さて、鬼滅の刃も無限列車編が終わり遊郭編が始まりました。
鬼滅の刃は女性ファンが多い様なので、一緒にアニメを見させられている彼氏や旦那さんも多いのではないでしょうか(笑)?
以前は鬼滅の刃に「少女漫画じゃんコレ」と思っていたため小生は全く興味が有りませんでした。
なので原作を知らず遊郭編も予備知識の無い小生は登場人物の解説を探していた所、とある投稿者が宇髓天元の寿命が大正時代の人の平均寿命が四十代前半だからソレくらいと、歴史オタクからすると見当違いな解説をしていたので・・・
「平均寿命は個人の没年齢の参考には成らないんだけどな~」
「こりゃ間違い指摘してたおこう」
・・・と思った次第です。
――結論から言いますーー
【1】炭治郎や禰豆子 彼等が生きた時代
鬼滅の刃の登場人物たちは明治末の生まれです。
鬼舞辻無惨を討伐した時は大正時代で未だ彼等は青年ですから彼等の年齢的に関東大震災に遭い、結婚し子育てをしていた昭和初期に入ってからは第二次世界大戦を経験します。
鬼舞辻無惨討伐で生き残った人物も、震災か戦火で死んでいる可能性が有ります。
天寿を全うしたなら、農家を営んだ者は晩年は昭和中期に軽トラで農協に野菜を納品したり、孫と東京タワー見物に行ったりTV放送で昭和の東京オリンピックや力道山の試合を観戦して楽しんで明るい日本の経済復興を経験して昭和40年代~50年代末位に亡くなっているはずです。
【2】物語の年代。
鬼滅の刃の世界観は慶應元(1865)年05月01日~明治二(1870)年08月末に鬼滅の物語のスタートとなる鱗瀧さんの手鬼逮捕が始まっています。
炭治郎の立志編は大正元年~大正六(1917)年08月末までに炭治郎は旅をスタートしています。
それ以上は設定上特定不可能です。
【3】物語の舞台
言葉と食文化と鉄道の景色と遊郭の歴史から推測出来ます。
無限列車編・・・中央線がモデルでないと成立しない。
遊郭編 ・・・吉原遊郭(現在のソープ街)
以上の可能性が高いでしょう。
ー無限列車編ー
原作者は∞=∞列車と言う言葉に環状線=山手線と言う意味を込めた可能性があります。
残念ながらこの予測が当たっていた場合、編集者と原作者は設定ミスを犯しており無理設定でした。
山手線開業が大正十四年(1925年)なのに大正十二年(1923年)の関東大震災の混乱が描写されておらず鬼舞辻無惨は人間の家族と悠々と夜の街を闊歩しています。
そこで山手線以外に舞台を求める必要が有ります。
無限列車編で煉獄サンが爆食いしていた牛鍋弁当から既に明治時代には食牛文化が根付いている地域で有る事が判ります。これは即ち、首都圏の中でも幕末の横浜開港で外国人居留地の有った横浜関内地区と鎌倉市~多摩地区~旧東京市(現23区)辺りである事が判ります。
当時、これ以外の地方では神戸と京都を除いて牛鍋や鋤焼きの文化は高級品で庶民の手の届く物ではありませんでしたし、登場人物たちが関西訛では無いので当然ながら関東地方の話、それも牛飯を食べる地域ですから東京~横浜~多摩地区の話と解ります。
当時の汽車は最初に渋沢栄一によって新橋駅~初代横浜駅(現:桜木町駅)に開通させた際に用地買収に困り海に細長く埋め立てて線路用地を確保している区間が多く有るので、無限列車編の様な平地が広がる景色は横浜に向かう景色ではありません。
では食肉文化と鉄道が早くから普及し庶民も楽しめた地域は、町田市~八王子市辺りが該当します。
よって東京~多摩地方へ至る列車=中央線が無限列車と考えられます。
仮に山手線を原作者が想定したなら史実的には歴史考証でミスを犯しています。
ー遊郭編ー
食文化、言葉、鉄道の普及から東京都の吉原遊郭、横浜市の永真遊郭の何れかですが恐らく鬼滅の刃は東京の物語です。
地方都市では昭和中期の車の普及まで言葉の訛は酷かったのですが大正時代初期に登場人物は流暢な標準語を話します。そして地方へ鬼の討伐に行く際は鉄道が効率が良いので当然ながら東京が舞台であると考えるのが自然でしょう、そう成ると大規模な遊郭は吉原遊郭の可能性が高くなります。
【4】竈門家の所在地
竈門家の所在地は公式設定に雲取山周辺とされており、家業は炭焼きです。炭焼きは山深い場所でも有る程度の町が近い地域でなければ商売が成立しません。
雲取山の近くで馬や昭和に入ってから軽トラやオート三輪で農産品や炭の売買で現金収入を得られる地域と言う条件を考慮すると、竈門家の実家の所在地は東京都奥多摩町日原川流域か埼玉県秩父市の何(いず)れかでしょう。
【5】日の呼吸の由来。
雲取山周辺の地名から特に深い考えも無く思いついた可能性が有ります。
原作者が竈門家の生家を雲取山周辺と公式設定していますが、実は雲取山周辺には「太陽寺」「日原街道」「日原鍾乳洞」等があります、更にこの地域は古代豪族でヤマトタケルの武将として活躍した大伴氏の子孫の豪族達の勢力圏で、中世にも日奉氏と言う大伴氏子孫の豪族と、その分家の武蔵七党西党と言う武士団が存在しました。東京都日野市の地名も日奉氏に由来すると伝承しています。頼朝公により現在地に移転され社殿を拡張された鶴岡八幡宮も本来の名は“鶴岡八幡宮寺”神仏習合の“八幡信仰”でしたが頼朝公に任命された神職は大伴氏で明治政府による廃仏毀釈の寺院弾圧まで大伴氏が神主を勤めていました。
原作者は先に実家の所在地を思いついてから周辺の地名で“日の呼吸”を思い付き、更に神話の舞台であり古代豪族の子孫達が生きていた地域である事を知った時点で、地域の神社や文化から「日神神楽」に結びつけたのかも知れませんね
――では考察の詳細解説に入ります――
超長文ですので、歴史本を読む心算でお願いします。
小生は正直、今年の夏に立志編の再放送をサイコロステーキ先輩が細切れにされるちょっと前辺りから見始めた鬼滅モグリです。
なので先入観無く史実と時代背景だけを作中の様子と比較します。
登場人物に関しても見始めて以降アニメに出た登場人物しか知りませんが、鬼滅の刃の時代考察に関しては既に他の鬼滅に詳しい歴オタがブログにも書いていたのですが、その人の考察も少し違う気がするので、小生の考察を書いてみたいと思います。
【1】炭治郎や禰豆子 彼等が生きた時代
ーキャラの生きた時代と寿命ー
ある鬼滅の刃解説動画の投稿者が宇髓天元の没年齢推測で大正時代の人間の平均寿命を採用していましたがこれは大きな誤りです。
明治~大正時代生まれの人は現代人みたいに平和ボケして天寿全う出来る世代では有りません。
大正当時に青年だった人間は明治生まれです。大正時代は15年間しか有りませんからね。
作中23才の天元なら同世代は大正十二(1923)年の関東大震災の被災者が多くいます。
この関東大震災が起きたのが大正十二年(1923年)09月01日ですが作中描写されないので、物語の年代特定で解説しますが炭治郎達の鬼討伐の物語は関東大震災発生以前話と言う事も解ります。
更に炭治郎達の世代も天元の世代も共に日中戦争と第二次世界大戦に動員されています。
つまり震災と戦災で多くの人が亡くなっているため、平均寿命40歳と以上に低く成ってしまっているので、この平均寿命を以(もっ)て宇髓天元の寿命と為(な)す事は完全な間違いです。
彼等の生きた大正時代は漫画やアニメで描かれる服装より、もう少しハイカラで垢抜けた人が多く、例えば食事にしても煉瓦亭とか今にも残る有名な洋食屋さんが既に明治28年に存在した時代です。
小生の血の繋がらない義祖母は家が戦前のABCD包囲網で日本が経済封されるまで横浜シルクの商人だったのですが、大正時代に正に女学生だった明治最後年の生まれで、蒸気バスに乗って横浜市中区根岸~山手のフェリスまで通っていたと話していました。
大正時代~昭和初期、炭治郎達の世代が青春時代を過ごした頃のファッションは既にオシャレです。
小生の義祖母が学生の頃に親に服を仕立てるとだけ言って御金を貰って、元町に出来た洋裁の御店で洋服を仕立てたら義祖母の両親に怒られたと言う話も聞いた事が有ります。
大正時代には若い世代の庶民に洋服が普及し始め昭和初期の文化水準に達しており更に太平洋戦争に突入する直前の昭和初期よりも世間は明るい雰囲気だったようですね。
これが地味なモンペ姿に変って行くのは戦争が原因で、鬼滅の刃の時代の服装は老人に関しては納得が行くのですが個人的な印象としては大正時代の東京の景色にしては何だが明治時代初期の未だ江戸時代を引きずってる頃のトレンドに見えてしまい若干整合性が無く感じます。
鬼滅の刃に関しては歴史オタクの小生にすると明治初期の印象を受けますし、農業をやっている人間が見ると「なんでトラクター用の道がこの時代に有るの?」と言う場面も有るみたいです。
彼等が関東大震災と戦災で死なず、結婚してラブラブな新婚生活を過ごしていたとすれば、その頃の様子が下の映画で皆さんにも想像がつくと思います。
下の映画は1936年公開の東京ラプソディーです。
大正年間に青年だった炭治郎や宇髄天元が結婚して子供を育てていた時代が丁度、東京ラプソディーの時代に当たる訳です。
ね?
実際は鬼滅の世界観より時代的にハイカラでしょ?
当然ながら痣が発現しなかったメンバーは天寿を全うしてる可能性も有る訳ですが、そうなると当時の人達は更に昭和中期まで生きているのが普通です。
ただし、この東京ラプソディーの公開の翌年、日本は日中戦争を開始し第二次世界大戦終了まで暗雲垂れ込める時代に突入して行きます。
ー炭治郎世代の戦争死亡率ー
彼等が何歳まで生きられたかを考えるには天寿を全う出来なかった可能性も考える必要が有ります。
それが戦争です。
鬼滅隊解散後にオシャレでハイカラな大正浪漫の青春を過ごす事に成る炭治郎とカナヲ夫妻、善逸と禰豆子夫妻は結婚して子供が生まれ小学校高学年くらいに成り漸く手が離れ始めた頃に戦争に直面する訳ですが・・・
歴史に興味の無い人には戦争で炭治郎世代の死亡フラグがどれだけ高確率で立って平均寿命が下がったか知らないと思うので“死亡率”の解説をしたいと思います。
この大正時代に青年だった彼等は更に関東大震災に加えて昭和初期の戦争にも動員され平均寿命を下げます。
鬼よりも徴兵された一般人兵士にライフルや榴弾砲、戦車、戦闘機の空爆、戦艦の砲撃で神がかり的な身体能力のある鬼滅隊の隊士でも簡単に殺される時代が到来します。
東京大空襲をはじめとした各都市の空襲や長崎・広島の核爆弾投下で大量の日本国民が老若男女問わず死にます。
鬼を倒しても「生きる事に必死」で鬼より怖い生存をかけた生活をしていた筈です。
―以下炭治郎達の経験した戦争―
炭治朗達が子育て中に直面したであろう戦災史実を時系列で解説します。
以下エグイ死亡率を戦争ごとに記載します。
死亡率とか負傷率と言う事がが苦手な人は下の方までスッ飛ばして下さい。
以下の個別の死亡率と損害を参照して見て下さい。
戦争名をクリックするとYoutubeで関連動画を見れます。
柳条湖事件 満洲事変発生
昭和六(1931)年09月18日
[戦力]
陸軍6050人
盧溝橋事件発生~日中戦争開戦
昭和十二(1937)年07月07日
~昭和二十年(1945年)08月14日
日本三大愚将の筆頭で右翼、中道、左翼の全てから軽蔑される牟田口廉也の盧溝橋での暴走で日本と中華民国の間で小規模戦闘から本格的な開戦に発展してしまい、日本帝国陸軍の将校と兵士は食料が補給されず枯渇する泥沼の戦いへと引きずり込まれて行く事に成る。
[戦力]
511,453人
[損失]
負傷325,806人
※負傷率63.7%
死亡185,647人
※死亡率36.2%
国家総動員法施行
昭和一三(1938)年04月01日~
仏印進駐
昭和十六(1941)年07月28日
フランス植民地ラオス、カンボジア、ベトナムを解放すると言う大義名分で日本軍が侵攻開始。
ハワイ真珠湾奇襲
日米開戦(太平洋戦争開始)
同年12月8日
海軍の山本五十六が日本帝国から米国へ宣戦布告前にハワイ真珠湾を攻撃してしまい日本帝国軍は大戦果を挙げるが戦争の正統性その物を喪失した最悪な外交状況で太平洋戦争に突入する。
[戦力]
ーー日本帝国海軍ーー
航空母艦6隻
戦艦2隻
重巡洋艦2隻
軽巡洋艦1隻
駆逐艦9隻
特殊潜航艇5隻
艦上航空機350機他
[損失]
ーー日本帝国海軍ーー
特殊潜航艇4隻沈没
特殊潜航艇1隻座礁
航空機損失29機
航空機損傷74機
捕虜01人
戦死64人 死亡率不明
ーー米国海軍ーー
戦艦4隻沈没
戦艦1隻座礁
戦艦3隻損傷
軽巡洋艦3隻損傷
駆逐艦3隻座礁
標的艦1隻沈没
その他1隻沈没
その他1隻座礁
その他2隻損傷
航空機損失188機
航空機損傷159機
民間航空機損失3機
戦死 2,334人
死亡率不明
民間人死亡68人死亡率不明
ミッドウェー海戦
昭和十七(1942)年06月05日~07日
この海戦敗北を契機に戦局は一気に敗色濃厚となり戦没者が急増する。
[戦力]
ーー日本帝国海軍ーー
航空母艦4
戦艦2
重巡洋艦2
軽巡洋艦1
駆逐艦12
艦載機248
水上機16
MI作戦戦力
軽空母2
戦艦5
重巡4
軽巡2他
動員兵数不詳
ーー米国海軍ーー
航空母艦3
重巡洋艦7
軽巡洋艦1
駆逐艦15
艦載機232
基地航空機101
飛行艇31
水上機1
潜水艦20
守備隊3,000人
動員兵数不詳
[損失]
ー日本帝国海軍ー
航空母艦4沈没
重巡洋艦1沈没
重巡洋艦1損傷
駆逐艦1損傷
死者3,057名
※死亡率不明
ー米国海軍ー
[損失]
航空母艦1沈没
駆逐艦1沈没
死者 307名
※死亡率不明
学徒戦時動員体制確立要綱
昭和十八(1943)年
06月25日
東条英機内閣により学徒動員施行、これにより学生が軍需産業労働力として徴用開始。
インパール作戦
昭和十九(1944)年3月8日 ~7月3日
英国領インド帝国マニプル州インパールに日本軍侵攻。
牟田口廉也の立案した補給の無い無謀な作戦が開始される。
牟田口は戦地に赴く事無く料亭に通い芸者を愛人にした挙句、戦線が崩壊すると愛人を連れて戦地から日本に任務放棄して帰国してしまった。
――日本帝国陸軍――
[戦力]
92,000人
[死者]
26,000人
※死亡率28.2%
[死傷]
72,000人
※死傷率78.2%
[戦病]
30,000人
※発病率32.6%
[病死]※戦病者
7,800人超
※病死率26.0%
レイテ沖海戦発生
同年10月20日~25日
アメリカ海軍オーストラリア海軍と日本帝国海軍が交戦し日本帝国海軍壊滅。
この戦いで事実上の日本帝国海軍の戦力壊滅と制空権を失った事で対米戦争その物が敗色濃厚に成った早期和解を模索する分岐点。
ーー日本帝国海軍ーー
[戦力]
航空母艦4
戦艦9
重巡洋艦13
軽巡洋艦6
駆逐艦34
航空機約600機
[損失]
航空母艦4
戦艦3
重巡洋艦6
軽巡洋艦4
駆逐艦9
[死者]10000人超
※死亡率不明
東京大空襲
昭和二十(1945)年
03月09日~10日
人口7,500,000人弱
※疎開の為実態不明
[戦力]
調布飛行場所属
第10飛行師団
横須賀鎮守府旗下 根岸飛行場所属
第八〇一海軍航空隊
(横浜海軍航空隊)
厚木海軍飛行場所属
第三〇二海軍航空隊
※詳細不明
[損失]
被災3,000,000人
※被災率40.0%
死者 105,000人
※死亡率 1.4%
※大半が東京から郊外に疎開しており参考数値。
硫黄島の戦い
同年2月19日~3月26日
補給の無い状況下で日本軍兵士の多くは玉砕し、米軍の被害は甚大だった。
ー硫黄島からの手紙ー
監督:クリント・イーストウッド
主演:二宮和也が日本視点側で配役され映画化。
米国内で戦力に劣る日本兵相手に余りの損害の多さが衝撃を与える。これを後に米軍が数学的に解析した所、日本兵の生存率は5%以下で1人当りの戦力は米国兵5人相当だった。
ーー日本帝国軍ーー
[戦力]
陸軍兵13,586人
海軍兵 7,347人
※総兵力20,933人
※戦闘機・艦船数詳細不明
[損失]
戦車23輌
戦死者17,845~19,900/20,933人
※生存率:5%以下。
ーー米国海軍ーー
[戦力]
戦艦 8隻
巡洋艦 15隻
駆逐艦 77隻
航空母艦 16隻
艦載機 1,200機
※総兵力110,000人
[損失]
空母2隻含む
艦船計30隻
航空機 239機
戦車 137輌
戦死 6,821人
戦傷 19,217人
※生存率:93.8%
※死傷率:23.6%
決戦教育措置要綱施行
学徒動員(兵力として)
同年3月18日
東条英機内閣の閣議決定により国民学校初等科以外の学生は04月より1年間授業停止され学徒勤労総動員。学生の戦力として投入開始。
私が戦国武将間宮康俊公の顕彰活動で取材した間宮家臣の御子孫の市村勝次郎サンはモールス信号を1週間で覚えさせられ輸送船の通信担当に成ったそうです。
沖縄本島戦
同年04月01日
アメリカ軍が沖縄本島攻撃開始。
多くの沖縄県民が死亡する。
[死者]
民間人122,000人/県民総人口420,000人
※死亡率29%(沖縄県民総人口当り)
日本兵 68,000人/日本総兵力116,400人
※死亡率58%(総兵力当り)
第二次東京大空襲
同年05月25日~26日
東京都内大半焼失、各都市への空爆も開始。
合計400回の空爆
[死者]
※東京以外だけで500000人超
ーー横浜大空襲(昼間)ーー
ー日本軍ー
[戦力]
厚木海軍飛行場所属
第三〇二海軍航空隊
航空機数不明。
横浜市、横須賀、鎌倉、藤沢市内各地に高射砲配備
[死者]
10,000人/横浜市総人口951,000人
※死亡率1.05%
[被災]
311,218人
※被災率32.7%
ー米空軍ー
[戦力]
マリアナ基地所属
米第21爆撃機集団
B-29爆撃機・・・517機
P-51戦闘機・・・101機
[損害]
航空機合計・・・175機
同年07月26日
ポツダム宣言発布
米・英・中(中華民国:現台湾)の連合国によりポツダム宣言が発布させる。
東条政権はこれを黙殺。
広島に原子爆弾投下
同年08月06日
[死者]
140000人/市民350000人
※死亡率40.0%(広島市民総人口当り)
ソビエト連邦が対日宣戦布告
同年8月8日
ソ連(現ロシア)が日本を裏切り日ソ中立宣言を破棄し満州へ侵略。
同年08月09日
長崎に原子爆弾投下
[死者]
74000人/市民240000人
※死亡率30.8%(長崎市民総人口当り)
同年08月14日
ポツダム宣言受諾
昭和天皇のラジオによる玉音放送で日本国民降伏。
ソ連の千島列島侵略
同年09月02日~05日
ソビエト軍は北海道占領を当初から目論んでいた為に日本のポツダム宣言受諾による無条件降伏後も千島列島在住日本人に対する攻撃を停止せず、既に冷戦の発端が旧日本領で起きていた。
アメリカによるソ連スターリンへの警告でソ連軍は漸く侵攻を停止した。
これが今の北方領土問題にも繋がり冷戦の発端であり交戦国日本×米国の友情再構築の始まりだった。
帝国書院統計資料歴史統計戦争別死傷者数
※第二次世界大戦全体での統計※
[動員数]
日本軍合計・・・1,864,710人
陸軍総兵力・・・1,435,676人
海軍総兵力・・・ 429,034人
[戦死者]
日本軍合計・・・1,555,308人 死亡率83.4%
陸軍総計 ・・・1,140,429人 死亡率79.4%
海軍総計 ・・・ 414,879人 死亡率96.7%
この帝国書院の統計が実数ならば、戦争から復員できた人は本当に奇跡の生還に等しかった訳です。
宇随 天元は更に炭次郎より8歳年長なので空襲や飢えて死んでいなければ終戦時は50±歳。
天元、炭次郎達はそれぞれ昭和50~60年代の間まで存命した可能性が高いですね。
ただし、二人とも満州事変~日中開戦の頃にまだ中年なので兵站崩壊後に中国大陸戦線で餓死した可能性も有る。
炭次郎に至っては死没率の高い南方戦線に徴用されていたかも知れない。
下手したら硫黄島で人間相手に抜剣突撃して玉砕したかも知れない。
本当に戦地にいたならばゲゲゲの鬼太郎作者の水木しげるに悪く書かれた直ぐに殴ってくる上官世代。
ただし終戦直前には40歳を超えてる筈なので戦局悪化前に除隊され、出身地とされる東京の奥多摩町のもっとも奥地の雲取山周辺の実家に住んでいたなら空爆で死亡する確率は低下し生存率が上がります。
カナヲと東京で所帯を持ったなら1945年03月か05月の東京大空襲で生存率が下がります。
又は甲府にいたなら07月06日~07日の甲府大空襲で亡くなってる可能性も有ります。
ー戦争を生き延びれた鬼滅隊の元隊士達が見た景色ー
炭次郎達が関東大震災や第二次世界大戦を生き延びて天寿を全うしていれば、終戦時40±歳で昭和天皇の玉音放送を聞き、小学生~中学生位の子供達をカナヲと育てながら存命してる可能性が高い訳です。
彼等の子供の世代は昭和後期世代がギリ良く知っている映画の登場人物にいます。
車寅次郎ですね。
寅サンは昭和六年(1931年)生まれのですから、この世代が炭治郎とカナヲ夫婦の子供達の世代に当たる訳です。
炭治郎夫妻は実在したならば正にALWAYS 三丁目の夕日の世界観を50歳過ぎくらいで見ていたんですね。
昭和30年代に宇髄天元も炭治郎もカナヲも禰豆子も善逸も実在したのならば上の動画の時代、東京タワーが完成した昭和三十三年(1958年)には生きていて❝三丁目の夕日❞の景色を見ていた堤真一サンの演じた鈴木オートの社長や吉岡秀隆サンの演じた駄菓子屋の茶川竜之介の世代より年齢が少し上の世代が彼等鬼滅隊の世代に当たります。
炭治郎とカナヲの夫婦の家系は早婚の家系の様なので、田舎暮らしだった事が想定できます。
実家が雲取山の山麓出身と言う設定なので、埼玉県秩父市民か東京都西多摩郡奥多摩町民の可能性が有りますね。
昭和30~40年代を生きたなら老齢の頃には青梅市や秩父市街にオート三輪や軽トラでカナヲと夫婦で農協に野菜の出荷に出かけていたかも知れないですね~。
そして青梅市街か秩父市街に出かけた時は公会堂や小さな映画館で映画を見たかも知れませんね。
孫に当たる世代も当たる人物も有名な架空の人物がいます。
❝こちら葛飾区亀有公園前発出所❞の両津勘吉が昭和二十七年(1952年)生まれで、ちょうど彼等の孫の世代ですね。
・・・ですから、正に戦争を生き延びていれば年老いてからカナヲや禰豆子が幼い頃の両サンみたいな元気な孫を連れて芝公園を散歩して歴代徳川家の殿様の墓参りをしたりプリンスホテルのレストランでちょっと贅沢な食事をしたり東京タワー見物なんてしていたかも知れないんですね。
もしかしたら昭和三十九年(1964年)に開業した新幹線ヒカリに乗って東京~熱海温泉に遊びに行ったかも知れませんね~。もっと遠出して若い時は難しかった京都旅行も楽しんだかも知れませんね。
実際に当時の世相を当て嵌めてこうやって見て貰うと良く解ると思いますが、鬼との戦いの後、第二次世界大戦で戦死していなければ鬼殺隊の生存キャラは天寿を全うし70~80歳まで普通に生きてる可能性が高くて当たり前なんです。
昔の人は寿命が短いと言うのはステレオタイプによる平均寿命を鵜呑みにした誤りでしかありません。
例えば戦国時代の真田信繁(幸村)の実兄真田信之公は93歳まで生きていたりします。
真田信之公⤴は小生の嫌いな三谷幸喜脚本でコンナ面白キャラにされてしまってますが、史実では戦国時代を代表する武将の1人通称真田幸村こと真田信繁公の実兄で、江戸時代も真田家を守り通し91歳まで現役で政務を行い徳川家康公の御子息達から大変尊敬されていたそうです。
91歳で長野の松代城~江戸まで参勤交代をして幕府に「痔が酷いから甲州街道の通行を許可して欲しい」等と嘆願した文書が現存し、栄養状態と生活環境が良ければ現代人と同等に長寿だった代表的な人物です。
最近、長野の真田家の旧本拠地上田城下の御寺で信之公の御位牌が発見されて話題に成りましたが、信之公は93歳で大往生されています。
因みに真田家の菩提寺の盛徳寺は江戸時代に東京の赤坂に有りましたが昭和四十七年に都市再開発で立ち退き、現在は神奈川県伊勢原市に移転しています。
なので歴史の話をする時は、色んな状況を整理して話す必要が有る訳ですね。
炭治郎達が鬼を狩っているのが大正時代と言うとはるか昔に聞こえますが、昭和50年代までカナヲと夫婦で収穫した農産品を軽トラで農協に運んでたかも?とか聞くと途端に生きてる感じが生々しく感じられて面白くないですか?
さてザックリと彼等が生きてたら孫と東京タワーに登り新幹線に乗って旅行したかも知れない生き生きとした時代背景を感じた所で物語の時代を可能な限り調べてみましょう~♪
【2】物語の年代。
鬼滅のディープファンの話では❝手鬼❞と言う小生の知らないキャラクターのセリフで時代特定出来るのでは?と書いてあったので考証してみましょう。
その鬼が最初に47年前に当時隊士だった鱗滝によって捕らえられ登場した際に・・・
「ああっ!年号が変わってる!」
・・・と言うセリフを吐くそうでソコから判る事は十五年間しかない大正時代から47年遡(さかのぼ)った何処かの時代と言う事だけで、これから手鬼が捕縛された時の元号を特定する事は出来ません。何故なら大正時代以前の元号なんて沢山有りしょっちゅう変わってたんです。
現代の常識だと明治以降の天皇の崩御で元号が変わりますが、実はそれは明治時代以降の短い歴史でしかないんです。昔は世相が安定していなかったので不吉な事や吉兆が起こると征夷大将軍や関白が幾つかの元号候補を天皇に進言し、その中から新しい元号が採用されると言う制度だったので頻繁に元号が変わる事が有ったんですね。
例えば慶応大学の出来た慶応年間なんかたったの4年間しかありません。
だから少しでも歴史に興味が有り小説家が書いた小説やTVやネットの受け売りではなく本当の史料を読む歴史好きな人なら手鬼のセリフを読んで・・・
「大正時代の前なんてしょっちゅう変わってる時期ジャン?」
「明治以前の可能性普通に有るよな?」
・・・と直ぐに思う訳ですが、では手鬼が捕まった時代の元号が何の時だったか?それを考察してみましょう。小生は考察には関東大震災を考慮すべきと思っています。
先ずは明治時代は45年間なので・・・
大正十五(1926)年-47年=明治十二(1879)年
・・・つまり手鬼が捕縛された47年前は遅くともと明治十二(1879)年と推測できます。
その上で大正時代15年間を差し引きした年代だと・・・
明治十二(1879)年-15年=1864年
・・・1864~1879年の間のどこかの話だと解ります。
この1864年がややこしくて元号の変更が有った年でした。
[文久年間]
文久元年(1861)年03月29日
~ 文久四年(1864)年03月27日
[元治年間]
元治元年(1864)年03月27日
~ 元治二年(1865)年05月01日
[慶応年間]
慶應元年(1865)年05月01日
~ 慶應四年(1868)年10月23日
[明治年間]
明治元年(1868)年10月23日
~ 明治四十五年(1912)年07月30日
上の元号を見ると鬼滅の刃で手鬼が捕まった時期が・・・
明治十二(1879)年~慶應年間~元治年間~文久四(1864)年の出来事としか判断が付かない訳です。
手鬼が捕まった時代の元号がセリフに登場しないので、炭治郎の活躍し始めた“立志編”の鬼滅の刃の時代が❝大正何年か?❞なんて特定で出来ないのは明白ですね?
だって大正元年~十五年の間のどこかの47年前は文久~元治~慶応~明治とモロに元号変わり捲ってる時代ですからね。
この事を踏まえずに・・・
「元号が変わった」のセリフだけで「大正の前の明治」と意見は成立しない訳です。
・・・実は物語のスタートした年代にも関係が出て来る鬼滅の刃ファンがスルーしてる事が大正十二年(1923年)に起きています。
小生が考慮すべきと言った“関東大震災”です。
作中では全く関東大震災の話題は登場しないので牛飯文化のある横浜~東京~八王子~秩父~埼玉で被災した様子は有りません。
もしこの様な天災が起きた後の大正十二年09月~大正十五年頃の話なら、話題の中に関東大震災が登場して当然でしょうから鬼滅の刃の世界は・・・
大正元年(1912)年07月30日
~大正十二(1923)09月01日
・・・より前の話、以上の期間の間に鬼舞辻󠄀無惨の討伐が完了していなければ可笑(おか)しい訳です。
未だアニメで登場していない公式設定での討伐後の話として富岡義勇等がのんきに温泉旅行に行ったりしているそうなので、富岡義勇が痣の発現で寿命が25歳とすると、作中21歳だったので4年間は生き延びている事に成ります、21歳と数ヵ月は過ぎてると思いますので余命3年強ですから、まぁ余命3年で計算するとしましょう。
そうなると・・・
鬼滅の刃の時代は大正元年~大正八年の間
・・・と言う事が何となく見えて来る上に、25歳で死ぬ富岡義勇が仮に東京で生活をしていたならば3年間の間に被災しておらず、ゆっくり温泉旅行を楽しんで過ごす事が出来る期間は関東大震災以前の話の可能性が高い訳です。
つまり、この事を踏まえると・・・
大正十二(1923)09月01日-富岡義勇の余命3年=大正九(1920)年09月01日以前
・・・上記の事を踏まえると鬼舞辻無惨が1920年09月以前に討伐されている事が判りますね。
そして竈門炭治郎の立志編~最終回まで約3年の月日が流れているらしいので、更にスタート時の年代は遅くとも1920年より三年早かった事が判ります・・
関東大震災1920年09月01日ー竈門炭治郎立志編~最終回タイムラグ約3年=遅くとも1917年
・・・もう鬼滅の刃の世界観が大正初期な事は解りましたね?
大正元年~大正六(1917)年08月末までに炭治郎は旅をスタートしている事が判ります。
では遅くとも1917年に手鬼が逮捕された47年前の時代の元号は何だったんでしょうか?
大正六(1917)年ー47年=明治二(1870)年ですね。
つまり遅くとも明治二(1870)年08月末には鱗滝サンによって手鬼が捕縛されており、彼等の服装から新政府の統治化に既に入っていた時代で江戸時代の生活を捨てた頃なのも解ります。
―さて、時代の特定は出来ましたね?―
慶應元(1865)年05月01日~明治二(1870)年08月末の期間の何処かの次点で鱗滝サンが手鬼を捕まえて物語は始まっている。
大正元年~大正六(1917)年08月末までに炭治郎は旅をスタートしている。
・・・と言う事が判りました。
残念ながらピンポイントで何年?と言う事は原作者に「その間の何年に起きた話にするの?ねぇ?」と誰か聞いて見るしかなさそうですね(笑)。
以上、年代の特定でした。
では次に物語の舞台を顕彰して見ましょう~♪
【3】物語の舞台
皆さん作中の無限列車編の世界、鉄道が普及して牛肉の弁当が売れていましたよね?
小生はこの大正初期の肉食文化と鉄道の普及から首都圏の幕末から西洋文化に馴染んだ地域と推測しています、つまり旧東京市と多摩地区~神奈川県東部ですね。
日本人が明治時代に広く食肉に馴染んだ“すき焼き”の発祥地は横浜市か鎌倉市と言われています。
これは鎌倉の人に聞いた鍬焼きのルーツとして鎌倉では本当に鍬で焼いていたと言う話を元にした推測にすぎませんが・・・
小生の見解としては当時外国人の貿易が盛況な関内・元町では金属調理器具も充実しており鍋を用いて焼く現在の家庭のすき焼き“牛鍋の原型で提供”したのが横浜流で、当時は鎌倉幕府の首府だった繁栄も失われ鄙(ひな)びた農村と漁村に成っていた今の鎌倉市辺りでは文字通り農機具の“鍬(すき)で肉を焼く”鍬焼きの形式で提供したのではないかと思います。
※横浜村辺之圖→教育委員会事務局中央図書館課
当時は横浜に牛鍋・鋤焼きを学びに修行に来る料理人がいた様です。
京都には“三嶋亭”と言う140年の歴史を持つ“すき焼き”の老舗が存在し、昭和のスター勝新太郎サン達が太秦で撮影してる頃に良く店を貸し切って豪遊したそうです。
三嶋亭
昭和の映画スターに愛された京都のスキ焼の老舗
小生、この御店に留学時代の仲間と食事をしたのですが当然とても美味しく店も料亭その物で高級感が有りました。
で、いつも雑談をして取材しまくる小生なので三嶋亭のスキ焼を食べながらスキ焼を作る仲居さんに教えて頂いたのは・・・
「あら~お客様は横浜からいらっしゃったんですか~!」
「初代が横浜で修行したんですよ~。」
この言葉、凄く意味が有るんですよ?
横浜の開港が1859年、三嶋亭が明治六年(1873)創業。
つまり開港から僅か14年目で横浜のスキ焼=牛肉食は全国で有名に成っていた事が判る一言ですね。
大正時代は元年(1912年)~十五年(1927年)です。
横浜で明治六年(1873年)には鋤焼きが名物に成っていた訳です。
関西の人々が横浜流の鋤焼きを知るきっかけに成ったのは実は横浜で幕末に横浜一帯の肉牛だけでは外国人の牛肉需要を賄えなく成り和牛の産地だった近畿と中国地方から神戸を経由して牛肉を買い付けていたそうです。なので関西にも・・・
「横浜で日本人も牛肉食べてるらしい!」
「スキ焼ってんが流行ってるらしい!」
・・・と流通網から情報が伝わるのに時間はかからなかったみたいですね。
どれくらい外国人が多かったかと言うと、横浜市に日本初の西洋式競馬場が作られる程でした。
この写真は横浜市中区にある根岸森林公園に残る旧根岸競馬場の観覧席の建物です。
一等馬見所と呼ばれている一等席ですね。
幕末に外国人居留地内にあった現在の横浜公園の港崎遊郭で起きた豚屋火事と呼ばれる大火災で居留地の建物も類焼した事から、外国人居留地が広がり、旅行して良い範囲も現在の鎌倉市が含まれていました。
この様な背景が有り横浜と鎌倉市が牛鍋ないし鍬焼(すきやき)の発祥地に成り“食肉文化”の素地が神奈川県東部に生まれ、それまで東京では上流階級の高級文化だった食肉が東京の大衆にも神奈川県より少し遅れて広まって行った訳です。
明治時代も中期に成ると牛鍋が東京でも庶民が頑張れば手の届く贅沢な料理として普及している様子が別の映画漫画でも登場します。
るろうに剣心ですね。
今年公開された“るろうに剣心 最終章 The Final”ですね。
幕末の横浜開港に伴って関内に駐在した外国人商人や英国、米国、仏国の軍人達の食生活の需要によって始まったのは神奈川県民と生粋の東京都民、そして神戸市民、京都市民には有名な話なんですね。
なので先ずは鬼滅の刃の地域は南関東で間違いなさそうです。
これがどう“鬼滅の刃”に繋がるかですが、小生は牛鍋と鉄道が無限列車編と遊郭編の舞台特定の判断材料だと思っています。
無限列車編で煉獄サンがアホみたいに牛飯を爆食いしてましたよね。
つまり食文化的的にも登場人物達が標準語を話している事からも舞台は南関東の可能性が高い訳です。
食文化と言葉で南関東と解りますが更に判断材料を探す必要が有ります。
そこで鉄道に着目して見ましょう♪
ー作中の鉄道の景色検証ー
これから迅速測図と言う江戸時代の地形が未だまんま残る明治時代初期に帝国陸軍が測量した地図を見て貰います。
小生のブログには良く登場する地図で、皆さんも見る事が出来るので御興味が有れば下のリンクから覗いて見て現在の地形と比較してみて下さい。
このシステムを作った農研機構の担当者の方からは直接「“農研機構”の名前を併記してくれればブログに転用して良いですよ~!」と許可を頂いてるので皆さんも是非活用して下さい。
上の地図が迅速測図、横浜市旧市街の関内地区や鉄道の様子です。
青で囲った水掘りの内側が“関内地区”で伊勢佐木長者町商店街近くの“吉田橋”に関所=入国管理局が作られて、内側が幕末から外国人居留地に指定されていました。
画面中央下に有る旧国鉄のマークが初代横浜駅です。
実は明治時代に鉄道開業された時の初代横浜駅の位置に現在の桜木町駅が有ります。
この日本最初の鉄道は何やら海の中に線路が敷かれてますよね?
皆さん何か気が付きませんか?
鬼滅の刃の無限列車編の第一話で鉄道が内陸部を走っていましたよね?
これは当時の横浜駅⇔新橋駅の景色ではありません。
実は“晴天を衝く”の渋沢栄一公が明治時代に最初の鉄道を引いた際に用地買収が難航し線路を海を埋め立てて敷かなければいけない区間が沢山有ったんです。
当時の埋立地はとても重要な先進地域でしたし何より海沿いを走るので無限列車編の様に原野や山林が広がる景色は先ず有りませんでした。
丁度この初代横浜駅時代の線路跡が高輪で発見されてニュースに成ったばかりです。
この様に東京⇔横浜の路線は海沿いを走っていた訳で、無限列車編のモデルは新橋~横浜間に次(つ)いで早くから開業され牛鍋弁当が食べる事の出来た“中央線ではないかな?と推測しています。
実は食肉を早くから提供する地域が現在の東京都内、明治初期は神奈川県に組み込まれていた某都市でも存在したんです。
町田市~八王子です。
多摩地区に横浜東京と同時期に食肉文化が根付いたのには実は“道”と“シルク”が関係しています。
幕末~大正時代、日本の主力貿易商材はシルクと陶器と漆器、海産物では干鮑、干海鼠でした。
現在の群馬県~埼玉県~東京都多摩地区は養蚕が盛んで、世界遺産登録されている富岡製糸工場のオーナーは横浜の原財閥でした。原財閥は何故群馬に投資したかと言うと、シルクは全て幕末に貿易港として開港された横浜港から輸出されていたから流通網が成立していたんですね。
嘗ては群馬や秩父や八王子産の生糸を使って生産されていた“横浜シルク”は日本人が知らなくなった今でも世界では名が通っていたりします。
このシルク輸送の拠点だった町田は江戸時代にも“馬借”つまり馬を使った運送屋がいて、町田や八王子には“馬肉食文化”が在ったので、牛肉食文化もシルク輸送の国際貿易商材化によって早くから知られ普及した様です。
そうなると東京~八王子間を通る訳で当然ながら食肉文化の根付いた地域と言う条件にも合致し、尚且つ炭治朗の出身地の雲取山周辺の多摩地方~秩父地方にも近い地域に当ります。
小生はこの“食文化”と“シルクの街道”を踏まえた上で、以下で紹介する鉄道史から、無限列車編の舞台は横浜では無く食肉文化が大衆化した東京~地方都市、多摩地方か秩父地方だと推測しています。
よって・・・
無限列車編は恐らく中央線で東京⇔甲府の間、それも谷間ではないので八王子辺りのどこか。
・・・と小生は推測します。
ー次に遊郭編ですー
昭和三十一年(1956年)の売春防止法、昭和三十四年(1959年)の風俗営業等取締法まで東京周辺には有名な遊郭が有りました。
時代的に下の遊郭が候補に挙がりそうです。
1つ目は江戸時代から存在する吉原遊郭、元は日本橋に有りましたが火事で現在地に移転しています。
当時は水掘りで囲まれた完全に一つの町全部が遊郭でした。
2つ目は幕末に発展した横浜の港崎遊郭の移転先横浜市の永真遊郭は真金町遊郭と永楽遊郭を合わせた大遊郭でした。
真金町遊郭は笑点の司会だった歌丸師匠の御実家が遊郭の経営をされていた事で有名です。
永真遊郭の歴史は花街の歴史を専門に調べてる“知の冒険”と言う良いブロガーがいるので、そっちの記事を読んで見て下さい。
3つ目は川越に有った西小仙波遊郭です。
こちらはちょっと資料を元に歴史を掘り下げてる詳しいブロガーも知らないし史料も手元に無いのでスル―します。
横須賀の方は知の冒険が詳しく書いているので読んで見て下さい。
知の冒険の中の人は自分で取材してシッカリと記事にするタイプなので良い参考になると思います。
遊郭編第一話の最後の方で巨大な遊郭らしき街並みが出てたので東京に有った吉原遊郭だと普通に思います。
遊郭の場所検証は以上(笑)。
次は炭治郎の家ですね~。
【4】竈門家の所在地
ー炭治郎の実家ー
炭治郎の実家は雲取山の近くだそうですね?もう特定されてんだからヤル事ない!
・・・とは成らない!
先ず雲取山の地形を見ると畑も無いので林業と狩猟しか有りません。
そして本当に雲取山に住んでいたらな集落から離れすぎており補給が無く車が無い時代には生活は無理でしょう。
炭焼き小屋を知らない人は山の中で良いジャン?とか言いそうですけど、炭焼き小屋は集落の近くの山に有りますからね?そもそも実家も雲取山周辺の集落と言う意味だと解釈した方が良いでしょう。
ー炭治郎カナヲ夫妻の居所ー
次に炭治郎とカナヲ夫婦が何処で結婚生活を送ったかを考えてみましょう。
炭次郎の家系は初婚年齢が低い傾向が有る様なので婚期が比較的遅い都市部より、初婚が比較的全体的に早い漁村か農村に定住していたはずです。
あくまで雲取山周辺の農村で亡くなるまで家業の炭焼きや農業に従事した可能性が高いですね(もう答えでちゃったよwww)。
さて、先に言いましたが炭焼きは余りにも人里から離れていると商売として成立しません。
売る相手に届ける事が出来ませんからね、しかも当時は徒歩ですから。
雲取山の近くには3つの集落が有ります。
埼玉県秩父市、東京都奥多摩町、山梨県丹波山村
以上の3か所が候補地としてあがり、これは3都県でウチだよ論争が始まりそうですね。
個人的には現実的に考えて奥多摩町日原の集落の様な気がします。
そこからだと旧国鉄青梅線が1894年に開業しており日原の集落から徒歩でも馬でも01時間40分と生活圏に成り得ますし、農業を営むなり山を持ってれば昭和中期まで林業で食べれたでしょう。
ただ秩父市側も集落が有りますから其方側でもおかしくは有りません。
炭治郎が「禰豆子は町でも可愛いって評判だった」みたいなセリフが有るので農村か町近くの山間に住んでいる事は間違いない訳ですから“日神神楽の伝承者”なので住所を家系的に知られてはいけない事情が有ったか、若しくは“雲取山に家系の秘密が有る”から雲取山と言った内のどちらかの理由が無いとセリフと整合性がが取れないですよね。
故意に3都県に跨る雲取山と言って置けば少なくとも住所が県から隠す事が出来ます。
まぁぶっちゃけると雲取山は生活拠点には成り得無い場所ですが、その周辺のどっかには居たかもしれません。
偶然だとは思いますが丁度、雲取山の周りには炭治郎だけが使える特殊な呼吸の“日神神楽”=日の呼吸に関係しそうな地名が雲取山の麓に有ります。
それが雲取山の山麓の太陽寺や日原街道や日原川や日原鍾乳洞です。
林業と狩猟が主産業だった農村部なので子供達の婚期もたいそう早かったでしょう。
ならばアメリカ軍の空爆を受けず、農村部で食べ物にも困らず戦争を乗り越えていると考えた方が自然かも知れません。
この辺りは確かにクッソ田舎(笑)なのでポツンと一軒家状態だったか、それか山麓に住んでいたかも知れませんが、仮に夫婦で実家に帰っていた殿ならば第二次世界大戦で米軍の東京大空襲が始まっても影響なく畑を耕し戦時中も食べる事にも困らず無事に生き残れた筈ですし、彼の事だから戦時中は禰豆子と善逸夫婦や伊之助とアオイ夫婦を受け入れて疎開させてあげて共同生活をしていたかも知れませんね。
元々から雲取山とネタバレされてるのですが、雲取山じゃあ~子育てしながら自給自足は厳しいよ!と言う事は解りましたので、家も集落だったろうし秩父市横瀬町か東京都奥多摩町から徒歩1時間くらいの村と言った所だったかも知れません。
因みに私の義祖母は戦時中の食糧難の時に横浜市中区根岸から当時は森の中で林道でしか繋がっていなかった港南区港南台の円海山の鷹巣と言う地域の農家を営む知人の家まで農作物を分けてもらいに今の磯子区杉田まで路面電車で行きソコからは徒歩で1時以上かけて行っていたそうです。
そう、炭治郎達の時代は既に路面電車も走っていたので、漫画の世界観は完全に“るろうに剣心”と同時代位に歴史オタクからすると見えてしまうんですね。
当時は一般人は車なんて無かった時代ですから、逆に農家が街に農産品を販売に行って現金を獲得に行ける距離も徒歩でも町までせいぜい片道1時間前後くらいが限界だった様で、横浜市でも町から1時間も離れた地域は高度経済成長期の自然破壊で宅地造成されるまで完全に森でした。それより更に山奥に入ると鎌倉~横浜間の尾根道沿いにだって集落なんか有りません。
その横浜市磯子区~港南区の昭和三十年代と当時の様子を比較すれば、人口の増え始めている大正時代よりも更に以前は猶更の事ですが人里から離れて炭焼きでも生活なんて成り立たなかった事が理解して貰えるかと思います。
※下の地図と航空写真は先程説明した同一地域の史料です。クリックして拡大して見て下さい。
上から国土地理院標準地図、1945年終戦時空撮、2019年時点の空撮です。
現在の感覚だと近い場所も、炭治郎達が中年だった頃もまだまだチョットしたハイキングくらいの強度の山登りだったので、もう山奥には人なんか住めないと言うのがこれで御理解頂けるかと思います。
田舎で今では廃村に成ってる場所も、自動車が主流に成るまで徒歩の街道で実は集落だったんですね。
地図を読むのが不得意な人は、江戸時代~明治~昭和で全然道も地形も人の住む場所も違う事が良く解る炭治郎達も往来したであろう甲州街道旧道の解説動画が有るので、興味が有る人はこのシリーズを見るかと良いと思います。
この“うめごーるど”サンはちゃんと古地図を見て検証しているので参考に成りますよ。
【5】日の呼吸の由来。
次に炭治郎とカナヲ夫妻の安住の地の推測で結びついてしまった“日の神神楽=日の呼吸”の正体を考察してみます。
――日の神神楽の正体――
雲取山周辺の太陽時とか日原街道や日原川や日原鍾乳洞の地名と、秩父地方や奥多摩地方には三峯神社や武蔵御嶽神社と言う倭建神話の舞台が偶然会ったので原作者は“日の神神楽=日の呼吸”を思いついたと思います。
つまり只の地域性と地名の思い付きじゃないかな~?
――――――――――――――――――――――――
以下、日の神神楽を歴史オタクが周辺の古代史、中世史で由来を補強して見る(暴走)。
さて、炭治郎と禰豆子の竈門家の出身地が設定で雲取山の周辺と言う事と周辺地域の話に2つの考察で触れましたよね?
①鬼滅の刃の物語開始時の元号特定で触れた食文化と鉄道史と街道の歴史。
②彼等の寿命が関東大震災や第二次世界大戦が関係してくるケースと、帰郷していれば影響を受けない事の解説。
この解説に周辺地理と古代史と武家の歴史を合わせると・・・
日の呼吸の設定も若しかしたら説明が出来てしまうかも知れません。
――以下無理矢理解釈――
※本当にコジツケですが炭治郎の家系が日の神神楽を継承した理由を“推測(捏造)”してみます。
・・・では日の呼吸の設定を原作者が意図していたかは不明ですが(笑)、小生が歴史で無理矢理こじつけてみましょう~www♪
どうやら日の呼吸、神話と関係が有るかも知れませんよ?
・・・最期まで読んだら本当に全部繋がるよ・・・
日の呼吸は神事で舞う神楽(かぐら)として伝わっている事から、炭治郎の家は「代々炭焼き」と本人が言っていますが、それは有り得ません。
神職(社家)と成った古代の豪族か平安時代頃の武士の家系だった可能性が有ります。
炭治郎は直近の家系図しか見せられてない可能性が有ります。
その証拠に本当に“只の炭焼きだったら有る筈の無い“家系図”が彼の家には存在している”んですよね?
しかも山奥の炭焼き職人なのに“字を読める教育を受けている”事と更に神事として武技である“日神神楽”を継承し舞っていた事が判ります。
実は炭焼きが本業の様に成ってしまっているものの、本来は社家(神職)であり武家だったのが開けた土地を避けて山に住んでる理由があるハズです。
そもそも“日の呼吸”は神楽な訳で神前に奉納する儀式な訳です。
皆さん身近な所だと相撲取が土俵の上で弓取り式を行いますよね?
アレも古代の神事の名残りで、応神天皇=八幡大菩薩=八幡神が弓の名手で悪鬼を射殺した退魔の伝承から、土俵を清める意味で行われる儀式です。
神話の時代に当たる弥生~古墳時代は主力兵器が弓でした。
古代の合戦は合戦でも弓合戦。
石斧や石槍でも戦ったでしょうが、金属器が未だ高級品で指揮官クラスの装備品でしたからね。
良く古墳で見る埴輪のコンナ⤴立派な金属製鎧は上級指揮官である豪族の長や王族しか着れない物でした。なのでマトモな金属甲冑は下級兵士に配備されて無く皮の鎧と木の楯だけの時代は石鏃(せきぞく)の鏃(やじり)の弓でも十分に殺傷能力が発揮できたし、先進地域では青銅製の鏃を用いた軍勢も極少数いたかも知れません。
なので、当然ながら古墳時代の大王=天皇であった応神天皇=八幡大菩薩は弓が得意と言うのは武技として優先して学習する技能だったので当然と言えば当然な訳です。
しかし青銅の剣や鉄剣は当然存在したので、倭建は叔母の倭比売(ヤマトヒメ)から権力者の象徴である草薙剣(クサナギノツルギ)を授けられた上で与力の将兵も付けらています。
弥生時代~古墳時代の転換期に当たる倭建命と伯母チャンで伊勢神宮の斎王だった倭比売の頃には剣を使った神事が出来ていても何らオカシくはない訳です。
この将兵が広島~岡山当りを治めた古代豪族の吉備氏と、今の大阪辺りに大伴氏の軍勢でした。
倭建の叔母に当たる倭比売は伊勢神宮の斎王を務めていた人物で、太陽神である天照大神を祀る人物でした。
この天照大神の存在と大伴氏が日神神楽に関わってくる事に成りますが、もう暫く炭治郎の出身地周辺の古代の豪族と神様の関係の説明を続けます。余談ですが倭建は草薙剣だけでなく天石楯(アマノイワダテ)と言う楯も装備していて、これは相模原市の名倉権現石楯尾神社の場所に埋蔵してと伝わっています。
丁度、知々夫国(秩父市)から大和国(なら)や河内国(大阪)方面に帰還する時は、相模原市を通過して猿橋渓谷を越えて甲州経由で戻るので楯を埋めたかは解りませんが、まぁ古代の奈良への道程としての伝承としては考えられる経路ではあります。
炭治郎達がいた多摩地区~秩父地区は倭建伝説も残る地域ですが古くから知々夫国造(ちちぶくにつくりのみこと)と言う神話(弥生~古墳)時代から続く豪族王がおり、この一族は氏神として信仰した天下春(ウワシタハル)と言う神様を祀る一族で、古代豪族の九州の佐伯氏や大阪の住吉神社を氏神とした大伴氏の一族と考えられています。
実は炭治郎と関係の有りそうな秩父地域とは雲取山を挟んで反対の多摩地区では武蔵七党と言う古代からの豪族がいました。その中で古い一族に“日奉(ひまつり)”氏がいます。これが正に倭比売によって東征する倭建に与力として与えられた大伴氏の子孫に当たる一族で、その一族の一つの氏姓が“日奉(ひまつり)”氏なんですね。
モロに裏設定として“日の呼吸”と関係してそうな苗字でしょう?
更にこの日奉氏は平安時代に武蔵守(むさしのかみ)として武蔵国府の府中で東京・埼玉・川崎・横浜の大部分の知事を務めた一族の子孫にも当たります。
府中市の大國魂神社が古代からの武蔵国の国府の跡と考古学的に考えれれていますし、江戸=東京が中心に成ったのは徳川幕府からの比較的新しい話なんです。
※コレ⤴縄文海進で海だった場所に延喜式内社は先ず存在しない。ただ古墳時代に成立した相模国五之宮格の平塚八幡宮と相模国四之宮の前鳥神社以外は全て古代の海岸線ギリギリに存在している。
しかも江戸初期に成っても江戸=東京23区の大半は古代の海の底で江戸時代初期も湿地だったんですね。ハッキリ言って水害リスク高いのに何で住んでるのか解らないのが江東区や墨田区や中央区辺り。
徳川家が江戸に入府した頃は人が住める場所は比較的少なかったので徳川幕府が埋め立て工事をしまくり、台地に三田用水を引いたり、元海だから井戸掘ってもロクな水が出ないからわざわざ羽村市から玉川上水を引かないといけなかった。
浪人達にも湿地の開墾を認めて段々と耕作地に変えて居住可能地域を拡張して行った場所が、今の足立区とか江東区とか墨田区とか江戸川区とか葛飾区辺りなんですね。
なので日奉氏初め分家一族の平山氏や立川氏、小宮氏等の古くから定着していた豪族は多摩丘陵方面に領地を持っていた訳です。
その一族が武蔵七党の一つ西党の一族として支配地を拡大し繁栄しての支配地が雲取山の南側の多摩地方一帯で鎌倉時代にも源頼朝公の御家人なりました。
例えば裏設定で・・・
地理、神話、特殊な家系、特殊な日の呼吸の秘密、全てに整合性がでます。
では残る一つの疑問、何故(なにゆえ)秩父市の山奥か奥多摩町の日原川流域成り雲取山なんて言う山奥に細々としていたかですが、コレも日奉一族の子孫の武士、武蔵七党の歴史を持ち出すと説明出来てしまいます。
例えば漫画の竈門家が古代の退魔の神事と武術を継承した特別な一族で、彼等、武蔵七党の神事を司る聖職者で調停者だったと設定します。
日奉氏と子孫の平山氏等武蔵七党西党は鎌倉幕府の源頼朝公に仕えてからも繁栄し戦国時代にもと呼ばれ小田原北条家に仕えましたが、善政で有名だった小田原北条家が豊臣秀吉に滅ぼされた際に滅亡してしまします。
木下藤吉郎時代⤵️の秀吉公。
まぁ竈門家は史実では存在しない家系ですが、例えばこの秀吉に一族の西党や武蔵七党が滅ぼされた際に竈門家の祖先が倭建命に鬼を狩る役目を授かって以来、倭比売に授けられた天照大神の退魔の力を発揮する日の呼吸を神事として伝え続けていたので、特殊な力を豊臣秀吉や徳川家康公に悪用されない為に山深い雲取山周辺に隠れ住む様に成った・・・
とかコジツケたら全てに整合性がでますね~。
このコジツケを可能にする有名な神社が幾つか有り、それが先に紹介した知々夫国造と倭建命関連の神社仏閣なんです。
・・・が、作者はそこまで考えてないと思います。
そして、それらの神社や豪族や倭建命と関係の有る神社が他にも多く有り、しかも古代の海岸線沿いに全てが存在しているんですね。
その神社の中で知々夫国造や日奉氏の関係する天下春命と言う神様の神社分布や倭建神話を繋げると、無理矢理、竈門家の由来を倭建命の東征に協力した大伴氏にルーツを作れる話を先にしました。
この話、竈門家のルーツ推測(捏造)としては十分だと思いますが、もう少し神話を現実的な考古学的な解説として話したい思います。
古代海岸線だった影響が実は近世に成っても続いていて現在の神奈川県伊勢原市域、平塚市域、茅ヶ崎市域は大正時代の関東大震災の水害発生後に治水工事で大規模な河川の流路の改編や埋立工事がなされるまで湿地と湖、砂丘が多く残っていました。
その影響で当然ながら古代東海道の矢倉沢往還や三浦半島の走水に抜ける古東海道(旧東海道より更に以前の古墳時代~平安時代の道)の街道も、古代の湾を避ける様に繋がっています。
この古代の海を避けて通る古街道の神社には西暦900年代の醍醐天皇から見ても古く由緒の有る神社だったので延喜式と言う政令の中で延喜式神名帳と言う朝廷が支援し保護すべき神社を定めた一覧に掲載されいるばかりが並びます。
又、神社では無く明治以前は修験道の聖地化していたので掲載はされていないものの古代から存続する伝承を証明する様に縄文~古墳時代の遺跡を内包する古社が多く有ります。
この延喜式内社の内、神奈川県中央部まで食い込んでいた古代の相模湾の東岸北部~炭治郎の住んでいた多摩方面まで小野神社と言う古社が点々と存在しており、この小野神社の御祭神が天下春命です。
厚木市の閑香明神小野神社は現在は御祭神が倭建命ですが、元は天下春命が御祭神でした。
この地域、つまりは古代に大伴氏の勢力圏だったと言う事です。
更に北上すると多摩地方~秩父地方に辿り着きますが、秩父地方を古代に治めた知々夫国造(チチブクニツクリノミヤツコ)は大伴氏の末裔と考えられています。
そして南側、今の横浜市神奈川区六角橋辺りも大伴久応と言う古代の人物が倭建を歓待したと言う伝承が残り付近には神大寺と言う寺院が室町時代に兵火に焼かれるまで存在していましたが、その近くの宝秀寺と言う寺院が大伴久応の邸宅跡と伝わっていたりします。
又、倭建が妻の弟橘姫(おとたちばなひめ)と滞在した三浦半島横須賀市走水の御所ヵ崎では大伴黒主と言う古代の人物が接待をしたと伝わっています。
これらの話、実は大伴一族が分布していた範囲の証明に成ると思っています。
昔、神奈川県は川崎市全域と横浜市南西部を除く地域が相模国でした。その相模国の成立前は更に磯長(しなが)国と佐賀牟(さがむ)国だった様で、当時はどうやら相模国だけではなく武蔵国も成立しておらず知々夫国造がいた事から武蔵国北部つまり今の埼玉県には知々夫国が存在ていたので、その地域を除いた武蔵国の残る東京都南部と東部と地域神奈川県の東半分と合わせて佐賀牟国だった様です。
磯長国は消滅して佐賀牟国の西半分と併合されて相模国。
知々夫国は消滅して佐賀牟国の東半分と併合されて武蔵国。
・・・この様な大改革が在った様です。
神奈川県の橘の地名が残る湘南の大磯町や二宮町に川勾神社と言う延喜式内社が有ります。
この神社の御祭神が級津彦(しなつひこ)、級津姫(しなつひめ)の夫婦神で磯長(しなが)国を開拓した古代豪族の夫婦神なのですが、その子孫と考えられる磯長国造(しながくにつくりのみやつこ)を務めた阿屋葉造(あやはのみやつこ)によって神社が造営されています。
さて、この穂積忍山宿禰と言う人物、実は倭建の妻の弟橘姫の父親と伝わっています。しかもこの一帯には橘の地名が残る訳です。
川崎市には橘樹神社と言う弟橘姫の装飾品を治めた古墳を御神体として遥拝所の位置に建設された神社が在ります。
そこに先程の小野神社の点在する神奈川県東部~多摩地域と秩父地方を合わせると、全て繋がった縦長の地域に成ります。
実はこの地域で三浦郡(三浦半島)と鎌倉郡横浜市域を除いた地域が全て古代大和朝廷の大王(おおきみ)の屯倉(みやけ)と言う直轄地でした・・・
即(すなわ)ち、久良岐郡、橘樹郡、多摩郡、横見郡の4郡でこれが全て先程の当該地域に当てはまる訳です。
そしてこの地域が古代大和朝廷の直轄地に成った理由が武蔵国造の乱と呼ばれており、武蔵国造小杵(おき/こづき)と武蔵国造使主(おみ)の同族間抗争で大和朝廷が使主側を支援し、混乱の懲罰的に久良岐郡、橘樹郡、多摩郡、横見郡を接収したと伝承しています。
つまり、この時に入植したのが大伴氏で、これを鎮圧したのが倭建だったかも知れませんね。
そして豪族に対して懲罰と豪族の勢力圏再編の為に武蔵国と相模国を再編したとすると、正に取り上げた久良岐郡、橘樹郡、多摩郡、横見郡が相模と武蔵の国境の緩衝地帯に成り、尚且つ大和朝廷直轄地なので豪族同士が手出ししようが無くなり正に関東を“鎮撫”する事に成る訳ですね。
更にこの範囲に正に倭建神話の神社が点在し、この武蔵国造の乱の主戦場だったかも知れません。
そこに炭治郎の祖先を大伴氏と仮定して、倭建が信頼する大伴部を緩衝地帯の4郡に入植させ豪族同士の争いを調停させたとしたら漫画の設定へ歴史が繋がる整合性も有り竈門家の神秘性にも話が繋げられ訳です。
まぁ、原作者そこまで古代の神話と考古学手的な事と付近の神社の歴史は知らず、普通に雲取山の周りに太陽寺や日原街道や日原側や日原鍾乳洞ってのが集まってるから“日の呼吸”とか思いついたのかも知れませんが。
そこら辺は原作者に聞かないと解りませんよね~。
地理で繋げて、考古学で繋げ、周辺の武家の家系を繋げ、神話で繋げて、竈門家と日=太陽=倭比売と倭建をこじつけ、竈門家が炭焼きで生計を立てていたのにシッカリした家系図が有る事を考慮すると・・・
日の呼吸=日神神楽の由来の出来上がり!
因みに倭建は神奈川県域と東京都域を鎮定した後で三浦半島の走水神社~海路~千葉県の富津・木更津方面へ渡り上総一ノ宮の玉前神社から古代の霞ヶ浦沿いに北西へ遡上して鷲宮神社に行き、秩父方面から甲州へ抜けて行った様です。
実は倭建は現在では1人の人物の様にされていますが、福数人の事業が倭建と言う古代の官職名で神格化されややこしい事に成ってると思います。
九州を制圧した倭建が西暦200年代の弥生時代末期~古墳時代初期の皇族の将軍。
関東を制圧して武蔵国相模国再編を行った古墳時代の皇族の将軍であり今の天皇の祖先であろう人は別のはず。
今の行田市の埼玉古墳群の中の一つ、稲荷山古墳から出土した鉄剣には“獲加多支鹵大王(わかたけるおおきみ)”の名前が金象嵌で彫られています。
この獲加多支鹵大王の名は、天智天皇の大化の改新の頃に大王(おおきみ)の尊称を捨てて“天皇”を名乗り始めた際に、過去の大王にも天皇号が別に追贈された際に雄略天皇と変えられています。
もし“タケル”の称号が大将軍を意味する古代の官職名だとすれば、倭建は当然ながら何人もいておかしくない訳で、それが神格化された際に一人の事績に習合されていると考えた方が自然ですよね。
そして景行天皇の皇子の間違いなく初代の倭建命は草薙剣を伯母から与えられており、雄略天皇も埼玉の豪族の乎獲居臣(ヲワケコノオミ)に鉄剣を与えている事も共通して既に宝剣を所持しており、この古墳時代に退魔の剣技を神楽として伝えた豪族将軍で神職を兼務し初代の倭建か古墳時代末の倭建だった獲加多支鹵大王=ワカタケルオオキミ=大長谷若建(オオハツセワカタケル)=雄略天皇に従軍した豪族大伴家の将軍の末裔が竈門家の祖先と考えれば・・・
日の呼吸が圧倒的に鬼狩に威力を発揮し、更に竈門家が太陽の加護を得ている説明に成りそうですね。
ちなみにこの雄略天皇は元々丹波国、今の京都市福知山市にあった伊勢神宮を現在の場所に遷宮した人物です。
つまり雄略天皇=ワカタケル大王も最初のヤマトタケル命も天照大神の依代(よりしろ)である伊勢神宮の斎王から天照大神の加護を得ていたとか言う、日の呼吸の由来はどうでしょう?
全て小生の神話と歴史と地理のコジツケですが(笑)。
①鬼滅の刃の世界観は慶應元(1865)年05月01日~明治二(1870)年08月末に鬼滅の物語のスタートとなる鱗瀧さんの手鬼逮捕が始まり、炭治郎と禰豆子は大正元年~大正六(1917)年08月末までに炭治郎は旅をスタートしている。
②登場人物たちが天寿を全うしたなら第二次世界大戦を乗り越えてカナヲと夫婦で炭焼きと農家を営み町の農協まで軽トラで収穫した野菜を納品しに行ったり、老後は孫と東京タワー見物に行ったり白黒TVで昭和の東京オリンピックや力道山の試合を観戦して楽しんでいた世代。
③無限列車編は中央線がモデルかも知れない、遊郭編は普通に吉原遊郭じゃないかな?
④竈門家の所在地は東京都奥多摩町日原川流域か埼玉県秩父市の何(いず)れか雲取山周辺のどこか。
ここまで⤴
ここは⤵まぁ、推測も何もコジツケかな(笑)?
⑤日の呼吸の正体の裏設定が有るなら、雲取山の周辺の地名の日原川や日原街道、太陽寺から原作者は思いついた筈。
⇒強引に解説するなら歴史オタク的には③に神話と古代史と武士の歴史を混ぜると日の呼吸と神楽の由来と竈門家の家系の歴史を原作に整合性有る設定にコジツケられますよ~。
名前の事件がどうつながって行って当時の歴史や文化背景がどんな感じだったかを知ってみると漫画もより生々しく面白く感じませんか?
・・・と言う、御話でした。
皆さんも横浜や東京や京都や神戸の町並みを歩く時に建物や橋の作られて時代を気にして見て下さい。それだけでも当時の人の姿が目に浮かび、洋食屋さんに行ったり郷土料理を食べるのも時を超えて同じ物を食べてる事が楽しく成ると思いますよ~♪
とりあえず皆さん、御店に“すきやき”食べに行ってみませんか(笑)?
追記⤵
色々と皆さん思う所はあって良いと思います、異なる意見も同意もあるでしょうし、1つの事をみても見え方が違うのが人間です。
例え夫婦や恋人でも共同生活者として説明する努力を怠ると分かり合えない訳です。
御自身の御意見が有る方は是非ブロガーに成られる事をおすすめします。
ブログはTwitterみたいな短文ではなく沢山資料と文字を共有出来ますから。
そうすると生産的でより多くの様々な情報を皆で共有する事が出来ます。
私のブログは読者が少ないので、仮に有意義なコメントを残して下さっても残念ながら衆目に晒される機会も略ありませんしね。
ここ⤵から皆さんもブログをはじめましょう~♪
livedoorやLineのblogプラットホームは使いやすいので是非、皆さんもブログやYouTube始めてみては如何でしょうか?
さて、本当にいい加減、瑞穂ふ頭の記事書きますので待っててくださいwww
何かブログ更新定期でも月刊くらいにしたいかも(笑)。
では皆さん、恐らく今週で紅葉も散り冬が訪れます。
風邪などひかれません様に、マスクと手洗いウガイ、アルコール消毒、毎日湯船に浸かって全身熱殺菌忘れずに!
宜しければブログに「いいね」と「読者登録」を御願いしまぁ~す♪
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