歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

主に歴史旅、ときどきグルメ、けっこう富士山と季節の景色の写真大量のブログ。 中の人はオタク指向、でも2次元よりリアルが好き。   好きな曲はPharrell WilliamsのHAPPY♪

タグ:間宮直元

松美湯 
下町情緒残る蒔田城下、堀之内の名銭湯♪
御店主は信楽焼の陶芸家!

☞銭湯の個性と周辺見所 (・◡・)♫  
 石油を使わない希少な薪の沸し湯◎
 御主人は陶芸家で可愛いロビー◎
 近くに横浜市名由来の寶生寺有り
 毘迦羅神社の異名の子之神社有り◎
 鎌倉~戦国の名将に愛された土地◎
☞施設・備品関連 (•ω•)ノ      
【入浴料】
 大人490円
 子供200円
 幼児100円
【アメニティー】
 シャンプー等は備え付け無し。
 使い切りシャンプー類販売有り。
 タオル販売有り。
 飲料販売有り。
【電車】
 JR磯子駅~バス12分~天神橋降車~
 ~徒歩09分    ・・・合計21分
 市営地下鉄蒔田駅~徒歩09分
 京急南太田駅  ~徒歩16分
【  車  】
 専用駐車場無し。
 コインパーキングに隣接。
 100m以内に有料駐車場多数。
――以下 写真と詳細( ՞ਊ՞)ʃ♪だよ⤵――
——外観~玄関
——
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——自宅の様に暖かい受付——
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——脱衣場——
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——中央配置の浴槽と薬湯の浴室——
—男湯—
伝統の日本銭湯建築の高天井
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—女湯—
女湯の薬湯は赤、男湯は緑と異なる。
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——タイルの可愛いモザイク壁画♪——
—男湯—
男湯はオランダの景色。
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—女湯—
アルプス山脈の湖畔っぽい。
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——松美湯と周辺の解説——
専用駐車場は無いが周辺にコインパーキングが多数有るので便利。
御店の外観が喫茶店みたいで可愛いのは、コロナ前まで実際に喫茶店と陶芸教室を併設して営業していたから。2022年05月時点ではソチラは休業中。
陶芸教室や喫茶店も入浴客の客足がコロナ以前の水準に戻って来て来客からの要望が多ければ復活の可能性も?
御店主が信楽焼の陶芸家で仏教美術に造詣が深く銭湯と言う日本文化と陶芸と言う日本文化発信基地に成っているのが松美湯。
ロビーには御主人の作品が展示して有り、売ってくれと言えば売って貰えるかも?
更にこの松美湯、お湯を沸かす燃料はガスではなく薪で沸かす今では希少な銭湯です。
銭湯ファンには薪で沸かした御湯と言うは有る種のブランドの様に成っているんですね~。
小生には違いは判りませんが(笑)、ガスで沸かした御湯より良いと言う人は実際にいます。
普通に考えてガスや油で御湯を沸かすよりも建材の廃材を再利用出来る昔ながらの銭湯と言うのは有る意味現代にこそ合っているのかも知れませんね。
実は松美湯、立地的に今では住宅街の真ん中に在りますが歴史を知っている人だと結構凄い立地に在ります・・・
では皆さんと松美湯周辺の歴史史跡を見て見ましょう~♪
松美湯周辺地勢 久良岐のよし
※上の画像をクリックして拡大して見て下さい。
上のGoogleEarth衛星画像と比較で用いてる古地図は明治初期に帝国陸軍が製図した迅速測図と言う物で、農研機構サンが誰でも見られる様に公開している物です。

上の迅速測図を自分でも見てみたい方は以下のリンクから御覧下さい。
松美湯は画面の真ん中より少し左側に有り、その直ぐ右に寶生寺(ほうしょうじ)と言う御寺が表示されていますね?この御寺が実は横浜市の市名由来の御寺です。
寶生寺は新編武蔵風土記稿久良岐郡堀之内村の項目に登場します。堀之内村が現在の松美湯の存在する地域の旧地名ですね。
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青龍山 寳金剛院 寶生寺
鎌倉〜江戸時代の名将達が保護した古刹。
寶生寺の寺宝の仏像が有りまして現在横浜市に寄託されているのですが、この仏像の解体修理をした際に中から古文書が発見されました。
県立金沢文庫様より拝借 寶生寺特別展ポスター 久良岐のよし
その文書は江戸時代初期に横浜市南部を治めた本牧奉行の間宮直元(まみやなおもと)公が立身出世成就の御礼に仏様を極彩色に塗り直して奉納された内容が書かれており、その中に❝横浜❞の地名が登場します。これが横浜市の市名由来に成った横浜村の地名の現在確認出来る初出典だったりします。
寶生寺についてはブログを書き始めたばかりの頃に解説を書いてるので当時の記事は中身が薄い物ですが御興味の有る方は以下のリンクから記事を御覧下さい。

この寶生寺を江戸初期に支援した間宮直元公、実は徳川幕府による豊臣家の大坂城攻めで大活躍した人物で第二代目の佐渡代官、初代生野代官として金山と銀山の経営を行い、特に大久保長安が金の採掘量の業績を悪化させていた佐渡金山の経営を❝灰吹き法❞等最先端の世界の鉱山技術を導入した上で鉱山経営の汚職体質を改善する事に由って金の採掘用を大幅に改善したと、ユネスコ世界遺産生野銀山の有る兵庫県朝来市に伝わっています。
生野銀山灰吹き銀
上の写真は朝来市教育委員会様から提供して頂いた写真です。
この間宮直元公、間宮林蔵や杉田玄白の本家の祖先に当たる人物です。大坂城攻めの際に豊臣側が防衛の為に淀川の堤防を故意に決壊させ大坂城東側の平野を沼沢化させてしまっていたのを生野銀山衆を率いて大坂に在陣中の徳川家康公の元を直接訪れ大坂城防衛網を無力化する❝水抜き❞と❝総堀の埋立❞を直接献策しました。

結果的に大坂城外郭の更に外側の平野部の沼沢化は豊臣家が決壊させた堤防を生野銀山衆によって復旧されると瞬く間に大坂城周辺の水抜きが成功し、更に一時講和の際に徳川家によって大坂城総堀が埋め立てられて大坂城外郭をも無力化する事に成功した名軍師として❝横浜市以外❞関西地方、特に世界遺産の生野銀山の有る朝来市では良く知られています。
横浜市教育委員会が松美湯の近く寶生寺を支援した間宮直元公の話を市民に紹介出来ないのは、市内に文献が残らない為に自分の地域の事しか研究しない彼等は根本的に知らないのと、その間宮家の本拠地だった磯子区洋光台~港南区港南中央に跨る巨大城塞網を持っていた笹下城が全く発掘調査もされず昭和三十年代に宅地開発利権で消滅してしまった為に却(かえ)って横浜市では何も史料が残っていない事態が起きてしまったからでした。
間宮家の本家の笹下間宮家は江戸中期には奉行職を返上し下総国に所領も移ってたので完全に久良岐郡との御縁が切れてしまっていましたから仕方が無い面も多いですね。
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常林山 妙蓮寺
昭和まで間宮直元公の御神像を祀っていた寺院。
磯子区の妙蓮寺は笹下間宮家の直元公の今の御寺の御家族は余り御寺の歴史を知らないのですが、新編武蔵風土記稿を読むと久良岐郡の中の現在の妙蓮寺の項目に紹介されている間宮直元公の彫像が登場します。
直元公は家康公に叔母の於久の方が側室として嫁いでいた事から外戚として扱われており徳川秀忠公と一緒に相撲大会を開催して観戦する等、二代目将軍の秀忠公とも良好な関係を築いており更に分家の杉田間宮家は初代の鷹匠頭に任命され二千石を超える大身旗本に成っていました。
そんな訳で大名でもないのに生野代官や佐渡代官、本牧代官を兼務し直接将軍家とも面会出来る立場に有った訳ですが、直元公は直接大坂冬の陣の合戦の終わる前に在陣中に亡くなってしまい、その本拠地の笹下や領地の下総国印旛郡に埋葬する事が出来なかったので本牧代官所の直ぐ近くに奥方の菩提寺として御子息の間宮忠次公によって妙蓮寺が開かれると、その妙蓮寺の御本堂に間宮直元公の御神像が祀られていました。
間宮直元公の奥方である智性院様の菩提寺として開かれたので立派な墓石が現存します
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御寺の人は自分の御寺の事を余り理解しておらず間宮直元公や智性院様の事すら知りませんが、実際はちゃんと立派な墓石と御二人の御姫様か更に上の世代の近親と思しき常正院様と言う女性の立派な宝篋印塔も現存しています。
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現在の御寺の奥様は妙蓮寺の歴史を御存知ないので智性院様の御墓が存在しないと勘違いしていますが、この通り立派に間宮直元公と言う大出世した旦那様と結ばれた奥方の智性院様の御墓は現存しています。
智性院様は御主人の間宮家の旧主小田原北条家が豊臣秀吉に降伏して改易されて北条家臣団である間宮家が失業していた時期に直元公と出会ってる可能性が高いのですが、そんな状況で直元公と結婚し夫が佐渡金山や生野銀山や横浜市南部の経営を委ねられ徳川家の経済を下支えする存在にまで大出世する過程をずっと一緒に歩まれた訳ですね。
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その直元公と智性院様が共に歩まれた人生で徳川家康公に取り立てられ軍師として内政と攻城で活躍し出世出来た事の御礼が書かれていたのが松美湯の在る堀之内の名古刹、寶生寺の仏様の胎内に封印されていた古文書だった訳です。
間宮直元公の奥方の智性院様の菩提寺、妙蓮寺を開いた間宮忠次公は東京の駿河台を開拓した方で駿河台の地名は土地を造成した忠次公が蒲原代官として駿河国の要衝を治めて駿河の御代官と呼ばれていた事に由来しています。
松美湯と同じ南区内の井土ヶ谷には、井土ヶ谷の地名由来に成った乗蓮寺が有ります。

この乗蓮寺は北条政子様の別邸だった場所が寺院化された場所としても歴史好きには知られています。
ここを江戸時代に支援していた❝大檀那❞として間宮忠次公の名前が新編武蔵風土記稿に記載されています。
そんな本牧奉行と蒲原代官を兼任した間宮信忠公が開いた磯子区の妙蓮寺は大坂城攻略作戦を立案した名軍師の間宮直元公の亡骸の代わりに作られ御神像として祀られていた彫像の模写が新編武蔵風土記稿に紹介されており、昭和までその彫像が現存していました。
新編武蔵風土記稿 間宮直元公木造 久良岐のよし
間宮直元公木造 妙蓮寺旧蔵も火災で焼失 久良岐のよし
ところが昭和時代に妙蓮寺が失火を起こし前本堂ともども直元公の彫像も焼失、今では二宮町に住んでした間宮家御子孫の御一人が火災前に撮影した写真が現在間宮家研究者の間に伝わるのみに成ってしまいました。
この智性院様や間宮忠次公所縁(ゆかり)の妙蓮寺も住宅街の山を越えると最寄駅の杉田駅が有り、2019年まで杉田湯と言う良い銭湯が有りました。
横浜市内の古い町には令和の今でも銭湯が生き残っている場所が数ヶ所有り、松美湯の近所に蒔田城や寶生寺が有る様に他の銭湯のまわりにも必ずと言って良い程に歴史史跡や宿場町だった場所が存在します。
そして古い港町や住宅街は横浜らしい味が有る文化財が多く残っていたりします。

文化財を活用した都市計画の話は最近も❝あぶない刑事❞のロケ地でファンに観光地化している瑞穂鉄橋の話でも取上げて見た事も有ります。
寶生寺は更に時代を遡ると間宮家の上司である小田原北条家の殿様達からも庇護を受け、鎌倉時代にも鎌倉幕府内第一の教養人だった金澤北条実時から支援されていた事が伝わっています。
この金澤北条家の開いた私設図書館が現在の神奈川県立金沢文庫の前身に成っており、邸宅跡は真言律宗別格本山の金澤山彌勒院稱名寺=称名寺と言う名前で鎌倉時代に寺院化されて現存しています。

今では桜の名所として横浜市民に親しまれる稱名寺ですが、この稱名寺の金沢文庫が京急金沢文庫駅の駅名由来にも成っている訳ですね。
県立金沢文庫様より拝借 寶生寺特別展ポスター 久良岐のよし
そんな御縁で2017年に神奈川県立金沢文庫で寶生寺展が開催されれ、この仏様の胎内から出て来た古文書も公開された訳です。
恐らく金沢文庫の行けば図録を見る事が今も出来るかと思います。
鎌倉殿の13人公式様より拝借
鎌倉殿の13人公式⇨https://www.nhk.jp/p/kamakura13/ts/32V2Z7X2M9/
寶生寺を支援した北条実時公は鎌倉時代の人物ではあるのですが鎌倉殿の13人より後の時代の人物で横浜市よりも京都や関西の方で歴史を専攻する学生に文化人として広く知られています。
鎌倉殿北条義時2鎌倉殿北条時政
権謀術数で政敵達を滅ぼしていく北条義時公と北条時政公の親子は優秀な人物で特に義時公は将軍を補佐する宰相として優れた執政官でも有りましたが必ずしも善人では有りませんでした。
源頼朝公亡き後の暫く幕府内の内戦状態を起こした原因を生んだ人物では有りますが、御子孫達は日本の武士文化を繁栄進歩させ更に元寇を撃退して現代日本を存続させる功績を残して下さった訳ですね。
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松美湯の有る旧堀之内村の名古刹、寶生寺を支援した北条実時公は北条義時公の御孫さんに当たる人物です。
ですから北条家の家紋と同じ三鱗紋を寶生寺は与えられて現代も寺紋として使用しています。
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寶生寺の寺紋は丸に三鱗紋で、これは北条家に一門衆(親族格)を与えられた武将や公式に支援を受けた格の高い寺院などが北条家の三鱗紋お家紋使用を許された際に、直接的に三鱗紋を使わず北条家に敬意を払って〇で囲って北条家と区別し用いる武家や寺院や神社が多く有りました。
北条家三鱗紋  丸に三鱗紋
三つ鱗紋丸に三ツ鱗紋
この丸に丸に三鱗紋は神奈川区の法華宗豊顕寺や磯子区の曹洞宗龍珠院、金沢区伝心寺も用いていますが、それぞれがやはり北条家重臣の直接かかわった場所でした。
神奈川区の豊顕寺は北条氏綱公の代の重臣、多米元忠公の隠居寺が前身なので多米家が北条家より三鱗紋を与えられ更に豊顕寺の前身の元忠公の隠居寺だった草庵にも使用を許している事が解ります。
磯子区の龍珠院はJR大船駅近くの玉縄城主北条綱成の別邸の草庵が有り、蒔田御所吉良家へ用事が有る際の滞在場所だった様で後に寺院化された際に三鱗紋使用を許された様です。
金沢区の伝心寺は玉縄城主北条氏繁公や小田原城主北条氏直公開基と誤伝していますが、新編武蔵風土記稿の編集者の考察では北条氏綱公、小生の推測では玉縄城主北条為昌公の開基だろうと推測している寺院でいずれにしても北条家から三鱗紋の使用を許されている様です。
寶生寺はそれよりも古い鎌倉時代の金沢北条家によって支援されており、鎌倉時代に既に“本物の北条家”から三鱗紋を下賜されている事が状況的に判断できます。
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では何故(なぜ)、松美湯が存在する堀之内の地域が武士達のみならず仏教や神道等の日本古来の宗教にも重要視されていたかと言うと蒔田湾とか古大岡湾と考古学では呼ばれいるのですが江戸時代には目の前まで入江広がっており、木材流通や幅広い物流と製塩業で賑わった豊かな港町だった歴史が有るからなんですね。
下の画像は❝雑ですが(笑)❞凡(おおよ)その蒔田湾の様子です。
蒔田湾 久良岐のよし
比較すると東日本大震災で他地域より揺れの大きかった中区の山下町~伊勢佐木長者町~吉野町今の平地部分が海だった事や江戸時代中期の未熟な土木技術で埋立てられた範囲に当て嵌まる事が良く理解出来るかと思います。
上の画像で洲乾弁財天と書かれているのが源頼朝公が土肥実平公の領地の湯河原に有った竹生島弁財天の御分霊を更に分祀して開いた弁天社で、この場所は現在の横浜市役所新市庁舎が立っている場所で明治政府に御社を撤去される迄は画像でも半島の先端に在るのが解ると思いますが、洲乾浜と呼ばれる砂洲の半島の先端にこんこんと淡水の水が湧く大きな池の有る弁天信仰の聖地として武州人に大切にされていました。
横浜村之圖
この洲乾浜が海や蒔田の入江から見ると横長だったので、これが洲乾浜転じて❝横浜❞と呼ばれる様に成りやがて洲乾浜半島上の人口300名の漁村は横浜村と呼ばれる様になり、寶生寺の間宮直元公お古文書にその名が登場する事に成りました。
ペリー艦隊の上陸
幕末に成ると、この半島にアメリカから来たペリー提督が上陸し、更に幕府によって外国人居留地に定められました。
上のペリーさん上陸の有名な絵の右側の樹が今も開港資料館の中に現存する玉楠の樹の3代前の樹だそうで同じ位置に存在し、そお樹の麓の神社は横浜の水神社として知られた御社です。
外国人居留地は旧半島と埋立地の間に残された海の名残りの運河がそのまま境界線に成りました。
関内周辺 久良岐のよし
吉田橋の上に関所が設けられて外国人居留地は関内と呼ばれた事が今のJR関内駅始め関内と広く呼ばれる地域の地名由来に成っています。
最初に見て貰った松美湯周辺の画像に戻ります。
松美湯周辺地勢 久良岐のよし
松美湯の直ぐ南西側、画像の左手には蒔田城と言う御寺が有りますね?
室町時代には関東を治めた将軍役割を果たす鎌倉公方と言う役職を京都の征夷大将軍とは別に足利家が代々務めて鎌倉に役所を置いていたのですが、永享の乱と享徳の乱と呼ばれる鎌倉公方vs京都の室町幕府の戦いが起きて鎌倉公方家が茨城県の古河城に退転して役割を果たせなくなっていた時期に足利一族で蒔田城主だった吉良家の吉良成高公や吉良頼康公が鎌倉公方代理を務めた事から蒔田御所と呼ばれていた歴史が有ります。

更にこの蒔田吉良家は元々は世田谷城も拠点にしており、時代によって本拠地を移していたので世田谷城跡の世田谷豪徳寺は現代では紅葉の名所として外国からの観光客にも人気の場所ですが歴史好きには吉良家の開いた寺院として、そして横浜を開港した彦根城主井伊家の江戸時代の菩提寺としても有名です。

以前紹介した中区JR山手駅近くの❝いなり湯❞や、南区中村町の❝仲乃湯❞もそうですが、横浜の中でも比較的早く宅地化されて人が多く住んだ地域は、やはりそれなりに歴史史跡に囲まれており銭湯巡りと合わせて歴史散歩を楽しむには最適だったりするんですね。

さて!

今では松美湯の近くの寶生寺が横浜市の市名の由来と成った古文書を書いた間宮直元公と関係が有ったり、その間宮直元公の奥方の智性様の御墓が磯子区の妙蓮寺の世代の御寺の御家族には雑に扱われているものの現存している訳ですが・・・
もし歴史散策で南区堀之内の寶生寺や磯子区の妙蓮寺で智性院様を御参りして両方の御寺で立身出世の御利益や良い男性との縁結び(笑)を祈願したら、きっと間宮直元公と智性院様御夫妻も御参りに来てくれた事を喜んで、良い男性との縁結びや立身出世の御利益を智性院様が参拝する女性に与えて下さりそうです♪ 
小生は立身出世の御利益を賜りたいwww。
松美湯周辺2 久良岐のよし
・・・そして寶生寺や南区歴史散策の帰りに松美湯でひとっ風呂浴びて冷たいジュース飲んで帰るとか最高でしょ?
そんな訳で今回はコロナ前は陶芸教室や喫茶店も併設営業していた素敵な横浜市南区堀之内の陶芸家の御主人が営む素敵な昔ながらの町銭湯、松美湯を紹介して見ました。

他の銭湯にも御興味有る方は是非コレ⤴から御自宅の最寄りの素敵な昭和の銭湯を探してみては如何でしょうか?
浴室の写真を撮影させて頂けた所から順番に記事にしているので未だ掲載数は少ないですが、どこも素晴らしい壁画や周辺に観光地や史跡の有る所が多いですから、歴史散歩ついでに帰路につく前、ひとっ風呂浴びて帰れば、きっと充実した休日に成ると思いますよ~。

では皆さん、次こそは(笑)逗子市の郷土史か富士山の景勝地紹介の記事で御会いしましょう~♪

——追記——
最近、サル疱が世界で流行しつつありますね・・・
この病気は歴史オタ的には高度経済成長期に消滅したはずの天然痘に非常に似ていると思います。
天然痘は貴族~武士の時代、多くの日本人を死に至らしめた感染症で呼吸器からも感染者の吐息を吸う事で感染しました。
非常に致死率が高いだけでなく完治したとしても肌がボコボコに疱瘡が出来た跡の傷が顔から足先まで残り女性は結婚を躊躇(ためら)う様な人生を歩む事に成る病気でした。
猿疱がそこまで致死率が高い訳では無さそうですが一つ重大な問題が判明しているそうです。
コロナは高齢者が致死率が高い病気でしたが、今度のサル疱は子供の致死率が高いそうです。

サル疱は空気感染しないと言う一部専門家の意見が有る一方で、発生源のアフリカに渡航履歴の無い人達が既に感染しているので初期のコロナと同じで呼吸器から感染すると考えた方が現実的な気がします。
楽観主義は又コロナ対応初期のミスの繰り返しを生むと思います。
正直、今のタイミングで外国人旅行客を受け入れるのは如何かと個人的には危惧しております。
政治家は頑張っても日本の場合制度上の欠陥で起きた事件にしか対処する機能を持っていません。
小生は家族を不幸に合わせない為にもサル疱対策にアルコール消毒とマスク着用はもう暫くシッカリ行って、又、直接的な他人との接触は注意して観光を楽しみたいと個人的に思います。

皆さんも自己判断で御体御自愛下さい。
そして良い夏を迎え今年こそ海の家グルメと海水浴を楽しみましょう。
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豊臣家滅亡の決定打と成った大坂城総堀埋立作戦を立案した間宮直元公と言う武将がいた事は並みの歴史オタクでは余り知ってる人はいませんが、皆さんは御存知でしょうか?
横浜市教育委員会でも知ってる人は少なく、寧ろ兵庫県朝来市教育委員会の方々の方が詳しかったりします。
生野代官所位置関係 久良岐のよし
これは以前、朝来市教育委員会から御提供頂いた生野銀山と代官所と生野城の総構えの縄張図を小生がGoogleEarthに貼り付けて立体表示した画像です。
実は間宮直元公は生野銀山の初代代官と佐渡金山二代目代官、そして今の横浜市長の前身に当たる本牧奉行を兼務した武将だったんですね。
そして叔母の於久(おひさ)サンが徳川家康公の寵愛を受けて御姫様を駿府城で生んでいる事から実質外戚としても徳川家と近い立場に有って、徳川秀忠公とは大の相撲好きとして御互いに召し抱えている配下の相撲取り同士を対戦させて観戦させたり非常に仲が良かった事も“横浜市ではなく”兵庫県や静岡県の歴史資料に記録されて今も残っていたりします。
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玉桂山 華陽院
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2019年正月の14日、小生と妹夫婦の共通の来客が中国から有り、東京プリンスホテルの❝ポルト❞と言うビュッフェスタイルのレストランで一緒に食事をする事に成った。
来客と言うのは小生が中国に居た頃に大変お世話に成った人で家族同然に付き合っており「中国のお姉ちゃん」と小生が呼ぶ人で妹夫婦の病院に治療に来たり、日本で買物をするのが非常に好きで服飾関係を目当てにして半年に1回は遊びに来る親日家だ。
当初の予定では中国の姉さんは15日に横浜元町でショッピングをしたいとの事で二人で中華街で待ち合わせして食事をする予定だったが、妹がシャシャリ出て来て小生には何の相談も無く小生の仕事の都合も無視して勝手に日程を14日に変更した挙句、場所まで東京プリンスホテルに変更してしまった・・・
結婚して子供を産んでからの妹が独裁者化していて困惑する事が多い。
・・・兄ちゃんに事前に相談して!
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ホテルの駐車場に車を停めて「何だか人が多いな~」とか思ってたら14日は成人式だったんだな~。
綺麗な呉服で着飾った御嬢サン達、青年達が沢山集まっていたが港区の成人式は東京プリンスホテルでやるらしい。
リッチで横浜市とは大違いだな(笑)。港区だと横浜みたいにリーゼントに下品な紋付き袴を着こんだ様な輩(やから)も見当たらなかった(笑)。
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ポルト(東京プリンスホテル内)
ビュッフェスタイルのレストランだけどプリンスホテルの中だけあってとても綺麗な御店で、しかも高いのかと思いきや2800円と御手頃な値段だったので安心した。しかし、これの為に妹が小生の仕事を無視して勝手に予約してからここに来いと通知して来たのは心中複雑で、前日少し妹と喧嘩っぽく成った(笑)。まぁ、小生の一番の理解者なので小生の扱い方を心得ていて直ぐに建設的な話になるのだけど。
ここは今まで食べたビュッフェの中で1、2の美味しさだと思う。
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ローストビーフも切り分けてくれるのだが肉が柔らかくて美味しかった。
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蟹も手べ放題。
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すげ~食った。他にも肉料理や魚料理も沢山有って、他所のビュッフェが肉関連をランチタイムに出し渋るのとは違ってお得感が有ってとても良かった。
当然ながらスイーツ関連も沢山有り、子供のいる家族連れやカップルのデートや女子会でも使い勝手の良さそうなレストランだと思う。
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小生は甘いのは控えて・・・

代りに懐(なつ)いてくれている甥っ子と姪っ子を❝抱っこし放題(笑)❞ハグしまくって満足して来た(笑)。

・・・まぁ~確かに妹夫婦が中国の姉さんに会うなら病院祭日の成人の日しか無いし、子供連れて一緒に食事するとなるとビュッフェしかないし、❝小生の休暇申請を要する仕事事情無視❞は看過出来ないものの来客で失礼のない場所で御手頃な価格のランチと成ると結果的に妹の判断はベストだと思った。
ふむ、流石、独裁者に成っても我が妹は賢い。良き妹ぞ。
そして義弟君と夫婦に成り可愛い甥っ子と姪っ子を産んでくれて、その二人が❝オジちゃん❞て甘えてくれる至福を兄ちゃんにくれてありがとう~♪
食事が終わり、中国の姉さんは妹と銀座や新宿に買物に行くとの事で、ホテルの車寄せで皆を見送り解散した。
小生はその後で隣の芝増上寺として有名な徳川家の菩提寺、三縁山 広度院 増上寺に参拝に向かった。
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横断歩道を渡り歩道沿いに増上寺に向かって歩くと何やら日本庭園ぽい場所が在(あ)ったので何だろうな~?と思い其方(そちら)側に渡って行って見た。
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どうやら元々芝増上寺の山門の両脇の景色を良くする為に徳川幕府の命令で植林された松林がここに在ったらしい。第二次世界大戦で焼失したのを復元したんだな。流石、日本の国宝保有数最大の東京都、横浜市の史跡や自然破壊大好き現職市長とは大違い。
今の横浜市長なんて北条綱成公や徳川家康公の参謀だった間宮家の松本城址の桜の大木の並木を悉(ことご)く伐採したり、開発反対署名12万人集まり市の有識者も過半数が開発反対している横浜市最大最後の蛍の大生息地円海山瀬上沢の東急不動産による宅地開発計画を容認する様な発言をして大バッシングを受けていたり。
東京都は偉いね。
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戦後復元した松原も大樹に育っている。うん!素晴らしい。
そこを過ぎると増上寺の巨大な山門と東京タワーがコラボした素敵な風景の交差点に行き着いた。
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この写真で見切れている右手に実は歴史的に重要な場所が有る。
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見た目は古い御屋敷、実はこれは元々は増上寺の塔頭(たっちゅう:支院)の一つである広度院で、増上寺山門前のこの前の道の両脇や増上寺周辺芝公園一帯には江戸時代迄沢山の塔頭が建ち並んでいた訳だ。
そして現在、増上寺の院号が広度院と成っているので明治時代の廃仏毀釈で多くの支院が廃寺に成った際に増上寺の運営を担ったのがここの広度院だった事が解かる。
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今では普通の古民家の様な佇まいだが文化的な意味は深い場所。
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だから国の登録有形文化財にも指定され保護されているんだな。
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そこから増上寺の方に少し戻る。
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増上寺前交差点、現在の増上寺の山門=大門。
東京メトロ❝大門駅❞は増上寺の大門の目の前だから、そのまま駅名に成っているのを知らずに地下鉄に乗ってる人もいるんじゃなかろうか?
増上寺周辺 久良岐のよし
実はこの辺、東京都屈指の観光地が集約されており、朝から夕方日没までゆっくり散歩しながらグルメと文化と夜景を満喫出来るんだな~。だからカップルでデートにも、田舎からの来客を観光案内するにも❝使い勝手の良い地域❞なんだな。
例えば・・・
1朝、新橋駅に集合。
2築地場外市場に移動して朝御飯
3浜離宮恩賜庭園を散歩して徳川将軍家の御鷹狩場で甲府徳川家下屋敷でもあった日本庭園を散歩し抹茶で一服
4芝離宮恩賜庭園、徳川幕府老中で我が神奈川県の小田原城主だった大久保忠朝公の上屋敷だった日本庭園を見物
5芝公園方面に移動し東京プリンスホテルで昼食
6増上寺を参詣、徳川家歴代将軍の御廟所や家康公の守り本尊である黒本尊阿弥陀如来様を参拝
7芝東照宮を参拝し芝丸山古墳を見物
8東京タワーを見物、東京の風景を楽しむ
9夕方に霞が関方面に移動、虎ノ門ヒルズを物色
10夜、虎ノ門ヒルズの展望台で東京タワーを含む夜景を堪能。
・・・地図を見ながら無駄なく順路を廻ればこんだけ1日で楽しむ事が出来る。
重要な事は❝小生には一緒に廻ってくれる人がいない❞ので一人でこれやるしか無いんだな(笑)。
実に寂しい。
小生は好きに成る人に悉く嫌われて、好きじゃない人から好かれてしまう行動しか出来ないらしい。
まぁ、秋は芝公園も浜離宮も芝離宮も紅葉が綺麗なので、秋か蚊のいない春に行くのが良いかも知れない。その頃に小生みたいな阿呆と付き合ってくれる奇特な人との御縁が・・・無い(笑)。
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さて、そんな事を大門の前で地図を見てパパっと思い浮かばせながら増上寺を初参拝するべく横断歩道を渡る。
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行くまで知らなかったが、どうやら正月は色々と増上寺で徳川家康公の守り御本尊だった黒本尊様の御開帳とか色々な催事が行われている様だ。
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山門をくぐると広大な境内の御庭と正面に御本堂が目に入った。
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う~ん現代と江戸時代のコラボ!悪くない。
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実は現在の境内でも相当広いのに江戸時代の三分の一以下に規模は縮小されている。
昔はプリンスホテルの辺りも北廟と言って徳川幕府二代征夷大将軍の徳川秀忠公と信長公の姪のお江様御夫妻の御廟所等が有ったんだな。
とは言え今の境内も物凄く広い。
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山門潜って直ぐ目に入った観音様。
何やらその後方にも立派な御堂が見切れている。凄く気に成ったので其方から先に回る事にした。
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観音様の周辺には色んな供養碑とかが有った。
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仏足石とかもね~。
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まぁ、レプリカだけど大きい御寺にたまに有る。
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観音様の反対側には立派な鐘楼も在った。
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火事で一度焼け落ちたけど江戸時代の内に再建されたらしい。徳川家綱公の奥方様の簪(かんざし)まで寄付して鐘の再鋳造と鐘楼再建の費用が捻出された様だ。東日本最大級だってさ!凄い。
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あと催事のポスターとかの掲示板。
どうやら小生が気に成った建物は慈雲閣と言うらしい。
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でもこの建物の垂れ幕を見て小生は不思議だった。普通浄土宗は徳川家に三つ葉葵の徳川家の家紋の使用を寺紋として使用を許されているので三つ葉葵の家紋が垂れ幕に染色してあるものだけれど、この立派な御堂には❝八楊に月星=九楊と月❞紋だった。九楊紋、八楊に月紋、月星紋はいずれも平安時代以来の武家の名門である千葉家一族の用いた家紋だ。
後で若い僧侶に聞いた所、この慈雲閣は増上寺を開いた開山の和尚様を祀る開山堂だそうだ。つまり開山様は千葉家所縁の人間と言う事なのだろうか?詳しい事は調べていないので解らないままの参拝でそんな事を考えていたら予想は的中していた。
増上寺は西暦800年代に今の千代田区麹町辺りに空海和尚の直弟子である宗叡和尚が前身寺院の光明寺を開いたそうだ。当然ながら真言宗寺院だった訳だ。その後、南北朝~室町時代の人で増上寺の中興開基つまり浄土宗に改宗して増上寺と名を改めて御寺をリニューアルオープンしたのが酉誉聖聰和尚で、この人を祀っているのが開山堂である慈雲閣だそうだ。この酉誉聖聰和尚が小生の家紋からの見立て通り房総半島の大名の千葉家出身の人物だそうで、父親は千葉氏胤公、母親は新田義貞の未亡人らしき人物だそうだ。意外な事に酉誉聖聰和尚の甥っ子である馬場重胤公がおり、恐らく武田信玄の家臣で名将の馬場信房が家名を継いだ馬場家の御先祖様に当たるだろう。武田家は房総半島~茨城一帯出身の大名なので実は飯富虎昌公始め房総半島所縁の氏姓を名乗る武将が多かったりする。つまり馬場家の御先祖は千葉家で、増上寺を浄土宗に改めて中興開基した酉誉聖聰和尚様とも親戚だった訳だ。
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犬の散歩禁止。
歴史が好きだと家紋一つで色んな家の御先祖様がアッチ行ったりコッチ行ったりした移住の歴史も辿れたり御寺に関わった人物の出自もこやって推測し当てる事が出来るから面白い!
アッチ行ったりコッチ行ったりした千葉一族の酉誉聖聰和尚を祀る御寺の前だけど犬連れてアッチ行ったりコッチ行ったりするのは禁止(笑)。
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そこから御本堂の方向を見ると東京タワー、御本堂、光摂殿と言う左側の建物を一度に写真に収める事が出来る。小生はこの時に知らずに御参りしなかったのだが、そうやら左側の光摂殿は立派な天井絵が公開されていて見る事が出来るらしい。う~ん、次の参拝の機会に行きたい。
で、御本堂に移動して御本尊様を拝もうと思ったらとんでもない人の行列だった。
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う~ん・・・
別に正面から拝む必要無いよな~と思った小生。横入りもしたくない。
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でも、これ並びたくない。
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なので遠巻きに参拝した(笑)。無論、御賽銭は別の御堂に多めに入れたので大丈夫!
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で、この日、特別公開を意味する御開帳の黒本尊様、つまり東照大権現徳川家康公が戦場にも携行し拝んでいた阿弥陀如来様の黒い仏像を拝むのが徳川家御廟所参詣と同じ主目的の一つだった。
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安國(国)殿と言う御堂。ここに黒本尊様が祀られている。
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丁度多分凄く偉い和尚様が説法をされていて、色々と聞く事が出来て良かった。
黒本尊様は家康公の勝運を頂ける阿弥陀様だそうだ。
確かに家康公は姉川の戦いで浅井朝倉連合軍の猛攻を受けて本隊の織田軍が混乱する中、反攻戦を展開し不利な戦況を覆し織田徳川連合軍を勝利に導き、諸大名による織田包囲網を打開させる糸口を作りだしたり、初陣での大高城兵糧入れ作戦でも500人の小勢を率いて見事に作戦遂行し、更には小牧長久手の戦いでも豊臣(羽柴)秀吉の大軍を痛撃して堀秀政、池田恒興、森可成等の歴戦の勇将率いる軍勢も潰滅させている野戦上手だった。
しかも勝つだけじゃなく武田信玄に負けたり、今川家臣時代の不遇の経験を活かし学習し、そこから成長する人間力も有った人なので今、小生は家康公から多くの事を学ばなければいけないので粘り強くも反省を活かす性格に成る人間力向上の御利益にも預かる必要が有る訳だ。

黒本尊様 増上寺公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は増上寺様ホームページより拝借。
小生は反骨精神の強すぎる所に難が有り、理不尽な事を言われると我慢せずに論破してしまうし、冗談でも被害を被る事をやられたら冗談では済まさずましてや危害を加える心算で悪意ある事をされると半沢直樹みたいなスマートな「倍返しだ!」じゃなくて自分の大切な人達にも半端ない泥臭く自分も相手も傷つき確実にダメージを残す自爆テロみたいな事をやってしまう悪癖が有る。
これを浄土宗や日蓮宗や曹洞宗を大切にされつつ、身分問わず愛する人や町民を幸せにした信長公や家康公を今こそ歴史好きとして手本にして人を大切にする事を学び取り、現世でも今迄毛嫌いしていた人達からも色んな事を学んでいかなきゃいけない1年だと思う。
だから、実は下らない反骨精神で成人式すらしていない小生が成人の日に妹の気まぐれで東京プリンスホテルに勝手に集合場所を変えられて、奇しくも黒本尊様を拝めたのは家康公の御導きだと思えば、これも一つの小生が❝真実も見ながら人を幸せに出来る人間❞に生まれ変わる第一歩となる遅すぎる❝成人の日❞に成ったのかも知れない。
実は今年の小生の年齢は、母方の祖父が亡くなった年齢でもある。
小生の名前は母方祖父と、父方祖母から同じ字を一字頂いている。
祖父が死んだ年齢で小生が性格から改善し人として発展し人を幸せに出来る器量を持てる様に成るなら、やはり家康公の黒本尊様を拝めたのはターニングポイントだったのかも知れない。
黒本尊様を御参りして今度は徳川家歴代将軍の御廟所を御参りするべく移動開始。
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と、その入口の手前に観音様がいらっしゃった。
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西向観音菩薩様。
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石仏なんだね~。とても大切にされていて拝む小生も嬉しくなる。
さて、拝み終わり徳川家御廟所へ移動。
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立派な金属製の御廟所入り口の門。
鋳抜門(いぬきもん)と言うそうだ。元々は徳川幕府第六代将軍の徳川家宣公の御廟を守っていた門らしい。廃仏毀釈で仏教弾圧され増上寺の境内が縮小したり戦後の規模縮小での歴代将軍の合祀で移築されたそうだ。
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この門は平時は開かないので左手で拝観料を払って壁の横の入口から御廟所を参詣する。
普通小生は歴史偉人の御廟所を写真撮影しないのだが、徳川将軍家に限っては家康公からして東照大権現の神号を授かり、御廟所の日光東照宮が神社に成っているので小生の認識に於(お)いて徳川将軍家の御廟は御神孫と同等であり、その御廟一つ一つが神社と同じ役割とも考えているので今回は写真を撮影してブログに掲載させて頂く事にした。
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そもそも家康公の宗旨である浄土宗の大本山で、この御廟を管理している増上寺が絵葉書にしているのだから罰は当たらないし逆に御利益を授かれると思う。
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先ず御参りしたのが小生が江戸の町の基礎を築いた内政で尊敬する徳川秀忠公と、その妻ので信長公の姪で名将浅井長政公の姫の❝お江❞様御夫妻の御廟。元は別の場所にあり、東照宮みたいに立派な建物に囲まれていたが戦災で焼け落ちてしまった。
この秀忠公は小生の尊敬する北条家臣で名将の間宮康俊公の孫、今の横浜市長の前身にあたる本牧奉行や佐渡金山奉行や生野銀山奉行をしていた間宮直元公と非常に仲が良かった将軍様だ。
二人して御相撲サンを沢山部下に雇っていて、二人で相撲大会を開いて見物して遊んだりしたそうだ。
間宮直元公の伯母で間宮康俊公の姫の於久(おひさ)様が家康公の側室に成っていて駿府城で家康公の姫を産んでいたので間宮家も徳川家の血縁で、徳川秀忠公と間宮直元公は義理の従兄弟同士で同世代だから仲も良かったんだろうね~♪
間宮直元公は大坂城冬の陣で真田丸や大坂城総掘り埋め立て作戦を家康公に進言した名軍師でもあって、残念ながら後に横浜を開港させる井伊直弼公の祖先の井伊直孝公の軍団の与力として在陣したせいで井伊家が真田隊の経略に引っかかって真田丸に突撃して大損害を受けて潰滅した戦いで間宮家も間宮直元公や千葉県八千代市の分家高津間宮家の間宮正秀公を始め戦死者を出してしまってる。井伊直孝隊がアホみたいに真田信繁公の計略に引っかかって突撃せず、間宮直元公の大坂城総掘り埋め立て作戦の献策を徳川家康公が既に採用していたのだから、家康公と間宮家の作戦通り大坂城無力化させてから降伏勧告をしていれば良かっただけなんですがね。
まぁ、井伊家は先代の井伊直政公が名将だったので二代目はプレッシャーが大きく功を焦ったんでしょうね、結果的に徳川軍に大損害を招く失態を犯した訳ですが、まぁそれは今は必要の無い解説かな?
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これが徳川家宣公の御廟所。
本当に無駄な徳川綱吉の生類憐みの令を廃止して改革善政を行おうとした将軍様。
この家宣公の参謀が新井白石で、彼は鎌倉市玉縄の領主だった。間宮家が戦国時代に仕えた北条家の家臣時代は玉縄城主で関東最強の戦国武将だった北条綱成公の付家老(つけがろう:本社から赴任する支店長代理みたいな)が間宮直元公の御爺ちゃんの間宮康俊公だった。
何だかんだ、間宮家と因縁が有る新井白石。
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徳川家継公の御廟。
この人の跡を継いだのが暴れん坊将軍のイメージがTVでついてしまった徳川吉宗公。
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十四代将軍徳川家茂公。天皇の忠臣で、逆賊長州を征伐しようとして多分大阪城で毒盛られて暗殺された人。妻が有名な和宮内親王だった。
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で、奥さんの和宮内親王の御廟所。女性が参拝したら女子力上がりそう。
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第九代将軍の家重公。
物凄い美男子だったけど発達障害が有ってちゃんと言葉が話せなく、子供の頃から大奥に行って女性と淫らな事をしていたって余り良い伝承が残ってない人。
でも息子さんの徳川家治公がとても賢かった上に、父の吉宗公がサポートしたから何とか上手く次世代にバトンを繋げた将軍様。
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第十二代将軍の徳川家慶公。
この人の参謀が水野忠邦公で、有名な天保の改革が失敗しちゃった時の将軍様。
日本文化を守ろうとしたり緊縮財政で財政再建しようとしたんだけれど反発が強くて上手く行かなかった。
駆け込み女と駆け出し男
この時の時代背景を映画にしたのがに大泉洋サンと戸田恵梨香サン主演で2015年に公開された映画の❝駆け込み女と駆け出し男❞なんだな。
映画と舞台の東慶寺の解説を以前に記事に書いているので御興味の有る方は御覧下さい。
記事リンク⤵

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で、最後の御廟は増上寺境内地の縮小で合祀を余儀なくされた将軍様御身内の御廟所。
それでも立派だな~。
そうそう、先に一度出したけど、この御廟所を拝観すると記念品にポストカードが貰える。
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どうです?芝の増上寺、凄く立派で見応え有るし東京タワーやプリンスホテルのランチと合わせても魅力的でしょう?

もし御興味有れば周辺の観光地と合わせてデートに家族のレクリエーションにと訪問して見ては如何でしょうか?

では!又、次の解説記事か休日雑記で御会いしましょう~♪

※追伸
木曜日投稿予告してたのに色々と用事が立て込み土曜日に成っちゃいました(笑)!又、次の記事も土曜日の夜中に書くから読んで下さいね~♪
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想像力の無い教育委員会と、扇動されやすい大衆迎合主義バカ共の偽城郭ファンと俄ハイカーのせいで貴重な景観が失われた。

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竹田城址の有名な一本松が地面を踏み固められた事で枯れてしまった。
こうなる事は観光客が異常増加したのに立ち入り可能区域規制をしなかったので、多くの城郭ファン達は想像していたはず。

竹田城はアホな土木事務所が遊歩道建設の為に城郭の一部を損壊させたり、アホな観光客が事故起こしまくったり貴重な遺構を踏み荒らし前々から城郭オタクは警鐘を鳴らしていたんだが・・・

同地は安土桃山~江戸時代初期に横浜の殿様で徳川家康公の軍師だった間宮直元公が但馬奉行として治めた土地なのでハマっ子歴史好事家(マニア)としては非常に腹立たしい。

土木事務所と観光振興課の人、反省してね。
朝来市役所と県の各部署と城郭専門家を集めて色々想像して議論すれば、朝来市の
観光業と共存しながら未来に竹田城は保存状態良いまま残せるはずですよ!
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