歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

熊本地震の義捐金受け入れ窓口 ふるさと納税義捐金公式ホームページ→http://www.satofull.jp/static/oenkifu_kumamoto.php

タグ:高部屋神社

高部屋神社:高部屋八幡宮
(延喜式内社・古代神事を守る国指定文化財の神社)
丸山城址公園(鎌倉時代の名将、糟屋有季公の城址)
高部屋神社元宮(古代人の聖地、渋田山山腹の水源)
2016-01-03-12-42-57
2016-01-03-13-53-18高部屋神社本宮の位置 久良岐のよし
  御祭神・御本尊等:神倭伊波禮彦命(かむやまといわれひこのみこと:神武天皇)・息長長足媛命(おきながのたらしみめのみこと:神功皇后)・三筒男命(みつつおのみこと:住吉三神)・誉田別命(ほんだわけのみこと:応神天皇)・大鷦鷯尊(おおささぎのみこと:仁徳天皇)・磐之媛命(いわのひめのみこと:仁徳天皇皇后)
  御利益:武芸(スポーツ)上達・戦勝祈願・漁業豊漁・農業豊穣・治水・雨乞い・地鎮・交通安全(海)
  関係者:
  開基:聖地渋田山(奥津城)周辺の古代人
  中興:糟屋庄領主 糟屋 有季 公
     関東管領家 上杉 定正 公=扇谷上杉家当主
     相模守護代 太田 道灌 公
     左京大夫  伊勢 宗瑞 公=北条早雲
     北条家臣  渡辺 岩見 公
     征夷大将軍 徳川 家康 公
  旧郡名:大住郡 
  所在地:高部屋神社と丸山城址公園・・・伊勢原市高部屋付近、国道246で分断された丘
  所在地:高部屋神社本宮・・・大山山系の伊勢原市下糟屋、渋田山の山腹
  ※所在地名をクリックするとGoogle mapの地図上で確認出来ます。
歴史概要】
本来の神社の発祥地である元宮は関東総鎮護の聖地、大山山系の一つ、渋田山に紀元前より存在したと伝承する。
御祭神は三筒男命(みつつおのみこと=住吉大神)、神倭伊波禮彦命(かむやまといわれひこのみこと=神武天皇)、息長長足媛命(おきながのたらしひめのみこと=神功皇后=臺与?)、誉田別命(ほんだわけのみこと=応神天皇)、大鷦鷯尊(おおささぎのみこと=仁徳天皇)、磐媛之命(いわひめのみこと)と、いずれも海上交通や土地開発や海外渡航と戦争に関係の有る天皇や神様な上に、本宮の在った渋田山が弥生時代前後まで周辺が海だった事からも、水神様と土地開発と先勝祈願の神様としての性格が有る。
古来渋田山は奥津城と呼ばれた霊域だったので、古代人の関与が深い土地でもあった。
明治時代まで「汐汲み神事」が行われており、海岸線が後退し内陸16kmに神社が取り残されても歴代の宮司が徒歩で海まで海水を採取しに行く神事が続き明治時代に伊勢原皇大神宮の管理下に置かれ伝統神事は一時途絶えたが、現在の伊勢原皇大神宮の宮司家によって150年前に途絶えた神事が2018年から再開された。現在も海が近かった時代の風習を垣間見える風習が有り社殿の注連縄(しめなわ)に海藻の「神馬藻(ホンダワラ)」を飾る。
平安時代末期に成ると現在の社殿のある丘陵に要塞を築いて糟屋庄を領有した糟屋有季公が、所領の総鎮守として渋田山から現在の高部屋神社の所在地に社殿を移転させた。本来の渋田山の本宮跡には現在は社殿は無いものの御神霊を祭る祠(ほこら)が今も鎮座している。
糟屋有季公は武勇に秀で、源頼朝公による逆臣源義経討伐で活躍し、義経の重臣佐藤忠信を討取り堀景光を逮捕する事に成功している。
戦国時代に渡辺岩見守により社殿が再建し、江戸時代に成ると徳川家康公より社領安堵の御朱印を賜り江戸幕府より保護された。
この高部屋神社は式内社で有る事から古来より有名で、江戸時代に江戸の町人や武士に流行した「大山参り」のコースに組み込まれており、神社の鳥居前の道も旧大山街道だった事や下糟屋の宿場町だった事で、御利益に肖(あやか)りに来る非常に多くの参拝客で賑わった。
又、いずれも天皇も「天皇」の呼称が始まる前の古代の正式な名のまま祀られている事も、由緒有る古社である事を物語っている。江戸時代には高部屋八幡宮の名で親しまれ雨乞いの神様として有名だった。
高部屋神社の丘一帯は軍事拠点としても重要な場所だったので、鎌倉時代~戦国時代の歴代の領主によって城塞として使用され、各時代ごとに改修された事が解る城址公園として、近年国道建設で分断された丘陵の一方は丸山城址公園が整備されて見学出来ます。
海に関係する神社だけあり、屋根の唐破風部分には浦島太郎伝説にまつわる彫刻が有り、社殿は2017年に国の登録有形文化財に指定された。

前回の記事→【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先③・・・横浜市内~海老名市~厚木市~伊勢原市~平塚市~寒川町(の内、七人塚~上粕屋神社~関東屈指の大城郭糟屋館遺構)←これの続き・・・
2018年01月02日 訪問先順路 久良岐のよし
糟屋舘周辺の散策を終えて洞昌院に戻り御住職に非売品の御守りを授与されてから車に乗り出発、10分程度で次の参拝先の相模国三之宮の比々多神社へ到着した。
CIMG6200
延喜式内社 三之宮 比々多神社
この神社は有鹿神社や寒川神社や大山阿夫利神社等の古社に比肩する凄い場所で、旧境内地からは縄文時代からの祭祀遺跡や古墳時代の豪族の墳墓が多数出土している聖地に存在している。
そこら辺りは以前に紹介記事を書いたので読んで貰えると解り易いかと思う。
以前書いた記事→比々多神社…縄文時代~現代まで存続する神社…神奈川県伊勢原市。
神奈川県の旧街道と古代神社の位地 久良岐のよし
何でここが古代早くから開けていたかと言えば、目の前を街道が通っており、更に現在の平塚市域等の県央平野部は縄文時代まで海だった影響で湿地帯が広がっており弥生時代に成るまで人が住める場所が少なかったので、現在では大山山系麓の丘陵地帯に位置する比々多神社周辺が人の住める地域だったと言う地形的な理由にも起因している。
そして郡衙が近くに存在していた事も推測されている。郡衙と言っても相模国成立以前の豪族首長が住む小国の国府が起源に成っている訳で、それ故に金環鉄刀やら勾玉やら大量の出土品が出る聖なる土地な訳だ。この一帯は古代人が聖地として崇拝した大山の山頂へ続く参道でもあったので尚更栄えた訳だ。
CIMG6201
この様な場所が神奈川県には多数有り、それ故に仁徳天皇の弟皇子である莵道稚郎子(うじのわけのいらつこ)も古墳時代に現在の神奈川県域に移住して来た訳だ。横浜市本牧や武蔵国南部では軍馬生産が盛んな朝廷の牧場が存在していた事も判っているし、鉄器の製造も比較的早くから盛んな地域だった。
なので天智天皇が馬で山科方面に外出したまま行方不明に成り(暗殺だろう)、弟皇子の大海人皇子が兄帝の天智天皇の子で甥に当たる大友皇子に反逆し軍を率いて蜂起した際に与力したのが東海・関東の豪族達だった。特に現在の千葉県は強大な軍事力を持つ土地だったので、後に上総国下総国等は“親王赴任国”となり皇族しか国守に成れない制度が確立される程だった。
まぁ、天皇家の歴史に関しては各時代の天皇にとって先帝の血筋を武力や陰謀で絶やしたり不都合な事も有って諸説有り正直な所現代ではどの記録が本当の事かは解らない。
まぁ、天智天皇は相模国を重視していたので古代一之宮、今五之宮である有鹿神社で国家鎮護の祭祀を執り行わせ海老名を国府にしたり、古墳~奈良時代の天皇家は特に熱心に神奈川県中央部の延喜式内社や神仏習合の聖地霊場にも関与している事が書物や各神社の伝承から読み取れたりする。
CIMG6202
比々多神社始め神奈川県内の延喜式内社は天皇家が神仏供に大切にした歴史と同じく、神仏習合時代の文化も大切にしているので比々多神社には鐘楼も現存していて、昨年大晦日は除夜の鐘を突かなかったので訪問した正月2日にして心願を込めて比々多神社で鐘を突かせて頂いた。
CIMG6203
寒い1月、境内の焚火が参拝客の手を温めてくれる。
CIMG6208
現在の本殿は古代から戦国時代までの境内地の元宮の遥拝所に当たる位置に存在する。
この比々多神社では御正月に御参りすると横にテントが在り、そこで小さな御守りを無料で授与して下さる。
CIMG6209
御正月の間だけ、臨時の学生巫女さんと神職君が多数雇われており、本殿横のテントでは巫女さんが無料で簡易的な御祓いをして下さり、それが終わると神の護符を授与して下さるんだな。
小生は毎年、これを受領しに参拝している。
参拝を終えて巫女さんに御祓いと比々多神社の護符の授与をして頂き、近くに比々多神社元宮に移動した。
CIMG6212
元宮に行く途中に、古代比々多神社で聖地として大切に守られて来た“埒免(らちめん=囲われた土地=聖域)”の地名が残っていたのに神奈川県教育委員会が保護も事前調査もせずにキリスト教系の恵泉女子学園に破壊容認してぶっ壊した埒免古墳の旧蹟地が在る。
CIMG6215
このキリスト教系大学にも卒業生にも罪は無い。しかし教育委員会には罪が有る。教育委員会は日本文化に無知なキリスト教系大学による神道の聖地の破壊を誘引してしまった訳だ。
この罰当たりな行為のせいか恵泉女子学園は閉校してしまった。これを祟りと感じる人もいるだろう。
でも通った学生さんや働いた職員は例えクリスチャンでも歴史と事情を教育委員会から知らされていたら比々多神社にも敬意を払っただろうし、無碍な古墳破壊もしなかっただろう。
まぁ、こんな神奈川県の教育委員会の罪は比々多神社一箇所に止まらず死ぬ程有って、例えば現在進行形で他府県なら史跡指定受ける筈の続日本100名城の一つに選定されている小机城を開発利権絡みか未だに史跡認定せずに放置していたりする。横浜市最大の蛍の生息地で古代遺跡が大量に出土する地でもある円海山の瀬上沢周辺も東急不動産の開発利権の為に保護を怠り開発容認する発言を林文子市長が行っており、市民から大バッシングを受けている真っ最中だったりする。
更に戦国時代の小田原城の虎口跡の百姓曲輪と、戦国時代初期の関東最大級の規模を誇った扇谷上杉家の大城郭糟屋舘跡の開発許可も昨年、黒岩県知事が陣頭指揮をとって保護すべき所なのに逆に肝腎な城砦遺構残存部分は未調査なまま開発許可が出され現在進行形で破壊の真っ最中だったりする。
昨年は傾きマンションで有名な三井不動産レジデンシャルが、北条家相模十四騎筆頭、間宮家の居城の横浜市笹下城址の伝:本丸と大空堀地形を掘削したり盛土して破壊した宅地化が林文子横浜市長の統治の下で行われ消滅してしまった。
残念ながら神奈川県や横浜市でまともな歴史教養と古来の日本文化と宗教に対する敬意を持っているのは有吉忠一先生や細郷横浜市長や高秀横浜市長くらいだった。
後は博徒系ヤクザ組長の息子が支持者でカジノ作りたがったり海の埋め立て工事の開発利権で建設業界の支持基盤にする市長みたいな売国奴や奸族ばっかりだ。
コイツ等のせいで日本有数の景勝地だった金沢八景の眺望も消されたり、日本有数の霊場だった弘明寺は境内地を大幅に接収されて縮小したり、源頼朝公が開き皇族が宮司を務めた森浅間神社や修験道の大道場だった泉蔵院等も同様の被害を受けて来た。
森浅間神社からは比々多神社同様に古墳が出土している事から鎌倉時代以前から聖地霊場だった場所を頼朝公が修験道系神社として整備させた事も推測出来る。
CIMG6213
現在では埒免古墳のレプリカさえ一般人は近寄る事が出来ず、旧恵泉女学園大学のフェンスの外から写真を撮影する事しか出来ない。
でも元宮は社殿こそ戦国時代の三浦家と北条家の抗争に巻き込まれ焼失したまま復興されなかったが、旧境内地が明治昭和の宗教政策で一般人の土地と成っても徳の高い地元民に守られて旧境内地として存続した。
CIMG6222
近年では元宮の祠(ほこら)がパワースポットとして若者に知られる様に成り(小生の拡散も有り(笑))眺望の良さからも比々多神社参拝のデートコースに成り恋人同士の参拝者を見かける事が多く成った。
少しでも日本文化の役に立ち神格を得て拝み奉られる古代人や歴史偉人に今の日本が有る事と平和を享受出来る事へ恩返しが出来たら嬉しい・・・それが小生の願い。
そして多くの人が神社や御寺を御参りする事で不安感を抑えられたり、生きる活力に成ると嬉しいとも思う。
小生もカップルと親子連れの参拝者に続いて比々多神社元宮を御参りして駐車場に戻ると、次は伊勢原市中心部に在る伊勢原大神宮に向けて移動した。
CIMG6224
伊勢原大神宮伊勢原大神宮は江戸時代に開かれた神社なのでハッキリ言って歴史は薄い。
でも町中の普通の規模の神社としては大変に多くの参拝客で賑わう場所で、境内社の御稲荷様の鳥居も小さいながら立派な明神造りで扁額が掲げられ大切にされ御金もかかっている事が解ったりする。
CIMG6225
伊勢原大神宮は現代では縁結びの神様として有名だが、小生は別の用事が有って参拝した。
CIMG6237
実は伊勢原大神宮の宮司様が延喜式内社高部屋神社(旧社名:高部屋八幡宮)の宮司を兼務されておられる都合で、高部屋八幡宮の御朱印はこちらで授与して頂く事に成っているのだ。
CIMG6241
境内には市の私邸保存樹木の大銀杏が有る。
御正月なので先に参拝した比々多神社同様に巫女さんが沢山いらっしゃって、この日は御屠蘇を巫女さんが振舞って下さった。
CIMG6235
小生は車なので口を付けて終り。でも御口清めれて嬉しい。
CIMG6231
御朱印帳を社務所にお預けし待つ間、ここまで珈琲を飲んだのみで朝食も食べていなかったので屋台で売っていた磯部餅と甘酒を購入し朝食代わりに頂いた・・・この時11時半位だったろうか?
CIMG6233
家を出発したのが3時位だったので腹ペコだった。
CIMG6232
甘酒を飲んだのは久しぶりなのでともても美味しかった。
CIMG6239
境内ではダルマさんの製造元が直売も行っていた。荒井だるま屋さんだな。
気さくな社員さんが色々と詳しい説明をして下さった。創業150年の老舗だそうだ。略、横浜開港と同じ程の歴史が有る訳だな。
神様への御参りを終えて社務所に行くと御朱印も書きあがり受付に準備されていた。
高部屋神社御朱印 久良岐のよし
実は以前、糟屋有季公の顕彰活動で別に高部屋神社の御朱印は受領していたのだが、今回は延喜式内社と式外社専用の御朱印帳に改めて頂に上がった次第だ。
CIMG6229
この日は丁度、箱根駅伝の開催日だったので宮司様の取り計らいで神楽殿のプロジェクターを使って中継の様子が上映されていた。
小生はこの後の訪問予定がギッシリ埋まっていたので、箱根駅伝に後ろ髪を引かれながら伊勢原大神宮近くのコインパーキングに移動し車に乗ると、次の訪拝予定の高部屋神社へいどうした。
CIMG6242
高部屋神社
CIMG6243
高部屋神社は昨年、社殿が国指定有形文化財に認定された神社で、古代から存続する延喜式内社の一つだ。
社殿の周りを取り囲むのは聖なる木、1円玉のデザインにも成っている招霊樹(おがたまのき)だな。
CIMG6244
この神社は明治時代まで古代からの宮司が海まで海藻を採取しに行く塩汲み神事が行われていたが明治の宗教改革の失敗で神道も仏教同様に衰退し一時断絶していたのを昨年150年ぶりに今の宮司様が復活させた。
現代の伊勢原大神宮の宮司様が兼務されているのだが、古代からの神事を現代に復活させる試みは本当に素晴らしく、神職として日本文化を守る気概に満ちていると思う。
東京新聞の記事→伊勢原の高部屋神社 大磯の海岸で執り行う
以前、小生もこの神事を記事に書いて紹介した甲斐が有ったと思うし、この神事が中絶しても語り継いで下さった氏子さん達には敬意を感じている。先一昨年だったろうか、この古代から続く神事の事を小生に伝えて下さった氏子さん、本当に良かったですね!
以前書いた高部屋神社の記事→
高部屋神社で氏子さん達と「文化財登録おめでとうございます」等と雑談を色々と10分程話し込み、次の目的地であり戦国時代の毛利家の発祥地愛甲郡毛利台へ移動した。

・・・【休日雑記】2018年01月01日~2日の訪問先⑤に続く。










 

今年(2016年)の正月3日、明治時代に新道が開通するまで、江戸からの参拝客でごったがえした強い御利益を持つ、それはそれは古い歴史を持つ高部屋神社に御参りに行ってきました。
その時に写真を撮って来て書いた記事が↓コレです。
【前編】高部屋神社と丸山城址公園…神奈川県中央内陸部が海だった事を伝える神社。伊勢原市。
その記事でも少し触れましたが、この高部屋神社のある丘陵が、数十年前まで完璧な城址として残存していた“丸山城”、昔の名を“糟屋(かすや)城”“千鳥ヵ城と呼ばれた平安時代末期~戦国時代中期の御城の跡なんですね。
2016-01-03-13-48-58

現在は周辺の宅地化と国道246号線の建設で城址主要部分と高部屋神社は寸断されてしまっています。
ですから丸山城址公園へは高部屋神社から歩道橋を渡って行くか、住宅街の中の上の石碑が有る場所から入る事に成ります…
と、その前に!
少し高部屋神社付近の様子を衛星写真と航空写真で見てみましょう!
現在の高部屋神社周辺です…
糟屋城の現在
宅地化されてしまって、どこがどう城址なのだか、全体像が判り難(にく)く成ってしまっています。
では少し前、昭和52年頃の様子を見てみましょう…
糟屋城カラー
ふむ!これを見ると良く城址の規模が判る!
先に見たGoogle Earthの衛星写真で高部屋神社と糟屋城主要部分の位置を確認して見て下さい。
現在では糟屋城は城址公園部分の半円形の部分しか有りませんが、この1977年の衛星写真を見ると、城址を取り囲む空堀(昔は水掘りか?)が丘陵の東端まで繋がっており、南側は川が外堀の役割を果たしている大分と東西に延びた大きい城址の地形が残存していた事が解りますね!
因みに、この一帯は米軍が終戦直後1946年に撮影した写真も有ります。
糟屋城白黒
この写真だとよりシンプルに道が解りますね!
高部屋神社の記事を書いた時に少し触れましたが、実は神社の前の道が大山街道と呼ばれる旧街道でして、江戸時代は大山詣(もうで)で大山山頂を目指す江戸からの観光客が絶えなかったそうです。
糟屋宿
今でも江戸時代の名残が有りまして、高部屋神社の前の大山街道の古道沿いには旧糟屋宿、つまり大山街道の宿場町だった糟屋宿だった範囲が判るバス停の名前として残っています。
“糟屋上宿”と“糟屋下宿”ですね!
この上下の間の距離は300m程です。この300mの範囲に昔は旅籠(はたご=りょかん)や料理屋が数十軒並んで賑わったんでしょうね~!
さて、何故(なぜ)、この大山街道の話をしたかと言いますと…
江戸時代以前の御城は町を守る為の物では無く、街道を抑えて敵の侵入を阻害し防衛する場所に築城(ちくじょう=御城を建てる事)されたんですねぇ~。
現代人の感覚だと、町を守らない城とか聞くと歴史に興味の無い人は「え?町を守らないのに城なの?」と思うでしょうね。
2016-01-03-13-44-32
でも良く考えて下さい…
江戸時代以前には、根本的に商業都市なんて日本中探してもほとんど無かったんですよ?
だって戦国時代は、庶民の買物はまだまだ物々交換が主流の時代でしたし、商業経済中心の社会では無く農業主体の社会だったんですね。
つまり、守るのは町では無くて領地全体の農地だった訳です。ですから根本的に敵の侵入を防ぐ位置に御城は作られた訳です。
先程説明した通り、この糟屋城の一部にある高部屋神社の前が旧街道です。
戦時には街道の城内部分の門を閉じてしまえば、敵軍の進行を防げますね。
つまり、糟屋城は典型的な昔の御城だった訳ですね。
ついでに言いますと、この御城を築城した最初の城主は糟屋(かすや)藤太郎(とうたろう)有季(ありすえ)公と言う鎌倉幕府初代征夷大将軍の源頼朝公の配下武将で、命令遂行能力の高い方でした。しかし、頼朝公亡き後、幕府を乗っ取った北条家と対立し有季公は二代将軍の源頼家公の遺児一幡を逃がそうと奮戦して討ち死にしました。
その一族は京都に逃れ、没落するのですが…
戦国時代にはこの糟屋城は小田原北条家の領土に成ると、その北条家臣の中に糟屋藤十郎と言う名前の武将が存在しています。
彼の苗字の「糟屋」と名前の「“藤”十郎」から、間違いなく糟屋有季公の御子孫でしょう。
推測ですが、鎌倉時代に北条家と対立し降伏した子孫が、勢力は縮小したまま土着して命脈を保っていたか…
京都に移住した子孫が北条早雲公に仕えて共に関東に下向し、祖先の故地を与えられたか…
そのいずれかでしょうか?
北条家の領地支配は大義名分を得る為に、その土地を嘗(かつ)て支配した武将の子孫に領地を支配させて、北条家の領土統治の正当性を示す傾向が有りました。
その代表例が現在の川崎駅一帯の堀之内に在った城塞を拠点にしていた間宮家、それと小机城代だった笠原家の例ですね。
笠原家は祖先がまだ相模国と武蔵国が分裂する前の佐賀牟(さがむ)国国司だった家系の子孫で、その子孫の支配地域と思しき地名が小机なので笠原家を小机に置く事で、北条家の支配の正当性を示したのでしょう。
川崎駅周辺は、鎌倉時代に源頼朝公の重臣の佐々木高綱(たかつな)公の城館が在った場所なので、高綱公の親族の佐々木行定(ゆきさだ)公の子孫に当たる間宮家に川崎駅周辺の支配を委ねたのでしょう。
さて、何で古い城は街道沿いに御城を造ったかが解った所で、丸山城址公園の説明に戻ります。
2016-01-03-13-54-04
この丸山城址公園は、平安時代築城の後、室町時代に扇谷上杉家の支配の後に北条家の支城だったので関東流の特殊な築城術がいくつも盛り込まれていました。
その代表例が上の写真の空堀を障子(しょうじ)の様に区切った“障子掘り”ですね。
障子掘りは小田原北条家特有の施設です。他の大名の城には見られず、唯一北条家以外では北条家の小田原城を攻略出来なかった経験を持つ豊臣秀吉が自分の大坂城建設の時に総掘りに、この北条家の障子掘りの技術を導入していました。
そして下の写真は横矢(よこや)と言って、城壁を登ろうとする敵を横から射殺する事が出来る形状の施設の跡の“出構え”部分です。
2016-01-03-13-47-23
この構造を有する城は関東以外には余り有りません。
甲斐武田家終焉の城、新府城には同じ施設が有りました。
新府城
新府城の縄張り図では上の東堀に同じ構造が見られます。
丸山城址にも、この構造が少しだけ保存されています。コレ↓ね。
2016-01-03-13-46-42
この横矢のかかる出構え部分の下、現在の遊歩道部分は昔は空堀でした。
この空堀部分の上、一段高い所にも少しだけ城跡が保存されていて、説明の看板も有ります。
芝生の公園で、目立たずに見落としがちですが…
2016-01-03-13-43-26
ちゃんと下の写真の様に土塁が一部分ですが保存されています。
2016-01-03-13-43-41
そして、素人でも解る様に、発掘調査に基づいた推定形状も丁寧に解説の看板が立っています。
2016-01-03-13-41-26
う~ん伊勢原市教育委員会、素晴らしい仕事をなさってますな~♪
2016-01-03-13-42-19
こんな感じで、現存部分は極めて狭い範囲ですが、丁寧な説明看板が有り城址公園として整備されていながら、城址公園の上の部分は子供が自由に遊べる広場に成っていて、公園施設と歴史遺跡保存の両立が上手くなされています。
横浜市も城址破壊したり、山をわざわざ削って公園作らないで、城址公園整備による公園確保と史跡保存の両立を見習ってほしいと思いました。
因(ちな)みに近くには、戦国時代関東最高の軍師、太田道灌公の首塚も有ります。

さて、短い記事では有りますが如何でしたでしょうか?
きっと調べれば皆さんの家の近くにも、平安時代~戦国時代の武将達が居た御城の跡が有るはずです。
少し調べて気分転換の御散歩に城址散策して見ませんか?
散歩ししながら先人に思いを馳せると言うのも中々楽しいものですよ!

では!また、次の記事で御会いしましょう!

3日…
遅起き寝正月。
昼の11時にモゾモゾ起き出し、せっかくの休日が勿体無いので発奮!神奈川県伊勢原市に行ってきた。

神代より存続する延喜式式内の古社の高部屋神社
神話を証明する史跡群の中にある御三ノ宮比々多(ひびた)神社
 
普通、神社は南面を向いて社殿が建設されるが、この比々多神社は南東にある。
これは、この現在の社殿の役割があくまで「拝殿」であり、戦国時代まで裏山にあった本宮跡地を本殿に見立てているからだろう。
比々多神社位置関係
衛星写真で見ると一目瞭然です。
今日は正月だから巫女さん達が売店に沢山いて、御参りしたら鈴で御払いを無料でしてくれた。
2016-01-03-14-20-36
神社で巫女さんが祭事で使う「鈴」は「黄心樹(おがたまのき)」と呼ばれる植物の代わりに使われる様に成った祭器で、1円玉の表面のデザインの植物がそれだったりする。
この「おがたまのき」は音の発音では「小賀玉木」とも書かれたりするらしいのですが、正式には古代大和語に意味が同じ漢字を当てて「招(おが)霊(たま)樹」と書く。神の御霊を降臨させる植物と言う事でしょうかね~?
招霊樹が自生しない地域では良く似た榊(さかき)を用いるそうです。
御神前や御仏前に供えるのは、古代日本宗教の名残なんですね。
全国の緒方サンや尾形サンは、この古代語で書かれる植物と関係が有る仕事をしていた御先祖様を持つのかもしれませんね。
そして戦国時代三浦家の居城岡崎城址と本丸跡に建つ無量寺を見学。
加えて岡崎城旧城域の住宅街の中に残る平安末期〜鎌倉時代の河内源氏に対して深い忠義をお持ちだった岡崎義実公の御廟を御参りして来た。
なんと、浩宮皇太子殿下も若かりし頃御見学にいらしたようだ。
…歴史オタクなのかな?
見学が終わり帰宅前に伊勢原の義伯父の家に挨拶に行き、北海道から帰省している幼馴染の姉ちゃんにも会えた。
すき焼きを、たらふく御馳走に成って帰ってきた。

良い正月三箇日の〆、良い年の始まりに成ったと思う。

観音崎の記事書いたらら次は高部屋神社と岡崎城址の一部分の紹介記事を書こうかな?

↑このページのトップヘ