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タグ:関家

仲乃湯
凄い宮大工が建てた銭湯でドラマやCMのロケ地
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☞銭湯の個性と周辺見所 (・◡・)♫  
 人間国宝の宮大工が手掛けたよ◎
 町の銭湯なのに露天風呂有るよ◎
 外国の温泉ファンにも有名だよ◎
 色んなドラマCMのロケ地だよ◎
 子供客はクイズで景品貰えるよ◎
 芸者の神様の中村八幡宮近く◎
 有名な横浜橋商店街の近くだよ◎
☞施設・備品関連 (•ω•)ノ      
【入浴料】
 大人470円
 子供200円
 幼児100円
【アメニティー】
 シャンプー等は備え付け無し
 使い切りシャンプー類販売有り
 レンタルのハンドタオル有り
 飲料販売有り
【電車】
 市営地下鉄阪東橋駅~徒歩12分
【  車  】
 駐車場無し。
 中村東公園周辺に有料駐車場複数
――以下 写真と詳細( ՞ਊ՞)ʃ♪だよ⤵――
——店構え——
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——入口——
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——番台の彫刻——
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——超かっこ良い天井——
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——更衣室の様子——
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仲乃湯脱衣所 公式から拝借 久良岐のよし
——浴室(内風呂と露天風呂)——
仲乃湯浴室 公式から拝借 久良岐のよし
仲乃湯露天風呂 公式から拝借 久良岐のよし
——昔ながらの瓶入り飲料——
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ここの建築は物凄く見応えが有る。人間国宝に成った宮大工が彫刻を施した番台や巨大寺院の様な天井、ファンから寄贈された扁額が掲げられ、もう超有名な神社に来た様な雰囲気すら有る。
スーパー銭湯しか知らない平成世代は圧倒されるかも知れない。箱根のかなり有名な温泉旅館じゃないと太刀打ち出来ない様な立派な建物。
更に住宅街の銭湯でありながら露天風呂まで有る。なのに昔ながらの銭湯でゴチャゴチャしたスーパー銭湯には無い安らぎと癒しが有る。横浜市内最高の銭湯と言っても過言ではない。
こんな場所をTV業界が放って置く訳も無く、多くのドラマやCMのロケ地に成っている。
【ドラマ】
笑点ドラマスペシャル桂歌丸
・・・泉ピン子、尾上松也さん、水上あさみさん
世界一難しい恋   
・・・嵐の大野君、モデルの波留ちゃん
【TV】
YOUは何しに日本へ
NHK夕時ネットワーク
安らぐ町の銭湯なのにドラマのロケ地として来訪すると非日常感も味わえる。
阪東橋駅から徒歩で10分と交通の便も良く、来る途中には横浜市で一番有名な商店街の横浜橋商店街が有るので、買物の延長で来る事が出来る。
この立派な銭湯が建てられる文化素地が実は周辺には昭和初期まで存在していて、現在の横浜橋商店街一帯は幕末~昭和初期まで発展し続け、その過程で永楽遊郭や真金町遊郭街が形成され立派な日本建築を作る宮大工達と縁の深い土地柄も有りました。実は笑点で司会を務めていた桂歌丸さんが真金町の遊郭の御曹司(おんぞうし)でした。そんな歴史が有るので付近には芸者と御金持の旦那衆が多く参拝し新橋からも芸者衆が来る程の金運と芸事と女性守護の神社として崇敬され第2次世界大戦の横浜大空襲まで巨大な社殿を誇っていた中村八幡宮も存在します。

御朱印収集で参拝に来られた方は是非、昔の中村町~真金町の文化の名残を仲乃湯に求め入浴行ってみて下さい。良い休日に成る事間違い無し!
この中村八幡宮を戦時中迄守っていたのが、旧鎌倉郡~三浦郡の実に六十余の神社の宮司を務めた関家だったのですが、この八幡様は現在でも女性や芸事や商売の守神として崇敬されているので、八幡様は治水と破魔と地鎮の神様ですが、女性には多くの強い御利益が有るかも知れませんね。
さて、仲乃湯が近くに在った芸者が行き交い御金持の旦那衆が訪れた遊郭の歴史や、庶民の生活を支える有名商店街の変遷と文化素地が有って成立した地域の素敵な銭湯だと言う魅力は伝わったでしょうか?


mixiチェック

横浜市南区には横浜橋商店街と言うTVも撮影に度々(たびたび)来る横浜市で最大級のアーケード商店街が有ります。
調べているうちに解ったのですが、その商店街は江戸時代に舞田湾を埋め立てて造成された“吉田新田”の中に有るのですが、横浜橋商店街は元々どうも立地的に近くに在る中村八幡宮の参道門前町として吉田新田側の橋の延長線上に発展して来た様です。
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中村八幡宮
新橋の芸子衆も御参りに来るほど昭和の横浜大空襲まで大規模な社殿を持って栄えていたそうで、その参道の商店街が今の横浜橋商店街の原型の様です。
ちょっとパンフレットの画像も見にくいのですが、たしかに台地に在る凄く立派な社殿が、随神門と壁に囲まれているんですよね。
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現在の中村八幡宮の宮司サンにも色々伺ったのですが、元々は舞岡八幡宮を本拠地に旧鎌倉郡と旧三浦郡を含め60余社の神社の宮司を務めた関家が元々の宮司様だった様です。
中村八幡宮の宮司だった関家は戸塚区の品濃白幡神社や港南区の永谷天満宮や永谷神明社、横須賀汐入の諏訪大神社等の宮司職も兼務されていたのですが、品濃白幡神社や関家についても以前、解説記事を書いていたので御興味有る方は以下の記事タイトルをクリックして御覧下さい。
旧宮司家の関家は社家としての格が高かった訳で、そんな関家でなければ宮司を任せられない程の規模を誇っていたのが、この中村八幡宮な訳です。
何でこの神社が第二次世界大戦の横浜大空襲とGHQによる戦後政策で境内地が縮小するまで大変繁栄していたかと言いますと昭和初期まで真金町や中村町には劇場や料亭が沢山有り、多くの御金持や芸妓(げいこ)衆で賑わっていたからなんですね。
今でも日本語だけでなく中国語も韓国語もタイ語も飛び交い異国情緒溢れ賑わう商店街は有りますが、それも比に成らない程の遊興地として栄え人と御金が集まっていたんですね。
ちょっと行けば幕末~明治~大正~昭和まで外国人居留地として始まり多くの外国の商社が集まった山手地区や日本大通りも有りましたからね~。
それは以前、映画“L💛DK”のロケ地解説で色んな洋館を紹介しています。
御興味有る方は是非、読んで横浜山手地区デートを彼氏彼女さんと楽しんでみて下さい♪
中村八幡宮からそんなに遠くない場所には凄い御寺も有ります。
真言宗の52ヵ寺の本山だった寶生寺さんですね。
他にも沢山の神社仏閣がある風流な京都の祇園とか清水坂みたいな場所が戦前の明治~昭和初期の中村町~真金町だったみたいです。京都の祇園も八坂神社の参道として栄え清水坂も清水寺の参道として栄えた門前町ですからね。
横浜橋は江戸に出来た新しい埋め立て地だから門前町の歴史が京都と違い浅いのですが、横浜の中村八幡宮は元々延喜年間から存在した事が地域にも宮司家にも伝承しており、恐らくそれは本当でしょう。
この地域を開拓したのは坂東平氏ですが、当時既に鎌倉の御霊神社に祀られる平良文公と、その甥で神田明神の御祭神の平将門公等によってこの地域は支配されていました。中村町辺りは平安時代末期には平良文公の御子孫に当たる三浦一族の久良木三郎通継公が支配していました。この武士団が信仰したのが海神で疫病治癒の神でもある素戔嗚尊と習合された牛頭天王を祀る牛頭信仰=八坂神社や祇園社や八王子社と、同じく治水の水神であり破魔の神様である大鞆別命=応神天皇に習合された八幡大菩薩信仰つまり八幡信仰でした。
中村八幡宮と本牧半島の反対側に当たる八幡橋八幡神社も更に古い欽明天皇の頃に開かれている事が伝承しています。なので平安時代から中村に八幡信仰が有るのは極々自然な訳です。
実は各時代の度重なる戦乱で史料が残らないこの地域ですが、古くから朝廷の軍馬生産地として久良岐屯倉(みやけ)が置かれ天皇家直轄地の郡だった歴史が有るんです。
ですから門前町は新しく、外国人文化の色濃い横浜元町に近い地域ですが文化歴史は京都にも負けない古代からの歴史の醸成地でもあるんですね。
つまり中村八幡宮のある中村町や真金町辺りは今でこそ庶民的で異国情緒溢れる町ですが、イメージ的には和風な街並みと大正ロマン溢れる服装の人が行き交う風景が戦前まで広がっていたみたいですね~。
現在の地図と明治初期の迅速測図と言う地図で町の様子を見比べてみましょう。
中村八幡宮周辺 迅速測図 久良岐のよし
※クリックして拡大して見て下さい。
これを見ると解かりますが、明治の最初頃はまだまだ八幡宮周辺の参道だった横浜橋商店街辺りは出来て歴史浅い埋め立て地なので未だ何も有りません。日本初の石鹸工場何かが有ったらしいです。
この迅速測図の書かれた明治時代の終わりから次第に人が増え大正時代には色町として発展した横浜らしい新しい街だと言う事が解ります。
そして遊郭が立ち並ぶ過程で中村八幡宮も繁栄し戦前の巨大な社殿が造営されていった訳ですが、遊郭の建築ラッシュや元々、真言宗の大寺院だった寶生寺や蔵徳院と言う大寺院が御近所に有ったからこそ宮大工が集まる文化素地が形成されていたのでしょうね~。
横浜市に限らず色町の文化と史跡研究に関しては小生よりも“知の冒険”と言うブログを運営してる丹治君の方が詳しいので、彼のブログを見ると真金町界隈の事を沢山書いて有ると思いますよ~。

彼はラジオにも呼ばれる人物なので、色町の文化研究のセミプロです。行動範囲も広く小田原の色町跡を探索に行ったり、関西や中部地方も良く取材に行ってます。
花街の文化に興味が有る方は彼の記事を読んで見て下さい。
まぁ~、そんな明治大正昭和初期のいなせな男女の風流さと悲哀と失敗と成り上がりが複雑に混じった素敵な雰囲気が漂う風流な和風の街並みが広がっていた中村町と真金町ですが、戦後昭和三十三年の風営法施行により遊郭が経営不能に成り閉鎖し、そこに根付いていた宮大工の方々の技術が幾つかの銭湯建設を通じて今も残っています。
それが中村八幡宮の近くの仲乃湯さんです。
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記事⤵️
仲乃湯 凄い宮大工が建てた銭湯でドラマやCMのロケ地
今では中村八幡宮の社殿は縮小はしていますが、仲乃湯に御風呂に入りに行くと立派な建物から往時の中村町の雰囲気を垣間見る事が出来ます。
神社好きの皆さんも、御朱印を拝受に参拝したり横浜橋商店街とかに買出しに行く事が有ったら是非!お風呂入りに行って見て下さい~!
きっと建物の凄さに感動しますよ!

さて皆さん、今日はここまです!

夏に入りますが新型肺炎も未だ終息していませんし、気温も上がり熱中症にも注意しないといけませんね~。
次の記事で御会いするまで健康に実り有る日々を御過ごしくだされや~♪
では又!
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品濃白幡神社の解説で、鎌倉時代~明治時代まで横浜市南部の神社仏閣を守って来た権現堂と泉蔵院と言う修験道の道場と、そこを戦国時代から治めた北条家臣間宮家の子孫の松本家と関家に少し触れました。
その時の記事、クリックで読めます⤵
商業街の中に在る戸塚区品濃の白幡神社と白幡山公園
・・・実は凄い歴史偉人と関係有ります。


その権現堂と泉蔵院が何故、横浜市南部の神社仏閣を支配する事に成ったか解説したいと思います。

横浜市南部の神社の多くは鎌倉時代から修験道の2系統の家系によって管理されていたんです。
1つ目は亀谷福禅寺権現堂(かめがやつ ふくぜんじ ごんげんどう)
2つ目は大靈山山崎泉蔵坊(だいれいさん やまざ きせんぞうぼう)
この二つは何(いず)れも修験道の大道場で、とても由緒有る神社であり寺院としての道場機能も有していました。新編武蔵風土記稿を読むと解かりますが、旧鎌倉郡と久良岐郡域の内、江戸時代に本牧奉行間宮家本家と、分家で江戸幕府鷹匠頭の杦田(すぎた)間宮家が支配した地域では、権現堂と泉蔵坊が神社を分けて統治していた記録が有ります。そして、この両社は源頼朝公が支援した修験道道場でしたので、その支配は間宮家の統治によるものと言うよりは鎌倉時代からの統治機構の名残りだったのかも知れません。
更には、旧鎌倉郡江島神社を管理した岩本坊間宮家、旧高座郡に当たる海老名市の古代相模国一之宮今五之宮であり延喜式内社の有鹿神社が存在しますが、戦国時代に海老名の中心部は間宮家の所領でしたし間宮康俊と言う殿様の時代に一度途絶えた有鹿神社の水引神事が復興されています。そして、相模国二之宮の川勾神社宮司家や二宮尊徳を輩出した二宮家にも間宮家から養子が戦国時代に入っていたりします。
ついでに少し品濃白幡神社から話を逸れて、間宮家や旧北条家臣団が如何に神社や修験道に宗教的な影響力を持っていたかを知っていると色々と解る事も有るので説明して置きたいと思います。
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上の写真は旧杦田郷(すぎたごう)の現代の港南区と磯子区の境に跨る笹下城本丸跡地形。
この笹下城跡の本丸は三井不動産レジデンシャルによって右側の大空堀が掘削された後に盛土され一部破壊されましたが今も介護施設の裏山として存在しています。
安土桃山時代に豊臣秀吉の小田原北条家討伐戦で間宮家は、当時の笹下城主で間宮家当主の間宮康俊公が72歳の高齢で玉縄城主北条氏勝公与力の付家老として箱根山中(三島市側)の山中城に籠城します。
この時に間宮康俊公の寄親(上官)の北条氏勝公が敵前逃亡して玉縄衆兵3,000を率いて玉縄城に撤退してしまうのですが、間宮康俊公だけは山中城主松田康長を見捨てず山中城に籠城し続けました。
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写真はGoogle earthで見た山中城址の航空写真。
笹下城主間宮家臣団兵200、松田康長公の部隊兵100の合計300で籠城、豊臣秀吉本隊80,000の大軍勢を迎え撃ちます。
敵は本隊先方豊臣秀次隊・与力豊臣家小大名の中村一氏隊と家臣の渡辺勘兵衛隊・堀尾吉晴隊、山内一豊隊、一柳直末隊の合計26,000余。
右翼、池田輝政隊20,000。
左翼、徳川家康隊30,000。
援軍主将で間宮家の上官だった北条氏勝公が撤退していなくても戦力比は圧倒的不利でした。
北条氏勝公逃亡前 三千余 対 八万余の豊臣軍 
戦力比 1:26
つまり北条家は1人26殺しないと勝てない。だから北条氏勝公は家臣等に説得されてしまい小田原防衛網を放棄逃亡して自領に逃げてしまった訳ですね。
そして間宮家以外の玉縄衆が全部撤退してしまった後の山中城籠城勢 対 豊臣軍の戦力差は更に絶望的な物と成りました。
松田・間宮連合(山中城籠城勢) 300 対 26000 豊臣軍先方 豊臣秀次隊と与力小大名衆。
戦力比 1:86。
1人86殺、常識的には反抗するのも無理な次元での籠城戦、普通は誰も助けに来ない。

なんで品濃白幡神社の説明で戦国時代の間宮家の説明に成るんだろうな~?と歴史に興味が無い人はここまで読んで頓珍漢(とんちんかん)に話がズレてると思うでしょうが、実はここから品濃白幡神社のみならず神奈川県域の全神社にも繋がりが出てきます。
この超絶不利な状況で間宮家の籠城する山中城に僅(わず)かな援軍を出した勢力が一つだけいました。
・・・それが実は延喜式内社、大山阿夫利神社と別当寺の大山寺を守っていた神官僧兵達でした。
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写真は伊勢原市の大山国定公園遠景。大山の三角形の山体と頂上の石山権現と言われた奇岩が縄文時代からの信仰対象で、古来聖地として発展し、神道や修験道や真言宗の聖地として多くの僧兵を抱える一大勢力でした。
豊臣家による北条征伐の過程で発生した超絶不利な間宮家による山中城の防衛戦で間宮家を支援したのが決死隊として大山から参陣した神官僧侶を兼ねる修験者の僅かな部隊でした。
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写真は宗教、築城、鷹狩、有職故実に精通した間宮家が山中城防衛強化の為に三の丸の更に先に増築した岱崎出丸の先端、三日月掘りと言う構造体。
この岱崎出丸で先ず間宮家は修験者部隊と協力して豊臣軍26000の大軍を迎撃して鉄砲隊で散々に損害を与え、敵大名の一柳直末公を討取ってしまします。
更に間宮家・松田家・大山修験者僧兵達は一人残らず討死しますが、何と戦が終わった時には驚愕の籠城兵300で敵戦死者3000余、損害多数の戦果を残していました。
この事からも判りますが圧倒的に不利な合戦でも多くの神社仏閣を管理した大山阿夫利神社と大山寺の僧兵達から支援される程に宗教的な家格が高かったのが間宮家な訳です。
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写真は大山の参道に建つ宿坊の一つ、東学坊。大山名物の美味しい豆腐や猪の料理を食べられる旅館。
大山の修験者の多くは安土桃山時代に武器を捨てて僧兵を辞め、江戸時代に成ると先導師と呼ばれ聖地礼拝の観光客相手に宿坊と呼ばれる神社寺院機能を備えた旅館を経営し大山観光産業の一翼を担い現代に至ります。
江戸時代の神仏分離までは伊勢参り富士山参りに次いで大山詣でが江戸市民から人気の観光地でしたから今も関東の各都市には大山街道が残っています。
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間宮家所縁(ゆかり)の町ですと杉田商店街のメインストリートが近代に再整備された横浜~伊勢原線で大山街道の一つですね。
間宮家は、この山中城の戦いの活躍に加えて江戸時代に徳川家康公の旗本となり氷取沢間宮家初代と成った間宮康俊公の御実弟の間宮綱信公が北条家の外交官として織田信長公への外交使者を務めたり、徳川家康公にも外交使者を務めて名が知れていた事や、間宮家が武家にとっては貴重な材木と海運のノウハウに加えて宗教と宗教建築知識と鶴岡八幡宮再建事業での実績が有る事、そして極め付きが一般的な武将が保有しない武士の教養である鷹狩に必要不可欠な鷹育成の特殊技術を有していた事から分家の杦田間宮家の間宮信繁公が徳川家康公の参謀 兼 鷹匠頭として登用されました。
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写真は杦田間宮家菩提寺の妙法寺の山門。境内には今も杦田間宮家歴代殿様の巨大な御廟所が有る。
この杦田間宮家の間宮信繁公が、関ヶ原の戦いで徳川本隊3万の前進を進言して小早川秀秋公の東軍寝返りを実現させた名軍師でした。この小早川勢寝返りの工作を進めたのが間宮家と同族の宇多源氏黒田家の黒田長政公でした。
この間宮信繁公の姫が、初代久能山東照宮の大宮司の榊原照久公に嫁いでいる事からも宗教的な間宮家の家格の高さが解かりますね。
そして間宮本家の笹下間宮も名軍師を輩出します。

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写真は磯子区田中の妙蓮寺、間宮直元公と奥方の菩提寺。近年まで直元公の彫像を御神像とする御社が有ったが火災で焼失したが、奥方の墓所は現存する。
間宮直元公です。この人が徳川幕府による豊臣家攻め大坂城の戦いで真田幸村籠もる真田丸や大坂城総掘りの埋め立て作戦を直接徳川家康公に進言し、真田幸村の軍略を無力化させ豊臣家を滅亡させる留めを刺した名軍師でした。間宮直元公は間宮家の土木知識と水運技術を活かして二代目佐渡金山代官、初代但馬奉行、生野銀山代官、初代本牧奉行(神奈川奉行=横浜市長の前身)を務めた人物でもありました。
つまり間宮家は武家としても重要人物達と繋がりが有るだけでなく、中世の宗教者達とも希有(けう)な太いコネクションと信頼関係を築き、宗教建築や土木技術と教養も有した文武両道の学者気質武家の家柄だった訳ですが・・・
旧鎌倉郡に当たる品濃白幡神社や下永谷の神明社等を近年まで管理したのが関家で、この家も又、間宮家同様に‟旧北条家臣”の関一族でした。この関と言う家は北条家臣団でも最古参の部類で、北条(伊勢)家と同族の伊勢平氏です。間宮家は北条家臣中、相模十四騎筆頭と呼ばれた家でしたが、つまり関家も小田原北条家の重臣の一人でした。
品濃白幡神社を含めて横浜市域では権現堂家と関家が横浜市南部の神社の多くを近代まで支配下に置いて管理していました。
余談ですが江戸の宗教も旧北条家臣伊丹家が大きな影響を持っていて、浅草寺や深川の富岡八幡宮等はその伊丹家が関与した場所でした。伊丹家は戦国時代に北条家臣として金沢区釜利谷に所領を与えられていましたが、関西に残った同族の伊丹家の子孫からは仏師として有名な江戸時代の彫刻家の左甚五郎も排出しています。日光東照宮の社寺建築で大きな功績を残した名工ですね。この伊丹家は源頼朝公が開いた金沢八景駅前の瀬戸神社や、その御分霊を頂いて伊丹家が開いた手子神社を支援した家です。
その伊丹家や間宮家と同じ旧北条家臣で北条家と同族の伊勢平氏の関家で富岡八幡宮や品濃白幡神社や永谷神明神社に影響力を持っていて、間宮家が久良岐郡を江戸中期に離れてからは泉蔵院にも関わりが有りました。

因みに家紋を比較すると色々と面白い宮司家の秘密が解かったりしますよ・・・

北条家:三鱗紋と対蝶文
三つ鱗紋対い蝶紋

関家 :揚羽蝶
揚羽蝶紋

揚羽蝶の家紋から両者が伊勢平氏で同族である事も判る様に成っている訳です。
では間宮家と福禅寺権現堂家の家紋も比較しましょう・・・
間宮家:隅立四目結紋
隅立て四ツ目結び紋
権現堂:丸に隅立四目結紋
丸に隅立て四ツ目紋

現代人には「家紋なんて好きに使えば良いじゃん?」って意味も理解していない人も居ますが、家紋は勝手に変えちゃいけないし、祖先や親戚の本家や上司から親族や重臣として認められて与えられないと勝手に使っちゃいけない物なんです。
ちゃんと自分が何処の出身のどの家系か、いつの時代に分岐したり活躍したかを辿(たど)れる言うなればレポートの索引のページを表す記号みたいな役割が家紋には有るんですよ。
因みに〇で囲みの有る家紋は一般的に本家から独立する時に分家が与えられた家紋だったり、神社仏閣の寺紋や社紋なら支援した殿様に重視され大切にされた証として〇で囲んだ殿様の家の家紋の使用許可を頂く場合が多く有ります。
例えば・・・
三つ鱗紋
北条家の三鱗紋ですが、鎌倉時代の鎌倉幕府執権北条家や戦国時代の北条家や分家の玉縄北条家や神保家が支援した御寺や神社では下の家紋が使われます。
丸に三ツ鱗紋
丸に三鱗紋。
これを使う神社は鎌倉幕府執権の北条時頼公が支援した鎌倉の宇賀福神社(銭洗い弁才天)や、金沢北条実時公と戦国時代の北条家と江戸時代の間宮家が支援した南区の寶生寺、玉縄城主北条綱成公が支援した磯子区の龍珠院、金沢区の伝心寺等が有ります。
ね?家紋にも意味が有るんですよ、家系や神社仏閣の歴史を辿れる。

・・・少なくとも戦国時代から最近までずっとそうだった訳です。
では権現堂家と関家の解説をしたいと思います。
1つ目、福禅寺権現堂と森浅間神社
権現堂は、元は源氏の元の本拠地の鎌倉市亀ヶ谷に在った修験道の聖地を管理した権現堂住職の家系で港南区港南に機能移転して来ました。
福禅寺は元は神仏習合の修験道の門跡寺院で鎌倉時代に源氏将軍家が暗殺され、九条(藤原)将軍が政略で失脚させられ、その後に天皇家から将軍を迎える様に成った時代に将軍家同様に皇族を住職に迎えた由緒正しい修験道系の道場、神様と仏様の両方を祀り天下泰平の祈祷を行う天下有数の道場でした。
この福禅寺の“名代”である権現堂を受け継いだ家系は現在姓を松本と名乗りますが、間宮家の家系図では江戸時代に本牧奉行を務めた間宮家の本家の笹下間宮家から養子が入っています。
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磯子区森(屛風ヶ浦)の森浅間神社は元々、権現堂の聖地霊場として源頼朝公によって開かれた場所なので、現在も権現堂家が宮司職を引き継いでいます。福禅寺歴代住職は就任する際に必ず森浅間神社で就任儀式を行っていました。
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写真は東京都青梅市二俣尾の海禅寺(旧:福禅寺)。
室町時代中期に東京都青梅市二俣尾に扇谷上杉家と三田家によって福禅寺が再興されますが、これが扇谷上杉家が滅亡してから後の北条家統治下の間宮康俊公の時代に唐突に‟天皇家勅願所”に成った事からも間宮家の宗教的な影響力が理解出来ます。
この福禅寺から戦国時代に間宮康俊公によって和尚様を招いて再興されたのが、間宮康俊公の曾祖父の間宮信冬公によって開かれたと伝わる鶴見区下末吉の寶泉寺です。
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これらは全部、歴史を辿ると繋がりが有ります。
そして権現堂は福禅寺名代の格式を得ていた事が当時の手紙に記されており、鎌倉時代には福禅寺は皇族の長円親王が住職を務めていた門跡寺院に成っていた歴史から格の高さが解かります。
それ故に旧久良岐郡の全ての神社の内、泉蔵院の統治した神社以外全ての管理を行っていました。その存在意義が関係する神社仏閣の歴史や関わった歴史偉人からも良く理解出来ます。

2つ目、大靈山 泉蔵院 桐谷寺(現:磯子区中原の熊野神社)
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ここは明治政府の宗教改革の失敗の代表例である廃仏毀釈で修験道道場寺院機能を廃止されて規模が縮小されてしまって今では住宅街の中の小さな熊野神社ですが、元々は鎌倉市山崎に存在し源頼朝公が福禅寺権現堂同様に重視した修験道の道場の山崎泉蔵坊の聖地として開かれた熊野神社でした。
鎌倉時代末期の新田義貞による神社仏閣の焼き討ちや、室町時代にも上杉禅秀の乱や永享の乱で鎌倉では戦火が治まらず寺院の維持が困難に成り、今の磯子区中原の熊野神社に山崎泉蔵坊の機能を移転して本拠地として大道場化し寺号も大靈山泉蔵院桐谷寺と改め明治時代まで繁栄しました。
久良岐郡域と鎌倉郡域で権現堂が支配した神社以外、修験道系神社は全て、この泉蔵院が統治していた事を新編武蔵風土記稿の中で間宮家の子孫で東京大学前身の昌平坂学問所頭取を務めた間宮士信公が書き残しています。
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この熊野神社や富岡八幡宮に強い影響力を持っていたのが関家でした。
この関家の一族は旧北条家臣団として間宮家同様に武蔵国域~相模国域まで広く分布していましたが、現代では宮司家としての関家は家系が途絶えてしまいました。
しかし例えば都筑区には関一族の末裔の旧家が文化財として残っていたりします。
sekikezenkei1 横浜市教育委員会より拝借
※画像は横浜市より拝借。
北条家臣団の城持ち級の武士の1560年前後の所得を記した北条家の所領役帳を江戸時代に写した小田原北条所領役帳と言う文献にも、関家も間宮家も一族の武将が領地名と一緒に登場します。
間宮家は別の解説記事で以前、所得を書いているので今回は関さんの領地がどんな感じに分布していたか現在の地名と照らし合わせて見てみましょう。

関新次郎
泉水寺領(地所不明)※小田原市、足柄下郡、南足柄市、足柄上郡の何処か
四宮長沼共ニ(平塚市四宮周辺)
富岡之内(横浜市金沢区富岡) 本郷買得ニ替而被下

関兵部丞
羽鳥辻堂(藤沢市羽鳥~辻堂の一部)
鶴間(相模原市~大和市の林間と鶴間の地名の付く地域周辺)
飯嶋(平塚市飯島)
北大繩(平塚市岡崎辺り)
一宮(地所不明)※多摩市一宮or寒川町
宿立(川越市山田)
岡郷(横浜市磯子区滝頭~岡村町一帯)

関弥次郎
新土今里(平塚市真土)
台之村(鎌倉市台)

関さんの土地は、まぁ~こんな風に埼玉県~東京都~神奈川県域に散らばって存在していた訳です。
安土桃山時代の記録は残っていませんが、北条家の所領も関東全域に広がって行ったので関東全域にも関さんの土地が有ったかも知れません。
そして、その土地に根差し分家に成って行った人達が多く江戸時代に庄屋サンとなり神社や御寺を守り、明治に成ると神社の宮司や地主として昭和の最初の頃まで土地土地の歴史を守って来た訳ですね。
そして関さんの一族は北条家滅亡後に御先祖様の出身地である伊勢神宮の在る伊勢国に移住した一族もいるので、北条家臣団の中でも元々、間宮家と同じく宗教的な知識を深く保有する家系だったのかも知れません。
領地がある場所も神奈川県域では延喜式内社の所在地や比較的有名な神社の在る場所ばかりですしね。
前鳥神社とか富岡八幡宮とか岡村天満宮とか。

まぁ~、関家が磯子区の泉蔵院や杉田周辺にどの段階で関与したかは不明ですが、近代には横浜市域の海苔の養殖等を振興し活躍された関寅吉さんの様な人物も排出したり、殿様じゃなくたってからも宗教文化でも地域振興でも活躍した家系だった様です。
間宮家も江戸時代に間宮林蔵や杉田玄白や間宮士信等の学者を輩出して、宗教では江ノ島の岩本間宮家が真言密教系修験道として明治まで寺院機能を保持して江島神社を管理していました。
そんな関家や間宮家と、泉蔵院と権現堂が横浜市南部の多くの神社を守って来たんですよ~と言う解説でした。

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今回の記事は御寺や神社の‟歴史”に興味が無い人には本当に興味が湧かないかな?
でも実は横浜市南部の神社や御寺には源頼朝公以来の統治機構や、戦国時代からの家系がそのまま残っていた場所も多く有るんですよ~てのが皆さんには伝わったかな?

次は北条家臣で官僚だった横浜市北部の殿様の中田加賀守の関係先の御寺の紹介をしたいと思います。
では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
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