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タグ:高座郡

寒川神社(延喜式内社・相模国一之宮)・・・古代の追儺神事を行う大社
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寒川神社公式より拝借画像 追儺神事 清前
  御祭神・御本尊等:寒川比古命と寒川比女命の夫婦神  
  御利益:八方除け(災厄避け・交通事故除け)・縁結び・夫婦円満・芸事上達・TV視聴率向上
  関係者:
  開基:寒川比古命・寒川比女命
  中興:雄略天皇
     征夷大将軍 源  頼朝 公
     左京大夫  北条 早雲 公・・・以下歴代北条家当主
     大膳太夫  武田 信玄 
  旧郡名:高座郡
  所在地:高座郡寒川町、古代の海岸線沿いの微高地
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
相模国十三座の内で早々朝廷から官位を与えられた3座の内の1座で、相模国の一之宮の格式を持つ。
追儺祭と言う神事が毎年1月2日に行われるが、現代の神道では仏教の様式の影響を受けた追儺祭を行う場所が多い中で、この寒川神社や京都の上賀茂神社等の生粋の古社は古代からの様式を継承しており境内に在る湧水池の水を夜中に神職が採取して神前に供える事で清前(きよさき=御神水)にした後に、境内の四方八方に清前を撒いて清める。
古代に一之宮にも定められた格式から朝廷や多くの武将に重視され雄略天皇を初め、源頼朝公や北条家歴代当主、武田信玄等から崇敬を集めた。
現代ではTV関係者の崇敬厚く、崇敬すると高視聴率が得られるとされ芸能人も多く信奉している。
又、長い参道は蛇行しており、古代の相模川河畔にそって参道が設置されていた名残と伝承しているが、実は丁度縄文時代の海岸線がこれに当たる。寒川神社が有る場所の目の前の相模川下流域は古代に海だった。一之宮だった歴史と大和朝廷に重視された八方除けの御利益は、日本武尊を幾度も戦場で守った天石楯を御神体として始まった石楯尾神社と並んで神奈川県のみならず日本屈指の災厄事故除けの御利益が期待出来る。
現在の社殿は平成に成って建て替えられた物だが、他の一般的な神社とは比較にならない規模を有している。現代の氏子衆の努力によって供出される資金力も豊富だが、崇敬した歴史偉人達も名将揃い。



海老名市探訪の〆に中村屋で人生で一番美味しいと感じた拉麺を食べてから、次の目的地の綾瀬市の神崎遺跡に向かって移動した。
どうやら、この際に通った道が古代の街道だったらしく周辺には多くの史跡が有る事に気が付いたのだが神崎遺跡までの道程(みちのり)には偶然の発見が多数あった。
最初の偶然見つけたのが…
高座豚手作りハム綾瀬本店
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高座豚(こうざぶた)と言うのは❝旧高座(たかくら/こうざ)郡❞の厚木市が一番有名な神奈川県旧高座郡産のブランド豚の事だ。
藤沢市境川以西、大和市、綾瀬市、厚木市、海老名市、寒川町、相模原市相模川東岸は昔は全てが高座郡だった。
この高座郡の延喜式内社しかも昔は広い境内に立派な社殿を持ち栄えていた神社が多いので高座(たかくら)=巨大な米倉が建ち並ぶ集落が多かったのに由来するのだろうか?今となっては良く解らない。
そんな神奈川県を代表する豚肉のブランド高座豚の養豚→加工をしている会社の本社直売所の看板を神崎遺跡に向かう道すがら偶然発見して立ち寄って見た訳だ。
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店内には様々な高座豚の加工食品が陳列されていたのだが、珍しいスペアリブやレバー等のハムやポークジャーキー等も有り面白かった。
後でGoogle mapのレビューを見たら、ここは豚カツ等の御惣菜も大変美味しいらしい。

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今回はレバースモークと…
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…ポークジャーキーを御土産に購入して見た。後日、曽我梅林の梅酒と一緒に家族で食したが大変に美味しかった。レバーも全く生臭さが無く美味しかったがポークジャーキーは評判が頗(すこぶ)る良くて今後は他地域の友人への御土産として購入しても重宝しそうだ。
リンクを以下に貼って置く。
高座豚手作りハム綾瀬本店
高座豚手作りハム綾瀬本店を後にして、神崎遺跡へ向かう途中で道の右側に何やら大きな石碑が有るので気に成って立ち寄って見た。
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どうやら徳川秀忠公や家光公の時代、江戸時代初期に名医として高名だった半井(なからい)
端壽(まさとし?)驢庵(ろあん)と言う人物の邸址らしい。しかし発掘調査が行われた形跡や見取り図等は無く石碑だけが昭和初期の神奈川県知事の半井清さんによって建立された様だ。
なんと半井清さんは横浜市長も務めた横浜市民の小生の郷里の大先輩に当たる人物だそうだ。
姓から半井驢庵公の御子孫かと思ったが、どうやら直径子孫では無く半井家に養子に入った人物の様だ。面白い事に半井清市長の生家は岡山県の福井家で、その地で半井家に養子に入っていると言う事は300年近い江戸時代の歴史の中で半井家は岡山にも縁を何か持っていた可能性が有る訳だ。
半井清市長は1946年に公職追放に成っているそうなのでGHQによる処分だろう。戦争協力者のレッテルを貼られた様だが公職追放解除と共に横浜商工会議所の頭取りに成っている。
戦前の神奈川県は役人によって多くの歴史史跡が保護され、例えば大庭城址等にも「保存状態良くて戦国の城が解りやすい場所だから大切にせんといかんよ~」と言う様な趣旨の石碑が神奈川県によって建てられていたりするのだが、半井市長が県知事だった時代の頃だろう。
昔の神奈川県職員や横浜市職員は大変に神奈川県下の文化と史跡を大切にしたのだが、今の黒岩県知事と林文子市長は糟屋館の切岸と帯曲輪と縄文史跡の不保護破壊、笹下城址空堀の宅地開発破壊や円海山蛍生息の環境地破壊等の文化と自然と史跡破壊ばっかりしている。
これは半井市長達が若し御神霊やなんかとして祀られていたら現知事や市長を祟(たた)るレベルの落ち度だろうなとか、撮影した石碑の写真を見ながら半井市長の事を調べてシミジミ思ったりした。
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さて、この半井驢庵邸址の傍らに一際立派な木が聳(そび)えていたのだが、これが久々の❝神奈川の名木100選の一つ有馬の春楡(はるにれ)❞の大樹だった。
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皆さんもこの石碑が有ったら神奈川の名木100選の木なので説明文を読んでみて下さい。
小生は津久井城址近くの根小屋の諏訪神社、横浜市港南区の永谷天満宮、大和市の延喜式内社の深見神社、横浜市磯子区杉田の妙法寺等で他の名木100選も見る事が出来たが、今回は完全にドライブ傍ら偶然の賜物なので大変に嬉しかった。
これも横浜市長だった半井市長が石碑に揮毫し昔の熱心な方々が史跡の保護活動をして下さった御蔭なので、時代を超えて小生達に史跡と大樹を残して下さった綾瀬市の諸先輩にも心の中で御礼を申し上げたく成る。
今の政治家は開発利権と癒着している人物が多く日本文化も大切にしないので信仰心も無い。
だから平気で先人の遺物を破壊し、先人が残して下さる教訓も世界から抹消してしまう。
しかし昭和初期までの政治家は違った訳だ。
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半井清市長、綾瀬の貴重な史跡を残して下さりありがとう御座いました。
以下、半井驢庵邸址と神奈川名木100選有馬のハルニレの所在地。

〒243-0417, 本郷 海老名市 神奈川県 243-0417

さて、有馬の春楡の大樹を後にして神崎遺跡に向かった。ここから神崎遺跡は車で10分も掛からない。

後日Google mapを見ていて気が付いたのだが、近くには行って見たいと思っていた❝カナサシファーム❞と言う酪農業者が営むアイスクリーム製造直売所が在った。
この時は気が付かずに神崎遺跡に行ってしまったので、次回、有鹿神社を訪れる際には同じく綾瀬市内の五社神社や蟹ヶ谷公園とセットで廻ってみようと思う。
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ここは昨年一昨年初めて藤沢市の延喜式内社の宇都母知神社を参詣してから早川城址公園を訪問した際に移動途中で神崎遺跡の看板が目に入り存在を知った訳だ。

思うに毎回古い神社~古い神社へ移動すると遺跡に当たるのだが、この遺跡や小生が当日走った道は古代の鎌倉郡衙~大庭神社付近の集落に有った店屋(古代の駅)を過ぎ~宇都母知神社の集落~神崎遺跡を経由し、深見神社と有鹿神社へ至る分岐点の要衝で古代の街道だったんだろう。
古代一之宮有鹿神社~鎌倉郡衙の脇往還 久良岐のよし
上の図はGoogle earth上に小生が登録した古代の神社や城址の位置と、国土交通省関東地方整備局が想定した大凡(おおよそ)の古代街道想定図を重ね合わせた物なのだが、若干小生の想定と違うのだが村岡城址辺りは古代の鎌倉郡衙(ぐんが=郡役所)だった筈(はず)だ。
そして村岡城址の辺りが分岐点と成る想定は小生と同じで、「想定伝路」と国土交通省が曖昧にしている部分は恐らく延喜式内社の大庭神社→宇都母知神社→神崎遺跡→有鹿神社へと繋がっていたはずだ。
そして古代の中原街道が神崎遺跡で分岐し…
寒川神社(高座郡寒川町)=相模国一之宮⇔神崎遺跡⇔深見神社⇔神大寺(横浜市神奈川区)⇔師岡熊野神社⇔橘樹神社(川崎市高津区)=橘樹郡衙へと繋がっていたはずで、これが原初の中原街道だった筈だ。
この事には今年の正月に川崎の橘樹神社~大磯町の二之宮川勾(かわわ)神社へ思い付きで下道で行った際に偶然発見した。車を走らせていてナビと道路標識に出て来る地名が全て古代から開けていた神社や遺跡、そして武士達が城砦を築いた場所の近くだったのだ。
これは偶然では無いだろう。
下道で行こうとアホな事もしてみるもんだ。
所で、正月に小生が走った道は江戸時代の中原街道だった。
橘樹神社~中原街道経由~川勾神社 久良岐のよし
黄色い線が正月に走ったルート。
この道は徳川家康公と徳川秀忠公によって再整備された街道なので、古代の街道からは若干逸れると思う。その逸れている部分を補填するのが新編武蔵風土記稿で間宮士信(ことのぶ)公が注記している各地の店屋(てんや)の地名だろう。
実は青木城の神奈川区神奈川や神大寺旧跡の神奈川区神大寺地区や宝秀寺の神奈川区六角橋地区や三枚橋と呼ばれた三枚町地区は古代に全てひっくるめて「店屋」の地名で呼ばれたそうだ。
横浜市港南区野庭にも「天谷(てんや)」の古代の「店屋」と同じ音の地名が橋の名に残り、更にはその一帯は鎌倉幕府が野庭関城を築城した交通の要衝だった。
思うに古代の「店屋」と言うのは現代の学者は伝馬制度の「駅」と誤認している人も多いが、間宮士信公の言う通り❝伝馬制度の拠点の置かれた行政区❞全体を指す地名だったんだと思う。
そして、それは全ての駅の有る行政区で「店屋」と呼ばれたのだろう。
これは江戸時代の「宿場町」に相当する感覚だと考えれば自然だと思う。つまり町全体、古代の場合は集落=郷全体を「店屋」と呼んだのだろう。

話を神崎遺跡に戻す。
初訪問の2015年4月当時は未だ開園前で整備中だったので何の史跡なのかも良く解らなかったし、何も展示されていなかった。
今回の訪問で解かったのは遺跡としては人が定着せずに短期間で放棄された環濠集落だそうだ。
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小生が思うに、この頃に神奈川県の先人は丘の上から耕作に適した河川近くの平地に移住して行くのだが、それは丁度、日本武尊(やまとたける)神話の時代に相当する。
しかも!ここは「東海地方からの移住の文化が確認出来る遺跡」として国定遺跡の指定を受けているのだ…
日本武尊は佐賀牟(さがむ)国、すなわち古代の神奈川県中央部に来ている。
そして彼の軍勢は伊勢神宮の倭姫から借り受けた軍勢だったはずだ。与力は大伴氏と吉備氏の武将。
横浜の宝秀寺と三浦半島走水神社には日本武尊の従者として大伴姓の大伴黒主と大伴久応が登場するが恐らく同一人物で、古代に大王(天王)家の近衛軍を率いた大伴家と渡来の軍団編成を取り入れていた吉備家の軍勢が与力、日本武尊軍の本隊は伊勢や東海地方の伊勢神宮の斎王(さいおう)倭姫の軍勢で構成されていたのだろう。つまりは東海地方の兵達だ。
…まぁ、人口の少なかった当時の編成は国を挙げての大軍団と言っても最大規模で数千人、東征の各部隊はせいぜい数十人~数百人規模の軍団だった筈だ。
日本武尊は佐賀牟の神に欺かれて静岡の焼津へと攻撃に出征しているのだが、それまで駐留した日本武尊軍団は神奈川県各地に分散し布陣し陣城を構築した筈(はず)だ。
その日本武尊軍団の陣城の一つが神崎遺跡だったんじゃないかと古代は海に面した半島の地形と古代の街道の位置、そして短期間で放棄された痕跡から小生は想定している。CIMG3601
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まぁ、歴史遺跡は発掘した「物」だけ見ても何も繋がらないし「文」の無い時代や生存者の思惑で書かれた「文物」には後世の我々を騙す陰謀も込められているので「文だけを頼りにするのもド阿呆」な訳だが学者先生は物的証拠が無い限り断定してはいけない「縛り」で活動をされているので小生みたいな推測は思っても書けないし言えないらしい。
同じく宮司さんの中には明治以降にプロテスタントを手本に再構築されたいる国家神道を盲目的に信じて明治以前の歴代天皇の価値観を無視する人もいて、そう言う人達は不遜にも天皇家の祖先神に神格化された古代の大王家の人々の偉業の痕跡である歴史遺跡から出土する事実に目を伏せて「本居宣長」が訳し間違えてる部分も絶対に沢山有る、中国神話の様な非現実的な描写に書き換えられている筈の神話の描写を全て鵜呑みにしてしまっている。
古事記の音だけを拾って書き起こした原本を現代人は「原本を隠された様に」原本の写しを見る事が出来ないが、恐らくはもっともっと現実的な政治や外交や徴税や軍事の事が書かれている筈だ。
神崎遺跡は薬研堀の環濠に囲まれていた。
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その堀の跡を今はコンクリの道で舗装し、位置が判る様にしてある。
小規模だがとても親切な試(こころ)みだと思う。
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弥生時代、それより前の縄文時代この一帯の海だった平地部分は数回の大地震による地殻変動で隆起し陸地に成ったが沼地だった。それは戦国時代近くまで続き内陸の伊勢原市辺りも同じだった。
ちゃんとした陸田として江戸時代に開発が進むまでずっとそうだった。
だから半島から周囲が隆起して丘に代わった神崎遺跡の近くには古代の中原街道や海老名~鎌倉の往還が開通しても、平地はまだまだ沼地が多かったので、日本武尊軍団は沼に囲まれた丘で守りの堅固なこの神崎遺跡に兵を置いたのではないだろうか。
面白い事に神崎遺跡からは人の遺骸が出土していない。
小生はこれを「男女が生活を営んだ集落ではない証拠」だと解釈している。
まぁ~歴史ってのは、、こいう事を考えられるから面白い。
神崎遺跡には博物館も有る。
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中は小規模ながら綾瀬市の歴史が一目瞭然と成る年表やCIMG3586
発掘調査結果の解説。
そして平安末期~戦国時代の綾瀬市の武士団の説明等も有る。
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小規模ながら実に良い展示をしている歴史博物館だ。
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動画の上映も有り、この日は平日と言う事も有ってか小生の他には客は2組だけだった。
綾瀬市民の祖父母と小学生位の孫の家族の1組、小学生位の子と父親の1組。
まだまだ知名度が低い施設なので、有名に成って欲しいと思う。
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中学生~大学生位が来ても歴史が好きなら掲示物を読み込むだけでも十分楽しめると思う。
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動画の解説もとても解りやすく良かった。
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神崎遺跡の模型も有ったり…
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発掘当時の様子等も解る航空写真も有った。
そして素晴らしいのが、子供向けの勾玉(まがたま)製造の体験教室等も行っているそうだ。
神崎遺跡と早川城山公園は、小中学生の子供を持つ多くの綾瀬市民の夫婦には是非にも子連れで来て欲しいと神奈川県民として切に思う。
綾瀬市の散策はとても美味しく、そして先人の日本文化保護に対する情熱と古代の神話のロマンを感じれる充実した時間と成った。

次回、第4部藤沢市編に続く。


神奈川県高座郡寒川町には、寒川神社と言う延喜式内社の古社が在り、古代から今も大変多くの氏子サンの崇敬を集めており、大変立派な神社と参道を現在でも有しています。
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先日、寒川神社の神職の方に寒川神社に伝わる追儺(ついな)神事と、その御由緒を教えて頂く機会を得て寒川神社に御参りに行って参りました。
この寒川神社は古代に一之宮と定められた御宮でした。
ですから参道もとても立派で、神社の現在の境内から1kmも手前に大鳥居があり参道が続きます。
寒川神社参道 久良岐のよし
寒川神社神事を御教授をして頂いた神職様の御話によれば、この参道が屈曲しているのは古代の相模川が参道の横にあり、河原に参道が有ったからだろうとの御推測でした。小生も大凡(おおよそ)同じ推測をしていますが、若干解釈が異なり、相模川ではなく古代の海岸線に沿って作られた参道だったろうと推測しています。
延喜式内社 久良岐のよし
小生がそう、推測するのは現在の神奈川県の衛星写真上にに延喜式内社と式外社と呼ばれる古社を表示し、古代の陸地と海岸線を重ね合わせれば一目瞭然で寒川神社は海岸線の端に在るからです。
海の真ん中に前鳥(さきとり)神社と平塚八幡宮が在りますが、前鳥神社の縁起では西暦300年代の創建とされ、丁度(ちょうど)古墳時代の始まり頃の神社成立なのですが、その頃から相模湾は隆起し陸地に成って行きましたので縄文時代~弥生時代の海岸線より海側に前鳥神社と平塚八幡宮は存在する訳です。
史学と神学を両方やっておられ小生が前鳥神社尊敬する神職の方に教えて頂いた事ですが、前鳥神社の直ぐ近くには古墳が在り三角縁神獣鏡が出土しているとの事で少なくとも卑弥呼の次代より後の成立で有る事から、地理学、史学、神学の全てで整合性の有る歴史事実でもあります。
つまり、寒川神社はそれより古い時代には同地に鎮座していた事に成る訳です。
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※一番外の大鳥居。スマホで撮影した動画のスクショです。写真じゃないよ!
神社としての公式記録も古く、朝廷の公式行事が記録し始められた頃の西暦400年代、雄略天皇の時代には既に幣帛(みてぐら=奉納品)を賜った記録が有り、以後、歴代天皇に代わり朝廷の奉幣使が遣わされた歴史を有する由緒を持ちます。
ですから、参道も長く立派なんですね。
ところで、小生のブログでは度々登場する神奈川県の延喜式内社の一~五の序列の神社と国府祭と言う御祭が有ります。
昔、静岡県東部の駿河地方と伊豆半島と神奈川県と東京都と埼玉県は2つの国で磯長国と佐賀牟(さがむ)国と言われた行政区域でした。
その佐賀牟国は、西の方を相模国と残りの横浜市東部と川崎市東京都埼玉県に股がる武蔵国に分けられました。磯長国も駿河国、伊豆国と西湘が相模国に分けられました。現在の神奈川県は相模国全域と、武蔵国の内の久良岐郡・都筑郡と橘樹郡の一部から構成されています。相模国が成立すると、相模国の国府(県庁所在地)を何処(どこ)にするかで神様(御神孫の豪族)同士がモメました(笑)。

その際のケンカが今も神事に成っていて、神奈川県で古代から伝わる国府祭(こうのまち)と言う祭事です。

この祭事の際に延喜式内社の寒川神社と川勾神社の神様が、自分の御宮を国府(こくふ)にするべく喧嘩する話がそのまま神事に成って伝えられています。
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※写真は三之宮比々多神社。寒川神社と同じく延喜式内社。
面白い事に、この神事にはちゃんと仲裁役も居て、小生が氏神様、土地神様とは別に毎年御参りに上がる比々多神社の神様(当時の御神孫の豪族)が「決着は来年にして落ち着きましょうよ」と寒川神社と川勾神社の神様の仲を取り持って一件落着する御祭に成っています。
そこでもう一度、昔の海岸線を見て貰うと何で寒川神社と川勾神社で国府設置を争ったかも良く解ります。
延喜式内社 久良岐のよし - コピー
寒川神社と川勾神社は古代の海を挟んで東西に対峙している訳です。恐らく相模国が成立した頃には既に海は隆起していたと思いますが、比々多神社周辺の戦国時代の岡崎城は戦国時代に至っても周辺を土腐(どぶ)に囲まれていました。海だった古代から1000年以上過ぎた戦国時代でもまだまだ湿地帯の様な場所が多かった程なので、陸地に成ったと言っても国府祭神事が行われた当時は現在の平塚市や茅ヶ崎市辺りの湘南地区=県央部は人の住める場所は少なく、古代から陸地だった寒川神社と川勾神社が交通の便から自分の地域に国府を置きたかった事情が読み取れる訳です。
仲裁した比々多神社は丁度、寒川神社と川勾神社の古代の陸地で真ん中に位置します。
さて、そんな訳で小生が神事の解説を受けに訪問した寒川神社、非常に古い次代から存在する事は何となく御理解頂けたでしょうか?
因みに国府祭で神様同士が話し合って決めたか朝廷が定めたかは解りませんが、一之宮~五之宮は以下の通りです。
一之宮・・・寒川神社
二之宮・・・川勾神社
三之宮・・・比々多神社
四之宮・・・前鳥神社
五之宮・・・平塚八幡宮(平塚八幡宮では五之宮を自称しておらず、後世の人によって加えられた可能性有り。)
この中に平塚八幡宮ではなくて相模国最古の有鹿神社(あるかじんじゃ)を加える説も有ります。
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有賀神社本宮(海老名市)と奥宮(相模原市)は以前もブログで紹介記事を書きましたが、奥宮が縄文時代の遺跡の真ん中にあり、聖地として古代からの湧水地有賀谷を抱えている場所でも有ります。
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この有賀神社と寒川神社、石盾尾神社(いわたておのじんじゃ)の三社だけが奈良時代に朝廷から官位を賜ってるので、恐らく、平塚八幡宮の成立以前は有賀神社が五之宮だったんじゃないでしょうか。
推測ですが。
他に相模国惣社を称する六所神社もあり、そこの近所に国府祭が行われる❝神揃山❞が今も在ります。
古代からこれらの神社と国府祭の五社は朝廷と結びつきが強かった事が解ります。
寒川神社の境内そのものに話を戻します。
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寒川神社の駐車場の横には摂社の宮山神社が鎮座しています。
この宮山神社は周辺に有った幾つかの神社が廃社される際に御神霊を遷座し合祀して御祀(まつ)りしている場所です。
摂社だけで普通の町中に在ったらそこそこ綺麗な神社程に整備されています。
寒川神社に行ったら是非、こちらも御参りして下さい。
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家庭運と安産祈願の御利益が有るので、若夫婦は是非御参りすると良いかと思います。
この宮山神社と、寒川神社の正面は少しだけ離れた場所に在ります。
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寒川神社の正面。立派な石橋ですね。
氏子サンも多く、参拝者の絶える事の無い御宮なので、力(お金)も有ります(笑)。
と言うか、現代の氏子さん達が頑張ってらっしゃるんですね~。
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参道も良い雰囲気です。
この神社は、植物に一々、何の記念で植樹したかや木に込められた意味の解説を添えて下さっているので、ちゃんと読んで見るのも良いかと思います。
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小生はこう言うのちゃんと読むタチでして、神社の職員さん達の仕事の丁寧さを垣間見れました。
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凄く立派な門ですね。
実は、寒川神社は平成に入ってから社殿の建て替えを行っているので御本殿もまだまだ新品同然の状態で、現代にこれだけの規模の立派な建築物を宮大工さんに依頼すると、どれ程の御金が必要か考えてしまいますね。
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門の絵前右側に社務所が在りますが、こちらも大変に立派です。
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結婚式もよく行われる神社さんだけ有り、少しホテルのロビーみたいな雰囲気も有ります。
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社務所の手前には別の裏門も有ります。
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本殿に行く門の手前の両脇には狛犬さんが控えている訳ですが、この寒川神社の狛犬さんは何だかロボットぽいデザインで個性的です。
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力強く・・・なんだか小生が昔遊んだTVゲームのFFシリーズに召喚獣として出て来そうな・・・
狛犬さんの手前左手には神馬をお祀りする御社も在ります。
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昔はね、絵馬じゃなくて有力豪族は馬を寄進したんですよ。
小生の住む久良岐郡の本牧(ほんもく)半島は、昔は朝廷の牧場で軍馬生産地だったので本牧の地名が残ります。
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でも、この寒川神社の神馬の彫像はリアルで少し怖い(笑)。
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門を抜けると境内は広く、とても綺麗です。
氏子サン達の頑張りで建て替えられた御本殿と整備された境内の石畳、この先数百年の財産に成り神奈川県の文化財に成って行くんでしょうね~。
まぁ、神奈川県と言う制度が残っているかは疑問ですが。
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境内全街がとにかく綺麗。
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新しいし。
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巫女サンも美人だし(笑)。
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八方除けの交通安全の御守りを買いました。津島大社の交通安全の御守りで遠距離運転を守って頂き、寒川神社の八方除けの御守りで車庫入れで四方八方ぶつけない様に守って頂く事にしました(笑)。
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御本殿も立派で、明治神宮よりも立派かも知れない・・・
これだけの規模の建物を良くぞ現代に建てれたものだと感心するばかい。凄いですね。
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ちょうど御祈祷が始まる直前だったので、拝殿に参拝客が沢山いました。
毎日沢山の参拝者が集まるんですね~。古代から栄え続けている神社だけに、財運にも恵まれそうだ。
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本殿の手前左手には御神木が在り、御神木も代を経て現在に至るそうです。
さて、ここからが小生の訪問目的で本題の追儺(ついな)祭の事に成ります。
この神事、ステレオタイプの学者先生共は中国由来云々かんぬん言う連中がいますが、寒川神社や京都の上賀茂神社等、古社に伝わる神事は完全に日本古来の様式の神事で、それ以外の比較的新しい神社が中国風の行事を取り込んで神事を行っているんですね。
寒川神社 久良岐のよし
寒川神社には背後に湧水地が在ります。夜、境内の灯りをすべて消して神職様達が池の水を汲み神前に供えるそうです。
度々解説していますが、延喜式内社の多くでは古代人が生活する基本となる聖なる水=安全な水の湧く湧水地や、海の航行や陸上移動の目標物と成る奇岩等も信仰対象として大切にされて来ました。
この寒川神社や上賀茂神社ではその歴史が守り伝えられている訳です。
寒川神社の追儺祭では、池で水を汲んで神前に供え清前(きよさき=聖水?)とした後に、境内を廻り、清前を撒いて清めるそうです。
この御祭、正月の2日に行われます。是非、皆さんも御参加されて古代からの伝統を体験してみては如何でしょうか?
今回の訪問で新しく延喜式内社専用に購入した御朱印帳に改めて寒川神社さんの御朱印と、近所の前鳥神社さんも御参りして頂いてきました。
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寒川神社さんの御朱印、カッコいいでしょ?
神奈川県内の延喜式内社は14座有るのですが、神主様が常駐している場所も減ってしまって中々、御朱印集め大変なんです。だからほら、小生の御朱印帳も寒川神社さんの右手は山梨県の一之宮浅間神社さんでしょ?
県外の大規模な延喜式内社さんから集まっちゃうんですよね・・・
簡単に御朱印が貰えるのは深水神社、比々多神社、高部屋神社(伊勢原皇大神宮で貰える)、大山阿夫利神社、寒川神社、前鳥神社さんくらいでしょうか。
有賀神社は宮司様にお電話差し上げて自宅兼事務所まで行って漸く拝領する事が出来ました。
なかなか、昔と違って神社にも御寺にも御参りする人は減って、檀家さん氏子さんも減ったので、宮司様も和尚様も複数の神社・御寺を兼任してらっしゃって大変なんです。
上記以外は御参りしても宮司様不在の事が多くてなかなか貰えない。事前に電話してタイミングが合えばと成ってしまいます。
これ、来年の目標ですかね、神社仏閣と歴史偉人の顕彰活動とは別に神奈川県内の延喜式内社を改めて御参りして御朱印コンプリートするの。
では、本日はここまで!
又、次の解説記事で御会いしましょう!




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