歴史オタクの郷土史グルメ旅♪♪      久良岐のよし

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タグ:龍寶寺

京都の友人のKGが横浜出張を終えて帰る日程が決まり、一緒に未だ行ってなかった神奈川県中央部相模川西岸を中心に歴史散策をして来た。
後で訪問地の数を数えたら驚愕の訪問件数に成っていた。
当日の訪問先は以下の通り・・・
訪問先一覧
①JR大船駅・・・AM:08:00集合。
②龍寶寺・・・戦国時代の北条綱成公の玉縄北条家菩提寺。
③玉縄城七曲り虎口・・・関東屈指大城郭の数少ない残存遺構。
④玉縄城大手門跡・・・学校建設で残らないけど看板が有る。
⑤玉縄城の石碑・・・解り難い場所、説明文の内容も雑で事実誤認してる。
⑥寒川神社・・・言わずと知れた相模国一之宮。
⑦前鳥神社・・・言わずと知れた相模国四之宮。
⑧平塚八幡宮・・・言わずと知れた相模国最古の八幡宮。
⑨オリーブの丘・・・横浜市の沿岸部で見た事が無いファミレス。
⑩無量寺・・・岡崎城の本丸にある御寺。
⑪岡崎城三連郭・・・大城郭の数少ない明確な遺構残存部。
⑫岡崎義実公の墓所・・・外郭に残る今上天皇陛下も大学時代にいらっしゃった場所。
⑬高部屋神社・・・延喜式内社で鎌倉時代の名将糟屋有季公の居城、千鳥ヶ城の鎮守の神様。
⑭丸山城址公園・・・千鳥ヶ城の一部分が児童公園化された場所。
⑮洞昌院・・・太田道灌公の死没地で北条早雲公が道灌公菩提寺に定めた場所。
⑯道灌公御廟所・・・道灌公の親友の万里集句和尚と北条早雲公が整備した太田道灌公の胴塚。
⑰七人塚・・・太田道灌公の与力武将が上杉定正公放った追討兵を食い止め討死にした供養塔。
⑱上粕屋神社・・・行基大僧正が比叡山の山王権現の御分霊を勧進し建立させた神社。
⑲扇谷上杉家糟屋館大空堀・・・神奈川県下指折りの大城郭の自然地形を拡張した大空堀。
⑳上杉家糟屋館湯殿入虎口・・・大城郭糟屋城(館)の侵入経路の名残りの喰い違い、近年消滅の危機。
(21)糟屋館・・・産能大学の丘に存在した大城郭。丘上から南北の大空堀が良く見える。
(22)糟屋館武者走り・・・丘の側壁崖地に迅速測図にも残る武者走り地形と土塁が残存。
(23)比々多神社・・・言わずと知れた相模国三之宮。
(24)埒面古墳・・・比々多神社の旧境内地の聖地とされた場所、土建屋に破壊された古墳。
(25)比々多神社元宮・・・北条家に攻められて焼け落ちた比々多神社の旧境内地。
(26)AOI七沢リハビリテーションセンター病院・・・実は戦国時代の七沢城の主要部分。
(27)七沢城の碑・・・病院から少し離れた場所にある石碑、昭和の郷土史家の説明が間違いだらけwww
(28)徳雲寺・・・扇谷上杉定正公の菩提寺で、七沢城の外堀と七沢城址の地形が良く見える。
(29)ZUNDBAR・・・凄いオシャレなラーメン屋、神奈川淡麗系の名店。
(30)新磯子埠頭・・・横浜の夜景スポット。海釣りの名所だけど余り知られてない。
(31)上大岡駅・・・21時位に解散。
・・・我ながら1日で良くも巡ったものである。KGと小生は御互い歴史オタクで城郭オタクでもあるので1日に山城複数個所登ったりもする。
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これの地図の青い線は2月だったか二人で鎌倉城を一周した際の順路をKGのスマホGPSで可視化したタイムライン。市街地を取り囲む鎌倉城の稜線にそって丸々一周した。
この鎌倉城は鎌倉幕府設立後、石材の切出しを行った結果、次第に市街地の整備に伴って城塞化されて行った場所で、小生と横浜市の学芸員サンの共通意見として明確に城塞化されたのは南北朝時代以後だと思う。小生の意見としては空堀や虎口が尾根上に本格的に整備され始めたのは足利尊氏公と北畠顕家公の鎌倉争奪戦の頃に始まり、足利持氏公と上杉禅秀公の内乱が勃発した頃に名越切通しや瑞泉寺裏の一覧亭付近が中世城郭化したのだと思う。
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瑞泉寺の裏山には豊富に堀切等が残っている。
名越切通しは戦国時代の構造体に見える。
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完全に枡形虎口に成っている。
「堀切って何ぞ?」「虎口ってタイガーマウス?痛そう!」と言う次元の初心者にも解りやすい城の構造体と名称の図説解説サイトのリンクを貼っておくのでソレを見て欲しい。
これ⤴ね。
この鎌倉城散策時は完全に体力勝負で朝の9時に集合して稲村ケ崎からスタートし山を一周、材木座の住吉城に到達した時には17時40分くらいで小生はヘロヘロだった。
なんせ稲村ケ崎から時計回りに鎌倉城を登るとズゥ~ット山道の登り坂!体重がストレートに脹脛(ふくらはぎ)と太腿に乳酸を溜めて行く上に、脱水でミネラルが抜けて痙攣しやすく成ってしまう。
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ちなみに、今回の休日雑記と鎌倉城散策は違う日なので又改めて鎌倉城一周トレイルの記事も書こうと思うが、この鎌倉城トレイルは初っ鼻から稲村ヶ崎で波を被ってビショ濡れに成ってた(笑)。
KGは撥水性のジャケットを着ていて無事だったが小生は近所のスーパーに行く様な短パン、パーカーのナメ腐った格好だったので海水を完全に吸収してメチャくそ寒かった(笑)。
この鎌倉市街1周する鎌倉城トレイルの行程を半分進んだ時点で小生は大平山の山頂手前で足攣ったり滅茶苦茶だったが格闘家体系を維持しているKGはピンピンしていた。
けれど、今回は体力ではなくて時間との闘いなので訪問順路の効率の問題でもある。
実は当初の訪問予定候補地は更に多かったが、それはこの日の訪問先を順を追って紹介しながら見て頂きたいと思う。
「1日に29箇所訪問とか嘘だろ?」とか思うかな?
これ⤵を見て貰うと効率的に散策したのが解ると思う。
GoogleMap登録地
小生はGoogleMapに行きたい場所や行った場所をやたらめったら表示を分けて登録して有る。こうしておくと効率的に訪問順路を決められるので皆さんも試して頂きたい。
因みに緑が気に成ってる場所、黄色は訪問済み、ハートは絶対に行きたい場所。
訪問地一覧 久良岐のよし
小生はAndroidを使い始めてから5年で観光で訪問した町が赤い点の場所、訪問箇所は全部で942箇所らしい。
実際にはこれに加えて台湾の台北市と中国の香港市と深圳市にも訪問してる。その3都市で多分、更に50箇所位増えると思う。
小生は一人で行動する時は1日で5箇所以上は訪問する、多い日で10箇所以上、最多記録は14箇所だった・・・
でもこれ、歴史マニアの訪問箇所数としては一般的だと思う。城マニアや神社仏閣ファンは1日に10箇所訪問とかザラだと思うので小生を超える猛者は腐る程いると思う。
小生はどちらかと言うと神奈川県東部限定のローカルな古代の街道オタクなので、普段は山の中を歩いてる事の方が多く、たまに山の廃道を進んで林道と獣道が区別つかなくて横浜市や横須賀市の山の中で遭難しかけたり三浦市の海沿いの崖から落ちて骨折したりしてる(笑)。
・・・ただ今回のKGとの29箇所は今後も超える事が出来ない訪問件数だと思う。訪問地~次の訪問地まで近い場所をずっと辿って鎌倉市~寒川町~平塚市~伊勢原市~厚木市を巡った結果、多い訪問件数でも城に関しては散策に十分な滞在時間も確保する事が出来た。

では!きまぐれクック金子風に本題に戻りぃ~・・・
・・・この日の29箇所訪問旅の話を進めて行くっ⤴!

大船駅でKGをピックアップして先ずは龍寶寺に移動。
大船駅周辺
画像に表示してある場所の内、KGとは平安時代の城の村岡城、玉縄城外郭の二伝寺砦、二傳寺、久成寺、長尾城+定泉寺の瑜伽洞は訪問済み。
神奈川県に出張に来た城オタが必ず見ないといけない城が小田原城、石垣山一夜城、岡崎城、津久井城、大庭城、玉縄城、小机城で、しかし肝心の玉縄城主要部は遺構も少ない事からKGは岡崎城と玉縄城と津久井城だけが未訪問だったので今回は近い玉縄城と岡崎城を訪問コースに入れて見て回る事にした。
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陽谷山 瑞光院 龍寶寺
何故最初の訪問地が龍寶寺かと言うと、この龍寶寺の境内山門の近くには御寺の運営する郷土資料館が朝早くから無料開放されている。
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そこに玉縄城の縄張を再現した地形模型や簡単な解説の展示物が有るので、先ずここで視覚的に立体的な城の構造を復習してから見学すると理解がし易いからだ。
他にも鎌倉の特産品だった雪ノ下胴と呼ばれる甲冑や江戸時代の農機具等の貴重な展示物が有る。
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それにここは玉縄城主の北条家の供養塔も有るので、先ずは御参りして御挨拶差し上げるのが筋と言う物だとも思う。
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因みに玉縄郷土歴史館の立体模型だけでなく余り役には立たないけども日本城郭大系の当該地解説もコピーしてKGと二人で予習してから散策に臨んだ。
先ず目指した場所は七曲りの虎口。虎口と言うのはつまり城の入口を守る防御機構の事。
城=天守閣と誤解してる歴史入門者LVの人は、もう1度上のリンク⤴のサイトで復習してから写真を見ると図と照らし合わせて非常に解りやすく城の構造を理解出来ると思う。
龍寶寺から徒歩5分、直ぐに玉縄城の中心部に登る最終関門となる七曲りが有る。
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今は本丸は女子高で男性には攻め込んだら警察に通報される法律的に難攻不落(笑)の城に成っているのだが、現代も物理的に難攻不落の地形を垣間見る事が出来る。
七曲りは深い谷から一気に本丸の大手門に登って行く道なのだが、谷の両岸は裾切(すそきり)と言われる山裾を直角に切り落とす土木工事がされている。神奈川県の地層は他地域と異なり関東ローム層と隆起した砂岩の地層は登ろうとすると滑る上に地盤としての耐久性は高く加工もし易いので傾斜角が60°以上確保されており、30㎏の甲冑や武器をフル装備した歩兵は絶対に道順通りにしか侵攻する事が出来ない。
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玉縄城七曲虎口
この様に道の斜度もキツイが当時はこの道ではなくフェンスの中に更に直進出来ない様にした九十九折(つづらおり)に農道として残る狭い武者走りと言われる細い道がジグザグに有る。武者溜(むしゃだまり)と呼称される段々に成った曲輪(くるわ)の連続に成っている。
こんな構造体を段郭と言ったり一段しか無い単体なら腰曲輪と言ったりする。この“武者溜”は日本城郭大系にも詳しい図は無く小生もKGも予備知識無かったが見て段地の方が旧道と直ぐに理解出来たし看板にも説明が有ったので確認も出来た。
しかし現代の道は明治時代の地図から改変は無いものの戦国時代の関東の城にしては道幅が2m以上あり虎口としては広過ぎる上に単純過ぎる。
写真でも解るフェンス内の段郭の防御機能を活かす事が出来ていない、恐らく北条家の支配が終わり徳川家臣団が後世に改変させたハッキリ言って城のデチューンと言って良い道だと推測した。
玉縄城主郭周辺 久良岐のよし
現代の道も明治時代の測量図と近い長い直進とL字の連続する喰い違い構造に成っているので、恐らく江戸時代に成って本多正信公か大河内正綱公が城主によって近世城郭に近い形に改編された道だと思う。
こんな単純構造には北条家は城を作らない。元々七曲りなのが五曲り位の道幅も広い大手道にデチューンされてる。
・・・とは言ってもこの七曲り、御覧の通り空堀の堀底道としても機能していて防御力は高い。
ここを進軍すると両脇の城の山の尾根から弓矢鉄砲の集中砲火を受ける事に成る。この様な地形は古代に海が入り込んでいた神奈川県沿岸部の平地、東京都南部~東部、埼玉県東部、千葉県西武~東部、群馬県南東部に多く見られる。
玉縄城は要害堅固で上杉謙信公の15万、武田信玄の2万8千の軍勢に攻められた際も守備兵3千で敵勢の撤退まで守り抜き逆襲に成功した実績が有ったりする。無論、守備した北条綱成(つなしげ)公や北条康成(やすしげ)公は、時には敵だったり時には同盟者だったりした上杉謙信公や武田信玄からも賞賛された名将だったりする。
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七曲りを登りきると右手の変な崖の上に無理やり建てた(笑)民家が有るが、これが三角平場と呼称された曲輪で、七曲りを登ってくる敵を攻撃すると同時に本丸に侵入した際に敵に側面から奇襲を仕掛ける兵士を待機させる構造体だった様だ。
玉縄城縄張図
実はKGだけでなく小生も主郭周辺を見に来た事は無かった・・・
「女子高だからどうせ中に入れないし~」
・・・と自分で文献を読んで無かった初心者の頃の小生はネットの不正確な情報を鵜呑みにして近づいていなかった。
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でも実は住宅街に成った場所にも意外に多く明確な遺構が残っていたんだなぁ~と今更ながらに再認識させられた(笑)。やはり人の情報を鵜呑みにしたらダメだな。
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玉縄城は遺構こそ少ないものの玉縄城址まちづくり会議の荒井会長達の御尽力で解説が有り、残り少ない遺構も楽しく散策する事が出来る。
七曲りの武者溜(段郭)を通過し三角平場の下を突破すると大手門に行く前に左手に太鼓矢倉の平場と堀切と硝煙蔵の平場が現存している。
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説明が有るので良く解らない人でも構造の役割が理解できると思う。
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この写真を見ると太鼓矢倉の尾根が断ち切られた“堀切”が解るだろうか?
平時はここに“引き橋”と言われる仮設の橋が架かっていて、敵が攻めてくると橋を引っ込めてしまって敵が侵入出来ない鉄壁の防御構造に成る。
空堀の深さは堀底~太鼓櫓の曲輪(くるわ)まで比高8m程度と言った所だろうか?普通にこの高さを突き落されたら良くて骨折、悪ければ死ぬだろう。
この構造によって敵は山裾から尾根道伝(づた)いに真っ直ぐ本丸を目指す事は出来ず迂回して七曲りから登って来るか城主の館の道から遠回りして登って来るしかない・・・
「城入門勢の読者の皆さん、ついてこれてますか~(笑)?」
・・・と言う所だが、ここまで読んだ方は既について来れていると思うので書き進める。
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これは清泉女学院高等学校の校庭の下の崖、このコンクリで塗り固められた場所が玉縄城の大手門だった。残念ながら高校建設と宅地化の際に原型が無くなっている。
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でも玉縄城址まちづくり会議の方が説明を掲示してくれているので予備知識が無い人も当時の様子を想像する事が出来る。
この大手門から城主の館が存在したマンション“ルネ鎌倉植木”辺りに降りる“陣屋坂”に向かう場所に玉縄城の石碑が有る・・・
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・・・と偉そうに解説してるが、こんな見つけ難い場所だったので通行人の人に教えて貰うまで見つけられなかった(笑)。
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登るとこんな小さな仏様と石碑が有る。
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熱心なんだけど昭和初期の郷土史家に有りがちな間違い。徳川氏の治世に成って直ぐに廃城に成ったと書いているが実際は徳川家康公の親友で謀将として活躍した本多正信公が城主に成り、更に松平の苗字の名乗りを許された大河内正綱公が城主に成っても城として機能は維持され廃城に成ったのは元禄十六年つまり江戸時代も中期に差し掛かる西暦1703年の話なので、天正十八年(1590年)に北条家が豊臣家に降伏して大阪で狭山藩1万1千石の小大名として移封されても実に113年間も存続していた事に成る。
これだから明治期~昭和初期の郷土史家や学者の書いた物を鵜呑みにしてはいけない。
因みに先に少し触れたが、この石碑の傍らの坂道が“陣屋坂”で下り切った先に有るマンション“ルネ鎌倉植木”辺りに城主の居館や庭園が有った。
玉縄城御主殿址周辺 久良岐のよし
玉縄城縄張図
本丸の清泉女子の北側の尾根には御花畑の地名も残り、勇将の北条綱成公が花を栽培して蝶と戯れている風景を想像すると少し笑える位にホッコリとした安らぎも地名から感じてしまう(笑)。
綱成公の御子息の北条康成公は奥方様が主君で義理の叔父の北条氏康公の御姫様の七曲殿だった。
七曲殿の名前からも解ると思うが、七曲り虎口の入口に有る館に住んでいたので地名由来の渾名で呼ばれた様だ。当時の女性はなかなか存命中の名前が記録される事が少ないので隠居後の法名や没後の戒名しか伝わらず、七曲殿もやはり法名の新光院としか伝わっていない。
墓所は鎌倉市内の大長寺で、この大長寺は康成公が実母で北条綱成公の正妻だった大頂院殿の供養の為に建てた菩提寺だったが徳川家康公によって現在の寺名の漢字に改名させらて現在に至る。

まぁ、KGとの鬼の訪問件数の1日、初回の記事は玉縄城の解説と言う事でここまでにして、この続きは又次回のブログで書きたいと思う・・・
mixiチェック

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玉縄桜と言う平成に成ってから種苗登録された新しい早咲きの桜を皆さん御存知ですか?
写真が玉縄桜です。
2021年02月28日に訪問した際に9部咲き~満開を迎えていましたので今週末までが最盛期だと思います。
この桜が今、日比谷花壇が支援している元:神奈川県立大船フラワーセンターで見頃を迎えています。
ここの良い所は同時期に沢山の品種の梅が50m程度の梅の並木道として整備されていて、玉縄桜と各種の梅が同時に満開に成る様子を楽しめる事です。
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大船駅から徒歩で15分くらい、車も駐車場が完備されていて首都圏から行きやすい場所です。
大船フラワーセンターだけでは物足りない人は、直ぐ近所に良い御寺も有りますので推薦したいと思います。
日比谷花壇 大船フラワーガーデン
上記公式ホームページて季節ごとの展示や催事を確認できます。
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入口のゲートをくぐると上の写真の一株だけ玉縄桜が有りますが当然これだけではなく、時計回りで園内を見学すると外周沿いにずっと玉縄桜が見れて最後に温室で熱帯植物を見学し、ゲートの売店の前に辿り着き鉢植えの花を購入する事が出来ます。
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他にも花桃の花等も見頃でした。
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おかめ桜もとても綺麗で近所の鎌倉女子大の生徒やデートに来たカップルの若者が非常に喜びながら写真を撮影していました。
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綺麗でしょう?
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梅は梅林と言うほどには植樹されていませんが、様々な種類を一度に観賞出来るように並木道が整備されています。
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温室の展示もとても綺麗ですよ!
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とにかく一見の価値が有るので、大船駅で昭和のスター達に愛された大船軒の鯵の押寿司を購入してお弁当持参して来たりしても良いピクニックに成るかと思います。
でも・・・
「お花だけじゃ物足りないよ~!」
・・・と言う人や小生のブログの読者には歴史ファンも多いかと思います。
御安心下さい。
「あるよ、近くに歴史史跡」
みたいな?
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曹洞宗 陽谷山 龍寶寺
龍寶寺(りゅうほうじ)と言う戦国時代の関東最強の武将だった北条綱成公や江戸時代の徳川家宣公~家継公を支えた側用人の新井白石が支援した御寺があり、玉縄北条家の墓所もあり、旧御廟のあった尾根道も散策する事が出来ます。
更に境内の民俗資料館には上杉謙信公も攻略を断念し包囲を解かざるを得なかった玉縄城の縄張図(なわばりず:設計図)や地形の復元模型、そして鎌倉市の特産品で北条家の武将が愛用した雪ノ下胴と兜の具足一式や出土品も展示されています。
他にも近所に見所が有りますよ~。
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日蓮宗 光圓山 久成寺
この御寺は永正十七(1520年)に足利義澄公の家臣、梅田家によって開基されており鎌倉市内では比較的歴史は新しいとは言うものの既に500年余り地域に根付いた御寺です。
この足利義澄公は小田原城主北条氏綱公の父上で関東の英雄となる北条早雲(伊勢宗瑞)公に大名化の機会を与えた将軍です。義澄公は伊豆の堀越公方足利茶々丸の異母兄弟で、足利茶々丸に実弟の潤童子と御母堂の円満院を殺害されてしまいました
名前が茶々丸とか可愛いくせに全然可愛くないクソです。
これが元々永享の乱が発端となり関東から始まった戦国時代が東海や近畿より一足早く本格的に独立大名同士の領地争いに発展する契機になる事件でした。
伊勢盛時入道宗瑞(北条早雲)公

この時に足利義澄公に堀越公方討伐を命令されたのが今川家で家老に成っていた伊勢宗瑞公です。
つまり状況的には久成寺を開いた梅田サンの祖先は伊勢宗瑞公に与力し一緒に関東に来た元は足利義澄公家臣の同僚で後の北条家臣だった事が解りますね。北条氏綱公
伊勢宗瑞公が伊豆韮山城主として隠居し二代目北条氏綱公の時代にかけて鎌倉の防衛拠点築城改修した御城が2城有り、それが住吉城と玉縄城です。
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上の写真に見える断崖絶壁の鉄壁の地形が住吉城です。
鎌倉防衛網の最東端を担っていた要害で昭和までは下のマンションは海で波が岸壁を洗っていた堅城です。
城記号これは城を示す記号。
明治時代の迅速測図でも源氏谷(げんじがやつ)と呼ばれる崖上の谷にこの本丸マークが有るのですが、三菱財閥や大物政治家が別宅を建ててしまったせいで城として発掘されない時代が長く続いて巨大な城郭なのに開発の波にさらされてしまいました。
鎌倉防衛網 住吉城址 久良岐のよし
この通りです。
住吉城址の西に延びる岩の海岸は源実朝公が築いた人工的に造成された築港である“和賀江島(わかえじま)=わかえのしま(若江ノ島)”です。
現在は“ワカエジマ”で呼称が統一されている鎌倉時代に作られた日本初の人工埠頭の跡です。
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城址の前の小坪飯島公園は富士山の眺望が良く、稲村ケ崎と江ノ島と夕陽が一度に見える景勝地としても知られています。
まぁ埋立地なので関東大震災が起きたら津波に飲まれるのでしょうが。
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この写真は光明寺裏の天照山展望台から撮影したもので、神奈川の景勝50選にも選ばれています。
住吉城址の山は浄土宗大本山光明寺の山号に成っている天照山を含みます。
そもそも山の中腹に光明寺の守護神として天照大神を祀った事に山号が由来している訳で、山の名前ではなかったんですね。
鎌倉市街は実は鎌倉時代~室町時代の最後の鎌倉公方足利成氏公の長い時代をかけて所々が要害化されていて、小田原城を遥かに凌駕する広範囲が防衛網に組み込まれていました。
鎌倉防衛網 久良岐のよし
上は鎌倉防衛網をGoogleEarthで再現した画像です。
範囲は凄まじく鎌倉市街を超えて横浜市金沢区~栄区~港南区にかけて尾根道沿いに切通しや要害が築かれていました。
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先日、同じ南朝系の大名の子孫で歴史仲間の人間と、朝の9時に鎌倉駅に集合して鎌倉要害の主要部分を稲村ケ崎からスタートして登りルートでハイキングした際には歩行距離が21kmに及び、住吉城址に到着した時には日没直後の17時半くらい・・・
総合格闘家ばりの肉体を維持している友人はピンピンしていたのに対して柔道体型にリバウンドした小生は脱水症状と自分の体重で足攣(つ)ったりヘトヘトでした。
住吉城は鎌倉市の光明寺~逗子市の住吉神社にかけて広がる台地で伊勢宗瑞公によって改修される以前も古くは平安時代末期に三浦義澄公によて要害として取り立てられて、当時、平清盛の配下だった畠山重忠公率いる2万余りの代軍勢を三浦義澄公と和田義盛公が3千で迎撃した舞台として吾妻鑑に登場します。
・・・この光明寺や住吉神社は住吉城址ですが、もう一つの北条早雲(伊勢宗瑞)公が築城したのが長尾台の城塞と村岡城を取り込んで作った巨大城郭の玉縄城です。
長尾城~玉縄城跡~二伝寺砦~村岡城 久良岐のよし
長尾台と村岡の要害は平安時代の城ですが、それを取り込んで築いたのが玉縄城でした。
久成寺や龍寶寺、村岡の二傳寺や長尾台の古城の丘を取り込み築かれた城ですが、長尾台は由緒正しい場所で実は上杉謙信の御先祖に当たる長尾家本家の歴代の本拠地でした。
そんな地縁も有って、長尾台に日蓮宗徒の檀家さんの多かった久成寺が長尾台に荒れ果てていた長尾家歴代の墓所を引き取り、供養塔を祀ったそうです。
戦と流通経済の天才、上杉謙信こと長尾景虎公の御先祖の長尾定景公の菩提を現代に弔う御寺が、この久成寺な訳です。
更に源頼朝公の御先祖の源義家公に仕えた長尾家の御先祖の鎌倉景正公や更にその御先祖の鎮守府将軍を務めた平良文(たいらのよしふみ)公の本拠地だったのが村岡城で、その城域の一部と考えられており戦国時代の玉縄城の村岡砦としても機能したのが藤沢市域に入りますが、やはり日比谷花壇大船フラワーセンターからそう遠くない浄土宗の法戒山二傳寺(二伝寺)です。

おの御寺の直ぐ近くに村岡城址公園が有り、東郷平八郎元帥の祖先でもある平良文公や鎌倉景正公の居城でした。
ニ傳寺には平良文公達の上杉謙信公の御先祖の供養塔が有り、全部ひっくるめてゆっくり玉縄城巡りなんてしても大船フラワーセンターの満開の玉縄桜と梅と合わせて散策すると歴史好きにはたまらない一時に成るかと思います。

天気が良い日も多い春真っ盛り、皆さん車でも電車でも行ける日比谷花壇大船フラワーセンターにちょこっと桜と梅をいっぺんに見る贅沢な時間を過ごしに訪れて見ては如何でしょうか?

では、また次のブログ記事で御会い所ましょう~♪
mixiチェック

常楽湯
100年超の歴史を有する老舗銭湯
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☞銭湯の個性と周辺見所 (・◡・)♫  
 100年以上の歴史が有るよ◎
 貴重な昔ながらの薪の沸かし湯◎
 今では貴重なボットン便所(笑)◎
 壁画は沼津市久連辺りの駿河湾?
 タイルのモザイク壁画も可愛い◎
 大船駅前の商店街が有り面白い◎
 大船フラワーセンター徒歩圏内◎
 大船観音寺の徒歩圏内◎
 北条綱成公開基龍寶寺徒歩圏内◎
☞施設・備品関連 (•ω•)ノ      
【入浴料】
 大人470円
 子供200円
 幼児100円
【アメニティー】
 シャンプー等は備え付け無し
 使い切りシャンプー類販売有り
 レンタルのハンドタオル有り
 飲料販売有り
【電車】
 JR大船駅~徒歩10分
 富士見町駅~徒歩05分
【  車  】
 駐車場無し。
 近所に有料駐車場有り。
――以下 写真と詳細( ՞ਊ՞)ʃ♪だよ⤵――
——店構え——
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——番台と建物——
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——浴室と壁画——
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大船駅から徒歩10分、湘南モノレール富士見町駅から徒歩05分と交通の便が良い。
周辺が田園で湘南モノレールが開業するより遥か以前の100年前には既に開業していた。
常楽湯の建物も昭和初期の建築で現代では見る事が少ない貴重な“ボットン便所”も有る意味見所かも知れない(笑)。
昔ながらの番台が有り、昭和の古き良き銭湯の姿を今に残す。
ここの売りは現在では少なくなった薪を燃やした火力による沸かし湯で、ガスや燃料で沸かす湯と異なるので銭湯ファンに人気。主な入浴客は地元民だが、遠方からも入浴客が来る。
鎌倉の小町通り等は観光地なので閉店時間も夜早く19時頃だが、乗り換え拠点の大船駅周辺は住宅街&昔は松竹撮影所が有った地域密着ながら大きな商店街なので居酒屋も多数、鎌倉観光の帰りに途中下車して大船で飲んで帰ったり、御惣菜を御土産に買って帰るのに丁度よい。
昔は鎌倉駅前にも銭湯が有ったが今では材木座の清水湯のみ、大船駅近くに在る本当に昭和のまま100年の歴史を有する“常楽湯”で鎌倉観光の汗をサッパリ流して帰るのは心地良い。
大船駅構内には昭和の映画スター達が愛した老舗の鎌倉大船名物“鯵の押し寿司”を売る大船軒が今も営業している。
鎌倉観光に遠方より電車で来られている方には旅の御供の駅弁にイチオシ。
大船駅前の商店街には横浜~鎌倉に展開する鶏専門店の“ハマケイ”があり名物の鶏1羽丸揚にした“カブト”等も売っているので良い御惣菜土産にも成る。
又、近くに日比谷花壇大船フラワーセンターや戦国時代南関東最強の武将、北条綱成公の菩提寺た龍寶寺と玉縄城の資料館である玉縄ふるさと館、大船観音で有名な大船観音寺も有る。
大船フラワーセンターで季節の御花を見たりピクニック帰りに立ち寄るにも良い銭湯。

さて・・・
常楽湯の魅力伝わったでしょうか?

今後は銭湯の情報が有る程度集まったら、コレ⤵
この穴場海岸一覧の記事みたいな感じで横浜市と鎌倉市を中心に昔ながらの銭湯一覧に編集したいと思います。
少しづつ書き足しますが、皆さんの旅の助けに成れば幸いです。
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お盆休み、まだ尊敬する北条綱成公の御墓参りを済ませていなかったので、菩提寺の龍寳寺に御佛前に供えて頂く御菓子を購入して伺った。
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龍寳寺は巨大な玉縄城址城塞郡の一角である鎌倉市植木に“現在の境内”がある。鎌倉市と謂(い)えども略、大船なので小生の自宅からも車で近い。
城跡だから寺の在る谷の山裾は全て裾切りされた城壁石垣より強力な防御壁となる断崖絶壁の切岸に囲まれている。
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元々は山上の栄光学園一帯が旧境内地だったのだが、儒学者で徳川家六代将軍の側用人だった新井白石が玉縄領主に成った際に龍寳寺を現在の谷間に移して今に至る。つまり昔は龍寳寺は山頂にあり非常時には砦の詰所の役割も担っていた訳だ。
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山門横を車で通り過ぎ、庫裏(くり)=現在の僧侶の居住区兼事務所前の駐車場に車を停めて、御本堂の御釈迦様に御参りしてから数年前に御本堂の横に移設された歴代玉縄北条家の御廟を御参りし綱成公達に御盆の御挨拶と近況報告を済ませた。
駐車場前の花園の黄花秋桜(キハナコスモス)がとっても美しかった。
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大将の北条綱成公と副将の間宮康俊公が統率した“玉縄衆”は、軍団の前身が“北条五色備え”の内の“黄備え隊”で、統一された隊旗が朽葉色=黄色地に“八幡大菩薩”の御神名を染め抜いた馬印(うまじるし=部隊識別シンボル)だった。
正にキハナコスモスの色がそれだな。
丸で綱成公や康成公を御盆休みに御迎え見送るのに合わせて咲いている様に感じた。
庫裏に御住職を訪ね御盆の御挨拶をし、御佛前に供えて頂く“葡萄餅”を御預けし少し雑談をしてから車に戻った。
柏尾川沿いの道を栄区方面と反対の江ノ島に向かい下って行った。
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実は今週半ばから酷いギックリ腰で昨日まで立ち上がるのも辛かったのだが、少しだけ足を引き摺(ず)り歩ける位に回復したのと気分が暗かったのも有り、殿様に近況報告してから海にリハビリを兼ねて散歩に行くつもりだった。午前中は背を伸ばして立つ事も困難だったので、まだ整骨院にも行ってない。
午後に調子が良くなり、龍寳寺参り&七里ヶ浜散歩を決めた次第だ。
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夏なので鎌倉の海岸沿いは渋滞激しく流れない。
なので、止まる度にゆっくり風景を見る事が出来た。
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スラムダンクの踏み切りは今日も観光客でいっぱい。
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程なくして七里ヶ浜に到着。
台風で砂浜が又、流出したと聞いて確認を兼ねて気分転換の散歩に来た。
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このMAINと言う御洒落(おしゃれ)なレストランは以前も紹介したが、ロケーション良く窓側の席だと秋冬には江ノ島と夕陽と七里ヶ浜と富士山を一編に眺めながら食事が出来る。
このレストランの横に公共駐車場があり、今日もそこに車を入れた。
関係ないけど、渋滞に巻き込まれ運転時間長引いてる間にギックリ腰が又悪化して、この写真撮影してる頃は既に痛くてマトモに歩けていない(笑)
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思ってたより“砂浜の後退”が激しかった。台風で砂浜が流出し遊歩道の橋脚が露出する事態が発生中。渡れない。
でも、これで小生は文字通り“自然だな”と感じた。
実は1990年代には砂浜は幅はもっともっと有り海水浴場も有ったぐらい。しかし2004年に海水浴場は閉鎖し更に昨日は御覧の通りだ・・・
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・・・遊歩道の橋脚は砂が流出し人が歩けない高さに取り残された状態成っており、砂浜は手前の鎌倉寄りで幅“10m”を残すのみ、奥の江ノ島寄りは“最早、砂浜が消滅”した状態だった。
小生は“これが自然”だと思う。
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稲村ヶ崎は新田義貞が鎌倉幕府攻撃の際に奇襲をしかける突破口に選んだ場所として歴史の授業でも習う。
超有名な観光地。
そこの砂浜が反日バンドと化したサザンオールスターズの“稲村ジェーン”の舞台にも成っていた。
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しかし、この間の台風でゴッソリ砂が持っていかれた訳だ。 
水は海水も地下水も川の流路も、いくら人間が“盛土”したり“掘削”した人工的に改変した地形をコンクリートで固定しようとしても、容赦なく周りの砂や土から抉(えぐ)り取り元に戻ろうとする力を発揮する。
2018年と2002年の衛星写真を比較すると解り易いかも。
下の衛星写真、上段が2018年1月、下段が2002年8月。
七里ヶ浜~稲村ヶ崎2018年
右手鎌倉市側の稲村ヶ崎と、左手江ノ島側の小動(こゆるぎ)の砂の流出が特に顕著だ。
これ比較すると小動側の防波堤の形状も工事で変化が在ったみたいだから、波の影響で破損が酷かったのだろうか?
繰り返すが小生に言わせりゃ・・・
「これで普通」
・・・なんだな。
気象予報士のお姉ちゃんが知ってる自然なんて考古学から見たら短い観測期間しかない。
今の温暖化は普通に元に戻りつつあるだけでしょ?
余り知られてないが室町時代は小氷河期。実は最近まで“地球が冷えてる時期”だったて事だね。
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だから農作物も凶作ばかりなので、料の乏しい冬に成ると上杉謙信や武田信玄は地元の農兵を引き連れて、神奈川県や東京に来ては略奪や婦女子を拉致し奴隷として地元や地方で販売したり鬼畜な事をして越冬していた歴史が有る。
まぁ、生き残るのに人の物を奪いとらなきゃいけない地方が有ったんだ。今の日本は恵まれているね、まだ良くならなきゃいけないけど。
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地球が縄文時代の気候に戻ろうと“二酸化炭素の影響ではなくて”温暖化して行く“自然の力”は凄いね。
もう、こんなに砂浜が減った。考古学的な話をすると、だいたい日本神話の時代と比較して現在の平らな地域の海岸線は少なくとも12km位は後退してるから逆に過去の地震による隆起を考慮してもかなり内陸まで海に戻ってもおかしくないのかな?
由比ヶ浜なんかは15年で50m砂浜が無くなってるから、対応しなければ今後10年で33m海岸線が陸を侵食する。
1000年後は少なくとも3.3km。
それがどれくらいかと言うと・・・
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・・・江ノ島からだと藤沢駅の手前の石上・本鵠沼・柳小路辺りまで海没する計算に成る。無論、微高地は残るだろうね。
小生が思うに七里ヶ浜の砂浜の減少は河川の護岸工事で砂の体積が阻害されてる影響も大きいのだと思う。江ノ島の境川とか、七里ヶ浜の極楽寺川とか音無川とかの上流が住宅街にされてしまい、風化した鎌倉石の地盤から砂が運ばれなく成ってしまったんだろう。
鎌倉も材木座~大町辺りは平安初期にはまだ入江だった。
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それでも約1km程度内陸だっただけ。
つまり15年で50m侵食は比較的早い。人工的な河川工事は海岸部の地形に影響を与えやすいって事かな。
いつまでも自然の摂理で風化した砂が体積するのを阻害する河川の土木工事のままでは内陸まで“元通りの海”に戻るスピードを早くするって事。

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この稲村ヶ崎は数百年後には又、一部だけ海から顔を出す半島か島に成ってるんだろうか。
1000年後には茅ヶ崎市平塚市は大部分が海の底に戻ってんじゃない?
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砂浜は無くとも夕陽と江ノ島と海には癒され、ギックリ腰等で落ちた気分も少し晴れた。
帰り、元来た道を村岡方面~大船に抜け円海山の麓(ふもと)の自宅に戻ろうかと思いながら駐車場に戻る途中目にしたこの光景。
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往路は空いていた江ノ島方面に向かう下り車線が凄まじい渋滞。
鎌倉市街地を抜けて帰る上りルートに変更。
帰路、無性に京都拉麺のチェーン店の魁力屋の“唐揚げ”が食べたくなり、朝比奈方面の上郷側にある魁力屋に遠回りして夕飯を食べた。
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旨いんだよ、この唐揚げ。

ふむ、身体はまだまだ、気持ちも暗かったが、少し殿様と海と夕陽の御影で癒され楽に成った。
ちなみに、この時点で無理して歩いたので、もう腰が痛く高齢のお爺ちゃんみたいにビッコ引いて歩いてる状態(笑)。

夕陽さん、海さん(笑)、御釈迦様、江ノ島の弁天様、綱成公と玉縄北条家御一族の皆様に感謝を感じた午後だったかな?

では、今日の休日雑記はここまで~♪

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2017年07月15日、この週の火曜日07月11日が新井城落城した日で尊敬する武将の一人である三浦義意公と御父君の三浦道寸公の供養の為に菩提寺である網代山海蔵寺に参拝し、御住職様から海蔵寺専用の納経用の奉書を頂いていたので三崎漁港の海南神社の例大祭に合わせ、土曜日に写経した妙法蓮華経観世音菩薩普門品世尊偈を携えて海蔵寺に納経に再訪した。

海蔵寺さん参拝の後、最初に訪れたのは天然記念物諸磯隆起海岸だった。
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…と、その前に少し小生の神社と御寺に対する思い入れの根源の話し。

小生の祖先は某延喜式内社の宮司家なので御寺や仏教と言うと子供の頃は除夜の鐘程度の認識しかなく、なんと言うか御祭りの様な楽しい場所と言う感じだった。
大人に成って仕事でリーマン破綻直後に3ヶ月間、毎日睡眠が3時間以下と言う労働が続いて過労に成って頭ハゲそうなハチャメチャな状況に成って心身共に参っていた。
同僚が中国語話せないのに突然中国へ転勤に成ったり、小生は中国語話せるのに国内に残りソイツの分も含め複数人から仕事を引き継いだり、ハッキリ言ってキャパを超えていた。
朝の定時出勤時間前から出勤して客先の就業開始直後に御用聞きで訪問できる様に直行。
夕方の18時に帰社、そこから自分のオフィスワークと2人から引き継いだ分のオフィスワークを始める。当然朝までかかる。だから休日も潰れる。20時以降はタイムカードを切らされてサービス残業を強要され、当然休日出勤は申請不可。そんな会社だが実は中堅企業の中の大手の部類の企業だった。
アジア圏や国内遠方に出張する際は、上司に指名されたいい加減な同僚に仕事を任せるのが嫌で嫌で仕方なかったが、馬鹿でも出来る様に完璧にスケジューリングして協力会社にも念入りに事前に打ち合わせで部材の製作をお願いして置き、資料も準備して小生の仕事を代理で行う人間はスケジュールの時間通りに指定の場所を訪問して人に会い物を受け取り、物と資料を渡すだけで何にも考えず何にも余計な事を話さず済む様にしてあった。
だけどね、世の中、いい加減だけど何だか知れないけど上司に信頼される奸臣と言うのが居て、その上司に仕事を御願いする様に指定された同僚は「案の定ちゃんと俺のスケジュールを踏んで行動しない」で当日に訪問しなかったり、結果的に納期に遅れたりやらかしてくれた。
だけど狡猾な奴で上司には小生のミスの様に粉飾し、小生が出張から帰って来ると何だか知れないけど叱られたり。それを残業時間に成って同僚を呼び止め問い詰めると開き直りクソ同僚はこんな捨て台詞を言った…
「そんなに完璧にやれんて!」
…おい、俺は馬鹿でも出来る様に御膳立てしてやった上に協力会社の皆さんも文字通り万全の協力をして下さっていたんだがな?
まぁ、そんな事が何回か有ったりハードな仕事が三ヶ月休み無しで続いて自分で洗濯物洗う暇すら無くてクリーニングにシャツやスーツを丸投げしても、今度はクリーニング屋に服を引き取りに行く暇も無く、前日着たシャツにファブリーズだけして又着て仕事したりしていた。
小生がそんな事に成っていた時期に社員の1人が交通事故を起こして人を轢き殺した。
更に社員が1人自殺、でも家庭の問題とされていた…本当かよ?
子会社でも1人が過労要因と思われる交通事故死。
自分も高速道路で運転中に意識が飛んだり2回経験した。赤信号も認識できずに信号無視をしたり、自分で「やばいのかな~?」と思い、そのクソ会社を辞めた。
因(ちな)みに、その会社は今でも存続していて何だか知らないけど某大手企業のベストパートナーにも選ばれたりしている。御客さんは、そんな状況知らないだろう。まぁ、知ってる会社も有ったけど。
これ、当時、退社後に労働基準監督署にも職安にも相談していたけれど、「管轄外」と言われたり「ウチでは出来る事に限りが有って対処できない」と言う主旨の事ばかり言われたんだな。
まぁ、泣き寝入りするしかなかった。
アレから数年が経ったが、日本の労働基準法って今でも守られてないよね。実際。
有休消化なんて超大手企業しか出来ないでしょう?
週休二日制も守られてない会社多いでしょう?
サービス残業の会社多いよね?
安倍さんが賃金上げろと急(せ)かしても無視するクソ企業多いよね。
その癖に横浜市長みたいに日本を敵視する北朝鮮の学校に補助金出したり意味わからない政治家もいるよね。
新しい制度考える前に、既に施行した法制度を順守させる方が大切だと思うんだよな。
まぁ、そんな事が有ってリアルに昔は無責任不倫上司のせいで死ぬ寸前に追い込まれた。
だから、昔の善政を行ったり農民や商人に好かれた殿様達に余計に尊敬の念を抱くんだろうな。

そのクソ会社にいた頃に不思議な夢を見て…
横浜の歴史偉人とその上司の玉縄北条家や源頼朝公とその与力衆の鎌倉武士団の偉人達に"命を救われて"以来、歴史の資料を趣味で読み漁り墓所や御関わりに成られた神社仏閣と史跡を訪問し、殿様達に感謝して回るのが休日の趣味に成った。
…もっと言うと三浦の海に命と精神を救われた感が有るんだな、小生の人生は。
当時はボロボロで、ハチャメチャな仕事を命を繋ぐ為に辞めた。
不思議と普通なら「自殺したい」とか思う状態に成るであろう状況に、小生は「海見たいな~」としか思わなかった。死にたいとは思わなかった。
でも仕事の通勤帰りに電車に乗ってる時は危なかったね。夜の町の中を走る車窓から外を見てると引き込まれるんだよ。
あれ、一種の催眠状態なんだろうね、気持ちが暗い時や挫折を感じてるとハマりやすいのかも。
そんで、休みに良く観光客の余り行かない三浦半島の南端の江奈湾に行って磯で少し泳いだり、散歩したりして過ごした。
・・・そうこうしてる内に気力も回復して来た。
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この江奈湾の磯が大好きで良く散歩しにドライブしに行ってた。
台風の翌日、ここの岩場が高波にバッシャ~ン!バッシャ~ン!と洗われている時にアホな小生はクロックス履いて出掛けてて岩場の海苔で足を滑らせ仰向けに素っ転んで強く背中を打って息も出来ず、何回も打ち寄せる波にさらわれそうに成った。
その時に強く思った「こんな恥ずかしい死に方出来ね~し!」と(笑)。
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江奈湾の近くの松輪からは富士山も綺麗に見えたりする。
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富士山、此花咲耶姫命様も小生の命を繋いで下さった神様なんだな。
家の近所の円海山に登っては、そこから見える赤富士を見て円海山の自然にも癒された。
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神社や御寺と自然と彼女の存在ってのはね~、どんな向精神薬や安定剤や睡眠薬よりも効果が有るんですよ~。家族は当てに成りませんがね~。
大切なのは自分で選んだ家族に成って欲しい人なんだと思う。つまり血縁よりも理解者だね~。
それと脳味噌を休ませてくれる環境。
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御蔭で小生は薬漬けに成らずに働けた。
あと、当時はまだミシェランガイドに紹介されておらず観光客も少なかった鎌倉の報国寺の竹林に行って座禅を組む様に何も考えずに時間を過ごしたり。
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そこの草庵で少し休んで、抹茶を飲む事で大分気力が回復したと思う。
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今では観光客が多くなり、余り気の休まる静けさは無い。でも癒されるのは変わらない。
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今では現:鎌倉アホ市長によって通行止めにされた釈迦堂の切通しの辺り衣笠山~今泉台~報国寺の宅間谷(たくまがやつ)をグルっと一周散歩して回ったり、殿様達の残して下さった鎌倉の文化と景勝地と三浦の海は医者の処方する薬より疲労が蓄積して赤信号も無意識に無視した脳味噌を少しづつ回復してくれた。
後で知ったのだけれど、この報国寺を開いたのも横浜市の殿様の宅間上杉家初代の上杉重兼公と足利尊氏公の御爺ちゃんの足利家時公だったんだな。
そして、更に後に知るのだが横浜市港南区の永谷天満宮も宅間上杉家の殿様が開いた神社だった。
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それ以来、紫陽花の季節には永谷天満宮に絶対に行く様に成った。
この少し前位、小生を身近に支えてくれた当時の彼女さんもいた。
この彼女とは結婚して幸せにしてあげたかったのだけれど、残念ながら小生がボロボロだったので縁が無くなったが、御蔭で小生はクソ会社退職後暫くして又、働ける様に成った。
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その頃に七里ヶ浜も行くように成った。
この変な棒は流木を砂浜に突き立てた写真。こんな風景七里ヶ浜に有りません(笑)。
その時に傍で支えてくれた昔の彼女さんを幸せにして恩返し出来なかった事を悔やんでいたりする。
丁度その頃だ。
ボロボロだった状態で夢の中に「龍寶寺」と書かれた石柱が出て来て起きてから「何だろうな?」と思って調べて見たら、戦国時代関東最強の武将だった北条綱成公の菩提寺の名前のだった。
場所も大船駅の近くで近かった。
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学生の頃に友達と遊んだ信長の野望シリーズに登場する名将の御寺だった。
2014-09-15-06-09-37上杉謙信と武田信玄に称賛された名将。
三つ鱗紋学生当時、北条家は少し地味で友人達には人気が無かった(笑)。
まぁ、どちらかと言えば三国志の方が学生時代は好きだったし。
夢の事でビックリして直ぐに参詣して、当時は今と違って旧境内地近くの山の上に存在していた御廟所に御線香を上げに行った。今では綱成公の御廟所は境内本堂横に移設された。
そうこう調べていると何と北条綱成の家老が横浜市の殿様の間宮家だった。しかも更に詳しく調べて見ると子供の時に同じサッカークラブに通っていた幼馴染の近所の子等の家の周りが綱成公の家老の間宮家の居城の笹下城址だった。
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何と小学校の頃、サッカークラブの幼馴染やその近所の子と遊んだ山が笹下城の本丸だった。
元々中学生の頃から家から鎌倉が近くて自転車で由比ヶ浜に行ったり、源頼朝公の御墓参りをしたり、江の島に行ったり、金沢区の野島公園に行ったりして遊んでいたので、歴史は好きだった。
子供の頃は大好きとまでは行かなかったが、大人に成り事情を知り直ぐに北条綱成公や間宮家の殿様達に尊敬だけで無く親しみも深く感じる様に成った。そして歴史が本格的に好きに成った。
最初は何となく資料を読んで、殿様達の開いた神社仏閣を訪問していた。そこから暫くして御朱印も貰う様に成り、更に地域の人にも偉人の存在を伝えたいと思う様に成ったのが3年ちょっと前。
もう一度、北条家の事を調べると足利家の鎌倉公方家の殿様と忠臣だった宅間上杉家や扇谷上杉家の事も知り、足利家に滅ぼされた鎌倉幕府の執権北条家の殿様達が元寇から日本を守って下さった事を再学習し北条泰時公と北条時宗公を尊敬する様に成り、更に鎌倉幕府を打ち立てた源頼朝公とその与力武将達を物凄く尊敬する様に成り、三浦家や千葉家や佐々木家の殿様の事も鎌倉だけでなく横浜市と関係が有った事も知った。
その平安末期の武将中でも特に尊敬するのは、やはり平良文公、源義家公、源頼朝公、鎌倉景正公、三浦義明公、和田義盛公、三浦義澄公、佐原義連公、多田行綱公、渋谷重国公、佐々木高綱公だった。
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その人々の足跡を辿って油壷に行き、戦国時代に扇谷上杉家から三浦家を継いだ三浦義意公の民話を聞いて回る内に深く尊敬する様に成った。

まぁ、小生の命は自分で勝手に生きて来れた訳じゃなくて…
殿様達の御蔭、神奈川の自然の御蔭、そして当時の彼女さんの御蔭の3つで繋がったんだな。
…だから社会の役に立つ事をして生きた証を残して皆さんに恩返しせんといかんのよ。

そして2017年07月15日の休日雑記の三浦海蔵寺への三浦義意公と道寸公の供養の納経へと繋がっていく…
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