の杦田梅林は横浜市のせいで消滅してしまいました。
そんな江戸時代に東漸寺を支援したのが、この杦田梅林を造営した間宮家でした。
ですから間宮家が書いた文書が江戸時代末期にも残っており、新編武蔵風土記稿の中で古文書が紹介されており中興開基間宮左衛門尉敦信と記載されています。
この杉田間宮の戦国時代~江戸時代の当主は梅林を造営した間宮信繁公ですが、実は関ヶ原の戦いで東軍が大勝利する徳川軍本隊3万の前進行軍を成功させる切っ掛けになる偵察と献策をした名軍師であり、そして江戸幕府将軍家の初代の鷹匠頭でした。
ですから間宮家の御縁で御寺の収入源と成る寺領が家康公によって安堵された事で徳川家の葵の御紋の寺紋としての使用を許された様ですね。
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実は新編武蔵風土記稿の中には小生の“東漸寺の境内は昔はすさまじく広かった説”を立証する証拠が文章で乗っていましたので紹介します。
東漸寺場所 久良岐のよし
※本堂の位置と今も残る池の位置を見てから以下の解説を読んで下さい。そうすると現代では失われた江戸時代の御堂や江戸時代以前に失われた御堂の跡の位置関係が詳細に理解できます。
※現存する池は二倍の大きさがあり、昔真ん中で橋が架かってた部分から半分が埋め立てられてしまっている事が判ります。

惣門(そうもん:外門)を入(はいる)こと凡(おおよそ)十八(~)九間(けん:1間=1.81m、十九間=約34m)にして、中門を立(たてる)、靈桐山の額を掲ぐ、落款(らっかん:サイン)に見圓覺俊衡碩(けんえんかくしゅんこうじゃく=和尚様の名前)書とあり、又五(~)六間にして池あり、小橋を架す、又ニ(~)三十間にして本堂に至るー以下中略ー
塔頭(広大な境内に有る子会社みたいな別運営の御寺)
眞樂庵 本堂に向(かい)て右にあり(現在の東漸寺運営)ー以下中略ー
多福院 (本)堂に向(かい)て左にありー以下中略ー
保福院蹟 堂の西方にあり(※現在の杉田駅辺り)ー以下中略ー
成願院蹟 堂の西南にあり(※現在の杉田商店街杉田駅寄りの辺り)ー以下中略ー
直傳庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
長慶庵 東の方にあり(※現在の杉田商店街入口の辺り)ー以下中略ー
正永院 境外(寺の敷地外)巽(たつみ=北東)の方にあり(※現在の新杉田の交番辺り)ー以下省略ー

文字だけではイメージ出来ない人がいると思うので、総門~中門~池と小橋~本堂の距離を、旧参道の道上に距離から逆算してGoogle earthの衛星写真上に再現した地図で位置関係を御覧下さい。
東漸寺 失われた惣門と中門と池の小橋の位置関係 久良岐のよし
こうしてみると、新編武蔵風土記稿の記載を立証する様に池の小橋、中門、惣門が昔所在したと思われる場所には横道の名残が住宅街の小道として残っている事が解りますね!
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つまり、これらの商店街裏の住宅街の路地は、昔の塔頭寺院と門や橋を繋ぐ境内の横道の歩道だった事が理解できます。境内の歩道跡に沿って家を建てちゃったもんだから、こんな狭っくるしい路地に成った訳ですね(笑)。
さて、ここまで旧境内の規模と、関わった御殿様達が凄い人ばかりだったのは御理解頂けたと思います。
この御寺の権威も凄かったので“禅宗臨済派関東十刹の一つ”の格式を歴代の室町幕府鎌倉公方や徳川将軍家から保証されていた訳ですね~。 

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今でも御釈迦様が祀られている御本堂はとても立派で迫力が有ります!是非、杉田商店街で御買物する機会が有りましたら、東漸寺御参りして見て下さいね!
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所で杉田商店街ですが…
実は商店街の中に老舗の和菓子屋さんが在りまして、梅の和菓子を売っています。
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甘味処 菓子一と言う御店です。
そうです、今では横浜市役所と昔のアホの市長の建設利権のせいで消滅してしまった杉田梅林の梅を昔は特産にしていた元は観光の町なので、今でも杉田梅は無くなりましたが梅の和菓子を製造販売してらっしゃるんです。是非!菓子一さんの梅の和菓子も食べて見て下さい!
ところで杉田の杉は古文書を読むと昔は杦田(すぎた)と書いていた事が解るのですが、その昔は日本全国で最高級ブランドとしてもてはやされた旧久良岐郡(横浜市)の特産品だった杦田梅、実は今でも別の場所で梅林を見て梅干を食べる事も出来ます。
それは・・・
小田原市に今も存在する南関東最大の梅林の曽我梅林です。
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富士山も梅林越しに見られる曽我梅林は、実は今では特産の蘇我十郎梅を生み出す為(ため)に昭和初期に杉田梅林から大量の杦田梅の苗木買い付け植林し、その杦田梅を品種改良して生み出されたのが蘇我十郎梅なんです。
だから今でも杦田梅の梅林が曽我梅林の中にはちゃんと保存されているんです。

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曽我梅林も素敵なので、是非、来年の3月頃に皆さん見学に行ってあげて下さい!

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梅のジェラート、一粒500円の梅干“雲上”、そして神奈川名物足柄茶、美味しい物も沢山有りますよ~!

では最後に、今日紹介した御寺とか御店とかアドレスを掲載して今日のブログを〆ます。

【靈桐山東漸寺】


【菓子一】
【曽我梅林】
では皆さん、又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪










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金沢文庫と言っても駅の名前でも土地の名前でも無くて博物館の金沢文庫ですが、そちらで現在、弘明寺と並んで横浜市を代表すると言っても過言では無い名古刹の寶生寺の文化財の数々が特別展示されています。
県立金沢文庫様より拝借 寶生寺特別展ポスター 久良岐のよし
画像は神奈川県立金沢文庫様の公式ホームページより転載させて頂きました。
県立金沢文庫様より拝借 寶生寺特別展ポスター裏面 久良岐のよし
【神奈川県立金沢文庫】 分類:博物館/史料館
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今回、金沢文庫で特別展を行っている寶生寺(ほうしょうじ)の文化財ですが、根本的に横浜には寶生寺と言う御寺が有ると言う事を御存知無い方も多いと思いますので以前書いた解説記事へのリンクを以下に貼って置きます。
リンク→寶生寺・・・横浜市南区に在る鎌倉~江戸時代の名将達が保護した古刹
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上の写真は寶生寺の石段と山門です。
実はこの御寺の文献が横浜の地名の登場する現存最古の古文書なんです。
今回の特別展での展示物は文献と経典がとても多く、通好みの展示と成っています。
特に有名な人物は二人・・・
1人目は太田道灌公。
歴史好事家(オタク)なら誰もが知っている関東最高の合戦無敗の名軍師で築城家。
この太田道灌公が小机城址包囲戦の最中に寶生寺の御住職から陣中見舞いに「山芋」を頂いていた返礼の手紙(笑)とか・・・
2人目は間宮直元公。
江戸時代の横浜市長の前身、初代の本牧奉行。本牧奉行だけでなく但馬奉行と生野(銀山)代官と佐渡(金山)代官を兼任した人物。
徳川家康公の軍師格で本領は1000石ながら多くの奉行職を兼任していたので実際の収入は現代の円に換算すると8億円近く(笑)。更に縁故も実力も凄く、伯母の“於久(おひさ)の方”は徳川家康公の側室に成り姫様を生んでいたので家康公の外戚扱い、経営手腕と実務力も素晴らしく有名な大久保長安が代官だった佐渡金山が経営不振に成ると家康公の命令で生野銀山の部下と工夫を引き連れて瞬く間に業績改善したばかりか、その人生の最後には“大坂城総掘り埋立作戦”を立案し直接家康公に進言した名軍師。
その間宮直元公が寶生寺の御本尊を極彩色に修理した際の修理願文が御本尊の解体修理の際に発見され今回展示されたいます。
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・・・上は今回の展示物一覧です。
すみません家のスキャナー壊れて使えないのでデジカメ写真で失礼。
つまり、横浜市に御縁の有る名将二人の手紙や起請文を始め恐ろしい数の古文書が展示されている訳ですが・・・
県立金沢文庫様より拝借 寶生寺特別展ポスター 久良岐のよし
一緒に今回特別展示されている寶生寺の御本尊が、その間宮直元公が修理させた仏像であり今回の特別展示のポスターのアイコンに成っている訳です。
太田道灌公の小机城攻囲中、今回の展示の寶生寺の高僧だけでなく、他に日蓮宗の寺格の高い御寺等からも高僧が食べ物持って(笑)陣中見舞いに太田道灌公に会いに来ている歴史事実も有るので、今回の寶生寺に対する太田道灌公の文書は、そんな小机城攻囲戦が太田道灌公の才覚によって相当な余裕を持って行われていた事を窺い知る事が出来ます。

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一応、金沢文庫自体を御存知無い方も多いと思いますので御説明致します・・・
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金沢文庫と言うのは元は鎌倉幕府で六波羅探題やブービー賞で執権を務めた日本武士最高の教養を誇った金沢北条家の邸宅の書庫から派生した日本最初の武家私設図書館の事で、金沢北条家の邸宅を寺院化した真言宗の別格本山の金沢山稱名寺(しょうみょうじ)と言う御寺に江戸時代まで管理されて西の正倉院に対して“東の正倉院”の異名で渾名(あだな)された多くの文化財を持つ文庫でした。
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ですから今も金沢文庫(博物館)の横には綺麗な稱名寺の庭園が広がっています。
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春には御覧の通り参道の桜も綺麗な御寺です。
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この稱名寺や金沢文庫の近く、歌川広重が描いた景勝地の“金沢八景の一つ野島”に別宅を構えていたのが明治の元勲伊藤博文公でした。
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野島の金沢別邸に住んでいた伊藤博文公は古来の天皇の価値観を大切にされ神仏共に大切にされた方だったので、明治に森有礼等によって宗教改革が行われ“廃仏毀釈”“神仏分離令”が発布され稱名寺が寺領を失ったり神社を取り壊されたり荒廃し、御寺に因(よ)る文化財売却が横行した際に非常に文化的に危機感を持たれ、金沢文庫の多くの文化財を守る為に稱名寺境内に“金沢文庫”を再建しました。
これが昭和5年に県立化され、更に本来の鎌倉時代の文庫の所在地だった稱名寺と隣の谷の“文庫谷(ぶんこがやつ)”に新築されたのが現在の神奈川県立金沢文庫(博物館)です。

金沢文庫の今回の特別展示は仏教文化的にも戦国好きにも堪らない展示内容と成っています。・・・興味無い人には可也(かなり)地味だけどね(笑)。
特別展示を見るだけでもとても価値が有りますが、隣の稱名寺も綺麗。
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【金沢山稱名寺】そして近くには元料亭の建築文化財の宿、喜多屋も有るのでランチタイムに喜多屋のcafeで食事する事も推薦します!
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もしランチタイムに伺う時に事前に食事を予約して、その際に客室に空室が有るか確認した上で「見学させて頂けませんか?」と御願いすると、客室の状況と従業員の方の状況次第では下の旧料亭部分の宿泊客室も見学させて頂けるかも知れません。
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【喜多屋】

以前喜多屋を紹介した記事リンクはコチラ→

そして、もう一つ・・・
もし皆さんが金沢文庫博物館に訪問するのが金・土・日曜日ならTV鉄腕ダッシュにも度々登場している金沢柴漁港の江戸時代からの名物の小柴の穴子を“小柴のどんぶりや”で天丼に調理して漁協婦人部が提供しているので朝水揚げされた新鮮な穴子天丼を食べる事も出来ます。
小柴のどんぶり屋 久良岐のよし
小柴の穴子天丼と小柴の蝦蛄刺身 久良岐のよし
※朝11時~13時位の間で売り切れますので御注意!
【小柴のどんぶりや】
八景島シーパラダイスも近いので、合わせて訪問すれば子供も楽しめますよ~♪

さて、金沢文庫の特別展示、寶生寺展に歴史好きなら一見の価値が有る事がお判り頂けたでしょうか?
展示解説も時間毎に有るので、訪れる前に事前に金沢文庫へ電話して確認するとより楽しめると思います。
そして周辺には綺麗な稱名寺や美味しい御店が沢山有ります!
是非!週末にでも訪れて見て下さい。

では・・・又、次は解説記事で御会いしましょう~♪















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久しぶりの休日雑記。
繁忙期が過ぎて漸く余裕が出て来た小生なのだが、本日09月19日は風邪でダウン。
午前中は病院に行き、その後さっきまでダウンしてずっと寝ていた。寝疲れ起きたものの今も喉の炎症と咳が酷く痰に血と膿が混ざってしまっている。しかも体も痛い。頭もぼーっとする。
夜に成ると熱も上がり咽頭部が酷く痛むので、読者の皆さんも風邪には気を付けて下さい。
小生は今日、結局仕事を休む羽目に成りました・・・。

さて16日土曜日は京都から友人であり歴史仲間でもあるFSA君が横浜に再び出張に来たので、彼が余り行った事が無いであろう東京の下町に車運転して一緒に行って見た。
6月に別の京都の女友達が子を出産していたのだが御祝いをしていなかった事も有り、丁度良い機会なのでFSA君に付き合って貰って出産祝いの品も購入すると言う目的も有った。
当初、FSA君に行きたい場所をリサーチした際は神奈川県中央部を希望されたのだが、結論から言うと「ガン無視」して自分から「深川に行こう!」と提案をし直した小生・・・
FSA君、付き合ってくれてありがとう。
・・・さて、午前11時頃、横浜市内のとある駅でFSA君をピックアップすると首都高速横羽線で首都高環状線へ向かい、そこから小松川方面へ抜けて最初に腹ごしらえをした。
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何事も腹が減っては活動する気力が起きないからね。
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向かった先は深川釜匠、江戸時代に江戸っ子の腹を満たした深川界隈の名物料理“深川めし”を提供している店だ。
この店の存在を知ったのは昨年の事、小生が顕彰活動をしている横浜の殿様の間宮一族であり江戸幕府の御庭番(公安みたいな?)と地理学者と測量士を兼務した間宮林蔵宋倫公菩提寺の本立院へ参拝した際に、「どうせなら深川らしい物を食べて帰りたい」と地元民にリサーチしてこの店を知り食事をしたのが最初だった。
この店は周囲の店程、店としての内装が完成していない(笑)分、民家を改良して営業しているので料理の価格やボリュームが客にとって御得に成っている。
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今回通されたんは2Fの元は仏間(笑)と思しき部屋だった。
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これはこれで外国人観光客にはウケるだろう。
この日、小生は“深川めし”と“こんにゃく味噌田楽”とデザートに味噌汁と御しんこが付いたセットメニューを注文した。
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このボリュームで1500円は安いでしょう?友人のFSA君は深川セットと言う、深川丼と深川めしの両方を楽しめるセットを選んだ。
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この写真は前回、自分が深川セットを注文した時の写真。これが又、美味しいのだ!
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深川めし=浅蜊(あさり)の釜飯も深川丼=浅利汁の丼飯も、もの凄い大量に浅蜊が入っていて旨味が凄い!
そしてお漬物はセット以外にも柴漬けやラッキョウなんかが食べ放題なんだな。
この店、深川方面、清澄公園や深川江戸資料館に行く予定の有る人には御薦めです。まぁ、他の店でも良いので是非、江戸市民のファーストフード深川丼と深川めしは食べて見て下さい!
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食事を終えると直ぐ隣の深川江戸資料館にFSA君を案内した。
ここは変わった博物館で、江戸時代の庶民の生活を再現したセットが内部に組まれ町を再現しているのだが、そのセットの中に上がり込んで縁側に座ったり写真を撮影して良い博物館なのだ。
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日替わりで色んな演目や文化人の講演も無料で見学出来る。前回は落語を無料で見学出来た。
今回は江戸の物売り大道芸だった。
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江戸三大大相撲が興行されていた相撲の聖地、富岡八幡宮が区内に在るだけ有って昭和の名横綱大鵬さんの展示も有ったりする。
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実物大パネル。
う~ん・・・小生の方が筋肉だけは有りそうな気がするんだよな~。
身長も小生の方が高い。まぁ、格闘技はセンスと技術の鍛錬なので戦闘力は大鵬関が100なら小生は20位だろう(笑)。一般人は5前後かな(笑)?
小生が5人いて初めて現役時代の大鵬関と対等、6人いてリンチ出来る程度だろう(笑)。
んな事ぁ~どうでも良い。
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大鵬関の数々の優勝杯に加え、引退の際の断髪式で裁断された髷(まげ)も展示されている。
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小生が人の遺髪を見たのは世界三大記念艦の戦艦三笠に祀られている東郷平八郎元帥の遺髪と大鵬関の物だけだな。
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深川江戸資料館は余り大きい施設ではないのだけれども江戸時代の生活を追体験出来る貴重な場所で、まぁ見せ方も上手い博物館の一つだと思う。
良く有る公立の博物館は建物デカイだけで古くてショボい展示の仕方な上に、複製品の写真すら撮影させないケチ臭く子供達の歴史に対する興味を殺す意味不明な状態に成っている。
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しかし!ここは違うんだな。めっちゃリアルな展示物。
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店の軒先の再現度の高さ。
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照明で朝昼晩を再現していたり。
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こんな鐘楼も有ったり・・・
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民家に入って台所も見学出来るし。
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本物の骨董家具には本物の神社や御寺の神様が祀られていたり。
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友人も興味を持って見学してくれた様だ。
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この様な軒先と裏庭が民家の裏手にちゃんと有って、お月見の風習が再現されていたり、座ってゆっくり過ごす事も出来る。
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天ぷらの屋台や立ち食い蕎麦の屋台も再現されている。
まぁ、余り大きい博物館では無いので滞在時間は長くて1時間~1時間半が目安に成るだろう。
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江戸時代の飴売りや金魚売りの売り子の実演を見学し、解説展示物の方も見学してから深川江戸資料館を後にした。
ここから近くに間宮林蔵公の御廟所が在り、大正時代の東京府に史跡指定されているので友人を伴って其方(そちら)に移動した。
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茨城県にも墓所は有るのだが、本来の被葬地はここなので茨城の出生地は御分骨を埋葬されているか、墓標なのだろう。
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江戸における菩提寺は本立院と言う日蓮宗の御寺で、間宮家は元来は佐々木一族で有り神社の宮司家出身の一族で真言宗と修験道とも関係が深かったので、状況証拠を見る限り初期は源頼朝公と同じく真言朱を宗旨にしていた様だ。その後、室町幕府鎌倉府の鎌倉公方に仕えると禅宗臨済派(今の臨済宗)と真言宗の両方を大切にしていた。なので、鎌倉公方に仕えていた時代の一族武将には臨済宗の入道号である“道〇”と道の字が付く武将がいる。
そして時代が戦国時代に成ると、鎌倉公方は滅亡し子孫の古河公方足利家は小田原北条家の影響下に置かれたので、間宮家も北条家に仕えた。すると北条家は禅宗の臨済派ではなくて禅宗の曹洞派を大切にした家だったので、間宮家も教養を身に付ける際に曹洞宗寺院で学ぶ事と成り多くの廃寺と成っていた真言宗寺院を曹洞宗寺院として復興開基している。
そして更に小田原の北条家が滅び、間宮家は徳川家康公の直臣となり於久(おひさ)様が家康公の側室と成った縁で事実上の外戚と成ると、当時は安土桃山時代だったので旧主北条家の北条氏規(うじのり)公が豊臣政権下で日蓮宗の影響を受けると間宮家の多くも日蓮宗寺院とも関わる様に成った。しかし、この間ずっと真言宗・修験道・臨済宗・曹洞宗の全ての宗派の寺院を大切に保護している事が新編武蔵風土記稿の神社仏閣の解説や寛政重修諸家譜に掲載された入道号から読み取れる。
菩提への参詣を終えるとFSA君が「本立院の御朱印が欲しい」と言い出したので、御廟所から少し離れた御寺へ移動した。
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元々は隅田川沿いに在ったのだが江戸幕府の都市再開発で現在地に移転された。周辺には多くの日蓮宗寺院や浄土宗寺院、昔は法華宗とカテゴライズされた宗派の御寺さんが同じく移転されて来ている。
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今年は丁度、日蓮上人の出生800周年らしい。
境内にはユーモラスな石像も有る。CIMG5271
そして一応、間宮林蔵公の菩提寺としての石碑も立っている。
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う~ん・・・
揮毫したのが鳩山一郎さん。なんで国を大切にした鳩山一郎さんの身内から鳩山由紀夫みたいな無能な売国奴が誕生したのか理解不能。とか昔は思っていたけれど、只単に鳩山由紀夫は非正妻だった母が反日国籍の半島の出身で妻も本籍は反日半島の人だって後から知って納得した。
だから彼は売国的な行動を好んでするらしい。
もっと対等に仲良くする交流の仕方を模索出来る筈なのに、日米関係を悪化させ、日中関係も悪化させ、日韓関係だけ異常に韓国優位にした行動原理は出生に有るってのは今では多くの人が知っている。
まぁ、不法移民と不法就労者を見逃し続けたら彼みたいな人物が増えるだろう。
しかし、韓国人や北朝鮮人にも日本が大好きで日本の政治と法律と社会の方がマトモと思ってくれいる人も多くいるので、国籍だけで排斥するのは良くない。トランプさんみたいにあくまで不法移民と不法就労者を法律に乗っ取って国外に退去して頂けば、本当に日本人と仲良くしたい在日就労者の人が残って両国間の敵対感情も薄れると思うんだな。
そんな事も、間宮林蔵さんの生涯を辿(たど)る事で終焉の地、深川で学ぶ事も出来たりする。
本立院と御廟所で間宮林蔵公と日蓮上人様にいつも御加護御守護頂いている事の御礼の御参りを済ませると、FSA君と次は昨年開館したばかりの美術館に移動した・・・
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その名も“墨田北斎美術館”だ。
名前の通り、墨田区を代表する文化人で“画工”の葛飾北斎さんの美術品現物とそのリトグラフが多く展示されている美術館で、外国人の観光客も多く来る。
建物も斬新で美しい。
こう言った奇抜な現代建築を批判する人も多いが、これが25年、50年と経(た)つと味の有る建物に見えるから小生は嫌いでは無い。
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例えば最近、ヒ蟻の巣が発見されて大騒ぎに成った横浜市中区の横浜シンボルタワー。この建物も当時は批判されただろうが、今では昭和の高度経済成長期の遺産的なウルトラマンに登場しそうな奇抜なデザインが面白さを醸し出している。
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こちらは他地域の人が余り知らない施設だが、墨田北斎美術館は外国人に対しても日本の窓口的な役割を担っているので小生としては日本現代建築のデザイン美と建築技術を見て貰うにも良い施設だと思っている。
しかもアホの横浜市と違って遺跡破壊して造ってる箱物でもないしね(笑)。
因(ちな)みに下は横浜シンボルタワーを以前紹介した記事。
※コレ→
さて墨田北斎美術館に話を戻すと、この美術館は公園の一角に建っていて、そこからはスカイツリーも見る事が出来る。
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で、スカイツリーの見える方と反対側に美術館が在って、さながらアルファベットのNの字の様な建物の切れ間から中に入る事が出来る。
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これは日本に来た外国人の旅客にも強い印象を与えるのでは無いかと思う。
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中は白を基調にした落ち着いた造りだが、やはりデザイン性に富んでいる。
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建物自体がとても綺麗だね。
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この美術館は志高い高文化な多くの民間企業と個人の支援で成り立っているそうだ。
素晴らしい!
そして、ここの素晴らしい所は深川江戸資料館と同じく、常設展示の美術品の多くは写真撮影して良いと言う事だ。
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どうやら撮影フリーの営業をしている場所は“見せ方の上手い美術館や博物館”に多い様だ。
最近、鎌倉市にオープンした鎌倉歴史文化交流館も展示物全てが撮影OKな上に見せ方が上手い!
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 ※鎌倉歴史文化交流館

紹介記事→
さて、すみだ北斎美術館に話を戻す。
葛飾北斎と言えば、小生達神奈川県民にとっても大切な文化人だったりする。
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彼の代表作の“富嶽三十六景 神奈川沖浪浦”は世界的に有名で世界中の美術家に大きな影響を与えた事が知られており、中でもセザンヌ、ゴッホ、ビクトワール、ドガなんかが有名でゴッホに至っては北斎画の模写も現存していたりするんだな。
小生は幼少期4歳から美術の専門教室に通っていたので油絵は嫌いだけれど、この話は知っていたりする。
因みに、この景色は今のJR神奈川駅~横浜駅辺りが海だった時代、その沖合から見た富士山の風景なので今の大黒ふ頭付近か本牧半島の先端を回る辺りからの風景だろう。
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他にも多くの作品が展示されており自由に写真撮影出来る。
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これは賀奈川(神奈川)沖本杢(本牧)之圖(図)と書いて有る。初期の風景がで、神奈川沖浪浦と同じ辺りからの写生の筈だが浪も迫力が無い。
こう言った事も知る事が出来るので面白い。
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この絵は確か、駿河の海の上から見た富士山だったと思う。間宮家が蒲原代官として奉行を務めた蒲原宿沖合辺りからの眺望だろうか?
葛飾北斎が、こうした迫力の有る絵を描けたのは実は西洋伝来の“望遠鏡”を駆使してUP画像の様な構図を頭に描く事が出来たからと言われている。
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だから、こう言った円弧を意識した構図が発展期~晩年に多く成ったのだろうか?
すみだ北斎美術館には彼の生活の様子を再現したセットも有る・・・
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・・・これが生々しくリアルで気色悪い。しかも体温を感じず魂が入って無いので何だか死体を見ている様な気分に成るんだな(笑)。でも当時の彼の生活の様子を知る事が出来る貴重な展示物だ。
ここには美術品以外にも面白い展示が有った。
葛飾北斎の出生や血縁一族に関する解説なのだが、実は彼は忠臣蔵で有名な吉良上野介の家老、小林家の末裔らしい。
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そして更に面白いのが彼には不詳の孫がいて大層苦労したなんて事も解説されている(笑)。
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どら者(笑)。
今で言ったらニートだな。う~ん、いつの時代もニート問題は有るんだな(笑)。
しかもニートはニートでも、家の金を使い込むタチの悪いタイプだった様だ。
どら息子ってlazy sonって翻訳サイトで出るんだが、prodigalってのは“浪費家”って意味らしい。
つまり北斎爺ちゃんの金を使いまくっていたカスって事か。一族の恥なので系図上の名前も残して貰えなかったんだろう。
まぁ、そんな少し面白い葛飾北斎の歴史も見学し、最後に京都市の友人への出産祝いに江戸切子のグラスを買う為すみだ北斎美術館を後にして、FSA君に“すみだ江戸切子館”へ付き合って貰い移動した。
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残念ながら店内は撮影不許可と言う事なので、外観の写真だけ。
ここは面白い試みもしていて、一般人向けに江戸切子製作体験も出来るそうだ。
しかし、今回は贈答品なのでプロの商品を購入した。
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梱包前に記念撮影。
親子3人分、これで将来、生まれた子が成人式の時とか御酒飲んでくれたら嬉しいな~。
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とっても綺麗だったので、次回は自宅用に購入したいと思う。
買い物も終わり帰り道、首都高で位置を間違えて外環道を走る羽目に成った(笑)。
そして遠回りしてFSA君をJR関内駅近くまで送り届け、解散。
帰宅すると早速、梱包して貰った桐箱を更に段ボール箱に入れて緩衝剤を入れ、段ボールに千代紙を張り付けて注意書きをして郵便局員にも我物在中である事を目立つ様にした。
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後からネットで知ったのだが小生の知る限り神話時代の日本や室町時代以後の武士社会では盃や茶器を贈る事は非常に好まれていたのだが、誰が決めたのか庶民の間でガラスが普及するのは明治~大正時代に成ってからの話なのだが、現代ではいつの間にか「贈答品ガラスNG」としている出典不明のガセネタが流布されている様だ。しかも御笑いなのが、その日本文化にそぐわないルールを紹介しているサイトでは「ワイングラスを贈るのは最高の祝いの意味がある」等と恥ずかしげも無く矛盾した情報を掲載しているので御里が知れる(笑)。
恐らく、こんな下らない新ルールを作りたがる馬鹿は非日本人だろう。

結果的に本日、友人夫妻から御礼のメールと可愛い子供の写真が送られて来た。
〇〇ちゃん!御母さんと御父さんの良い所を受け継いで、賢く理知的で根性も有り日本文化にも精通した大人に成ってね♪

・・・今日のブログ記事はここまで。では、又、次の記事で!













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