歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:高来神社

高麗権現 高来神社(神功皇后と渡来人が開いた神宿る山) 
鶏足山 慶覚院 高麗寺(行基菩薩が開いた高麗権現社の別当寺)
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  御祭神・御本尊等:神皇産靈神(かみむすびのかみ)・高麗大神和光(こまおおかみのわこう:高麗権現)・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・応神天皇・神功皇后  ・東照大権現(徳川家康公)
  御利益:海外渡航安全・交通安全(陸海)・敵人懲服・子宝・安産・地鎮・技術発展
  関係者:
  開基:武内宿禰
     神功皇后
     古代渡来人
  中興:高句麗王族帰化人 若光
     日本初の大僧正  行基 菩薩
     征夷大将軍    源  頼朝 公
     源頼朝公室    北条 政子 様
     相模守      北条 氏綱 公 以下歴代当主
     征夷大将軍    徳川 家康 公
     慈眼大師     天海  大僧正
  旧郡名:淘綾郡
  所在地:高来神社・・・中郡大磯町の高麗山の国道一号線側、山全体が旧境内地
  所在地:慶覚院・・・高来神社の参道右手
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
明治時代以前の神仏習合時代の旧社名は高麗権現社。
神功皇后が三韓征伐の帰国時、当時はまだ日本の一部だった朝鮮半島南部から移住して来た人々と共に高麗山の山上に日本神話の神皇産靈神と高麗の神である高麗大神和光を共に御祭りしたのが始まり。
神功皇后の時代は丁度、臺与の頃、古墳時代初期に当たると考えられるが実は伝承を立証する様に高来神社周辺一帯は渡来人の遺跡が多く、例えば高麗山南部には釜口古墳、王城山横穴墳墓群、旧吉田茂邸や旧三井家別邸の在る大磯城山公園の城山にも横穴式墳墓が大量に存在する。
時代は下り日本が天智天皇の治世となって7年後の668年に朝鮮半島北部の古代日本の友邦だった高句麗が中国の唐帝国によって滅亡させられる。滅亡した高句麗から高句麗王族の若光が日本に亡命帰化し、大磯の高麗に定住したと伝わる。この頃の唐帝国はそれまでの周辺国との友好関係を破棄し侵略戦争を開始しており、その外交政策の転換には則天武后が台頭した時期と重なるので則天武后の影響力で唐が侵略政策を開始している中国の権力争い等政治的な背景が神社の歴史から見てとれる。
更に後、養老元年(717年)に日本初の大僧正に任命された行基菩薩によって高麗権現社を保護する鶏足山 慶覚院 高麗寺を造営し以後、高来神社の前身である高麗権現社の別当寺と成り神功皇后以来の日本と渡来人の文化が神仏習合の聖地として更に発展、最大時には境内に24の僧院社殿が建ち並ぶ大規模な神宮寺と成った。鎌倉時代にも源頼朝公と北条政子様御夫妻や幕府の御家人立からも崇敬を集めた。
しかし室町時代に成ると度々戦火に遭い、僧坊は焼失してしまった。小田原城主と成った北条家によって領地が寄進され存続し、豊臣家の天下が定まり関東の戦乱が就職した頃に徳川家康公が江戸に入ると徳川家から100石もの寺領を賜わった。普通は5~10石、歴史有る場所で20石程度、100石は異例。余談だが出雲大社は2000石で最早大身旗本なみの軍事力を持てる石高だった。
江戸時代には高麗山の前が東海道だった為、参勤交代する大名も必ず籠を降りて参拝するのが習慣化していた。
明治時代に成ると明治政府の宗教改革で神仏分離令が励行され、北条家や江戸幕府の支援で復興した高麗山山上に在った社殿や僧坊は撤去され、更に高麗権現と朝鮮半島由来の名前も高来神社と改めさせられた。山上の社殿で御神体とされた仏像や仏教由来の文化財は旧観音堂である下社に移された後、知足山慶覚院に移され現代に至る。
古来からの古代日本文化と渡来人文化が融和し、坂東平氏が相模国へ移住し日本独自の武家文化を発展させた基盤と成る騎馬文化や醸成した土地でも有る。

平成廿九年 正月 二日の休日雑記の続きを書く。
前回の休日雑記で2017年1月2日訪問先の【前編】←コレでは川崎市橘樹郡の郡衙として機能していた橘樹神社~中原街道を走って川勾神社に辿り着き参拝した所までを書いた。
川勾神社は延喜式内社にして相模国二之宮の格をを有する由緒正しい“長閑な田舎”に鎮座する雰囲気の良い神社だ。
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参拝を終えて、アルバイトの巫女さんが多くいる長閑で正月の華やかな雰囲気の境内を一しきり散策して車に戻った。
次の目的地は六所神社。
行きたい場所は事前に頭の中で整理して置いて、当日は中原街道を走って運転中に予定を決めた。
川勾神社の到着予想時刻から逆算し川勾神社から東海道沿いに相模国六所の神社の内の数ヵ所と、それとは別の式外社、史跡を巡ってから毎年「神奈川県の土地神様」として御参りしている三之宮比々多神社を日没までに参詣する最終的な目標にする事にした。
川勾神社から六所神社は車で30分とかからず近い。隣の大磯町に所在する。
大磯と言うのは明治時代に“湘南”の地名の発祥地と成った場所で、その由来は中国の地域名に由来する。
多くの小高い丘を有し海に面した地形が三国志に登場する漢帝国の行政区、荊州の中の長沙城一帯にあった湘南地域に似ている事から名付けられた。長沙と言えば三国志で❝江東の虎❞の異名で知られ孫子の子孫を自称した名将の孫堅が一時的に太守として赴任していた場所だ。
明治の元勲達は脱亜入欧を唱えたものの、中国文化に対しては敬意を持っており造詣の深い人物達が多かった。彼等の多くは明治政府樹立後に大磯町や鎌倉市や三浦半島の逗子市に別荘を持っていた。
そんな訳で、大磯町には三井家の別宅も存在したり、御金持ちの一大避暑地と成った。
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その大磯辺りは海岸の横の東海道の松並木の崎に富士山が見える何とも風流な地域だ。
当時の鎌倉市や三浦半島逗子は“湘南”には含まれていない。
昨今、県外から移民してきた現代の神奈川県民が勝手に鎌倉や逗子も湘南地区の一所に数えているが、鎌倉は鎌倉、逗子は逗子で確固たる地位と歴史と習俗を備えており新興の観光地の大磯町近辺と一緒にされるのは生粋の鎌倉市民にとっては心外な事だろう。
とは言っても大磯町は古代に磯長国の国府が置かれ後に古代の相模国国府も暫時置かれていた場所、当然、鎌倉よりも古代に於いては高い地位に有った町だったりする訳だ。
さて、そんな事をこの日考えていた訳では無く、車に乗った時に考えていたのは・・・
「たこ焼き美味しかったなぁ~」
・・・だった(笑)。
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六所神社に到着すると、先ずは東海道に面している大鳥居付近にて箱根駅伝の交通規制開始時間を交通誘導員のオジちゃんに尋ねて大凡、この時点から1時間後と言う事が解った。
この時点で参詣後に無理をして車を出すのを諦め、六所神社参詣後は箱根駅伝を沿道で観戦して楽しむ事にした。
六所神社の大鳥居から境内に徒歩で戻る。
実は現在、JR東海道線の線路で境内と参道は寸断され、地下道で繋がっている。その地下道の手前右手には明治の神仏分離令まで六所神社を別当寺として守って来た御寺が鎮座している。CIMG2148
摩尼山寶積院(まにさんほうしゃくいん)。真言宗の御寺なので、かなり古い時代から存在するのだろうと、山門代わりの石柱を見て思ったが、御寺には由緒の説明が無かったので後日、大磯町観光協会様のホームページを拝見して見た所、藤原氏に弾圧されながらも後に聖武天皇の御墨付を賜って大僧正の法号を賜った行基大僧正の開基と言う事だった。
つまり、奈良時代、天平年間以前に御寺が開かれていた事に成る。
行基大僧正や弘法大師空海和尚はどうやら日本の神々を大切にされていたので、その聖跡に多くの御寺を建てて廻っているのは小生のブログの読者は既に知る所。
この六所神社も相模国の成立後の国府設置で神様(豪族の祖先)同士がモメた(笑)伝承を神事として現在も伝える国府祭(こうのまち)の祭礼に登場する神社の内の一座だ。
現代では神様を一柱の様に数える単位を“柱”で表現するが、昔は神社自体は一座の様に“座”を数える単位にしていたので小生は古代の風習に準じ現代に於いてそう書く。
座は座(ざ)と読むが、神奈川県では特に古代は座(くら)と読んだ。他地域の事は知らない。
高座郡は今でこそ高座郡(こうざぐん)と呼ぶが古代は高座郡(たかくらぐん)と読んだ。
これは弥生時代に米の生産が盛んに成り、それを保管する場所に高床式倉庫(蔵=くら)が建設される様に成り、やがて住まいも竪穴式住居から高床式住居に発展し、更に古代の豪族の酋長=王=上様(かみさま)=神様達の住居として高床式倉庫を発展させた宮殿が造営される様に成った歴史そのものの名残りが「座(くら)」の読み方の由来だろう。
出雲大社の古代の社殿や、現在の神道の神社の神様のおわす本殿部分は完全に弥生時代の高床式倉庫を継承した外観に成っている。
さて、JR東海道本線の線路の下の隧道(すいどう=トンネル)をくぐり抜けると立派な御神木が左手に現れる。
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梅と桜と紅葉以外に興味が無く風流さと植物に対する造詣の欠けた小生には何の木かは解らないが、昔から参道の御神木として大切にされたんだろう。
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六所神社は大変に賑わっていた。
それはそうだろう。
此処(ここ)に御参りすれば一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、仮称五之宮鶴峯(平塚)八幡宮の全ての御利益を授かれるのだから。
何故かと言えば、六所神社の名が示す通り、ここは相模国の総社だったのだ。
これが国府祭神事にも関係してくる訳だが、その話は又今度。
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六所神社の境内は現代では凄く広い訳では無いが、住宅街の中に在って規模は大きい方だと思う。
この日は延喜式内社と式外社専用に購入した鷲宮神社の御朱印帳に改めて、六所神社の御朱印を頂き参拝した。
この日の訪問は別の目的も有った。神社の方に古代から国府祭の神事が行われている神揃山の中の聖地の位置を教えて貰う事。
神社の方はとても親切で、簡単な地図を下さり丁寧に説明をして下さった。
神揃山の場所は解るが神事を行う場所が解り難く、事前に調べないと必ず迷う。
観光客向けの神事は現在では国府本郷の馬場公園で行われているが、ちゃんと一之宮~六所神社の宮司様達が一堂に会して古代からの神事を行う場所を訪問しておきたかったから、この機に写真撮影も兼ねて訪れる事にしていた。
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そんなこんなで、六所神社境内を散歩しながら写真を撮影し、御朱印を頂いた頃には東海道沿道での箱根駅伝観戦に丁度良い時間帯に成っていた。
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事前のリサーチ時に係員の方から頂いていた旗を構えて選手を待つ。
・・・反日朝〇新聞の旗じゃなくて良かった(笑)。
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暫くすると先行の白バイ隊が来た。
その後に少し珍事が有って、片側車線規制を無視したDQNの運転する車が覆面パトカーに捕まって観衆の嘲笑の対象に成っていた(笑)。
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中継車では無くて監督の乗る車両かな?
この駅伝見学で一番感心したのは、報道のヘリコプターの操縦技術だった。
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ずっと道路に対して横向きでホバリングしたまま、東海道を東京都の出発地から、この大磯まで選手のスピードに合わせて中継して来たらしい。
こんな事に感心しながら選手の到着を待つ。ヘリの位置から駅伝選手の先頭集団の通過が間もなくで有る事が推測出来て周辺がザワつき始める・・・
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選手が通過する。沿道の人々から「頑張れー」の声が連呼され拍手が巻き起こり旗を持つ人は選手に向かって旗を振り鼓舞する。
何とも爽やかな時間を皆で共有する瞬間。小生はスポーツ観戦に平素興味が無いが人を応援するのって気持ちが良い。以前は格闘技をやっていたので総合格闘技の試合を良く見たが、それとは違う青年達を面識の無い人々と一緒に応援する清々しさ・・・悪くない。
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選手達は原付程の速さで走り抜ける。時速25kⅿくらいは出ているんじゃないだろうか?
これで走り続けるのは感心する。
そして長距離走選手達を見ていて思ったのは、皆、身体が小柄で体重も軽そうな事だ。やはり長距離を疾走するには燃費の良い身体では無いと無理なんだろう。小生の瞬発力と膂力(りょりょく)に特化した遺伝子とは明らかに異なる。
まぁ、小生は小生で人を持ち上げて放り投げる位は簡単に出来るのは他人からすれば長所でもあるのだろうが・・・そんな物は、彼女や奥さんがいる人しか使う必要が無いので目下小生には必要の無い無駄な筋肉だな。
駅伝を一頻(ひとしき)り観戦し、交通規制が解除されたのを確認して六所神社の駐車場に戻り車に乗り込んだ。
六所神社から神揃山は車で10分程度と近い。
まぁ、問題は先に説明した通り予備知識が無いと迷って聖地に辿り着けないと言う事だ。
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最初に馬場公園(ばんばこうえん)を訪れた。
馬場を関東~東北~北海道では古来、馬場(ばんば)と発音した。これは騎馬文化が広まった古墳時代の関東弁の名残だろうか?近畿を除き、九州四国中国関東には共通する言語が方言に多い。これは古代の正しい日本語の名残りだと思う。それらとも違うアイヌ語にも多くの共通する言葉が有る。
古代の日本人は「神(かみ)」と書いて「神(かむ)」と読んだが、やはりアイヌ民族は神を神(カム)と呼んだ。
神居古潭(かむいこたん)はアイヌ語で「神の御座所」と言う意味が有る。
恐らくアイヌ語は古代の縄文語だと思う。
小生はアイヌ人を生粋の九州人や関東人と同じ縄文時代に分岐した同族だと推測している。
東日本を開拓し縄文時代から弥生時代の変革を齎したであろうた素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御神孫の出雲神族が東日本の延喜式内社では多く祀られている。その際に、素戔嗚尊の開拓の及ばなかった地域がアイヌ民族として残ったのだろう。
アイヌ語で首都の事を「カイ」と言うそうだ。これは東日本に於ける縄文文化の中心地が甲斐国周辺に有った事を示唆している可能性を想像させる。
律令制度下で甲斐国が成立するが、それ以前はもっと広大な範囲を甲斐と呼んでいたかも知れない。
そういった意味で、アイヌ民族の文化の中心地的なルーツが関東甲信に在るのじゃないかと何となく思っている。
伊豆大島や箱根山系からは金属の無かった縄文時代に刃物に加工しやすく重宝された黒曜石が産出される。
さて、そんな事を思い出させる馬場(ばんば)公園の名前だが、本来の神々が集うた聖地である神揃山は、そこから徒歩圏内。但(ただ)し、川勾神社や六所神社で頂ける資料では記された登山口から辿り着くには非常に林道が解り難い。

神揃山登り口 久良岐のよし
そこで小生が❝Google map❞に❝神揃山❞の位置を登録しておいたので、訪れたい人は検索して見ると辿り着けると思う。馬場公園から北側の山の稜線、最西端の南部が神々の集うた場所。
しかし、六所神社等で頂く資料だと登山口に指定されているのが、聖地の北西からで林道も荒れており非常に判り難(にく)い。
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特に観光地でも無いので案内看板も存在せず、最初の訪問時、小生は林道らしき道を進み続けて北側の見当違いな場所に出てしまった。馬場公園から北を見て一番西側の細長い丘を右手側から廻ると簡単に辿り着ける。敢えて説明の林道を歩く必要は無いので、直接、聖地の横の階段から登れば良いと思う。
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神様(の子孫の古代の酋長=宮司)達が、ここで対峙して話し合いを行ったそうだ。
その並び通りに各神社の名前の彫られた石柱が有り、古代に神様が腰かけたであろう神体石が現在では神様の依代(よりしろ)として現存している。
特に社殿等存在しないが恐らく、古代は、ここが六所神社の前身と成った❝柳田大明神❞そ所在地だと推測している。
この聖地が削平地なのは社殿か豪族の宮殿の跡地ではないかと推測している。発掘調査をすれば、高床式住居の遺跡でも出て来る気がする。
何故ここが柳田大明神の元宮と推測するかと言うと、神話の時代の前半期、縄文時代~弥生時代は現在の六所神社の所在地は海底だったからだ。
延喜式内社 久良岐のよし - コピー
神揃山は現在は丘だが、昔は海に突き出した細長い半島の先端だった筈なので、延喜式内社が湧水地、半島の付根と先端に開かれた歴史事実とも整合性が有り、小生の推測は間違っていないと思う。
そして、現在、柳田神社が六所神社と呼ばれ相模国総社と成ったのは、この聖地に鎮座していた柳田神社が話し合いの場で相模国の豪族が融和し神話通りの戦乱が拡大するのを回避した事件が起きていたのだろう。
それ故に総社と成ったのだろうと推測出来る。
恐らく、この事件が起きたのは雄略天皇の時代だと思う。つまり日本史の文章に残らない空白の古墳時代の事。
まぁ、恐らく当時は、ここでの話し合いでの席次の譲り合いや座問答に至るまで、大小の軍事的な衝突も有っただろう。
当時は青銅器も既に生産されていた筈だから、殺傷力の強い銅剣や武具を装備した軍隊同士の戦いだった筈で、縄文時代~弥生時代の様に、石鏃の弓矢や石斧の様な兵器から、より鋭利で頑強で生産効率の高い金属兵器に変わっていたので戦い方も古墳時代には大分変わっていた筈だ。
東京国立博物館所蔵 土偶画像借り物 久良岐のよし
この甲冑を来ているのは酋長クラスの古墳から出土される事の多い甲冑に近い、奈良時代の物。右の土偶は東京国立博物館所蔵の埴輪の画像の借り物。
小生は個人的に弓矢合戦が主流だった平安末期~鎌倉時代の箱型の大鎧よりも戦国時代の派手派手しい甲冑よりも、この古墳時代の甲冑のフォルムが実用的で格好良く好きだ。まぁ、この時代の甲冑は戦国時代と比較すると下半身がガラ空きなので問題が有るのだが。
古墳時代位成ると、こんな鎧武者が登場して戟(げき)や戈(か)や鉾(ほこ)と呼ばれる武器が歩兵の主流武器だった。
だから平安時代の武士の弓合戦の後の太刀打ちの戦いとも違うし、室町時代の薙刀(なぎなた)や槍(やり)の薙ぎ切り刺す戦い方とも違い、古墳時代は弓合戦の後で歩兵同士の乱戦が主流だったはずだが、これは三国時代の卑弥呼政権以来の中国の兵器導入の影響が色濃く残っていた証拠だな。
引っ掛け倒して刺すとか穂先が大型の兵器で圧し切る様な戦い方。
まぁ、国府を何処にするかで佐賀牟国と磯長国が恐らく争った訳だが、話し合いで決着を付けたのは日本人らしい神話だと思う。
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神揃山は説明の看板も有るので、神揃山~馬場公園~六所神社は良い散歩コースに成る。
御近所の方なら御弁当用意して散歩するのも良いかも知れない。
神揃山の丘を降りて車に戻り、次の目的地の大磯城山公園に移動した。
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この山は明治以降、三井財閥の三井家の別荘が建っていた場所で、古代から住み心地の良い場所だったらしく、その丘陵には多くの横穴式古墳が存在する歴史遺跡でもある。
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立派な門。
だが、これは当時の物とは違う。
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元々は茅葺屋根で、廃仏毀釈の影響で荒廃した奈良の薬師寺と菅原寺の建材を引き取って再利用したらしい。
東京の浅草寺からも建材が再利用されたらしい。
東京の浅草寺と言えば、江戸時代初期に北条家臣で金沢八景辺りを治めていた伊丹家の子孫が浅草寺で高僧に成っており、その人物が祖先の故地である金沢八景、当時は金沢小泉と呼ばれた土地に小泉弁財天を開いている。小泉弁財天は現在では手子神社と呼ばれるが、元々は源頼朝公が開いた瀬戸神社の御分霊を勧進されて開いた由緒ある神社だったりする事を、この説明書きから思い出す。
瀬戸神社は金沢八景駅前に今も鎮座しているが、その境内の鎮守の森だった周辺の山は横浜市教育委員会が歴史的価値を無視して保護せずに土建屋に開発させてしまって近年消滅した。
神社と言うのは社殿だけで神社ではなく、周辺の山や池が聖地と成っていて初めて成立する事を、左翼が跋扈し左翼建設利権にまみれた横浜市の政治家と教育委員会は重要性を理解していても黙殺して破壊させる。
この城山城址公園の歴史史跡としての自然環境を保護する大磯町やその周辺自治体とは、横浜市の程度は雲泥程の差が有る。
大磯町教育委員会の素晴らしい仕事を、この場所の存在自体が示してくれている。CIMG2221
ここは城山城址公園と呼ばれるだけあり、源頼朝公が論功行賞を行った城址と解説が有るが、三井家に庭園化された時代に城址の防御施設は撤去されたか、はたまた海辺の風の強い土地柄、風化したのか遺構らしい物は余り残ってはいない。
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しかしながら、この写真の場所には三井家のべっぞうだった時代には更に鋭角な谷地形が有ったらしいのだが、これは明らかに尾根を断ち切る堀切の遺構だろう。
そして、この尾根自体が左右を鋭角に切り出し道幅を狭くした城壁状にした切岸だろう。
源氏と坂東平氏流の鎌倉時代の築城術に多く見られる。
平安末期の三浦家の本拠地の衣笠城址、鎌倉市街を取り囲む鎌倉城、金沢北条家の称名寺を取り囲む金沢城の稲荷山等は正に、この大磯城山城址公園の数少ない遺構らしき地形が現在も多く残っている。
拡大して貰えると読めるかも知れないが、頼朝公がここで論功行賞を行った事等が、教養の高かった昭和前期の人々によって石碑に彫られて紹介されている。
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実は戦前の神奈川県の役人は非常に教養が高く、多くの歴史史跡に後世に伝える為に石碑を建てて説明を詳しく書いてくれている。
しかし、現在の神奈川県教育委員会は教養が浅く、こういった事実も知らない人が多く、平気で歴史史跡を宅地開発させる政治家と結託して遺跡を破壊させてしまう。城址は文献に載る場所も、伝承が伝えられている場所も特に横浜市は発掘調査せずに破壊させている場所が殆どだ。しかしならがら明治~戦前の高い教養を持った人々が建てた遺跡によって、その悪事がバレる事も有る。
歴代でも一番酷いのは昭和30年代の他都市育ちの市長達、そして現在の林文子市長だ。林市長に関しては岡崎トミ子と言うテロリスト支援者出身の極左活動家を政治支援する様な人物なので御里が知れる。
若いころに車の営業でベンツ等の高級外車を300台近く売りさばいた等と伝説の様に語られているが、それが事実ならば「当時ベンツを好んで乗りたがる集団や組織と繋がりが有った」と言う事に成るだろう。まぁ、昭和の大手土建屋は移民とヤクザが多く関与したのは歴史事実だ。
現在、林市長が破壊容認している円海山と言う場所は奈良時代からの蹈鞴製鉄遺跡が発掘され、古代の淡水の大型の貝の化石を大量に含む地層が有り、そして鎌倉武士達が通った古道が林道と成っており、横浜市最大最後の緑地であり自然繁殖した❝蛍❞の最後の生息地だったりするが、そこを東急グループに開発させようとしている。
大磯町の様に教養の高い御役人と市長が治める町を訪れ、自然公園や史跡を廻ると現在の横浜市長と教育委員会の程度の低さが際立ち、本当に嫌気が差す。
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大磯町はそういった事が無く、三井財閥の様に文化財保護に貢献した昔の御金持ちの文化を受け位でいるので、こうして公園内には多くの古墳も保護され公開されている。
横浜市にも横穴式古墳は大量に存在したが、馬鹿な教育委員会が防空壕と見分けが着かず、戦後の防空壕をモルタルで封鎖すると言う戦後の政策で、古墳の入口をまで塞いで破壊に及んでいる。
大磯町は古代と中世と近代の歴史遺跡を公園化し自然も守り、本当に良い仕事をしていると思う。
歴史の話に戻ると、大磯には古墳が多い。
これはやはり、古代早くからこの地域が開けていた証拠だろう。
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この公園内には大磯町郷土資料館も有るのだが、残念ながら正月は休みで見学出来なかった。
仕方なく、公園内を散歩した後、車に戻り次の目的地である高麗山の麓に鎮座する高来(たかく)神社に向けて出発した。
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高来神社は実は明治時代までは高麗神社と書いた。
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この高来神社の石柱に揮毫したのは紀州徳川家第14代当主だった徳川頼倫公らしい。
徳川頼倫公の時代は既に徳川幕府も解体され、御本人は政治家では無く、明治時代の公爵だった。
明治次代の政治家は一つ欠点が有り、日本文化の中には古くは中国渡来、後に朝鮮渡来の物もあり、それらも受け入れ古来の文化に融合させ発展させて、元朝に打ち勝った武士文化の礎と成った平安文化に発展したのに、アジア文化を軽んずる風潮が流行し、その様な政策を行った。
御蔭で、この由緒ある高麗神社まで名前を高来神社に変えさせられた。
愚かだ。
ここは、そもそも当時は朝鮮半島南端にも住んで居た日本人を度々襲う新羅を征伐した息長長足媛命(おきながのたらしひめのみこと)こと神功皇后が朝鮮征伐に遠征した際に、神功皇后に伴って日本に渡って来た朝鮮半島の人々が関与した神社で昔は背後の高麗山山頂に鎮座し、神社自体も神功皇后が開いた凄まじい由緒を持つ場所なのだ。
参道横には慶覚院と言う御寺が在り立派な門構えをしていた。
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真新しいので極々最近に建て替えたようだ。
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御寺の地紋は徳川家所縁の御寺なので三つ葉葵紋だった。
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天台宗の御寺らしい。扁額に揮毫した人物名が天台座主大僧正惠進と書いて有る。
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御本堂も御寺の規模に対して立派だった。
場所的に昔から別当寺として存在するのかと思いきや、説明を読む限りでは比較的最近、こちらに移転された御寺らしい。
高来神社の参道に戻る。
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古代の朝鮮の中でも百済人等は現代の反日韓国とは違い親日国であり同盟者だった。
同盟国ではないが北部の高麗人も友好的で朝鮮族(満州より)の中の刀伊(とい)と言う部族が壱岐国や博多辺りに襲来し(今も昔も朝鮮は変わらず)日本人女性を拉致し半島に連れて帰った所、高麗人が彼等を征伐して日本まで被害者を送り届けてくれた歴史が有ったりする。
つまり、反日は人種の問題なのでは無くて、完全に国の教育と文化程度の問題な訳だ。そんな訳で、朝鮮由来の神社の名前だからといって盲目的に高来神社と由緒有る高麗神社の生を変えさせた事は非常に愚かな政治圧力だと言える。
反日国の中にも親日家や常識の有る人はいる。かく言う小生自体も中国人の友人や義兄弟もいる。
見分ける事が大切なのだ。区別すれば良いだけだ。反日外国人を憂慮するならば、入国審査を厳しくして、ノービザ入国出来る国に対して協定を破棄すれば良いだけだ。どうせ日本との国際条約を簡単に破棄する様な国くらいなんだから、反日国は。
所で、この神社の参道も奥行きが有って雰囲気が有る。
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但し、神社が開かれた当時は背後の高麗山の山頂に神社は鎮座していた。
この高来神社を開いたと伝承する神功皇后は恐らく臺与なのだろうと小生は推測しているが、仮にそうだとすると西暦300年代頃から当地に鎮座している事に成る。
いずれにせよ、八幡宮と同じく渡来文化も含む地域の神社だったので延喜式内社として報告されなかったのだろうが、確実に式外社である事は間違いない。
今回は初訪問だったが、存在を知ってからずっと崇敬する神の内の一柱である神功皇后所縁の場所だけあり絶対に来てみたいと思っていた。
参拝客は川勾神社や六所神社程多くは無かったが、それでも近郊の人が絶える事無く少しづつ御参りに来ていた。
源頼朝公始め、歴代の相模国統治者が崇敬した歴史も有る。
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ふむ、良い神社だ。
雰囲気が良く、庶民に親しまれる神社。
参拝を終えて次の目的地、平塚八幡宮に向かった。
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平塚八幡宮は、その境内の規模の大きさや日本三大七夕祭りの一つ❝平塚七夕祭り❞が周辺で行われる事から湘南地区での知名度は抜群で恐らく、神奈川県下では鶴岡八幡宮や川崎大師に次いで参拝客が多いかもしれない。
午後三時頃に到着したが、案の定、駐車場への入庫は順番待ち。しかしながら平塚市の対応は素晴らしく、ちゃんと臨時駐車場を準備しているのさしたる混乱も起きてはいなかった。
立派な山王形式の大鳥居。
今回の訪問の主目的が川勾神社と平塚八幡宮のデジタル写真撮影だった。
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なかなか立派な造り。
この平塚八幡宮は明治時代まで鶴峯八幡宮と呼ばれた場所で、平塚八幡宮様自体は自称していないが国府祭に登場する神様なので五之宮と呼ばれている。
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大鳥居をくぐると左右に池が在るのは鶴岡八幡宮と同じ設計。
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屋台も沢山出ていていて賑やかだった。
本殿へ向かう前に御朱印を御願いしておいた。
本殿への入口には狛犬さんがいる。
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平塚八幡宮の狛犬様はデザインが恰好良い。
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個人的に造詣的に好きなデザイン。
いざ参詣。

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中々の賑わい。左右には破魔矢や御守りを販売する屋台が出ており、アルバイト巫女さん達が奮闘しておられた。
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立派な神社。県下でも一之宮寒川神社や鶴岡八幡宮の次に栄えているだけある。
一頻り摂社も全て御参りし、社務所で御朱印を受領し、車に戻る前に折角なのでオヤツと言うか夕食代わりに屋台で何か買う事にした。
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小生が選んだのは明太ジャガ。
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じゃがバターも美味しいけれど、これも悪くない。
駐車場に行く前に、平塚八幡宮の横に気に成る建物が在ったので立ち寄って見た。
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横浜の元町や山手に在りそうな洋館。
子供の時に来た事が有るのかも知れないが予備知識が無かったので説明看板を探してみた。
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どうやら横浜ゴムの平塚製造所の施設だったらしい。残念ながら開いてはおらず、外観だけ楽しんで車に戻った。
この時点で夕方の16時15分位だったろうか・・・
平塚八幡宮から比々多神社は車で30分位。そう遠くは無いが道路状況次第では17時前に間に合わない。
小生はこの数年間、毎年比々多神社も正月に御参りするのが習慣に成っているので何としても御参りしておきたく、とりあえず向かう事にした。
途中で富士山が綺麗に見えた。
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昔の人達が此花咲耶姫(このはなさくやひめ)命(のみこと)の化身として拝んだ富士山。
その富士山の此花咲耶姫命の御父さんとして平安時代~江戸時代の人々にも崇拝されたのが神奈川県伊勢原市の大山で、大山阿夫利神社にはその神様の大山祇神(おおやまずみのかみ)様がいらっしゃる。
実は比々多神社は戦国時代に宮司家が北条家に敵対する三浦家に味方した為に攻落され、その場所は元宮に成っている。
そして比々多神社の神職も宮司様も小生が指摘するまで御存知無かったのだが、現在の拝殿と元宮を結ぶ真っすぐ直線状には大山の山頂が有るのだ。
比々多神社は旧境内地から縄文時代の聖地であるストーンサークルや立石や古墳時代の墳墓も大量に発掘されており、古代人から現代人に受け継がれた間違いない聖地である訳だが、恐らく、神社の配置上、大山信仰とも何某かの関係が推測出来る。
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比々多神社に16時45分位に着くと本殿を御参りする事も出来る状態で、参拝客に無料で配布される御守り授与もまだ行っている様子だったので安心した。
本殿で御参りをし、本殿右の幕舎で受領している無料の御守りを頂き、巫女さんに鈴で御祓いをして頂くのが、ここ数年間の正月の習慣。
先にも述べたが小生は横浜市民として、偉大な菅原道真公に一番近い御子息が御住まいに成っていた永谷天満宮を横浜の土地神様と知恵の神様として拝み、三之宮比々多神社を神奈川県における土地神様として信仰し、別に走水神社と橘樹神社で一年間の大欲、つまり公共に利する事を成し遂げられる様に心願を祈願して、その上で氏神様として自分の祖先神の某国造の神様を拝み、そして尊敬する歴史偉人達にも念頭において御参りをしている。
これを全部やってやっとお正月と言う実感がわく。
無論、尊敬する北条綱成公の菩提寺龍寳寺や間宮家関連の神社仏閣も御参りする。
特に比々多神社は、その歴史的な存在価値から大好きな場所でもあり、近くに義叔父も住んで居る事から用事が無くても一年に数回来る。
そして、本殿だけではなく、背後の元宮もいつも御参りする。
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当然、この日も欠かさず御参りし、御祭神の豊国主(大国主命)様、大酒解神(此花咲耶姫命)、小酒解神(大山祇神)に昨年一年間の感謝と今年の抱負を伝えた。
この地を治めた平安時代の三浦家の岡崎義実公、戦国時代の扇谷上杉家の三浦道寸公は小生がいつも遥拝する偉人の1人でもあるが、比々多神社を保護した先人でもあり、いつも御守護頂いているので、その事も日々伝えている。
我々が現在の日本文化を享受し、日本文化が有るからこそ、日本は他国と違い都会の真ん中でも自然を大切にする文化が育まれている事を念頭に置いて、神社仏閣では其処を保護して来た先人に対しても感謝するべきだと小生は考えている。
中でも日本神道や朝廷儀礼を復興し、日本の経済と文化を飛躍的に発展させ応仁の乱以来の中央の戦乱を終わらせた織田信長公は小生が歴史偉人の中で最も崇拝する人物であり、明治天皇によって建勲神の神号を追贈された❝文化守護者の神様❞である。
だから小生の部屋には織田信長公も名前の入った御朱印を書いて頂いた色紙が、御分霊代わりに肖像画と一緒に祀ってある。
他にも菅原家の神様と偉人、和泉式部様、河内源氏の歴代棟梁、坂東平氏の殿様達、北条家歴代の殿様、間宮家の殿様と姫様、太田道灌公、蒔田吉良家の殿様、宅間上杉家の殿様、足利家の殿様、徳川家の殿様を同じように日々拝んでいる。
歴史が有り大切な場所でもあるが、現代では余り有名では無くなり荒れた神社仏閣を復興させる仕事をしたい。
先ずは間宮家の顕彰活動を今年終え、そして織田家御子孫の母である生駒お類さんの菩提寺久昌寺を廃寺の危機から救いたい。
そこから神社仏閣復興の経験値を積み上げて、宅間上杉家、太田道灌公、蒔田吉良家、玉縄北条家の顕彰活動をライフワークにし、偉大な人物と繋がりがある歴史史跡、町の中の小さな神社仏閣や祠や御地蔵様の事を広く世に再認識して貰う事を形にして行き、後々に残していきたい。
宮司様や和尚様は内側から文化と偉人の業績とを守り伝え、それを外からフォローする何かを形にしたい。
金と再認識させる宣伝だな。
もし将来大金を稼げる身分に成っても、生活と老後に必要な分以外は全て、社会の為に使おうと、今年も比々多神社の神様の前で強く思った一年の始まりの第2日目だった。
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帰る間際、比々多神社の駐車場では既に梅花が開き始めていた。
小生の尊敬する菅原道真公、菅原景行公、菅原淳茂公と御縁の深い花。
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綺麗だ。
今年は梅の開花が早い様だ。
Twitterにも曽我梅林の開花状況報告が上がっていた。
コレは去年書いた梅林紹介の一覧。
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神奈川県には梅花鑑賞の名所が多いので、是非、皆さんドライブがてら梅花鑑賞ピクニックに行かれては如何だろう。

※追伸
更新が遅くなってしまい申し訳ない。
間宮家の顕彰文の追記とリアの仕事が忙しくて中々、ブログを更新できませんでした。
水曜日は神社仏閣紹介一覧も更新したいと思います。























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