歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:青梅市

鬼滅の刃 無限列車編
さて、鬼滅の刃も無限列車編が終わり遊郭編が始まりました。
鬼滅の刃は女性ファンが多い様なので、一緒にアニメを見させられている彼氏や旦那さんも多いのではないでしょうか(笑)?
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以前は鬼滅の刃に「少女漫画じゃんコレ」と思っていたため小生は全く興味が有りませんでした。
なので原作を知らず遊郭編も予備知識の無い小生は登場人物の解説を探していた所、とある投稿者が宇髓天元の寿命が大正時代の人の平均寿命が四十代前半だからソレくらいと、歴史オタクからすると見当違いな解説をしていたので・・・
「平均寿命は個人の没年齢の参考には成らないんだけどな~」
「こりゃ間違い指摘してたおこう」
・・・と思った次第です。

――結論から言いますーー
【1】炭治郎や禰豆子 彼等が生きた時代
鬼滅の刃の登場人物たちは明治末の生まれです。
鬼舞辻無惨を討伐した時は大正時代で未だ彼等は青年ですから彼等の年齢的に関東大震災に遭い、結婚し子育てをしていた昭和初期に入ってからは第二次世界大戦を経験します。
鬼舞辻無惨討伐で生き残った人物も、震災か戦火で死んでいる可能性が有ります。
天寿を全うしたなら、農家を営んだ者は晩年は昭和中期に軽トラで農協に野菜を納品したり、孫と東京タワー見物に行ったりTV放送で昭和の東京オリンピックや力道山の試合を観戦して楽しんで明るい日本の経済復興を経験して昭和40年代~50年代末位に亡くなっているはずです。

【2】物語の年代。
鬼滅の刃の世界観は慶應元(1865)年05月01日~明治二(1870)年08月末に鬼滅の物語のスタートとなる鱗瀧さんの手鬼逮捕が始まっています。
炭治郎の立志編は大正元年~大正六(1917)年08月末までに炭治郎は旅をスタートしています。
それ以上は設定上特定不可能です。

【3】物語の舞台
言葉と食文化と鉄道の景色と遊郭の歴史から推測出来ます。
無限列車編・・・中央線がモデルでないと成立しない。
遊郭編  ・・・吉原遊郭(現在のソープ街)
以上の可能性が高いでしょう。
ー無限列車編ー
原作者は∞=∞列車と言う言葉に環状線=山手線と言う意味を込めた可能性があります。
残念ながらこの予測が当たっていた場合、編集者と原作者は設定ミスを犯しており無理設定でした。
山手線開業が大正十四年(1925年)なのに大正十二年(1923年)の関東大震災の混乱が描写されておらず鬼舞辻無惨は人間の家族と悠々と夜の街を闊歩しています。
そこで山手線以外に舞台を求める必要が有ります。
無限列車編で煉獄サンが爆食いしていた牛鍋弁当から既に明治時代には食牛文化が根付いている地域で有る事が判ります。これは即ち、首都圏の中でも幕末の横浜開港で外国人居留地の有った横浜関内地区と鎌倉市~多摩地区~旧東京市(現23区)辺りである事が判ります。
当時、これ以外の地方では神戸と京都を除いて牛鍋や鋤焼きの文化は高級品で庶民の手の届く物ではありませんでしたし、登場人物たちが関西訛では無いので当然ながら関東地方の話、それも牛飯を食べる地域ですから東京~横浜~多摩地区の話と解ります。
当時の汽車は最初に渋沢栄一によって新橋駅~初代横浜駅(現:桜木町駅)に開通させた際に用地買収に困り海に細長く埋め立てて線路用地を確保している区間が多く有るので、無限列車編の様な平地が広がる景色は横浜に向かう景色ではありません。
では食肉文化と鉄道が早くから普及し庶民も楽しめた地域は、町田市~八王子市辺りが該当します。
よって東京~多摩地方へ至る列車=中央線が無限列車と考えられます。
仮に山手線を原作者が想定したなら史実的には歴史考証でミスを犯しています。
ー遊郭編ー
食文化、言葉、鉄道の普及から東京都の吉原遊郭、横浜市の永真遊郭の何れかですが恐らく鬼滅の刃は東京の物語です。
地方都市では昭和中期の車の普及まで言葉の訛は酷かったのですが大正時代初期に登場人物は流暢な標準語を話します。そして地方へ鬼の討伐に行く際は鉄道が効率が良いので当然ながら東京が舞台であると考えるのが自然でしょう、そう成ると大規模な遊郭は吉原遊郭の可能性が高くなります。

【4】竈門家の所在地
竈門家の所在地は公式設定に雲取山周辺とされており、家業は炭焼きです。炭焼きは山深い場所でも有る程度の町が近い地域でなければ商売が成立しません。
雲取山の近くで馬や昭和に入ってから軽トラやオート三輪で農産品や炭の売買で現金収入を得られる地域と言う条件を考慮すると、竈門家の実家の所在地は東京都奥多摩町日原川流域か埼玉県秩父市の何(いず)れかでしょう。

【5】日の呼吸の由来。
雲取山周辺の地名から特に深い考えも無く思いついた可能性が有ります。
原作者が竈門家の生家を雲取山周辺と公式設定していますが、実は雲取山周辺には「太陽寺」「日原街道」「日原鍾乳洞」等があります、更にこの地域は古代豪族でヤマトタケルの武将として活躍した大伴氏の子孫の豪族達の勢力圏で、中世にも日奉氏と言う大伴氏子孫の豪族と、その分家の武蔵七党西党と言う武士団が存在しました。東京都日野市の地名も日奉氏に由来すると伝承しています。頼朝公により現在地に移転され社殿を拡張された鶴岡八幡宮も本来の名は“鶴岡八幡宮寺”神仏習合の“八幡信仰”でしたが頼朝公に任命された神職は大伴氏で明治政府による廃仏毀釈の寺院弾圧まで大伴氏が神主を勤めていました。
原作者は先に実家の所在地を思いついてから周辺の地名で“日の呼吸”を思い付き、更に神話の舞台であり古代豪族の子孫達が生きていた地域である事を知った時点で、地域の神社や文化から「日神神楽」に結びつけたのかも知れませんね

――では考察の詳細解説に入ります――
超長文ですので、歴史本を読む心算でお願いします。

小生は正直、今年の夏に立志編の再放送をサイコロステーキ先輩が細切れにされるちょっと前辺りから見始めた鬼滅モグリです。
なので先入観無く史実と時代背景だけを作中の様子と比較します。
登場人物に関しても見始めて以降アニメに出た登場人物しか知りませんが、鬼滅の刃の時代考察に関しては既に他の鬼滅に詳しい歴オタがブログにも書いていたのですが、その人の考察も少し違う気がするので、小生の考察を書いてみたいと思います。

【1】炭治郎や禰豆子 彼等が生きた時代
ーキャラの生きた時代と寿命ー
ある鬼滅の刃解説動画の投稿者が宇髓天元の没年齢推測で大正時代の人間の平均寿命を採用していましたがこれは大きな誤りです。
明治~大正時代生まれの人は現代人みたいに平和ボケして天寿全う出来る世代では有りません。
大正当時に青年だった人間は明治生まれです。大正時代は15年間しか有りませんからね。
作中23才の天元なら同世代は大正十二(1923)年の関東大震災の被災者が多くいます。

この関東大震災が起きたのが大正十二年(1923年)09月01日ですが作中描写されないので、物語の年代特定で解説しますが炭治郎達の鬼討伐の物語は関東大震災発生以前話と言う事も解ります。
更に炭治郎達の世代も天元の世代も共に日中戦争と第二次世界大戦に動員されています。
つまり震災と戦災で多くの人が亡くなっているため、平均寿命40歳と以上に低く成ってしまっているので、この平均寿命を以(もっ)て宇髓天元の寿命と為(な)す事は完全な間違いです。

彼等の生きた大正時代は漫画やアニメで描かれる服装より、もう少しハイカラで垢抜けた人が多く、例えば食事にしても煉瓦亭とか今にも残る有名な洋食屋さんが既に明治28年に存在した時代です。
小生の血の繋がらない義祖母は家が戦前のABCD包囲網で日本が経済封されるまで横浜シルクの商人だったのですが、大正時代に正に女学生だった明治最後年の生まれで、蒸気バスに乗って横浜市中区根岸~山手のフェリスまで通っていたと話していました。
大正時代~昭和初期、炭治郎達の世代が青春時代を過ごした頃のファッションは既にオシャレです。

小生の義祖母が学生の頃に親に服を仕立てるとだけ言って御金を貰って、元町に出来た洋裁の御店で洋服を仕立てたら義祖母の両親に怒られたと言う話も聞いた事が有ります。
大正時代には若い世代の庶民に洋服が普及し始め昭和初期の文化水準に達しており更に太平洋戦争に突入する直前の昭和初期よりも世間は明るい雰囲気だったようですね。
これが地味なモンペ姿に変って行くのは戦争が原因で、鬼滅の刃の時代の服装は老人に関しては納得が行くのですが個人的な印象としては大正時代の東京の景色にしては何だが明治時代初期の未だ江戸時代を引きずってる頃のトレンドに見えてしまい若干整合性が無く感じます。
鬼滅の刃に関しては歴史オタクの小生にすると明治初期の印象を受けますし、農業をやっている人間が見ると「なんでトラクター用の道がこの時代に有るの?」と言う場面も有るみたいです。
彼等が関東大震災と戦災で死なず、結婚してラブラブな新婚生活を過ごしていたとすれば、その頃の様子が下の映画で皆さんにも想像がつくと思います。
下の映画は1936年公開の東京ラプソディーです。

大正年間に青年だった炭治郎や宇髄天元が結婚して子供を育てていた時代が丁度、東京ラプソディーの時代に当たる訳です。
ね?
実際は鬼滅の世界観より時代的にハイカラでしょ?
当然ながら痣が発現しなかったメンバーは天寿を全うしてる可能性も有る訳ですが、そうなると当時の人達は更に昭和中期まで生きているのが普通です。
ただし、この東京ラプソディーの公開の翌年、日本は日中戦争を開始し第二次世界大戦終了まで暗雲垂れ込める時代に突入して行きます。

ー炭治郎世代の戦争死亡率ー
彼等が何歳まで生きられたかを考えるには天寿を全う出来なかった可能性も考える必要が有ります。
それが戦争です。
鬼滅隊解散後にオシャレでハイカラな大正浪漫の青春を過ごす事に成る炭治郎とカナヲ夫妻、善逸と禰豆子夫妻は結婚して子供が生まれ小学校高学年くらいに成り漸く手が離れ始めた頃に戦争に直面する訳ですが・・・
歴史に興味の無い人には戦争で炭治郎世代の死亡フラグがどれだけ高確率で立って平均寿命が下がったか知らないと思うので“死亡率”の解説をしたいと思います。

この大正時代に青年だった彼等は更に関東大震災に加えて昭和初期の戦争にも動員され平均寿命を下げます。
鬼よりも徴兵された一般人兵士にライフルや榴弾砲、戦車、戦闘機の空爆、戦艦の砲撃で神がかり的な身体能力のある鬼滅隊の隊士でも簡単に殺される時代が到来します。
東京大空襲をはじめとした各都市の空襲や長崎・広島の核爆弾投下で大量の日本国民が老若男女問わず死にます。
鬼を倒しても「生きる事に必死」で鬼より怖い生存をかけた生活をしていた筈です。

以下炭治郎達の経験した戦争

炭治朗達が子育て中に直面したであろう戦災史実を時系列で解説します。
以下エグイ死亡率を戦争ごとに記載します。
死亡率とか負傷率と言う事がが苦手な人は下の方までスッ飛ばして下さい。


以下の個別の死亡率と損害を参照して見て下さい。
戦争名をクリックするとYoutubeで関連動画を見れます。

柳条湖事件 満洲事変発生
昭和六(1931)年09月18日
[戦力]
陸軍6050人

盧溝橋事件発生~日中戦争開戦
昭和十二(1937)年07月07日
~昭和二十年(1945年)08月14日
日本三大愚将の筆頭で右翼、中道、左翼の全てから軽蔑される牟田口廉也の盧溝橋での暴走で日本と中華民国の間で小規模戦闘から本格的な開戦に発展してしまい、日本帝国陸軍の将校と兵士は食料が補給されず枯渇する泥沼の戦いへと引きずり込まれて行く事に成る。
[戦力]
511,453人
[損失]
負傷325,806人
※負傷率63.7%
死亡185,647人
※死亡率36.2%

国家総動員法施行
昭和一三(1938)年04月01日~

仏印進駐
昭和十六(1941)年07月28日
フランス植民地ラオス、カンボジア、ベトナムを解放すると言う大義名分で日本軍が侵攻開始。


ハワイ真珠湾奇襲
日米開戦(太平洋戦争開始)
同年12月8日
海軍の山本五十六が日本帝国から米国へ宣戦布告前にハワイ真珠湾を攻撃してしまい日本帝国軍は大戦果を挙げるが戦争の正統性その物を喪失した最悪な外交状況で太平洋戦争に突入する。
[戦力]
ーー日本帝国海軍ーー
航空母艦6隻
戦艦2隻
重巡洋艦2隻
軽巡洋艦1隻
駆逐艦9隻
特殊潜航艇5隻
艦上航空機350機他
[損失]
ーー日本帝国海軍ーー
特殊潜航艇4隻沈没
特殊潜航艇1隻座礁
航空機損失29機
航空機損傷74機
捕虜01人
戦死64人 死亡率不明
ーー米国海軍ーー
戦艦4隻沈没
戦艦1隻座礁
戦艦3隻損傷
軽巡洋艦3隻損傷
駆逐艦3隻座礁
標的艦1隻沈没
その他1隻沈没
その他1隻座礁
その他2隻損傷
航空機損失188機
航空機損傷159機
民間航空機損失3機
戦死   2,334人
死亡率不明
民間人死亡68人死亡率不明


ミッドウェー海戦
昭和十七(1942)年06月05日~07日
この海戦敗北を契機に戦局は一気に敗色濃厚となり戦没者が急増する。
[戦力]
ーー日本帝国海軍ーー
航空母艦4
戦艦2
重巡洋艦2
軽巡洋艦1
駆逐艦12
艦載機248
水上機16
MI作戦戦力
軽空母2
戦艦5
重巡4
軽巡2他
動員兵数不詳
ーー米国海軍ーー
航空母艦3
重巡洋艦7
軽巡洋艦1
駆逐艦15
艦載機232
基地航空機101
飛行艇31
水上機1
潜水艦20
守備隊3,000人
動員兵数不詳
[損失]
ー日本帝国海軍ー
航空母艦4沈没
重巡洋艦1沈没
重巡洋艦1損傷
駆逐艦1損傷
死者3,057名
※死亡率不明
ー米国海軍ー
[損失]
航空母艦1沈没
駆逐艦1沈没
死者   307名
※死亡率不明

学徒戦時動員体制確立要綱
昭和十八(1943)年
06月25日
東条英機内閣により学徒動員施行、これにより学生が軍需産業労働力として徴用開始。

インパール作戦 
昭和十九(1944)年3月8日 ~7月3日
英国領インド帝国マニプル州インパールに日本軍侵攻。
牟田口廉也の立案した補給の無い無謀な作戦が開始される。
牟田口は戦地に赴く事無く料亭に通い芸者を愛人にした挙句、戦線が崩壊すると愛人を連れて戦地から日本に任務放棄して帰国してしまった。
――日本帝国陸軍――
[戦力]
92,000人
[死者]
26,000人
※死亡率28.2%
[死傷]
72,000人
※死傷率78.2%
[戦病]
30,000人
※発病率32.6%
[病死]※戦病者
  7,800人超
※病死率26.0%


レイテ沖海戦発生
同年10月20日~25日
アメリカ海軍オーストラリア海軍と日本帝国海軍が交戦し日本帝国海軍壊滅。
この戦いで事実上の日本帝国海軍の戦力壊滅と制空権を失った事で対米戦争その物が敗色濃厚に成った早期和解を模索する分岐点。
ーー日本帝国海軍ーー
[戦力]
航空母艦4
戦艦9
重巡洋艦13
軽巡洋艦6
駆逐艦34
航空機約600機
[損失]
航空母艦4
戦艦3
重巡洋艦6
軽巡洋艦4
駆逐艦9
[死者]10000人超
※死亡率不明


東京大空襲  
昭和二十(1945)年
03月09日~10日
人口7,500,000人弱
※疎開の為実態不明
[戦力]
調布飛行場所属
 第10飛行師団
横須賀鎮守府旗下 根岸飛行場所属
 第八〇一海軍航空隊
 (横浜海軍航空隊)
厚木海軍飛行場所属
 第三〇二海軍航空隊
※詳細不明
[損失]
被災3,000,000人
※被災率40.0%
死者   105,000人
※死亡率  1.4%
※大半が東京から郊外に疎開しており参考数値。


硫黄島の戦い
同年2月19日~3月26日
補給の無い状況下で日本軍兵士の多くは玉砕し、米軍の被害は甚大だった。
ー硫黄島からの手紙ー
監督:クリント・イーストウッド
主演:二宮和也が日本視点側で配役され映画化。
米国内で戦力に劣る日本兵相手に余りの損害の多さが衝撃を与える。これを後に米軍が数学的に解析した所、日本兵の生存率は5%以下で1人当りの戦力は米国兵5人相当だった。
ーー日本帝国軍ーー
[戦力]
陸軍兵13,586人
海軍兵  7,347人
※総兵力20,933人
※戦闘機・艦船数詳細不明
[損失]
戦車23輌
戦死者17,845~19,900/20,933人
※生存率:5%以下。
ーー米国海軍ーー
[戦力]
戦艦      8隻
巡洋艦   15隻
駆逐艦   77隻
航空母艦  16隻
艦載機 1,200機
※総兵力110,000人
[損失]
空母2隻含む
     艦船計30隻
航空機   239機
戦車    137輌
戦死     6,821人
戦傷   19,217人
※生存率:93.8% 
※死傷率:23.6%

決戦教育措置要綱施行
学徒動員(兵力として)

同年3月18日
東条英機内閣の閣議決定により国民学校初等科以外の学生は04月より1年間授業停止され学徒勤労総動員。学生の戦力として投入開始。
私が戦国武将間宮康俊公の顕彰活動で取材した間宮家臣の御子孫の市村勝次郎サンはモールス信号を1週間で覚えさせられ輸送船の通信担当に成ったそうです。



沖縄本島戦
同年04月01日
アメリカ軍が沖縄本島攻撃開始。
多くの沖縄県民が死亡する。
[死者]
民間人122,000人/県民総人口420,000人
※死亡率29%(沖縄県民総人口当り)
日本兵  68,000人/日本総兵力116,400人
※死亡率58%(総兵力当り)

第二次東京大空襲
同年05月25日~26日
東京都内大半焼失、各都市への空爆も開始。
合計400回の空爆
[死者]
※東京以外だけで500000人超
ーー横浜大空襲(昼間)ーー

ー日本軍ー
[戦力]
厚木海軍飛行場所属
第三〇二海軍航空隊
航空機数不明。
横浜市、横須賀、鎌倉、藤沢市内各地に高射砲配備
[死者] 
10,000人/横浜市総人口951,000人
※死亡率1.05%
[被災]
311,218人
※被災率32.7%
ー米空軍ー
[戦力]
マリアナ基地所属
米第21爆撃機集団
B-29爆撃機・・・517機
P-51戦闘機・・・101機
[損害]
航空機合計・・・175機

同年07月26日
ポツダム宣言発布
米・英・中(中華民国:現台湾)の連合国によりポツダム宣言が発布させる。
東条政権はこれを黙殺。


広島に原子爆弾投下
同年08月06日
[死者]
140000人/市民350000人
※死亡率40.0%(広島市民総人口当り)

ソビエト連邦が対日宣戦布告
同年8月8日
ソ連(現ロシア)が日本を裏切り日ソ中立宣言を破棄し満州へ侵略。


同年08月09日
長崎に原子爆弾投下
[死者]
74000人/市民240000人
※死亡率30.8%(長崎市民総人口当り)

同年08月14日
ポツダム宣言受諾
昭和天皇のラジオによる玉音放送で日本国民降伏。



ソ連の千島列島侵略
同年09月02日~05日
ソビエト軍は北海道占領を当初から目論んでいた為に日本のポツダム宣言受諾による無条件降伏後も千島列島在住日本人に対する攻撃を停止せず、既に冷戦の発端が旧日本領で起きていた。
アメリカによるソ連スターリンへの警告でソ連軍は漸く侵攻を停止した。
これが今の北方領土問題にも繋がり冷戦の発端であり交戦国日本×米国の友情再構築の始まりだった。

帝国書院統計資料歴史統計戦争別死傷者数
※第二次世界大戦全体での統計※
[動員数]
日本軍合計・・・1,864,710人
陸軍総兵力・・・1,435,676人
海軍総兵力・・・   429,034人
[戦死者]
日本軍合計・・・1,555,308人 死亡率83.4%
陸軍総計 ・・・1,140,429人 死亡率79.4%
海軍総計 ・・・   414,879人 死亡率96.7%

この帝国書院の統計が実数ならば、戦争から復員できた人は本当に奇跡の生還に等しかった訳です。

宇随 天元は更に炭次郎より8歳年長なので空襲や飢えて死んでいなければ終戦時は50±歳。
天元、炭次郎達はそれぞれ昭和50~60年代の間まで存命した可能性が高いですね。
ただし、二人とも満州事変~日中開戦の頃にまだ中年なので兵站崩壊後に中国大陸戦線で餓死した可能性も有る。
炭次郎に至っては死没率の高い南方戦線に徴用されていたかも知れない。
下手したら硫黄島で人間相手に抜剣突撃して玉砕したかも知れない。
本当に戦地にいたならばゲゲゲの鬼太郎作者の水木しげるに悪く書かれた直ぐに殴ってくる上官世代。
ただし終戦直前には40歳を超えてる筈なので戦局悪化前に除隊され、出身地とされる東京の奥多摩町のもっとも奥地の雲取山周辺の実家に住んでいたなら空爆で死亡する確率は低下し生存率が上がります。
カナヲと東京で所帯を持ったなら1945年03月か05月の東京大空襲で生存率が下がります。
又は甲府にいたなら07月06日~07日の甲府大空襲で亡くなってる可能性も有ります。
ー戦争を生き延びれた鬼滅隊の元隊士達が見た景色ー
炭次郎達が関東大震災や第二次世界大戦を生き延びて天寿を全うしていれば、終戦時40±歳で昭和天皇の玉音放送を聞き、小学生~中学生位の子供達をカナヲと育てながら存命してる可能性が高い訳です。
彼等の子供の世代は昭和後期世代がギリ良く知っている映画の登場人物にいます。

車寅次郎ですね。
寅サンは昭和六年(1931年)生まれのですから、この世代が炭治郎とカナヲ夫婦の子供達の世代に当たる訳です。
炭治郎夫妻は実在したならば正にALWAYS 三丁目の夕日の世界観を50歳過ぎくらいで見ていたんですね。

昭和30年代に宇髄天元も炭治郎もカナヲも禰豆子も善逸も実在したのならば上の動画の時代、東京タワーが完成した昭和三十三年(1958年)には生きていて❝三丁目の夕日❞の景色を見ていた堤真一サンの演じた鈴木オートの社長や吉岡秀隆サンの演じた駄菓子屋の茶川竜之介の世代より年齢が少し上の世代が彼等鬼滅隊の世代に当たります。
炭治郎とカナヲの夫婦の家系は早婚の家系の様なので、田舎暮らしだった事が想定できます。
実家が雲取山の山麓出身と言う設定なので、埼玉県秩父市民か東京都西多摩郡奥多摩町民の可能性が有りますね。
昭和30~40年代を生きたなら老齢の頃には青梅市や秩父市街にオート三輪や軽トラでカナヲと夫婦で農協に野菜の出荷に出かけていたかも知れないですね~。

そして青梅市街か秩父市街に出かけた時は公会堂や小さな映画館で映画を見たかも知れませんね。
孫に当たる世代も当たる人物も有名な架空の人物がいます。
❝こちら葛飾区亀有公園前発出所❞の両津勘吉が昭和二十七年(1952年)生まれで、ちょうど彼等の孫の世代ですね。
 
・・・ですから、正に戦争を生き延びていれば年老いてからカナヲや禰豆子が幼い頃の両サンみたいな元気な孫を連れて芝公園を散歩して歴代徳川家の殿様の墓参りをしたりプリンスホテルのレストランでちょっと贅沢な食事をしたり東京タワー見物なんてしていたかも知れないんですね。
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もしかしたら昭和三十九年(1964年)に開業した新幹線ヒカリに乗って東京~熱海温泉に遊びに行ったかも知れませんね~。もっと遠出して若い時は難しかった京都旅行も楽しんだかも知れませんね。
実際に当時の世相を当て嵌めてこうやって見て貰うと良く解ると思いますが、鬼との戦いの後、第二次世界大戦で戦死していなければ鬼殺隊の生存キャラは天寿を全うし70~80歳まで普通に生きてる可能性が高くて当たり前なんです。
昔の人は寿命が短いと言うのはステレオタイプによる平均寿命を鵜呑みにした誤りでしかありません。
例えば戦国時代の真田信繁(幸村)の実兄真田信之公は93歳まで生きていたりします。

真田信之公⤴は小生の嫌いな三谷幸喜脚本でコンナ面白キャラにされてしまってますが、史実では戦国時代を代表する武将の1人通称真田幸村こと真田信繁公の実兄で、江戸時代も真田家を守り通し91歳まで現役で政務を行い徳川家康公の御子息達から大変尊敬されていたそうです。
91歳で長野の松代城~江戸まで参勤交代をして幕府に「痔が酷いから甲州街道の通行を許可して欲しい」等と嘆願した文書が現存し、栄養状態と生活環境が良ければ現代人と同等に長寿だった代表的な人物です。

最近、長野の真田家の旧本拠地上田城下の御寺で信之公の御位牌が発見されて話題に成りましたが、信之公は93歳で大往生されています。

因みに真田家の菩提寺の盛徳寺は江戸時代に東京の赤坂に有りましたが昭和四十七年に都市再開発で立ち退き、現在は神奈川県伊勢原市に移転しています。
なので歴史の話をする時は、色んな状況を整理して話す必要が有る訳ですね。
炭治郎達が鬼を狩っているのが大正時代と言うとはるか昔に聞こえますが、昭和50年代までカナヲと夫婦で収穫した農産品を軽トラで農協に運んでたかも?とか聞くと途端に生きてる感じが生々しく感じられて面白くないですか?
さてザックリと彼等が生きてたら孫と東京タワーに登り新幹線に乗って旅行したかも知れない生き生きとした時代背景を感じた所で物語の時代を可能な限り調べてみましょう~♪


【2】物語の年代。
鬼滅のディープファンの話では❝手鬼❞と言う小生の知らないキャラクターのセリフで時代特定出来るのでは?と書いてあったので考証してみましょう。

その鬼が最初に47年前に当時隊士だった鱗滝によって捕らえられ登場した際に・・・
「ああっ!年号が変わってる!」
・・・と言うセリフを吐くそうでソコから判る事は十五年間しかない大正時代から47年遡(さかのぼ)った何処かの時代と言う事だけで、これから手鬼が捕縛された時の元号を特定する事は出来ません。何故なら大正時代以前の元号なんて沢山有りしょっちゅう変わってたんです。
現代の常識だと明治以降の天皇の崩御で元号が変わりますが、実はそれは明治時代以降の短い歴史でしかないんです。昔は世相が安定していなかったので不吉な事や吉兆が起こると征夷大将軍や関白が幾つかの元号候補を天皇に進言し、その中から新しい元号が採用されると言う制度だったので頻繁に元号が変わる事が有ったんですね。
例えば慶応大学の出来た慶応年間なんかたったの4年間しかありません。

だから少しでも歴史に興味が有り小説家が書いた小説やTVやネットの受け売りではなく本当の史料を読む歴史好きな人なら手鬼のセリフを読んで・・・
「大正時代の前なんてしょっちゅう変わってる時期ジャン?」
「明治以前の可能性普通に有るよな?」
・・・と直ぐに思う訳ですが、では手鬼が捕まった時代の元号が何の時だったか?それを考察してみましょう。小生は考察には関東大震災を考慮すべきと思っています。

先ずは明治時代は45年間なので・・・
大正十五(1926)年-47年=明治十二(1879)年
・・・つまり手鬼が捕縛された47年前は遅くともと明治十二(1879)年と推測できます。
その上で大正時代15年間を差し引きした年代だと・・・
明治十二(1879)年-15年=1864年
・・・1864~1879年の間のどこかの話だと解ります。
この1864年がややこしくて元号の変更が有った年でした。
[文久年間]
文久元年(1861)年03月29日
~ 文久四年(1864)年03月27日
[元治年間]
元治元年(1864)年03月27日
~ 元治二年(1865)年05月01日
[慶応年間]
慶應元年(1865)年05月01日
~ 慶應四年(1868)年10月23日
[明治年間]
明治元年(1868)年10月23日
~ 明治四十五年(1912)年07月30日
上の元号を見ると鬼滅の刃で手鬼が捕まった時期が・・・
明治十二(1879)年~慶應年間~元治年間~文久四(1864)年の出来事としか判断が付かない訳です。
手鬼が捕まった時代の元号がセリフに登場しないので、炭治郎の活躍し始めた“立志編”の鬼滅の刃の時代が❝大正何年か?❞なんて特定で出来ないのは明白ですね?
だって大正元年~十五年の間のどこかの47年前は文久~元治~慶応~明治とモロに元号変わり捲ってる時代ですからね。
この事を踏まえずに・・・
「元号が変わった」のセリフだけで「大正の前の明治」と意見は成立しない訳です。
・・・実は物語のスタートした年代にも関係が出て来る鬼滅の刃ファンがスルーしてる事が大正十二年(1923年)に起きています。
小生が考慮すべきと言った“関東大震災”です。

作中では全く関東大震災の話題は登場しないので牛飯文化のある横浜~東京~八王子~秩父~埼玉で被災した様子は有りません。
もしこの様な天災が起きた後の大正十二年09月~大正十五年頃の話なら、話題の中に関東大震災が登場して当然でしょうから鬼滅の刃の世界は・・・
大正元年(1912)年07月30日
~大正十二(1923)09月01日
・・・より前の話、以上の期間の間に鬼舞辻󠄀無惨の討伐が完了していなければ可笑(おか)しい訳です。
未だアニメで登場していない公式設定での討伐後の話として富岡義勇等がのんきに温泉旅行に行ったりしているそうなので、富岡義勇が痣の発現で寿命が25歳とすると、作中21歳だったので4年間は生き延びている事に成ります、21歳と数ヵ月は過ぎてると思いますので余命3年強ですから、まぁ余命3年で計算するとしましょう。
そうなると・・・
鬼滅の刃の時代は大正元年~大正八年の間
・・・と言う事が何となく見えて来る上に、25歳で死ぬ富岡義勇が仮に東京で生活をしていたならば3年間の間に被災しておらず、ゆっくり温泉旅行を楽しんで過ごす事が出来る期間は関東大震災以前の話の可能性が高い訳です。
つまり、この事を踏まえると・・・
大正十二(1923)09月01日-富岡義勇の余命3年=大正九(1920)年09月01日以前
・・・上記の事を踏まえると鬼舞辻無惨が1920年09月以前に討伐されている事が判りますね。
そして竈門炭治郎の立志編~最終回まで約3年の月日が流れているらしいので、更にスタート時の年代は遅くとも1920年より三年早かった事が判ります・・
関東大震災1920年09月01日ー竈門炭治郎立志編~最終回タイムラグ約3年=遅くとも1917年
・・・もう鬼滅の刃の世界観が大正初期な事は解りましたね?
大正元年~大正六(1917)年08月末までに炭治郎は旅をスタートしている事が判ります。
では遅くとも1917年に手鬼が逮捕された47年前の時代の元号は何だったんでしょうか?
大正六(1917)年ー47年=明治二(1870)年ですね。
つまり遅くとも明治二(1870)年08月末には鱗滝サンによって手鬼が捕縛されており、彼等の服装から新政府の統治化に既に入っていた時代で江戸時代の生活を捨てた頃なのも解ります。

―さて、時代の特定は出来ましたね?―

慶應元(1865)年05月01日~明治二(1870)年08月末の期間の何処かの次点で鱗滝サンが手鬼を捕まえて物語は始まっている。
大正元年~大正六(1917)年08月末までに炭治郎は旅をスタートしている。
・・・と言う事が判りました。
残念ながらピンポイントで何年?と言う事は原作者に「その間の何年に起きた話にするの?ねぇ?」と誰か聞いて見るしかなさそうですね(笑)。
以上、年代の特定でした。

では次に物語の舞台を顕彰して見ましょう~♪


【3】物語の舞台
皆さん作中の無限列車編の世界、鉄道が普及して牛肉の弁当が売れていましたよね?
小生はこの大正初期の肉食文化と鉄道の普及から首都圏の幕末から西洋文化に馴染んだ地域と推測しています、つまり旧東京市と多摩地区~神奈川県東部ですね。
日本人が明治時代に広く食肉に馴染んだ“すき焼き”の発祥地は横浜市か鎌倉市と言われています。
これは鎌倉の人に聞いた鍬焼きのルーツとして鎌倉では本当に鍬で焼いていたと言う話を元にした推測にすぎませんが・・・
小生の見解としては当時外国人の貿易が盛況な関内・元町では金属調理器具も充実しており鍋を用いて焼く現在の家庭のすき焼き“牛鍋の原型で提供”したのが横浜流で、当時は鎌倉幕府の首府だった繁栄も失われ鄙(ひな)びた農村と漁村に成っていた今の鎌倉市辺りでは文字通り農機具の“鍬(すき)で肉を焼く”鍬焼きの形式で提供したのではないかと思います。
横浜村之圖
※横浜村辺之圖→教育委員会事務局中央図書館課
当時は横浜に牛鍋・鋤焼きを学びに修行に来る料理人がいた様です。
京都には“三嶋亭”と言う140年の歴史を持つ“すき焼き”の老舗が存在し、昭和のスター勝新太郎サン達が太秦で撮影してる頃に良く店を貸し切って豪遊したそうです。
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三嶋亭
昭和の映画スターに愛された京都のスキ焼の老舗
小生、この御店に留学時代の仲間と食事をしたのですが当然とても美味しく店も料亭その物で高級感が有りました。
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で、いつも雑談をして取材しまくる小生なので三嶋亭のスキ焼を食べながらスキ焼を作る仲居さんに教えて頂いたのは・・・
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「あら~お客様は横浜からいらっしゃったんですか~!」
「初代が横浜で修行したんですよ~。」
この言葉、凄く意味が有るんですよ?
横浜の開港が1859年、三嶋亭が明治六年(1873)創業。
つまり開港から僅か14年目で横浜のスキ焼=牛肉食は全国で有名に成っていた事が判る一言ですね。
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大正時代は元年(1912年)~十五年(1927年)です。
横浜で明治六年(1873年)には鋤焼きが名物に成っていた訳です。
関西の人々が横浜流の鋤焼きを知るきっかけに成ったのは実は横浜で幕末に横浜一帯の肉牛だけでは外国人の牛肉需要を賄えなく成り和牛の産地だった近畿と中国地方から神戸を経由して牛肉を買い付けていたそうです。なので関西にも・・・
「横浜で日本人も牛肉食べてるらしい!」
「スキ焼ってんが流行ってるらしい!」
・・・と流通網から情報が伝わるのに時間はかからなかったみたいですね。
どれくらい外国人が多かったかと言うと、横浜市に日本初の西洋式競馬場が作られる程でした。
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この写真は横浜市中区にある根岸森林公園に残る旧根岸競馬場の観覧席の建物です。
一等馬見所と呼ばれている一等席ですね。
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幕末に外国人居留地内にあった現在の横浜公園の港崎遊郭で起きた豚屋火事と呼ばれる大火災で居留地の建物も類焼した事から、外国人居留地が広がり、旅行して良い範囲も現在の鎌倉市が含まれていました。
この様な背景が有り横浜と鎌倉市が牛鍋ないし鍬焼(すきやき)の発祥地に成り“食肉文化”の素地が神奈川県東部に生まれ、それまで東京では上流階級の高級文化だった食肉が東京の大衆にも神奈川県より少し遅れて広まって行った訳です。
明治時代も中期に成ると牛鍋が東京でも庶民が頑張れば手の届く贅沢な料理として普及している様子が別の映画漫画でも登場します。
るろうに剣心ですね。
今年公開された“るろうに剣心 最終章 The Final”ですね。

幕末の横浜開港に伴って関内に駐在した外国人商人や英国、米国、仏国の軍人達の食生活の需要によって始まったのは神奈川県民と生粋の東京都民、そして神戸市民、京都市民には有名な話なんですね。
なので先ずは鬼滅の刃の地域は南関東で間違いなさそうです。
これがどう“鬼滅の刃”に繋がるかですが、小生は牛鍋と鉄道が無限列車編と遊郭編の舞台特定の判断材料だと思っています。
無限列車編で煉獄サンがアホみたいに牛飯を爆食いしてましたよね。
つまり食文化的的にも登場人物達が標準語を話している事からも舞台は南関東の可能性が高い訳です。
食文化と言葉で南関東と解りますが更に判断材料を探す必要が有ります。
そこで鉄道に着目して見ましょう♪
ー作中の鉄道の景色検証ー

これから迅速測図と言う江戸時代の地形が未だまんま残る明治時代初期に帝国陸軍が測量した地図を見て貰います。
小生のブログには良く登場する地図で、皆さんも見る事が出来るので御興味が有れば下のリンクから覗いて見て現在の地形と比較してみて下さい。
このシステムを作った農研機構の担当者の方からは直接「“農研機構”の名前を併記してくれればブログに転用して良いですよ~!」と許可を頂いてるので皆さんも是非活用して下さい。
関内周辺 久良岐のよし
上の地図が迅速測図、横浜市旧市街の関内地区や鉄道の様子です。
青で囲った水掘りの内側が“関内地区”で伊勢佐木長者町商店街近くの“吉田橋”に関所=入国管理局が作られて、内側が幕末から外国人居留地に指定されていました。
画面中央下に有る旧国鉄のマークが初代横浜駅です。
実は明治時代に鉄道開業された時の初代横浜駅の位置に現在の桜木町駅が有ります。
この日本最初の鉄道は何やら海の中に線路が敷かれてますよね?
皆さん何か気が付きませんか?

鬼滅の刃の無限列車編の第一話で鉄道が内陸部を走っていましたよね?
これは当時の横浜駅⇔新橋駅の景色ではありません。

実は“晴天を衝く”の渋沢栄一公が明治時代に最初の鉄道を引いた際に用地買収が難航し線路を海を埋め立てて敷かなければいけない区間が沢山有ったんです。
当時の埋立地はとても重要な先進地域でしたし何より海沿いを走るので無限列車編の様に原野や山林が広がる景色は先ず有りませんでした。

丁度この初代横浜駅時代の線路跡が高輪で発見されてニュースに成ったばかりです。
この様に東京⇔横浜の路線は海沿いを走っていた訳で、無限列車編のモデルは新橋~横浜間に次(つ)いで早くから開業され牛鍋弁当が食べる事の出来た“中央線ではないかな?と推測しています。
実は食肉を早くから提供する地域が現在の東京都内、明治初期は神奈川県に組み込まれていた某都市でも存在したんです。
町田市~八王子です。
多摩地区に横浜東京と同時期に食肉文化が根付いたのには実は“道”と“シルク”が関係しています。
幕末~大正時代、日本の主力貿易商材はシルクと陶器と漆器、海産物では干鮑、干海鼠でした。

現在の群馬県~埼玉県~東京都多摩地区は養蚕が盛んで、世界遺産登録されている富岡製糸工場のオーナーは横浜の原財閥でした。原財閥は何故群馬に投資したかと言うと、シルクは全て幕末に貿易港として開港された横浜港から輸出されていたから流通網が成立していたんですね。
嘗ては群馬や秩父や八王子産の生糸を使って生産されていた“横浜シルク”は日本人が知らなくなった今でも世界では名が通っていたりします。
このシルク輸送の拠点だった町田は江戸時代にも“馬借”つまり馬を使った運送屋がいて、町田や八王子には“馬肉食文化”が在ったので、牛肉食文化もシルク輸送の国際貿易商材化によって早くから知られ普及した様です。
そうなると東京~八王子間を通る訳で当然ながら食肉文化の根付いた地域と言う条件にも合致し、尚且つ炭治朗の出身地の雲取山周辺の多摩地方~秩父地方にも近い地域に当ります。
小生はこの“食文化”と“シルクの街道”を踏まえた上で、以下で紹介する鉄道史から、無限列車編の舞台は横浜では無く食肉文化が大衆化した東京~地方都市、多摩地方か秩父地方だと推測しています。
よって・・・
無限列車編は恐らく中央線で東京⇔甲府の間、それも谷間ではないので八王子辺りのどこか。
・・・と小生は推測します。

ー次に遊郭編ですー
言葉から首都圏の遊郭なのは間違いありません。
昭和三十一年(1956年)の売春防止法、昭和三十四年(1959年)の風俗営業等取締法まで東京周辺には有名な遊郭が有りました。
時代的に下の遊郭が候補に挙がりそうです。
1つ目は江戸時代から存在する吉原遊郭、元は日本橋に有りましたが火事で現在地に移転しています。
  当時は水掘りで囲まれた完全に一つの町全部が遊郭でした。


2つ目は幕末に発展した横浜の港崎遊郭の移転先横浜市の永真遊郭は真金町遊郭と永楽遊郭を合わせた大遊郭でした。
真金町遊郭は笑点の司会だった歌丸師匠の御実家が遊郭の経営をされていた事で有名です。
永真遊郭の歴史は花街の歴史を専門に調べてる“知の冒険”と言う良いブロガーがいるので、そっちの記事を読んで見て下さい。


3つ目は川越に有った西小仙波遊郭です。
こちらはちょっと資料を元に歴史を掘り下げてる詳しいブロガーも知らないし史料も手元に無いのでスル―します。
この他にも横須賀にも遊郭が数ヶ所有ったそうです。
横須賀の方は知の冒険が詳しく書いているので読んで見て下さい。


知の冒険の中の人は自分で取材してシッカリと記事にするタイプなので良い参考になると思います。
遊郭編第一話の最後の方で巨大な遊郭らしき街並みが出てたので東京に有った吉原遊郭だと普通に思います。
遊郭の場所検証は以上(笑)。

次は炭治郎の家ですね~。

【4】竈門家の所在地
ー炭治郎の実家ー
炭治郎の実家は雲取山の近くだそうですね?もう特定されてんだからヤル事ない!
・・・とは成らない!
先ず雲取山の地形を見ると畑も無いので林業と狩猟しか有りません。
そして本当に雲取山に住んでいたらな集落から離れすぎており補給が無く車が無い時代には生活は無理でしょう。
炭焼き小屋を知らない人は山の中で良いジャン?とか言いそうですけど、炭焼き小屋は集落の近くの山に有りますからね?そもそも実家も雲取山周辺の集落と言う意味だと解釈した方が良いでしょう。
ー炭治郎カナヲ夫妻の居所ー
次に炭治郎とカナヲ夫婦が何処で結婚生活を送ったかを考えてみましょう。
炭次郎の家系は初婚年齢が低い傾向が有る様なので婚期が比較的遅い都市部より、初婚が比較的全体的に早い漁村か農村に定住していたはずです。
あくまで雲取山周辺の農村で亡くなるまで家業の炭焼きや農業に従事した可能性が高いですね(もう答えでちゃったよwww)。
さて、先に言いましたが炭焼きは余りにも人里から離れていると商売として成立しません。
売る相手に届ける事が出来ませんからね、しかも当時は徒歩ですから。
雲取山の近くには3つの集落が有ります。

埼玉県秩父市、東京都奥多摩町、山梨県丹波山村
以上の3か所が候補地としてあがり、これは3都県でウチだよ論争が始まりそうですね。
個人的には現実的に考えて奥多摩町日原の集落の様な気がします。
そこからだと旧国鉄青梅線が1894年に開業しており日原の集落から徒歩でも馬でも01時間40分と生活圏に成り得ますし、農業を営むなり山を持ってれば昭和中期まで林業で食べれたでしょう。
ただ秩父市側も集落が有りますから其方側でもおかしくは有りません。
炭治郎が「禰豆子は町でも可愛いって評判だった」みたいなセリフが有るので農村か町近くの山間に住んでいる事は間違いない訳ですから“日神神楽の伝承者”なので住所を家系的に知られてはいけない事情が有ったか、若しくは“雲取山に家系の秘密が有る”から雲取山と言った内のどちらかの理由が無いとセリフと整合性がが取れないですよね。
故意に3都県に跨る雲取山と言って置けば少なくとも住所が県から隠す事が出来ます。
まぁぶっちゃけると雲取山は生活拠点には成り得無い場所ですが、その周辺のどっかには居たかもしれません。

偶然だとは思いますが丁度、雲取山の周りには炭治郎だけが使える特殊な呼吸の“日神神楽”=日の呼吸に関係しそうな地名が雲取山の麓に有ります。
それが雲取山の山麓の太陽寺や日原街道や日原川や日原鍾乳洞です。
林業と狩猟が主産業だった農村部なので子供達の婚期もたいそう早かったでしょう。
ならばアメリカ軍の空爆を受けず、農村部で食べ物にも困らず戦争を乗り越えていると考えた方が自然かも知れません。
この辺りは確かにクッソ田舎(笑)なのでポツンと一軒家状態だったか、それか山麓に住んでいたかも知れませんが、仮に夫婦で実家に帰っていた殿ならば第二次世界大戦で米軍の東京大空襲が始まっても影響なく畑を耕し戦時中も食べる事にも困らず無事に生き残れた筈ですし、彼の事だから戦時中は禰豆子と善逸夫婦や伊之助とアオイ夫婦を受け入れて疎開させてあげて共同生活をしていたかも知れませんね。
元々から雲取山とネタバレされてるのですが、雲取山じゃあ~子育てしながら自給自足は厳しいよ!と言う事は解りましたので、家も集落だったろうし秩父市横瀬町か東京都奥多摩町から徒歩1時間くらいの村と言った所だったかも知れません。

因みに私の義祖母は戦時中の食糧難の時に横浜市中区根岸から当時は森の中で林道でしか繋がっていなかった港南区港南台の円海山の鷹巣と言う地域の農家を営む知人の家まで農作物を分けてもらいに今の磯子区杉田まで路面電車で行きソコからは徒歩で1時以上かけて行っていたそうです。
そう、炭治郎達の時代は既に路面電車も走っていたので、漫画の世界観は完全に“るろうに剣心”と同時代位に歴史オタクからすると見えてしまうんですね。

当時は一般人は車なんて無かった時代ですから、逆に農家が街に農産品を販売に行って現金を獲得に行ける距離も徒歩でも町までせいぜい片道1時間前後くらいが限界だった様で、横浜市でも町から1時間も離れた地域は高度経済成長期の自然破壊で宅地造成されるまで完全に森でした。それより更に山奥に入ると鎌倉~横浜間の尾根道沿いにだって集落なんか有りません。
その横浜市磯子区~港南区の昭和三十年代と当時の様子を比較すれば、人口の増え始めている大正時代よりも更に以前は猶更の事ですが人里から離れて炭焼きでも生活なんて成り立たなかった事が理解して貰えるかと思います。
※下の地図と航空写真は先程説明した同一地域の史料です。クリックして拡大して見て下さい。
時代別比較
上から国土地理院標準地図、1945年終戦時空撮、2019年時点の空撮です。
現在の感覚だと近い場所も、炭治郎達が中年だった頃もまだまだチョットしたハイキングくらいの強度の山登りだったので、もう山奥には人なんか住めないと言うのがこれで御理解頂けるかと思います。
田舎で今では廃村に成ってる場所も、自動車が主流に成るまで徒歩の街道で実は集落だったんですね。

地図を読むのが不得意な人は、江戸時代~明治~昭和で全然道も地形も人の住む場所も違う事が良く解る炭治郎達も往来したであろう甲州街道旧道の解説動画が有るので、興味が有る人はこのシリーズを見るかと良いと思います。
この“うめごーるど”サンはちゃんと古地図を見て検証しているので参考に成りますよ。

【5】日の呼吸の由来。
次に炭治郎とカナヲ夫妻の安住の地の推測で結びついてしまった“日の神神楽=日の呼吸”の正体を考察してみます。


――日の神神楽の正体――
雲取山周辺の太陽時とか日原街道や日原川や日原鍾乳洞の地名と、秩父地方や奥多摩地方には三峯神社や武蔵御嶽神社と言う倭建神話の舞台が偶然会ったので原作者は“日の神神楽=日の呼吸”を思いついたと思います。
つまり只の地域性と地名の思い付きじゃないかな~?
――――――――――――――――――――――――
以下、日の神神楽を歴史オタクが周辺の古代史、中世史で由来を補強して見る(暴走)。

さて、炭治郎と禰豆子の竈門家の出身地が設定で雲取山の周辺と言う事と周辺地域の話に2つの考察で触れましたよね?
①鬼滅の刃の物語開始時の元号特定で触れた食文化と鉄道史と街道の歴史。
②彼等の寿命が関東大震災や第二次世界大戦が関係してくるケースと、帰郷していれば影響を受けない事の解説。
この解説に周辺地理と古代史と武家の歴史を合わせると・・・

日の呼吸の設定も若しかしたら説明が出来てしまうかも知れません。

――以下無理矢理解釈――
※本当にコジツケですが炭治郎の家系が日の神神楽を継承した理由を“推測(捏造)”してみます。
・・・では日の呼吸の設定を原作者が意図していたかは不明ですが(笑)、小生が歴史で無理矢理こじつけてみましょう~www♪

どうやら日の呼吸、神話と関係が有るかも知れませんよ?
・・・最期まで読んだら本当に全部繋がるよ・・・

日の呼吸は神事で舞う神楽(かぐら)として伝わっている事から、炭治郎の家は「代々炭焼き」と本人が言っていますが、それは有り得ません。
神職(社家)と成った古代の豪族か平安時代頃の武士の家系だった可能性が有ります。
炭治郎は直近の家系図しか見せられてない可能性が有ります。
その証拠に本当に“只の炭焼きだったら有る筈の無い“家系図”が彼の家には存在している”んですよね?
しかも山奥の炭焼き職人なのに“字を読める教育を受けている”事と更に神事として武技である“日神神楽”を継承し舞っていた事が判ります。
実は炭焼きが本業の様に成ってしまっているものの、本来は社家(神職)であり武家だったのが開けた土地を避けて山に住んでる理由があるハズです。
そもそも“日の呼吸”は神楽な訳で神前に奉納する儀式な訳です。
皆さん身近な所だと相撲取が土俵の上で弓取り式を行いますよね?
アレも古代の神事の名残りで、応神天皇=八幡大菩薩=八幡神が弓の名手で悪鬼を射殺した退魔の伝承から、土俵を清める意味で行われる儀式です。

神話の時代に当たる弥生~古墳時代は主力兵器が弓でした。
古代の合戦は合戦でも弓合戦。
石斧や石槍でも戦ったでしょうが、金属器が未だ高級品で指揮官クラスの装備品でしたからね。
東京国立博物館所蔵 土偶画像借り物 久良岐のよし
良く古墳で見る埴輪のコンナ⤴立派な金属製鎧は上級指揮官である豪族の長や王族しか着れない物でした。なのでマトモな金属甲冑は下級兵士に配備されて無く皮の鎧と木の楯だけの時代は石鏃(せきぞく)の鏃(やじり)の弓でも十分に殺傷能力が発揮できたし、先進地域では青銅製の鏃を用いた軍勢も極少数いたかも知れません。
なので、当然ながら古墳時代の大王=天皇であった応神天皇=八幡大菩薩は弓が得意と言うのは武技として優先して学習する技能だったので当然と言えば当然な訳です。
しかし青銅の剣や鉄剣は当然存在したので、倭建は叔母の倭比売(ヤマトヒメ)から権力者の象徴である草薙剣(クサナギノツルギ)を授けられた上で与力の将兵も付けらています。
弥生時代~古墳時代の転換期に当たる倭建命と伯母チャンで伊勢神宮の斎王だった倭比売の頃には剣を使った神事が出来ていても何らオカシくはない訳です。
この将兵が広島~岡山当りを治めた古代豪族の吉備氏と、今の大阪辺りに大伴氏の軍勢でした。

倭建の叔母に当たる倭比売は伊勢神宮の斎王を務めていた人物で、太陽神である天照大神を祀る人物でした。
この天照大神の存在と大伴氏が日神神楽に関わってくる事に成りますが、もう暫く炭治郎の出身地周辺の古代の豪族と神様の関係の説明を続けます。余談ですが倭建は草薙剣だけでなく天石楯(アマノイワダテ)と言う楯も装備していて、これは相模原市の名倉権現石楯尾神社の場所に埋蔵してと伝わっています。
丁度、知々夫国(秩父市)から大和国(なら)や河内国(大阪)方面に帰還する時は、相模原市を通過して猿橋渓谷を越えて甲州経由で戻るので楯を埋めたかは解りませんが、まぁ古代の奈良への道程としての伝承としては考えられる経路ではあります。


炭治郎達がいた多摩地区~秩父地区は倭建伝説も残る地域ですが古くから知々夫国造(ちちぶくにつくりのみこと)と言う神話(弥生~古墳)時代から続く豪族王がおり、この一族は氏神として信仰した天下春(ウワシタハル)と言う神様を祀る一族で、古代豪族の九州の佐伯氏や大阪の住吉神社を氏神とした大伴氏の一族と考えられています。
実は炭治郎と関係の有りそうな秩父地域とは雲取山を挟んで反対の多摩地区では武蔵七党と言う古代からの豪族がいました。その中で古い一族に“日奉(ひまつり)”氏がいます。これが正に倭比売によって東征する倭建に与力として与えられた大伴氏の子孫に当たる一族で、その一族の一つの氏姓が“日奉(ひまつり)”氏なんですね。
モロに裏設定として“日の呼吸”と関係してそうな苗字でしょう?
更にこの日奉氏は平安時代に武蔵守(むさしのかみ)として武蔵国府の府中で東京・埼玉・川崎・横浜の大部分の知事を務めた一族の子孫にも当たります。
府中市の大國魂神社が古代からの武蔵国の国府の跡と考古学的に考えれれていますし、江戸=東京が中心に成ったのは徳川幕府からの比較的新しい話なんです。
相模国一~六之宮 久良岐のよし
※コレ⤴縄文海進で海だった場所に延喜式内社は先ず存在しない。ただ古墳時代に成立した相模国五之宮格の平塚八幡宮と相模国四之宮の前鳥神社以外は全て古代の海岸線ギリギリに存在している。
しかも江戸初期に成っても江戸=東京23区の大半は古代の海の底で江戸時代初期も湿地だったんですね。ハッキリ言って水害リスク高いのに何で住んでるのか解らないのが江東区や墨田区や中央区辺り。
徳川家が江戸に入府した頃は人が住める場所は比較的少なかったので徳川幕府が埋め立て工事をしまくり、台地に三田用水を引いたり、元海だから井戸掘ってもロクな水が出ないからわざわざ羽村市から玉川上水を引かないといけなかった。
浪人達にも湿地の開墾を認めて段々と耕作地に変えて居住可能地域を拡張して行った場所が、今の足立区とか江東区とか墨田区とか江戸川区とか葛飾区辺りなんですね。
なので日奉氏初め分家一族の平山氏や立川氏、小宮氏等の古くから定着していた豪族は多摩丘陵方面に領地を持っていた訳です。

その一族が武蔵七党の一つ西党の一族として支配地を拡大し繁栄しての支配地が雲取山の南側の多摩地方一帯で鎌倉時代にも源頼朝公の御家人なりました。
この日奉氏の苗字は日野市の日野の地名由来と考えらえており、日野市の日野宮神社は日奉氏一族の氏神だったりします。


例えば裏設定で・・・
倭建に従った大伴氏で秩父地方に土着した知々夫国造、横浜市域~三浦半島に土着した大伴氏、それらの中間地点の雲取山~多摩地方辺りに日奉氏が土着して、古代には雲取山で知々夫国造、日奉、大伴部を神職として束ねる役割が太陽のプロミネンスを司る竈門家で神話の時代の倭建命と伊勢神宮の斎王の倭比売から受け継いだ天照大神の力を得る破魔の神事と剣技を合わせた神事として継承したのが“日神神楽=日の呼吸”だった・・・
・・・とかだと、竈門家が対鬼に異常な戦闘力を発揮したり“日神神楽”を継承していた事と、鬼化してしまっている禰豆子が日光を浴びても消滅しない耐性が有る事も全て天照大神の加護と破魔の力を倭比売と倭建命から授けられた大伴氏の子孫の中でも特別な豪族武将であり神職を司る人物の子孫だからと設定すれば全ての事に辻褄(つじつま)が合うかと思います。
地理、神話、特殊な家系、特殊な日の呼吸の秘密、全てに整合性がでます。

では残る一つの疑問、何故(なにゆえ)秩父市の山奥か奥多摩町の日原川流域成り雲取山なんて言う山奥に細々としていたかですが、コレも日奉一族の子孫の武士、武蔵七党の歴史を持ち出すと説明出来てしまいます。


例えば漫画の竈門家が古代の退魔の神事と武術を継承した特別な一族で、彼等、武蔵七党の神事を司る聖職者で調停者だったと設定します。
日奉氏と子孫の平山氏等武蔵七党西党は鎌倉幕府の源頼朝公に仕えてからも繁栄し戦国時代にもと呼ばれ小田原北条家に仕えましたが、善政で有名だった小田原北条家が豊臣秀吉に滅ぼされた際に滅亡してしまします。
木下藤吉郎時代⤵️の秀吉公。
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まぁ竈門家は史実では存在しない家系ですが、例えばこの秀吉に一族の西党や武蔵七党が滅ぼされた際に竈門家の祖先が倭建命に鬼を狩る役目を授かって以来、倭比売に授けられた天照大神の退魔の力を発揮する日の呼吸を神事として伝え続けていたので、特殊な力を豊臣秀吉や徳川家康公に悪用されない為に山深い雲取山周辺に隠れ住む様に成った・・・
とかコジツケたら全てに整合性がでますね~。
このコジツケを可能にする有名な神社が幾つか有り、それが先に紹介した知々夫国造と倭建命関連の神社仏閣なんです。
・・・が、作者はそこまで考えてないと思います。
秩父地方の三峯神社や多摩地方の武蔵御嶽神社の他にも神奈川県の旧相模国域には多く、この倭建と大伴の関与した神社が在ります。
そして、それらの神社や豪族や倭建命と関係の有る神社が他にも多く有り、しかも古代の海岸線沿いに全てが存在しているんですね。
その神社の中で知々夫国造や日奉氏の関係する天下春命と言う神様の神社分布や倭建神話を繋げると、無理矢理、竈門家の由来を倭建命の東征に協力した大伴氏にルーツを作れる話を先にしました。
この話、竈門家のルーツ推測(捏造)としては十分だと思いますが、もう少し神話を現実的な考古学的な解説として話したい思います。
古代の海岸線と式内社式外社 久良岐のよし
古代海岸線だった影響が実は近世に成っても続いていて現在の神奈川県伊勢原市域、平塚市域、茅ヶ崎市域は大正時代の関東大震災の水害発生後に治水工事で大規模な河川の流路の改編や埋立工事がなされるまで湿地と湖、砂丘が多く残っていました。
その影響で当然ながら古代東海道の矢倉沢往還や三浦半島の走水に抜ける古東海道(旧東海道より更に以前の古墳時代~平安時代の道)の街道も、古代の湾を避ける様に繋がっています。
この古代の海を避けて通る古街道の神社には西暦900年代の醍醐天皇から見ても古く由緒の有る神社だったので延喜式と言う政令の中で延喜式神名帳と言う朝廷が支援し保護すべき神社を定めた一覧に掲載されいるばかりが並びます。
又、神社では無く明治以前は修験道の聖地化していたので掲載はされていないものの古代から存続する伝承を証明する様に縄文~古墳時代の遺跡を内包する古社が多く有ります。

この延喜式内社の内、神奈川県中央部まで食い込んでいた古代の相模湾の東岸北部~炭治郎の住んでいた多摩方面まで小野神社と言う古社が点々と存在しており、この小野神社の御祭神が天下春命です。
厚木市の閑香明神小野神社は現在は御祭神が倭建命ですが、元は天下春命が御祭神でした。
この地域、つまりは古代に大伴氏の勢力圏だったと言う事です。
更に北上すると多摩地方~秩父地方に辿り着きますが、秩父地方を古代に治めた知々夫国造(チチブクニツクリノミヤツコ)は大伴氏の末裔と考えられています。

そして南側、今の横浜市神奈川区六角橋辺りも大伴久応と言う古代の人物が倭建を歓待したと言う伝承が残り付近には神大寺と言う寺院が室町時代に兵火に焼かれるまで存在していましたが、その近くの宝秀寺と言う寺院が大伴久応の邸宅跡と伝わっていたりします。
又、倭建が妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)と滞在した三浦半島横須賀市走水の御所ヵ崎では大伴黒主と言う古代の人物が接待をしたと伝わっています。

これらの話、実は大伴一族が分布していた範囲の証明に成ると思っています。
昔、神奈川県は川崎市全域と横浜市南西部を除く地域が相模国でした。その相模国の成立前は更に磯長(しなが)国と佐賀牟(さがむ)国だった様で、当時はどうやら相模国だけではなく武蔵国も成立しておらず知々夫国造がいた事から武蔵国北部つまり今の埼玉県には知々夫国が存在ていたので、その地域を除いた武蔵国の残る東京都南部と東部と地域神奈川県の東半分と合わせて佐賀牟国だった様です。
それらが古墳時代の終り頃に国が再編成されて・・・
磯長国は消滅して佐賀牟国の西半分と併合されて相模国。
知々夫国は消滅して佐賀牟国の東半分と併合されて武蔵国。
・・・この様な大改革が在った様です。
神奈川県の橘の地名が残る湘南の大磯町や二宮町に川勾神社と言う延喜式内社が有ります。

この神社の御祭神が級津彦(しなつひこ)、級津姫(しなつひめ)の夫婦神で磯長(しなが)国を開拓した古代豪族の夫婦神なのですが、その子孫と考えられる磯長国造(しながくにつくりのみやつこ)を務めた阿屋葉造(あやはのみやつこ)によって神社が造営されています。
この川勾神社を古墳時代初期の人物と思われる磯長国造の大鷲臣命(おおわしのみこと)、相模国造の穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)よって支援され祭器が奉納されたと伝承しているのですが、穂積忍山宿禰の相模国造は佐賀牟国造の誤記でないと同時代に磯長国造の大鷲臣命は存在できないので、穂積忍山宿禰は佐賀牟国造だった事が判ります。
さて、この穂積忍山宿禰と言う人物、実は倭建の妻の弟橘姫の父親と伝わっています。しかもこの一帯には橘の地名が残る訳です。

川崎市には橘樹神社と言う弟橘姫の装飾品を治めた古墳を御神体として遥拝所の位置に建設された神社が在ります。
そこに先程の小野神社の点在する神奈川県東部~多摩地域と秩父地方を合わせると、全て繋がった縦長の地域に成ります。
実はこの地域で三浦郡(三浦半島)と鎌倉郡横浜市域を除いた地域が全て古代大和朝廷の大王(おおきみ)の屯倉(みやけ)と言う直轄地でした・・・
即(すなわ)ち、久良岐郡、橘樹郡、多摩郡、横見郡の4郡でこれが全て先程の当該地域に当てはまる訳です。
そしてこの地域が古代大和朝廷の直轄地に成った理由が武蔵国造の乱と呼ばれており、武蔵国造小杵(おき/こづき)と武蔵国造使主(おみ)の同族間抗争で大和朝廷が使主側を支援し、混乱の懲罰的に久良岐郡、橘樹郡、多摩郡、横見郡を接収したと伝承しています。
式内社
つまり、この時に入植したのが大伴氏で、これを鎮圧したのが倭建だったかも知れませんね。
そして豪族に対して懲罰と豪族の勢力圏再編の為に武蔵国と相模国を再編したとすると、正に取り上げた久良岐郡、橘樹郡、多摩郡、横見郡が相模と武蔵の国境の緩衝地帯に成り、尚且つ大和朝廷直轄地なので豪族同士が手出ししようが無くなり正に関東を“鎮撫”する事に成る訳ですね。
更にこの範囲に正に倭建神話の神社が点在し、この武蔵国造の乱の主戦場だったかも知れません。
そこに炭治郎の祖先を大伴氏と仮定して、倭建が信頼する大伴部を緩衝地帯の4郡に入植させ豪族同士の争いを調停させたとしたら漫画の設定へ歴史が繋がる整合性も有り竈門家の神秘性にも話が繋げられ訳です。

まぁ、原作者そこまで古代の神話と考古学手的な事と付近の神社の歴史は知らず、普通に雲取山の周りに太陽寺や日原街道や日原側や日原鍾乳洞ってのが集まってるから“日の呼吸”とか思いついたのかも知れませんが。
そこら辺は原作者に聞かないと解りませんよね~。

地理で繋げて、考古学で繋げ、周辺の武家の家系を繋げ、神話で繋げて、竈門家と日=太陽=倭比売と倭建をこじつけ、竈門家が炭焼きで生計を立てていたのにシッカリした家系図が有る事を考慮すると・・・

日の呼吸=日神神楽の由来の出来上がり!

因みに倭建は神奈川県域と東京都域を鎮定した後で三浦半島の走水神社~海路~千葉県の富津・木更津方面へ渡り上総一ノ宮の玉前神社から古代の霞ヶ浦沿いに北西へ遡上して鷲宮神社に行き、秩父方面から甲州へ抜けて行った様です。

実は倭建は現在では1人の人物の様にされていますが、福数人の事業が倭建と言う古代の官職名で神格化されややこしい事に成ってると思います。
普通に考えて当時は九州征伐して関東も統治するなんて1人の人生の事業では無理でしょう?ならば元々古代の皇族のみが就ける大将軍の称号であった可能性が有るかも知れませんね。
九州を制圧した倭建が西暦200年代の弥生時代末期~古墳時代初期の皇族の将軍。
関東を制圧して武蔵国相模国再編を行った古墳時代の皇族の将軍であり今の天皇の祖先であろう人は別のはず。
今の行田市の埼玉古墳群の中の一つ、稲荷山古墳から出土した鉄剣には“獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)”の名前が金象嵌で彫られています。

この獲加多支鹵大王の名は、天智天皇の大化の改新の頃に大王(おおきみ)の尊称を捨てて“天皇”を名乗り始めた際に、過去の大王にも天皇号が別に追贈された際に雄略天皇と変えられています。
もし“タケル”の称号が大将軍を意味する古代の官職名だとすれば、倭建は当然ながら何人もいておかしくない訳で、それが神格化された際に一人の事績に習合されていると考えた方が自然ですよね。
そして景行天皇の皇子の間違いなく初代の倭建命は草薙剣を伯母から与えられており、雄略天皇も埼玉の豪族の乎獲居臣(ヲワケコノオミ)に鉄剣を与えている事も共通して既に宝剣を所持しており、この古墳時代に退魔の剣技を神楽として伝えた豪族将軍で神職を兼務し初代の倭建か古墳時代末の倭建だった獲加多支鹵大王=ワカタケルオオキミ=大長谷若建(オオハツセワカタケル)=雄略天皇に従軍した豪族大伴家の将軍の末裔が竈門家の祖先と考えれば・・・

日の呼吸が圧倒的に鬼狩に威力を発揮し、更に竈門家が太陽の加護を得ている説明に成りそうですね。

ちなみにこの雄略天皇は元々丹波国、今の京都市福知山市にあった伊勢神宮を現在の場所に遷宮した人物です。
つまり雄略天皇=ワカタケル大王も最初のヤマトタケル命も天照大神の依代(よりしろ)である伊勢神宮の斎王から天照大神の加護を得ていたとか言う、日の呼吸の由来はどうでしょう?
全て小生の神話と歴史と地理のコジツケですが(笑)。

①鬼滅の刃の世界観は慶應元(1865)年05月01日~明治二(1870)年08月末に鬼滅の物語のスタートとなる鱗瀧さんの手鬼逮捕が始まり、炭治郎と禰豆子は大正元年~大正六(1917)年08月末までに炭治郎は旅をスタートしている。
②登場人物たちが天寿を全うしたなら第二次世界大戦を乗り越えてカナヲと夫婦で炭焼きと農家を営み町の農協まで軽トラで収穫した野菜を納品しに行ったり、老後は孫と東京タワー見物に行ったり白黒TVで昭和の東京オリンピックや力道山の試合を観戦して楽しんでいた世代。
③無限列車編は中央線がモデルかも知れない、遊郭編は普通に吉原遊郭じゃないかな?
④竈門家の所在地は東京都奥多摩町日原川流域か埼玉県秩父市の何(いず)れか雲取山周辺のどこか。
ここまで⤴
ここは⤵まぁ、推測も何もコジツケかな(笑)?
⑤日の呼吸の正体の裏設定が有るなら、雲取山の周辺の地名の日原川や日原街道、太陽寺から原作者は思いついた筈。
⇒強引に解説するなら歴史オタク的には③に神話と古代史と武士の歴史を混ぜると日の呼吸と神楽の由来と竈門家の家系の歴史を原作に整合性有る設定にコジツケられますよ~。

名前の事件がどうつながって行って当時の歴史や文化背景がどんな感じだったかを知ってみると漫画もより生々しく面白く感じませんか?
・・・と言う、御話でした。
皆さんも横浜や東京や京都や神戸の町並みを歩く時に建物や橋の作られて時代を気にして見て下さい。それだけでも当時の人の姿が目に浮かび、洋食屋さんに行ったり郷土料理を食べるのも時を超えて同じ物を食べてる事が楽しく成ると思いますよ~♪
とりあえず皆さん、御店に“すきやき”食べに行ってみませんか(笑)?

追記⤵
色々と皆さん思う所はあって良いと思います、異なる意見も同意もあるでしょうし、1つの事をみても見え方が違うのが人間です。
例え夫婦や恋人でも共同生活者として説明する努力を怠ると分かり合えない訳です。
御自身の御意見が有る方は是非ブロガーに成られる事をおすすめします。
ブログはTwitterみたいな短文ではなく沢山資料と文字を共有出来ますから。
そうすると生産的でより多くの様々な情報を皆で共有する事が出来ます。
私のブログは読者が少ないので、仮に有意義なコメントを残して下さっても残念ながら衆目に晒される機会も略ありませんしね。
ここ⤵から皆さんもブログをはじめましょう~♪
livedoorやLineのblogプラットホームは使いやすいので是非、皆さんもブログやYouTube始めてみては如何でしょうか?

さて、本当にいい加減、瑞穂ふ頭の記事書きますので待っててくださいwww
何かブログ更新定期でも月刊くらいにしたいかも(笑)。

では皆さん、恐らく今週で紅葉も散り冬が訪れます。
風邪などひかれません様に、マスクと手洗いウガイ、アルコール消毒、毎日湯船に浸かって全身熱殺菌忘れずに!

宜しければブログに「いいね」と「読者登録」を御願いしまぁ~す♪

続きの記事⤵
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先月の4月29日、友人と友人の友人の3人で奥多摩観光をして来ました。


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で、今年も青梅市塩船観音寺の❝躑躅祭り❞に行って来ましたが、29日はまだ7分咲きと言った所で綺麗ながらもまだまだ一昨日時点で1週間は山一杯の躑躅を楽しむ事が出来そうな感じでした。
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相変わらずメチャメチャ綺麗でした!
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これ見ないでゴールデンウイーク終わるの損だよ本当!
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塩船観音寺
ここは本当に躑躅の季節に綺麗だし、車でも青梅線でもそう遠くない澤乃井櫛かんざし美術館や澤乃井園、清流の宿おくたま路の日帰り温泉と合わせても楽しい観光が満喫できると思います。
ゴールデンウイークも残す所4日!
皆さん、是非楽しんで下さい。

今回の青梅探訪も休日雑記で書きたいと思います~。
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皆さんは東京都青梅市に横浜で生まれ、戦時中に青梅市に自宅を写し数々の歴史小説を執筆した吉川英治先生の旧宅の素敵な古民家と日本庭園が博物館として季節限定公開されているのを御存知でしょうか?
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この周辺には観光地として申し分ないスポットも幾つかあり、小生は昨年初めて訪問して再訪したいと思っていたところ、Google mapの情報で今年2019年03月に開館の後、03月20日で運営中止となり完全閉館される事を知りました。
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駐車場も完備されており古民家としてだけでも見物に値し、更に歴史好きや三国志好きならたまらない吉川英治先生の生涯や作品紹介の展示物もある素敵な博物館なんです。
吉川英治記念館だけでは奥多摩まで足を運ぶには小生の様に神奈川県民では距離的に足がなかなか向かない人もいると思いますので、吉川英治記念艦周辺の観光地としての魅力を先ず強調する為に周辺の景勝地を紹介したいと思います・・・
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大悲山 観音寺(通称:塩船観音)
塩船観音は吉川英治記念館から車で30分程度の場所、関東指折りの躑躅の名所の一つで人魚伝説の八百比丘尼が住職を務め、更には天台宗の総本山、比叡山を代表する高僧の一人で天台密教の大家である五大院先徳 阿覚大師 安然和尚様が大寺院に拡張した歴史がある場所です。そのごは坂東平氏三浦一族の金子家が平安時代~鎌倉時代に支援し、戦国時代には三田領を束ねた三田家が支援した御寺で、現在は真言律宗の別格本山であり寺院の奥院が躑躅に囲まれる非常に美しい場所でもあります。
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JR青梅駅周辺❝昭和レトロ商店街❞
青梅市は映画とドラマのロケ地誘致と昭和の街並みの景観保存に力を入れておりJR青梅駅周辺は散歩するだけでも楽しい。❝赤塚不二夫記念館❞や❝昭和幻燈館❞や❝青梅宿津雲邸❞等もあり駅周辺でもかなり時間を割いて散策出来る。
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へそまんじゅう総本舗奥多摩を代表する御土産物屋と言って過言では無く、蒸したてホカホカの名物へそ饅頭を1個売りでも箱でも販売してくれる。小腹が空いたらオヤツにも丁度良い。
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奥多摩釜めし
山深い場所に来た時に関東地方では定番の観光地の食事と言えば釜飯。青梅市の二俣尾でも釜飯の名店❝奥多摩釜めし❞があり、観光気分を満喫しながら食事が楽しめる。吉川英治記念館からも車でそう遠くはない。
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瑞龍山 海禅寺(戦国時代の天皇勅願所寺院)
とても素敵な楼門と、境内に綺麗な躑躅も咲き、春には枝垂れ桜の立派な大樹が見所の御寺。
戦国時代に扇谷上杉家の与力小大名だった三田家が室町時代中期に開いた寺院だが、本来の寺号は❝福禅寺❞と言い恐らく前身寺院は鎌倉亀ヶ谷に存在した修験道の大道場で源頼朝公が崇敬した亀谷山福禅寺が前身。度重なる戦火で福禅寺の権現堂は横浜市港南区に機能移転し、福禅寺は扇谷上杉家によって三田家に青梅市二俣尾の現在地で再興されたと推測出来る。横浜市沿岸部を北条早雲の時代に治めた北条家相模十四騎筆頭の間宮家棟梁、間宮信冬公によって福禅寺の住職が鶴見下末吉に招かれ長谷山 寶泉寺が開かれた。この間宮家は間宮林蔵や杉田玄白の一族祖先であり、又、現在の江の島の江島神社が真言宗系修験道の聖地霊場だった江戸時代までは間宮家が住職である別当を務めた。この間宮家は鎌倉から移転した福禅寺の権現堂を横浜市域で保護しているが、これが鎌倉に在った修験道の福禅寺時代には天皇家御門跡寺院だったので、三田家滅亡後は曹洞宗として間宮家や間宮家の寄親の玉縄北条家一族福島家や同じ北条家臣師岡家や旧三田家臣団によって支援された頃に突如天皇家勅願所に成っているので、間宮家や鎌倉亀谷山福禅寺と青梅市瑞龍山海禅寺の本来の寺号の福禅寺の深い関連が推測出来る。
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吉川英治記念館(2019年03月20日閉館決定)
吉川英治先生の生涯と作品を展示した博物館と、旧宅の古民家と日本庭園を併設した記念館。
風景も庭園もとても美しく、又、古民家好きにとっても素敵な場所。吉川英治三国志や彼の歴史作品を愛読した人ならば閉館前に必ず行きたい所。
3月までは季節柄開館時期では無く03月01日の開館~20日まで営業して終りを迎える。
3月からの開館機関も火曜日は定休日なので訪問日程には注意が必要。
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澤乃井櫛かんざし美術館この美術館と多摩川を挟んで対岸に在(あ)る老舗酒蔵の澤乃井酒造が運営する日本の櫛と簪(かんざし)を大量に収蔵展示した珍しい美術館。ここは風景もとても美しいが収蔵された櫛と簪はどれも綺麗で緻密な細工のされた物ばかりで、江戸時代の御姫様達が用いた物から近代工芸品として発展した物まで多種多様な❝美術工芸品❞としての櫛と簪を見る事が出来る。女性陣は必見!
対岸の澤乃井酒造も吊橋を渡って行けるし、逆に澤乃井酒造側に車を駐車して歩いて来る事も出来る。
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寒山寺(澤乃井酒造創業家小沢家の持仏堂)澤乃井酒造経営者の小沢家が建てた持仏堂で❝澤乃井櫛かんざし美術館❞と澤乃井酒造の土産物売店とレストランが併設された❝澤乃井園❞を繋ぐ多摩川上流にかかる吊橋のたもとに存在する。
美術館と澤乃井園と合わせて見物出来る景勝地。


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澤乃井酒造&澤乃井園江戸時代初期から続く老舗酒蔵の澤乃井酒造の醸造所と、観光客向けに日本酒の飲み比べや土産販売、食事店舗を併設した場所が澤乃井園。奥多摩ながら観光客で日々賑わい、下の多摩川の河原にも降りられるので渓流で沢遊びをする家族にも人気の観光地に成っている。
又、予約すれば酒蔵の方も時間限定で見学する事が出来る。酒を飲まない小生でも力を込めて推薦したい観光地。ここの梅酒は酒嫌いにもとても美味しい!
歴史好きにたまならいガクシャ先生も知らない情報を余談として一つ・・・
澤乃井酒造の小沢家は旧武田家重臣で武田信玄の娘婿だった穴山梅雪の与力武将が御先祖で、武田家滅亡時に復興資金を持って現在地に移転して来て、そのまま武田家は復興されたなかったので林業を営む傍(かたわ)ら酒造業を始めたそうです。社長さんに取材確認済みなので間違いないそうです。
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福島家住宅(江戸時代までの二俣尾村庄屋宅の古民家)

さてさて・・・

吉川英治記念館の周辺、すっごい沢山見所有るでしょ?
この他にも城好きには辛垣山城跡なんかも有りますが、ちょっとした登山に成ってしまうので一般の観光客には不向きと判断し紹介は差し控えました。今回紹介した場所は小生が自分で廻った事のある場所ばかりですが、吉川英治記念館周辺は他にも見どころと成る美術館や観光施設が沢山有ります。
渓流には釣りが出来る場所やキャンプ場も有りますので、アウトドアと合わせて吉川英治記念館の見学に行くのも良いかも知れません。
奥多摩が観光地として魅力的なのは伝わったでしょうか?

・・・では、ここから吉川英治記念館そのものの紹介に戻ります。
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国道411号線から都道41号線に入り西の多摩川上流に向かって車を走らせると、この写真の看板が見えます。駐車場も30台分くらい有るので十分停められると思います。
吉川英治を平成生まれの若い世代は余り知らないのでインスタ映えする古民家が有ってもデートに大挙して来る事もないでしょうから。
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駐車場の脇から住宅道路みたいな田舎道を進むと入口に辿り着きます。DSC_0568
第二次世界大戦中に都会から疎開する為に旧豪農の邸宅を買い取って住んだそうなので、もう長屋門まであって既にこの時点で歴史好き、古民家好き、日本庭園好きにはたまらない雰囲気が漂ってきます。
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中に入ると直ぐ右手に・・・
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物置に使われていた立派な蔵が有ります。凄いよね~。
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御庭とても綺麗。
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住宅部分は玄関の中まで公開されています。
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そして各部屋には生活していた当時の写真が展示されており、今でも往時をありありと想像する事が出来ます。
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御庭に回りましょう。
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こちら側に回ると執筆する書斎として増築された洋館部分の玄関に回る事が出来ます。
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この洋館部分の玄関のタイルが見事でとても綺麗なんです。
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この、こじんまりした洋館の書斎で小説を執筆されていたそうです。
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小生は訪問するまで存じ上げなかったのですが、吉川英治先生は横浜市中区元町の生まれだそうで、生活も吉野町でされたりしたそうです。御先祖は小田原藩士だったとのこと。でも御本人は仕事を色々と変えて数奇な運命を辿っています。今で言うと転職しまくって余り大成しなさそうなかんじなんですけどね~。
そこからどうやって大作家に成ったかとか資料館部分で見る事が出来ます。
洋館から裏庭に回りましょう。
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本当に素敵な庭園なんです。
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まるで横浜三渓園みたい。
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裏庭側から資料館の入口に回れます。
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ここから中は撮影禁止です。
中には吉川英治先生と前妻や後妻さんや家族との年表や詳しい生活の様子、個人的な人生の紆余曲折も解説されていて歴史小説に興味ない主婦の方も昼メロドラマ並みに乱万丈非常に先生の生涯には興味を惹かれると思いますよ(笑)。

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御花もとても素敵な場所です。
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・・・こんな素敵な吉川英治記念館ですが、残念ながら今年2019年3月1日~20までの公開を以て閉館と成ってしまうそうです。残念ですね~。
もし彼女が出来たら一緒に連れて来てあげたい場所の一つだった。
もう彼氏彼女や夫や妻がいる皆さん、どうです?吉川英治記念館と周辺の観光スポット、とっても綺麗でしょ?是非3月の最終公開期間、訪れて見ては如何でしょう?

では、又、次の歴史解説記事で御会いしましょう~。
・・・津久井城の記事早く書かないとね。神社仏閣一覧も更新しないと。


















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皆さんは都筑区の区名が旧都築郡に由来している事を御存知でしょうか?
地方出身の横浜市民は明治以前の❝ヨコハマ❞が、そのまま村民100人位の横浜村だったと間違った歴史認識を教えられている人もいるかも知れませんが、その横浜村と言うのは今でいう関内辺りに在った半島上の村だけを指す範囲で現在の横浜市全域を指す訳ではありません。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
横浜市の中でも都筑区は山坂が多く現代には開発が遅れた地域だった上に、古代から橘樹郡の郡衙だった橘樹神社と都築郡の郡衙だった西八朔の杉山神社や茅ヶ崎一帯を結ぶ矢倉沢往還や中原街道等の旧街道が通り特に多くの遺跡が残っている事から古代において重要な地域だった事が考古学的に解っています。
そんな早くから開けて主要街道が通る都築郡だったので、平安時代にも重要視されていた様(よう)でして東京の神田明神では商売の神様として有名で、多摩地方や神奈川県域では善政を行った名将として江戸時代に成っても庶民から親しみを込めて尊敬されていた平将門公もやはり都築郡に来た歴史が伝わっています。

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その場所が都筑区仲町台の長福寺が江戸時代迄別当寺として管理した熊野社です。
平将門公が熊野社に籠もり祈願した話しが新編武蔵風土記稿にも紹介されているのですが、小生は風土記を読むより先に長福寺を初参詣した際、御住職様に直接その伝承を教えて頂き後に風土記を読んで見ました。伝承では平将門公が寝ている時に霊夢を見て、ここに在った熊野社の社殿に7日間も参篭(さんろう=建物に泊まって御参りする事)したと紹介されています。
最初に長福寺を参詣したのは偶然で、当日は茅ヶ崎城址公園の写真再撮影に行こうとして車を走らせていた際に停止した信号の交差点の名前が❝長福寺南側❞だったのですが・・・
「何か気に成るな~」
・・・と思い立ち寄ったのが最初でした。

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久松山 長福寺&平将門公所縁(ゆかり)の熊野社
さて、長福寺さんは元々は熊野社を守る為に存在した御寺なのですが、実は小生が顕彰活動を行っている横浜の殿様の間宮康俊公の間宮家や、その上官の北条綱成公の実家福島家とも少し因縁が有りそうな歴史が有るんです。ですが先ずは御寺の紹介を先にしましょう♪
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御本堂は木造と鉄筋コンクリートを合わせた構造に成っていました。
新編武蔵風土記稿 巻之八十四 都筑郡之四の大熊村の項に江戸時代の頃の様子が❝熊野社❞と❝別當寺長福寺❞として紹介されています。
最初に熊野社の説明が登場するので一応、現代では長福寺境内にこじんまりと存在する熊野社も先に写真で様子を紹介します。
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幅は1mちょいって所で現代の熊野社は凄く小さな物に成っています。これでは平将門公が霊夢を得ても❝熊野社の御堂に籠もる❞事は出来そうに有りませんね。後世に熊野社を守る役割だった御寺の長福寺の方がメインに成り、熊野社は火災とか色んな変遷を経(へ)て復興する際に小規模化されたのかも知れません。
新編武蔵風土記稿を読むと江戸時代当時迄は平将門公が籠もった当時の規模が維持されていたかも知れない様子が記載され、当時の熊野社の御堂の幅は1辺が3.6m四方の御堂だと説明が有ります。そして御堂ではなくて社(やしろ)と書かれているので神社として存在していた事も判(わか)ります・・・

境内御朱印地の内、村の西にあり、社(やしろ)は二間(1間=約1.8m)四方(1辺3.6m四角の面積の広さ)東に向けり本地仏(ほんぢぶつ=神様の仏様としての姿)弥陀(阿弥陀様)木の立像長四寸許、縁記によるに當(当)社は承平年中、平将門宿願によりて、不思議の霊夢を蒙り、此の社に七日参籠せる・・・以下中略

別當寺長福寺 本社に向かいて右にあり、禪(禅)宗曹洞派、橘樹郡末吉村寶泉寺末久松山と稱(称)す本堂七間(12.7m)に五間(9m)南向きなり、本尊釈迦木の坐像長一尺二寸許、今自山應大と云(言う)僧を以(もって)開山とせり・・・以下省略

・・・江戸時代までは神仏習合の宗教観で本地垂迹(ほんちすいじゃく)思想に基づいて阿弥陀如来が神社だった熊野社に御神像として祀られていた事が解かります。そして熊野神社は東に向いていると掲載が有りますので現代の配置を見て見ましょう。
長福寺本堂と現代の熊野社配置 久良岐のよし
現代に本堂として機能している建物は東向き熊野社は北向きと日本古来の神社の宗教観では有り得ない御社の向きに熊野社が配置されている事と、本堂は新編武蔵風土記稿で熊野社が向いていた筈の東向きに配置されている上にどうも元々神社の形式の建築を踏襲している様に本堂を幣殿としてその奥左手に本殿の様な構造の御堂が併設されている事が航空写真から解ります。
そして現代の庫裡(くり=寺務所や居住スペース)が新編武蔵風土記稿で熊野社右手に在ると書かれた長福寺の位置に現在在(あ)ります。
この状況から見ると、以下の変遷が推測出来ます。
●先ず本堂が幣殿でその左手奥の建物が熊野社だった。そして庫裡が長福寺だった。
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●明治時代の神仏分離令の際に神社機能を廃止して、元々から御神像が阿弥陀如来だった事から熊野社の社殿が長福寺本堂として利用された。そして熊野社北側右手の長福寺は僧侶の居住スペースとしてだけ活用される様に成った。
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●そんな経緯を知らない世代の御住職様や檀家さん達が現代になり「あれ?熊野神社無いじゃん?」と思ってわざわざ本堂に成っている熊野神社幣殿の南側に北向きで熊野社を再建してしまった。その際に記載の通りに3.6m四方の社殿である事や社殿を神道文化に準じて記載の東向きや太陽に向いた南向きにする事は特に気にしなかった。

・・・そんな感じで文献記載と航空写真を根拠に現代の熊野社の配置の経緯が推測出来ます。
さて、熊野社の向きはさて置いても現代でも平将門公がここを大切にした歴史は現在の御住職様や新編武蔵風土記稿によって語り継がれている訳ですが、江戸時代にこの御寺を中興したのは師岡(もろおか)越前守(えちぜんのかみ)と言う小田原北条家臣でした。その事も記載が有ります・・・

其後(そののち) 天文年中(1532~1555年)に至り、橘樹郡篠原村の城主師岡越前守伽藍を再興かど、戦国の折なれば次て修理を加ふる者なく、自ら破損せり

・・・つまり、この一文で熊野社は一回、戦国時代に師岡サンに立てなおされた後で支援者を失い風化して経年劣化の上で損壊し、後に再び立て直されているらしい事も判ります。そしてその師岡サンですが、新横浜駅北側に在る篠原城の城主だった師岡越前守と言う人物が1532年~1555年の間に熊野社を再建した事として記載が有りますが、その頃の篠原城主は小田原北条所領役帳(小田原北条家臣団の所得明細)の編纂された1555年迄の篠原村は金子出雲(十郎)が篠原代官として丗(三十)五貫で知行を当てがわれていたりします。金子一族は現代も港北区篠原に住んでいるので、つまり金子出雲の赴任以前の篠原城代が師岡越前守だった事が解かります。そして師岡越前守の師岡家は後に東京都青梅市の三田領を治める役割を担って転勤した一族でもあります。
戦国時代、青梅辺りは三田領と呼ばれ三田綱秀(つなひで)公と言う武将が治め青梅市勝沼城を居城にしていましたが、三田家が北条家を裏切ったので後に師岡家が赴任した事を、たまたま小生は城好きでもあるので青梅市勝沼城や間宮家関連の青梅市二俣尾の海禅寺を訪問した際に知る機会が有りました。
ちなみに金子出雲の金子一族もそもそも青梅に鎌倉時代から勢力を誇った一族で、三田家は青梅に後から室町時代に成って入って来た一族なのですが、面白い事に師岡家・金子家・三田家の全てが青梅市と深い関わりが有る上に、青梅市を含めた多摩地方では今でも平将門公が❝善政を行った❞歴史が語り伝えられており武蔵阿蘇神社も平将門公が熊本の肥後国一之宮阿蘇神社から神様を勧進し開いた神社として知られていたりします。

さて、そこで実は都筑区の長福寺さんも、どうやら青梅市としがらみが有る事が元々の御寺の本寺格だった寶泉寺の名前が新編武蔵風土記稿に書かれている事や、三田領勝沼城代と成った師岡家が関わっている事から解ります。
この長福寺さんは鶴見区下末吉の長谷山 寶泉寺の末寺でした。
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長谷山 寶泉寺この寶泉寺(ほうせんじ)は権現山城の戦いで活躍した間宮彦四郎と思われる間宮信冬公が開いた御寺で信冬公の系図上の曾孫に当たる間宮康俊公が中興しているのですが、中興開山の御住職が東京都青梅市二俣尾の海禅寺から招聘されています。そして旧二俣尾村の海禅寺は元は福禅寺と言う寺名で、戦国時代天正三年(1575年)には天皇家勅願所にも成った凄まじい由緒の有る御寺なんです。
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瑞龍山 福禅寺(現名:海禅寺)
その青梅市一帯を元々治めたのは三田氏でしたが、三田氏は三田綱秀公の代に小田原の北条家を裏切って上杉謙信に付いた為に討伐され福禅寺近くの辛垣山城に立て籠もりますが結局は降伏し、三田綱秀公は旧上司に当たる太田家の岩槻城に抑留された後に切腹する事に成りました。
更に二俣尾村の名主を江戸時代ずっと務めたのが❝福島家❞である事、小机の土地は元は北条幻庵公の所領でしたが、後に福島家から北条家の婿養子に入った北条綱成公の御子息の北条氏繁公が譲り受けている事、その北条氏繁公の祖父の代までの苗字だった福島家が海禅寺一帯の名主を江戸時代を通じて務め支配を行っていた事も風土記に記載が有ります。
福島家の辺りには澤乃井酒造さんと言う御洒落な酒蔵が有り、現代では八王子市界隈の人が奥多摩レジャーに訪れる際の観光地の一つとして有名だったりします。
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澤乃井園(澤乃井酒造)どうも記録に残らない三田綱秀公没後の青梅市界隈の三田領を分割支配した殿様の事を室町時代末期~安土桃山時代頃の様子を江戸時代の記録や現在の状況から推測すると、玉縄北条家の北条氏繁公や、その子の北条氏勝公の所領に青梅市奥部は成っていて横浜市小机辺りに青梅市辺りの武将達が逆に代官として赴任して来ていたかも知れない様子が何となぁ~く想像出来たりします。
因みに青梅市の躑躅(つつじ)の寺として有名な塩船観音さん・・・
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大悲山 観音寺
この御寺の鎌倉時代の支援者が金子家の金子十郎公でした。どうやら金子❝十郎❞は世襲された名前らしいですね。
篠原城代金子家の事は以前、解説記事に書いているので御興味有る方は御覧下さい。
これクリックで記事リンクします⤵
篠原城址と城代金子出雲と上官の北条為昌公。…新幹線の新横浜駅の傍の古城。

さて、そんな感じで横浜市鶴見区~港北区~都筑区辺りの武将や御寺が実は東京都奥多摩地方に深く関わっていた歴史が辿れるのが長福寺サンの歴史から紐解ける訳ですが、最後に長福寺さんや青梅市の人達が敬愛する平将門公が港北区~都筑区に来た証拠が地名として現存している事も紹介して置きます。
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長福寺から茅ヶ崎城址、つまり横浜市営地下鉄センター南駅方面に車を走らせると平台と言う地名が有ります。この地名は平らな台地だったからでは無くて、平将門が来て長福寺に成った熊野社に参篭した歴史から一帯の地名に成った様です。この事を長福寺の御住職から近くに平台と言う地名も有って云々~と教えて頂きました。
長福寺と平台 久良岐のよし
現代では平台と呼ばれる地域は台地の西の端の範囲しか指しませんが、長福寺辺りが❝仲(中)町台❞と地名が有る事から、長福寺背後の丘~現代の平台辺りの広範囲が本来の平台だった事も推測出来ますね。そしてそこには中原街道が通り、その北には矢倉沢往還が走る訳です。
特に矢倉沢往還は古代東海道と分岐して続く陸路だったので、その道は平将門公が生まれる遥かに昔から使われた街道で平安時代にも重要な地域だった事が解かります。

さて…
実は長福寺さん、3年くらい前の記事で紹介する予告してスッカリ放置し忘れてました(笑)!
今回改めて3年分拾い集めたピースを繋げ長福寺さんと熊野社の歴史、平将門公の伝承から意外な東京都まで話が繋がりましたが、きっと皆さんの御近所の神社や御寺サン、御城の跡の山や公園にも意外な歴史偉人との繋がりが有る場所が必ず有ります。そして悩んだ時や気分転換をしたい時、神社や御寺に御参りしたり城跡を散歩して緑を見るだけでも心が落ち着きます。

皆さん、御近所の神社や御寺や城跡を散歩して見ませんか?

では!又、次のブログ記事で御会いしましょう~♪
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先ず最初に御寺の解説よりも先に関東屈指の躑躅(つつじ)の景勝地の青梅市塩船観音こと大悲山観音寺で2018年04月26日現在、見頃で各種の躑躅がいっぺんに見られる最盛期を迎えている事を報告します。
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大悲山 観音寺
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今回、少しだけ御寺の紹介文を書いて、解説記事は金曜日に改めてこの記事をリニューアルする形で書く加えたいと思います。

さて、この観音寺、日本で初代の大僧正である行基大僧正が開いた凄い御寺で御寺の地形が船形の様に窪地なので地域一帯が塩船と呼ばれる様に成ったそうです。
青梅の山奥の御寺なのですが関わった人物は行基大僧正だけでも凄いのですが、実は人魚伝説のモデルでもある八百比丘尼(やおびくに)が住職を務めた時代も在ったと伝わる御寺です。
人魚と言えば昭和生まれは高橋留美子さんの❝人魚の森❞シリーズとか・・・
人魚の森 高橋留美子
・・・平成世代ならルパン三世の❝血の刻印 永遠のマーメイド❞とかで見た事も有る人もいるかな?
一応、近畿地方では若狭国(福井県の西部)が人魚姫と八百比丘尼伝説の舞台ですが、関東にも八百比丘尼が来ていた伝承が有るのが、この塩船観音こと大悲山観音寺なんです。一応、1000年の寿命の内200年を他人に譲って800生きて亡くなった八百比丘尼さんの供養塔か御廟所かは判りませんが塩船観音寺には墓所も存在しています、一般非公開だけどね。
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とっても広い御寺で、修験道の影響も受けた御寺なので神社も在り、更には近代化で破壊されずに奈良時代から続く山寺の雰囲気がすっごく素敵な御寺です。
戦国時代に北条家の家臣として白備え隊小机衆の与力に加えられ新横浜駅裏の篠原城代を任された金子十郎と言う殿様がいるのですが、その御先祖様の方の金子十郎公が平安時代末期~鎌倉時代に支援し、戦国時代には領主は代り勝沼城主の三田(さんだ)氏の庇護を受けた御寺でした。

・・・と、解説を書いていると寝る時間が無くなるし週末の皆さんのレクリエーションの参考に成る様にUPが間に合わなく成るので今回は御寺の雰囲気と開花状況だけ優先的に紹介する為に先ずは御寺と境内の多くの躑躅に囲まれた御堂のとても綺麗な2018年04月21日に撮影した写真を掲載します。

すご~い本当に躑躅が綺麗な御寺なのでゴールデンウイークの小旅行の参考にして下さい!
近くの二俣尾には天皇家の勅願所だった海禅寺さんや、羽村市は縁結びの武蔵阿蘇神社や、あきる野市には延喜式内社で武蔵国二ノ宮だった小川大明神こと二宮神社、秋川渓谷や高月城址の下の秋川ではバーベキューも出来たり圏央道あきる野インターチェンジ近くには東京都で珍しい千代鶴の酒蔵の中村酒造も存在し試飲も出来ますよ。
風景も空気も水も綺麗な奥多摩地方、是非塩船観音寺の躑躅見物と合わせて遊覧されては如何でしょうか?

こっからは写真だけ!最初に躑躅の写真を、後から御寺の参道から本堂までの写真を掲載します!
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・・・では金曜日にこの記事の文章をもっと関わった人物の事とか書き足します。
それと出来たら多目元忠公の記事も第③部を書きたいと思います。














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前回の海禅寺編⤵️
コレ⤴️の続き…
 

海禅寺で御住職への取材と間宮家顕彰文での海禅寺の紹介文の記載の許可を頂いき、三田綱秀公の誠実に生きた生涯について御住職と色々と語り合い、次回の秋の参詣まで暫し御別れの挨拶をして御寺を後にした…
車に乗り込む頃には既に12時を回っており空腹感を強く感じていた。
実は、早朝にセブンイレブンの店員さんから紹介されたドラマ❝相棒のロケ地と成ったカフェ❞や興味の有るレストランが数件有ったのだが、午後13時から車で30分先の阿蘇神社にて熊本復興祈願と被災者生活再建祈願の祈祷をして頂く事に成っていたので 昼食をゆっくり食べる時間は既に無かった。
早朝に海禅寺へ向かって車を走らせている時に気に成った饅頭屋が有ったので、そこで饅頭を買って小腹を満たそうと思い立ち、海禅寺から出発して最初の目的地に 「へそ饅頭本舗」と言う店だ。CIMG3396
御店主に質問した所。この店舗自体は既に65年の歴史が有るそうだ。
青梅市の名物も余り印象が無いので、この御店を見つけた事はとても嬉しい発見だった。
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 この店は箱売りの御土産が店頭に展示してあるが、小売りを注文すると暖かい蒸したての物を提供して下さる。
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 ふわっふわでとても美味しかった!
へそ饅頭の名前の由来は、文字通り❝へそが饅頭に有るから❞みたいだ。
次回、海禅寺の御住職様に会いに行く時は御土産にこれを持参しよう。
車の中でへそ饅頭をパクつき自販機で購入した御茶を飲んで再出発!
隣接市の羽村市、武蔵阿蘇神社を目指した。 
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武蔵阿蘇神社に着くと、平日の水曜日と言う事も有って人は混んでおらず静かな雰囲気だった。
昨年の訪問時はチューリップ祭り開催中の休日だった事、熊本地震で熊本の阿蘇神社の本社が倒壊したが地震での死亡者が極端に少なかった御利益で関東で唯一の羽村市の武蔵阿蘇神社が有名に成り、熊本復興祈願の御参りに来る人やパワースポットとして来る若い参拝客がそれなりに多くいた。
今年は静かで良い(笑)。
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本殿への到着時刻は約束の13時の1分前に到着。あぶねー(笑)。
訪問の目的は熊本で神話の時代から阿蘇神社の大宮司家である阿蘇家の戦国時代の居城、熊本県上益城郡山都(やまと=旧、矢部)町に有った岩尾城に掛かる建築文化財の石橋❝通潤橋❞の名を冠した❝通潤❞と言う御酒を神前に奉納し「阿蘇山の鎮化」「熊本県の復興」「被災者の生活再建」の祈祷をして頂く事だった。
禰宜の宮川さんは小説を読んで小生の到着を待っていて、小生に気が付くと直ぐに拝殿の中に通して下さった。
儀式を一頻(しき)り終えて、御正月に話せなかった禰宜さんから1年ぶりに色々と御話を聞けた。
昨年の熊本地震の後、武蔵阿蘇神社の氏子さんや有志と宮司様禰宜様が復興支援金と阿蘇神社本社の再建資金を熊本に送ったのだが、昨年、熊本の阿蘇神社本社の禰宜さんがわざわざ奥多摩の羽村市武蔵阿蘇神社まで来て下さったそうだ。そして再建の行程が具体化して着手された事や、様々な報告、実際の状況の動画等を見せて下さったそうだ。
羽村市の武蔵阿蘇神社は平安時代に関東で善政を敷いて万民から愛された名将の平将門公が、藤原貴族に讒訴(ざんそ=陰謀で貶められ組織に嘘を報告される事)されて攻め殺されたのだが今でも関東人と生粋の武士の子孫は平将門公を尊敬している。
そんな将門公が結んだ熊本(肥後)と埼玉東京横浜(武蔵国)の縁は今でも深く、こうして武蔵阿蘇神社から義援金が熊本に届けられたりしている訳だ。
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小生も宮川宮司様と禰宜様の義に賛同している者の一人だ。
そんな訳で正月にも参拝に来たのだが、熊本大地震から1年後、又、復興祈願の祈祷を行って頂く為に参上した訳だ。
熊本と多摩郡と小生の住む久良岐郡(横浜)は遠く離れていても、心の距離は平将門公と阿蘇大宮司家が結んで下さった御縁の御蔭で今でも近い。 

さて、上の写真の阿蘇神社の裏手の参道の横には羽根用水と言う灌漑水田への水量管理の機能を有した水路が有る。
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阿蘇神社での用事が終わって先ず見た場所はチューリップ祭りではなくてここだった。
実はこの❝羽根用水は室町時代から存在した用水路の建築遺産❞なのだが、それを知る人は東京都民にも少ない。
玉川上水よりも数百年前から存在している大切な場所だ。 
今年の正月に新年の御挨拶に阿蘇神社を参詣した際、この羽根用水が昨年2016年10月に大雨で多摩川が増水し羽根用水が決壊してしまい、チューリップ祭りが開催される根搦前水田(ねがらみまえすいでん)に供給する水が無くなっていたので非常に心配していたのだが、羽村市役所の方々が努力をされて見事に復旧した様で安心した。 
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 手前の羽根用水が奥多摩から流れ降りて来る多摩川上流の清涼な水を満々と讃えている。用水の向こう側が多摩川だ。
この用水路に沿って歩いていくとチューリップ祭りの会場に辿り着く。
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 このチューリップ祭りの会場は恐らく関東で屈指の広さを誇っている。
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とても綺麗な風景なのだが、実は、この場所も❝途轍(とてつ)もない歴史遺跡❞なのだが、これを知る人も又少ない。
ここは古代から多摩川の自然堤防の内側の湿地帯で、古代から稲作が行われていた場所なのだ。
早ければ❝縄文時代末期から稲作が行われていた可能性の有る場所❞なのだが、これが神奈川県の走水神社の伝承なんかとも合致する。
東京都の多摩地区の教育委員会は文化と歴史遺跡保護に非常に熱心で、文化財保護法の設置を最後まで拒んで多くの文化史跡と歴史史跡を建築利権の為に破壊した神奈川県と横浜市の連中とは大違いで、古い定説に拘らずガンガン発掘調査をするので最先端の意見を持ちガンガン史跡を見つける類の学者さんが多い。
走水神社の伝承では稲作に関わる稲荷神社が既に紀元前から存在しており、自然の湿地帯を利用した稲作が関東では普及していたんじゃないかと氏子さん達に伝承している。そして関東最古の大社格を有する埼玉県久喜市の鷲宮神社でも縄文~弥生時代の遺跡が低湿地に囲まれていた地域と湧水地付近で発掘されている。
神奈川県の博物館の学芸員だけが関東での縄文ないし弥生時代からの稲作の可能性すら否定しているのは「そういう雰囲気が出世と関係ある」のだろうと小生は推測している。
まぁ、そんな訳で、ここは古代の水神としての蛇神信仰から変化し古墳時代位から関東に根付いていた龍神信仰の舞台でもあり、やはり稲作と密接な関係が有ったりする。 
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 だから今も雨乞街道が残っている。根搦前水田の多摩川を挟んだ対岸に昔、丸山と呼ばれた尾根が今もあり、その下には近代の河川改修まで❝淵(ふち=水辺の深み)❞が有ったのだが、そこが龍神信仰と雨乞いの聖地として機能したそうだ。現代では残念ながら治水工事でこの丸山下の淵は消滅した。
延喜式神名帳に載る神奈川県伊勢原市の大山阿夫利神社と別当寺の大山寺の
御祭神も高 (たかおかみ)と言う龍神様が水神として二重の滝と神社の神様として祀(まつ)られている。
そして同じく神奈川県大和市の深見神社も名前からして雨乞いの神様であり、そして御祭神は稲作と関係深い宇迦神(うがじん)=倉稲魂神(うかのみたまのかみ)=御稲荷様だ。
以前ブログでこれらの事は話した事が有るのだが、高尾山も恐らく水神信仰若しくは雨乞いと関係が昔は有った筈だ。
さて、歴史の話はここまでにして、チューリップ祭りの風景に話を戻そう。
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 今年のチューリップ祭りは04月19日に訪問した訳だが、今年の気候のせいか昨年よりも発色が素晴らしかった!
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 どこを見ても何の品種を見ても素晴らしい!
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本当に再訪して良かったと思う。
楽しみもチューリップだけでは無く、屋台が数軒出るので食事も楽しみにしての訪問だった。
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流石奥多摩!屋台に鮎(あゆ)や山女魚(やまめ)の塩焼きも有った。
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しかも鮎は500円、山女魚は600円と安い!もし横浜の懐石料理屋で注文したら1匹1000円以上は確実に取られるだろう。これを見て、川魚とお好み焼きを昼食にする事を即決した。
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鮎も山女魚も皮がパリパリ、炭火でゆっくり焼かれていたので骨までバリバリ食べられた。
美味しかった!尻尾は塩っ辛かったけど(笑)。
お好み焼きは普通の屋台の奴。
でも美味しかった。
チューリップ祭りの行われる根搦前水田には素敵な茶屋も有る。
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今回は訪れなかったが来年また来たい。若しくは秋のあきる野市の秋川渓谷の紅葉と見学と合わせて来ても良いかな?
腹も満足し、チューリップ鑑賞に復帰!
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いや~もう言う事無いでしょ!凄い綺麗!
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来年も又、熊本復興祈願の御参りをチューリップ祭りと合わせて訪問したいなと思う。
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チューリップ祭りの会場を後にして、河川敷の臨時駐車場へ向かう途中、もう一つの重要な史跡を見る事が出来るので写真に収めておいた。
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玉川上水の取水関だ。
実は江戸時代に江戸市民の生活を支えた井戸は全て玉川上水の水だった。
そして全ての水はここから汲み上げられて江戸へ用水路を通じて供給されていた。
この仕組みは戦国時代の関東の覇者だった小田原の北条家が城下町整備の際に作った❝小田原用水❞がモデルに成っていて石工達も小田原から徳川家に雇われて用水路建設に携わった棟梁は小田原の石工として現在もその家が現存している。そして小田原用水は日本史上最初の上水道と言われている。
そして、小生の推測では更に、大河川から用水路を引いて水の内地域へ供給する仕組みは羽村市の羽根用水がモデルに成っているのじゃないかとも推測している。
北条家が用水路を作ったのは北条氏綱公~北条氏康公の頃の話と推測されている。
丁度、その御二人の時期に多摩地方へも北条家が勢力を伸張しているので小生はその様に推測する訳だ。
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伊勢原市の扇谷上杉家の居城、粕屋館周辺にも千石堰用水と言うのが昔から存在するのだが、それは取水口と言う性質の物では無くて小川の流路を限定して流したい方向に水を流すと言った感じで小規模な物だ。
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まぁ、空堀に水を引き込んで湿地にするのが目的なので、大きな水源から水を供給する壮大な設備である必要が伊勢原市の方は無かった訳だ。
そんな訳で羽根用水が室町時代には存在していたのに立派な規模を誇る事は非常に❝凄い❞訳だ。
この歴史を多摩地区の人は玉川上水と一緒に大切にして頂けると後々の財産にも成ると思う。
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可愛い花々を見て、羽村市を後にした。
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あきる野市では先ず最初に「ルピア」と言う商業施設を訪問した。
地元の方から事前に❝ちっとん餅❞と言う御当地スウィーツを教えて貰っていたので、それを購入する為だった。
しかし水曜日は非営業日、あえなく撃沈して大人しく次の目的地へ向かった。
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中村酒造さん。
ここは歴史200年超を誇る酒蔵で、試飲も出来るのだが小生は飲酒の習慣が無く酒其(そ)の物には興味が無いのだが立派な建物や酒造りに興味が有って以前から気に成っていた。
なので、あきる野インターチェンジの近くと言う事も有って帰りに立ち寄った訳だ。

どんな場所かは紹介を別記事に纏めてみた。

コレ⤵️

興味有る方は参考にして貰うと良いと思う。CIMG3472

普段は酒を飲まない小生だが、梅酒だけはたまに飲む。最近は梅の特産地を訪問する度に梅酒を土産に買って帰るのだが中村酒造では変わった梅酒が有り、東京の名酒❝千代鶴❞の原酒に梅を漬け込んだ「梅酒(うめざけ)」なる物を販売していたので、これを母と自分の土産に1本、それと父に清酒千代鶴も購入して帰った。
帰ってから、04月12日に伊勢原市大山で購入した豆腐の味噌漬けと一緒に中村酒造の梅酒を楽しんだ。
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ふむ。
青梅~羽村~あきる野は平将門公や源頼朝公、北条家の武将達と深い関わりの有る土地で歴史散策も楽しく、風景も綺麗で有意義な休日と成った。
平将門公、三田綱秀公、北条氏照公、そして多摩の親切な人々、ありがとうございました!

次の休日雑記は04月22日の海老名市~綾瀬市~藤沢市訪問時の事を書きます。
では又!






 

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前回の辛垣城址編⤵️

これ⤴️の続き・・・


辛垣(からかい)城址の頂上で海禅寺の御住職に「10時位の到着に成ります」と連絡をして、城山を降りて御寺に向かった。
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海禅寺は現代では参道がJR青梅線に分断されている。
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こう言った事は良く有る事で、鎌倉でも臨済宗鎌倉五山第二位の格式を持つ円覚寺や、坂東平氏の祖先を祀る御霊神社の総本社である鎌倉坂の下の御霊神社も同じ様に江ノ電が参道を横断している。
まぁ御寺や神社の境内地は昔は広大だったので、明治~昭和初期にかけて鉄道開発をする際に線路を敷設しやすかったので政府に土地を接収されてしまう事が多かった様だ。
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だから昔の山門は場所を移して、現在は中央線の踏切に成ってしまった参道の左手に移設して現存している。
「不許葷酒入山門(酒を帯びて境内に入っちゃダメ)」
ふむ、禅宗寺院の昔の厳格さを忍ばせる石碑だ。
まぁ、今は禅宗寺院でも御酒を飲む和尚さんばっかだけどね。
小生は現代人の庶民だが「(酒を)飲む」「(博打を)打つ」「(女を)買う」を一切しないので、ある意味では仏様に好かれるのかも知れない。神様にもいつも礼拝しているし、神様にも好かれると思う。
じゃないと小生の様に仕事徹夜空けで遠征ドライブし山登りまくって、性格も喧嘩っ早いのに無事でいられたり過去8回ひき逃げや交通事故に遭って掠り傷だけで済んだりしないだろう。
でも幼少期にハチャメチャ過ぎて手を2回骨折してるし、医療技術の発達してなかった時代なら障害者に成ってたね。
まぁ~神様や仏様や尊敬する偉人と、幼少期に可愛がってくださった恩人や御先祖、友人達と御医者様に感謝しないといけない。
そもそも、今生きているのも北条綱成公の御蔭だし。
そんな訳で北条綱成公の顕彰活動を始め、家老の間宮家の顕彰活動も始め、その間宮家と関係が深い海禅寺サンに横浜から御参り&御住職様に取材に来た訳だ。
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海禅寺は三田氏の菩提寺とだけ伝わるが、それは曹洞宗の寺院として再興されて以降の歴史しか現代に伝わっていないからだろう。曹洞宗は荒廃したり戦火で消えた御寺を北条家の支援で多く曹洞宗寺院として復興(再開基)しているのだが、何せ一度消えた御寺を復興してる場所だらけで、それ以前の歴史が伝わらない場所は多い。
海禅寺も実際は天正三年(1575年)に天皇家の勅願所に定められている格式の“状況”から言って、昔、荒廃してしまった格式の高い前身寺院が必ず存在していたはずだ。
実はこのヒントが神奈川県横浜市と新編武蔵風土記稿に残されていて、その話も御住職に確認したかった。
例えば、この謎を解く例を挙げると…
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上の写真は神奈川県藤沢市大庭に存在する曹洞宗の宗賢院。
この御寺は詳しい歴史は戦国時代の復興以後の事しか解らない。しかしながら源頼朝公の御父君、源義朝(よしとも)公の重臣だった大庭景義公と弟の大庭景親公の居城だった大庭城址に近在し、更には大庭景親公が陣中で使用していた釜が寺宝として現存する。つまり平安時代末期には前身寺院が存在していたはずだ。
加えて延喜式内社の神社である大庭神社舊(きゅう=旧)跡の熊野神社が近くに存在する事から鎌倉時代は大庭神社別当寺(べっとうじ=神社を守る為の御寺)だった可能性が非常に高い。
この熊野神社が大庭神社の旧址だと言う事は江戸時代の人々にも認識されており、それは相模国五之宮であり古代の一之宮だった有鹿神社と、今の一之宮の寒川神社に証拠が残っている。
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江戸時代の相模国延喜式内社を網羅した掛軸、これは寒川神社の当時の宮司が書いた物だが大庭社熊埜天神と書かれている。熊野神社に成っているのは大庭神社旧跡、菅原道真公を江戸時代に習合しているのが現在の大庭神社本宮、つまり両方の名を合わせた大庭社熊埜天神と記載されている訳だ。
格の高い神社の傍には別当寺が必ず存在しているものなのだが、熊野社に成っている大庭神社旧跡の別当は室町以後~現代でこそ本宮の方と同じ別当寺だが位置的に不自然きわまりない。昔は宗賢院の前身寺院が旧跡の別当だったはずだ。
極め付きは宗賢院の寺紋(じもん=御寺の家紋みたいな物)が太田桔梗、そして山号が蟠龍山である事だ。
昭和初期までの神奈川県民と県役人達の認識でも、伝承や状況証拠でも大庭城は室町時代のある時代、永享の乱の頃まで扇谷上杉家の本拠地だった様だ。
戦国時代の扇谷上杉家は武蔵国に勢力を誇ったが、元々は武蔵国南部は宅間上杉家の支配地だった。
そして扇谷上杉家の家老だったのが太田家だ。
太田家の一番有名な太田道灌公の菩提寺は神奈川県伊勢原市の“蟠龍山”洞昌院公所寺なのだが、山号が同じで、やはり太田家から使用を許された太田家の家紋の太田桔梗を寺紋にしている。
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だから公所寺の本堂にも宗賢院と同じ太田桔梗紋が彫刻されている。
これ等の事は宗賢院が大庭城主扇谷上杉家の家宰(かさい=社長代理みたいなもの)だった太田家と関わりが深かった事を知る十分な状況証拠に成っている。
そもそも曹洞宗が明治政府の神仏分離令まで日本神話や聖地を大切にしていた歴史その物がある訳で宗賢院も曹洞宗な訳だから大庭神社の事も関係が有って当たり前なのだが、残念ながら昔は和尚様達は世襲制では無く宗派の有力寺院から派遣されて来ていたので歴史が全て正確に伝わる訳も無いし、そもそも曹洞宗が復興した場所は全部廃寺に成っていた場所ばかり。
だから以前の事は解らず、曹洞宗に成ってからの記録しか御寺自体には伝わっていない事が多い。
そして海禅寺も開基されて100年足らずで唐突に❝天皇家の勅願寺❞や❝10万石の格式❞に成れる訳が無いので必ず格式高い全身寺院か神道や修験道の聖地が有った筈(はず)なのだ。
まぁ、そんな訳で「グチャグチャ文献だけ読んでても良く解んねぇ~し仕方ねぇ~な(笑)」と言うのが小生のスタンスなので、自分で実際に毎回取材に行く訳だ。
すると神社も御寺も歴史史跡も、文献には載っていない事が多く口伝や証拠が伝わっていたりするんだなコレが。

話を海禅寺に戻す。
海禅寺はそもそも福禅寺と言う名前だった。
江戸幕府の役人がド阿呆で、幕府の寺に対する領地保証書を発行する際に❝海禅寺❞と書き間違えてしまったので、土地の権利を守る為に仕方なく当時の御住職は海禅寺の名に寺名を改めるしか無かった。
役人が別寺院宛ての文書を誤って発給したか、教養が無くて寺名を書いた資料の草書体を読めず間違えて福を海にしたかは今では良く解らない。
実は幕府を開いた直後に三河、遠州から来た徳川家官僚には、この手のミスが多い。
…と言うか、恐らくいつの時代も官僚の中に適当な奴がいる。小生の様に趣味でやってるブログでは無くて仕事なのに校閲もせず適当に仕事をして、色んな文書の元号や武将の名前や法名を書き間違えている事が多い。
しかし被害者が幕府に抗議すれば、それがたちどころに官僚は己のミスを隠して被害者側を❝謀反人❞扱いして武士なら所領、寺なら寺領、神社なら社領を没収されてしまう訳だ。
海禅寺と関わり深かった横浜の間宮家の間宮康俊公も恐らく幕府によって戒名を誤って認識されて、間宮家側が❝忖度(そんたく)❞して家系図を補修しなくてはいけなくなっていたりする。
まぁ、しかし海禅寺自体は格式高いだけでなく、昔から風流な寺として有名だったようだ。
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室町時代から花の寺として有名だった海禅寺、新編武蔵風土記稿の多摩郡三田領二股尾村に掲載されているが、風土記は「歴史の目次」みたいな物なので詳しくは掲載されていない。
こう言った郷土史調査は「他都市からの移住者で“横浜=近代”の先入観しか無い精神的カッぺが職員ばかりの横浜市教育委員会と横浜市歴代市長の中で左派思想の人物は文化財保護法の設置を最後まで拒んでいた建設利権に癒着した無文化で使えない連中」なのだが、他の自治体は郷土の人が職員に成るので青梅市の様に盛んに調査、保護が行われている。
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訪問時は4月下旬で既に桜は散っていたが、辛垣山城址登山前に踏切で小学生の交通整理をしてらっしゃった駐在所の御巡りさんと雑談した所、境内は桜が多く現代でも「花の寺」として有名だそうだ。
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山門も素晴らしい。もしかしたら構造的に仁王門にする心算だったのか?
本当に立派な楼門だ。
丁度、幼稚園の先生と園児達が鬼ごっこをしていて遊んでいた。
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可愛らしい光景に思わず顔がデレてしまった(笑)。
こんな良い環境で育った子供達は、きっと素直で優しい大人に成るんだろうなぁ~。
間違っても小生の様に「史跡不保護無文化市長」とか「無能な横浜市教育委員会」とか事実とは言え悪態を吐く自分の価値を貶める心の狭い発言をする人間には育たないだろう(笑)。
皆すくすく、優しい子に育ってねぇ~♪
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山門の脇には鐘楼が有った。こちらも立派だった。
屋根の構造を見るに昔は茅葺屋根だったんだろうと思う。
茅葺屋根は高級で保持には費用が嵩(かさ)むので、現代では御覧の様に銅葺きや瓦葺きに吹き替えている場所も多い。
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この説明文では三田家の中興と有るが、この規模の寺院は必ず元々は主家であった扇谷上杉家の支援の下で三田家が復興を果たしているはずだ。
そして戦国時代には北条家が必ず復興している筈だ。元:三田家臣何某だけで再興できる規模でも無ければ格の高い住職を招ける訳も無い。
歴史の解説の前に施設の紹介を進めよう。
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境内からの景色は良い。楼門と花々越しに青梅の山脈(やまなみ)が見えた。
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本堂も大きい。
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玉縄北条家の菩提寺龍寶寺や初期の北条家において神奈川領をまとめた間宮家の菩提寺の寶泉寺や宗三寺と同規模を誇っている。
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つまり軍団長レベルの部将でないと建てれない規模の御堂だ。
この規模の堂宇を一、三田家臣が復興出来る訳が無い。絶対に北条家の支援が入っている。
そして、先述の通り、戦国時代に天皇家の勅願所に成る時点で前身寺院が途轍もなく格式が高かった筈だ。これは後で前身寺院の推測を紹介する。
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境内には凄く立派な枝垂れ桜も有った。きっと桜の季節には見事な景色に成るだろう。
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境内の谷戸そこかしこ、本当に花が多かった。
素敵な御寺だ。

御住職に面会すると本堂に通され、色々と御寺の歴史にういて御教授頂いたり小生の推論を述べたり、地図を見て周辺を歩き、御近所の旧家についてや地形的な事等々、気に成った事を質問させて頂いたりした。
その御住職様とのやりとりを踏まえて小生の推論と合せて三田家と海禅寺の歴史を紹介しようと思う。

海禅寺はそもそも「福禅寺」と言う名前の寺院だった。
まぁ…既に御寺の旧名自体が前フリでネタバレなんだが。
それは後に説明するとして、御寺の主な檀家は三田家だった。
三田家の治める当時の青梅を含めた多摩地方は扇谷上杉家の与力衆の武将達の土地だった。
しかし天文十五年(1546年)の河越夜戦で三田家の旧主の扇谷上杉家が北条家によって滅亡させられると、その後は暫く八王子の高月城主大石家同様に北条家に臣従していた。
永禄四年(1561年)に杉謙信(当時の名は長尾景虎)の連合軍勢10万が北条攻めを敢行した際に、元々扇谷上杉家臣でもあった事も有り北条家を離脱して上杉謙信に寝返った様だ。なので上杉家与力衆の名を記した“関東幕注文”にも記載されている。
そして上杉謙信が小田原攻めに失敗して北条家の逆襲が始まる。
多くの多摩地方の武将は善政を布(し)く北条家に臣従していたし、一度、上杉謙信の大軍に恐れを成して北条家を裏切った成田家や千葉家の武将達も再び北条家に与力していた。
しかし、三田家の当時の当主の三田綱秀公は義理堅い人物だった様で、一度自分で謙信に付いてからはずっと謙信の援軍到来を信じて北条勢に頑強に抵抗した。
永禄六年(1563年)、とうとう北条家当主の北条氏康公の子で滝山城主の北条氏照公の軍勢が北条家から見て裏切り者の三田綱秀公の居城、勝沼城を攻めた。
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※写真は勝沼城址から見た青梅市の風景。2016年撮影。
すると勝沼城は小規模で鉄砲攻撃を受けた際の防衛にも耐えれないと判断し、辛垣山城へ兵を引いて籠城したそうだ。
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辛垣城は中世的な山城に北条家の築城術が加わっているので、三田家北条家臣時代に北条家による改修が入っていると考えられる。
後で和尚様に小生の推論を述べた時に「その通り」と太鼓判を頂いたのだが、今の登山道の入口辺りで激戦が展開されたそうだ。
しかし敗戦を悟ったのか三田綱秀公は子供の事を家臣団に託して、青梅の伝承では「北条家と一戦する為に埼玉県の岩槻城の太田家を頼って落ち延びて、そこで切腹した」そうだ。
だが、この話は少しおかしい。
1563年当時、太田家は上杉派の太田資正(すけまさ)公は北条派の嫡男の太田氏資公が対立しており頼れる状況ではない。
三田綱秀公は1563年に岩槻城で切腹したとされている。つまり、方針も決まっていない太田家が切腹させた事に成ってしまう。ましてや綱秀公が太田家を頼る筈が無い訳だ。仮に頼ったとしたら死亡年は実際は1564年だった筈だ。そして、家臣団と三田綱秀公の御子息達は開城後も全員生きている。
状況を整理する。
三田綱秀公は上杉謙信の大軍を見て上杉に付いた。しかし上杉謙信は小田原に攻め上がるまで多摩地方を含め東京や神奈川で略奪放火を行い多くの神社仏閣を焼き払い、婦女子を捕まえては上杉の軍兵が犯しまわり奴隷として売買した。常陸国の小田城下で上杉謙信は奴隷公設市場を開いたりしている鬼畜、不義の人だ。北条家でこういった事は無い。
北条家の統治と比べ、そんな上杉軍の無軌道な状況を快(こころよ)く思わない三田家臣団も多かっただろう。
そして己の判断ミスで三田家家臣団や農民達が今度は北条家から逆襲される羽目に遭った。
三田綱秀公は誠実な人柄だった様なので、旧主扇谷上杉の更に主家の上杉家を継いだ上杉謙信に味方した後はずっと上杉家に付いていた。しかし統治能力も無く関東で乱暴狼藉を繰り返した上杉勢にも疑問も感じただろう。結果的に上杉家は関東を支配する事に完全に失敗し瞬く間に北条家の逆襲が始まった訳だ。
三田綱秀公は家臣や兵士として徴用した農民が北条家から殲滅される事を回避しようとしたのだろう。
だから家臣に子を預け、北条家と交渉し、家臣団と兵として徴用した農民達の生命の安全保証の条件として“引き換えに自らの城の退去そして切腹”が北条家と確約されたのではないだろうか。
そして太田家を頼ったのではなく、1563年当時は北条家にも上杉家にも両属していた中途半端な太田家預かりと成り、1564年に第二次国府台合戦で再び太田資正公が北条家に背いて結果的に御子息で親北条派の太田氏資公に追放された時点で正式に切腹をしたのではないだろうかと思う。
同年、三田綱秀公の御子息も全員亡くなっている。恐らく、三田家旧臣領民の生命安堵の条件だった北条家と不戦の約定を太田資正公が破って国府台合戦に参戦したからだろう。
でなければ三田家臣団が悉(ことごと)く生き残り、更には徳川幕府にも仕えた状況は成立しない。
辛垣城開城後、三田家臣団は三田綱秀公の誠実な領主としての対応と引き換えに北条家に属していた筈だ。
そして、御巡りさんや御住職に聞いて回った所、やはり北条家に三田領が属した名残を二俣尾で発見した。
二俣尾には「福島家住宅」と言う江戸時代を通じて名主を務めた家がある。
東京都の有形文化財指定を受けている住宅だ。
福島家住宅 公式様より拝借 久良岐のよし
※画像は公式ホームページより拝借。
この福島と言うのは、武蔵国出身で黄備え隊玉縄衆の軍団長を務めた北条綱成公の旧姓だ。
北条綱成公の弟君は福島弁千代として有名な後の北条綱房公だ。
この北条綱房公の足跡が1549年以後確認できる資料が無いそうだが、北条家では統治が行き届き戦火に巻き込まれなくなった地方の事が文献に登場しない事は良く有る。
例えば神奈川県の伊勢原市周辺もそうで岡崎城や北条一族の神保輝廣公の事、藤沢市の大庭城の事も良く判らなくなる。登場しないだけで、無かった訳では無いのだが学者は記録に残らない事を事実としても書けないので推論も書かない。しかし小生は学者で無くて、たまに学者に論戦で勝つ事も有る只の歴史マニアなので自由に書かせてもらえる。飯のタネじゃないからね、逆に学者さんが言いたくても言えない事も言っちゃう訳だ。
恐らく、北条綱房公は三田領の二俣尾、辛垣城周辺の統治に入っている。
そして北条家滅亡後は福島姓に復帰している。
玉縄北条家は奸臣堀内家により事実上の権力乗っ取りが行われ、江戸い時代には保科家から養子が入り北条綱成公の親族は駆逐されている。その際に福島家は奸臣堀内家の陰謀を逃れて旧知の人の多い二俣尾に逃れて来たのではないだろうか。
実は立川市柴崎町周辺は元々は福島と言う地名だった。つまり、福島姓のルーツのはずだ。
そして福島家は遠州堀内今川家の家来で後に扇谷上杉家を頼っていた一族のはずだ。
実は、那古野城、今の名古屋城は織田家以前は遠州今川家の城だった。織田に城を盗られて今川領に逃げて行ったのだが、その時に福島家も逃げたのだろう。更に堀内今川家は本家の今川義元と対立する。
その際に負けるのだが、福島家は恐らく旧主“遠州”堀内今川家と関係の有る扇谷上杉や北条を頼ったはずだ。だから、今も扇谷上杉家の最後の居城だった川越市には今も福島姓が多い。
実は戦国時代の覇者と成った豊臣秀吉の甥の福島正則公は青年期まで駿河や伊豆の国境の深沢城の城代を務め伊豆と駿河東部の守備を担っていた北条(福島)綱成公を頼って一時的に駿河国に行っていた事が菩提寺の愛知県の菊泉院に伝わっている。
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これも菊泉院の御住職様を訪問し、直接御教授頂いた歴史秘話だ。
秀吉は織田信長公に軍団長に抜擢され信長公の子を養子にとる「家格」が有ったはずだ。
そのヒントが福島正則公の話だろう。
恐らく、木下秀吉の実父は尾張国愛知郡中村の名主と伝わるが旧那古野城主の堀内今川家の旧臣だったんじゃないだろうか。そして福島正則公も。そして北条綱成公の実家の福島家も。
福島を櫛間と書くとか一部の学者は当字の表記に拘るが、実際、武将の名前も音だけ同じで違う文字を当てる事は文書中に良く有るので、そこは幅を持たせておけばいい。
とにかく、秀吉が織田家に仕える以前に今川家重臣松下家に仕える事が出来たり、後に信長公の実子を養子に迎える事が出来たり軍団長に成れるのは実力が有っても絶対に家格がそれなりに無ければ無理。
状況を見れば那古野城主今川家の旧臣、那古野の今川家の没落後に秀吉の実家は帰農、そして秀吉本人は今川家のつてを頼って松下家に仕え、福島正則公は同族で駿河東部の経略を担当していた北条綱成公を頼って駿河に赴き、❝福島伊豆守❞に保護されていた歴史等すべての話は小生の推測通りなら自然に繋がる。
因みに、福島伊豆守は恐らく「伊豆方面に居た北条綱成公の実弟、福島伊賀守勝広」こと北条綱房公の事だろう。

もっとも…この青梅市の福島家の家系図では祖先は鎌倉時代まで遡(さかのぼ)れる生粋の武士で家系は源氏系に成っている。
しかし一般的に学者達の間では三田家と同じ坂東平氏の子孫、若しくは古代に神奈川県中央北部~北東部~東京都多摩地方に戦力を持っていた小野家(小野妹子の子孫)である武蔵七党じゃないかとする説が一般的だ。
青梅市教育委員会様の郷土博物館様にも御教授頂いたのだが、正直、江戸幕府に成ってからも家名を残した三田家ですら祖先の事は時代時代で色々と説が有るし、家紋も時代ごとに使い分けているので良く解らないそうだ。
まぁ、ここら辺りは小生の様な考え方も有るんじゃない?と言う可能性を残す事しか出来ないし学者さんも同じレベルで話してる程度の人が多い。
黒田基樹先生なんかは色々と資料を探し漁っている様だが、やはり完全な証拠は残ってないようだ。

歴史は紙で残っている事だけが全てではない。しかし、学者は仕事なのでそうも行かない。出典を明記しないと他の学者から❝イジメ❞に遭うからだ。
小生はガクシャセンセイでは無いので学者の利権を犯す立場にない。
だから自由に発言を出来るし、本当は学者さんが心の中で思ってる事を聞き出して代わりに言ってあげる事も出来るし、自分で文書に残らない各地の伝承を見たり教えてもらって廻りパズルの様に繋げ合わせて一つにして状況証拠で、こうやってブログに書く事も自由に出来る。
だからこそ利権と関係の無い小生は、金銭と関係なく思いだけで行動しているので色々な御住職様や宮司様達に気に入って頂けて学者も見た事ない文献や宝物を見せて頂いたり話を教えて頂いたける。
これはありがたい事だ。
さて、そんな訳で、恐らく尾張の福島はも北条綱成公の御一族と無関係では無いと思うのだが…
何でこの話をしたかと言えば、武将の話の様に御寺にも他の御寺や神社との❝血縁❞みたいな物が有って、それは必ずしも文章に残っているものだけでなく伝承も拾わないといけないと言う実例を挙げる為だ。
海禅寺は昔は福禅寺と言う名だったが…
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恐らく前身寺院が横浜市森浅間神社と同じだ。
森浅間神社の前身は鎌倉の扇谷に在った修験道の大道場だった❝福禅寺❞権現堂だ。
そして鎌倉時代の歴代の住職は歴代天皇の皇子つまり❝親王殿下❞が務めた訳だ。
恐らく、鎌倉で新田義貞の乱暴狼藉が有って福禅寺が焼けた際に寺の機能は青梅市に移転したのだろう。そして聖地道場としての機能は福禅寺の飛び地境内として存在した権現堂家の管理する浅間権現や天照大神宮で存続した。久良岐郡つまり今の横浜の磯子区森浅間神社や港南区港南に在る天照大神宮の遷座前の場所だ。これらを管理する権現堂松本家は間宮家から下賜された家紋を現在も使用している。
一方、恐らく青梅の福禅寺も前身は修験道福禅寺で永享の乱の頃に廃寺状態に成り後に三田家によって曹洞宗寺院として再興されたはずだ。
そして横浜の間宮家菩提寺と成った鶴見区下末吉の寶泉寺を開く際に、間宮家によって青梅の福禅寺の住職が招かれた記録が残る。だから遠く離れた横浜市の寶泉寺は青梅市の海禅寺の末寺だったりする。
戦国時代、再び三田家と北条家の合戦で再び燃え落ち、恐らく北条家の発願と支援を受けた旧三田家臣団により境内に立派な伽藍堂宇が復興され1575年には天皇勅願所に成る程に勢いを取り戻した。
しかし北条家が豊臣秀吉の小田原攻めで滅亡すると、徳川家のアホ役人が寺の領地の保証書の名前を書き間違えたせいで現在の寺名を使わなければいけなくなってしまったが、10万石格の格式だけは受け継がれた。
森浅間神社地形
この様に状況を纏めると前身寺院は推測だが格式から言って鎌倉の源頼朝公が開いた、その名も「福禅寺」と言う歴代住職を天皇の皇子である親王が勤めた関東の修験道の大本山とも言うべき大道場だ。
しかし、新田義貞の兵火に遭い鎌倉福禅寺は消滅している。
更に室町時代には完全に森浅間神社に機能移転して管理する権現堂松本家だけが横浜市に残った。
恐らく、福禅寺は焼けた際に兵火を逃れて青梅市で扇谷上杉家によって永享の乱以後に復興されたのかもしれない。
そして青梅の海禅寺の隣には…
同じく鎌倉の修験道の大本山だった山崎泉蔵院と同じ寺名の現在は真言宗の泉蔵院も在る。
…この 両方の寺は格の高さに反比例して中興開基より昔の事が戦火と火災や諸般の事情で伝わっていない。
山崎地区
…その鎌倉時代には鎌倉市山崎に有った泉蔵院も、室町時代には久良岐郡森村、今の横浜市磯子区中原に保有していた熊野社の道場に機能移転した。
泉蔵院(熊野神社)の地形 久良岐のよし
そして大霊山泉蔵院桐谷寺と名を一部改めたが、明治時代の神仏分離令廃仏毀釈の仏教弾圧で修験道の大道場だったのを寺院機能を廃止して泉蔵院の名を捨てさせられ、ただの熊野神社に成ってしまった。
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しかし当時の宮司の気転で、神殿の一つとして❝泉蔵社❞として残され、源頼朝公に繋がる歴史が残された。
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まぁ、そんなこんなで青梅の海禅寺や泉蔵院は由緒有る御寺のはずだが、格が高い事は江戸時代の記録でも間違いない。
ただ、その格の高さは小生の説を用いないと説明が出来ない。
参考までに以前、森浅間神社と泉蔵院の解説をした記事リンクを貼っておく。

また、何か解れば追加報告を書きたい。

取り合えず、御住職と面会を果たし色々話を聞けて御礼を申し上げて海禅寺を後にし、次の目的地の阿蘇神社を目指す事にした・・・

③へそ饅頭本舗~阿蘇神社~チューリップ祭り~中村酒造編に続く⤵️


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昨日は休日。
故(ゆえ)有り、自宅から84km先の羽村市まで行くので徹夜で仕事から帰宅後、寝ませんでした。
布団で寝たら確実に夕方まで起きないからね。
風呂に入り準備をして、AM:7:00頃に車に乗り家を出発。
昨日は、1日中運転しないといけない予定を組んであった。
訪問地
これは結果的に廻った所。本当はこれに今井城が加わり、根搦前水田のチューリップ祭は予定外だった。
寝ずに出発したものの、やはり眠気が来たので、事故起こさない様に2時間海老名SAで車中仮眠、これは予定通り。車の中なら寝過ぎないからね。


主要目的は羽村市の阿蘇神社。
関東で唯一の熊本の阿蘇神社の分社に行き祖先神に熊本県の地震被災民と熊本の産業の復興を祈願する為に、御神酒として御使用頂く熊本の地酒を奉納しに行きたかったので、数日前にアポをとっておいた。
ついでに延喜式内社の二宮小河神社も参詣し羽村市郷土博物館と今井城址と勝沼城址も見学してくる予定も組んであった。

阿蘇神社・・・

熊本県の復興の為に御金は送るのとは別途、精神的にも何かしておきたかった。
他に、圏央道のあきる野IC近く、阿蘇神社周辺で改めて写真を撮影したい場所をいくつかピックアップしておいた。
2016年4月23日訪問先
そして訪問先に選んだのが…
二宮小川神社(延喜式内社)→高月城址→羽村市郷土博物館→阿蘇神社→今井城址→勝沼城址
…だった。
いつも、どっか訪問先を決めると取りあえず周辺も効率的に訪問できる様にしているのだが、訪問時間は事前に計算した上で、ギリギリ回り切れるかどうかの件数をコースに盛り込んで、まぁ~回り切れなくてもOKとしている。
神社や寺院の場合は普通の規模なら30分程度の見学時間を確保…
小さ目の博物館の場合は1時間程度。
そこそこの博物館、一般的な規模の城址、それと大きな神社と寺院の場合は1.5~2.0時間の見学時間が必要…
滝山城址や大山阿夫利神社の様に山全体が史跡の場所の時は少なくとも3~4時間はかかってしまう。
今回の訪問地はGoogleEarthで事前に見ても、時間がかかりそうな場所は羽村市郷土博物館と高月城の各1時間ちょいと、阿蘇神社の宮司様訪問の時間だったので、全ての訪問先と現地移動時間を足しても6時間程度を見込んでいた。

そこで冒頭の寝ずの出発に成った訳で…
朝の4時過ぎに徹夜明けで帰宅すると、風呂入ったりしていると6時過ぎに成る。仮にそこから寝ると絶対に昼まで起きず12時過ぎてしまう。そこから横浜を出発して八王子の先まで行くと、それだけで最短距離の訪問先到着にも2時間はかかってしまい14時到着では、予定を半分もこなせないのは目に見えていたので…
●先(ま)ずは入浴して準備をして直ぐに出発
●朝の東名高速海老名SAで車中仮眠(これなら寝すぎない)
→以下順路+α、現地で気に成った場所を回る事にした。
…で、海老名SAで朝8時前後~10時位まで車中泊(仮眠)。DSC_0946
その後、朝食。
1ヵ月に1回は来ているのに、いつもは名物のメロンパンかけんちん汁、もしくは屋台で済ませていたのだけど、以前から気には成っていた店が・・・
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海老名SAは製菓企業のカルビーがファストフードの店を出店している。
今まで食べた事無かったので食べてみた。
意外に美味しかった…と、言っても料理としてじゃなくて子供が喜びそうな味と言う事で。
まぁ、悪くは無いので是非お試しあれ…
食べきれなかったので、ポテチとアボガドのバーガーは昼食にとって置く事にした。

あきる野IC出口の観光案内所からの眺望が既にのどかで綺麗だったのだが…。
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あきる野ICで圏央道を降りて二宮神社に向けて続く道が既に滝山街道と言う道で、武田信玄が軍勢率いて関東に略奪に来る時に使う道だった。
江戸時代には甲州街道に続く街道として栄えた道なので、渋滞中に撮影した風景はやはり江戸時代の街道の風景そのものだった。

…で、二宮神社に到着する。
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あきる野市は湧水多くて水が綺麗な場所だ。

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二宮神社は明治時代に成るまで小川大明神と呼ばれた場所だが、それは古代縄文~弥生時代に井戸を掘る技術が無かったので、安全な湧水池が聖地として大切にされたのだろ。それ故に武蔵国二之宮の二宮小川神社の名が、小川郷の地名に成ったのだと思う。
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残念ながら、関東の延喜式内社は伊勢系統の神様と関係の無い場所が多いので、明治時代の国家神道成立以来、宮司様御不在の場所が多い。こちらも月2回しか御朱印頂けないので、今回はタイミングが合わなかった。
→車で10分移動し高月城へ移動。
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…城好きには有名な目印。高月城の目標は城址公園の看板などではなく、❝愛の城❞ホテル高月城の看板が建っています。
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マークした舌状丘陵全体が高月城の址。
ここはネットに城址としての遺構が少ないとか書いてる阿呆が多いけれど、実際には堀底道がラブホと背後の城址の間の道として現在も利用されている上に、背後の城址部分にも堀切や腰曲輪群がちゃんと残っている。
整備したら良い城址公園に成るレベル。
その城址の近くには西暦900年代に造営された古刹圓通寺が在る。
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ここの御住職に昔の末寺が沢山あった事とか、地域の事を少し御教授して頂いた。非常に親切な御住職様だった。滝山地区や高月城下の鎮護の御寺として民百姓の崇敬を集めた場所なのだろう。
御寺の位置的にも、高月城主や武将達の崇敬を集めたはずで、よくある城址の近くの重要な位置に在る鬼門鎮護の役割も果たしていたと思う。高月城址の東側、秋川の渡河地点近くだしね。
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その秋川は水が凄く澄んでいて綺麗でした。
その秋川越しに見る高月城(左側)と周辺の風景も凄く綺麗です。
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高月城と秋川を挟んだ対岸は、この季節BBQ施設に成っているようでした。
秋川から望む高月城址の逸話に「前庭に高閣あり、矢倉などを相かねて侍けるにや、遠景すぐれて数千里の江山眼の前に盡ぬとおもおゆ」と京都の聖護院(南禅寺近く)の門跡だった藤原氏出身の僧侶道興が、高月城から見た風景を記録している。
もっとも、これが高月城かは名前が明記されていないので確証は無いとされていますが、地元の人はこれが高月城と今でも伝承しています。

→羽村市郷土博物館に移動。

羽村市も田舎だぞ!すんごい風景の綺麗な田舎。
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羽村市は実は江戸時代の玉川上水の水の取水堰が築かれた町で、羽村市郷土資料館は如何にしてこの町から江戸の町まで水を供給したか、この町の重要さが解る場所だった。
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江戸の町を支えた井戸水も全て、この用水から流れる水を貯水したもので、つまり、羽村が江戸の発展を支えた場所って事が解るんだな。
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ついでに、館内庭に移築された国指定重要文化財の古民家下田家住宅の囲炉裏で沢山焚き火の煙を浴びて良い気分♪
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あと、徳川親藩と関連深い江戸時代の医者の御屋敷の赤門もある。
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藤の花も綺麗だった…
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そこから阿蘇神社に向けて移動…
する途中で、道路に❝チューリップ祭り❞の看板が出ていたので無性に気に成り訪問。
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めっちゃ綺麗だった!この御祭りの存在を知らなかったのだけれども、来年も見に来たいと思いました。
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必ず来よう。日野自動車とかCACIOサンとか、羽村市周辺に工場を持つ企業も協賛しているようだ。
羽村市周辺 久良岐のよし
この場所は❝根搦前水田❞と言う場所らしい。
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因(ちな)みに、この場所を通る街道が雨乞い街道と言って旱魃(かんばつ)の続いた時に、丸山(城跡か古墳か?)下にある淵(ふち=水深が深い場所)で神事を行う為の巡礼の街道だった様です。
阿蘇神社や羽村市郷土博物館からも近い。河川敷に近く、奥多摩街道の在る河岸段丘の一段下の段丘面に在るので見落としがちだけれど、是非、多くの人に見て貰いたい場所だと思う。
そんな訳で、阿蘇神社はチューリップ祭の会場から徒歩でも行ける距離だった。
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藤原氏によって逆賊として謀反を捏造された名将、平将門公が肥後国の阿蘇神社から御分霊を勧進されて造営された神社だ。
今回の訪問は、熊本復興祈願として御神酒に熊本の酒を奉納したくて事前にその旨、御連絡差し上げて訪問した。
25日、神社本庁の指示で日本全国の神社の月例祭で熊本の復興祈願と地震鎮静の祝詞(のりと)が唱えられる。その際に熊本の御酒を阿蘇神社の建磐龍神様に御供えして頂きたくて、持参した。DSC_1123
宮川宮司様と禰宜職宮川様は親子でらっしゃいます。
とても親切にして下さって、小生の参拝に復興祈願の祈祷までして下さいました。
そして宮川と聞いて気に成っていた宮司様の姓…
新選組の近藤さんの実家は宮川姓で、近藤さんの御兄さんの御子孫宮川家は今も天然理心流の先生なのだが、天然理心流宮川先生と阿蘇神社の宮川宮司は年齢こそ離れているものの何となく声も外見も似ていた。
もしかしたら多摩地区の宮川繋がりで遠い昔、元々は御一族だったんだろうか?
熊本の復興が成るまで、毎年、参拝に来ようと思う。

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この阿蘇神社の川岸側には、羽村市郷土博物館で見た羽根用水の一部が今も現存し今も綺麗な水が引き込まれている。
来年の正月と、チューリップ祭りの季節には又御参りに来よう。
→この時点で既に17時近く日没まで1時間ちょい。チューリップ祭りで30分前後費やしたから、残る目的地の青梅地区の今井城址か勝沼城址のどちらか一つしか廻れない。
旧城主三田家の重要性から、今日の写真撮影訪問は勝沼城址を優先する事に決定。
急いで出発…
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勝沼城址は入口が解り難い。
そのせいで、城址は遊歩道として整備されているのに、御覧の通り入口は住宅街の奥の私有地と勘違いしてしまうような場所。
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でも入口見つかれば、立派に曲輪の土塁や埋もれた空堀の遺構、が荒らされずに現存している。
鉄塔の在る場所が展望台に成っている。
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この眺望、昔は街道が良く監視で出来ただろう。
城址左手側、光明寺や師岡神社側の横、墓地に繋がる谷は勝沼城の大空堀の跡。
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空堀と言うけれど、昔は巨大な沼掘りだった筈(はず)だ。
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住宅地の裏手には今も沢が流れていて水仙が植えられている。
この舗装されていない地盤は湿地帯のそれで、足がめり込んでしまう。
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墓地の横には城址の遊歩道保全計画に関連した地形図が有るので、これが縄張り図替わりに役に立つ。

さぁ~来年の正月は、阿蘇神社の御参りと、今回、写真撮れなかった今井城址を回らないとな。
…地元で信奉する神社と御寺、毎年御参りしている神奈川の延喜式内社と御寺も御参りして…
大変な移動距離の一日に成りそうだ。



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