歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:高月城

前回の記事⤵
北条家重臣中田加賀守の菩提寺保福禅寺と居城矢上城の解説①
・・・城址(慶應日吉キャンパス)の地勢解説編。
矢上城地形 色別立体図&Googleearth合成久良岐のよし
前回の記事では・・・
1,北条家臣の中田加賀守が居城としていた矢上城の跡が現在の慶応大学日吉キャンパスや日吉駅一帯の台地である事。
2,その日吉の台地が城として防衛に適したとても険阻(けんそ)な地形である事。
3,矢上川や鶴見川と東京湾を利用した水運と交通の要所として経済活動でも重要な最良の❝地勢❞に当たる場所を押さえている事。
・・・この3点の内容を簡単に解説して見ました。
今回の記事は続きですが、引き続き国土地理院色別立体図に加え、実際の現地の写真を交えて御寺の歴史を紹介して行きたいと思います。

先ずは中田加賀守が城の大空堀部分に開いた保禅寺サンの現在の様子の写真と位置を見てみましょう。
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谷上山 保福禅寺(略称:保福寺)
矢上城址 日吉駅 久良岐のよし
保福禅寺サンは直線距離ですと日吉駅から非常に近い位置に存在しますが、旧境内地の丘や谷は大部分が慶応大学日吉キャンパスに成っていて駅から直接来る事は出来ず遠回りする必要が有ります。この慶応大学日吉キャンパス~日吉駅を挟んで反対側の丘の端っこまで城跡と推測出来る地形が今も現存しています。御寺の山号が❝谷上山(こくじょうさん)❞とされている事から、どうやら江戸時代には❝矢上❞と表記される様に成った矢上~日吉一帯の本来の地名は❝谷(たに)❞に❝上(うえ)❞と書いて❝谷上(やがみ)❞と呼ばれていた事が解かり、現在では矢上城と伝わる城名も本来は地形通りに❝谷上城(やがみじょう)❞だったと推測出来ます。
御城には殿様が祖先を弔ったり禅の道場として修行する御寺がよく作られました。保福寺サンも城の大規模な空堀だった谷底に存在しています。敵の侵入口とも成る空堀の先の坂道の手前で敵を迎撃する必要も有り、砦としても機能しながら人を住ませて常時警戒する役割も担う位置に保福寺サンが築かれた事が良く解ります。
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写真は保福寺サンの境内地で、現在は慶応大学に貸し与えてる野球場の城址側や少林寺拳法部の道場の空堀側に続く大空堀南側の岸壁です。
つまり戦国時代~安土桃山時代の廃城まで、この谷間の壁面の端っこから端っこまで塞ぐ形で保福寺の土塀が設置されていて、関東流の築城術である❝谷戸構え(やとがまえ)❞を形成していた事が解かります。ついでに言えば、ここは谷間の平地で入口を塞いでしまえば警備上も安全な上に当時は井戸を掘る技術が未熟で飲み水の確保が困難な台地上より居住し易い低地な上に矢上川を使えば船で鶴見川にでて更に間宮家の領地の鶴見川下流末吉や川崎館辺りで海の船に乗り換えれば主家の北条家の小田原城や、重要な江戸城にも直ぐに急行出来た交通の便の良さも判ります。
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御城の跡の慶応大学の野球場側からは保福寺の墓地が見えます。
余り御城や歴史に興味が無い人は・・・
「御城の中に御寺が在るのって変じゃない?」
・・・と思うかも知れませんが、実は鎌倉時代~安土桃山時代には良くあった事なんですよ!逆に室町時代なんかは御寺の立地が御城に適しているので御寺を移転させて御城を造る事も良くありました。代表的な例は戦国時代最高クラスの謀略家で梟雄(きょゆう=不正義な人)だった松永久秀公の居城の多聞山城が有名です。鎌倉時代から良くある事だったのですが、武家の学問所として臨済宗や精神訓練の場としての曹洞宗の禅宗が道場として機能し、それとは別に各武家に宗旨(しゅうし=祖先からの宗派)も両方とも大切にしていました。ですから面白い事に昔の殿様達の戒名には武士としての禅宗の法名と家系としての菩提寺の宗派の法名の両方が死後に戒名に併用されるケースも多々有りました。
例えば中田加賀守と一緒に黒駒合戦で戦った横浜市南部を治めた間宮家の末裔で、戦国時代から平和に成って色んな現代の文化の基礎が花開いた江戸時代の頃の人を戒名を例に挙げて見ましょう・・・

源朝臣 佐々木氏 間宮 孫太郎 俊信 入道 宗智
これは生前の名前です。この殿様の没後に和尚さんから贈られた戒名は以下の通りです。
正禮院殿 宗智 日惠 居士
〇〇院殿と言うのは家柄や高い役職ついて社会貢献した人物に送られる❝院殿号(いんでんごう)❞と呼ばれる名です。
❝宗智❞は禅宗の法名で一般的に曹洞宗で多く用いられる法名です。法名ですから、生前に精神修養の道場や学問所としての御寺で修行する際に貰う禅宗の弟子としての名前です。間宮家は鎌倉公方の家来を経て戦国時代には小田原北条家に仕えた武家なので、古河(鎌倉)公方家や小田原北条家の宗旨で学問所として機能してた曹洞宗と江戸時代に成っても深い関わりが有りました。
次に❝日惠❞は日蓮宗の法名です。日蓮宗の和尚さんに弟子入りして出家すると法名として❝日〇❞の様に❝日❞の名の付く法名を与えられる事が非常移多く有ります。家の菩提寺が日蓮宗だと没後に戒名として諡(おくり名)として付け加えられる事も多く有ります。この間宮俊信サンは杉田間宮家の一族なのですが杉田間宮家は室町時代に間宮本家から分家して以来ずっと日蓮宗の宗徒でした。
この様に武士の戒名からも現代と違って江戸時代迄は宗派間の争いも少なく平和で仏教同士だけでなく神社と御寺と修験道の道場は御互いに交流が有り、当時の人々も色んな宗派に勉強に行き来していた事実が戒名にも残っていたりします。
中田家も間宮家と同じく北条家臣だったので、ここ横浜市港北区矢上城址の曹洞宗保福寺サンや保土ヶ谷区の正觀寺サン随流院サンの他に日蓮宗の妙福寺サンとも関係が有ったりします。
間宮家の場合は本家の笹下城主間宮家が江戸時代に本牧奉行や摂津奉行等の地域単位を統括する知事を務めた時期も有るので、北条家臣化以前から関係の深かった天台宗系修験道、真言宗系修験道、真言宗、真言律宗の他に、曹洞宗、浄土宗、浄土真宗、日蓮宗の寺院とも関わりが有ったりしました。
まぁ、そんな訳で当時の御寺と言うのは御城の防備や殿様の学問所を兼ねる事があり、中田家の殿様の御子息や一族郎党の学問所としても城下の大空堀の谷にも保福禅寺が建立されたんでしょうね。
ここで御城の遺構残存部の話を始めたい所ですが、先ずは御寺を見て行きます。
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先に解説しましたが、この保福寺サン、山号を❝谷上山(こくじょうさん)❞と呼びます。谷上(矢上)城の御寺だから谷上城から山号を頂き谷上山なんですね。
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だから谷上山だけど谷間に在る(笑)。
さて山門に戻ります。
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この山門をくぐると右手に御堂が一つ有ります。
因みに小生の推測ですが、中田家は江戸時代の藤左衛門サン以前は歴代当主が❝加賀守❞を名乗ったはずなので、この御寺の開基は正直な所いつの時代かは判りません。
中田家の話しに関しては、以前書いたもう一つの正觀寺サンの解説記事を御覧頂けると解かるかと思います。

クリックで記事にリンク⤵
補陀山 正觀寺は北条家の吏僚、中田加賀守の菩提寺・・・保土ヶ谷区東川島町

但(ただ)し、新編武蔵風土記稿にはヒントに成りそうな記載が有ります・・・

新編武蔵風土記稿巻之八 矢上村の項
保福寺
村の中ほとにあり谷上山と號す曹洞宗小机村雲松院末寺なり開基は中田加賀守某なり八王子心源院第六世の僧春悦開闢なればもとより心源院の末に属せり然るに春悦後に當寺をもて小机雲松院の住僧楞室へゆつり與へしが今楞室をもて開山とし雲松院の末寺とはなれり楞室は寛永十五年七月二十九日寂せり、客殿七間半に六間半、本尊阿彌陀を安置す

これ、新編武蔵風土記稿は曹洞宗あるあるに嵌って時代をゴッチャにして誤った解説をしてしまってます。文章で赤字の部分寺を開いた人が中田加賀守曹洞宗雲松院末寺と解説していますが、この時点で既に間違っています。曹洞宗寺院として再興開基したのが中田加賀守です。何故そう言い切れるかと言いますと、緑字の部分小机雲松院の末寺として開かれたと書いていますが小机雲松院は歴史500年弱の比較的新しい御寺です。雲松院は中田加賀守の上司だった小机城城代家老で白備え隊副将の笠原家の菩提寺であり、元々は北条家宿老の笠原信為公の更に御父上が無く成った時に菩提を弔う為に開かれた寺院です。安土桃山時代を生きた中田加賀守と時代的に交流が有りそうなのは笠原信為公の跡を継いだ笠原康勝公ですが、笠原康勝公が開いた龍松院と言う同じ港北区内に在る御寺も笠原家の菩提寺の雲松院も更に又隣町の神奈川区神大寺地区に戦国時代初期まで存在した神大寺の末寺として開かれています。しかし青字部分で登場する八王子心源院と言う御寺は平安時代末期の西暦900年代初頭の延喜年間の開基です。その古い御寺の第六世住職が西暦1500年代末~1600年代初頭では歴史的経過年数に整合性が無い訳です。
しかし八王子の深澤山 心源院の歴史では最初は真言律宗の寺院として延喜年間(西暦901~923年)に智定律師が創建した一寺を醍醐天皇が官寺にして心源鎮静護国院と改めたと伝わるそうです。
更に後に扇谷上杉家の家臣武蔵国守護代の遠江守 大石定久公が(再興)開基となり遠州の高尾山石雲院より開山として李雲永岳禅師を請して曹洞宗に改宗した歴史が有ります。
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※写真は❝あきる野市❞の秋川。左手には高月城、更に日本100名城の一つ滝山城が在る。
高月城址と圓通寺 久良岐のよし
この大石定久公は後に扇谷上杉家が滅亡する過程で小田原城主の北条家に従属して、北条氏康公の子息の北条氏照公を娘の比佐(ひさ)姫の婿養子に迎えて家督を譲って隠居しています。
つまり中田家が横浜市港北区の保福寺を曹洞宗寺院として再興出来るのは、早くとも大石家が北条家に降伏して家臣化して以後のタイミングしか有り得ないので、永禄二年(1559年)11月に北条氏照公が17歳で多摩郡の大石家に婿養子入りして以降の話しなのが解かる訳です。
その大石家が心源院と同じく支援した御寺が戦国時代初期に大石家の居城だった高月城の真下に存在する天台宗の惠日山 觀音院 圓通寺です。
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惠日山 觀音院 圓通寺
この御寺の写真の背後の秋川に突き出した舌状丘陵が高月城跡です。
この八王子市界隈の大石家の歴史から解りますが、心源院は凄まじく古い御寺なので第六代目の住職の春悦開闢和尚は曹洞宗の寺院として再興されてから第六代目の住職だったと言うのが解かる訳です。1500年代初頭に曹洞宗に成っていたとすれば、当時の寺院は世襲制では無いので安土桃山時代頃に港北区の保福寺が曹洞宗として改宗の上で復興される際に心源院が曹洞宗と成って第六世の春悦開闢和尚が関わったとすれば時代的にも整合性が高くなり、極々自然な時間経過と成る訳です。
ですから、新編武蔵風土記稿の保福寺の解説に関しては時代を整理しないまま文章に書き起こしてしまって間違えているのが解かりますが・・・
結論から言うと、矢上城址の保福寺はどっちにしても凄く由緒正し御寺の末寺として開かれたと言う事が解かる訳です。
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そして安土桃山時代に曹洞宗として保福寺が再興されたのと前後して雲松院が開かれた後に、地域的に八王子の心源院より雲松院の方が保福寺から近い事や、北条家宿老で小机城代の笠原康勝公と北条家直臣で小机衆として勤務した中田加賀守公の関係性からも保福寺は中田家によって雲松院の末寺として改められた可能性が推測出来ます。
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御本堂は比較的新しい再建ですが、今も稲毛六阿弥陀の第一番霊場、都筑郡橘樹郡二十四ヶ所地蔵霊場の第十二番目としても由緒正しい歴史が有る事を伝えています。
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山門をくぐって直ぐ右手の御堂が
都筑郡橘樹郡二十四ヶ所地蔵霊場の第十二番目の御地蔵様が鎮座していらっしゃる場所です。
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昨年末の初参拝時にガラス越しですが拝む事が出来ました。
曹洞宗の御寺は余り御朱印目的の巡礼を感心されない和尚様が現代では多くいらっしゃいますが、この保福禅寺は昔からの真言律宗時代からの歴史が有るので御朱印を頂戴に来る参拝客も事前に電話で問い合わせして御住職様と予定を調整すれば快(こころよ)く受け入れて下さいます。
墓地側に廻ると、人工的な手の入っている長い谷地形を確認できます。
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この先は明らかに日吉キャンパス側と慶応大学の日吉キャンパス野球場の台地の通路を狭くする人工的に谷を拡張した上で裾切りして崖地=切岸にした地形が続いて来ます。
もうここら辺から城の解説に成ってしまうので、御城としての地形の観察は次回の記事で書きたいと思います。
最後に、保福寺の南東側の野球場には中田家の大切な場所が有ります・・・
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中田家の供養塔で、元々中田加賀守の墓所が在ったとされる当たりなのです。
この場所に上がる階段は保福寺の山門から見える場所に在ります。
旧境内地に当たりますが現在は慶応大学に安全上の理由で立ち入り禁止にされています。
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実はこの上にはアーチェリー部の練習場が有るので下手くそな学生の流れ矢が頭に突き刺さってしまう可能性が有る訳です(笑)。しかし保福寺から慶応大学が借りている土地なので、慶応大学の事務所に御願いをするか、保福寺の御住職様から話を通して貰えば大学側の都合の良い日に見学をさせて貰う事が出来ます。

さて、一つの御寺にも色んな時代に色んな宗派だった歴史が有るので、明治時代に成る前の江戸時代までの人達は色んな神道も仏教各宗派も修験道も御互いを尊重して共存していた訳ですが、中田家の菩提寺もそんな日本の宗教の変遷を辿る事が出来る由緒ある御寺なのが何となく皆さんに伝わったでしょうか?
次の記事では御城の遺構と思われる地形の解説をしていきたいと思います。

では!又、次の記事で御会いしましょう~♪

昨日は休日。
故(ゆえ)有り、自宅から84km先の羽村市まで行くので徹夜で仕事から帰宅後、寝ませんでした。
布団で寝たら確実に夕方まで起きないからね。
風呂に入り準備をして、AM:7:00頃に車に乗り家を出発。
昨日は、1日中運転しないといけない予定を組んであった。
訪問地
これは結果的に廻った所。本当はこれに今井城が加わり、根搦前水田のチューリップ祭は予定外だった。
寝ずに出発したものの、やはり眠気が来たので、事故起こさない様に2時間海老名SAで車中仮眠、これは予定通り。車の中なら寝過ぎないからね。


主要目的は羽村市の阿蘇神社。
関東で唯一の熊本の阿蘇神社の分社に行き祖先神に熊本県の地震被災民と熊本の産業の復興を祈願する為に、御神酒として御使用頂く熊本の地酒を奉納しに行きたかったので、数日前にアポをとっておいた。
ついでに延喜式内社の二宮小河神社も参詣し羽村市郷土博物館と今井城址と勝沼城址も見学してくる予定も組んであった。

阿蘇神社・・・

熊本県の復興の為に御金は送るのとは別途、精神的にも何かしておきたかった。
他に、圏央道のあきる野IC近く、阿蘇神社周辺で改めて写真を撮影したい場所をいくつかピックアップしておいた。
2016年4月23日訪問先
そして訪問先に選んだのが…
二宮小川神社(延喜式内社)→高月城址→羽村市郷土博物館→阿蘇神社→今井城址→勝沼城址
…だった。
いつも、どっか訪問先を決めると取りあえず周辺も効率的に訪問できる様にしているのだが、訪問時間は事前に計算した上で、ギリギリ回り切れるかどうかの件数をコースに盛り込んで、まぁ~回り切れなくてもOKとしている。
神社や寺院の場合は普通の規模なら30分程度の見学時間を確保…
小さ目の博物館の場合は1時間程度。
そこそこの博物館、一般的な規模の城址、それと大きな神社と寺院の場合は1.5~2.0時間の見学時間が必要…
滝山城址や大山阿夫利神社の様に山全体が史跡の場所の時は少なくとも3~4時間はかかってしまう。
今回の訪問地はGoogleEarthで事前に見ても、時間がかかりそうな場所は羽村市郷土博物館と高月城の各1時間ちょいと、阿蘇神社の宮司様訪問の時間だったので、全ての訪問先と現地移動時間を足しても6時間程度を見込んでいた。

そこで冒頭の寝ずの出発に成った訳で…
朝の4時過ぎに徹夜明けで帰宅すると、風呂入ったりしていると6時過ぎに成る。仮にそこから寝ると絶対に昼まで起きず12時過ぎてしまう。そこから横浜を出発して八王子の先まで行くと、それだけで最短距離の訪問先到着にも2時間はかかってしまい14時到着では、予定を半分もこなせないのは目に見えていたので…
●先(ま)ずは入浴して準備をして直ぐに出発
●朝の東名高速海老名SAで車中仮眠(これなら寝すぎない)
→以下順路+α、現地で気に成った場所を回る事にした。
…で、海老名SAで朝8時前後~10時位まで車中泊(仮眠)。DSC_0946
その後、朝食。
1ヵ月に1回は来ているのに、いつもは名物のメロンパンかけんちん汁、もしくは屋台で済ませていたのだけど、以前から気には成っていた店が・・・
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海老名SAは製菓企業のカルビーがファストフードの店を出店している。
今まで食べた事無かったので食べてみた。
意外に美味しかった…と、言っても料理としてじゃなくて子供が喜びそうな味と言う事で。
まぁ、悪くは無いので是非お試しあれ…
食べきれなかったので、ポテチとアボガドのバーガーは昼食にとって置く事にした。

あきる野IC出口の観光案内所からの眺望が既にのどかで綺麗だったのだが…。
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あきる野ICで圏央道を降りて二宮神社に向けて続く道が既に滝山街道と言う道で、武田信玄が軍勢率いて関東に略奪に来る時に使う道だった。
江戸時代には甲州街道に続く街道として栄えた道なので、渋滞中に撮影した風景はやはり江戸時代の街道の風景そのものだった。

…で、二宮神社に到着する。
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あきる野市は湧水多くて水が綺麗な場所だ。

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二宮神社は明治時代に成るまで小川大明神と呼ばれた場所だが、それは古代縄文~弥生時代に井戸を掘る技術が無かったので、安全な湧水池が聖地として大切にされたのだろ。それ故に武蔵国二之宮の二宮小川神社の名が、小川郷の地名に成ったのだと思う。
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残念ながら、関東の延喜式内社は伊勢系統の神様と関係の無い場所が多いので、明治時代の国家神道成立以来、宮司様御不在の場所が多い。こちらも月2回しか御朱印頂けないので、今回はタイミングが合わなかった。
→車で10分移動し高月城へ移動。
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…城好きには有名な目印。高月城の目標は城址公園の看板などではなく、❝愛の城❞ホテル高月城の看板が建っています。
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マークした舌状丘陵全体が高月城の址。
ここはネットに城址としての遺構が少ないとか書いてる阿呆が多いけれど、実際には堀底道がラブホと背後の城址の間の道として現在も利用されている上に、背後の城址部分にも堀切や腰曲輪群がちゃんと残っている。
整備したら良い城址公園に成るレベル。
その城址の近くには西暦900年代に造営された古刹圓通寺が在る。
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ここの御住職に昔の末寺が沢山あった事とか、地域の事を少し御教授して頂いた。非常に親切な御住職様だった。滝山地区や高月城下の鎮護の御寺として民百姓の崇敬を集めた場所なのだろう。
御寺の位置的にも、高月城主や武将達の崇敬を集めたはずで、よくある城址の近くの重要な位置に在る鬼門鎮護の役割も果たしていたと思う。高月城址の東側、秋川の渡河地点近くだしね。
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その秋川は水が凄く澄んでいて綺麗でした。
その秋川越しに見る高月城(左側)と周辺の風景も凄く綺麗です。
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高月城と秋川を挟んだ対岸は、この季節BBQ施設に成っているようでした。
秋川から望む高月城址の逸話に「前庭に高閣あり、矢倉などを相かねて侍けるにや、遠景すぐれて数千里の江山眼の前に盡ぬとおもおゆ」と京都の聖護院(南禅寺近く)の門跡だった藤原氏出身の僧侶道興が、高月城から見た風景を記録している。
もっとも、これが高月城かは名前が明記されていないので確証は無いとされていますが、地元の人はこれが高月城と今でも伝承しています。

→羽村市郷土博物館に移動。

羽村市も田舎だぞ!すんごい風景の綺麗な田舎。
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羽村市は実は江戸時代の玉川上水の水の取水堰が築かれた町で、羽村市郷土資料館は如何にしてこの町から江戸の町まで水を供給したか、この町の重要さが解る場所だった。
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江戸の町を支えた井戸水も全て、この用水から流れる水を貯水したもので、つまり、羽村が江戸の発展を支えた場所って事が解るんだな。
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ついでに、館内庭に移築された国指定重要文化財の古民家下田家住宅の囲炉裏で沢山焚き火の煙を浴びて良い気分♪
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あと、徳川親藩と関連深い江戸時代の医者の御屋敷の赤門もある。
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藤の花も綺麗だった…
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そこから阿蘇神社に向けて移動…
する途中で、道路に❝チューリップ祭り❞の看板が出ていたので無性に気に成り訪問。
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めっちゃ綺麗だった!この御祭りの存在を知らなかったのだけれども、来年も見に来たいと思いました。
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必ず来よう。日野自動車とかCACIOサンとか、羽村市周辺に工場を持つ企業も協賛しているようだ。
羽村市周辺 久良岐のよし
この場所は❝根搦前水田❞と言う場所らしい。
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因(ちな)みに、この場所を通る街道が雨乞い街道と言って旱魃(かんばつ)の続いた時に、丸山(城跡か古墳か?)下にある淵(ふち=水深が深い場所)で神事を行う為の巡礼の街道だった様です。
阿蘇神社や羽村市郷土博物館からも近い。河川敷に近く、奥多摩街道の在る河岸段丘の一段下の段丘面に在るので見落としがちだけれど、是非、多くの人に見て貰いたい場所だと思う。
そんな訳で、阿蘇神社はチューリップ祭の会場から徒歩でも行ける距離だった。
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藤原氏によって逆賊として謀反を捏造された名将、平将門公が肥後国の阿蘇神社から御分霊を勧進されて造営された神社だ。
今回の訪問は、熊本復興祈願として御神酒に熊本の酒を奉納したくて事前にその旨、御連絡差し上げて訪問した。
25日、神社本庁の指示で日本全国の神社の月例祭で熊本の復興祈願と地震鎮静の祝詞(のりと)が唱えられる。その際に熊本の御酒を阿蘇神社の建磐龍神様に御供えして頂きたくて、持参した。DSC_1123
宮川宮司様と禰宜職宮川様は親子でらっしゃいます。
とても親切にして下さって、小生の参拝に復興祈願の祈祷までして下さいました。
そして宮川と聞いて気に成っていた宮司様の姓…
新選組の近藤さんの実家は宮川姓で、近藤さんの御兄さんの御子孫宮川家は今も天然理心流の先生なのだが、天然理心流宮川先生と阿蘇神社の宮川宮司は年齢こそ離れているものの何となく声も外見も似ていた。
もしかしたら多摩地区の宮川繋がりで遠い昔、元々は御一族だったんだろうか?
熊本の復興が成るまで、毎年、参拝に来ようと思う。

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この阿蘇神社の川岸側には、羽村市郷土博物館で見た羽根用水の一部が今も現存し今も綺麗な水が引き込まれている。
来年の正月と、チューリップ祭りの季節には又御参りに来よう。
→この時点で既に17時近く日没まで1時間ちょい。チューリップ祭りで30分前後費やしたから、残る目的地の青梅地区の今井城址か勝沼城址のどちらか一つしか廻れない。
旧城主三田家の重要性から、今日の写真撮影訪問は勝沼城址を優先する事に決定。
急いで出発…
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勝沼城址は入口が解り難い。
そのせいで、城址は遊歩道として整備されているのに、御覧の通り入口は住宅街の奥の私有地と勘違いしてしまうような場所。
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でも入口見つかれば、立派に曲輪の土塁や埋もれた空堀の遺構、が荒らされずに現存している。
鉄塔の在る場所が展望台に成っている。
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この眺望、昔は街道が良く監視で出来ただろう。
城址左手側、光明寺や師岡神社側の横、墓地に繋がる谷は勝沼城の大空堀の跡。
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空堀と言うけれど、昔は巨大な沼掘りだった筈(はず)だ。
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住宅地の裏手には今も沢が流れていて水仙が植えられている。
この舗装されていない地盤は湿地帯のそれで、足がめり込んでしまう。
DSC_1128
墓地の横には城址の遊歩道保全計画に関連した地形図が有るので、これが縄張り図替わりに役に立つ。

さぁ~来年の正月は、阿蘇神社の御参りと、今回、写真撮れなかった今井城址を回らないとな。
…地元で信奉する神社と御寺、毎年御参りしている神奈川の延喜式内社と御寺も御参りして…
大変な移動距離の一日に成りそうだ。



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