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タグ:黄備え隊

笹下城址の宅地化による破壊がいよいよ始まりました。
※本丸跡周辺の地形破壊2015/10月
※堀の役割を果たした旧沢跡の道路に面した堀切地形の地形破壊開始。2015/10月

笹下城とはなんぞや?と言うご存じ無い方は笹下城と城主間宮家を説明した記事ココ」←クリック!して以前の記事をご覧ください。
笹下城址は城域主要部を前土地所有者のIHIにより、既にその大半が破壊されていますが、その破壊を免れた大空堀が最近まで現存していました。
この空堀や切岸の内、完全な状態のままの遺構だった成就院横の大空堀は既に2013年迄に消滅し、残るは本丸跡周辺地形と堀の役割を果たした沢跡の堀切状の道路地形と、出城松本城の地形と笹下中学校周辺の町内会名に残る旧地名のみとなっていました。
その本丸跡周辺地形と沢跡の道路周辺地形も写真の通り破壊が始まりましたので神奈川県民の皆様に御報告差し上げます。
間宮林蔵や杉田玄白に関係が有り、横浜市南部で最重要城跡であった笹下城址が何の調査も保護もされずに消えゆく、その責任者と開発業者の記録をネット上に公に記録し公開し市民が問い合わせ出来るようにしたいと思います。
しかし、これ等の宅地開発は市の許可を得た正当な開発であり、ディベロッパーには罪は無い事を皆さん御理解下さい。

史跡/城址としての調査や保護の責任を有するのは破壊開始された時期に任期を務めている以下関係各所の代表者及び上級管理職者です。
彼等にも法律的に罪は有りませんが、市民に対し、この様な案件の責任所在開示の為に役職及び氏名は公開されているので、そのまま転載します。
※彼等は職務上の責任は問われますが、犯罪を犯した訳ではないので暴言や嫌がらせ等を問い合わせ先に行わないようにして下さい。
笹下城址を未調査破壊した責任者達としての意味でも書いて置きます。

神奈川県教育委員会
  代表連絡先:045-210-1111

  委員長…具志堅幸司
  ※ロス五輪体操金メダリスト
  ※日本体育大学体育学部長
    上記連絡先:広報課03-5706-0948

  第一委員長職務代理者…高橋  勝
  ※横浜国立大学名誉教授
    上記連絡先:045-339-3014
  ※帝京大学大学院教授
  ※帝京大学大学院教職研究科長
    上記連絡先:0120-508-739

  第二委員長職務代理者…倉橋 泰(ひろし)
  ※株式会社ぱど代表取締役会長
    上記連絡先:0120-090-810

  委員…河野真理子(こうのまりこ)
  ※株式会社キャリアン代表取締役
    上記連絡先mail:  info@carian.jp
  ※公益財団法人日本生産性本部 
    ダイバーシティ推進センター 顧問
    上記連絡先:03-3409-1122

  委員…吉田勝明
  ※横浜相原病院病院長
    上記連絡先:045-362-7111

  委員/教育長…桐谷次郎
  ※前産業労働局長
  上記連絡先:045-210-1111

横浜市教育委員会
  上記連絡先:庶務課045-671-3240
  委員長…今田忠彦
  教育長…岡田優子

ディベロッパー側も問い合わせ先情報を開示しているので、写真と共に情報掲載しておきます。
開発者:野村不動産
仲介者:武本測量株式会社
工事者:株式会社竹中土木
開発者:三井不動産レジデンシャル株式会社
工事者:みらい建設工業株式会社
重ねて強調しますが、彼等ディベロッパーは犯罪者ではありません。
史跡を破壊するのは調査も保護も行わない教育委員会の責任です。
また、教育委員会も当然、犯罪を行っている訳では無く、不見識なだけです。
不見識な人間をそのような役割に置いた黒岩県知事と林横浜市長の責任です。
特に林横浜市長は貴重な蛍の生息地で歴代市長が守って来た瀬上市民の森もディベロッパーに宅地開発容認したり、非常に文化史跡と緑地保護の観点からは今の所、問題が有る判断ばかりする市長さんです。
近年の神奈川県教育委員会と横浜市教育委員会が破壊黙認したり保護を怠っている、又は破壊している最中の史跡と文化財を以下に記します。

上行寺東遺跡(伝:浄願寺旧跡)
マンション:ライオンズヒル金沢八景の建設により破壊された金沢区六浦の大寺院遺跡。
源頼朝と文覚上人が開基した大寺院の史跡で豊富な石窟群や石塔群を有した。
新田義貞の鎌倉攻めの際に略奪放火され廃寺になり、後に金沢区町屋に龍華寺として再興されたが、鎌倉時代末に焼け落ちたままの良好な保存状態を保っていた。
学者、郷土史家、地域住民からの度重なる非常に多くの指摘と保護要請を横浜市教育委員会と横浜市が無視しライオンズヒル金沢八景建設で貴重な史跡は破壊された。
後に重要性に気がついた教育委員会と市により、隣りに無意味なハリボテで破壊した史跡に似せた偽物が作られた。

金沢文庫博物館…蔵書の古文書(経典)
新たな箱物を作りながら、蔵書保管環境関連空調予算を適切に付けず、古文書をカビさせ破損させた。
古書保存は湿度管理が重要であり、20年近く使用し老朽化した空調交換を要していたが学芸員からの適切な度重なる予算請求がされたにもかかわらず教育委員会が空調予算を付けずカビさせた。
…しかし県は数千万単位の箱物は作り続けている。
同地は武家初の私設図書館「金沢文庫」の史跡の上に建っており、周辺全域が鎌倉時代よりの史跡群を地下に埋蔵している。
史跡金沢文庫旧跡及び史跡称名寺周辺の谷戸構え要塞と塔頭群の山々を野村不動産が宅地開発しようとした事もあるが、上行事東遺跡破壊を経験した有識者達の指摘により阻止され守らた。

百姓曲輪:戦国時代小田原城大規模遺構
小田原市にある戦国時代の小田原城の大規模城郭遺構。良好な状態の「曲輪群」「大土塁」「虎口」「切岸」「武者走り」が残る現在破壊の真っ最中で教育委員会は保護するつもりが無い貴重な城跡で歴史史跡。

釈迦堂切り通し
鎌倉市浄明寺地区にある鎌倉時代の貴重な美しい隧道形状の切り通し。
落石を名目に通行止にしたまま、県民の目に触れさせない状況に置き、教育委員会が保全を怠っている。

笹下城址
横浜市最大の城域を誇った城郭史跡だが、教育委員会が調査も保護も行わないので三井不動産レジデンシャル、野村不動産、竹中土木等のディベロッパーにより最後のトドメを刺す残存部も地形破壊の真っ最中。
また、城主間宮家は鶴ヶ丘八幡宮再建や佐渡奉行但馬奉行として金山銀山開発も務め、その他県にある佐渡金山などは歴史史跡に成っている。
間宮家子孫には間宮士信、間宮林蔵、一族に杉田玄白などがおり横浜市民はおろか日本国民にとっても重要な文化貢献をした一族でもある。笹下城址は非常に深い歴史意義を持つ城址であった。

以上、笹下城址完全破壊開始の速報でした。

次回は国家「君が代」発祥の御寺を紹介します!
では、又、次の記事で!

上京・安土訪問で成果の有った事。

1.沙沙貴神社
滋賀県蒲生郡安土町に所在。
一寸法師のモデルの少彦名神と仁徳天皇の神話の残る古えの神社であり、全ての近江源氏武士の祖先に当たる淳実親王を祀る神社でもある。
規模も大きく、建築物自体も社格を表す歴史と外観を有する。
沙沙貴神社の宮司に直接の御面会の機会を得た上、北条家臣近江源氏支族間宮家顕彰の御支持と、沙沙貴神社の写真使用の許可を得て、更に沙沙貴神社関連の様々な書籍を宮司様より御厚意で無償提供して頂いた。
偶然にも沙沙貴神社宮司様は昔、最終日に訪れた石清水八幡宮で全国八幡宮から研修に来る神主の指導者を務めた方だったらしい。後に石清水八幡宮で逆に、この事実を知った。
併せて安土城址と博物館数軒も見学出来た。

2.建勲神社
明治天皇の命で信長公を祀る。
間宮綱信公が謁見した織田信長公が明治天皇より古式復古の功績や戦乱を収束させる礎を築いた功績により「建織田神」の神号を追贈され京都北面鬼門鎮護の神として祀られているのが、京都市北区の建勲神社。
こちらで宮司様より間宮家と信長公との事績顕彰への御了解を得た。

3.蓮臺山阿弥陀寺 
京都市左京区蓮臺山阿弥陀寺
この阿弥陀寺は豊臣秀吉の嫌がらせで規模縮小移転させられた寺院だが、信長公討死に直後に皇室から信長公本廟の称号を賜り、信長公を供養するべく信長公に中国風の官位「大相国」の役職と「一品」を追贈する事が伝えられた寺院。
「大相国」は日本の「関白」に、「一品」は「正一位」にそれぞれ当たる。
開山の玉誉清玉和尚様が信長公諸兄の織田信広公に大恩有り、更に信長公が朝倉家金ヶ崎城攻めの際に浅井長政の裏切りで京都へ命からがら退却して来た際に関係が深まった御縁で、「本能寺の変」の勃発時、玉誉清玉和尚様が命の危険も顧みず戦火の中の本能寺に入り信長公家臣から火葬中の信長公の御遺骸の一部を持ち帰り供養した事が有名。
その後、奸臣羽柴秀吉が織田家乗っ取り正当化の為の信長公法要開催の喪主を勤める口実に玉誉清玉和尚様へ信長公御遺骸の提出を求められたが、和尚様は頑として断り信長公への恩義に報いた為、秀吉の嫌がらせで現在地へ阿弥陀寺は移転させられた。
結果的に秀吉は信長公後継者の大義は得られず、信長公木造を香木で作り、それを火葬して無理矢理追善供養を行なった。
間宮綱信公が謁見した織田信長公の本廟阿弥陀寺にて、間宮家顕彰文を奉納し信長公との事績顕彰への御了解を得た上、6/2の信長公法要への参加を御勧め頂いた。
信長公を信奉する身として断われる訳が無い。非常に光栄だ。

4.百万遍知恩寺
左京区百万遍地名の由来の大寺院。
後醍醐天皇の勅願所で、当時、伝染病が流行し社会情勢が不安定だったのを鎮める為に後醍醐天皇は諸神社仏閣に祈祷祓い念仏をさせたが効果無く、最後に知恩寺の住職に依頼した所、効果を得た。
その際に後醍醐天皇が住職に「何をしたら効果を得たか?」と言う主旨の質問をされ、住職は「百万回くらい念仏を唱えた」と言う主旨の回答をしたのが同寺院の異名と周辺地名の「百万遍」の由来に成った。応仁の乱で戦火に巻き込まれ規模が縮小したものの、知恩寺の周りは今も無数の塔頭寺院に囲まれ、大本山としての風格を有する。
しかし和尚様達は皆さんフレンドリーで、自由に本堂に上がらせて下さり、庶民が直接御参りする機会を広く設けてらっしゃる。
知恩寺は嘗て明治時代までは寺社格が神宮寺だった場所なので、境内にはいくつかの神社もあるが、明治政府の神仏分離令で無理矢理管轄から外された。
毎月15日にはフリマも開かれる。
昔、個人的に小生が精神的苦難に遭った時に、こちらの和尚様に…
「キリスト教も仏教も神様も関係なしに、何か辛い時も何にも無い時も、誰でも落ち着きたい時はここに来てゆっくりして行ったら良いんやで」
…と言って頂いた事で心を救って頂いた、当時の御礼の御参りに行った。
お陰様で生きられてますと報告し、間宮家顕彰活動とは無関係だが個人的に御朱印も頂いてきた。

5.石清水八幡宮
宇佐八幡宮より八幡大菩薩の御神霊が平安時代に遷座された大社格の神社で、神仏習合時代、大伽藍を擁し石清水八幡宮の鎮座する男山全山には四十八ヶ所の宿坊を有した。
現在もその規模はとてつもなく大きい。
また、明治以前の歴代天皇家の神仏習合の文化を大切に保護する文化研究も行う最早学問所的な機能も持つ。
考古学や文化的にも学識高い職員の方が多く在職されている。
こちらで禰宜職に在る神官様や石清水八幡宮在職研究者の神官様に御面会の名誉を賜り、八幡大菩薩を信仰した地黄八幡北条綱成公と間宮家顕彰文を提出した。
野村不動産、三井不動産、竹中建設による城址宅地開発で消え逝く笹下城が横浜市港南区笹下に存在した事を石清水八幡宮に残して頂いた。
八幡大菩薩を信仰した間宮家と上官の地黄八幡北条綱成公と間宮家居城笹下城の事績を石清水八幡宮御祭神へ言上して頂いた。
その際、御供物として献上した菓子と間宮家顕彰文が御神前に供えられ、間宮家と笹下城の事績が物理的にも御神前に届けられた。
更に、御厚意により自身も御祓いをして頂いた上に、光栄にも石清水八幡宮の一般人の入らない場所を案内して頂き、石清水八幡宮の建築様式や宝剣の謎や八幡信仰と神仏習合に関する御講義を拝聴出来た。
人生で最も豊かな1日と成った。

この他にも、いくつかの神社仏閣を廻り、関わった歴史偉人の伝記に触れ有意義な時間を過ごせた。
特に新京極商店街の和泉式部の誠心院で御朱印を頂いた事は嬉しかった。
この誠心院は日本全国の尼寺の先駆けで、和泉式部が今の兵庫県姫路市に在る書写山圓教寺に籠った後に開いた寺院で、境内には和泉式部御本人の御廟所も現存する。
因みに今回の京都訪問とは関係無いが書写山圓教寺は映画「ラストサムライ」や「駆け込み女と駆け出し男」のロケ地に成った大建築物群が残り、かつては源義経の郎党武蔵坊弁慶が修行した大寺院でもある。又、豊臣秀吉の弟の羽柴秀長の軍勢が無体を働いた落書きなんかも残る。

以上、今回の京都と安土で、横浜鎌倉の殿様北条綱成公と間宮家、笹下城の顕彰活動で得た成果でした。
全ての御縁、全ての方の御厚意に感謝します。

次回は話を横浜に戻し、又、近代西洋建築か、そろそろ国歌「君が代」と「吹奏楽」発祥の御寺の本牧山妙香寺の話をしようと思います。
無論、今回の京都安土で回った神社仏閣や坂本龍馬公や新撰組関連史跡、美味しい和食レストランも合わせ20ヶ所以上なので、いずれ記事にしますよ〜♪

では、又、次の記事で!

横浜市磯子区上中里に、地名を冠した上中里神社と言う神社があります。

近くには磯子高校や上中里団地があり、ベッドタウンとしてそれなりの人口の有る地域の神社なのですが…
目立たない参道の入口をずっと登ると、ひっそりとした鎮守の森の中に、ソコソコ大きい御社が有ります。
何にも知らずに行くと、参道からは祠くらいしか無さそうで予想外に立派でビックリすると思います。
昔はもっと社地も広かったんでしょうね…
御近所の磯子高校は昔の上中里神社の境内だったのかも知れません。
周辺が学校建設や宅地化で、表参道以外の道を失ったんでしょうかね?
神社の由来を見ても、少し昔まで地元民に熱心に崇拝されて人気も高かった様ですし…
この神社が寂れている問題点は行くと分かりますが、道が急斜面の参道一つしか無くて人の往来が無い事に尽きると思います。
近くに学校が有り、例えば、この神社の裏手が抜け道に成っていると学生が部活で参道の階段をトレーニングに使ったり出来ますね…
小生の中学生時代も御近所に御寺と神社が有り、柔道部時代に神社の階段を上り下りして体力作りに活用していました。
…神社の社殿裏手にでも、高校や住宅街からの間道を作れば良いのになと思いました。

さて、この神社、明治政府の愚策一村一社政策で潰された近隣の7つの神社を合祀し今に、その神様達と昔の村民達との絆を伝えていますが…
その内容は拝殿前の看板に書いてあります。
ただ、その神様が祀る御社が何で氷取沢町や上中里町に有ったかを説明する記載までは書かれていません。
以下は推測ですが、それはかなりの確率で戦国武将間宮家に関係が有るので少し解説します。
先ず、この上中里や氷取沢一帯を含む港南区磯子区を戦国時代に治めていたのは、小田原北条家の家臣の間宮家だったのを知らない人も多いと思います。
そして江戸時代にも間宮家分家の氷取沢間宮家がこの一帯を治めており、氷取沢間宮家初代の間宮綱信公は八王子城主の北条氏照公の家老として外交と内政で活躍し、織田信長公にも外交使者として面会しています。
近くには、その名残りで間宮寺と言う御寺がありました。
間宮寺は元は港南区笹下の真言宗東樹院の末寺でしたが檀家少なく、間宮家が支援し日蓮宗に改宗し杉田妙法寺の末寺として中興開基しました。
しかし江戸時代には廃寺に成ってしまいました。
その間宮寺の遺物が実は上中里神社に残っています。
参道階段の中腹左手にある石仏がそれです。
不動明王像ですね。
元々は間宮寺に有った物を廃寺に成った後に当時の村民の皆さんが、この上中里神社に移し守り続けたそうです。

さて、そんな訳で間宮家との関わりは解って頂けたでしょうか?
関連記事を見たい方は、記事画面の一番下に表示される「タグ」から「間宮家」をクリックしてみて下さい。
関係の有る記事が読めます。

さて、上中里神社に合祀されている神様達が何で間宮家と関わり有るかですが…
上の摂社に祀られている、それぞれの神様と間宮家の繋がりを個別に説明します。
判らない物は判らないと書きます。
⚫︎稲荷神社
…伏見稲荷神社の農耕の神様。
間宮家との関係は不明。
⚫︎明神社
…神明社と言えば天照大御神だが明神社なので何の明神様か不明。間宮家との関係も不明。
⚫︎駒形神社
…保食神(うけもちのかみ)。
飢饉回避の神様。間宮本家の笹下間宮家が江戸時代に転封され引っ越した先の下総国印旛郡の神様なので、江戸時代の間宮家と関わりが推測される。
⚫︎天神社
…菅原道真公。
氷取沢間宮家初代の間宮綱信公は奥さんが宅間上杉家の姫君。
宅間上杉家は今の港南区上永谷に永谷天満宮と曹洞宗の御寺天神山貞昌院を開いた武家で足利尊氏公の従兄弟に当たる方の御子孫の家系なので、宅間上杉家と関わりが深い氷取沢間宮家との関係が推測される。
⚫︎山王社
…恐らく蔵王権現。今の八王子市の御嶽神社。
間宮綱信公が与力・付家老として御仕えした北条氏照公は最初、八王子の滝山城を居城にしていました。滝山城には山王曲輪と言う防御施設が有り、そこは元々は源義家公が蔵王権現社を建てた場所で、氏照公は山王曲輪の場所から蔵王権現社を滝山城の外郭に遷座(せんざ=神社を移動する事)しました。
今でも滝山城外郭に蔵王権現が廃仏棄釈で御嶽神社に名を改め存在していて、氷取沢町に山王社があるのは滝山城に勤務した間宮綱信公との関係が推測される。

⚫︎八王子権現社
…牛頭天王と牛頭天王の8人の眷族(けんぞく)を祀る神社で、今の八王子市の八王子神社の昔の名前。
間宮綱信公が与力した北条氏照公は晩年、滝山城を廃城にし今の八王子神社の辺りに八王子城を築城し本拠地を移した。その関係で間宮綱信公も牛頭天王を崇拝し八王子権現社をの分霊を勧進(かんじん=神様の御霊を分けて貰い祀る事)した事が推測出来る。
※杉田間宮家菩提寺の杉田妙法寺も弘法大師空海様が勧進した牛頭天王を、祀る。
⚫︎山大明神社
祭神不明。
香川県屋島の蓑山大明神と関係有りか?
間宮寺は元々は真言宗だったので真言宗御室派大本山の屋島寺にある蓑山大明神を祀っていた可能性は有る。
又、間宮家は近江源氏佐々木家の鎌倉時代の名将佐々木高綱公を江戸時代中期まで先祖としていた(実際は高綱公の叔父の佐々木経方の系統)で、源平合戦の舞台屋島とも関係がない事は無い。

以上、多少なりとも上中里神社の摂社の神様の中には間宮家と関わりが有る神様が幾つか見受けられますね。

さて、上中里神社の本殿ですが、冒頭でも述べましたが結構立派でした。
拝殿はちゃんと一段高い場所にあります。
なんか神社と言うよりは御寺の本堂みたいな造りの本殿ですね。
せっかく、こんな立派な神社があるのですから、地域の方々にも御参りして欲しいな〜と思いました。
そして、夏祭りもここで開いて欲しいな〜。
その為には人の流れを作る事が大切です。冒頭でも述べましたが、裏に抜ける道を作り住宅街や磯子高校に繋げる道を作れば、この神社は活気が戻る様な気がしました…

本日はここまで!
では、又、次の記事で!

ブログネタ
今年後半に向けての抱負は? に参加中!
横浜市南区堀之内、地下鉄吉野町駅から徒歩15分くらいの所…
江戸時代には近くに蒔田湾(古大岡湾)と呼ばれた入江が眼前まで広がっていた丘、今では埋め立てられ平地に突き出した丘の裾に青龍山寳生寺と言う古義真言宗の名古刹(こさつ=古い御寺)が在(あ)るのを御存知でしょうか?

雰囲気有る石段でしょ?
今は宅地に成ってしまった旧参道から山門に続く石段の立派さが、この寺院の往時の権威を今に伝えています。
季節柄、紫陽花も綺麗ですね〜♪
1171年(承安元年)の開基ですから…
鎌倉幕府を開いた源頼朝公の御父君、左馬頭(さまのかみ)源義朝公の頃の時代の話ですね。
山門も良い感じに風情ありますよね?
鎌倉時代には執権の北条貞時公や、横浜市金沢区金沢文庫の地名の由来に成った日本初の私設図書館金沢文庫を創設し称名寺の基に成った金沢北条家の邸宅を建設した文化人で鎌倉幕府の重鎮、北条実時公からも保護されました。
※称名寺の記事は「ココ」←クリック!

近くには戦国時代の武蔵蒔田吉良家の殿様の城、蒔田城も在りました。
戦国時代には蒔田吉良家は横浜市南区や川崎市高津区中原区、東京都世田谷区一帯を支配していました。
吉良家と友好関係にあり江戸城主だった戦国時代初期の名将太田道灌公からも崇拝されていました。
※吉良家の記事は「ココ」←クリック!

余談ですが南区には京浜急行の南太田駅が在りますが、この南太田の地名の由来は戦国時代に今の南区太田に太田道灌公の御城が有った事に由来します。
吉良家の殿様は吉良頼康公の頃から小田原北条家に協力していた関係からか、この寳生寺も戦国時代の名将北条氏康公からも保護されていました。
その鎌倉幕府金沢北条家〜戦国時代の北条氏康公に保護されて来た証拠が山門の上と手水舎に刻印された寺紋です…
北条家の家紋、三鱗紋の使用を許され今も御寺の寺紋として使われています。

さて、この寳生寺、昔は沢山の大建築を擁する大寺院で本山格の権威を誇っていたのですが…
最大時には本殿と鐘楼以外に惣門、長屋門、弁天堂で七福神の弁財天様も御祀(まつ)りしており、それ以外に客殿や熊野社、経蔵が有ったそうですが、明治政府の数少ない愚政の一つ「廃仏棄釈」により衰退してしまいました。
その影響で本殿と山門と鐘楼を除いて失われてしまいました…。
残念ですね。
歴史の古い本殿は、今も健在です。
 
本殿は立派な彫刻を施されています。
あと鐘楼も有ります。
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鐘楼の向こうに本堂を見ると、背後に山林が広がっているのが見えますよね。
 
寶生寺の山林は県の市の保護林にも指定されていて貴重な場所でもあり、保護林である時点でその広大さも窺(うかが)い知れると思いますが、衛星写真で見てみると解り易いですね。
寶生寺
寶生寺を中心に取り囲む山林が寺域です。
むやみに伐採出来ないので、御寺の参道も管理が大変そうですね。
少し雑草が生い茂っていたり落ち葉が多かったので次回訪問する際に、御住職に参道の掃除をさせて下さいと申し出て見ようかなと思いました…
広い御寺を老齢になられてから維持管理するのは大変ですからね…
動ける人間が横浜市の歴史を守って来た御寺や神社に恩返し出来る事をするのは当然だと思いますので。

さて、この寶生寺、戦国時代の終焉の頃には徳川家康公により、保護する旨の朱印状を与えられています。
恐らく、その橋渡しをしたのが寶生寺に深く関わっていた横浜の殿様、「間宮直元公」だと推測出来ます。
間宮直元公は、横浜市磯子区と港南区にまたがる広大な城、笹下城の最後の城主で北条家の滅亡後は徳川家康公に仕えて、笹下城址の麓(ふもと)に笹下陣屋を築いて、そこを拠点に「本牧奉行(ほんもくぶぎょう)」と言う役職を担(にな)っていました。

※間宮家の記事は「ココ 」←クリック!
その本牧奉行の行政担当範囲を衛星写真でみると、大凡こんな感じです。
寶生寺周辺図
写真の中央に寶生寺の所在する横浜市南区、その上部、東京湾に突き出た半島を本牧半島と言います。
そして、本牧奉行の支配域は大凡、写真で見えている範囲で嘗(かつ)て日本神話の時代に神武天皇が城を造りたいと仰ったと伝承する「久良岐(くらき)の丘」と呼ばれる丘陵地帯です。
その丘陵地帯が正に、略(ほぼ)この写真の範囲で、この地域は神話の時代から明治時代に横浜市が成立するまで「久良岐郡」と呼ばれていました。
余談ですが久良岐郡の久良岐が小生のハンドルネームでもあります。
日本武尊と乙橘姫の二柱の神様が、旅されたのが久良岐郡と、隣の橘樹郡、三浦郡の地域で一帯には日本武尊神話がそこかしこに残り、それとリンクする様に浦島太郎伝説も残っている神話と伝承の地域でもあります。
そして平安時代~現代に至るまで坂東武者や戦国武将達の重要な水軍基地だった地域でもあり、現代の日本国の海上自衛隊と米国海軍にとって重要な基地やドッグの点在する地域でもあります。
それと同時に海外貿易を担う「国際港」横浜港の中枢でもあります。

さて、何で大大名でもない間宮直元公が直接、寶生寺と徳川家康公の橋渡しを出来る立場にいたかですが…
直元公の祖父は間宮康俊公と言い、豊臣秀吉の小田原城攻めの際に箱根の山中城の出城、袋崎出丸に籠城し大活躍の後に玉砕した功績から、その子弟の多くが徳川家康公の直臣として取り立てられていました。
そして直元公からして叔母に当たる「間宮お久」さんは家康公の側室に入っており、後に「於久(おひさ)の方」と呼ばれた人物で縁故も有った訳です。
そして直元公御自身も「本牧奉行」以外にも更に重要な役職に就(つ)いていました…
その役職と言うのが江戸幕府の「但馬奉行」と「佐渡奉行」と呼ばれる役職です。
但馬奉行は但馬銀山の鉱山開発、佐渡奉行は佐渡金山の鉱山開発を担う重要な役職で、直元公の前任者は学校の日本史でも習う「大久保長安」と言う江戸幕府の超有名な内政官僚でした。
その大久保長安が政治失脚した後に、最後の笹下城主だった間宮直元公が、その役職を継いだ訳です。

間宮家は室町時代~明治維新まで、横浜の多くの神社仏閣や文化財を守る気風を受け継いだ殿様が多く、この寶生寺にも現代に重要文化財が残りました。
寶生寺の説明看板の写真を、その文化財の説明として掲載します。
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看板の他にも江戸期の石塔が保護されていました。
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さて、何で寶生寺に関わっていた間宮家の直元公が、但馬奉行や佐渡奉行を担っていたかですが、それは今も横浜市港南区笹下に住む、間宮家臣の竹内家や市村家、内田家の其々(それぞれ)の御本家と分家の御子孫の御話しや、文献から容易に推測が出来ます…
間宮家は戦国時代、小田原北条家の家臣でした。
所属した部隊は、関東地方で最強の武将だった玉縄城主北条綱成公率いる「黄備え隊」でした。
黄備え隊は、北条家の国境前線で起きる重要な合戦に常に参戦する部隊でした。
その戦闘範囲は広く…
西は間宮家は家臣古角内田家が受領した感状に記載された年号から、北条早雲公が今川家臣だった時代には遠く三河国(愛知県安城市)に今川軍として遠征し松平家と交戦しています。
北は北条綱成公率いる黄備え隊が信濃国上田城(長野県上田市)の武田軍の救援に赴いています。
東は下総国逆井城(茨城県坂東市)にて頻繁に佐竹家や小田家と交戦していました。

そして間宮家臣の御子孫の皆さんの御話しでは、間宮家は合戦だけでなく築城技術集団だったそうです。
つまり、鉱山の開発を任されたのは土木建築技術集団としての評価も高かったからでしょうか?
因みに間宮家は合戦と土木建築技術の他にも織田家や神社仏閣との外交等でも活躍していました。
その家臣筋の皆さんの証言を証明するのが、1526年に戦災で焼失した鶴岡八幡宮の再建事業に1536年から間宮家の当時の惣領だった間宮康俊公が奉行として参加している事です。
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この鶴岡八幡宮再建には寶生寺近くの蒔田城主吉良頼康公も材木の調達で寄与されています。
間宮家は祖先を有名な鎌倉御家人「佐々木高綱」公と自認していた(実際は佐々木高綱公の叔父の家系)事から、敦実親王の王孫に当たり家格も高く、その上、間宮家の系統の祖先が近江沙沙貴神社の宮司家だった為、神事にも精通し、加えて土木技術集団であったので「鶴岡八幡宮再建事業」にはうってつけの集団だった訳です。
羽柴秀吉における蜂須賀小六に有職故実の知識を足した様な人物に当たるのが、北条綱成公における間宮康俊公だと言えば解り易いでしょうか?
※北条綱成公と玉縄城の記事は「ココ 」←クリック!

この推測を更に強化するのが、徳川家康公の大坂城攻め「大坂冬の陣」の史話です。
間宮直元公は大坂冬の陣に井伊直孝公の与力武将として参戦していました。
その際、徳川家康公に直々に呼び出され密命を命じられます。その内容が…
「坑道を掘り、大坂城の櫓を崩せ」
…と言うものでした。
残念ながら、この作戦の成功を見ずに直元公は在陣中、病没してしまわれました。
しかし、この逸話からも、直元公が家康公と直接話せる立場に在ったと言う事が立証出来る訳です。
なので、寶生寺と関わりの深い間宮直元公が徳川家康公に口添えし、御朱印発給を要請した事が推測出来る訳です。

この寶生寺は間宮直元公や北条家、徳川家康公とこの様に関わりを持って来た訳ですが…
南区に御住いの皆さん、寶生寺がそんな凄い御寺だって御存知でしたか?
小生は寶生寺を訪れて、ますます先人の残して下さった文化と神社の宮司さん氏子さん、御寺の和尚さんと檀家さんが守り伝えてきた歴史を大切にしなきゃいけないなと改めて思う休日に成りました。
どうやったら郷土史の伝承に貢献できるか、寄与できる方法や規模を充実させて行きたいなと思いました。

もし、これを読んで御興味を持たれたら是非!寶生寺や御近所の吉良家の蒔田城址に在る吉良政忠公の菩提寺である龍祥山勝國寺を御散歩して郷土の歴史を感じてみませんか?

では、又、次のブログ記事でお会いしましょう!

横浜市港南区磯子区に有った笹下城

間宮林蔵と杉田玄白の先祖の城


笹下城と言う御城が横浜市港南区と磯子区に在(あ)ったのを御存知でしょうか?小田原北条家の家臣で相模十四騎の筆頭とされた間宮氏の居城でした。
間宮家は近江源氏佐々木氏の出身で、伊豆の間宮に移住した一族が地名を姓にし、北条早雲公が伊豆の大名に成ると早くから配下として活躍し戦国時代の頃には小田原北条家の中で相模十四騎筆頭と言う旗本中で深く信頼を得る立場となりました。

写真は笹下城本丸部分です。

港南区笹下4丁目の旧I H I団地のあった場所の裏山、梅花山成就院と言う御寺と地続きの丘が本丸の跡です。その名残で、この付近には「御下公園」と言う地名が残ります。

近々この本丸の風景も野村不動産の宅地開発と介護施設建設で今の様には見る事が出来なくなります。

この笹下城、北条家の本拠地の小田原城、重要拠点の大船駅近くの玉縄城や八王子市の滝山城に近い規模を誇っていましたが、高度経済成長期の乱開発で史跡としての調査はされませんでした。
平成二十四年迄、成就院横に有った明確な遺構の大空堀も宅地化され消滅してしまいました。

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笹下城城域は、上の写真の現在の笹下中央公園に在った出城の北見掃部(かもん)屋敷跡の大切岸(きりぎし)と…

…下の写真の天照大神宮一帯に在った松本城の二つの砦を取り込む構えでした。  
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その規模は南北に1.5km前後、東西に1km程の範囲に笹下城要塞群が有りました。

笹下城の南端の正門は笹下川に架かる下の写真、現在の「元笹下橋」付近だと伝承しています。

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下の写真は元笹下橋から見た外堀の役割を果たしていた笹下川です。

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昔から横浜に住む人は笹下川と何百年も川の名前を伝えて来ましたが、近年、神奈川県が大岡川の本流と言う理由で大岡川にいつの間にか名称を改称してしまいました。


この笹下城は2つの仮想敵を想定して築城されました。
1つ目は扇谷(おうぎがやつ)上杉家、江戸方面から陸路で鎌倉街道を攻め上って来る敵勢力です。

2つ目は里見家と正木家、房総半島から水軍で来襲し、鎌倉の外港の六浦港(横浜市金沢区六浦に在った港)や三浦半島の走水海岸付近への上陸を狙う敵勢力です。
その2勢力を抑え今の横浜市域と鎌倉市域を東京湾側で防衛する目的で築かれたのが笹下城でした。

下の 写真は杉田側から侵入して来た敵を迎撃する関門だった若宮郭(わかみやくるわ)の跡にある若宮御霊神社です。
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元々間宮家の殿様が鶴岡八幡宮の若宮八幡宮と御霊神社をそれぞれ別に勧進し祀っていましたが、近代に合祀されて若宮御霊神社になりました。 

戦国時代に間宮家が仕えた北条家は、小田原城を本拠地に関東地方の大半を治めていました。その親族で関東地方最強の武将だった玉縄城主の北条綱成(つなしげ)公や、2代目の北条氏繁公の付家老を務めたのが間宮家でした。
北条綱成公は上杉謙信や武田信玄の大軍相手に度々勝利を収めた武将で、敵方からも「地黄八幡」の異名で畏敬の念を持って呼ばれる名将でした。

北条家には軍旗を青・赤・黄・黒・白の5色に色分けされた5つの主力部隊が有りました。

その内、黄備え隊の大将が玉縄城主北条綱成公と御子孫の玉縄北条家歴代当主だったので、付家老の間宮家も黄備え隊の与力として活躍しました。

鎌倉市大船一帯に在った玉縄城と、鎌倉を東西で対を成し鎌倉や横浜への陸海路の侵入口を防衛する重要な土地の久良岐郡笹下郷や杉田郷一帯の拠点として築かれた笹下城ですが、間宮信元公の代に築城されると、房総半島からの里見水軍・正木水軍の乱入による略奪は無くなりました。

今の横浜市や鎌倉市に当たる昔の久良岐郡や鎌倉郡の領民にとっては間宮家と笹下城は心強い存在でした。

そんな笹下城を拠点に活躍した間宮家には戦国時代に特に素晴らしい功績を残した武将が5人います。


1人目は今の京急神奈川駅の付近一帯に有った権現山城で勃発(ぼっぱつ)した北条家vs扇谷(おうぎがやつ)上杉家の権現山合戦で活躍した川崎駅前の堀ノ内に在った河崎館の城主間宮信冬公でした。
下の写真が、昔、海に突き出た半島だった権現山城址の青木山本覚寺側~幸ヶ谷公園の風景です。

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上の絵は権現山合戦で活躍する間宮信冬公の絵です。北条家が敗戦したものの、信冬公は敵陣への単騎突撃で名声を獲得しました。
この権現山城は古くは足利尊氏公が合戦の際に籠城したのが城塞としての始まりで、付近には江戸時代に東海道として整備された古東海道が通っていた為、戦略上の要所でした。
江戸時代には東海道五十三の宿場町の一つ神奈川宿が置かれ、幕末には勝海舟の設計で海上要塞の神奈川台場が建設された場所の直ぐ近くでもあります。
この権現山城は間宮家と所縁の有る土地でした。
古来、この一帯は県名の由来に成った神奈川と呼ばれた土地で、そこに間宮一族の間宮宗甫と言う武将が領地を有していた為、北条家家臣の間宮家の武将が参戦するのは当然でした。
系図上で信冬公の後継者として確認出来る人物が間宮信盛公です。
この合戦の後、先述の通り間宮家は間宮信盛公と、その次代を担った間宮信元公が川崎から陸路の要の横浜市港南区笹下や海運の要の磯子区杉田港に拠点を移し、間宮信元公により笹下城が築城されました。
下の絵図は権現山合戦の様子です。

権現山合戦

現在では権現山城址は往時の原型は無く、大半は幕末の神奈川台場建設の海埋め立ての為に城山を削られ、防御施設の遺構は消失しました。

更に国道と鉄道の建設で上の写真の本覚寺一帯~幸ヶ谷公園に続く半島は大きく掘り切られて分断されてしまい、周囲が宅地化され地形も当時の城域が解らなくなる程に破壊しつくされてしまいました。

周囲には幕末の横浜開港時、フランス公使館として利用された真色山甚行寺もあります。
権現山城を拡張した青木城主要部分と伝わる場所に建つ青木山本覚寺は、幕末にはアメリカ領事館として利用されました。
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権現山城の在った、この地域は昔の武士にとって重要な場所だった上に近代横浜開港の重要な舞台の一つであり、現代の横浜市民にとっても大切な歴史を伝える場所です。

間宮家で功績を残された2人目の殿様は
豊臣秀吉の小田原攻めの際に伊豆山中城の合戦で活躍した間宮康俊公です。

間宮康俊公が付家老を務めた北条綱成公の「黄備え隊」は何回も神がかり的な戦功を立て全国に勇名を轟かせました。

中でも有名なのが日本三大奇襲戦の一つに数えられている河越夜戦とも河越合戦とも呼ばれる決戦での活躍です。戦国時代、北条綱成公と間宮康俊公の御主君の北条氏康公は優れた民政により、民百姓の支持を得て関東で勢力を拡大しました。
その過程で旧勢力筆頭格の関東管領上杉家と河越城(現在の埼玉県川越市)で激突します…
河越合戦布陣図

戦国時代、北条綱成公と間宮康俊公の主君北条氏康(うじやす)公は優れた民政により民百姓の支持を得て、関東で勢力を拡大します。その過程で旧勢力筆頭格の関東管領上杉家と河越城(現在の埼玉県川越市に在った城)で激突します。 

1545 年9月末、古河公方と関東管領の連合軍が河越城に来襲します。

その兵力差たるや絶望的に綱成公の守る河越城が不利…
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・北条家兵力  3,000 (河越城籠城部隊) 

 籠城部隊…白備隊大将:北条幻庵公 黄備隊大将:北条綱成公     

・本隊総兵力  8,000(4月17日小田原出陣、19日川越着陣、20日参戦)
 総大将…北条家当主 北条氏康

 援軍武将…黒備隊大将:多目元忠公 等 

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・上杉家兵力 80,000
 総大将:古河公方足利晴氏・
・参戦大名:山内上杉憲政・扇谷上杉朝定・小田政治等
 与力武将:梁田晴助・長野業正・倉賀野行定・太田資正・難波田憲重・菅谷貞次等


北条方の河越城守将は小机城主北条幻庵公と玉縄城主北条綱成公。

北条幻庵公は今の横浜市港北区の小机城主であり箱根権現別当を務め風魔忍者と関係の深い武将でもありました。横浜市港南区清水橋辺りは、昔、幻庵公の別宅と風魔忍者の詰所が在ったと伝わっています。

河越城守勢の北条家の兵力はわずか敵方総兵力の約27分の1。
…対する関東管領上杉家&古河公方足利家連合軍には関東の多くの大名達が参集し10万人に迫る勢いでした。
この圧倒的劣勢の中、河越城守勢は綱成公の活躍で敵の攻城を半年間も防衛し続けました。その粘りもあり、敵方の関東管領連合軍に厭戦(えんせん=ダラけ)気分が蔓延し始めます。敵が油断するのを待っていた綱成公の義兄で主君の北条氏康公が小田原城を4月17日に8000の兵を率いて出陣します。
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出陣当日、氏康公は現在の江の島神社こと江の島弁財天の別当寺だった岩本坊で戦勝祈願をしています。

実はこの岩本坊の別当職は間宮家の一族が務めていました。岩本坊は現代、上の写真の鳥居のすぐ傍、江の島神社の参道に岩本楼と言う旅館として存続しています。

氏康公の援軍は4月19日に河越城南方砂久保に着陣します。
しかし、綱成公と氏康公の兵力を合計しても敵の8分の1に過ぎません。

そこで氏康公は周到に謀略を巡らし敵勢が油断しきって酒盛りを始めた晩、夜陰に紛(まぎ)れて奇襲をしかけました…
同時に河越城から綱成公と副将の間宮家の黄備え隊が出撃し、氏康公率いる本隊と共に敵の関東管領連合軍を挟撃します。

この作戦で指揮を執(と)ったのが、先に間宮信冬公の活躍した権現山城跡に築城した青木城の城主で北条家の軍師格、「黒備え隊」大将も務めた多目元忠公でした。

敵勢上杉軍は多いが北条氏康公と多目元忠公の謀略に嵌(はま)り油断しきっていて規律も乱れており、北条氏康公・綱成公の義兄弟の夜襲の前に瞬く間に壊滅しました。

この河越合戦での上杉家連合軍側の被害は甚大で…

・主要大名:扇谷上杉家→当主が討ち死にし滅亡。

・主要大名:山内上杉家→壊滅勢力大幅縮小。
・その他の関東管領連合軍に参加した大名も散り散りに逃走。

…いずれも大幅に勢力縮小する事に成りました。 


このように間宮家の主君:北条氏康公と北条綱成公の御二方は内政、武勇、統率、知略、采配の実績が桁違いに優れていました。
そして綱成公の与力だった間宮康俊公も武勇で稀有な功績を残された方でした。

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上の写真は港北区のJR小机駅や小机城の近くの鳥山地区に在る端雲山三会寺(さんねじ)です。

開基したのは平安時代~鎌倉時代の鎌倉幕府征夷大将軍源頼朝公に御家人として与力した佐々木高綱公です。
間宮家は高綱公の家系である近江源氏佐々木家の分家に当たり、祖先は宇多天皇、家祖は敦実(あつざね)親王、その敦実親王を御祭神として祀る滋賀県安土町沙沙貴(ささき)神社の宮司を務めた家系の子孫です。祖先の中には鎮守府将軍を務めた源扶義(すけのり)公もいます。佐々木高綱公の祖父に当たる嫡流の佐々木秀定公と、間宮家の祖先に当たる佐々木行定公が御兄弟でした。
高綱公は宇治川合戦等の活躍で有名な武勇に優れた名将で、頼朝公より深い信頼を得ていました。
その経緯で鎌倉の東北の鬼門に当たる交通の要所だった鳥山に鎌倉鎮護の寺院を築く事を命じられ三会寺を開基しました。
頼朝公と高綱公との御縁で三会寺の寺紋は、源家の家紋である笹竜胆紋の使用を許されています。
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河内源氏の家紋:笹竜胆紋
隅立四つ目結び
佐々木家/間宮家家紋:隅立四つ目結紋
この三会寺の近くには高綱公
の居館址に建てられた鳥山八幡宮や、高綱公が頼朝公より拝領した名馬の生唼(いけづき)を祀る馬頭観音堂も在ります。 高綱公と所縁の深い鳥山地区の近くには、戦国時代末期まで北条家の小机衆の軍事拠点として機能した小机城址も在り、古来この地域の交通網が軍事上とても重要だった事が解ります。
間宮家の祖先には真野姓を名乗った時代があり、その真野家時代に分かれた別流の子孫に江戸時代の解体新書の翻訳で有名な医学者、杉田玄白がいます。
杉田と名乗っている事から、戦国時代には間宮家一門衆として杉田郷に住していた事が推測出来ます。

佐々木家一族である間宮家の戦国時代の武将、間宮康俊公は武勇に秀でただけでなく内政手腕にも長けました。

鶴岡八幡宮合戦で焼失した鶴岡八幡宮の社殿再建にも参加し、現代人にとっても偉大な文化遺産と伝統を守る事績を残しました。
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上の写真は若宮大路から見た鶴岡八幡宮です。

再建事業では間宮康俊公を含めた横浜市では3人の殿様が活躍しました。

1人が笹下城主の間宮康俊公
間宮家は近江源氏佐々木家の分家に当たり家系が宇多天皇、更に敦実(あつざね)親王を祀る沙沙貴神社(ささきじんじゃ)の宮司を務めた家系でしたので、鶴岡八幡宮再建の任を務めるに相応しい血脈でした。
八幡宮再建奉行職は建築工事を行う上で宗教儀式的な知識も理解している必要が有り、間宮家一族が適任だった事が推測出来ます。
寄親の北条綱成公が材木奉行に任命されている事も有り、職務を代行し、材木の杉田港への集積管理で活躍した事績が伝承しています。
又、旧笹下城域に現在も存続する間宮家臣御子孫の御話しによると間宮家は築城技術集団でもあったそうで、鶴岡八幡宮再建の任務に当たっては土木技術面でも、北条幻庵公や北条為昌公、北条綱成公と並び、その名を連ねています。

2人目は総奉行を務めた笠原信為公

今の横浜市港北区の三会寺やJR横浜線小机駅のすぐ近くの御城、小机城の城代で大曾根城主と白備え隊の副将も務めた方で、和歌にも精通した文化人であり江戸城攻略に参加した名将でした。

当時の白備え大将、小机城主は北条早雲公の3男で北条家の長老だった北条幻庵(げんあん)公で、晩年幻庵公が老齢に成ると笠原信為公が政務と軍務を代行していました。
笠原家は小田原北条家に最も早くから仕えた家系で、北条氏康公が御当主(とうしゅ=君主)だった時代には外交面等でも筆頭を務めた家老の家柄でした。

下の写真は笠原信為公が城代を務めた横浜市港北区JR小机駅近くの小机城の縄張り図です。

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上写真が現在の小机城址公園です。
この小机城址は横浜市内最良の保存状態を誇り、市民が自由に散策出来る遊歩道が整備されています。
この白備え隊の笠原信為公が城代を務めた小机城と、黒備え隊の多目元忠公が城主を務めた青木城の中間地点に当たる神奈川区神大寺(かんだいじ)地区には笠原信為公の菩提寺だった神大寺と言う御寺が在りました。城址として昔の人にも誤認される程の規模を誇った大寺院だった様ですが、残念ながら戦国時代に既に焼失してしまい、更に現在では畑地の開墾と宅地化で跡形も無くなってしまいましたが、その地名に信為公の菩提寺が在った歴史を留めています。
神大寺の表参道だったと伝わるのが、下の写真の塩嘗地蔵(しおなめじぞう)一帯です。この直ぐ傍が神大寺の山門だったと伝承が残っています。
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この塩嘗地蔵の在所一帯は旧街道沿いでもあります。
現在も塩嘗地蔵は「イボ取り地蔵」として近隣住民に親しみをもって信仰されていますが、御塩を御供(そな)えする変わった習慣の有る御地蔵様でもあります。
この一帯は北条家の統治以前は、今の東京都練馬区や北区、豊島区等を治めた大名豊島家の影響下にありました。豊島家の居城は今の練馬区石神井公園に在った石神井城や練馬区の遊園地としまえん所在地に在った練馬城でした。
豊島家と、当時の江戸城主で関東屈指の名軍師だった太田道灌公が交戦状態に陥ると、豊島家は敗走して小机城まで落ち延びて来て、最終的に小机城も道灌公により落とされて滅亡しました。
太田道灌公が小机城へ攻め上る際に陣地を構築し休息をとったと言われる場所が、塩嘗地蔵の御近所に在る「道灌森」と言う場所でした。
この地域を通る旧街道は八王子街道や中原海道に連結しています。
その街道の先には間宮家や笠原家の御仕えした小田原北条家の宿敵である、太田道灌公の主君の扇谷上杉家の重臣達の居城である深大寺城や松山城、鉢形等が在った事からも、笠原信為公が主家北条家の勢力拡大の初期段階で既に深く信頼され、とても重要な土地を抑える役割を任されていた事が窺(うかが)い知れます。


3人目の殿様は吉良頼康公です。

室町幕府将軍の親族の吉良家の殿様で、北条家では「蒔田御所」と呼ばれ関東の将軍である鎌倉公方と同等の立場として重視された方でした。頼康公は水運商業の拠点として今の横浜市南区蒔田の旧成美学園の英和女学院と龍祥山勝國寺と言う御寺の丘一帯に在った蒔田城を拠点に東京湾北部沿岸部の要所を支配していました。
下の写真は横浜市南区蒔田に在る吉良家の祖先吉良政忠公菩提寺の龍祥山勝國寺と…

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…上の写真が蒔田城址に在る英和女学院裏の断崖です。

勝國寺を開基したのは吉良頼康公の御父君である吉良成高公でした。
太田道灌公の盟友で、江戸城を巡る攻防戦では道灌公の援軍として江戸城に入り留守の道灌公に代わりに指揮を執り、敵勢を撃退した記録も残る名将でした。
一方、吉良頼康公は全く合戦をしないで経済を重視した大名でした。
蒔田城崖下は、江戸時代には今の吉野町辺りまで海でした。江戸時代に埋めたれられ吉田新田が作られた事で海ではなくなりましたが、昔は考古学的には大岡湾、戦国時代の歴史では蒔田湾と呼ばれた入江が広がっていました。

鶴岡八幡宮再建時は水運に長けた喜多見家をはじめ森家、佐々木家、並木家等の家臣団を統率した吉良頼康公が、この蒔田城址の眼下に広がっていた蒔田湾から海運での材木輸送を取り仕切りました。
頼康公は鶴岡八幡宮だけでなく東京の世田谷八幡宮も中興されました。吉良家の殿様は内陸の中世の中原街道沿いを押える要衝を領地にしており、東京都世田谷区一帯、川崎市高津区や中原区周辺も治めていたので、世田谷城も吉良家の内陸部の重要拠点でした。
世田谷八幡宮は吉良家の下総移転後、徳川家康公の庇護を受けました。

下の写真が頼康公が中興された世田谷八幡宮と、吉良家世田谷城址でもある大谿山(だいけいざん)豪徳寺です。
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この豪徳寺は江戸時代には彦根藩井伊家の菩提寺に成り、招き猫の発祥地でもあります。
幕末の江戸幕府の大老井伊直弼(なおすけ)公は横浜を開港した方ですので、井伊家も又、横浜市に関係の有る殿様であると同時に間宮家の祖先の治めた滋賀県安土町一帯を江戸時代に治めた大名家でもあり、間宮家と地縁で結ばれた御殿様と言えます。

他に大道寺家も鎌倉で総奉行に名を連ねていますが、北条家を滅亡させた裏切者を輩出した家なので顕彰しません。

間宮康俊公は、その最期にも更に武名を全国に轟かせました。
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上の画像は静岡県三島市にある山中城址公園です。 

豊臣秀吉の小田原攻めの際に豊臣秀吉・秀次の率いる本隊8万を、黄備え隊玉縄北条家三代当主氏勝公と間宮隊は小田原城の手前の箱根の山中城に3千で籠城迎撃します。
しかし歴戦の間宮康俊公は圧倒的不利かつ救援の無い状況から敗戦を悟り大将の北条氏勝公を撤退させた後、事前に築城していた山中城出城の袋崎出丸に笹下間宮家手勢200人弱で籠城し敵勢を迎撃しました。この状況の中で有名な中村一氏隊・山内一豊隊・堀尾吉晴隊・一柳直末隊など、秀吉直属の小大名格の部将達を大苦戦させ、一柳直末(いちやなぎなおすえ)を討取り玉砕する大功を立てました。
結果この出来事が評価され、間宮家は徳川家康公の旗本として、康俊公の姫は家康公の側室として登用されました。

江戸時代の樺太、択捉を探検し間宮海峡を発見した間宮林蔵は、この間宮家の子孫です。

間宮家と直接の関係は有りませんが、太平洋戦争中に活躍した給糧艦の「間宮」は、この間宮家由来の間宮海峡の名を頂いた艦船でした。平和的な運用をされた補給艦なのに歴史に名を残す名艦船に成ったのも、何か間宮家との因縁を感じますね。

話を戦国時代に戻しますが、間宮家が付家老として御仕えした北条綱成公の開いた玉縄北条家菩提寺が下写真のJR大船駅近く鎌倉市植木に所在する龍寶寺です。

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境内には綱成公、氏繁公の御廟所と玉縄民俗資料館が在り、玉縄城の遺物や城縄張りの復元模型等が展示されています。江戸時代の学者新井白石とも縁の深い御寺でもあります。
玉縄城は間宮家が与力した黄備え隊大将:玉縄北条家歴代当主の居城でした。その為、北条綱成公の御廟所も龍寶寺内に在り、以前の山上から移設された新しい廟所には昔の石塔も安置されています。
この近くの鎌倉市玉縄地区の清泉女学院が玉縄城の本丸古址です。
龍宝寺の在る植木地区や玉縄地区一帯には蹴鞠場、諏訪壇、御花畠等の遺構が部分的に現存しています。

この玉縄城、範囲も広く西の端は二傳寺、東の端は長尾城と広大な範囲の丘陵と谷戸に切岸や空堀や曲輪群を配置した堅固な典型的な北条流築城術で築かれた城で、先述の通り上杉謙信軍11万、武田信玄軍2万に攻められても落城しなかった名城でした。
 この玉縄城の城主に与力した間宮家の笹下城も同様の築城術で築かれた城塞群でした。

…玉縄城の西の端は、下の写真の戒宝山宝国院二傳寺(にでんじ)の丘一帯を城塞化していた二傳寺砦でした。

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この二傳寺には関東の平氏系大名の祖先、平良文(よしふみ)公の御廟所があります。 

そして、その子孫には間宮家の信仰した御霊神社の祭神鎌倉景正(かげまさ)公がいます。

戦国時代の三浦・豊島・長尾・千葉・葛西・相馬・芦名などの関東東北の大名も平良文公の御子孫です。 上杉謙信も長尾家の出身で、この良文公の子孫に当たります。

二傳寺砦の城址は太平洋戦争中に陸軍の砲兵部隊が展開していた場所で、近代戦争でも重視される戦略上の要所でした。
近所は平良文公の居城跡の村岡城址公園も在ります。
残念ながら城址としての旧状は地形的に崖に面している以外ほとんど残っていません。

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実は明治時代の対馬海戦で当時の先任参謀だった秋山真之中佐の丁字型戦法を採用しロシア帝国バルチック艦隊を迎撃し完勝した東郷平八郎元帥も平良文公の御子孫だった御縁で、この村岡城址公園には東郷元帥の甥である東郷吉太郎少将が揮毫した顕彰石碑も有ります。
この玉縄城や二傳寺一帯が戦国時代のみならず、平安時代~近代にかけて戦略上の要所だった事が良く解る場所でもあります。

…玉縄城の東の端は、下の写真の長尾臺御霊神社(ながおだいごりょうじんじゃ)一帯に在った出城の長尾城でした。

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関東では一般的に御霊神社の御祭神は元は平良文公を含めた良文流坂東平氏の祖先を広く崇拝する神社でしたが、平良文公の御子孫の鎌倉景正公が前九年後三年の役で活躍し有名になると、後に景正公が坂東武者の鑑として武士達の崇拝対象と成り御祭神として信仰される様に成りました。
景正公を祀る御霊神社の本宮は現在も鎌倉市坂ノ下町に現存しており、鎌倉江の島七福神巡りの一所として現代では眼病治癒や恋愛成就の神様として一般庶民の信仰も集めています。
ちなみに長尾城を築いたのは、上杉謙信の祖先の長尾家で、長尾家も鎌倉景正公の子孫です。
言い換えれば上杉謙信が玉縄城を攻めたのは、祖先の御霊に弓引くような行為そのものだった訳です。
この長尾臺御霊神社の在る長尾城を支配した北条家も、実は鎌倉景正公の祖先の平良文公と同族の子孫です。
小田原北条家の祖先は元の姓は伊勢と言い、伊勢平氏で、良文公とは同族です。更に小田原北条家の家祖である北条早雲公が婿養子として継いだ伊豆の北条家の祖先は元皇族の平高望(たかもち)王です。高望王の子孫には平良文公がおり上杉謙信とは遠縁であり、祖先の代から因縁も有りました。

3人目の間宮家の有名な殿様は、杉田間宮家の間宮信繁公です。
下の写真は磯子区杉田の牛頭山妙法寺です。
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杉田間宮家歴代殿様の御廟所が有る間宮家の菩提寺で、日本武尊の伝承と空海和尚が牛頭天王社を建てた由緒の有る御寺です。

戦国時代、間宮家は北条家の武蔵国と伊豆国の水軍を率いる立場にあり、その間宮家の海の拠点が杉田湊(みなと)でした。
杉田間宮家の初代に当たる間宮信次公は笹下城を築城した間宮信元公の実弟で、水軍の将として活躍し三浦の走水海岸で玉砕しながらも里見家の海賊を撃退し敵軍船を多数鹵獲(ろかく)した記録が残っています。
信次公の孫に当たる間宮信繁公は杉田を中心に北条家の奨励した梅の植林と内政に力を発揮された武将でした。

信繁公により造営された梅林は江戸時代になると「杉田梅林」として有名になり、風光明媚な屏風ヶ浦の沿岸を海路、船でクルージングを楽しみ、杉田聖天川にあった桟橋で上陸し梅林を見学に来る江戸からの観光客で大変賑わったそうです。 そして杉田梅の実も、最高級のブランド梅として江戸時代 昭和初期にもてはやされたそうです。
明治時代になると、明治天皇をはじめ皇族の方々も杉田梅林を見学に行幸されました。その当時は国道16号線は開通していなかったので、六浦道(笹下釜利谷道路)を下って来られ、まだ横浜市が成立する以前の当時の久良岐郡の中心だった今の港南区笹下の関に有った「石川亭」と言う料亭に宿泊され、そこから杉田梅林を見学に出向かれたそうです。しかし昭和になると杉田梅林は保護されず宅地開発され、消滅してしまいました。
杉田梅林は消えましたが昭和初期まで続く文化醸成地を築かれた信繁公の功績は非常に大きいですね。


下の写真は小田原北条家の梅林文化を今に伝える、横浜市磯子区の岡村天満宮の一部だった岡村梅林と小田原市の曽我梅林です…
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写真の岡村梅林を旧社地として抱えていた岡村天満宮ですが、その梅林の植林時期は杉田梅林と同時期と伝えられています。

しかし現在の岡村梅林は戦国時代末期や江戸時代初期から存続した物ではありません。

元々岡村梅林は広大な敷地を持っていた岡村天満宮の鎮守の森として、間宮家が江戸時代初期この一帯の奉行を務めた時期から存在していましたが…

太平洋戦争の敗戦後にアメリカ合衆国に接収され、米軍基地造営の際に破壊されました。

その後、岡村天満宮の社地は岡村天満宮に返還される事なく、米軍から横浜市に返還されてしまいました。

…その土地の一部を買い戻したのが岡村天満宮の氏子さん達です。土地を買戻し岡村天満宮に寄贈し更に市の公園部分にも梅を植林し北条家の梅林文化を再度復興し、小田原北条家~徳川家統治下の往時、間宮家がその発展に寄与した神奈川と伊豆の梅林文化を現在に残して下さいました。
下の写真が曽我梅林。
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小田原曽我梅林の梅花越しには坂東の民百姓から木花之佐久夜毘売命(このはなさくやひめのみこと)の権化として信仰された富士山が見えます。

綺麗ですよね。

岡村天満宮は源頼朝公の忠臣で、曽我兄弟による頼朝公の暗殺を阻止した武将で、三浦家の一族の平子有長公の開いた天満宮です。

戦国時代に平子家は北条家により磯子一帯の支配権を奪取され越後に移住した様です。

岡村梅林の近くには泉谷山龍球院と言う御寺が在ります。
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御寺の寺紋が北条家の三鱗紋に丸で囲いを付けた物です。実は龍珠院は間宮家の寄親で玉縄城主の北条綱成公が小規模な御堂だった龍珠院の支援を始め、次代の北条氏繁公が本格的に開基した由緒を持つ御寺です。

何故、ここに玉縄北条家の御寺が在るかと言うと、このすぐ近くには間宮家と共に鶴岡八幡宮を再建した蒔田吉良家の殿様の居城蒔田城が在るのですが…
吉良頼康公は一時期、小田原北条家では古河公方の代行者を務めていた時期が有ります。
…その頼康公の蒔田城に訪問が必要だった北条氏繁公と、蒔田城近くの同地に御縁が有るのは歴史の必然でもあります。戦国時代、御寺は有力武将の寝所としても機能する場でした。


間宮信繁公の御話に戻ります…
北条家の滅亡後、間宮家としての康俊公の山中城での活躍や、間宮家が特に鷹狩りと鷹の飼育、鷹の献上の有職故実に精通していた事から、信繁公は徳川家康公に鷹匠の頭として家康公の直臣に取り立てられました。

この時代、鷹匠は庶民ではなく武士が担っており、山野を駆け巡る機動力に優れる上に殿様の鷹狩りに際し事前に地域住民に担当割り当てを交渉する等の実務に精通した集団でした。

信繁公は内政だけでなく、武将としても稀有な功績を残されています。
その鷹匠集団の特殊能力を活用し、信繁公は有名な「関ヶ原の決戦」で大功を立てました。
下の図は関ヶ原合戦時の東西両軍の布陣図です。
関ヶ原合戦図

家康公の率いる東軍は開戦当初、背後に陣取る敵の毛利家の大軍がいる事で釘付けにされ味方の細川、黒田勢が石田三成本隊からの大砲の砲撃に苦戦しているにも関わらず、 徳川本隊が前線の援護に参加できませんでした…

…この状況を打開する切っ掛けを作ったのが間宮信繁公です。

毛利家の陣地南宮山から狼煙(のろし)が上がるのを見ると、信繁公は鷹匠部隊の特殊能力を活用し敵陣をつぶさに偵察し、その陣容と状況を家康公に報告しました。
この事で事前に徳川家に内通していた吉川広家が毛利家の前進を約束通り阻んでいる事や長宗我部勢等も動きが無い事を把握し、徳川本隊の前進から松尾山の小早川勢1万 5 千の大軍への寝返り工作が成功し、関ヶ原決戦での徳川勢の大勝利に繋がっていきました。
事実、この後、徳川家康公は鷹狩りを行う度に随行する間宮信繁公の関ヶ原での戦功を称賛し、その度に信繁公と与力の鷹匠衆の領地を加増して下さった事が記録に残っています。
 
4人目の功績を残された間宮家の殿様は滝山城主の北条氏照(うじてる)公の付家老として活躍された方で、名前を間宮綱信(つなのぶ)公とおっしゃいます。
綱信公が与力として仕えた北条氏照公は北条家第4代当主氏政(うじまさ)公の実弟で、滝山城に兵3000で籠城し、武田信玄2万の大軍から八王子を守り抜いた実績の有る勇将で内政にも優れた手腕を発揮されました。
八王子市丹木町に現存する滝山城址は日本有数の規模と保存状態を誇っています。

下の写真は滝山城址の小宮曲輪の切岸と空堀と土塁です。

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上の図面は滝山城の縄張り図です。
滝山城址は現在、城址の至る所に当時の防御設備の説明看板が設置され無料で散策出来る東京都立滝山公園として整備されています。

綱信公は滝山城主北条氏照公の付家老として政務を担いながら北条家の外交官としても活躍しました。

下の写真は磯子区氷取沢の飯盛山宝勝寺です。
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宝勝寺は間宮綱信公が中興した御寺で綱信公の菩提寺です。
織田信長公に謁見する等、「内政」と「外交」で功績を残されました。信長公との面会に及び北条家からの献上品を差し上げた際に、信長公から北条家への返礼として大判金貨100枚や虎の皮等を拝領した記録が残っています。

更に信長公は名将滝川一益公に対し、綱信公一行への接待を御命じになり、綱信公一行は一益公の案内で安土の城下町を案内されたそうです。

実はこの際、北条家側から信長公への献上品に鷹が含まれており、間宮家が外交の際の献上用に飼育していた鷹だった可能性が有ります。

元は間宮家の旧主に当たる古河公方足利成氏公の子息が開基した由緒のある御寺です。

宝勝寺の近くには綱信公が徳川家康公に仕えるように成った際に隠居地として与えられた氷取沢陣屋が在りました。

この寶勝寺の西側、現在、団地が在る辺りが氷取沢間宮家の陣屋跡と伝わりますが、既にマンション開発によって陣屋跡は発掘調査されないまま消滅してしまいました。

寶勝寺は明治時代にも偉人の信仰を受けた寺でした。

実は近隣の金沢区金沢文庫一帯は、古来より景勝地として知られたのですが、その景勝地が8ヵ所在った事から、同地は金沢八景と呼ばれる様に成ったのですが、明治の元勲、伊藤博文公がその金沢八景の一つ野島に別宅を構え、そちらで日本帝国憲法の草案を纏め上げたそうです。博文公は、よく、この寶勝寺を訪れたそうで、博文公の武士時代の遺物が寄贈され現在も寺宝に成っています。
新編武蔵風土記稿や古今感状集を著書にもつ江戸時代の学者、間宮士信(ことのぶ)公は間宮綱信公の御子孫に当たります。


間宮家の5番目に功績を残された殿様は北条家が滅亡し、安土桃山時代も終焉を迎える頃の殿様です。
最後の笹下城主、間宮直元(なおもと)公と言う殿様です。間宮直元公は、北条家滅亡後、祖父間宮康俊公の跡を継ぎ徳川家康公に御仕えし、本牧奉行に任命されました。その頃、徳川家の支配下で既に関東地方での戦闘も無くなり、城としての役割を終えた笹下城の麓に拠点を移し笹下陣屋を設けました。
寶生寺周辺図
上の衛星写真の範囲が大凡( おおよそ)間宮直元公が統治した本牧奉行の管轄地域です。
この本牧奉行の役職の由来は、写真左上の本牧半島の地名に由来しますが、その支配地域は略( ほぼ)、旧久良岐郡の大半を占めていました。
現在の金沢区方面は金沢奉行と言う役職が置かれ、長谷川家が統治を任されていました。

本牧奉行を務めた直元公も、他の間宮家の殿様の例に漏れず神社仏閣の保護に力を入れていました。
その直元公の事績を今に伝える古文書に登場する御寺が下の写真の横浜市南区堀之内に鎮座する青龍山寶生寺です。

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寶生寺は平安時代末期、源頼朝公の御父君の源義朝公の時代に開基された御寺で、戦国時代初期の名軍師太田道灌公を初め、戦国時代は北条氏康公、江戸時代は徳川家康公の庇護を受けました。

ですから、御寺の寺紋も北条家の三つ鱗紋の使用を北条家より許され今も山門の上部には北条家の家紋と同じ寺紋が使用されています。
この寶生寺を間宮直元公が支援していた事や、直元公の叔母に当たる於久(おひさ)の方が徳川家康公の側室に成っていた事、加えて直元公御自身が本牧奉行以外に更に徳川幕府内の重要な役職である但馬奉行・佐渡奉行に就いており金山銀山の開発を担っており、その役職上、家康公と直接お話を出来る立場に在ったので、寶生寺が家康公より朱印状を賜り寺領を庇護された事に、少なからず本牧奉行としての間宮直元公との関わりが役に立ったのは間違い有りません。
武将としての事績としては、直元公は大坂冬の陣に井伊直孝公の与力として参戦しました。その際、徳川家康公より直々に呼び出され「坑道を掘り大坂城の櫓を崩せ」との命令を受けています。残念ながら、この作戦の成功を見る前に直元公は陣中で病没されました。もし、成功していたら間宮家の活躍により、旧主北条家の大大名復帰なんて事も有ったのかも知れませんね。作戦自体は成功を見る事は有りませんでしたが、この史話は家康公の直元公への信頼と関係性を示す逸話でもあります。


もし、機会があれば間宮家との所縁のある下の写真の港南区笹下の梅花山成就院一帯も散歩されてみては如何でしょうか?

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この成就院の山門は江戸時代の間宮家が本牧奉行を務めていた時代の笹下陣屋から移築された物を使える部材を生かし修繕を繰り返し昔の形を保っています。 近所には冒頭で紹介した旧IHI団地跡地に在る笹下城本丸跡が在り宅地化されてしまう前に見る事が出来ます。

成就院は幕末の笹下間宮家と所縁の深い御寺でもあり、昭和のIHI団地開発で破壊されるまで間宮家が植林を奨励した梅林に囲まれていました。

その梅林を江戸時代初期に京都から見学に来た西本願寺十三世良如上人と九条関白様が滞在された際に、北条家の梅林文化を伝える笹下城跡の梅林の美しさを絶賛した事から、山号を梅花山に改めた歴史が有ります。

間宮家の居城笹下城の本丸跡に、すぐ隣接する御寺で、間宮家とは地縁も深い御寺でもあります。


下の写真は港南区下永谷に在る永谷天満宮と、その横に在る別当時として永谷地区の歴史を守って来た天神山貞昌院です。
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関東管領も務めた宅間上杉家の殿様が創建した天満宮で、太宰府天満宮、道明寺天満宮と日本三躰(にほんさんたい)として数えられる天満宮です。
永谷天満宮を開基した宅間上杉家の殿様の居城は今の港南区永野小学校の一帯に在った永野城でした。

宅間上杉家の初代当主重兼公は足利尊氏公の従弟に当たる武将で、元は勧修寺家出身の家系に連なる殿様で、後に母方の実家の上杉家に養子に入られました。
宅間上杉重兼公は足利尊氏公の祖父の家時公とも関係が深い方でした。

重兼公の母君と足利尊氏公の母君が御姉妹で、上杉頼重公の御息女でした。

宅間上杉家は宅間富朝(とみとも)公の代に、先述の磯子区の宝勝寺を中興した間宮綱信公に御姫様が御嫁入りして、間宮家とも縁戚の関係になり更に軍事面でも間宮家と共に鎌倉を守る位置にありました。
この永谷天満宮の所在地に平安時代、元々居住していたのが天満宮の御祭神である菅原道真公の五男の菅原敦茂(あつしげ)公との伝承が有ります。
その菅原敦茂公の御主君が醍醐天皇でした。
醍醐天皇は貴族から権力を奪還し御親政(しんせい=天皇による政治執行)を行おうとした方で、その醍醐天皇の御実弟が間宮家の祖先の敦実親王でした。
ですから菅原敦茂公の居所一帯に建つ永谷天満宮は間宮家との御縁が深く、その敦茂公の古址に永谷天満宮を創建した宅間上杉家と間宮家が婚姻関係で結ばれ協力関係だったのは、醍醐天皇と間宮家の祖先の敦実親王御兄弟に結びつく数奇で宿命的な御縁なのかも知れません。

永谷天満宮と貞昌院の在る永谷地区から徒歩15分程度の近くの野庭地区には鎌倉幕府の初代侍所別当和田義盛公が築城した野庭(のば)関城も在りました。

下の写真は野庭( のば)団地の遠景です。

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この野庭関城は、鎌倉幕府の軍事教練所でもあり、鎌倉時代~戦国時代の貴重な史跡でしたが
昭和期に教育委員会が調査も保護もしないまま野庭城は宅地開発され消滅してしまいました。
その場所は市営野庭団地一帯、本丸は野庭中央公園付近だったと伝承しています。

数十年前まで城の土塁も現存したそうですが現在は破壊され存在しません。

戦国時代この野庭城は北条家の名官僚の安藤良整(りょうせい)公が城代を務めていました。

良整公は北条家領内の百姓の為に公平な徴税を行える安藤枡を考案された民政家で、村同士の水利権争いを裁いた名奉行として、その内政面での功績が有名な方です。

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上の写真は野庭地区から程近い、港南台の円海山の瀬上池です。

瀬上池の周辺は横浜市内で数少ない蛍を鑑賞できる沢のある自然公園であると同時に、その林道は平安 鎌倉 室町時代の武士が利用した史跡の道でもあります。
蛍は6月中旬から見られます。

この円海山は、鎌倉御家人達が利用した古道より更に古い史跡が出土しています。

瀬上池近くから古代の蹈鞴(たたら)製鉄の遺跡が出土しており、古くからこの地域が軍事拠点として重要な場所だった歴史を伝える史跡群を抱える場所でもあります。
港南区と磯子区と言う工業地商業地として発展していながら、その豊かな自然を誇りながら関東の鎌倉節文化の草創期からの歴史を伝える貴重な場所でもあります。

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この円海山の山頂からは北条家の梅林文化を守る小田原曽我梅林と同じ様に、関東の武士団が拝み見ていた富士山が綺麗に見えます。空気の澄んだ冬から暖かい春への変り目に当たる春分の頃には相模湾の遠望越しに、夕日が富士山山頂に沈むダイヤモンド富士を見る事が出来ます。

下の写真は磯子区円海山の峰地区側に在る、安養山峰の阿弥陀寺です。
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  この円海山の古刹、阿弥陀寺からは浄土宗総本山の知恩院第四十六世住職了鑑大僧正を排出しています。

そして円海山の名前の由来に成った下の写真、素敵な竹林と森林の参道を持つ円海山護念寺です。
元々この阿弥陀寺の奥院だった御寺で、古典落語「峰の灸」の舞台でもあります。
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この護念寺の道は鎌倉武士の古道で少し昔まで、その道を抜けると間宮家の氷取沢陣屋へと通じていました。

しかし現在、この林道は護念寺の私道に成ってしまった事と、その道の先の氷取沢側が宅地開発されてしまった事もあり車の抜道として利用出来ない様に封鎖されてしまい、現在は通り抜ける事は出来ません。

円海山の他の林道も部分的に倒木や路盤の劣化により封鎖されており、横浜市による再整備を要する状態にありますが、自然の中で散歩を楽しみ新鮮な空気に触れる事は出来ます。

この護念寺の道や円海山の尾根道を抜けると、下の写真の大谷戸広場に出ます。

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この氷取沢の大谷戸広場一帯は農地が広がり、付近には護岸工事されていない自然なままの渓流も残っていて鎌倉郡・久良岐郡の原風景を今に見る事が出来ます。
学校では郷土史を教えて貰える機会は有りませんが…

この様に横浜市には歴史史跡が沢山あります。
皆さんが普段何気なく生活されている、この横浜市には交通の要所だった事から由緒有る御城がいくつか在りました。その御城が現在無くなっても殿様達が保護してきた神社や御寺が今も残っています。
戦国時代~江戸時代の人が現代に伝えて下さった古代からの文化や歴史も神社や御寺の宮司様や和尚様が伝承として守って下さっています。
…もし横浜に愛着を感じたら、ちょこっと近所の御寺や神社、御城の跡を御散歩して、横浜市や鎌倉市の基礎を築いて下さった歴史偉人達に思いを馳せてみるのも風流かも知れませんよ。

                  

       筆失礼 久良岐のよし


 

































































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